東日本大震災の直後から東北で暮らし取材を続けるルポライター・三浦英之氏が、震災から12年たって初めて知った事実がある。それは「東日本大震災で亡くなった外国人の数を、誰も把握していない」ということ。

彼らは、なぜ日本に来たのか。どのように暮らしていたのか。そして、彼らとともに時間を過ごした人々は、震災後、なにを思っているのか……。

取材を進めるにあたり、三浦氏は東北大学の男女共同参画推進センターで講師を務める李善姫(イ・ソンヒ)氏を訪ねる。

東日本大震災の被災地における外国人コミュニティーの変化などについて調査を続けている数少ない研究者の一人である彼女が教えてくれたのは、苦しい状況に置かれた外国人被災者たちの実情だった。

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■所持金は「700円」

「つまり、抱えている問題が表出しにくくなることで、本来必要な支援やケアが届きにくくなると?」

「おっしゃる通りです」と李は頷いた。「たとえば、私が知っているケースでは、石巻市内で避難生活を送っていた当時40代の女性がそれにあたります。彼女は在日韓国人の父と日本人の母との間に生まれたものの、父親が認知をせずにその後離別したため、ずっと無国籍のまま日本で生きてきました。

学校に通うことはできたのですが、戸籍がないために『日本の社会では何もできない』と思うようになり、自分の居場所を作ろうと20代で結婚。しかし、姑との関係悪化をきっかけに夫から暴力を受けるようになり、離婚を申し込んでも夫に拒否されて、長らくドメスティック・バイオレンスを受けながら生きていました。

ところが震災を契機に突然、夫から離婚を切り出されたというのです。その理由を尋ねると、彼女は私に『夫は受け取った義援金を私に分けたくなかったからだ』と説明しました」

「ひどい話ですね」と私は首を振った。「女性はその後、どうなったのでしょうか?」

「彼女は離婚し、そして住む場所を失いました」と李もやはり首を振りながら話を続けた。

「石巻市役所で『自分も被災者なので仮設住宅に入れないか』と相談しても、元夫が自宅の応急処置金を受け取っているため、仮設住宅には入れないと断られてしまったというのです。知人の家を転々とするなかで、彼女は最終的にホームレスのような状態になりました。

一方で、彼女は38歳のときに自分もどこかの国籍を取得しなければダメだと思い、韓国籍を取得していました。本来であれば、彼女は韓国大使館や韓国の支援団体を頼ることができたはずでしたが、彼女には自分が韓国人であるという認識が薄く、そもそも韓国人のコミュニティーにも入っていない。支援の枠組みからすっぽりと抜け落ちてしまっていたのです。

支援団体や大学研究者らの要請で石巻市が被災外国人を対象としたアンケートを実施し、偶然、彼女がそのアンケートに答えたことで、初めて彼女の置かれている状況が社会的に認知されました。その後、支援者が市の担当部局に掛け合い、なんとか仮設住宅に入ることができましたが、そのときの彼女の所持金はわずか700円でした」

「700円……」

その金額を聞いて、私は被災地における外国人の現実を改めて目の前に突きつけられたような思いがした。

■再就職が極めて難しいという現実

「震災後、外国籍の人々を取り巻く環境はやはり悪化したのでしょうか?」

私は先日訪れた宮城県南三陸町で暮らすフィリピン人女性、佐々木アメリアへのインタビューを思い出して聞いた。

「ええ、残念ながら、被災地における外国人を取り巻く環境は極度に悪化しました」と李は目を伏せて言った。「震災後、石巻市と気仙沼市が20歳以上の在留外国人にアンケートを実施したところ、震災前は非正規雇用が石巻32パーセント、気仙沼36パーセントだったのに対し、震災後はいずれも23パーセントや31パーセントと極端に減っていました。増えたのは『無職・主婦・学生』という無収入層で、石巻では29人から45人に、気仙沼では22人から30人に急増していました。それらの統計は、多くの被災外国人が震災後、職を奪われたことを意味しています」

以下全文はソース先で

デイリー新潮 2024年03月10日
https://www.dailyshincho.jp/article/2024/03100615/?all=1