竹村延和とチャイルディスク Part2
2.今まであなたが作ってきた音楽における、一貫した要素とは何でしょうか?(あ
なたの音楽はよく「遊び心がある」と言われていますが、私もそう思います)
そうです。遊んでいるだけです、ただ一方でいわゆる締め切りや予算の中でやる国内外のTVのCMの仕事も
名前を伏せて多くやっています、それは作品ではなく仕事です。使用目的がハッキリしています。
映像の向こうでなってる音がほしい、悲しい音、激しい音、何でも言いなりに作曲できる
知識も技術ももっています。
それは映像や、電気製品を売る広告を手伝ってるようなもので、
そこで僕が目的にしているのは生活していくための報酬で、
クリエイティヴな自分を出せるとは到底思いませんし、スタッフと
喧嘩になるだけです。
僕のCD作品は作りたいという欲求がないと絶対に生まれませんし、
そこにだけは嘘をつけないということです。 乙!こんなに長いとは…しかもまだまだ続きそうだな。
竹村自身語っているけれど、この人の魅力は自身に正直なところだよね
新しい音が聴きたいな 3.どこかで、あなたがコンピューターで制作しているのは、ターンテーブルや
MIDIで制作していた時期の延長線上にあり、単に制作のスピードが速くなったと読
みました。コンピューター・プログラミングとトラック作りは、時には非常に複雑
になることがあるので、テクニックに自分が埋もれてしまう感覚を覚えることはな
いでしょうか?
音楽制作における、あなたの「学習」のプロセスと、「全てをコントロールするプ
ロセス」はどのような状況になっているのでしょうか?
もっと分かりやすく言えば、あなたは想像した通りの音をコンピューターで作るこ
とができるのでしょうか?もしくは、機材で実験していく上で、出てきた音をかき
集めているのでしょうか? まず現場ではそういうことを考えている時間があれば僕は、数曲仕上げることでしょう。
そう単純に区別できませんし、作ってる最中は言葉の枠内で
思考できません。どこからどこまで制御してどこまで不確定か、
最近は道具が発達して、モノを作る意味がわかり難くなっています。
誰でもそれ風の音が仕上がるという、インスタントコーヒーや
レトルト食品のように、お湯を注いだり、電子レンジのスイッチを押すだけで、
音楽ができる時代に実際なっています。でもそれを料理するとか、
コックの仕事と誰も呼ばないように、自動アレンジ機能やプリセット・アルゴリズム、DSPプラグイン満載の
作曲ソフトウェアに作ってもらってるような工程を作曲すると呼ぶ人はいないでしょう。 世の中はこのように極端に便利になりすぎていて、
おせっかいなサービスが溢れています。混同されがちな事柄に
「作ること」と「感じる」があります。それらは似ているようで正反対なモノを指します。
形を作ることは道具の過剰な進化で、
誰でも扱えるようになりますし、膨大な時間を必要とした
演奏技術の習得などは意味を失いつつあります。 でも「感じる」部分を補ってくれる道具は何処にも何もありません。
それはその人の存在そのものとでもいうべき、尊い個性の領域なのです。
創作過程で判断を下す時、音色を決める時、メロディが出てきた瞬間、
問われるのは 作れるという技術でなく、どう感じているか?
あなたの中の「美」とは何か?ということです。そして
自分で作曲法をみつけること、つまりプロセスこそが大事なんです。 即興をする理由は自分が、理論から逃れようとして音の現前に居るという
ことを再確認し、そして身体性を音に刻むためです。
そして何より全て楽しんでやるということ、準備しない、
予期不能の状態に自分を置くことで、多くの発見があります。 僕は散歩が大好きで、外国の知らない町に行くと、
地図を持たずにわざと知らない方向に歩き出し、自ら進んで迷子になります。
イタリアで10時間くらい自分が今何処に居るかわからず、歩き続けたこともあります。
そういう時の自分は即興している時の自分と同じ精神状態で、目に入ってくる風景や
音全て新鮮で、スリリングでとても楽しく、動物のカンのようなものをフルに使って行動します。 全て計算の上だと気持ちの部分で姑息になり、モノ作りしても楽しめないんです。
機材の発達、作曲法の探求など
全てをコントロールするということの影には些細な規模であっても根底には
管理しようという支配欲が明らかに存在しています。
それで押し通して良いものが生まれるとは思えません。整然と
綺麗に構築されたモノは作りやすいでしょう、ただそれは
ファシズムの国の気味の悪いほど管理され尽くした社会と同じで、
外見は綺麗ですが、何処か不気味で、不健康、不自然なエゴの匂いを放つでしょう。
解体や再構築など新しい手法と錯覚しがちな作業でも根底は同じです。
そこに人間の気配が明らかに存在しますし、
リスナーはその音に支配されることはあっても、
自ら音の奥に入りこんでいくことはできません。 東洋の宗教的な考え方に「他力」というものがあります。それは神の力のようなもので、
色んな姿に形を変えて人間に降りてきます。
どんなに研究、訓練を日々積み重ねても、自分の思考に、自分が驚くなんてありえません。
しかし夢中になっている時、つまり「我」を忘れた瞬間の無防備な状態、そういう時に降ってきます。
モノを作ってる人は皆多かれ少なかれ、そういう一瞬を知っていると思います。 言葉にすると大げさですが、そういう神が微笑んでくれるような瞬間をずっと待ってるわけです。
それはシンセや機材が壊れるトラブルかもしれないし、複数のミュージシャンでセッション中に
ミスして出てしまったノイズ音や、切れてしまったギターの弦が、思わぬサウンドを導いてくれ、
きっかけの役目をおうかもしれないのです。
ですが、目的、欲求に最短のプロセスでモノ作りをしていると、それらは好ましくないトラブルでしかなく
次の瞬間、数秒後もう忘れ去られ、やるべき締め切りにおわれる羽目になることでしょう。 管理、支配するということを忘れることが、「他力」つまりインスピレーションを招き、呼び覚ましてくれます。
目的に最短な方法ばかりでなく、常に何からでも学ぶ気持ちと余裕をもっていると、
どんな障害や好ましくないアクシデントでも、「気」の持ちようで良いアイデアに変えることができます。 欲求を満たすための道具の発達は、本来スピード効率をあげる名目で
開発され、歓迎されているように見えますが、紙の楽譜やテープの時代からコンピュータ時代になって
何百倍もトリッキーで凝ったことが可能でかつ、数百倍のスピードで作れるにも関わらず
実際生み出される音自体はビートルズの時代からさして進歩しておらず、
便利になって時間に余裕ができるはずが、得られた時間でまた新たな欲が生まれ
欲望の無限ループに落ちいっていて誰もそれに気付かず、そこから逃れようとまた
新たな便利道具を欲し、適用するという...馬鹿げた繰り返しです。 何ら精神的余裕を確保することにはつながっていないことに誰も気付こうとしません。
タルヴェーラ監督の「ヴェルクマイスターハーモニー」という映画にあるように、
西洋の音楽が過剰に発達した影にはいつも所有しようという欲望があったのです。
それは理論に留まらず、機材の発達という形で、現在もなお続いています。
一方、アジアやアフリカ、アラブには未だ太古の響きが残っています、
がそれらすら、ブルジョワなコンテンポラリー作曲家の獲物と化していて、
第三世界をヒントにしたなどと素材として利用されていますし、
サンプリングに観念的で、難解な意味性を持ち込む
ノイズミュージシャンもいますが、言葉と音自体との距離は広がる一方で、
まるで言い訳の様に聞こえてしまいます。 ですが、同じ引用する行為でも、80年代のHIPHOPは大量の他人のサンプリングを
そのまま使用しているにも関わらず、
姑息な匂いや罪悪感など微塵もなく、衝動的で、無邪気かつ軽ろやかで痛快です。
なぜでしょう?姑息な人間的思考をせず、子供がそうであるように
もっと原初的な動物のカンを存分に働かせて作られているからだと僕は信じています。
これはもっともっと注目されるべきことだと思います。 サンプリングという手法だけの議論では、これらを生むに至ったプロセスや心理状態の大きな違いが、
見事に抜け落ちてしまいます。
もちろん90年代以降のHIPHOPは商業的に巨大化し、そうではなくなっていったでしょう。
現在のHIPHOPと80年代のそれは同じ言葉で語られますが、根本的に違います。
ジャズもロックも誕生した瞬間はスリリングだったろうと予想できます。 つまりどんな音楽ジャンル、どの分野のアートも新しいものが誕生する瞬間は、
意図などない、子供が夢中で粘土細工をこねまわしている最中のように、どこで
止めてもある興味深い形を残すと信じています。
それは無心で、無防備で遊んでいるような状態です。
結果できた作品は時間が経っても決して古くなりません。 多くのプロミュージシャンは初期作品は素晴らしいのに、やがて
売れることと反比例して駄目になっていきます。
そこに音楽を作る責任を嫁せられ、経済的豊かさや名声と引き換えに
「喜び」を失ってしまうでしょう。
そして偉大なミュージシャンの地位についてしまったがために
学ぶという謙虚さ、と引き換えに強奪し所有するという欲望
のもと、同じことを繰り返します。 4.「Assembler」と「10th」はかなり違うサウンドに仕上がってますよね。「10th」
はスピーチ・シンセシスとサンプルをフィーチャーしたポップ・ミュージックで、
どこかシュールなものを感じます。アセンブラー名義は非常に実験的です(Scopeな
どと似た方向性ですよね)。この二つの作品はなぜここまで違うのでしょうか?ア
センブラーのために実験的なトラックを作っておいて、意図的に「10th」ではポッ
プな作品に仕上げようとしたのでしょうか? それぞれの曲を作ってる時はどういうアルバムにしようなんて
考えていませんし、音作りしている最中は夢中で、考える余裕などありません。
仕上がった後、どういう選曲にするか、せいぜい尺の編集、曲名、アルバムタイトル、
ジャケットのアートワークを考える作業が僕にとってのアルバム制作で、
作曲そのものは日記のように日常貯めていたものばかりです。 ただあなたの指摘する様にあまりにサウンドの幅が広すぎて、一部のリスナーを混乱を招いていたのも事実で、
今はアセンブラ名義は実験的なものに限定しています。
アセンブラは本来、即興と実験のためのライブプロジェクトとしてスタートした不定形ユニットです。
いつでもまた始めれますし、もうやらないかもしれません。 5.あなたはどのくらいの量の曲をいつも作っているのでしょうか?一つのトラック
を完成させるのにどのくらい時間がかかりますか? 実は3年以上、新曲らしきものは作っていません。
10th、ソングブック、アセンブラ2もアセンブラ1も、WATERS SUITEも
曲自体は98〜99あたりに原型は全てできていました。
だから作る気分が乗ってるときは一年で6枚アルバム作ることも充分可能だし、
今は三年間ほど何もしてないという、非常にむらがあります。
あと未だに未発表音源は多く残っていて、いつか日の目をみるかもしれません。
聞き返すのが面倒なのでかなりの音源を放置してあります。 作る気分にならない、
インスピレーションが湧きそうにない時にやるべきじゃないと考えてますし、
作りたくない時は名前のでない仕事を多くしてる時だったり、
映像を撮影したり、絵を書いたり他に興味が傾いてる時期です。 6.あなたが使用してる機材はどのようなものですか?コンピューターだけで制作し
てるのでしょうか?Mac、それともPCですか?(PCのためのFruity Loopsというソフ
トには、スピーチ・シンセシス機能があって、ピアノ・ロールで切り刻むことがで
きるのは知っていましたか?) 以前ワーナージャパンにいたころは
巨大なSERGEやBUCHLA、EMS、ARPなど
アナログモジュラーシンセサイザー群を駆使していましたが、
その後、処分してスタジオをなくしました。 一年中、世界中を飛び回って演奏しているので、
できる限りモバイル向きの省スペース環境にしようと心がけて
コンピュータで完結できるようにしていますが、
本当はテープレコーダーの音が一番好みだし、
時代遅れで面倒な録音の工程も好きです。 ツジコノリコとのアルバム、聴いてる。これインストだけでも良かった気がする。久々の竹村の音、やはり良いなぁ。 それらに接するミューシャンも呑気な気分で音楽できます。
コンピュータ環境でも編集やソフトウェアというより、MTRに近い使い方で、
入力のインターフェース、鍵盤やギターは重要な役割を担っています。 コンピュータは十五年くらい前、
マッキントッシュPlusの頃からアップルファンでしたが、
EMAGICの買収や、規格変更の連続、独占的傲慢な態度に呆れて全てPCに変えました。
ただWINDOWSだけでなく、LINUXも併用しています、同じマシン上で走りますから。
仕事ではSAMPLITUDEというWINソフトのかなり昔のヴァージョンを使ってます。
自分の作品ではLINUXのPDやGEM、などフリーでオープンソースな
ソフトを好んで使います。 なぜならヴァージョンアップで毎年金を徴収されるのが不愉快だし、
かといってプログラマーの労力の大変さも知ってるので
クラックものを使うと後ろめたさを感じるから、フリーのものを使い倒します。
あなたの言ってるソフトは名前も知りませんでした。でもヤマハのものなど
声に音程をつけれるソフトは数年前から複数存在するのは知っていますが、どれも、
音楽での使用が前提で、便利であるがために逆に魅力を感じないんです。
用意されていると白けるというか、発見するより、目的に一直線で...、またその話になりますが
道具もプロセスの一部で重要なんです。 LINUXのスピーチシンセは盲目な障害者のためのコミュニケートツールとして
開発発達してきました、福祉目的だからか無料であり、最小限の音しか出せないですが、
ほぼリアルタイムにタイプして即座に喋らすことができますので、数年前ライブで
頻繁に使っていました。ビブラートなどリアルな表情付けには一切興味ないので
フリーソフトで充分です。
あと昔のCOMMODOREやMSXコンピュータのスピーチ機能もSEとしてよく使います。
やはりそれらも音楽というより、コミュニケート目的で生まれたものです。 7.「10th」ではなぜスピーチ・シンセシスを使用して、コンピューターを歌わせた
のでしょうか?コンピューターを歌わせると、時には悲劇的な音になるように思え
るのですが、あなたはどうでしょう? 悲劇的に思えるとは、奇妙ということでしょうか?
あえて奇妙にしている、つまり人間では到底発声できない音域の跳躍を意図して使っていたりもしますし、
それこそ機械でしかありえない音で、聞き慣れない音域で声らしき音色で鳴っているので
変に感じることでしょう。それは習慣による判断で、音自体が奇妙なのとは意味する内容が違うと思います。 なぜコンピュータにこだわるかは、
人間の歌に持ち込まれる感情がうっとうしいからなんです。
人間は目の前でおこっている出来事を脳でシュミレートする「癖」があります。
涼しいエアコンの部屋であぐらかいてTVを見ていても、
そこに映し出される、スポーツ中継のせいで、汗をかいたり、熱くなりますし、
ヴァーチャルなものに見事に騙されます。 目の前で人が泣いていたら、他人で関係ない人でも もらい泣きしたり、
実際同じ体験はしてないのに、その人の気持ちになって
喜怒哀楽を移されることがありますし、感情というモノは容易に連鎖していくのです。
昨今の戦争報道もこういうことを踏まえて巧みに操作していることが
読み取れます。それは連られているだけで、創造とはほど遠い体験です。 「声」は人間が大昔から日常のコミュニケーションとして使う原初的な道具で、
当然、音楽の歴史なんかより遥かに古いでしょう。ですから
声を含む「歌」というものにはあらかじめ通信のための同じ作用が、
少なからず含まれているのです。
あのシンガーの歌には彼女の生き方や魂が込められている等〜、よくくだらない会話を耳にしますが、
魂とその人の音程の揺れ、大げさなビブラートやシャウトには何の因果関係もないでしょう。 リスナーがだまされるのは、メロディやハーモニー等音楽的現象でなく、
歌の随所に現れる、「声を荒げる部分」であり、それと日常の感情の起伏を混合してしまっているだけで
その歌に音楽的な感動を誘うものがあるかどうかは別問題だと思いますし、
それはむしろ「演技」、「演劇」の領域のように思えてならないのです。
スタジオで録音する時も、マイクの前で、陶酔し、特定の気もちになるように仕向け、演じているのです。
それは役者の領分であって、ミュージシャンはそこまでする必要はないと思います 音楽とはどこからどこまでの範囲を指すのか?人によってかなり違います。
私達はCDやレコード、MP3、楽譜、ラジオ、レコードプレイヤー、CDデッキがあれば、
また指揮者や作曲家、ミュージシャンが居れば
そこに音楽が存在すると錯覚しがちです。がしかし、音楽はリスナーなしには成立しません。
能動的、主体的に音を聴いてはじめてそこに音楽が誕生します。この当たり前のような前提を忘れさせ、
惑わせるのは人間や物質の存在なんです。 無人島でCDが流れっぱなしにされていたとしてもそれは音楽でも何でもありません。
つまり相互にコミュニケートされておらず、一方的だからです。
この様に音のコミュニケーションについて
深く掘り下げて考える契機になったのはソニーのAIBOというペット・ロボットの
サウンドを頼まれたことがきっかけで、世の中で最もシンプルな「サイン波」で、
喜怒哀楽の基本感情から、微妙な状況や動作、細かい場面での表情、それぞれの環境に合わせて音を
数百種類、表現する作業でした。 結果わかったのは、人が心を動かす対象は必ずしも生き物である必要もなく、むしろミニマムで余白のある
モノのほうが無限にイメージできるということなんです。それはスピーチシンセの無味節操に聞こえる
声や、警報機の音として不快に感じる人の多い電子音でも、聴く人の「気」の持ちようで、
無限に広がるということを教えてくれます。
生命のあるはずのないおもちゃを、あたかも生きているかのうように
感じているのは、接する人が「何かをそこに付け加えている」からであって
実際はROBOTが生きているはずはありません。その「何か」とは可愛がり、コミュニケートしようと働きかける
「気」というもので、音楽を能動的に聴いている時の人間の心理状態と同じだと思います。 これらが一番受け入れられているのはファッショナブルな若者ではなく、
医療施設や死を待つ施設、老人ホームなどのお爺さんお婆さんだそうで、これはとても興味深いことです。
周囲の愛情に全く気付かない、「我」の強い若者は、聞く耳を持っていないということがここでも透けて見えます。
歌手の話にもどると、
底辺のリスナーは演技と音楽の価値を混合するので、頭のいいレコード会社の社員は
歌手のゴシップや生き様を宣伝し、中身とすり替える作業が日常実際行われています。
タレントのようなアイドル歌手はやむを得ないですが、
自ら作曲するようなミュージシャンもそんなメディアに取り込まれて役者を演じ、
あげくのはては反戦とか音楽と無関係なメッセージや運動と結び付けます。 先日の戦争で、多くのミュージシャン仲間に、ミュージシャンサークルでの
反戦署名を求められましたが、
名もない一個人としてなら、もちろんするけど、音楽家としてしてくれという要請だったので、
それならしたくないと言って断りました。
言い様のない、凄くイヤなモノをそこから感じとりました。これらの意味することがわかりますか?
戦争が何よりも最悪なことは誰でもわかっていますし、戦争の中身は欲望に他ならないことも皆知っています。
ですからそれは「人間の内面」の問題なんです。 運動とか主義主張でそれらを一時的に先延ばしにできたとしても、
本質を動かすこと等、到底不可能です。あなたはドイツの方だから
第二次大戦の頃、ワーグナー等の音楽がファシスズムに利用されていたことを
知っているはずです。
これは大げさな意見のようにとられるかもしれませんが、こういう些細なチリも積もれば
取り返しの付かない事態を招くこともあります。 音楽やあらゆる芸術は「目に見えて役に立つものじゃない」からこそ尊いんです。
作曲技法を持つ人は、音で人の心をコントロールできることをよく知っています。
音楽が演出に使われると危険です。
一見低俗に見えるロックンロールやラップでも、音楽それ自体を目的に存在する限りにおいて、
素晴らしいことですが、
高尚そうなクラシック音楽でも、何かの目的と寄り添ったとたんに最悪なものに化けてしまいます。
それがどれほど正義だの反戦だの人道的に賛美される素晴らしい思想内容を掲げて
いたとしても台無しで最悪です。
反戦とか善的で綺麗な思想に隠されたその向こうに何があるのか、皆見ようとしません。 機械の話に戻りますが、
生命のないコンピュータが奏でる声は、
リスナーがそこに色んな色彩を投影し、イメージできる余白が生まれるのです。
人間が醜いことを皆知ってるはずなのに、機械は人間より位が下であるかのように
考える人が多いのは不思議です。SF的イメージで冷たいという人は機械から何かを
受け取ろうと「待っている」からに他ならず、自ら「汲み取ろう」という気をもてば
素晴らしい体験ができます。 自分は知識のひけらかしや、理論武装で正当化するような類の現代音楽家ではありません。
音だけで自立している、つまり聴く人を選ばないポップミュージックをやっています。
誤解を招きやすいのは、聴く人を選ばないということは、
こちらから大衆に迎合することではありません、
コミュニケーションができる開かれた音を提示すること、自分の気配を音の中から取り除くことに
よってより、音の中にリスナーを招き入れることが可能になるのです。
ドローンのようなアンビエントミュージックではこういうことがよくいわれますが、
ああいう特殊でヒーリング的で、線香臭い態度は気味が悪いんです。普通にビートもメロディも歌もある、
でも何処か違うものを10thでは作ってみたかったんです。 8.最近気に入っているレコードを教えてください。
10数年前に買ったジャズのレコードを聴きなおしています。
例えばAttila ZollerのMPS盤とか。
電子音楽では
Charles Dodge AnyResemblanceIsPurelyCoincidental
ロックではyolatengoの新作。
あとトータスのメンバーたちと二週間ほどアメリカを車でツアーしてたのですが、
そこで流れていたsponie geeなんかのオールドスクールのヒップホップをまた好んで聞いています。
信じられないほど素晴らしいです。 9.あなたのオールタイム・フェイヴァリットのレコードをいくつか教えてください。
見事にばらばらです。
EricB&Rakim paid in full
Latee This Cut`s Got Flavor
Mike Westbrook lovesongs
Carla Bley tropic appetites
Ornette Coleman ScienceFiction
Darius Milhaud string quartet
Karlheinz Stockhausen Kontra-Punkte
Frank Zappa Hotrats
Tortoise 1st 10.私には状況は把握できないのですが、ヨーロッパにおける日本の音楽の認知度に
ついてはどう思いますか?コーネリアス、タケムラさん、そしてフォニカ、オグル
ス・ノリヒデ、ツジコ・ノリコ以外、私は日本のアーティストを知りません(これ
らのアーティストはだいたいドイツのレーベルと契約してます)。日本をツアーし
たドイツのアーティストからの情報しかないのです。日本のシーンでは、どのよう
なことが起きていて、日本に音楽に興味をもってる人はどこから始めればいいので
しょうか? 近い時期では年末にベルリンのジャズフェスに行く事になりそうです。
ヨーロッパでも色々ありますね、イタリアやフランスにはよく呼ばれて演奏に行きますよ。
ドイツは以前ハンブルグのschleswing-holstenフェスでBANG ON A CANと
演奏しましたが、その年はアメリカのコンテンポラリー作家の特集の年で、
100名ほど米国から重要な作曲家がきていましたが、なぜか僕だけ日本から行きました。
JAZZ,BLUSE,ROCK、SOUL,HIPHOP,HOUSE、TECHNO....。思い返せば
20世紀の音楽の歴史はアメリカ音楽の歴史であったように思います。
救いようのない政治はさておき、ものを作るパワーは素晴らしいものがありました。
それは多民族で、歴史を持たないという 普通に考えると誇れない土地の条件にあるでしょう。
日本は独自の文化を何千年も培ってきましたが、
明治維新や戦争に負けることによって、つまりこの百年程度の短い間
に多くの文化を捨て、大切な遺産を失いました。 あまり指摘されませんが、戦後の世代は西洋コンプレックスを多大に植え付けられながら
育たざるをえない教育で、もちろんあからさまに教科書には書かれていませんが、
冒頭でも話した日本の奇妙な状況の根っこはここにあるように思えます。
なので歴史を捨てたにも関わらず、負けたことによって米国のように前向きで
オリジナルな音楽が生まれることはない、悲しい条件が整ってしまったと考えます。
戦争に勝っていたら、(道徳上それはけしからんことですが)
音楽の歴史は大きく違ったものになったでしょう。 尺八や琴を用い、意図的に東洋風を狙ったうそ臭いものに西洋人は騙されがちですが、
戦後の世代は東洋的なものを全く学んでいませんし、そうすることの方が不自然です。
takemitsuなどは西洋のスタイルでの作曲は素晴らしく好きですが、和楽器を用い
和洋折衷を試みたものは、理解に苦しみます。
それは耳新しいという理由で海外から喜ばれるのはわかりますが。
「美」という観点では水と油を混ぜようとしているように感じるのです。
僕等の世代の日本人は、もはや伝統とは無関係に教育されて育っていますから、
今現在、自然体で創造するとするなら、都会のマジックのようで香港映画的な雑多で
せわしないものになるでしょう。 だから日本のノイズミュージックは存在の必然が明らかにあるように思えます。
メルツバウ、INCAPACITANTS、AUBEなどは、ある意味
日本の戦後の歪を見事に表現していて外国の人に薦めることができます。
僕は日本で、数千年の歴史の遺産建造物が最も多く残る、ヨーロッパだとローマのような町、
京都という所に好んで住んでいます。
そこは音楽ビジネスをやる土壌などまるでないですが、もの作りには最適です。
かといって日本の伝統的な音楽をするつもり等まるでありません。
精神的にそういうものを注入できれば幸いですが、
伝統の「形」をなぞることは、僕等の世代では嘘になりますので。
一番問題なのはやっぱり洋楽のリメイクです。 NYのまね、パリのまねが、もう信じられないくらい日常化しています。
これは悲しいことです。本当に好きならそこへ移住するでしょう、ですがそうではありません、
西洋風であれば認めるオーディエンス、ジャーナリズムが日本に存在することが
深刻です。理由はさっき言いました。自分を直視しない、鏡を見ない集団ナルシストのようです。
真似る理由をつきつめれば、自分に自信がない、自分が好きじゃないということで、
些細なことのようですが、行き着くところは今回の戦争のようなとんでもないことに結びつきかねません
ロンドンのHIPHOPが結局しぼんでいったことは必然でしょうし、
ボムザベースやコールドカットの初期は
NYではないということを自覚、誇張気味にしていた所が大きかったし、未だ古くならない理由でしょう。
日本にはそういうものがなぜかないのです。せいぜい日本語で歌われるくらいでしょうか。
ドイツはクラシックや電子音楽において素晴らしい遺産がありますし、それらをとてもリスペクトしています。 11.編集長から、あなたが今年から音楽制作をやめるという話を聞きました。だから4
枚も今年リリースするのでしょうか?その理由は?
音楽をやめることは決定してるのでしょうか?それとも気が変わることはあり得な
いのでしょうか? 音楽の指しているモノが他人と微妙に違うので誤解を招いたのでしょうか。
僕は作品と仕事を明確に区別していますから。
自分のアルバムはもう作る気はないなど言ったかもしれませんが、
音楽を止めることとは意味が違います。
辞めてしまうというか、むしろ古い音源が溜まって吐き出せていない時期が長く続いたので
、先の質問返答で答えていますが、もう三年ほど辞めていたところだという状況が本当です。
未来のことはわかりませんが、まだ未発表音源が山ほどありますので、
気が向いたら整理してまたアルバムをだすこともあるかもしれないです。
とりあえず自分で作った短編映画「kobito no kuni」のサウンドトラックは
年内に僕のプライベートレーベルMoonitから出すつもりです。 このような混乱を招いた原因は他の質問で答えた様に、ゴシップ好きな業界のマジックなんです。
昨年10thをリリースしたとたん、仕事の依頼がぴたりと止まりました。
普通内容がどうであれ、リリース後は仕事が殺到することが多かったですが、今回
だけは止みました。後で聞くと、CMの製作会社やリミックスを頼もうとおもっていたレーベルの人も
竹村さんはもう止めたみたいだから、頼むとイヤがられると思って他に発注したとか...。
馬鹿げています。本当なら裁判してもいいくらいの損失ですが。
こういう噂を誇大に流す人の多くは残念ながら同業者なんです。 乙。
もうそろそろ終わりかな。
いいインタビューだね。 乙!
ところで、竹村氏みたいなスタンスだと「日本」じゃさぞ生き辛いだろうな
そこで生まれる音に惹かれるわけだけれど 乙です
とても面白かった、そして少し切なくなった。
竹村さんの音楽は古くならないから今でもよく聴いています。
1stもほしのこえもアセンブラ2も大好きだ。 荒らしに近い状態になっちゃったけど、
竹村さんのインタビューで1番面白いと思ってます。
古いPC整理してたら保存してあったので、読んで貰いたく転載しました。
10年以上前にDJ板に最初の竹村スレを立てたのを思い出しました。
当時はすぐdat落ちしそうになり、必死になって保守していたなぁ。
10年前にソングブック、10thがでた時、竹村さんは10年後も聴けるアルバムと言ってましたが、
ほんとその通りで未だに聴いている。
当時は、エレクトロニカブームでそういったカテゴリーで語られることが多かったけど、自分には全く違うように聞こえた。
竹村さんがCD出さなくなり、childiscが消滅したあたりから、流行の音楽とか追うのも辞めて、クラブとかも行かなくなった。
2003年のライブは今までの人生でのベストライブにあげられるほど素晴らしかった。
ツジコノリコとのアルバムも出て復活の兆しもあるので、ぜひ復活ライブをして欲しい!!
待ってますってここに書いても見てないかw
竹村、今までなぜか敬遠してたんだけど、10年くらい経った現在、少し気になり始めた。
で、竹村の名盤というかオススメのアルバムあれば何枚か教えてほしいっす。よろしく。
Childs Viewは持ってます。それ以外で。 >>400
とりあえず、こどもと魔法
あとは
・電子ノイズ系が好きなら、scope、夜の遊園地
・牧歌系が好きなら、ソングブック、ミラノ >>400
Child's View的な音が好きなら、spiritual vibesの1stは初期の名盤。
最近のものなら、子供と魔法、ソングブック、10thかな。
>>399乙です。
後追いとしては貴重なインタビューを読むことができて感謝しています。
ここ2年ほど竹村さん関連の音楽聞いていたんだけど
ちょっとだけ聞いて放置してたMatmosのSupreme Balloonがやっと聴けるようになった
これ面白いアルバムだなー 自分的にはANIMATEが最高傑作で大好き
次点でAssembler 1&2 アルバムによってスタイル変わるんだ?ニカっぽいアルバムあれば知りたいとこだが。 >>406ニカっぽいと言われても人それぞれ感覚が違うからわかんないわ
ようつべとかで試聴して探しておくれ。大抵はクレジット載せてくれてるよ
個人的にはスリルジョッキー版のほしのこえ ニカ的な電子音ならscopeや夜の遊園地、water's suite、アセンブラ名義のものかな。 「夜の遊園地」、ヤバw 100回は聴いてる。これからも聴く。
中でも、アシクドゥドゥとエーテルという曲が最高。ディープで
美しい音楽。NOTRE MUSIQUE... どれも実験音楽って感じで微妙、Sabureくらいかな良いと思ったのは、
音楽からも感じ取れるけどオナニー感がものすごいある。これがわかるようになったら・・・
とか、いらん、ほんのすこしでも聴き手のこと考えて作ればいいのに、惜しい人だな。
>>406
Child's View Remixが一番良いと思うよニカぽいのならば、まあAFXが良いんだけども。
あとFanfairに収録されているSabureくらいかなお勧めできるのは 子供と魔法聴いてから、1st聴い時は、これ本当に同じアーティストか?って思ったなぁ。
明らかに音変わった気がする。
個人的に子供と魔法はsteve reichにかなり影響受けてるような気がする。
>>409
同意
すごく美しいアルバムだよね
>>410
人それぞれだけど全然同意できないや…ごめん
サブレも元は仕事で作った曲らしいし、好きじゃない 最高傑作はscopeだと思う
1、4曲目は特に美しい
まぁ自分が竹村のミュージックコンクレート的な音が大好きなだけなんだけど・・・
でも意見が分かれるのもこの人らしくていいと思う scopeは危ういバランスの上に成り立った奇跡のような作品
やりすぎてしまうと、ただのノイズにしか聞こえなくなり繰り返し聞くのが苦痛な作品になってしまうし、
ポップで分り易い作品は繰り返し聞くと飽きてしまう
その両端の直前で踏みとどまっている scopeはニカよりも広義の電子音楽史上に残る真の傑作だよ。
>>414さんの言う通り、実験性と叙情性の面で全5曲のバランスも完璧。
個人的には1曲目がとても好き。 scopeを10年ぶりに聴いたけど、これは名盤だなぁ。当時感じてた音とまた違って聴こえるよ。 久しぶりにツジコノリコのやつ聞いてみたけどやっぱりラップの歌詞が許容できんかった
竹村の曲の日本語歌詞って抽象的で余計な意味を持ち過ぎないようにしてると思うんだけど
それとは対照的すぎる 5、6回聴いて売ってしまった
トラックはいいんだけど歌が邪魔過ぎる 竹村さんのブログって相変わらずムズイ
偶像崇拝って初音ミク批判かな?
アルレッキーノって気狂いピエロだよね
個のアートを信じて
類の無我な戯れに批判的なのかな?
わからなくもないけど
竹村さんって
諸星大二郎の「生物都市」の主人公の少年っぽいとこあるかも
John Cageのイベント出演するね
今年で最後かな?
ttp://www.jcce2007-2012.org/ >>423です。
竹村さんを生で見るのはこれが初めてだから楽しみ。あと、Gak Satoが参加することに驚いた。 (;'ー`)またCD売らないのかなあ
学生の時は買えなかったけど
今なら買える 10年前に竹村の言っていたように音楽業界、とくにダンスミュージック界隈は完全に終わっちゃったな
90年代後半の盛り上がりが嘘のよう
当時はやっぱ業界に踊らされてたのかなと思わなくもない
以上、老害のつぶやきでした 竹村さんの過去のブログ消えちゃったのか
難解だけど非常に勉強になっていて、自分もドイツ語とか収めて哲学とか法学やりたくなる 45になっても哲学の本読んだり考えたりしてよく続いてるよな。音楽で食えてるんだろうか?