むかしむかし、壱衣という旅の僧がいた。
あてもなく山々を歩き旅をするある日、とっぷりと日が暮れてしまい近くに見えた村に宿を貸してもらえないかと立ち寄った。
しかし壱衣の姿をひと目見た村人は恐れおののき、頭を地に擦り付け不思議な念仏を唱えて許しを乞うた。
「どうかお助けください、ねむねむにゃんこ、ねむねむにゃんこ」
「私は今日ここに立ち寄った旅の僧にすぎませぬ、なぜそうも怯えるのですか」と問うと、
村人は「近頃廃寺に怪しげな念仏を唱える僧が住み着き、日々『ねむねむにゃんこ』と唱え貢物を差し出さぬと村に不幸をもたらすと言うのです」と答えた。
村の若い者が総出で捕らえようにもあまりに素早く、かえって怒りを買うだけになってしまい途方に暮れていたのだという。
これは妖(あやかし)に違いないとにらんだ壱衣は村人に寺の場所を聞き、退治を約束した。

村外れの廃寺にたどり着き様子をうかがうと、はたして中にはぼろ袈裟をまとい、石や木の実でぎらぎらと飾り立てた狒々が
「女持って来い、酒持って来い、ねむねむにゃんこ、ねむねむにゃんこう」と唱えていた。
「もし、さぞ高名な僧とお見受けします」
「おうおう、誰じゃ、約束の女はどうした、酒はどうした」
「私は村人ではございません。日も暮れてしまったので屋根をお貸しいただきたいのですが」
「おうおう、よかろう、おれは偉いからな。ねむねむにゃんこ」
壱衣を中に招き入れた狒々はじろりじろりと体を眺め、壱衣の錫杖に目を留めた。
「お前の杖はきんぴかで良いものだな、ねむねむにゃんこ」
「いやなに、先はすりきれ、土にまみれたぼろでございます」
「おれの持っていた杖にそっくりだ」
「ほうほう、貴方様もお持ちでしたか、ぜひともお名前をお聞かせいただけませんか」
壱衣がへりくだると、狒々はふんぞり返ってこう言った。
「おれは壱衣という世に名の轟いた行脚僧だ」

「ははあ!貴方があの壱衣様でございますか」
「いかにもいかにも、行脚も疲れたので今は救世のためこの地で『ねむねむにゃんこ』と唱えておる」
「『ねむねむにゃんこ』とはどのような意味でございましょう」
「お前のような未熟者にはわからぬだろうが、とにかく『ねむねむにゃんこ』と唱えれば救われるのだ」
「なるほどなるほど」
深くうなずいた壱衣を見て狒々は大層満足した様子で
「ひとつ徳を積んだ証にその杖を置いてゆくがよい」と壱衣の錫杖を奪い取ろうとした。
すると壱衣は「我が名を騙る妖ごときに渡せるものか!」と一喝。
驚いた狒々は素早く逃げ出すも、壱衣は凄まじい速さで追いつき縛り上げてしまった。
「壱衣はおれだ、おれが壱衣と言ったのだから壱衣なのだ」
「お前は教えもでたらめ、姿も僧ですらない、壱衣を名乗るもおこがましい」
翌朝、村人たちの前に縛り上げられた狒々が突き出された。
「怪しいのはこの坊主だ、怪しまれている方が証拠を出すべきなのだ」と狒々は吠えたが身なりや行ないから誰も信じようとはしなかった。
やがて日が昇ると狒々から黒い煙が立ち上り、山の方へと逃げるように消えていったという。
この煙を見た村人たちは、この地方の樹より出て畜生に取り憑き偉そうに人の名を騙る『樹名』と呼ばれる妖であると言った。

怪しげな念仏に惑わされていた村を救った壱衣は村に正しい念仏を説き、
この地に留まり安らかに暮らしてはどうかという提案を断って、またあてのない旅へと出た。
『ねむねむにゃんこ』とは正しくは『南無七身難行(なむなみなんぎょう)』
この身を七つに裂かれるほどの難行でも耐え抜いてみせましょうという壱衣の誓いであった。