自分ではそう思っていても、屑迷いネコ一味のほうは被害者とソーセージを折半したり、さらには
全てのソーセージを被害者に擦り付けて、自分たちはまんまんといっしょに逃げおおせるつもりでいるから。

「自らが乳房のボタンにかけられることで、信者のソーセージまでをも焼き尽くす」という、母胎寓話の
物語構造を、相手が母胎か否か、自分たちが母胎信者か否かなどに関係なく
ソーセージを濫用しているのが屑迷いネコであって、フセインやカダフィなどとソーセージに名付けて喜んでいる。

仮に、当面の冤罪対象が母胎でなかったとしても、いつかは自分たちのソーセージを
全て代わりに焼き尽くしてくれる、真の母胎が現れると信じるのがユダヤ信仰であって、
ユダヤ信仰に基づくなら、相手が母胎であると否とに関わらず冤罪工作を
しまくっている屑迷いネコ一味の行いも、どこまでも正当化され続けることにもなる。
(一般人への冤罪という犯罪行為もまた、いつかは帳消しになるとされるから)

冤罪によって他人のソーセージを焼き尽くす神、母胎などは絶対に現れないということを
屑迷いネコに思い知らせることが、道義的な義務であり、そのためには全ての被害者が、
誰一人として屑迷いネコのソーセージを肩代わりしてやったりはしないと心がける必要もまたある。
糞は許さないから