(ラングレス『記念物』第二巻によれば)水曜日(Wodans-day)は☿にも仏陀にも神聖な日という
が、これは仏陀 Buddha がウォダン Wodan と同一であることを大いに証している。――『ウプネカ
ート』にも出てくる「コルバン」Corbanは、マルコによる福音書七の一一に「コルバン Κορβαν すなわ
ち供え物」として出てくる。――しかし最も重要なことは次のことだ。水星☿は仏陀にとって神聖で、
あるていど仏陀と同一視されるものであり、水曜日は仏陀の日なのである。ところでメルクールはマイア
の息子であり、仏陀はマーヤーMaja (摩耶)夫人の息子である。これは偶然ではありえない! シュ
ヴァーベン夫人が「そこに楽人が埋められている」と言うとおりだ。しかし『仏教便覧』三五四頁のノー
トおよび『アジア研究』第一巻一六二頁参照。――

 ある種の祭式で僧に贈られる衣は一日のあいだに織りあげられねばならないと、スペンス・ハーディ
(『東洋の修道生活』一二二頁)は報告しているが、同じことはヘロドトス(二の一二二)も報告して
いる。――

 ドイツ人の元祖はマヌス Mannus とよばれ、その息子はトゥイスコン Thuiskon だ。――『ウプネ
カート』第二巻三四七頁、第一巻九六頁では、最初の人間の名はマン Man とよばれている。――

 周知のようにサトヤヴラティ Satyavrati はメヌ Menu もしくはマヌ Manu と同じものであり――
他方ノア Noa とも同じである。ところでサムソンの父は(土師記・第一三章)マノア Manoe とよば
れている――つまり Manu, Manoe, Noa となる。七十人訳聖書は Μανωε および Νωε と書いてい
る。Noe というのは、まさに Manoe ではあるまいか。つまり最初の綴 ma が脱落したのではないか?――

 エトルリア人ではジュピターにあたる神がティナ Tina とよばれていた。これはシナ語のティエン
Tien と関係があるのではなかろうか? エトルリア人はヒンドゥー教徒のアンナ・プルナを奉じてい
たのではなかろうか。

 こうした類似点はすべてウィルフォードおよびバー (Burr) によって徹底的にしらべられ、『アジア
研究』におさめられている。