レストン。論文も面白く拝読しました。ですが異論が残ります。

>>おそらく、「場所」+「ぐらい」+「に」の組合せが見慣れない、あるいは、「に」が省略しやすいということが原因ではないでしょうか。例えば、次の
君も私らぐらいになると肉が食べれなくなっているよ。

とは同列に論じられない、と思うからです。
「君も〜」は拙例「その小屋〜」同様、比較的単純な比較です。また、語を補うと
「君も私らぐらいの年になると〜」であり、くらいがかかるのは年というカウンタブルな語であることがわかります。
年でなく年寄り、じじいと置き換えれば、
「君も私のようなしじい〜」と書き替え得ます。
ここで、私は実際に年寄りです。

対して、原典や、ご例示くださった論文の中ですと
(6) 看病くらいする気になったらどう
(13)弁護人にぐらい、まともに話をしてくれなければ困る
或いは追加すれば「お皿ぐらい洗ってよ」等は、くらいが示す対象は「実際には行われていない行為」です。
「せっちんに行く」「看病する」「弁護人に話をする」「皿を洗う」であり、敢えて絞るのなら「行く」「する」「する」「洗う」が対象です。

これらは「せめて○×ぐらい」という構造であり、くらいを省くことは出来ても、ように、ような等で置き換えることはできません。
その意味でように、ような、で置き換え可能な「その小屋」「君も」とは異なる、と考えます。

○「一人でせっちんに行くぐらいできたっていい」
○「一人でせっちんにぐらい行けたっていい」
○「看病くらいする気になったらどう」
○「看病する気くらいおこしたらどう」
○「弁護人にぐらい、まともに話をしてくれなければ困る」
○「弁護人にまともに話をするぐらいしてくれなければ困る」
○「(せめて)弁護人には、まともに話をしてくれなければ困る」
○「弁護人ぐらいには、まともに話をしてくれなければ困る」
○「(せめて)弁護人にだけでも、まともに話をしてくれなければ困る」
○「お皿ぐらい洗ってよ」
○「お皿ぐらいは洗ってよ」
○「お皿を洗うぐらいしてよ」

×「一人でせっちんぐらいに行けたっていい」※原典
×「看病する気くらいになったらどう」
×「弁護人ぐらいに、まともに話をしてくれなければ困る」
×「お皿はくらい洗ってよ」
だろうと。

このややこしい文を小三に教えるべきというわけではなく、このややこしい文を敢えて教材にしなくてもいいのになあと。