(韓光勲:在日コリアン3世ライター)

 ソウルで日本人の友人とチムジルバンに行った。韓国式サウナ。炭で暖められた洞窟のような窯のチムジルバンだった。

 マイナス10度にもなった日。チムジルバンで暖を取っていると、おばちゃんたちに話しかけられた。僕が友達と日本語で話をしていたからだろう。
「日本人も来ているんだね。日本人は静かだからいいね。韓国人や中国人はよくしゃべってうるさいけどね」と言われた。
「そうですか。でも、チムジルバンにこんなに人が多いなんて知らなかったです」と、僕。「おお、韓国語うまいね」と言ってくれた。

 これが留学当初の僕だったら、「日本人」と思われたことや「韓国語うまいね」という発言には少なからずショックを受けていたと思う。
日本人と思われることが嫌だという意味ではない。
こんなに頑張って韓国語を勉強したのに、結局「韓国人」の仲間に入れてもらえないことに残念な気持ちがするのだ。

 でも、今は「日本人に思われるよね、普通に」と思う。これはそんなにショックを受けるようなことではないと思うようになった。
例えば、日本で、韓国人の友達と韓国語を喋っていたら、当然のように韓国人に思われるだろう。それと同じだ。

・等閑視されている「在日韓国人」という存在

 ほかの場面でも、同じようなことがあった。

 ソウルのある会社の忘年会に、ゲストとして参加させてもらったとき。初めて会った人と話すと、「日本人なんですね」と言われた。
つまり、「日本から来たこと」=「日本人である」という前提で話されたのだ。「在日韓国人」という存在はまったく等閑視されている。
在日韓国人がいるとは思われていない。チムジルバンのおばちゃんもそうだ。在日韓国人が存在するなんて、理解の範疇にない。

 これはやっぱり寂しいし、悲しいと思う。だって、あまりにも、日本と同じ状況だからだ。

 例えば、僕は日本で、自分の名前を名乗った時、よく「韓国から来たんですか」「日本語がお上手ですね」と言われる。
在日韓国人という存在が全く想定されていないのである。以前、この連載でこのような発言は
「マイクロアグレッション」であると指摘したことがある(「韓国人の言葉に傷ついた!日本でも韓国でも“疎外”される「在日」の悲しさ」)。
こういうやり取りは「あるある」で、僕はいちいち目くじらを立てることはしない。丁寧に説明しようと心がけている。

 日本では、残念ながら、「名前」=「国籍」=「出身地」=「第一言語」=「民族」=「アイデンティティ」という、
強烈な「イコールの方程式」が成り立ってしまっている。すべて一致するものであるし、一致するべきだと信じ込んでいる人が多いはずだ。
強固な価値観として社会に存在していると思う。

 これらの概念はそれぞれ異なること、独立して存在していることはあまり考慮されない。

 例えば、僕の場合、「名前」は韓光勲で、「国籍」は韓国、「出身地」は大阪、「第一言語」は日本語、「民族」は韓国人、
「アイデンティティ」は在日韓国人だ。それぞれ日本か韓国のどちらかに一致していない。それには歴史的経緯がある。
このことを初めて会った人に理解してもらうのは、意外と骨が折れる。

 正直に言うと、そういう固定観念が悪いことだとは、そこまで思ってない。だって、義務教育でこんなことは教育されていないからだ。
習ってないなら仕方ない。人生の中で在日外国人と出会わない人がいるのも分かる。

・「社会の常識」を揺り動かす存在に

 そして、残念ながら、このような日本の状況と韓国の状況は驚くほど似ている。
名前や出身地、第一言語がすべて「韓国」で統一されていて初めて「本物の韓国人」になることができる、という強固な考え方が存在する。
そう感じる。
ー後略ー

全文はソースから
JBpress 2023.12.29(金)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/78633