【ショーペンハウアー】ペシミズム [転載禁止]©2ch.net
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人生とは、通例、裏切られた希望、挫折させられた目論見、
それと気づいたときにはもう遅すぎる過ち、の連続にほかならない。 第一二一節
正あるいは権利と言う概念が積極的なものであるにちがいないといった先入見から出発して、これを
定義しようとくわだてる人は、失敗するだろう。つまりそれは影をつかもうとして亡霊を追いかけ、一
種の「非存在」を求めているものだからである。正あるいは法の概念は、自由の概念と同様、否定的・
消極的概念であって、その内容はたんに一種の否定にとどまるからだ。不正あるいは不法の概念こそ積
極的概念であり、最も広い意味での損傷、つまり「侵害」と同義である。損傷は人にも財産にも名誉に
も該当する。――こう考えれば人権を定義することは簡単にできる。各人は、他の人を傷つけないかぎり
どういうことをしてもよい権利をもっている、ということになる。――
あることへの権利をもつとは、他人を傷つけないかぎり、そのことをしてさしつかえないということ
であり、あることに対する権利をもつというのは、だれかほかの人を傷つけなければ、それを受けとっ
て利用してよいという意味にほかならない。――「単純明快さは真理の目じるし」なのだ。――この論
法でゆくと、いろいろな問題が無意味であることがわかる。たとえば、われわれに自殺する権利がある
かどうかといった問題だ。他人がわれわれの一身にかんしてもちうる権利の話ならば、これはわれわれ
の生命をそこなわないという条件に制約される。だからこの条件がみたされないかぎり、そういう権利
はない。だが、自分ではもう生きていたくないという人に、ひとさまのためにただの機械になって生き
つづけるべきだというのは、行きすぎた要求だ。 第一二二節
人の力量には差があって平等ではないが、人間としての権利は平等である。それはこの権利が力量に
もとづくものではなくて、権利の道徳的性質からいって、どの人にも、生きんとする同一の意志が、こ
の意志の客体化の同じ段階であらわれているためである。しかしこのことは、人が人として有する根源
的・抽象的権利についてのみいえることだ。めいめい各人がその力量によって手に入れる財産とか名誉
などは、この力量の程度と種類しだいであって、その権利の及ぶ範囲は広くなる。つまりこういう問題
では平等ということはなくなる。しかし財産の多い人とか活動的で名誉にめぐまれた人とかは、それだ
け獲得するものが多いからといってその権利が大きくなるわけではなくて、権利の及ぶものの数がふえ
るだけなのだ。
第一二三節
わたしの主著(続編・第四七章)で説明しておいたとおり、国家は本質的に単なる防衛施設である。
対外的には国全体を外的の攻撃から守り、対内的には個人がおたがいに攻撃しあうことをふせぐための
施設なのだ。以上のことから結論されることは、国家が必要なゆえんは、つまるところ、天下周知の人
間の不正にあるということだ。人間が不法なことをやらなければ、国家など考えられもしないだろう。
そうなれば自分の権利をおかされはしまいかと思う人もなくなるわけだし、たんに野獣の攻撃をふせい
だり天災を避けたりするためのただの団体というのだったら、国家と似ても似つかないものになるはず
だからだ。大げさな美辞麗句を使って、国家こそ人間存在の最高の目的であり精華であるなどと述べた
とて、俗物根性讃美まるだしにしている似非哲学者どもの馬鹿さかげんと平板さは、この観点からすれ
ばはっきりわかる。 第一二四節
もしこの世に正義が行なわれていれば、家を建ててしまえばそれでじゅうぶんで、明白な所有権以外
に、べつだん防衛を必要としないことになろう。ところが不法がまかりとおっているから、家を建てた
人はそれを守るだけの力をもつことが要求されるのだ。力がなければ、その人の権利は事実上、不完全
ということになる。侵略者は強者の権利をもっているからだ。強い者は暴力をふるう権利をもっている
というのが、ほかならぬスピノザの法概念だ。彼は他の権利を認めないで、「各人はその有する力の量
に応じて、それだけの権利を有する」(『政治論』第二章・第八節)と言い、また「各人の権利はその有
する力によって規定される」(『エティカ』第四部・定理三七、注一)と述べている。――こういう法概
念の手引きをスピノザにあたえたのは、ホッブス、とりわけその『市民論』第一章・第一四節であるよ
うに思われる。この個所でホッブスは、神さまが万物に対して権利をおもちなのは、なんといってもそ
の万能の力によるのだ、という奇妙な説明をつけ加えている。――市民社会では、こういう法概念は理
論面でも実践面でもすでに廃棄されたが、政治の世界では、理論的に葬られたとはいえ、実践面では
依然として通用している。現に最近、北アメリカ人のメキシコ掠奪行によって、この法概念は輝かしく
も実証されたばかりだ。もっともこれをはるかに凌駕するものに、フランス人が首領ボナパルトのもと
に全ヨーロッパを掠奪した昔の例があるけれども。ただこうした征服者は、掠奪行そのものよりもはる
かにしゃくにさわることの多い、例の公式の嘘で事態を言いつくろったりしないで、むしろ堂々と厚か
ましくマッキャヴェッリの学説を採用すべきであろう。というのは、この学説から引きだせることは、
個人どうしのあいだでは、また個人に対する道徳や法学では「他人が汝に加えることを欲しないことは
他人になすなかれ」という原則が通用するけれども、政治においては、その逆の「ひとが汝に加えるこ
とを欲しないことこそ他にむかってやるべし」という原則が妥当するからだ。屈服するのがいやなら、
機を見て、つまり相手の弱みにつけこんで、ただちに隣のやつを制圧せよ。 というのは、もしきみがその機を逸する場合、いつの日か、それは敵陣に寝返りを打って、隣のやつの好機
となり、きみが制圧される羽目に追い込まれるからだ。もちろん好機を逸したいまの世代の罪のつぐないは、
次の世代が背負うことになるわけだ。このマッキャヴェッリ的原則は、大統領演説なんかに見られるみえす
いた嘘のトリックなどより、掠奪をくるむ覆いとしては、はるかに品のよいものだ。ましてや、兎のほうから
犬に襲いかかったという有名なお話に帰着するようなまっかな嘘などより、礼節にかなっている。要するに
すべての国家は他の国を、好機到来と見るやただちに襲いかかる強盗の集団と見ているわけである。
第一二五節
ロシアなどの農奴制度とイギリスあたりの大地主制度の違い、一般に農奴と小作人・借家人・抵当
権設定者などとの違いは、実質よりも形式にある。百姓そのひとが農奴として自分のものであろうと、
小作人が食ってゆく土地そのものが自分のものであろうと、あるいは鳥とその餌、果実とその木のどち
らが自分の所有に属しようと、本質的にはあまり違いがない。現にシェークスピアもシャイロックに言
わせている。
わたしの食ってゆく手段をおとりあげになれば、
あなたはわたしの生命をおとりあげになることになる。
自由な百姓はいくらも広い世間へ出かけられる利点はあるものの、農奴や「土地に所属した奴隷」の利
点はおそらくさらにこれを上まわるものがある。つまり不作とか病気とか、年をとって働けなくなれ
ば、主人のほうがその面倒をみなければならなくなるからだ。だから、不作の年ともなれば、農奴にパ
ンをくれてやる手だてをあれこれ考えて、主人のほうが眠れない一夜を輾転反側するのに、農奴自身は、
高枕で寝ていられるのだ。だからすでにメナンドロス(ストバイオス『抜粋』第二巻三八九頁、ガイス
フォルト編)も言っている。
自由な身空で みすぼらしく みじめに暮らすより、
よい主人に身を寄せたほうが よっぽどよい。 自由人のもう一つの取りえは、なにがしかの才能によって、いくらかましな境遇に移れる可能性があ
ることだが、奴隷にもその可能性がまったくないわけではない。奴隷が比較的高級な種類の仕事をやり
とげて、その主人にひけをとらないようになれば、やはり主人扱いを受けることになる。現にローマで
は、手工業者・工場長・建築家、それどころか医者までがたいがい奴隷だったし、現代のロシアには農
奴で大銀行家になっている人もあるという話だ。またアメリカでよくあることだが、奴隷もその稼ぎで
自分を買いうけて自由になりうるのである。
貧困と奴隷とは同じ事態の二つの形式にすぎない。いや、ほとんど名前だけが違っているのだといい
たいくらいのものだ。その事態の本質がどこにあるかといえば、その人間の力が大部分は自分自身のた
めには使われないで、他人のためにふりむけられるということだ。このことから、労働の荷重というこ
とも起こってくるし、自分の欲求をみたすことが乏しいということにもなる。というのは、自然はよく
したもので、自分にさずかった力を適当に働かせて、自分の食いぶちを大地からかちとるだけの力しか
人間にはあたえておらず、だれでもありあまる余力などもって生まれてはいないからである。ところで
人類の相当部分のものが、人類が食ってゆかねばならぬという共同の重荷をまぬかれれば、それだけほ
かの人たちの荷が勝つことになり、悲惨になるわけだ。こうしてさしずめ、奴隷とかプロレタリアート
といった名のもとで、いつでも人類の大多数の者に重荷がのしかかるというあの禍が起こってくる。
その遠因は贅沢だ。つまり二、三の少数の者がなくてもすむもの・余計なもの・洗練されたものをもつ
ことができ、それどころか、ひとひねりしたような欲求を満たすことができるために、現在高がきまっ
ている人力の大部分がそんなことにふりむけられ、したがって不可欠なものを生産するという肝心かな
めの必要なことには手をぬくということになる。 何千という労働者が、自分の掘っ建て小屋も建てられ
ないのに豪荘な邸宅の建築に従事したり、自分や家族のために粗末な布地を織るかわりに、金持ちの
ために精巧な絹のものやレースまで編むわけで、一般に彼らは富める者らを満足させるために、くさぐ
さの贅沢品をつくっているのである。都会の人口の大部分は、こういう贅沢品の生産に従事する労働者
からなっており、百姓はためにこの都市労働者や、またこういう贅沢品を注文する連中の肩がわりをし
て、耕作したり、種をまいたり、放牧したりしなければならず、けっきょく自然がもともと彼に課した
以上の仕事をもつことになる。そのうえ彼はその力と土地を、穀物・馬鈴薯・牧畜にふりむけるより
は、むしろ葡萄・蚕糸・ホップ・たばこ・アスパラガスなどに割かねばならない。さらに、砂糖・コー
ヒー・茶などを輸入するために造船業や航海に従事する要員をそろえる必要から、たくさんの人間が耕
作から引きぬかれてゆく。こういう余計な品物の生産は、何百万という黒人奴隷の悲惨の原因となる。
彼らがその生国から強引に拉し去られるのも、彼らの汗と苦役によってあの嗜好品を生産させるためな
のだ。これを要するに、人類の力の大半は、少数の者のためにまったく余計でどうでもいいものを調達
するために、万人にとって必要欠くべからざるものの生産活動から引きぬかれてゆくのだ。したがって
一面において贅沢が行なわれているかぎり、他面においてはプロレタリアートの貧困という名のもとで
あれ、奴隷制度の奴僕という名のもとであれ、必然的に過重労働と粗末な生活が存続せざるをえない。
奴隷とプロレタリアートの基本的違いは、奴隷のほうが暴力にその発生原因があるのに対して、貧乏人
は策略にその原因を帰さねばならぬということだ。社会のきわめて不自然な状態、悲惨をまぬかれよう
とする一般的戦い、多数の人命を犠牲にする航海、錯雑した商業上の利害、最後に以上すべてのことが
機縁となって起こる戦争――これらすべての唯一の発生源は贅沢にある。しかも贅沢は、これを享受す
る人を絶対に幸福にするどころか、むしろ病的に不機嫌にするのである。したがって人間の悲惨を軽減
する最も有効な手段は、贅沢をへらすか、さらには贅沢をやめることであろう。 こういう考え方全体に真実な点が多々あすことは議論の余地がない。それにもかかわらず、この考え
方は、経験によって確かめられる別の考え方によって、結果的に反駁されるのである。すなわちあの贅
沢に営々と奉仕する労働によって、人類はその必要欠くべからざる目的にふりむける筋力(刺激性)の
点では失うところがあるのだが、そのかわりに、まさにそういう機会に(化学的意味で)遊離してくる
神経力(感受性、知性)によって、その穴埋めが徐々にではあるがいろいろなされるということであ
る。というのは、神経力のほうが高級な力であるから、その仕事もまた筋力の仕事にはるかにまさって
いるからだ。
一つのよき献策はしばしば多くの手にまさる。
(エウリピデス『アンティオペ』)
百姓だけ集まっても、発見や発明はできぬ。手が遊んでいると、頭が働くようになるのだ。芸術や科学
はそもそも贅沢の子供であり、贅沢という金主に借金を返してゆくのだ。科学は、機械工学・物理学・
化学などのすべての部門において、テクノロジーを完成した。それは現代において機械を昔では想像も
できなかった水準にもちあげ、とりわけ蒸気機関や電気によって、昔の人なら悪魔のせいにしたと思わ
れるほどのことをやっている。今日ではあらゆる種類の工場や手工業において、ときに農耕において
も、機械のはたす仕事はたいへんなもので、いま遊んでいる裕福な連中・インテリ・頭脳労働者の総力
を結集しても、したがってまたあらゆる贅沢をやめて、すべての人が百姓の生活を送ることにしても、
とうてい問題にはならぬのだ。こうした企業の製品は金持ちにだけ役立つわけではなくて、すべての人
が恩恵を受けるのである。 昔ならほとんど手のとどかぬような品物が、今日では安く大量に手にはいる
し、最下層階級の生活もいちだんと快適さを増してきている。中世期ではイギリス王も、フランス大使
に謁見を給うさいに、貴族のひとりから絹の靴下を借りたものだ。エリザベス女王でさえ、一五六〇年
のお年玉に絹の靴下を一組はじめてもらったときには、びっくりしてひどく喜んだものだ(ディズレー
リ、第一巻三三二頁)。ところが今日ではそれくらいのものはどんな売り子でも持っている。五十年前
に貴婦人の着た更紗の服は、いまでは女中が着ている。この調子で機械がいましばらく進歩すれば、人
間が力を労することはほとんど完全にまぬかれるところまで行きつけるであろう。現に馬力の大部分は
すでにそうなっているのだ。そうなればもちろん、人類全体に精神文化が及ぶことも考えられよう。人
類の大部分の者が肉体的重労働に従わねばならぬかぎり、そういうことは不可能な話である。というの
は、つねにどのような場合にも、一般的にも個別的にも、刺激性の筋力と感受性の神経力は敵対関係に
あるからだ。つまり両者の根底にある生命力は一定しているためだ。さらに「芸術のわざは風習をやわ
らげる」と言われるとおり、やがて大にしては戦争、小にしてはなぐりあいや決闘も、おそらく完全に
この世から姿を消すっであろう。あと二つはすでに今日、はるかに珍しくなっている。しかしここでユ
ートピアを描きだすことが、わたしの目的ではないのである。――
しかしこれらの理由を別としても、贅沢を廃してあらゆる肉体労働を均等に分けるべきだという右に
述べたあの論拠に対して一考すべきことは、人類という大集団は、いついかなる場合にも、それぞれの
問題に応じて、さまざまな姿で、指導者、指揮者、助言者をかならず必要とするということだ。裁判
官・統治者・将軍・官吏・牧師・医者・学者・哲学者といった人たちがこれにあたる。こうした人たち
はすべて、大多数の、まったく能力のない、倒錯した連中を人生の迷路をつきぬけて案内する使命をお
びている。 したがってこうした人たちは、めいめいそれぞれその地位と能力に応じて、その視野に広い
狭いはあっても、人生の見通しをもっているのである。こういう指導者が肉体労働から解放されるとと
もに、卑俗なことの欠乏や不便にわずらわされないということ、それどころか、その大きな仕事の程度
に応じて、普通の人より所有や享受の点でまさるものがなければならないということは、当然・至当の
ことである。大商人でさえも、彼らが国民の需要の見通しをつけてこれに応じるかぎり、労働を免除さ
れるあの指導者階級に数えいれるべきである。
第一二六節
主権在民の問題はつきつめたところ、およそだれかが根源的に、ある国民をその意志に反して支配す
る権利をもちうるかどうかという点に帰着する。そういうことが筋を通して主張できるとはわたしは思
わない。ともかく国民に主権はある。しかしこの主権者は永遠に未成年の主権者を、いつまでたっても
後見を受ける必要があり、自分で自分の権利を行使すれば、かならず無限の危険をまねく。とりわけこ
の主権者は、すべての未成年者と同様、扇動政治家とよばれる術策にとんだぺてん師に簡単に乗じられ
るのである。――
ヴォルテールは言う、「最初の王は運のいい兵隊だった」と。
もともとすべての君主はなるほど常勝の将軍であった。そしてこの特性を生かして長いあいだ支配し
てきたのである。常備軍をもつようになると、彼らは国民を、自分ならびにその兵士たちを養ってゆく
手段とみた。つまり面倒をみるのは、毛や乳や肉をださせるためといった一種の畜群と見ていたわけ
だ。これは(次の第一二七節で詳論するように)もともと、つまり本性上、この世で幅をきかすのは正
義ではなくて暴力的権力ということ、第一占有者の特権はあらゆる正義に優先するということに
もとづく。 第一二四節
もしこの世に正義が行なわれていれば、家を建ててしまえばそれでじゅうぶんで、明白な所有権以外
に、べつだん防衛を必要としないことになろう。ところが不法がまかりとおっているから、家を建てた
人はそれを守るだけの力をもつことが要求されるのだ。力がなければ、その人の権利は事実上、不完全
ということになる。侵略者は強者の権利をもっているからだ。強い者は暴力をふるう権利をもっている
というのが、ほかならぬスピノザの法概念だ。彼は他の権利を認めないで、「各人はその有する力の量
に応じて、それだけの権利を有する」(『政治論』第二章・第八節)と言い、また「各人の権利はその有
する力によって規定される」(『エティカ』第四部・定理三七、注一)と述べている。――こういう法概
念の手引きをスピノザにあたえたのは、ホッブス、とりわけその『市民論』第一章・第一四節であるよ
うに思われる。この個所でホッブスは、神さまが万物に対して権利をおもちなのは、なんといってもそ
の万能の力によるのだ、という奇妙な説明をつけ加えている。――市民社会では、こういう法概念は理
論面でも実践面でもすでに廃棄されたが、政治の世界では、理論的に葬られたとはいえ、実践面では
依然として通用している。現に最近、北アメリカ人のメキシコ掠奪行によって、この法概念は輝かしく
も実証されたばかりだ。もっともこれをはるかに凌駕するものに、フランス人が首領ボナパルトのもと
に全ヨーロッパを掠奪した昔の例があるけれども。ただこうした征服者は、掠奪行そのものよりもはる
かにしゃくにさわることの多い、例の公式の嘘で事態を言いつくろったりしないで、むしろ堂々と厚か
ましくマッキャヴェッリの学説を採用すべきであろう。というのは、この学説から引きだせることは、
個人どうしのあいだでは、また個人に対する道徳や法学では「他人が汝に加えることを欲しないことは
他人になすなかれ」という原則が通用するけれども、政治においては、その逆の「ひとが汝に加えるこ
とを欲しないことこそ他にむかってやるべし」という原則が妥当するからだ。屈服するのがいやなら、
機を見て、つまり相手の弱みにつけこんで、ただちに隣のやつを制圧せよ したがってこの権力は絶対に破棄できず、この世から片づけるわけにはいかないもので、い
つでもこれを代表する者がなくてはならない。権力が正義の側に立って、これと結びつくというような
ことは、ただ要望できるだけである。そこで君主はこう言うのだ。「わたしはおまえたちを支配する。権
力によってだ。わたしの権力は他のすべての権力を排除する。なぜならわたしは、わたしの権力となら
ぶいかなる権力にもがまんできないからだ。外からやってくる権力であろうと、国内において甲が乙に
対して有する権力であろうと、わたしは甘受できない。おまえたちは権力をこういうものとして納得せ
よ」と。こういう仕上げができてしまうと、時の進むにつれて、王権はまったく別のものになってしま
い、暴力的権力といった概念は背景にしりぞいてしまって、たまにそれがちらつくと亡霊のように見ら
れるまでになる。暴君といったイメージに取ってかわって、国君、すなわち国の父という概念があらわ
れる。かくて国王は、あらゆる法的秩序、したがってまたすべての人の権利がそれに支えられることに
よってのみ存続できるといった、確固としてゆるぎない大黒柱になってしまう。さてこういうことがで
きるというのも、国王には生得の特権があるからにほかならない。この特権は、いかなる権威も匹敵で
きないような権威を、国王に、しかも国王にのみあたえる。この権威を疑ったり攻撃したりすることは
できない。いやそれ以上に、すべての人が本能的にこれに従うのだ。さてこそ君主が神の恵みを受けて
「天佑を保全する」とよばれるのは当然であり、つねに国家において最も役立つ人物であり、どんな無
鉄砲な王室費を計上しようとも、その功績にむくいるにはじゅうぶんではないということになるのだ。 ところでマッキャヴェッリは最初に述べたあの中世期的概念の君主から断固としてその論を展開して
おり、自明のこととしてこれを説明することなく、暗黙の前提として、その上に彼特有のさまざまな助
言を基礎づけている。一般に彼の本は、当時まだ幅をきかせていた実践を理論に遡及し、体系的に首尾
一貫して論述したもので、まさにその理論的形式と完成によってきわめて辛辣な趣を呈することになっ
たのだ。――ついでに言えば、ラ・ロシュフコーの不滅の書についても、辛辣ということは言えるが、
その主題は公の生活ではなく私的生活であり、その内容は献策ではなく感想である。いずれにしてもこ
のすばらしい本の表題には文句をつけることができよう。それは大部分「箴言」でもなければ「反省」
でもなく、ただの「落想」だからだ。したがって「アペルシュー」とでも題すべきところだろう。
――それはそうと、マッキャヴェッリにも私的生活に応用できるものはいくらでもある。
第一二七節
正義自体は無力である。本来のさばるのは暴力的権力なのだ。ところでこの権力を正義に導き、権力
手段によって正義が行なわれるようにすること、これこそ統治術、すなわち政治の問題なのである。そ
してこれはたしかにむずかしい問題だ。ほとんどすべての人の胸のうちに無限の利己主義が巣くってい
ることを考えれば、これが難問題であることがわかろう。しかも、たいがい利己主義に加わってくるの
は、たまりにたまった憎悪と悪意のたくわえで、「憎しみ」のほうがもともと「愛」をはるかに凌駕す
るのだ。さらに考えられることは、こういう性質をもった何百万という個人を、秩序・平和・安寧・合
法といった枠のなかにおさえようというのである。ところが各人は、もともとどんな人にむかっても
「おたがいさまじゃないか!」という権利をもっているのだ。こうしたことをじゅうぶん頭においてみ
れば、現に見られるように、世の中がともかく全体として平静・平和に、正しくまともに動いているこ
とに驚かざるをえない。しかもこのことは、なんといっても国家というからくりひとつで達成されてい
ることなのだ。―― というのは、直接に効果的なのはいつでも肉体的暴力というやつだ。普通の人間が
受けいれて考慮を払うのは、これだけなのである。このことを経験によって確かめてみたければ、いっ
さい強制しないという条件で、利害に反してでも理性や正義や公平を守るべきだなどと、口をすっぱく
して普通の人間に説いてみることだ。返事に帰ってくるのは嘲笑くらいであろう。ただの道徳力だけで
は無力なことが、いやというほどわかるだろう。つまり考慮が払われるのは肉体的暴力だけなのだ。と
ころがこの力はもともと大衆のものだ。そもうえそのお相手をつとめているのが、無知・愚鈍・無法と
三拍子そろっている。したがってさしずめ統治術の課題は、こういう困難な事情のもとで、それにもか
かわらずこの肉体的暴力を精神的優越性である知性に従わせ、これに役立てることである。しかしこ
の精神的優越性が正義ならびによき意図と組んでいない場合には、それがうまく運んだとすると、そう
いう仕組みの国家はあざむく者とあざむかれる者とからなる、という結果になる。しかしこのことは、
どれだけ大衆の知性化を妨害しようとしても、大衆の頭が進んでくれば、しだいに明るみに出てくるこ
とで、結局は革命に行きつくわけである。これに反し正義ならびによき意図が知性の側についている場
合には、人間の世界の尺度からは、完全な国家ができることになる。この場合、非常に役立つことは、
正義ならびによき意図が事実としてあるというだけでなく、これを公表・周知せしめ、公の批判と検討
にまかせることである。しかしこのさい、多数の者が参画することによって、国家が内外に対して働き
かける必要な権力の中心点が、その集中と力の点でマイナスにならぬよう、用心しなければならな
い。現にこのことは、共和国においてほとんどつねにみられることなのだ。以上すべての要請に国家の
形式をとおしてこたえることが、したがって統治術の最高の課題であろう。しかし現実においては、統
治術は、その素材としてそれぞれの国民的特性をそなえた所与の国民を念頭におかねばならぬのであっ
て、この仕事が完全にはこぶかどうかには、この素材の性質がつねに大きな影響力をもつだろう。 国家共同体に不正の残存することができるだけ少なくなるていどに、統治術が以上の課題を解決する
ならば、それだけでもつねにたいしたことであろう。なぜなら、不正が影も姿もなくなるなどというこ
とは、ただ近似的にしか達成できない理想的目標にとどまるからだ。というのも、一方で不正を片づけ
れば、他方からまたしのびこんでくるからで、不法ということは深く人間の本性にひそんでいるからに
ほかならぬ。われわれは憲法の人為的形式と法の完備によって、あの目標に到達しようと努めているの
であるが、これはしかし百パーセントには近づかぬ一種の漸近線にとどまるのである。というのも、法
律の条項の概念をどんなに確定してみても、個々の場合すべてをつくすことはできず、ひとりひとりの
個人的場合に及ぶことは不可能であって、それはいわばモザイクの石ていどに近づけられるものの、と
うてい絵筆のニュアンスまでは出すことができないからである。そのうえ、政治においては、すべて実
験は危険である。なにぶん相手はいちばん扱いにくい素材、すなわち人間であり、その取扱いは爆発す
る雷金の扱いとほとんど同じくらいに危険だからだ。この点で、出版の自由が国家機関に対してもつ意
味は、安全弁が蒸気機関に対するのと同様である。というのは、どういう不平・不満も、出版の自由が
ありさえすれば、ただちに言葉で発散させることができ、それどころか、材料があまりない場合には、
言葉だけで種切れになるからだ。しかし種が多い場合には、機を失せずそれを看破し、はけ口をつけ
てやるがよい。不平をむりやり閉じこめ、それが卵をかえし、発酵し、煮えたぎり、伸びほうだいに伸
びて、ついには爆発するよりも、このほうがはるかにうまくいくのだ。――他方、出版の自由は毒物販売
の許可のようなものとみるべきだ。毒物といっても精神と気分に対する毒物だ。というのは、知識も判
断ももたない大衆の頭にどんなことが浮かぶか、わからないではないか。とりわけ目先に利益や儲けと
いったことをちらつかせる場合、なにを考えだすかわかったものではないからだ。 いったんなにかをこの頭に吹きこんでしまえば、どんな非行・犯罪もできないことはないではないか。
だからわたしは、出版の自由は危険のほうがその利点をうわまわることになりはしまいかと、非常におそ
れるものである。とりわけどんな苦情でも法的に訴える道が開かれているから、なおさらである。いずれ
にしても出版の自由は、いっさいの匿名を厳に禁止することを条件にすべきであろう。――
一般的に次のような仮説を立てることができよう。つまり法は、純粋に遊離して析出することのでき
ないある種の化学的物質と似た性質をもっている。この物質は、担体の役割をはたしたり、あるいは必
要な濃度をあたえてくれるごく微量の混ぜものを要するのだ。たとえば弗素、アルコール、青酸のたぐ
いだ。法もこれと同じことで、現実の世界に根をおろして支配しようとするからには、気まぐれや暴力
といったものをほんの少しつけ加えることがどうしても必要だ。法本来の性質は、純粋に理想的な、つ
まりエーテルのようなものだが、この現実の物質的世界に存立して作用を及ぼし、ヘシオドスに見られ
るように気化してこの世から天上へ飛んでいかないためには、その必要がある。すべての生得権・相続
特権・国教そのほか多くのものは、こういうやむをえない化学的塩基もしくは合金とみなすべきであろ
う。この種の恣意的にきめられた基礎のうえに立ってはじめて、法も流通し、矛盾なく施行できるであ
ろう。いってみれば、こういう基礎は法の「立つべき場所」であろう。
リンネの人為的な恣意的に選ばれた植物体系を自然の体系でとりかえることはできない。たとえ自然
の体系がどれだけ理性にかなっていようとも、またじつにしばしばそういう体系がこころみられたにし
ても、それはできないのである。というのは、自然の体系には、恣意的・人為的体系のそなえているあ
の概念規定のしっかりした確実さがないからである。同様に、右に示唆したような憲法の人為的・恣意
的基礎を純粋に自然的な基礎でとりかえることはできない。自然的基礎は上述の諸制約を非難して、生
得の特権のかわりに人格的価値こそ特権をもつべきだとし、国教のかわりに理性的探究の成果をすえよ
うなどとするものだ。 こうした言いぶんがどんなに理性にかなっていようとも、そこには国家共同体の
安定性を確保する、あの諸規定の確実さが欠けているのである。たんに抽象的な法だけが具体化されて
いるような憲法は、立派は立派でも、なにか人間以外の存在のためのものであろう。というのは人間の
大多数は、きわめて利己主義的で不正であり、思いやりもなければ嘘もつき、ときには邪悪でさえあ
り、知性などろくにそなえていないからだ。さてこそ一身に権力を集中した人間、法や規則に超然とし
てなんの責任ももたぬ権威、すべてのものがそれに屈服する権力、いちだんと高い存在とみなされる、
いわゆる天佑を保全せる支配者が必要になってくるわけだ。こうしてはじめて、人類は長期にわたって
制御・支配されうるのである。
これに反して、北アメリカの合衆国では、こうした恣意的基礎をすべて完全に排除して処理しようと
する試み、すなわちまったく混ぜもののない、純粋・抽象的な法を施行しようとする試みがなされてい
る。しかしその成果はかんばしくないのだ。というのは、この国は物質的に繁栄しているにもかかわら
ず、低劣な功利主義が支配的志操としてのさばっており、これにはかならずつきまとう相棒の無知が、英
国教会的な偏狭な頑信、おろかなうぬぼれ、ばかばかしい女性崇拝と組んだ残忍な粗暴さといったもの
のお先棒をかついでいるのである。さらにもっと始末のわるいことが一般的に行なわれている。すなわ
ち、罰あたりな黒人奴隷制、奴隷に対する極端な残酷、自由な黒人に対する不法な抑圧、リンチ法、頻
発するにもかかわらずしばしば処罰されないで終わる暗殺、ひどく残忍な決闘、ときには公然たる法の
無視、公債の支払い拒絶、詐欺同然の腹立たしいくらいの隣接した州の政治的接収、その結果として起
こる富める隣国への貪欲な掠奪行、それをまた最高の筋が、その国のだれもが嘘と知っていて笑ってい
るような出まかせで弁護すること、いよいよ高まってゆく衆愚政治、右に述べたような上層部の法の無
視が一般の道徳性に及ぼす結果としての堕落といったことどもである。 そういうわけで、この地球の裏側における純粋な法形態の見本は、共和国の肩をもつものでなく、いわ
んやこれを模倣したメキシコ、グァテマラ、コロンビア、ペルーにとってはさらに黒星である。共和国と
いうものにつきまとうまったく特別な、いわば逆説的な不利のひとつは、共和国においては卓越した頭脳
の持ち主が高い地位につい直接政治力を及ぼすようになることが、君主国におけるよりは困難であるとい
う点だ。というのも、偏狭・薄弱・平凡な頭のやつらが、それこそ断然、いつもあらゆる場合に、そして
あらゆる関係において、卓越した頭脳に対して天敵同然に謀反をおこし、あるいは本能的に結託し、すぐ
れた人物に対するその共通した恐怖によって大同団結をむすぶからである。このつねに多数を占める馬鹿
者どもの集団には、共和体制の場合、卓越した人物たちを抑圧し閉めだし、これらすぐれたものたちに凌
駕されまいとすることは、容易に成功するであろう。なにぶんここではもともと同権で、しかもつねに五十
対一となるからだ。これに反し、君主政体では、どういう場合にも当然おこるこの団結、すなわち愚かな者
がすぐれた者に対して徒党を組むということが、あることはあるけれども、それはたんに一方的に、下から
起こるだけで、上からは理性と才能が自然なとりなしと保護者を見いだすのである。というのは、まっ
さきに君主そのひとの地位はあまりに高くかつ堅固であるから、およそだれかと競争しなければならな
いといった心配はいささかもいらない。そのうえ君主自身は国家に奉仕するにあたって、自分の頭だけ
ではじつに多方面にわたる要請にとうていこたえることはできぬから、その頭脳よりもむしろその意志
を働かせるのである。すなわち君主はつねにひとの頭を使わねばならない。そして当然のことながら、
自分の利害が国の利害としっかりからみあい、不可分・一体となるように顧慮して、自分にとっていち
ばん役に立つ道具である最上の頭脳を優先的にえらび、これに目をかけることになる。ただしそれは人
材を見つける能力あっての話であるが、誠実にさがせば、これはたいして困難なことではない。 同様に大臣たちも声望のある為政家たちをいちだんと抜いているゆえ、これを嫉視するはずもなく、君主
の場合と同様の理由から、すすんですぐれた頭脳を抜擢し、その力を利用するために活躍させるであろう。
このようにして君主政体では、悟性が、いたるところにいるその仇敵、すなわち愚昧さをおさえる好機を、
共和政体よりも見つけやすいのである。これはしかし大きな長所だ。
一般に君主政体のほうが人間には自然な政治形態だ。蜜蜂や蟻・空を渡る鶴・移動する象・掠奪のた
めに群をなして集まった狼・そのほかすべてなにか事をなす場合に、一匹だけを先頭に立てる動物に、
この形態が多く見られるのとほとんど同じといってよい。そのうえ人間の場合も、すべて危険を伴う企
図、たとえば行軍とか船舶はかならず一人の指導者に従うのである。どのような場合も、指導する意志
は一つに限られねばならない。動物のからだでさえ、独裁君主的体制をもっている。つまり頭脳だけが
すべてを牛耳る支配者、ヘゲモニーを握る指導者なのである。たとえ、からだ全体が存立してゆくには
心臓・肺臓・胃がはるかに寄与するところ多いとはいえ、これら俗人どもに比すべき器官は、なんら指
揮・指導することはできぬのである。それは頭脳だけの問題であり、すべて指揮はただ一つの点から出
発しなければならぬ。太陽系でさえ独裁体制をもっている。これに対し共和体制は人間にとって自然に
もとるものであり、いちだんと高い精神生活、つまり芸術や科学にとっても不都合なものである。以上
すべてのことに応じて、古今東西、全地球上において、文明が進んでいようと野蛮であろうと、あるい
はまたその中間段階にあろうと、いろいろな民族がいつでも君主体制で支配されているのが見いだされ
るのである。
多頭政治は便利なものではない。唯一の支配者、
ただひとりの王があるべきだ。
(ホメロス『イリアス』二の二〇四) 君主体制的本能が人間にもともとあって、ただひとりの人を自分たちにふさわしいものとして君主に
祭りあげるということは、もしなかったとしたら、何百万、いな億という人たちが、あらゆる時代に、
いたるところの国で、たったひとりの男に服従し、ときにはたったひとりの女性、暫定的にはたったひ
とりの子供にさえ唯々諾々として従うなどということが、どうしてありえようか。なぜなら、これは考
えてできたことではないからだ。どこでも王はひとりときまっており、しかも普通は王位は世襲的に継
承される。王はいわば全国民の人格化、あるいは頭文字であり、王において国民は個性をもつようにな
るのだ。この意味で王は「国家、それはわたしである」と言って当然なのである。だからこそシェーク
スピアの歴史劇においても、イギリス王とフランス王はたがいにたんに「フランス」あるいは「イギリ
ス」と呼びかけ、(『ジョン王』第三幕・第一場では)オーストリア公に「オーストリア」の一語で話し
かけているのが見られるのであって、いわばたがいに自分をその国民性の権化と見ているのである。こ
うして君主制はまさに人間の本性に適しているのだ。だからこそ世襲君主は、自己とその家族の安全を
国家の安寧と不可分なものと見るのである。これに反し選挙による首長の場合は、たいがい二つが分か
れるのである――教会国家を見よ。シナ人は君主制しか知らず、共和制がどんなものであるか、ぜんぜ
ん理解できないのだ。一六五八年、オランダ公使がシナに赴任したとき、オランイェ公をオランダ王と
して説明せざるをえない破目になったものだ。そうしないとシナ人は、オランダなど首長をいただかな
いで生活している海賊の巣とでも思いかねなかったからだ。(ジャン・ニュホフ著『シナ帝国派遣諸国
連合東洋商会の使節』ジャン・ル・シャルパンティエ訳、一六六五年ライデン発行、第四五章参照。)
――ストバイオスは「君主政体が最上のものであること」という見出しをつけた独特の一章で、古代人
が君主政体の長所を説明した最上の個所をいろいろと集めている。共和政体はまさに反自然的であり、
人為的にこしらえたもの、反省に由来するもので、したがって全世界史をつうじてまれな例外とし
て出現するだけである。 すなわちギリシアの小型共和国、ローマおよびカルタゴがそれで、これらはす
べてその人口の六分の五、ひょっとすれば八分の七までが奴隷だったという特殊事情がつけ加わる。共
和国アメリカ合衆国も一八四〇年に一千六百万の人口に対し、三百万からの奴隷をかかえていたではな
いか。そのうえ、古代の共和国の存続期間は、王政のそれにくらべれば、非常に短かったのである。
一般に共和政体は打ち建てるのはやさしいが、維持するのは困難であり、君主政体にはまさに逆のこと
があてはまるのだ。
ユートピア的計画を求められるなら、わたしはこう言おう。この問題の唯一の解決は、最も志操の高
い男性たちを最も賢明にして才気煥発の女性たちと結婚させ、生殖の方法によって生みだされた真のア
リストクラシー、生粋の貴族に属する聡明で高貴な人たちが専制政治を行なうことであろう、と。この
提案はわたしの「理想郷」であり、プラトンのそれに相当するわたしの「国家」である。
立憲君主はエピクロスの神々にひどく似ている。すなわち人間界のことには口ばしをはさまず、なん
ら煩わされることのない平安と至福のうちに、上のほうの天国に鎮座ましますのだ。ところが断然これ
がいまや流行となって、ドイツのほうぼうの小粒の君主国に、英国型憲法の真似事が上演され、上院・
下院から人身保護令・陪審制度まですっかりそろえるしまつだ。こうした形式は、イギリスの国民性な
らびにイギリスの事情に由来し、またそれを前提としてはじめて、イギリスの国民には適当なものであ
り、また自然である。それはちょうどドイツ民族には多くの部族に分かれていることが自然なのと同様
だ。ドイツの諸部族は、まことに数の多い、実施に政務をみる王侯のもとにあり、頭には皇帝をいただ
いて、この皇帝は内には平和を保ち、外にはドイツ帝国の統一を代表している。こういう形式がドイツ
民族にとって自然だというのも、それがドイツの国民性とドイツの事情に由来しているからだ。ドイツ
がイタリアの二の舞いを演じたくなかったら、仇敵ナポレオン・ボナパルトによって廃された帝位をで
きるだけ効果的に復権すべきだというのがわたしの意見である。 なぜならドイツの統一はこの帝位にか
かっているのであり、これなしには統一といってもただ名ばかりであるか、あるいはおぼつかないと思
うからだ。といってもわれわれは、皇帝の選挙に真剣にとりくんだギュンター・フォン・シュヴァルツ
ブルクの時代に生きているわけではもはやないから、帝位の冠は一代かぎりの条件でオーストリアとプ
ロイセンに交互に渡すべきであろう。小国家群の絶対主権などというものは、いずれの場合も、絵にか
いた餅だ。ナポレオン一世がドイツに対してやったことは、オットー大帝がイタリアに対してやったこ
と(『略奪されたバケツ』の註解を参照)とまったく同じで、つまり「分割して統御せよ」の原則にも
とづいて、独立した多数の小国に分けたのだ。――
イギリス人が昔からの制度・風習・慣習を神聖なものとして変えず、そのねばり強さを極端に押しす
すめて笑いものになるのも辞さないという点に、彼らの頭のよさが示されている。というのは、こうし
たものはのんびりした頭のなかで孵化されたものではなくて、徐々に周囲の力と生活の知恵から生いたっ
てきたもので、したがって国民としての彼らにうってつけのものだからだ。ところが愚直なドイツ人は
先生から「英国式燕尾服など一着に及んで闊歩しなくちゃだめさ。断然、似合うよ」などと吹きこま
れると、親父の反対を押しきって手にいれたはよいが、まことにぎこちなく、ぎくしゃくとして、その
かっこうは笑止千万なのだ。ところでこの燕尾服というのが田舎者のドイツ人には窮屈きわまるものだ
が、その最たるものが陪審制度だ。これは読み書きができれば死刑も免除されたような未開のイギリス
の中世紀、アルフレッド大王時代からあるもので、刑事裁判で最もやっかいなしろものだ。というの
は、こそどろ・人殺し・ぺてん師がたくらんだ罠や仕掛けを日夜解くことで頭も白くなり、こうして事
件の手がかりをつかむことを覚えた腕ききの学問もある判事にとってかわって、仕立て屋や手袋屋と
いった面々が裁きの席にすわり、その遅鈍・粗野・とんまで不慣れな頭をひねり、それどころか小一時
注意を集中する習慣さえないのに、知恵をしぼって、欺瞞と見せかけの目もくらむような織物のなかか
ら真実を見つけだそうというのだからだ。 おまけにそうしているあいだにも、商売の布地や革のことも
考えねばならず、家へ帰りたくてうずうずしており、いわんや蓋然性と確実性の区別などちんぷんかん
ぷんで、むしろ一種の確率をそのにぶい頭に打ち建て、それによって平然としてひとさまのいのちを断
つのである。彼らにあてはまるのはサムエル・ジョンソンの言葉だ。彼はある重要な問題でひらかれた
軍法会議にあまり信を置かず、こう言っているのだ。すなわち、この軍法会議に陪席した者のうち、お
そらく、ただのひとりも、その生涯において、蓋然性をつらつら考えることでただの一時間も送った者
はあるまい、と(ボズウェル『ジョンソン伝』一七八〇年の記事。ジョンソンの年齢は時に七十一歳)。
しかしこういう連中こそ不偏不党だ、と言う意見もないではない。――あそこにいるあの「あさまし
い民衆」がそうだというのか。まるで一方に偏する執念は、被告と身分の同じ者の場合よりも、被告と
完全に縁のない、まったく別の領域で暮らしている判事、職務の名誉を自覚している解任できない刑事
事件の裁判官のほうがひどいような話ではないか。ところで国家ならびにその首長に対する犯罪や出版
法違反の罪まで陪審制度でさばくなどということは、文字どおり猫に鰹節の番をさせるものだ。
第一二八節
いたるところ、あらゆる時代に、政府や法律や公の機構に対する不満が絶えたことはない。しかしそ
れは大部分、人間の生活に不可分離にくっついてくる悲惨、神話的にいえば、アダムが受けた呪いであ
り、アダムとともに人類全体が受けた呪いともいうべき悲惨を、いつでも政府や法律などのせいにする
からにほかならぬ。しかしそういう誤ったなすりつけを「いまどき」の民衆煽動家以上に、嘘っぱち
の鉄面皮なやりかたでやったものはない。彼らはキリスト教の敵としての楽天主義者なのだ。 世界は彼らにとって「自己目的」であり、したがってそれ自体において、すなわちその自然な性質のうえ
で、完全にすばらしくできあがっているのであり、至福の棲み家である。これを打ち消すような世界の巨
大な禍を、彼らはすべて政府の責任に帰するのだ。政府がその責任さえはたしておれば、地上に楽園が出
現し、万人がなんら苦労しないでもたらふく食い、鯨飲し、おたがいに宣伝しあったうえ、くたばること
ができるというのだ。じつはこれは彼らの称する「自己目的」をわたし流に言いかえたもので、彼らが
はなやかなきまり文句で倦むこともなく唱えている「人類の無限の進歩」の目的とするところなのだ。
第一二九節
昔は王冠を支えるおもなつっかい棒は信仰だったが、いまは信用だ。教皇ご自身でさえ、彼の債権者
が自分を信用してくれることよりも、彼の信者が自分を信頼してくれることのほうがよけい気にかかる
などということは、ほとんどあるまい。昔は世の咎(シュルト)を嘆いていたものだが、いまは世の借金
に目をそそいで、おじけづくのだ。昔は世界最終審判という予言があったが、いまは大がかりな債務の
免除、一般的な国家財政の破綻といった予言がなされる。しかし、自分だけはそういう目に会うまいと
あてにしていることは、まえの場合と同様だ。
第一三〇節
所有権(占有権)は倫理的にも合理的にも生得権とは比較にならないくらいうまく基礎づけられるに
しても、じつはこの二つは親類筋のもので癒着している点がある。だからこれを切り離すと、所有権が
あやしくなる可能性がある。というのは、たいがいの所有は親ゆずりのもので、つまり一種の生得権だ
からだ。現に昔の貴族はその世襲地の名を名乗っていたが、つまり名前でその所有をあらわしていたわ
けだ。――だからすべて有産者は、生得権をもっている人を羨んだりしないで、少し頭を働かせて、生
得権支持にまわるべきだろう。 一面には王の所有権を、他面では王の生得権を支持する助けになっているというのが、貴族がはたし
ている二重の効用である。というのは、王はその国における貴族の筆頭で、したがってまた普通は貴族
たちを身分の低い親戚として扱うのであり、どんなに信任が厚かろうとも、ただの平民とはぜんぜん別
の扱いをするのだ。その祖先がたいがい自分の祖先の第一の奉仕者であり、つねに側近であった者たち
に対して、王がより多く信頼を示すことは、これまた当然・自然な話である。だから貴族がなにか疑い
をかけられて、自分の忠誠と帰依は変わらないと王に誓うような場合に、自分の名を引き合いにだすこ
とも当然である。わたしの読者にはおなじみのことだが、たしかに性格というものは父親ゆずりのもの
だ。その息子であるくせに、そのことを見ようとしないのは、愚かで笑止なことだ。
第一三一節
まれな例外はあるにしても、女はすべて浪費癖がある。だから、彼女らが自分で稼いだといった珍し
い場合は例外として、すべて手もとにある財産は彼女たちの愚かさから守る必要がある。だからこそわ
たしは、女というものは完全に成年に達することなく、いつでも男の監督を受けるべきだという意見
である。現にインドではそうなのだが、その男は父でも夫でも息子でも、あるいはまた国家でもいいの
だ。したがって女は自分で稼いだものでないような財産については、絶対に自分の一存で処理しては
ならぬという考えをわたしはもっている。父親がその子供たちに残した財産の管理役・後見役に母親を
あてるようなことは、わたしはゆるすべからざる破滅的愚行とみなすものだ。父親が子供たちのことを
考えて一生営々と働いて稼いだものを、たいがいの場合、母はその情人といっしょになって使いはたし
てしまうであろう。その情人と結婚してもしなくても、同じことだ。こういう警告はすでにホメロス爺
さんも発していることである。 女心とはどんなものかそなたにはわかっている。
自分をめとったその人の家を富ませたがり、
まえの子供や愛する夫のことは、
死ねばもう思わず、尋ねもしない。
(『オデュッセイア』一五の二〇)
ほんとうの生みの母親であるのに、夫が死んでしまうと継母根性になるひとがよくある。「継父のよう
な」という言葉は絶対に使われないが、「継母のような」という言葉があるように、愛情のない継母は
昔から評判がわるいのだ。しかしヘロドトス(四の一五四)の時代には、母親にも信用があって、掛け
で取引ができたものだ。いずれにしても、女はつねに後見を必要とし、自分が後見役になることは絶対
ゆるせない。一般に夫を愛していなかったような女性は、その子供をも愛さなくなるものだ。つまりた
んに本能的な、精神的に自分のものでないような母性愛の時が過ぎてしまうと、そういうことになるの
だ。――さらに、裁判に対しては、女の証言は、それ以外の状況が同じ場合には、男の証言ほど重んず
べきでなく、たとえば男の証言が二つもあれば、女の証言の三ないし四ぐらいに当たるという意見をわ
たしはもっている。というのは、わたしの見るところでは、女は、ひっくるめて言うと、毎日、男の三
倍ぐらいの嘘をつき、しかもそれが男の場合にはどうしてもうまくゆかないのに、いかにも正直な真実ら
しい趣を呈するからである。回教徒はわたしとはまた違った側で極端だ。教養のある若いトルコ人がい
つかわたしにこう言ったことがある。「わたしたちは女を精子をまく土壌とみています。だから女がど
ういう宗教をもとうと、かまわないのです。わたしたちはキリスト教徒の女のひとと結婚できますし、
しかもべつに改宗を求めることはいたしません」と。回教の托鉢僧も結婚するのか、とわたしが尋ねる
と、彼は答えた。「もちろんですよ。だって預言者マホメットも結婚したじゃありませんか。連中がマ
ホメット以上に神聖になろうなどと望むことは、ゆるされませんよ」と。―― 日曜日なんかなくして、そのかわりに毎日の休息の時間をそれだけふやしたほうが、いいのではある
まいか。日曜日の、寝ている八時間を除いた十六時間は退屈で危険なものだが、せめてそのうちの十二
時間だけでも週の毎日に分けることにすれば、ありがたいことだろう! 宗教的な礼拝には、月曜日の
二時間だけでもたくさんで、それ以上の時間がささげられることはほとんどなく、敬虔な瞑想にふける
時間はさらに少ない。古代人は週末の休みなんか知らなかった。もちろん、こうして得られた毎日二時
間の閑暇を人びとにほんとうにもたせて、ほかのことにふりむけないようにするのは、至難のわざでは
あるだろうけれども。
第一三二節
永遠のユダヤ人アハルフェルスは、ユダヤ民族全体の人格化にほかならない。彼は救世主・世界の救
済者に対してひどい仕打ちをしたため、この地上の生活とその重荷から絶対に解放されず、ふるさとも
なく異郷でさすらうことになったのだ。じっさいこの小さなユダヤ民族が、まことにふしぎなことに
も、その住まいを追われてやがて二千年、依然として存続し、ふるさともなくさまよっていることは、
彼らのあやまちであり運命である。ところで一方、この片隅の民族など、それにくらべれば名をあげる
にも値しないようなじつに栄光にみちた偉大な民族の多くは、すなわちアッシリア人・メディア人・ペ
ルシア人・フェニキア人・エジプト人・エトルリア人などは永遠の眠りにはいって完全に消え去ったの
だ。こうして今日なおこの土地なき民、諸民族のうちで国もなくエホバに嘉せられたこの民族は、どこ
をも家とすることなく、しかもどこをも異郷とすることなく、全地球上に見いだされるのであり、類例
をみない頑固さでその国民性を主張し、それどころか、カナンの地に異邦人として住んでいたが、神が
彼に約束し給うたように、徐々にこの土地全体の主となった(創世記一七の八)アブラハムを忘れるこ
となく、――どこかにほんとうに腰をすえ根をはって、土地を得ようとしているのである。なぜなら土
地がない民族など、宙に浮いたボールのようなものだからだ。 ユダヤ民族は今日まで他の民族とその土地に寄生しているが、それにもかかわらず自国民に対する旺
盛な愛国心をもってこり、一人のユダヤ人はすべてのユダヤ人に代わり、すべての者がまた一人に相当
するといったきわめて頑固な団結で、天下にそれを示している。したがってこの祖国なき愛国心は、他
のどういう愛国心よりも熱狂的な働きをするのだ。ユダヤ人の祖国は他のユダヤ人すべてであり、それ
ゆえ彼はユダヤ人全体のために、「祭壇と炉辺とのために」、つまり彼らの宗教と祖国のために戦うの
であり、地上のどのような共同体もその団結において彼らにまさるものはない。このことから判明する
ことは、ある国家の政府あるいは行政にユダヤ人があずかることを容認しようなどということが、いか
に不条理かということだ。この場合、もともと彼らの国家と融合一致しているその宗教が主要な問題点
となるのではなくて、むしろ彼らを結びつけている靭帯、彼らがおたがいにそれによって仲間を見わけ
る集合地点と軍旗が問題なのだ。宗教が問題点でないことは、普通の背教者ならばほかの人たちの憎悪
と嫌悪を自分一身にかぶるのに、キリスト教に改宗して洗礼を受けたユダヤ人ではそういうことは絶対
になく、むしろ普通は、こちこちの正統派を除いて、改宗者も依然として昔どおりの友であり仲間であ
ることに変わりはなく、改宗者もほかの人たちを真の同国人として見ることをやめないということでも
わかるのである。それどころか、ユダヤ人が定時に祈祷をささげるには十人集まる必要があるのだが、
そういう祈りに一人欠けた場合でも、改宗したユダヤ人ならばその代理をつとめることがゆるされる
が、ほかのキリスト教徒は絶対に代行できないのだ。こうしたことは、ほかのすべての宗教的行事につ
いてもあてはまるのである。かりにキリスト教が凋落してなくなったと仮定すると、この事態はいっそ
うはっきりしてくるだろう。つまりそうなってもユダヤ人たちはユダヤ人どうしで集まり一致団結する
ことをやめないだろうからである。したがってユダヤ人をたんに宗教的なセクトと見ることは、きわめ
て皮相な誤った見方だ。 いわんやこの誤りを押しとおすために、ユダヤ教を、キリスト教会から借りて
きた言葉で「ユダヤ的宗門」などというのは、故意にひとを誤らせることをねらった根本的にまちがっ
た表現で、断じてゆるすべきではない。むしろ「ユダヤ国民」というのが当たっているのだ。ユダヤ人
には宗門などというものはない。一神論は彼らの国民性と国憲の一部なのであって、ユダヤ人には自明
のことなのだ。まちがいなくわかってもらいたいが、一神論とユダヤ国民とは、そのまま取りかえるこ
とのできる相関概念なのだ。――ユダヤ人の国民性につきものの周知の欠点はかずかずあるが、なかで
もいちばん顕著な欠点は「内気」という言葉で表現されるいっさいのものを奇妙に欠いているという
ことだ。もちろんこれは一種の欠如であるが、それでもおそらくなんらかの積極的特性よりも、世間
を渡ってゆくには助けになる欠如である。わたしが言いたいことは、こうしたかずかずの欠点は主とし
て彼らが受けた長期にわたる不当な弾圧のせいであり、恕すべき点はあるにしても、欠点でなくなるわ
けではないということだ。古くさい寓話・ごまかし・偏見を捨てて、洗礼を受けることによって、名誉
も利益ももたらさぬ(例外的には利益がある場合もあるが)彼らの仲間社会から脱出する理性あるユダ
ヤ人を、わたしはだんぜん賞讃せざるをえない。その場合、キリスト教的信仰に対して非常にまじめで
なくてもかまわぬのだ。だって、若いキリスト教徒が堅信礼のさいに「わたしは信じます」で始まる信
仰箇条をのべるとき、だれも彼もが大まじめとはかぎらないではないか。しかしユダヤ人にこういう改
宗手続きをとらせることなく、この悲喜劇的な奇態な制度全体に世にもなごやかな行き方で引導をわた
す最良の方法は、ユダヤ教徒とキリスト教徒間の結婚をゆるすこと、それ以上に奨励することだ。この
ことに対しては、キリスト教会としては、使徒自身の権威の裏づけ(「コリント人への第一の手紙」第
七章一二〜一六)もあるから、なんら異議を唱えることはできないのである。こうして百年以上もたて
ば、ユダヤ人など影もうすくなって、やがては亡霊も完全に祓われ、アハスフェルスも埋葬されること
になって、選ばれた民自身が、どこにそういうものがいたか、わからなくなるだろう。 しかしユダヤ人解放を極端に押しすすめて、彼らがキリスト教国の行政にあずかるようになれば、この願わ
しい結果も水泡に帰することになろう。なぜなら、そうなれば彼らはいよいよ「愛着をもって」ユダヤ人で
ありつづけるであろうからだ。彼らが他の人びとと同様、同じ市民権をもつべきことは、正義を求めるとこ
ろである。しかし彼らに国政に参与することを容認するのは、馬鹿げている。彼らはいつまでたっても異
質の東洋民族であり、したがってつねに定住した外国人とみなされねばならぬのだ。約二十五年まえ、イ
ギリスの議会でユダヤ人解放問題が論議された折り、ある代議士は次のような仮説的場合をあげた。あ
るイギリスのユダヤ人がリスボンへやってきて、二人の男がひどい窮境におちているのに出会った。し
かし彼には二人のうち一人しか助ける力があたえられていないとする。個人的にはふたりとも彼には縁
のない者とする。しかしひとりはイギリス人でキリスト教徒であり、もうひとりの男はポルトガル人で
ユダヤ人であったとする。どちらを彼は助けるだろうか、というのである。――どういう答えが出る
か、分別に富むキリスト教徒でも、正直なユダヤ人でも、だれひとりとして疑うことはあるまいとわた
しは思う。しかしこの答えこそ、ユダヤ人にどういう権利を認めていいかの尺度をあたえるものだ。
第一三三節
どのような事件でも、宗教が直接また顕著に、実践的・物質的生活に食いこんでくることは、誓いの
場合にまさるものはない。宣誓によって、甲の生命および財産が、乙の形而上学的信念によって左右さ
れるようになるのは、まことに始末のわるいことだ。将来いつか、そういう心配がないわけではない
が、宗教という宗教がすべて凋落して、あらゆる信仰がなくなったとしたら、誓いはいったいどうなる
だろうか。―― したがって、誓いというものに、純道徳的な、あらゆる既成宗教とは無関係な、しかも
明確に概念化できるような意味があるかどうかも研究してみることは、おそらく骨折りがいのあること
だろう。たとえそういう意味が、宗教的誓いの華麗で力強いのにひきくらべ、いくらか貧弱で無味乾燥
であろうとも、これこそ純金でできた神聖このうえないものとして、例の世界的教会炎上をも切りぬ
けうるものであろう。
誓いの明白な目的は、たんに道徳的な方法では人間があまりにしばしば嘘をつくところから、真実を
申し述べますと、宣誓者自身が認めているその道徳的義務を、ここに加わってきた、ある並々ならぬも
のを考慮にいれることで、高めると同時に、いきいきと自覚させることによって、嘘をつくことを防止
することにある。わたしはここでわたしの倫理学に従って、いま述べた例の義務を強調することが純道
徳的な、あらゆる超越と神話的要素にかかわらない意味をもつことを明確にしようと思うのである。
わたしはわたしの主著・正編・第六二節三八四頁(第三版四〇一頁)で、さらに詳細には『道徳の基
礎について』の懸賞応募論文、第一七節二二一頁より二三〇頁(第二版二一六頁より二二六頁)で、あ
る場合には人間に嘘をつく権利があるという、あの逆説的ではあるが真実な命題をうちたて、徹底的な
説明と論証によって、これを基礎づけたのであった。嘘をついていい第一の場合は、正当防衛と同じよ
うに他人に暴力をふるっても文句を言われないときであり、第二の場合というのは、みだりに質問をう
けて、その返答をことわっても、また正直に返事をしても、いずれも自分の不利を招くような場合で
あった。以上のような場合には、嘘をつく権利が議論の余地なく発生する。 それゆえ、重要な事件の決定がその人の申し立ていかんで左右される場合、あるいはその約束を履行することが
重要な意味をもつ場合には、本人が正当防衛はこの場合存在しないことを承認すること、すなわち他から暴力を
加えられたり暴力でおびやかされることなく、正義が行なわれるということを洞察し心得ていること、同様に自
分に差しだされた質問がたしかに然るべきものであることを承認すること、最後にまた、この質問にかんする自
分の現在の申し立てですべてが左右されることを知っているということをまず力強く厳粛に宣言する必要がある。
この宣言は、そういう事情で嘘をつく場合には、はっきり自覚したうえで、不正を犯すことになるということを
含んでいる。なぜならその人が正直であると信頼されたうえで、正・不正いずれの場合にも使えるような完全な
権力を渡された人として宣誓者は立つからである。そうなってもまだ嘘をつけば、自由な権力を持っている場合
には、冷静に熟考したうえでも、その権力を不正なことに使うような仲間のひとりになるという明確な自覚を本
人はもっているわけである。偽誓はその当人に自分自身についてこういう人物証明書をあたえることになるのだ。
ここにさらに次の事態が結びつく。どのような人もなんらかの形而上学的欲求をもたないわけにはいかないから、
たとえはっきりしなくても、だれでもいだいている確信がある。それは、この世はたんに形而下的意味をもつば
かりでなく、同時に形而上学的意味をもつということだ。したがってわれわれの個人的行動はたんにその道徳
性による結果をもつばかりでなく、経験的世界において他に及ぼす結果以上に、はるかに重要な、ぜん
ぜん別種の結果をもつのであり、したがって真に超越的な意味をもつということである。この点にか
んしては『道徳の基礎について』のわたしの懸賞応募論文の第二一節を指示するにとどめ、ただひとこ
と、自分の行為に対して経験界に限られる意味以上になんらの意味はないという人は、こういう主張自
体にかならず内的矛盾を感じ、自分に強制を加えざるをえない羽目になるだろう、ということを付言す
るにとどめる。 さて、誓いの要請によってわれわれは、はっきり次の立場に立たされる。つまり自分が、
右に述べたような意味で道徳的存在であり、そういう性質のうえで自分のあたえる決定が自分自身に
とって非常に重要なものだということを自覚せざるえないということだ。誓いを立てたいまは、それ
以外のあらゆる顧慮は完全に姿を消すまでに委縮せざるをえないのである。――このようにしてかきた
てられた確信が、われわれの存在には形而上学的であると同時に道徳的な意味があるということを、た
だぼんやり感じとっただけにしても、あるいはまたそれがいろいろな神話や寓話の衣裳をつけていて、
そのためにいきいきしていようと、あるいは明晰な哲学的思惟になっていようと、この場合には非本質
的なことである。以上のことから帰結することは、誓いの形式があれやこれやの神話学的関係を言いあ
らわすにしろ、あるいはまたフランスで行われているように「わたしいはそれを誓います」という完全
に抽象的なものであろうと、本質的には問題にならぬということだ。誓いの型は、宣誓者当人の知的教
養の程度に従って選ばれねばなるまい。現にそれはその人その人の既成宗教的信仰によって、違った型
が選ばれているのである。問題をこのように見れば、宗教を信じない人でも、宣誓の場に立つことが許
されてよいわけになろう。 >>269
『意志と表象としての世界』か『随想録』 性の名誉については、もっときめのこまかい観察が必要であり、この名誉の原則を根本までさかの
ぼってしらべてみる必要があるように思われる。そうすると、もともとすべての名誉は、役に立つかど
うかという考慮に最終的には依存していることが確かめられる。
性の名誉は、その性質にしたがい、女の名誉と男の名誉に分けられる。そしてこれらは、男女両性の
側から自明の理とされる「団体精神」である。前者は後者よりもはるかに重要である。それは女性の
生活にあっては性関係が眼目だからである。――女の名誉について一般には、娘はいかなる男にも身を
まかせないこと、妻はおのれのつれあいだけに献身することにあると考えられている。この見解の重要
性は次の点にある。女性は男性からすべてを、すなわち、女性が欲し使用するものすべてを求め、期待
している。いっぽう男性は女性から、まず、直接的にただ一つのことを求めている。したがって、男性
は女性からこの一つのことを獲得できるかわりに、すべてに対する配慮を、とりわけ女性との結婚から
生まれでてくる子供たちの面倒をみることをひきうけるような仕組みがつくられなければならない。こ
の仕組みに全女性の幸福が依存している。この仕組みを確立するために全女性はかならず結束し、「団
体精神」を証明しなければならない。だが一団となって結束した女性は、もともと心身ともに力でま
さっているためこの世の財貨のすべてをわがものとしている男性を、共通の敵として打ちやぶり征服し
なくてはならぬ。そして、男性の所有物をわがものとすることによって、この世の財貨のすべてを手に
入れなくてはならない。この目的のため、結婚する以外に男に身をまかせてはならないというのが、す
べての女性にとっての名誉の格率である。こうして女性はだれでも一種の降服である結婚を強いられる
ことになるが、このしきたりによって全女性は扶養を受けることになる。だがこの目的は例の格率をき
びしくまもることによってだけ完全に達せられる。そこで全女性は真の団体精神に燃えて、同性の者す
べてがこの格率を遵守するよう監視する。 そうした事情から、婚外交渉をして全女性に裏切り行為をし
た娘は、もしこうした行為が一般化すると全女性の安寧はそこなわれるという理由から、全女性から排
斥され汚名をかぶせられる。こんな娘は名誉を失ったのだとされる。この娘はどの女性も交際するこ
とは許されない。彼女はまるでペスト患者のように避けられる。同じ運命は姦通した女にもふりかか
る。それはこうした女が、夫に対し行なった降服条件を守らず、こうした例を示すことによって男性
を結婚から尻込みさせるようになるからである。なんといっても結婚に全女性の安寧が依存しているの
だ。だから姦通した女はそのうえ、誓いの言葉を破り、行動をつうじて人をあざむいたために性の名誉ば
かりか、市民の名誉も失う。こうしたことから、かんべんしてやるという意味あいを含めて、「転落し
た娘」という表現が用いられるけれども「転落した妻」とはいわれない。誘惑者は、「転落した娘」の
名誉を結婚をつうじて回復させることはできる。だが姦通した男は、たとい相手の女が離婚したあとで
結婚しても、女の名誉をもとに戻すわけにはいかない。――こうしたいきさつをよく頭に入れ、たしか
に有益なばかりか必要な、それでいてじゅうぶんに計算ずみの、利害にもとくく「団体精神」を女性の
名誉の基礎として認めるならば、女性の生存にとって最も重要であり、絶対的とはいえないまでも相
対的に生とその目的をしのぐほど強力であり、生そのものと引きかえにされるほどの価値を、この団
体精神に与えることになるだろう。こうしたことからすれば、あまりにもはりつめ、悲劇的茶番にまで
変質してしまったルクレティアやウィルギニウスの行為を賞讃することはできないだろう。じつにこう
した点からしても、エミリア・ガロッティの結末はあまりにも不快なものであり、観客はすっかり沈黙
したまま劇場を去ることになる。これに反し、性の名誉が何をいおうと、『エグモント』のクレールヘ
ンには同情せざるをえない。女の名誉原則もあまりにも極端に走ると、他の多くの原則同様、手段のた
めに目的を忘れることになる。 それというのは、本来ならば性の名誉は、他のすべての名誉より以上
に、たんに相対的な価値をそなえているだけにもかかわらず、あまりにも過大に考えられるために、絶
対的価値ありとされるようになるからである。いや、そればかりではない。トマジウスの『畜妾論』を
ひもとけば、性の名誉などは単なる慣習的なものだということができよう。『畜妾論』によれば、マル
ティン・ルターの宗教改革まではほとんどいつの時代でもいかなる国でも畜妾は法律的に許され、容認
された制度であり、おめかけさんもそれなりの名誉をもっていた。このさいバビロンのミリッタ(ヘロ
ドトス、一の一九九)のことまで言及する必要はあるまい。もちろん、とくに離婚が行なわれないカト
リックの国々では、結婚という外的形式を不可能とする市民の制度が存在する。だがわたしの考えによ
ると、いやしくも支配する君主たるものは身分の低い家柄の娘と結婚するよりは、側室をおいたほう
がはるかに道徳的に行動することになる。いちど娘を王侯の奥方にまつりあげた家からは、時代が移っ
て王侯の嫡流の子孫が死に絶えたとき、王位継承権を主張する者が現われる。そのため、たしかにきわ
めて遠い因縁にはちがいないけれども、こうした身分違いの結婚から内乱が起こる可能性もある。それ
にもともと身分違いの結婚、すなわち、すべての外的な事情にもかかわらずこれを無視して結ばれた結
婚は、もとを正せば、できるだけ譲ることのないよう配慮すべき二つの階層である女と僧侶に大きな譲
歩をすることになる。さらにどの国でも、男はだれでも好みの女と結婚できるにもかかわらず、一人だ
けはこうした自然の権利を奪われている。その一人とは、哀れな君主であるということを考えに入れて
おく必要がある。君主の手は国に属しており、その手には、国家理性つまり国の福祉にあうかどうかに
よって妻が与えられるのだ。だがそうはいっても君主も人間であり、いつかはおのれの心の好みに応じ
て生きたいと思う。こうしたことからも、君主が愛妾をかかえるのを拒んだり、畜妾を非難するのは不
公平であり、君主に報いる道でもなく、さらにあまりにも偏狭な態度である。 もっともその場合、愛妾が政治に嘴を入れないということが前提となっていることはいうまでもない。
いっぽうこうした側室たちは、性の名誉については例外的な存在であり、一般的法則から除外されている。
なぜなら彼女たちは、自分たちとしても愛しているし相手からも愛されてはいるものの、けっして相手に
結婚してもらうことはできない男だけに身をささげているからである。――だが一般的に、女の名誉原則
がけっして純粋な自然な源から出たものではないことは、この原則がもたらした数多くの血なまぐさい
犠牲――嬰児殺しや母親の自殺――が証明している。それはともかくとして、法に即さずに身をささげた
娘は、同性全体に対し背信したことになる。ただしこの場合の貞節は、ただ暗黙のものであって、決して
口に出して誓われたわけではない。そしてふつうの場合、問題の娘の利益は最も直接に被害を受けること
になるのだが、それも、彼女が悪いというよりは、彼女があまりにも愚かだったからである。
男性の性の名誉は女性の性の名誉から派生するのだが、女のそれとはまったく対立した「団体精神」
に依存している。この団体精神は、相手がたにとって有利な降服条件、つまり結婚生活にはいった者は
だれしも妻が結婚の掟を厳守するよう監視することを求めている。それは結婚の掟がなおざりにされ裂
け目が生じてくるうちに、いつのまにかいかげんな結びつきに変化し、男たちがそのすべてを犠牲に
することにより代償として受けとるもの、すなわち妻を独占することすらあぶなくなるようなことが起
きないためである。したがって男の名誉は、妻の不貞を罰すること、すくなくとも離婚によって妻をこ
らしめることを求めている。妻の不貞を知りながらそれをこらえている夫は、仲間の男たちから誹謗さ
れる。そうはいってもこうした男の恥は、性の名誉を失った女がこうむるほど根の深いものではなく、
むしろ「あまり意味のない汚点」にすぎない。なぜなら男というものは、性的な事柄よりも他のもっと
多くのたいせつな事柄にかかわずらっており、性的な事柄は第二義的なものだからである。近世の二人
の偉大な詩人が、ともに二度にわたって男の性の名誉のテーマをとりあげた。 すなわちシェークスピアが『オセロ』と『冬物語』で、カルデロンが『おのれの名誉の医師』と『秘められた
恥辱には、秘めら れた復讐を』を書いている。それはそれとしてこの名誉は、女を罰することだけを求めており、
単なる 「余分の行為」をしただけの間男の処罰を求めていない。このことからも、この男の名誉の源は男の
「団体精神」であるという仮説の正しさが証明される。―― 日本を訪れた次のアメリカ船乗組員の発言は、彼が人類はすべて純粋のユダヤ人からなる
にちがいないと割りきっている単純さのために、なかなか愉快である。一八五四年十月十八日付の
「タイムズ」紙は、バー船長が乗るアメリカ船が江戸湾に着いたところ日本人から歓迎されたことを
伝えたあと、最後に次のように述べている。
「彼も日本人が神の存在を否定し、礼拝の対象として都にいる精神的皇帝あるいは他の日本人を選
んでいることを理由に、日本人は無神論の国民であると主張する。彼は通訳から、以前には日本人の
宗教は中国の宗教と類似していたが、最高存在に対する信仰は最近まったく消滅した。自分は神を信
じていると《アメリカ化した日本人》が宣言するのをきいて、彼らは衝撃を受けていると聞かされた、云々。
アルトゥール=ショーペンハウエル著『意志と表象としての世界』 動物磁気と魔術
一八一八年、わたしの主著が刊行されたころ、動物磁気ははじめておのれの存在を確保したば
かりであった。しかしこの現象の説明にかんして、たしかに消極面では、つまり患者がどのよう
なありさまになるかについてはいくらかはっきりしてきた。それというのも、ライルが強調した
大脳組織と神経組織の対立が、説明のための原則とされたからである。これに反し、積極面、つ
まり磁力所有者という治療師にこうした現象を起こさせる動因は、いぜんとしてわからないまま
である。そこでありとあらゆる物質による説明原則がさがしだされた。そのなかには、メスマー
のいう万物に浸透する世界エーテル、シュティーグリツが原因としてかかげる磁力所有者の皮膚
からの発汗などが含まれた。それに、神経霊なども説明原則にされたが、これなどは、たんにわ
からない事柄につけられた名称にすぎない。たといこの道に熟練した人の実際のやり方を知った
としても、やっと真相がわかりはじめたというだけのことである。しかしわたしは、こうした磁
気現象から、わたしの学説の直接の保証を得ようなどという気持ちはさらさらない。
しかし「過ぎ去った日は、これから来る日を教える」ということもある。あの当時から、偉大
な師である経験は、例の現象の深奥にひそむ動因はじつは磁力所有者の意志にほかならないこと
を明らかにした。――もともと磁力所有者から発生した現象は、法則どおりの自然の経過にあま
りにも反する結果を生むために、これはおかしいという疑いがもたれ、絶対に信じないとする者
が出てきたばかりか、かのフランクリンやラボワジエを委員とする委員会によって断罪された。 もっとも、この動物磁気に対抗して、第一期および第二期に行なわれたことはすべて、完全に許
容されるべきものであろう。(ただし、イギリスでつい最近まで猛威をふるった、調査ぬきの粗暴
かつ馬鹿げた断罪は別である。)ともかく今日では、洞察をもって治療にあたる者のなかで、現
象の動因が磁気所有者の意志であることについて疑いをさしはさむ者はいないとわたしは信じて
いる。したがって、このことを確証する磁気所有者の無数の発言を例挙するのは余計なことであ
ろう。「欲せよ、そして信ぜよ!」というピュイセギュールおよびフランスの古い磁気所有者の
解答は、たんに時を経ても正しさを保っているばかりでなく、現象自体についての正しい洞察に
まで発展した。キーザーの『大地主義』は動物磁気についての最も基本的かつ詳細な教科書だ
が、この本は、磁気の動きが意志なくしては生起しえないこと、これに反し意志は外的行為なく
してもあらゆる磁気的作用を起こすことができることを、じゅうぶんに指摘している。触診は意
志行為とその方向を固定し、いわば具体化するための一手段にすぎないように思われる。この意
味でギーザー(『大地主義』第一巻三七九頁)は次のように述べ江いる。「人間の行為する活動
(つまり意志〔ショーペンハウアー〕)を最もはっきり表現する器官としての人間の手が、磁気をか
けるさいの活動する器官であるかぎり、磁気的な触診が発生する。」この点については、いっそ
う正確にフランスの磁気所有者ド・ローザンヌが、『動物磁気年刊』一八一四〜一六年・第四刷
のなかで、次のように述べている。 .
@@@@@@@@
@@@@@@@@@@
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@@@@,、 _, ' '、_ } / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
@@@ `´ `i < 朝から晩までオナニーやってないで 働いておくれよ
@@(6 ,(oo)、 } \_________
/ /-===-、 i
/ \ 、ヽ ヽ こ ノノ
/ ` ー-- ' \
かあちゃん 「磁気所有者の活動は、もちろんただ意志によって拘束され
ている。しかし人間は外的な知覚できる形態をもっている以上、人間の使用に供せられるものす
べて、人間に作用するものすべてが、やはり外的な知覚できる形態を必ずもっていなくてはなら
ない。しかも意志が作用するためには、意志は一種の行為を利用しなくてはならない。」わたし
の学説にしたがえば、生体は意志の単なる現象、可視性、客体化、すなわちもともと頭脳のなか
に表象として直観された意志そのものである。したがって、触診という外的行為は内的な意志行
為と一致する。したしたとい触診が行なわれないとしても、同じことを迂路をつうじて人工的に
生起させることができる。空想が外的行為を、ときには人の存在を代用することもあるのだ。し
たがって触診なしで事を行なうのはずっと困難であり、めったいに成功しない。こうした事情から
してキーザーは、夢遊症患者に向かって、大声で「眠りなさい!」あるいは「そうしなくちゃい
けない!」と叫ぶほうが、磁気所有者の単なる意志よりも強力に作用すると述べている。――こ
れに反し、触診や外的行為一般は、もともと、磁気所有者の意志を固定させ活動させるうえで、
誤つことのない手段であう。それというのも、身体やその器官は意志の可視性自体である以上、
意志のまったくない外的行動などはありえないからである。このことからして、磁気所有者がと
きには、意識された意志の努力もなくほとんど無考えに磁気療法を施しても効果を生むことが説
明できる。一般に、磁気的に作用するのは、意志の意識や、それについての反省ではなく、純粋
にすべての表象からできるだけ分離された意志そのものである。したがってキーザーが書いた
(『大地主義』第一巻四〇〇頁以下)磁気所有者のための規則のなかにも、医師および患者が両者
の行為や苦しみについて行なうすべての思考や反省、もろもろの表象がよび起こすあらゆる外的
な印象、医師・患者間のあらゆる会話、あらゆる第三者の介在、それに日光のはいることなどが
はっきりと禁止され、すべてが、共感治療についてもあてはまるように、できるだけ無意識に行
なわれるよう奨められているさまがうかがわれる。 これらすべてについての真の基礎は、ここで
は意志がその本源性において物自体として活動しており、意志からは異なった領域にある第二次
的なるものとしての表象ができるだけ除外されることが要求されている。磁気をかけるにあたっ
てもともと作用するのは意志であり、あらゆる外的な行為は、意志の運搬具にすぎないという真理
を事実のうえから裏づけするものは、磁気に関する最新・良質のすべての著作のなかに見いだ
される。このことをここで繰り返すのは、不必要な脱線であろう。それでもわたしは、そのうち
のひとつを掲げておくことにする。それというのも、この文献がとくに異常だからではなく、意
外な人によって書かれており、そうした人の証言として独特の関心がもたれているからである。その
人とはジャン・パウルである。彼はある書簡(『ジャン・パウルの生活の真相』第八巻一二〇頁
に転載されている)のなかで次のように述べている。「わたしはある大きな会合でK夫人を、だ
れにも悟られないうちにたんに意欲をこめて見ただけで眠らせてしまった。しかもそれ以前に、
K夫人は動悸がしたうえに顔面蒼白となり、S氏が助け舟を出さなくてはならなかった。」今日
でも通常の触診では、患者の手をたんにつかんで保ち、それとともに患者をじっと見つめる方式
が大きな成果をあげている。それというのも、こうした外的な行為が、意志を一定の方向に固定
するのに適しているからである。だが、意志を他人に向かって行使しようというこうした直接の
力を、他のだれよりもまずデュポテ氏とその弟子たちが、奇妙な実験をつうじて明らかにした。
デュポテ氏らは、さらにパリで公開実験を行ない、その間に彼は、いくらかの身ぶりに支援され
た単なる意志によって、縁もゆかりもない人間を思うがままに操縦し、さらには、こうした人び
とに前代未聞の奇妙な体形をとらせるにいたった。このことについての簡単の報告を、一見した
ところきわめてまじめに作成されたカール・ショルの小著『磁気の奇妙な世界への最初の一瞥』
(一八五三年)が行なっている。 いま問題にしていることの正しさを別な角度から保証するものに、『ドレースデンにおける女
夢遊症患者アウグステ・Kにかんする報告』(一八四三年)がある。アウグステは、五三頁で次
のように述べている。「わたしは半分眠っていた。弟が彼の得意な曲を演奏しようとした。しか
しその曲はわたしの気に入らなかったので、わたしは彼に演奏しないように頼んだ。それでも彼
は演奏しようとした。そこでわたしがこれに反抗する賢固な意志をかためたところ、弟はいくら
努力しても、問題の曲を想起することができなくなった。」――しかしこの意志の直接の力は、
生命のない物体にまで及ぶときに最高潮に達する。このことはたしかに信じられないように思わ
れるけれども、ぜんぜん別の方面から伝えられたこれにかんする二つの報告がある。すなわち、
いま紹介した『アウグステ・Kにかんする報告』の一一五、一一六、および三一八の各頁はでは、
証人の引証つきで次のようなことが述べられている。アウグステというこの女夢遊症患者は、磁
石の針をいちどは七度、つぎは四度、四回にわたってくりかえし動かしていたが、そのさい彼女は手
をいっさい用いず、単なる意志の力で、眼を針に注ぐだけで、こうしたことをやってのけたので
ある。――つぎにイギリスの雑誌『ブリタニア』は、一八五一年十月二十三日付の『ガリニャー
ニ通信』にのった次のような記事を紹介している。パリから来た女夢遊症患者プリュダンス・ベ
ルナールは、ロンドンで開かれた公式会議の席上、たんに彼女の頭をあちこちに回すだけで、磁
石の針をそうした頭の動きをそのままに運動させた。そのさい物理学者の息子であるプリュースタ
ー氏と、観衆のなかの二人の紳士が、みずから審査委員の役にあたった。 わたしが物自体、すべての存在における唯一の現実、自然の中核としてかかげた意志が、人間
個人から出発して動物磁気のなかで、さらにはこれを越えて、因果の結合すなわち自然の法則に
よっては説明できないようなこともなしとげるばかりか、自然の法則をいわばご破算にして、現
実に遠隔への作用を行ない、それとともに超自然的な、つまり自然に対する形而上学的支配を行
なうことを、われわれは考察してきた。したがってわたしはこれ以上に、わたしの学説を事実の
うえではっきり裏づけするものを望むことができない。そればかりか、磁力所有者のソパリ伯爵
は、疑うまでもなくわたしの哲学についていっさい知らず、おのれの経験を積み重ねてゆくうち
に、『動物磁気、魂の身体、および生の精髄』(一八四〇年)という自著の題名を説明するため
に、次のような熟考すべき言葉をつけ加えた。「本書の副題はいうなれば、動物磁気の流れはす
べての精神的・肉体的な生の要素であり意志であり、原理であることを物理学的に証明するものと
いうことになろう。」――こういうわけで、動物磁気はまさに実用的形而上学として登場する。
すでに、ヴェルラムのベーコンも諸科学を分類するにあたって(『学問の一大改革』第三巻)、魔
術を、この種のものとして記述した。魔術は経験的あるいは実験的な形而上学ということにされ
たのだ。――さらに動物磁気においては、物自体としての意志が登場するために、単なる現象に
属する「固体化の原理」(空間と時間)はやがて適用しなくなり、個人を分かつ境界は突破される。
磁気所有者と夢遊症患者とのあいだでは、空間はなんの境界でもない。思考および意志運動の共
通性が登場する。透視の状態は単なる現象に属し、空間と時間によって制約された関係である遠
近や、現在と未来を超越する。 このような事実があるために、まったく正反対の主張や偏見があるのにもかかわらず、動物磁
気とその現象はかつての魔術の一部と同じであるという意見が出てきたばかりか、これは確実な
ことだとされるようになった。もともと魔術は悪名高い秘儀で、これをきびしく迫害したキリス
ト教成立後の各世紀ばかりではなく、未開人をも含めた地球上の全民族によって、あらゆる時代
をつうじて信奉されて伝えられてきた。しかも魔術の悪用を、ローマ人の十二表、モーセの五
書、それにプラトンの『法律』第一一章さえ、死罪に値するとしている。アントニウス治下の最
も啓蒙された時代のローマでも魔術がいかに大まじめに受けとられていたかは、アプレイウスが
自分に向けられた、彼の生命をもおびやかす魔術師という訴えに対して法廷で行なった、美しい
自己弁護の言葉が証明している(『魔術についての弁明』ビポンティウム版一〇四頁)。この弁明
のなかで、彼は、おのれに向けられた非難を取り除こうとけんめいに努力したけれども、魔術の
可能性をいっさい否定せず、むしろ中世の魔女裁判で行なわれるのを常としたように、ばかばか
しいほど微に入り細をうがった話をした。ただ十八世紀のヨーロッパだけが、こうした魔術信仰
について例外を形づくっている。しかもそれは、バルタザール・ベッカー、トマジウス、それに
他のいくたりかの人びとが、残忍な魔女裁判を一掃しようという善意から、あらゆる魔術は不可
能であると主張した結果である。十八世紀の哲学にも認められたこうした考えは、学者や教養あ
る階層の人びとの支持を得ただけである。民衆が魔術信仰をやめなかったばかりではない。とく
にイギリスでは、動と反動の法則、酸とアルカリについての法則をこえるようなすべての事実を
とり扱うにあたって、教養ある階層の人びとは、宗教問題についての彼らの品のない炭鉱夫なみ
の信仰と、トーマスあるいはトマジウス流の抜きがたい不信仰とを結合させた。 動物磁気は本当にあるね。エナジーヴァンパイアも昔からあるね。
これ全部魔術だから。 そして彼らは、天上・地上には彼らの哲学が夢想する以上のものがあることを偉大な同国人にはっ
きり語らせようとはしなかった。――往時の魔術の一部は、民衆のあいだではいまでも大っぴらに、
毎日実施されている。こうした魔術は福祉に役立っている。つまり感応療法に使用されているが、
この種の治療の有効性については疑う余地がない。最も普通に実施されているのは疣の感応療法で、
これが効果があることを、慎重で経験的なヴェルラムのベーコンも、すでにおのれの経験にもと
づいて確証している(『森また森』第九九七節)。さらにこれは顔面に生ずる丹毒の治療にもしば
しば効果的であるために、これなら大丈夫という確信をもつことができる。また同様に発熱のさ
いの治療にも成功した例がある。――このさい本源的な動因となるものは無意味な言葉や儀式で
はなく、磁気療法のときと同じく治療にあたる者の意志であることは、すでに磁気について述べ
てきた以上、詳細な説明を必要としないだろう。感応療法の実例は、この種の治療となじみのな
い人でも、キーザーの『動物磁気のための記録』第五巻・第三冊一〇六頁、第八巻・第三冊一四
五頁、第九巻。第二冊一七二頁、それに第九巻・第一冊一二八頁に見いだすことができる。『感
応的手段と治療について』(一八四二年)と題するモスト博士の著書も、この問題と、当面なじ
みになるうえで役立つ。――したがって、動物磁気ならびに感応療法という二つの事実は、経
験のうえから、物理的なるものとは対立する魔術的作用の可能性を確証してくれる。前世紀にお
いては、物理的なるもの、すなわち把握できる因果の結びつきから導かれた作用以外のものが
まったく承認されなかったために、魔術的作用は決定的に非難された。 現代になって行なわれたこの種の見解の修正が薬学からはじまったことは、幸運であった。な
ぜならこのことは同時に、意見の振り子が、まったく逆の方向にむかう強い衝動を再びもつこと
はなく、われわれが粗野な時代の迷信にまたもや投げ入れられることがないことを保証している
からだ。しかも、よくいわれているように、動物磁気ならびに感応療法によってその有効さが救
いだされたのは、魔術のなかのごく一部分である。同じ魔術といっても数多くある。その大部分
はさしあたり、昔と同様に有罪の判決を受けたままであるが、それとも死滅したものとみなされ
る。しかし他の一部は、動物磁気と類似していることからも、少なくともありうることだと考え
なくてはなるまい。ということは、動物磁気と感応療法は、治療を目的とする福祉的な作用を及
ぼすのだ。これらの作用は、魔術の歴史のなかで、スペインでいわゆる「サルダドレス」の仕事
として出現したもののやはり教会の有罪宣告をうけた作用と類似している(デルリオ『魔術論』
第三巻二〜四頁および七頁およびボディヌス『悪魔の魔術』第三巻・第二章)。これに反し、魔
術は、ずっとひんぱんに、腐敗した意図のもとに利用されてきた。類比推理をした結果によれ
ば、他人に直接作用しつつ効果的な影響を与えることのできる内在的な力は、少なくとも、他人
に有害に、破壊的に作用する点でも同様に強力であることは確かだ。したがって、動物磁気なら
びに感応療法にもとずくもの以外の古い魔術が有効であるときは、これはまさしく「妖術」、
「たぶらかし」として特筆されているものであり、ほとんどの場合、魔女裁判のきっかけをつ
くっている。前掲のモストの著書のなかにも、明らかに妖術とみなすべき二、三の実例がのって
いる(四〇、四一頁、それに第八九号、九一号、九七号)。またキーザーの例の記録のなかにも、
第九巻から第一二巻までつづく、ベンデ・ベンドセンの病歴をあつかったくだりに、転移させら
れた病気、とりわけこれがもとで死亡したイヌの症例がたくさんのっている。 デモクリトスは「たぶらかし」をすでに知っており、これを事実として説明しようと試みたことが、
プルタルコスの『疑問の饗宴』のなかにうかがわれる(第五問、七の六)。もしここに書かれた物語
が真実であるとされるならば、魔法使いによる犯罪の謎を解く鍵となろう。この物語によれば、熱心
な魔女迫害はけっして根拠のないことではない。たしかに、魔女迫害は、ほとんど大多数の場合は誤
謬にもとづくものである。そうはいってもわれわれは、祖先の人びとが、じつはなにごとでもな
い犯罪をあのような残忍なきびしさで何世紀にもわたって迫害するほど眩惑されていたとは、考
えるべきではあるまい。こうした観点からすれば、今日にいたるまで、すべての国において、な
ぜ民衆がある種の病気をがんこに「妖術」のせいであるとし、かたくなにこの考えを変えよう
としないのかがわかってくる。――したがって、たといわれわれが時代の進歩の波に乗って、例
の悪名高き技術の一部を過去数世紀におけるように無益・無価値なものと考えないとしても、
ネッテスハイムのアグリッパ、ヴィールス、ボディヌス、デルリオ、それにビンズフェルトらの
著作にふんだんに見うけられるような、いんちき、いかさま、でたらめのごみ箱から、一条の真
理を見いだそうとするときには、他のどんな場合よりも用心が必要である。なぜなら、世界いた
るところにある嘘いつわりでも、自然の法則から離脱し、ひいては自然の法則が廃止されたと宣
言されるところほど、自由に闊歩できる場所はないからである。したがってわれわれは、同じ魔
術でも真であるとされるわずか少数の魔術の貧弱な基盤の上に、このうえもないほどひどい冒険
で埋められた童話と、とてつもないしかめっつらの装飾がついた天までとどくような高い魔術と
いう高層建築が立っているのを見ることになる。しかもこうした魔術のおかげで、血なまぐさい
残忍さが、数世紀にわたって大手を振って行なわれてきた。このように観察してくると、まった
く信じられないそれこそ無限に無意味なことを人間の知性が受け入れている点や、こうしたもの
をひたすら残虐・非道な行動によって封じこめようとする人間の心のあり方を、ぜひ深く心理学
的に研究してみなくてはなるまいという気持ちになる。 今日のドイツの学会で魔術にかんする判断を変化させたものは、ただたんに動物磁気だけでは
ない。こうした判断の変化は、この分野でも他の分野でも、根本的には、ドイツ人の教養と他の
ヨーロッパ諸民族の教養とのあいだに基本的な区別を立てたカントによる哲学の変革によって、
準備された。――すべての秘密の感応、あるいはあらゆる魔術的作用を一笑にふすためには、世
界のことをすべて、すみからすみまで、ことごとく承知していなくてはならない。それにもかか
わらず、およそ平板なまなざしでしか世を見ることができない者が魔術的作用を馬鹿にしてい
る。こうした連中は、われわれがもろもろの謎と不可解な事柄の海中に沈んでおり、直接、事物
についてもわれわれ自身についても、根本的にはなにも知っていないし、わかってもいないとい
うことについての予感すらもちあわせていない。こうした平板な考え方にまっこうから対立する
事実がある。それは、偉大な人物には、そのほとんどすべてが、時代と民族の相違にかかわりな
く、一種の迷信家の傾向があったことである。もし通常の認識方法がわれわれに物自体を、した
がって、物と物のあいだの絶対的に真実な関係や関連を提供してくれるものであったとすれ
ば、もちろんわれわれは、未来のことにかんする予知のすべて、不在の者、死の床にある者、い
わんや死者が出現することのすべて、それに魔術的作用を、ア・プリオリに、したがって無制限
に非難する権利があるであろう。ところが、もしカントが教えるように、われわれが認識するの
は単なる現象であり、その形式・法則は物自体にまで及ばないのであれば、いま述べた魔術作用
などに対する非難が行きすぎであることは明らかだ。それというのも、こうした非難が依存して
いる法則の先験性は法則のあてはまるところを現象界だけに限っており、これに反し、われわれ
自身の内的な自我が属している物自体には法則は無縁だからである。 しかし、物自体もわれわれと関連があり、そうしたものから前述の不可思議な過程が発生する。した
がってこれらの過程についてア・ポステオリに決定をくだすことはできても、まえもって先取するこ
とはできない。イギリス人やフランス人がア・プリオリを排斥するにさいしてこうした過程に固執す
るのは、もともと彼らが本質的にはロック哲学に従属しているからである。ロック哲学に従えば、わ
れわれは、たんに感官の感覚を除去しさえすれば物自体を認識できるのである。そういうわけで、物
質の世界の法則は無制限にあてはまり、身体と魂、物質と精神の交互作用以外のなにものをも認め
られないことになる。そこで彼らはたしかに物理学は信用するけれども、形而上学は信用せず、
したがって、いわゆる「自然魔術」以外のものをもちあげることはない。ところが「自然魔術」
という表現は「超自然物理」と同様に、「形容詞における矛盾」である。そして後者がただいち
ど冗談としてリヒテンベルクによって用いられただけなのに反し、前者は、何度ともなく、しか
も大まじめに使用されてきた。これに反し大衆は超自然的な影響一般をつねづね信奉しており、
たしかに感じたままではあるけれども独特な方式で、われわれが知覚し理解するものは単なる現
象であって、物自体ではないという確信を表明している。こうした言いまわしが行きすぎではない
ことを、次のカント『道徳形而上学の基礎づけ』の一節が保証してくれるであろう。「ここにひ
とつの考え方がある。これをうちだすには、ことさらに微妙な熟考を必要としない。およそ平板
な分別しかもちあわせていない者でも、それなりの仕方で、感情とふつう言われているあいまい
な判断力を行使することによって、こうした考え方をつくりあげるといってもよいだろう。 ではそれがどんな考え方かというと、われわれの恣意なくしてやってくるすべての表象(感官の表
象のようなもの)は、対象がわれわれを触発するのと別の方式で対象をわれわれに認識させること
はないし、そのさい、対象がそれ自体で何であるかは、われわれには不可解なままであるという
ことだ。それとともに、この種の表象にかんしていえば、われわれが悟性の提供しうるかぎりの
注意力と明瞭さをいかに駆使しようとも、単なる現象の認識に到達するだけで、けっして物自体
に達することはできない。そしてこうした区別が一度なされるやいなや、現象の背後に、現象で
はないなにか別のもの、すなわち物自体を認め、これを受容しなくてはならないという考え方で
もある」(第三版一〇五頁)。
D・ティーデマンの『魔術の起源問題についての講義』という表題をもつ魔術史(マールブル
クで一七八七年に出版され、ゲッティンゲン学会から懸賞金を受けた論文)を読むと、いついか
なる土地でも、多くの失敗にもかかわらず人類が魔術思想を執拗に追求してきたのに驚かされ
る。そしてこのことから、そもそも魔術思想とは、事物一般とはいわないまでも少なくとも人類
の本性に深く根ざしでおり、けっして勝手に考えだされた気まぐれではないことが推し測られ
る。魔術の定義は著述家によってさまざまだが、根本思想はけっして誤りとされることはない。
すなわち、いつの時代でもどこの国でも、事物の因果の結びつきをつうじてこの世に変化をもた
らそうとする規則どおりの方式のほかに、因果の結びつきにはまったく依存していない別種の方
式がほかに存在しているにちがいない、という考え方が生まれた。 しがたって、その手段を第一の方式の意味において理解しようとするならば、これは明らかに不合理
このうえもないやりくちのように思われる。それというのも、これぞと意図した結果を生むために用
いられている原因がそれこそ不適当であることが明らかであり、原因・結果のあいだの結びつきが不
可能だからである。ところがこうした方式には、じつはこれから述べるようなさまざまな前提がある。
まず、「物理的な結びつき」もとづくこの世における諸現象間の結合のほかに、すべての事物の本質
を貫く別種の結合があるはずである。これは一種の地下の結合であって、これによって、直接現
象の一点から、他の一点に、形而上学的な結びつきをつじて作用することができる。したがっ
て、事物への内部からの作用においては、外部からの作用とはちがって、すべての現象にわたっ
て同一なる本質それ自身をつうじての現象から現象への作用が可能であるに相違ない。われわれ
が「創造された自然」として因果的に作用するように、われわれは「創造する自然」として作用
することもできるであろう。そして一瞬間、小宇宙を大宇宙としてうちだすことができるだろ
う。固体化と分離の壁はたしかに厚いものがあるが、それでも、いわば舞台裏で、あるいはテー
ブルの下での手品のように、ときには一種の伝達が行なわれる。たとえば夢遊症患者の透視で
は、個人個人によって認識が孤立されているような状態が消滅するのと同様に、個人個人に
よって意志が分断されているありさまがなくなることもありうるのだ。こうしたさまざまの前提
や考え方は、経験にもとづいて発生したものでなければ、たしかにあらゆる時代をつうじてすべ
ての国で保持されてきたとはいえ、経験によって確かめられたわけでもない。 なぜなら、ほとんどの場合、経験はこうした考えとは逆の姿を見せるからである。したがってわたし
は、全人類をつうじてきわめて一般的に普及しており、もろもろの経験や、通常の人間の分別とはあ
からさまに対立しながらもの、けっして消滅させることのできないこうした考えたかは、きわめて深
いところ、すなわち意志自体の全能さについての内的感情に求められなくてはならないと考えている。
この意志たるや、人間の内的本質であるとともに全自然の内的本質である。またこうした考え方
は、それに結びついた前提、つまり、意志の全能さはいつか、なんらかの方法によって個体から
も発動されるという前提のなかに、求められるべきであるとわたしは考えている、物自体である
意志にとって、そして意志の個々の現象のなかにおいて、いったいどのようなことが可能である
かを探求し分析することはできない。ただ容認できるのは、意志が、ある状況下においては、個
体化の制限を打破することもありうることだ。なぜなら、これまで述べてきた例の感情は、経験
から押しつけられた認識に執拗に反抗し、次のような詩句となって出てくるからだ。
わたしの胸のなかに住む神は、
わたしの最も内なるものを深くゆり動かすことができる。
わたしのすべての力を越えて座を占める神でも、
なにものをも外から動かすことはできない。
このようにして展開された根本思想にしたがって、われわれは、魔術のためのあらゆる試みに
おいては使用される物理的手段がつねに形而上的なるものの伝達物であるとみなされたことを
発見する。それというのも、そうでなくしては、明らかにこうした物理的手段は意図した結果へ
の関係をもちえないからである。ともあれこうした手段としては、外国ふうの言葉、象徴的なし
ぐさ、図型、それに蝋人形などがあげられた。しかも例の本源的な感情にしたがって、われわれ
は、こうした伝達物に担われたものは、とどのつまり、つねに、人びとがそれに結びつける意志
の行為であることを発見する。これについてのきわめて自然な契機は、人びとがおのれの身体の
動きのなかに、あらゆる瞬間において、完全に説明不能の、したがって明らかに形而上学的意志
の影響を知覚することであった。 人びとは、こうしたものは他人の身体にまでひろがってゆくことができないだろうかと考えた。
そのための方途を見いだすこと、すなわち、あらゆる個人において意志がおかれている孤立を廃止
し、直接の意志の領域を、意志する人の身体を超越して拡大させることこそ魔術の課題であった。
そうはいうものの、もともと魔術を発生させたものであるように思われるこうした根本思想
が、ただちに明らかな意識に移行して抽象的に認識され、さらに魔術がおのれ自身をいちはやく
理解するということは、なかなかならなかった。以前の各世紀における主体物に物を考える博
学な著述家のなかだけに、やがてわたしが実例をあげて示すように、意志自体のなかに魔術的な
力が存在しており、悪霊を招きよせたり結びつけたりする手段とされている奇想天外なしるしや
行為、またそれらに随伴する意味のない言葉は、じつは意志の単なる伝達物であり固定手段であ
るといった、はっきりとした思想をもっていたことが見いだされた。さらにそれによって、魔術的
に作用すべき意志行為は、単なる欲望であることをやめて行為となり、(パラケルススが言うよ
うに)「肉体」を獲得し、そのうえ個人の意思についてのいわば明白な説明が行なわれ、個人の
意志はいまや一般的な意志そのものとして力を発揮するようになったことも発見された。なぜな
ら、あらゆる魔術的行為、感応療法、あるいはその種のものにおいては、外的行為(結合手段)は
磁気療法におけるおさすりと同じであって、もともと本質的なものではなく、唯一の本源的な動
因である意志が物質世界へ向かう方向・行くえを定め、これを現実界に出現させるための伝達物
にすぎない。―― あの時代の他の著述家にあっては、例の魔術の根本思想に即して、ひたすら勝
手に自然に対する絶対的支配を実行しようという目的だけがはっきりしている。しかし、こうし
たことは直接的であらねばならないという思想を彼らはうちだすことはできず、ただいちずに間
接的な方途ばかり考えていた。なぜならいたるところで、諸国の宗教は、自然を神々と悪霊の
支配のもとに置いたからである。彼らをおのれの意志どおりに操縦し、使役に従わせるべく強制
しようというのが魔術師の努力であった。自分にとってうまくいってほしいことを、魔術師は神
々や悪霊のせいにした。その間の事情は、かのメスマーがはじめおのれの磁気療法で成功をおさ
めたとき、その原因を真の動因であるおのれの意志ではなく、手にもつ磁石の棒であるとしたの
と同じである。かくしてこのことは、多神教を信ずるすべての民衆に受け入れられた。そして、
プロティノス、とくにイアンブリコスは魔術を神的秘術(トイルギー)として理解したが、こう
した表現をはじめて用いたのはポルピュリオスである。こうした解釈にとっては、多神論という
この神の貴族政体が好都合であった。それというのも多神論は、自然のもろもろの力についての
支配を、少なくともその大多数が人格化された自然力である神々や悪霊に分配しているからであ
る。これによって魔術師は、あるときはこの神、またあるときはあの神をおのれのために獲得し
たり、あるいは使いこなすことができた。ところが全自然が唯一者に服従する神の君主制におい
ては、この唯一者と個人的に同盟を結ぶばかりか唯一者を支配しようと欲することは、あまりに
も大胆すぎる考えであろう。したがって、ユダヤ教、キリスト教、あるいは回教が支配するとこ
ろでは、前述の解釈に対して唯一神が立ちはだかり、これに対しては魔術師としてはなすすべも
なかった。 魔術師は、自然に対していぜんとしていくらか権力をもっているこうした反逆者、あるいは、アリマン
なる悪魔の直接の子孫と同盟を結び、これによってそうしたものからの援助を確実にした。これが
「黒い魔術」である。それではこれに対立する白い魔術とはどんなものかというと、魔術師は悪魔と
親交を結ばず、天使に頼んで唯一神の許可あるいは協力すら求め、たとえばアドナイといった奇妙な
ヘブライ語の名前や題目をしばしば唱えることによって悪魔を呼びだし、悪魔に対してはなんの約束
もしないのにもかかわらず、悪魔に服従を強いるのである。――これが地獄の強制である。――
しかも事物についてのこれらの単なる解釈や表現は、いずれも事物の本質であり、客観的な過程
であるととられた。したがってボディヌス、デルリオ、ビンズフェルトといった、魔術をみずか
ら実施せず他人から聞きかじっただけの著述家のすべては、魔術の本質を、自然力に依存したり
自然の道程を通るのではなく、ただ悪魔の援助によってだけ作用するものであると定義した。たし
かに、場所により、支配する宗教によってニュアンスのちがいはあるけれども、どこでもこうし
た考え方が一般的にあてはまるものと認められたし、いまでもそうなっている。しかもこうした
考え方が魔法使いを禁止する法律や魔女裁判の基礎であった。それと同様に、魔術の可能性を主
張しようとする者は、ふつうこうした考え方に挑戦した。しかし、この問題についてのこうした
客観的な理解や解釈は、古代や中世にヨーロッパで勢いをふるいデカルトによってはじめてゆさ
ぶられた決定的な現実主義のために、当然のことながら、出現せずにはすまされなかった。 それまでは、人類はおのれの内部の秘密に満ちた深奥には理論を展開しようとはせず、すべてをおの
れ自身の外に求めた。そして、おのれのなかに見いだした意志を自然の主人とすることは、当時
の人びとにとってあまりにも大胆すぎる考えであり、もしそうしたものに直面すれば、きっと驚
いて腰を抜かしたであろう。したがって人びとは、意志を虚構の実在に対する主人とした。当時
の支配的な迷信は、意志を少なくとも間接的に自然の主人とするために、自然に対する力を意志
に認めていた。さらにありとあらゆる種類の悪霊や神々は、形而上学的なるもの、すなわち、自
然の背後に横たわり、信者に存在と力を与え、したがって彼らそのものを支配することになるも
のを、人種や党派をとわずすべての信者につねに理解させてくれる基礎である。そういうわけ
で、魔術が悪霊の助力によって作用すると言われるときは、こうした考え方の基礎にはつねにい
ぜんとして、魔術は物理学的ではなく形而上学的な道程をつうじて作用するのであり、また自然
ではなく超自然の作用なのだという意味がある。しかし、われわれが魔術が現実にあることを保
証するいくつかの事実、つまり動物磁気と感応療法のなかに、ほかのときはただ欲望をもつ個人
の内部で勢いをふるうだけだが、これらの場合には欲望をもつ個人の外部にも直接、勢いをふる
う意志の直接作用を認識するとき、さらにまた、わたしがまもなく示すように、そして決定的に
はっきりとした実例をつうじて確かめられるように、古い魔術に通じた人びとは魔術のすべての
作用をただ魔術師の意志だけから導きだしたことを観察するとき、これらのことはすべて、形而
上学的なるもの一般、つまりただ表象の彼方にのみあるもの、世界の物自体は、われわれがおの
れの内部に意志として認めるものにほかならないというわたしの学説を、強力に、しかも経験的
に確かめてくれる。 例の魔術師たちが、意志がときたま自然に対して行使する直接の支配を、たんに間接的な悪霊
の援助によるものと考えたとしても、一般にこうしたことが生起したことが見いだされさえすれ
ば、なにも問題の作用を妨げるものとはならなかった。なぜならこの種の事物においては、意志
はその本源性において、したがって表象とは分離して活動するために、知性の誤った概念が意志
の作用を妨害することはなく、理論と実践がここでは渾然一体となって分離しないからである。
理論が誤っていても実践の邪魔にはならないし、正しい理論も実践には役立たない。メスマーは、
はじめおのれの作用を手に持った磁石の棒のせいであるとし、そののち動物磁気の奇蹟を唯物論
の理論にしたがい、万物に浸透する微妙な流体によって説明したが、それにもかかわらずメスマ
ーの作用は驚くべき力を発揮した。わたしの知っているある地主のところで働いている農夫たち
は、昔から、彼らのあいだで熱病が流行しても、慈愛あふるるご主人のおまじないで治してもら
えるという習慣があった。地主としては、この種のことがすべて不可能であることを確信してい
たけれども、好意にもとづいて、伝統的な方式を用い、農夫たちの意志に従ってきた。するとし
ばしばすばらしい効果をあげた。地主は、農夫たちの深い信頼感のおかげで生じた効果だとおもっ
たが、同じようにまったく効力のない薬がしばしば、信頼感をもつ多くの患者の治療に役立って
いるにちがいないことを、考えてみようともしなかった。
前述したように、大多数の者にとっては、神的秘術や悪魔学が事物の単なる説明、衣裳、単な
る外殻にとどまるとしても、事物の内部を見ぬき、なんらかの魔術的影響下に作用するものは
まったくもって意志にほかならないことをじゅうぶんに認識した人びとがいないわけではない。
しかし、このように深い洞察を行なった者は、魔術とは無縁であるばかりか魔術に絶対的な態度
をとる人びとのあいだには、見うけられない。 しかもこうした縁なき衆生が、大部分の魔術にかんする書物の著者なのだ。彼らは魔術について、たんに
魔女裁判の記録や証人の喚問をつじて知っているだけであり、したがって、たんい外面的なことしか記述
せず、本来の訴訟手続きのなかで被告の自白をつじて明らかにされたことは、魔術使用による恐るべき犯
罪を普及することになるとして黙して語らない。ボディヌス、デルリオ、それにビンズフェルトあはこの
種の徒輩である。これに反し、われわれがこの問題の真の本質についての鍵を求めるべき人びとは、迷信
が勢いをふるったあの時代の哲学者や自然探究者である。しかし彼らの陳述には、魔術について
も、動物磁気についても、真の動因は意志にほかならないことがきわめて明瞭に示されている。
このことを敷衍するために、二、三の引用をしなくてはなるまい。ロジャー・ベーコンはすでに
十三世紀に次のように述べた。「だれか悪意をもつ人間が、はっきり他人を害そうと考えるとき、
しかもその人間がはげしくこれを願ったうえに、おのれの意図を明らかにこれにさしむけつつ相
手を真に害することができると確信するとき、自然がその人間の意志に服従するであろうことは
疑う余地がない」(『大著作』ロンドン、一七三三年、二五二頁)。しかし魔術の内的本質につい
て他のだれよりも多くのことを解明し、さらに裁判の訴訟手続きについて詳細に記述することを
恐れなかった人は、ほかならぬテオフラストゥス・パラケルススである(一六〇三年、シュトラ
ースブルクで刊行されたフォリオ版第二巻の著作集。とくに第一巻九一頁、三五三頁以下および七
八九頁、第二巻三六二頁および四九六頁)。彼はまず第一巻一九頁で次のように述べている。 「これを蝋人形について見るがよい。もしわたしが自分の意志のなかに、ある他人に対する敵意を
いだいたとしよう。そのとき敵意は、ある媒体つまりなんらかの物体をつうじて実行に移されねば
ならない。したがって、わたしの精神が、わたしの身体のたすけを借りずとも、わたしの熱心な
欲望をつうじて、わたしの剣で他人を刺したり傷つけたりすることもありうる。さらにまた、わ
たしがおのれの意志によって、わたしの敵の精神を人形のなかに具現させ、これをわたしの好き
なように曲げたりこわしたりすることも可能である。……諸君は、意志の作用は医学のなかの重
大な点であることを知るべきである。なぜなら、ある人物に好意をもたないばかりか憎んでいる
者の呪いが実現することは、可能だからである。なぜなら、呪いは精神の曇りから生ずるから
だ。したがって、像が、病気等々になるように呪われることもある、等々。……これらの作用は牛
のなかにも生ずる。しかもその場合は人間よりもずっと容易に生ずる。なぜなら人間の精神は、
牛の精神よりもずっと強く反抗するからである。」
三五七頁。「このことから像が他人を魅了するということが出てくる。性格の力や同種のもの
からでも、蝋製のマリア像からでもなく、想像力がおのれ自身の星座を克服するために、想像力
はおのれの天の意志、つまりおのれの人間を完成させる手段となる。」
三三四頁。「人間のすべての想像力は心臓から来る。心臓は小宇宙における太陽である。そし
て小さな小宇宙の太陽から来る人間の想像力は、物となるものの種子である、等々。」 三六四頁。「諸君は、すべての魔術の仕事の発端である厳格な想像力が行なうことをよく知っ
ている。」
七八九頁。「したがってわたしの思想は、ひとつの目的を洞察することである。わたしはおの
れの手を用い、眼を目標に向けることはできない。こういうことを、わたしの欲するがままにし
てくれるのは、わたしの想像力である。したがって、歩行についても理解すべきことがある。す
なわち、わたしは歩きたいと欲し、そのように決心するために、わたしの身体も動く。わたしの
考えがしっかりしていればいるほど、わたしはさきへ進む。そうしたわけで、想像力だけがわた
しの歩行を動かすものである。」
八三七頁。「わたしに敵対して用いられる想像力は、わたしが他人の想像力によって殺される
かもしれない以上、慎重に用いられるべきである。」
第二巻では二七四頁に次のように書いてある。「想像力は欲望と欲情からなる。欲望はねたみ
や憎しみを生じる。なぜなら、こうしたものは自然に生ずるのではなく、諸君がこうしたものに
ついての欲望をもつからである。そこで諸君が欲望をもったとすると、それにつづいて想像力の
いとなみが行なわれる。こうした欲望は妊婦の欲望のように、せっかちではげしく、しかもすば
やい、等々。……ふつうの呪いは一般に実現する。なぜだろう? 呪いは心臓からやってくる。
そして、心臓からやってくるということのなかで、精子ができ生まれてくる。したがって、父の
呪い、母の呪いも、やはり心臓からやってくる。貧しい人びとの呪いもややはり想像力の所産であ
る。等々。囚人の呪いもまた想像力の所産で心臓からやってくる。 ……こうしたわけで、だれでも、他人をおのれの想像力をつうじて突き刺し、かたわにしようと
するときは、その人間は物と道具をまずおのれのなかにかかえこまなくてはならない。そのあと
その人間はこれを外に放出してもよい。なぜなら、いったん中にはいったものは、たとい思考の
なかであろうとも、あたかもそれが手を用いて行なわれたのと同じように、再び外に出てゆくこ
とになるからだ。……女は男よりも、こうした想像力においてはずっとすぐれている。……それ
というのも、女は報復において男よりも強烈だからだ。」
同じく二九八頁。「魔術は、ちょうど理性がおおやけの偉大なる愚劣さであるように、偉大な
る隠された賢知である。……魔法に対しては、いかなる鎧を着ても身を守れない。なぜなら魔法
は人間の内なるもの、生命の精神をそこなうからだ。……いくたりかの魔法使いは彼らが心にか
けた人間の形をした像をつくり、釘をその足の裏に打ちこむ。すると当の人間は不可視のものに
打たれ、像から釘が抜きだされるまでずっとそのままでいる。」
三〇七頁。「われわれは、ただ信仰と強力な想像力によって、あらゆる人の精神をひとつの像
のなかにもちこむことができるということを、知るべきである。……これにはなんらの誓いもい
らない。しかも儀式、円を描くこと、香を焚くこと、封印をすること等々はいずれも純粋の猿ま
ね、まどいにすぎない。……「小人間」と像がつくられる、等々。……そのなかでは人間のすべ
ての作業、力、意志が完成する。……人間の心情は偉大なるものであり、だれでもこれをはっき
り表現することはできない。神そのものが永遠であり不変であるように、人間の心情も永遠であ
り不変である。もしわれわれ人間がわれわれの心情を正しく認識しうるならば、この地上に不可
能なことはないであろう。……星からやってくる完全な想像力は、心情のなかに発生する。」 五一三頁。「想像力はなにかがほんとうに起こるのだという信仰によって確かめられ、完成す
る。なぜなら、あらゆる疑念は仕事をこわすからだ。信仰は想像力を証明しなければならない。
それは信仰が意志を完結するからである。……しかし人間がつねに完全に想像し、完全に信仰す
るということから、技術はたとい完全・確実なものであるとしても、やはりあてにならぬものと
いわねばならない。」――この最後のくだりの説明のためには、『精神と魔術の意味について』の
カンパネッラの著書の一節が役立つであろう。「外からの影響によってただ〔できないと〕信ずる
だけでその人の生殖行為がはたされないようなことが起こってくる。なぜならその人は、自分が
実行できると信じられないことを実行することができないからである。」(第四巻・第一八章)
同じような意味のことを、ネッテスハイムのアグリッパが『哲学の神秘について』のなかで次
のように述べている。(第一巻・第六六章)。「身体は、他人の身体の影響と同様に、他人の精神の
影響下におかれている。」さらに第六七章にはこう書いてある。「強力な憎しみを感じ命令する精
神は、害を与え破壊する作用をもつ、この間の事情は、精神が〔きわめて〕強力な欲求をかかえて
いる場合にも、つねにあてはまることである。なぜなら、精神が文字、像、言葉、〔会話、〕態度な
どをつうじて行ないかつ命令するものすべてが魂の欲求を支持し、ある種の不可思議な力を獲得
するからだ。それは、この瞬間そうした欲求が魂をとくに満たしたとき作用すべく〔つとめる〕よ
うな力であることもあるし、精神をこうしたゆさぶりにもちこむような天からの〔機会および〕影
響の側から生ずる力であることもある。」――つぎに第六八章はこう述べている。「人間の精神
には、事物や人間を規定し、さらにこれらを精神が欲することに結びつける力が内在している。
そして精神が、おのれの結びつけたものを克服するほどなんらかの情熱ではげしくゆさぶられる
か、あるいは行動力を発揮するとき、すべての事物は精神に服従する。この種の結びつきの原因
は、魂自体のはげしい無制限の興奮である。」 またこれと同じようなことを、ユリウス・カエサル・ヴァニヌスが、『隠れた自然の驚異につ
いて』(第四巻・対話五、四三四頁)で次のように述べている。「精神と血液が服従するはげしい
想像力は、表象のなかでとらえられた事物を実際に表現させることができる。それは、内である
と外であるとをとわない。」
これと同じように、ヨハン・バプティスト・ヴァン・ヘルモントは、魔術において意志を強調
するために、悪魔の影響をっできるだけ値引きしようとさかんに努力した。彼の著作の集大成であ
る『医学提要』から、個々の著作名をあげながら、その一部を紹介してみよう。
『注射の処法』第一二節。「なんとしても自然の敵(悪魔)は、自分自身ではなにごともなしえ
ないために、女魔術師のなかにはげしい欲望と憎悪の観念を植えつける。こうした精神的・恣意
的な媒体をかりておのれの意志を転移させた悪魔は、すべてに影響を与えようとする努力をする。すな
わちこのために彼は、欲望と恐れの観念をあわせもつ呪いを、最高にいまわしい豚どもに植えつ
ける。――第一三節。「なぜなら例の欲望は空想力における情熱に等しいため、まったく空虚で
はなく、実際に作用し、魔法をひき起こす表象をも生みだすからだ。」――第一九節。「すでに述
べたように、魔法をかける主な力は、女魔術師の自然の表象によって拘束されている。」
『物質の注射について』第一五節。「女魔術師はその自然な性格からして、想像力のなかに、恣
意的、自然、かつ有害な表象を形成する。……女魔術師は彼女らの自然な力によって作用する。
……人間は自分自身のなかから人をまどわす異様な、流出し命令する媒体を放出する。この媒体
がはげしい欲望の表象である。欲望とこれが欲求されたもののほうに動いてゆくこととは不可分
である。」
『感応療法について』第二節。「すなわち欲望の表象は、たとい対象が距離的に遠くにあろうと
も、天を通る影響の道を経て大正のなかにはいりこむ。なぜなら、こうした表象は、特別な対象
のなかに向かう欲望によって操縦されるからだ。」 『隠れた自然の驚異について』四四〇頁。「アヴィケンナの言をかりれば、ラクダを倒そうと強力に思考
するだけで、その目的を達することができる。」また同書四七八頁で、彼は紐でつくった細工物について
次のように言う。「こうした魔術が使われると、だれしもが女と同居することはできない。」さらにつづ
けて述べるには、「ドイツでわたしはいわゆる死者をよびだす者たちと語りあったが、彼らははっきりと、
民衆が悪霊について伝えることは単なるおしゃべりの生んだ考え方にすぎないと言った。しかし彼らは自
分では、ある種の草木を用いて空想力をゆさぶったり、彼らが考えだした最高に愚劣な呪文に対する強
い信仰と想像力によってなにごとかをなしうると明言した。それも無知な女たちにこうした呪文を教
えたときに起こるのだが、女たちとしては、あの種の祈りの言葉をうやうやしく述べると、ただちに魔
術が行なわれると信じきっている。なんとしても物事を信じやすい女たちがしんそこから呪文の言葉を述
べると、彼女たちがみずから信じているように、言葉や文字の力によってではなく、彼女たちが魔術を
かけようというはげしい欲望に燃えて吐きだす(精気に富んだ)息によって、彼女たちのそばにいる者
どもが魔術をかけられてしまうことになる。そういうわけで、おのれにかんすることでも他人にかん
することでもよい。死霊を呼びだすことにたずさわる者が単独で仕事にかかるときは、不可思議なこ
とはけっして起こらない。それというのも、彼らには、なしとげようとう信仰がなにもないからだ。」
『磁気療法について』第七六節。「したがって、血のなかにはある種の弾力があって、これが燃
えるような欲望になってゆさぶられると、外的人間の精神をつうじて、現在はそこにないなんら
かの対象のほうに導かれる。この弾力は外的人間には隠されているが、いわば潜在的に存在して
り。そして、この弾力は、想像力が燃えさかる欲望あるいは類似の手段によってたきつけら
れ、みずからもゆさぶられないときには、実効がない。」―― 第九八節。「完全に精神である魂(つまり肉体的である)が生の息吹、さらに骨や肉を動かしたり
ゆさぶったりするためには、次のような状態にならねばならない。すなわち、魂に内在する力で魔
術的・精神的なるものが、魂から精神や肉体のなかに下降してゆく状態になることである。いかな
る方式によって肉体的精神が魂の命令にしたがうのか、それも、精神とそれにつづいて肉体を動かす
こうした命令が存在しなかったとしたらどうなるかを、言ってほしい。しかし諸君はただちに、こう
した魔術的な運動力について、こうした力がそれ自身の自然な住家にとどまらねばならないことに反
発するだろう。したがって、われわれがこうした力を魔術的なものと名づけたとしても、これはただ
名称の悪用、誤用である。それというのも、本来の迷信的な魔術は、その基礎を魂から得ることがで
きないからである。なんとしても魂は、おのれの肉体の外部でなにものかを動かしたり、変化させ
たり、ゆさぶったりすることはできないであろうと、諸君は反論するであろう。これに対してわ
たしは次のように返答しよう。まず例の魂にとっては自然な、外部に向かって働きかける力と魔
術は、人間が神の似姿であるということによって、すでにひそかに人間のなかに隠されており、
いわば眠っている状態となって、(原罪を犯したあとは)ゆさぶりを求めている。しかしこうした
力と魔術は、たとい眠りこけており、いわば泥酔しているとはいえ、とにかくわれわれのなかに
つねに存在している。こうした力と魔術は、おのれの肉体のなかで機能を果たすぐらいのことは
やってのける。そうしたわけで、人間には魔術についての知識と能力があり、ゆさぶりを受ける
とこれが活動するようになっている。」 第一〇二節。「したがって悪魔はこうした力を、彼と契約した者のなかによびさますことになる(こうした力は
普通眠っており、外に向かう人間の意識によって抑圧されている)。こうした力は、強者の手中にある剣のよう
に、魔女の手のなかで自在に用いられる。しかも悪魔は、ただ人間のなかに眠っている霊の力をよびさますこと
だけによって現実の殺人に関与している。」――第一〇六節。「魔女は遠くへだたったところにある厩の馬を殺
すことができる。一種の自然の作用力が、悪魔からではなく魔女から放出される。魔女は馬の息の根をとめ、首
をしめて殺すことができる。」――第一三九節。「わたしは磁気の守護霊を、天からくだってきた霊だとしたこ
とはない。まして地獄からやってきた霊などを問題にしていない。こうした守護霊は、小石のなかに火が発生す
るように人間のなかに発生する。すなわち人間の意志によって、影響力の大きい生命の霊からそのごく一部が取
りだされる。そしてこの一部の霊が理想的な本体となる。つまりおのれを完成するためにいわば一つの形をとる。
こうした本体となった、つまりは形の完成したあとでは、霊は一種肉体的なるものと非肉体的なるものと
の中間の状態になる。しかしこの霊は、意志が操縦するところにはどこにでも向かってゆく。霊
の理想的な本体は……場所、時間、距離といった制限によってなんら妨げられない。これはけっ
して悪霊やその種のものの作用ではなく、われわれにもたいへんなじみがあり親しい人びと、し
かしこうしたものに打たれた人びとの精神的作用である。」 第一六八節。「このような巨大な秘密を明らかにするために、わたしはこれまで次のようなことを、手に
とるごとくわかるようにすべくつとめてきた。すなわち、人間のなかには一つの精力があり、そのおかげ
で人間は、単なる意志と空想によっておのれの外部に作用し、ある種の力を発揮することができる。さら
には、持続しつつ、たとい遠くはなれたところにも到達できる影響力を行使することが可能である。」
さらにポンポナティウスも、(著作集所載の『魔力』一五七六年、四四頁で)次のように述べ
ている。「そうしたわけで、この種の力を自由自在に駆使する人びとが出現することになる。こ
の種の力が想像力と欲望の力によって実際に行使されることになると、そうした作用力は現実に
あらわれ、血と精神に影響してくる。この種の力は蒸発によって外部に働きかけ、同種の作用を
ひき起こす。」
この種のきわめて注目すべき謎ときを、イギリスのクロムウェル時代における神秘的な女神知
学者で幻視家のポーデージの女弟子ジェーン・リードが行なっている。彼女はまったく独自の道
を歩んで魔術に到達した。おのれの自我とおのれが信ずる神との合一を教えるのがあらゆる神秘
家の持続的な基本であるが、ジェーン・リードもそのひとりであった。しかし彼女の場合には、
人間の意志と神の意志との合一の結果、人間は神の全能にも関与し、これによって魔術的な力を
得るにいたったとする。したがって他の魔術師が悪魔との同盟に負うと信じているものを、彼女
はおのれの神との合一のおかげであるとした。そこで彼女の魔術は、すぐれた意味において白い
魔術である。そうはいっても、このことは、結果や実践においてなんらの区別をなすものではな
い。彼女の魔術も、当時としては当然のことながら控え目であり、しかも秘密に満ちていた。 だが彼女の場合には、魔術が単なる理論の所産ではなく、理論以外の知識や経験から発生したもの
であることがうかがわせる。主要な個所は『啓示のなかの啓示』(ドイツ語訳は、アムステルダム
で一六九五年に出版された)の一二六頁から一五一頁まで、とりわけ、「放出された意志の力」と
いう題がついたあたりに見うけられる。ホルストは、『魔術文庫』第一巻三二五頁以下にこの本の
一部を転載したが、それは一一九頁(第八七および八八節)についての言葉どおりの引用ではな
く、むしろ一種のまとめとなっている。「魔術的な力は、これを所有する者を創造主の状態にお
く。つまり、こうした者に植物=動物=鉱物界を支配させ、更新させる。したがって、一者のな
かで多者が魔術的な力を共同して用いることになれば、自然は楽園のように変化させられるこ
とになろう。……われわれはいかにしてこうした魔術的な力に到達できるだろうか? それは、
信仰をつうじての新生によって、つまりわれわれの意志と神の意志との一致によって行なわれ
る。なぜなら、われわれの意志と神のそれとの一致の結果、パウロの言うように、すべてがわれ
われのものとなり、すべてがわれわれに服従せねばならなくなったあかつきには、信仰は世界を
われわれに隷属させるからである。」ホルストのいわゆる引用はこれまでである。――ジェーン・
リードの著作といわれるものの一三一頁で彼女は、キリストがおのれの奇蹟をおのれの意志の力
によって行ない、そのさいライ病患者に「わたしは清められることを望む」と述べたくだりを次
のように説明した。「しかし彼らが主に対する信仰をいだいていることが確かめられたとき、主
はしばしば彼らの意志に関与された。そのさい主は彼らに向かって、《わたしがおまえたちにし
てあげようと思うことを、おまえたちは欲するのか?》と言われた。こうして、彼らにとって最
善のこと、とりもなおさず彼らが彼らの意志のなかで、ひそかに、主にしていただきたいと願っ
ていることが行なわれた。 前述した救世主のこうした言葉は、たしかに注目に値する。それとい
うのも、そもそも意志が至高存在の意志と合一しているかぎり、最高の魔術は意志のなかにある
からである。人間の意志と神の意志が車の両輪のように進行し、いわば合体一致ということにな
れば、最高の魔術が出現してくる。」等々。――一三二頁では彼女は次のように書いている。「ど
うして神の意志と合致した意志に反抗することができようか? こうした意志はどんなところで
もおのれの企てを実行できる力をもっている。こうした意志は、おのれの衣裳や力を欠く裸の意
志ではない。こうした意志は克服されざる全能をそなえており、これによって、根こそぎ抜き
とったり、植えつけたり、殺したり、生かしたり、結んだり解いたり、病をいやしたり悪化させ
たりすることができる。そうした力はすべて堂々とした、自由となった意志のなかに集中し、ま
とめられている。さらにわれわれが精霊と一体となるか、あるいいはひとつの霊、本質として合体
したあと、われわれはこうした意志の認識に到達することになろう。」――一三二頁には次のよ
うに書いてある。「魂の混合した要素から生じた多くの各種各様の意志をわれわれはすべて蒸発
させるか、水中に沈めるか、奈落の淵に落とさなくてはならない。このような奈落からやがて処
女の意志が出現し、高くのぼってくる。こうした意志は、変質した人間にかかわりのある事物に
隷属することなどけっしてなく、完全に自由に、純粋に、最高・万能の力と結合し、けっして誤
つことなく万能の力と似た果実や結果を生みだすことになる。……かくて精霊の燃えあがる油が
生じ、そのなかから飛散する魔術の火花が燃えあがってくる。」
ヤーコピ・ベーメも『六つの点の解明』のなかの第五点で、魔術をいまここで述べたのとまっ
たく同じ意味で語っている。とくに彼は次のように述べる。「魔術はすべての実在のなかの実在
の母である。なぜなら魔術はおのれ自身をつくり、欲望のなかで理解されるからだ。――真の魔
術は実在ではなく、実在の欲求する精神である。――結論をいえば、魔術は意志=精神における
行為である。」 意志こそ魔術の真の動因であるとして展開された見解を、確証するとはいかないまでもとにか
く説明だけはしてくれるものとして、かのカンパネッラが『事物の感覚と魔術』第四巻・第一八
章でアヴィケンナにしたがって語った次のような奇抜な逸話がある。「数人の婦人が暇つぶしに
どこかの公園に行く約束をした。そのうちひとりはやって来なかった。そこで他の女たちは冗
談にオレンジを取りだし、これを鋭い針で突き刺しながら、次のように言った。《こうやってわ
たしたちは、いっしょに来ようとしなかったあの人を突き刺したのだわ。》そのあと彼女たちが
オレンジを泉のなかに投げ捨て、帰宅すると、不参加だった例の婦人が苦しんでいるのを見いだ
した。彼女は、女たちがオレンジを突き刺してからというものは、まるで鋭い針で体をつきぬか
れたような感じをもちつづけたのだ。彼女は、例の者たちがオレンジから針を抜きとり、彼女の
健康と発展を祈るまでは、たいへん苦しい思いをさせられた。」
ヌカヒヴァ島で、未開人の僧侶が、殺人的魔術でいわゆる効果をあげているが、この場合のプ
ロセスは現代の感応療法と酷似している。このことについてのきわめて注目すべき詳細な記述を
クルーゼンシュテルンが『世界周航記』(一八一二年)のなかに残している(第一部二四九頁以
下)。――この記述は、ヨーロッパ的伝統とまったく隔絶した土地でもヨーロッパと同様に事が
とり行なわれていることを示していることからしても、とりわけ注目すべきである。この記述と
比較されるべきは、ベンデ・ベンドセンがキーザー編『動物磁気のための記録』の第九巻・第一冊
についての注釈の一二八〜一三二頁で述べたくだりである。ベンドセンは、切りとられた髪をつ
うじてその髪の持ち主に魔法をかけ、頭痛を起こさせたのだ。このことをあつかった注釈の末尾
に彼は次のようなことを述べた。「わたしが経験したかぎりにおいて、いわゆる魔法は悪意の意
志作用と結びついた障害を与える魔術的手段の準備と適用以外のなにものでもない。これこそ悪
魔とのいまわしい同盟である。」 クルーゼンシュテルンは次のように述べている。「島民全員から重視されている魔術への
一般的信仰は、島民の宗教になんらかの関係があるように思われた。なぜなら、たしかに民衆の一部
の者は、おそらく他人におのれに対する恐怖心をいだかせて贈物を持ってこさせるために、秘密を保
持しているような顔をしているけれども、島民の話によれば、こうした魔術の力を駆使できるのは僧
侶たちだけだからである。彼らのもとでカハとよばれている魔法は、怨恨をもつ人間を緩慢なやり方
で殺すことである。それに必要とされる期間は二十日間である。そのさい、次のようなしくみで仕事
にとりかかる。すなわちおのれの復讐を魔法によってなしとげようとする者は、ねらった敵の唾液や
大小便を、なんらかの方法を用いて獲得しようとする。これが得られると粉末をまぜ、こうしてでき
た混合物を特別な方式で編んだ袋のなかに入れ、土に埋めるのだ。最も重要な秘密は、袋の編み方と
粉末のこしらえ方である。袋が埋められるやいなや、魔法をかけられた人間に対する作用がはじま
る。この人物は病気になり、日に日にやつれ、もろもろの力が失われて、二十日後には確実に死んで
しまう。逆に、この人間が敵の報復を妨げようとするならば、おのれの命を豚やなにかほかの重要な
贈物によって買いとるようにする。そうすれば、十九日目でも助かることができる。なんとしても袋
が土のなかから堀りだされさえすれば、おかしな病気はたちどころに退散するからだ。この人間は日
に日に回復し、数日後には完全な健康体に戻ってしまう。」 これらの著作家がすべて相互に一致していることもさることながら、近年、動物磁気によって
養われた彼らの確信が、結局のところ、わたしの理論的教説にしたがって推し測られるものと一
致していることは、きわめて注目すべき現象である。この点については、成果を生んだかどうか
はともかくとして、これまで行なわれた魔術にかんするあらゆる試みが、わたしの形而上学の先
取りにもとづいていたことが確かである。それというのも、これらの試みのなかには、因果律は
たんに現象の紐帯であり、事物の本質そのものは因果律に拘束されないという意識、さらに、事
物の本質そのもの、したがって、内部から直接自然に働きかけることが可能であるならば、そう
した働きかけは意志そのものをつうじてのみ行なわれるという意識が表明されているからだ。し
かし、もしここでベーコンの分類にしたがって魔術を実用的形而上学と定めるならば、この形而
上学と正しい関係にあるべき理論的形而上学は、世界を意志と表象とに分つわたしの方式以外の
なにものでもない。
いつの時代にも協会は魔術を迫害したが、その熱心さをローマ教皇庁の『魔女の槌金』という
文書が、まったく恐ろしいばかりに示している。ではなぜそのようになったかというと、それは
たんに、魔術にしばしば結びついている犯罪的意図やまた前提とされる悪魔の関与のせいではな
いように思われる。教会の魔術迫害の熱心さの一部は、教会が自然の外の領域への追放を命じた
原初的な力を魔術が正しい源泉にひきもどそうとしているのではないか、という予感と不安にも
とづいているらしい。こうした憶測を保証するものとしては、心配性のイギリスの聖職者が動物
磁気に対して示す憎悪をはじめ、彼らが同様に無害な卓子回転にきわめて熱心に反対しているこ
と、さらにやはりこれに対して、同じ理由からドイツ・フランスの聖職者もたえず呪いの言葉を
投げつけていることがあげられる。 第三二章 狂気について
(本章は正編第三六節の後半と関係する)
精神の真の健全さは、追憶が完全であるという点にある。追憶が完全であるとはいっても、もちろん
これをわれわれがすべてを記憶にとどめているという意味に理解してはならない。というのは、来し方
を顧みる旅人には、たどり来った道もその空間が収縮するように、われわれの人生行路も、たどり来っ
たあとではその時間が収縮するからである。個々の年を区別するのが、ときとしてわれわれには困難に
なる日になると、たいていは知るよしもなくなってしまう。しかし事の真相は、まったく同じ出来事が
何度も繰り返され、その像がいわば重なりあって記憶のなかで合流し、個々に識別することができなく
なるにすぎない。これに反し、なにか独特の、あるいは重要な出来事なら、どういう出来事でも記憶を
さぐればふたたび見つけだすことができるに相違ない。もっともこれは、知性が正常で力があり、まっ
たく健全な場合のことであるが。――わたしは正編で、記憶というものは、このように内容がますます
空漠としたものになり、ますます不明瞭なものになりながら、むらなく継続するものであるが、この
記憶の糸の寸断されたものが、すなわち狂気にほかならぬと述べておいた。次の考察が、その確証に役立
てば幸いである。
健全な人間の記憶は、彼がその目撃者であった出来事に関して、それが確実であることを保証する。
そしてこの確実性は、現に彼が或る事柄を眼前に見聞きしているのと同じぐらい確実で動かしえないも
のと見なされる。そこでこの出来事は、彼が誓言すれば法廷で確認されることになる。 これに反し、狂気ではないかと疑われるだけでただちに、証人の陳述は無効になる。すなわちここに、精神が
健全かそれとも発狂しているかを判断する基準がある。わたしが、自分の記憶している出来事が実際に起こっ
たかどうかを疑うやいなや、わたしは自分自身に狂気の疑いをかけているのである。もっとも、それが単
なる夢でなかったかどうか自分に確信のない場合は別であるが。他人が、わたしが目撃者として語って
いる出来事の真実性を、わたしの言葉に嘘のないことを信じながら疑うならば、彼はわたしを気違いだ
と考えているのである。がんらい自分が捏造した事件をなんども繰り返して話すうちに、ついに自分自
身の言葉を信ずるようになれば、その人はほんらい、この一点ですでに狂っている。気違いにも、気の
きいた思いつきとか、ひとつひとつをとってみれば賢明な考えとかあるいは正確な判断さえ不可能でな
いことは認めてもよいが、過去の事件に関する彼の証言だけは認めるわけにはいくまい。周知のように釈
迦牟尼の伝記である『普曜経』には、釈迦生誕のおりに、全世界の病ある者はすべて癒え、盲たる
者はすべて物が見えるように、聾せる者はすべて音が聞こえるようになり、狂せる者はすべて「その記
憶を回復した」と語られている。記憶の回復に関しては、二個所にもわたって述べられている。
これは、わたし自身の多年にわたる経験から推測するようになったことであるが、狂気は、俳優の場
合に比較的もっともひんぱんに現われる。じっさいまたこの連中は、彼らの記憶をなんと濫用すること
であろう。彼らは毎日、新しい役を覚えこむか、古い役を思い出さねばならない。ところがこれらの役
は、すべてなんの関係もなく、それどころか相互に矛盾撞着することさえあり、彼らは毎晩まったく別
な人間になるために自分自身を完全に忘れ去ろうと努力している。これがまさに狂気にいたる道を開く
のである。 われわれの利害や誇り、あるいは願望をひどく害する事柄を考えるのが、われわれにとっていかにい
やなことであるか、こうしたことを自分自身の知性でいっそう厳密かつ真剣に調べてみようと決心す
ることがわれわれにとっていかに困難であるか、ところが無意識のうちにそこから飛びだすか、あるい
はこっそり逃げだすほうがわれわれにとっていかに容易であるか、またこれと逆に、愉快な事柄はまっ
たく自然にわれわれの心に浮かび、追い払えばまたしても忍び寄ってきて、そのためわれわれが数時間
もそのことを反芻することがある、などということを思い出せば、狂気の発生に関して正編で述べてお
いたことが、いっそうよく理解できるであろう。意志は、自分の心に染まぬことを知性によって照らし
だすことに抵抗するのであるが、この抵抗が、狂気が精神に襲いかかることのできる場所である。すな
わち、新しい出来事はどんないやな出来事でも、知性によって同化せられねばならないとしても、つま
り、その出来事のために、いっそう満足な事柄が、その事柄のいかんを問わず追いだされねばならない
としても、われわえの意思とその関心に関係のあるもろもろの真理の体系のなかに、このいやな出来事
も席を獲得しなければならない。これがなされてしまえば、この出来事の与える苦痛は、はるかに減少
する。ところがこの同化の操作そのものがしばしば非常に苦しいもので、しかもそれがたいてい、抵抗
を受けながらおもむろにしか逆行しない。ところで、この操作がそのつど正確に遂行される場合にか
ぎって、精神が健全だと言いうるのである。これに反し、或る特殊な場合に、認識した事柄の受容にた
いする意志の抵抗ともがきが激しくなりかの操作が障害なく遂行されなくなると、そのため或る種の出
来事や事情が知性に完全に隠蔽されることになる。それは、意志がそれを見るのに堪えることができな
いからである。そしてつぎに、このために生じた空隙が、関連が必要なため勝手に埋められることにな
る。 ――こうして狂気が現われる。というのは、知性が意志の歓心を得るためにその本性を放棄したか
らである。人はいまや、ありもしないものを想像する。とはいえ、こうして生じた狂気が、いまは、忘
れがたい苦悩を忘却させるレーテの河となる。狂気こそ、苦悩を性とするもの、すなわち意志にたいす
る、最後の救治療であったのだ。
ついでながら、わたしの見解にたいする注目すべき証拠を、ここで述べよう。カルロ・ゴッツィは、
戯曲『トルコの怪物』第一幕・第二場で、忘却をもたらす魔法の飲料を飲んだひとりの人物を登場させ
ているが、この者の所作を見れば、まったく狂人同様である。
そこで以上述べたところに従って、なにか或る事柄をむりやり「自分の頭から叩きだす」ことが狂
気のもとである、と見ることができる。ところがこの「自分の頭から叩きだす」のは、なにか或る他の
事柄を「自分の頭のなかに押しこむ」ことによってのみ可能なのである。これより稀なのは、経過が逆
になることである。すなわち、「自分の頭のなかに押しこむ」のが第一で、「自分の頭から叩きだす」の
が第二になる。しかし、こういう経過をたどるのは、そのために発狂するにいたった誘因となるものを
つねに念頭に置き、それから脱れることができない場合である。たとえば、多くの恋狂い、色情狂の場
合がそうである。この場合には、誘因となったものが終始頭にこびりついて離れない。また。とつぜん
生じた驚愕すべき出来事から起こった狂気の場合もそうである。こういう患者は、一度思いこんだが最
後、偏執的にそれに執着し、そのため、ほかの考えが、少なくともそれに対立する考えが、どうしても
思い浮かばないのである。しかしこの二つの経過を見ても、狂気の本質は同じである。すなわち、追憶
がむらなく連なりあうことが不可能なのである。ところでこのような追憶が、われわれの健全な、理性
的な思慮の基礎である。――ことによると、ここで述べた、狂気の起こり方に見られる対立は、よく判
断して用いれば、真の妄想を鋭くかつ深く分類するための証拠の代わりにならぬものでもあるまい。 ところでわたしがこれまで考察してきたのは、もっぱら狂気の精神的な起源、すなわち、外的・客観
的な誘因によって生ずる起源であった。しかし狂気はそれよりも、純粋に身体的な原因、すなわち、脳
やその外皮の畸形、あるいは局部的な解体とか、また他の病的に衰弱した部分が脳髄に及ぼす影響な
どにもとづく場合のほうが多い。まちがった感覚的直観や幻覚が現われるのは主として、のちにあげた
種類の狂気の場合である。しかしこれら両種の狂気の原因は、たいていは互いに関係しあい、とくに精
神的原因は、身体的な原因を伴う。これは自殺の場合と同様である。自殺が外的な誘因のみによって生
ずるのは稀であって、或る種の肉体的な苦痛が自殺の根底にあり、この苦痛が達する程度に応じて、必
要とされる外部からの誘因が大きくもなれば小さくもなる。苦痛が最高度に達した場合にのみ、外部か
らの誘因がまったく不必要となる。したがって、どれほど大きな不幸であっても、すべての人に自殺を
決心させるとはかぎらず、また、どれほど小さな不幸であっても、それだけでもう自殺へ導く場合があ
る。わたしがここに述べたのは、狂気の精神的な発生で、少なくとも外見上はどう見ても健全な人間の
場合に、大きな不幸によって生ずるたぐいのものであった。ところが、身体的に狂気の強い素質をもっ
た人間の場合には、非常に些細な不満でも発狂するのにじゅうぶんである。たとえば、精神病院へ入れ
られたひとりの男をわたしは覚えているが、その男は兵士だったが上官から「あなた Er」呼ばわりさ
れたために、狂ってしまったのである。肉体的な素質が決定的な場合には、この素質が熟しさえすれ
ば、発狂する誘因はまったく不必要となる。単に精神的な原因から生じた狂気は、思考の歩みを無
理に逆転させることから生じ、そのため逆転によって、どこかの脳髄の部分に一種の麻痺やその他の変
敗を起こし、これは、早いうちに除かないと、永くあとに残ることになる。したがって狂気は、初期に
は治療が可能であるが、かなり時がたてば不可能である。 発狂を伴わない躁病があるということは、ピネルが説き、エスキロルがこれに反対したが、爾来これ
にたいして、賛否両論が大いに戦わされてきた。しかしこの問題は、経験によって決定する以外方法は
ない。ところで、こういう状態が実際に現われるとすれば、それは次のことから説明できる。すなわ
ち、この場合には、意志は知性の、したがってまた動機の支配と指導から完全に脱れ、そのため意志は
盲目的で凶暴な、破壊的な自然力として登場し、途を塞ぐいっさいの妨害物を壊滅せずんばやまない執
念となって現われるのである。そうなると、このように解放された意志は、堤防を破った河や、騎手を
振り落した馬、制動するねじを抜きとられた時計に等しい。しかし、こういう休止状態に見舞われる
のは、理性すなわち反省的な認識だけであって、直観的な認識までそうなのではない。というのは、直
観的な認識までそうだとすると、意志にはなんの指導も与えられず、人間は動くことができないからで
ある。むしろ躁病患者は、客観〔事物〕に向かって襲いかかるのだから、客観を知覚しているのである。
また彼は、現在の行為を意識もしておれば、あとになってこれを思い出すこともできる。しかし彼に
は、反省、すなわち理性による指導がいっさい欠けており、そこで、現に存在しないもの、すなわち、
過去と未来に関する事柄を熟慮したり顧慮したりすることが、いっさい不可能である。発作が終わり理
性が支配を回復すると、理性の機能は正常に帰る。というのは、この場合には理性自身の活動は狂って
もそこなわれてもあらず、ただ意志が、理性からしばらく脱れる手段を発見したにしぎないからである。 個人の運命に宿る意図らしきものについての超越的思弁
人生を支配するは偶然にあらず。調和と秩序とのみ。
プロティノス『エンネアデス』四、四巻三五章
私がここに伝えようとしている考えはしかるべき実を結びそうになく、むしろ形而上学的幻想と
よばれるべきものかもしれない。けれども私はこれを埋もれたままにしておく気になれなかった。少な
くとも同じ問題について自己の抱懐するところと比較するために、これを歓迎する人士もいようから
である。しかしながらかかる人士にたいしては、以下の考えはあらゆる点で、すなわち解決はおろか
問題すらもあやふやなのだ、ということを指摘しておかねばならない。したがって人はここでは断じ
て決定的な解決を期待してはならず、むしろまことにあいまいな事柄の風通しを多少よくしうる程度
と考えてもらいたい。しかもその事柄たるや、おそらくだれの場合にもその人生行路において、ある
いは半生を回顧するにおよんで、心底にしばしば湧きおこったことのあるものである。とはいえ著者
の考察は暗中模索の域を出ないかもしれぬ。暗がりでは何かがありそうにおもえても、どこに何があ
るか、しかとわからぬものなのだ。にもかかわらず私がときとして積極的な、いやむしろ独断的な
調子でものをいう場合ありとすれば、それは、このさいいっておくが、疑問と推測に満ちたいいまわ
しを反復することによって、だらけたしまりのない文章になることを避けるためにほかならない。で
あるから文字どおり深刻におとりにならぬがよい。 個人の人生行路に特殊な摂理ありとし、あるいは出来事を導く超自然のものありとする信念は、い
つの時代にも世人に愛好せられきたったものであり、しかもものを考えるほどの、あらゆる迷信をし
りぞける人びとにおいてさえ、この信念はときに牢乎として抜くべからざるものがあって、しかもな
んらかの既成の教義とのいかなる関連もなしにそういうことになるのである。――まず第一にこの信
念にたいして断言しうることは、それはすべての神信心と同じく、そもそも認識からではなく意志か
ら生じたものだということ、すなわちさしずめわれらの欲求の子なのだということである。というの
は、かかる信念に論拠をあたえたのは認識のみであるとしても、その論拠はおそらくつぎのごとき事
実、つまりわれわれにむかっていろいろと意地悪でうまく仕組んだ陰険な仕打ちをする偶然なるもの
に帰着するからである。かかる場合われわれは偶然のなかに摂理の手を認めるのであり、偶然が、わ
れわれ自身の洞察に反して、いや、われわれが嫌悪した道程をたどって、ありがたい目標にまでわれ
われを誘導してくれたときは、とりわけ明瞭にその手を認めるわけである。このときわれわれは《難
破したとき、わたしは無事航海を終えていた》というのである。選択〔個人が行う選択〕と誘導〔個
人を超えたものからの誘導〕とが相対立することはまぎれもない事実であるが、同時にこの対立は誘導
のほうに有利であると感じられるものだ。まさにこの理由からして、われわれは逆境にあるときも、
「これはなにかのプラスになるかもしれぬ」というたびたび確かめられた言葉でみずからを慰めるこ
とになる。――これはもともと、《偶然は世界を支配しているが、また誤謬を共同統治者にしており、
われわれは等しく両者のもとに隷属しているから、いまわれわれに不幸とおもえるまさにそのことが
幸運であるのかもしれぬ》という理解から生じたものである。かくてわれわれは偶然から誤謬へと訴
えかけることによって、世界支配のひとりの独裁者の仕打ちをのがれて他の独裁者へと移るわけなのだ。 しかしこの点を別としても、単純明白な偶然のなかになにかの意図が隠されているようにおもうの
は、盲蛇におじずの人を食ったものの考え方なのである。けれども私は何ぴともその人生において、
少なくとも一度はこの考えを手にとるようにはっきりつかんだことがあろうとおもう。またこの考え
はあらゆる国民に、またあらゆる信仰箇条とならんで見いだされ、とりわけ回教徒の場合に明瞭であ
る。これは理解の仕方によってはまことに馬鹿げているようにもまた深遠きわまるようにもみえる考
え方であり、他方この考えを立証する実例にたいしては、たといその実例がときには目をみはらせる
ようなものであろうと、いつも次のような非難攻撃が行なわれる。《もし偶然がわれわれの件をじょ
うずに、というよりわれわれの理解や見通しよりももっとじょうずに裁くことがまったくないとすれ
ば、それこそ最大の驚きであろう》と。
およそ生ずることはすべて例外なしに厳密な必然性のもとに生ずる。ということは、ア・プリオリ
に理解しうる異論のない真理である。私はこれを《論証可能な宿命論》と名づける。これは私の懸賞
論文『意志の自由について』(六二頁)に、先行のあらゆる研究の結果として出ている。この真理を
経験的にかつア・ポステリオリに確証するものは催眠術にかかった夢遊病者、透視力(千里眼)を授
けられた人間、否ときには通常の睡眠中の夢も未来を正確無比に予言するというもはや疑う余地なき
事実である。生ずることはすべて厳密な必然性のもとに生ずるという私の理論が経験的に確かめられ
るのは透視力の場合に最も顕著である。というのは、透視力によってかなり以前に予言せられたこと
が、その後まことに正確に、また予言せられた副次的事態のすべてを伴って生ずることがあり、しか
もそれを払いのけるべく意図的にあらゆる手をつくしたとき、あるいは出来する事柄が、報じられた
未来図のごとくならぬように――少なくとも副次的事態においては――と、努力がなされたときです
ら、やはり結果は同じだからである。 これらの努力はつねに徒労に終わり、まさに予言を無効にする
はずのことがつねにそれを招きよせるのに役立つ。それはまさしく古代人の悲劇や歴史において、神
託や夢で予言された不幸が、それにたいする防遏手段のためにかえって招きよせられるのと同断であ
る。実例として多数のなかからオイディプス王と、ヘロドトスの第一巻三五〜四三章の、クロイソス
とアドラストスの楽しい物語のみをあげておこう。これらの話によく似た透視力の事例がキーザーの
『動物催眠文献』八巻三冊に、正直そのもののベンデ・ベンツェンによって報じられている。(とくに
第四、一二、一四、一六例)。ユング・シュティリングの『幽霊学の理論』一五五節の一例も同様で
ある。さて透視の能力はまれにしか見られぬが、もし逆にありふれたものであったとすると、無数の
出来事が予言せられたとおりに正確に起こり、一切万事は厳密な必然性のもとに生ずるということの
否定しがたい事実的証明が、だれの手にもとどくところに普通に見られることになったであろう。そ
のときには、事柄の経過がいかに純粋に偶然なものに見えようとも、根本においてはしからず、むし
ろすべてのこれらの偶然事そのものが、深く隠されたひとつの必然性(宿命)――偶然その
ものはこれの道具にすぎない――によってとらえられているという点にもはや疑問の余地がなくなる
であろう。この必然性を見ぬくことが古来すべての占卜術(予言術)の努力目標であった。ところで、
想いおこされる実際の占卜術からしていえるのは、じつはあらゆる出来事が完璧な必然性のもとに生
ずるというにとどまらず、それらがなんらかの仕方ですでにあらかじめ決定的かつ客観的に確定せら
れているということ、しかも予言者の目には眼前の事柄として姿を現わす、ということである。もっ
ともこれなどはまだ、因果連鎖の結果としての出来事の必然的出現にすぎない、ということもできよ
う。 いずれにしても《いっさいの出来事のかの必然性は盲目的な必然性ではない》という洞見ある
いはむしろ見方、したがってわれわれの人生行路が計画的かつ必然的に経過するという信念は、いち
だんと高次の宿命論であって、単純な宿命論のごとく証明しうるものではないが、しかもなお各人が
早晩これにつきあたり、各自の考え方に準拠しながら、一時的または永久的にこれに固執するので
ある。われわれはこれを通常の証明可能な宿命論から区別して超越的宿命論とよぶことができる。こ
れは単純な宿命論と違ってほんとうの理論的認識に由来するものでも、また理論的認識に必要な研究
の結果でもなくして――この方面の能力のある人は少ないであろう――、自己の人生行路の諸経験か
ら徐々に沈殿するものなのである。すなわち各人の経験のなかには、とくにきわだって或る種の出来
事があって、それは一方ではとりわけその人にとって大いに目的にかなっているために精神的ないし
内面的必然性という刻印を帯び、他面では外的なまったくの偶然性の刻印をはっきりと帯びている、
ということがあるものだ。かかることがよく起こるので、各個人の人生行路はそれがいかに入りくん
で見えようとも、内部統一のある、一定の傾向と教訓的意味を有する、考えぬかれた叙事詩のごとき
ひとつの全体であるとの見方になり、この見方はしばしば確信ともなるものである。けれども人生行
路をつうじて彼に授けられた教訓は彼の個人的な意思――結局は彼の個人的錯誤なのだが――にのみ
かかわるものであろう。なぜなら計画と全体性は大学教授の哲学が夢想するのとは違って、世界史の
うちにあるわけではなく、個人の人生に存するからである。諸民族というものは概念的に存在するに
すぎず、実在するのは個々の人間である。ゆえに世界史は直接的な形而上学的意義を有せず、元来ひ
とつの偶然的配列にすぎない。私はここで『意志と表象としての世界』正編三五節においてこれらに
ついて述べたところを指摘しておく。――かくて各自の個人的運命について多くの人の心にかの超越
的宿命論が生まれるわけで、自分の生涯を注意深く観察するなら、生涯を織りなす糸がかなりの長さ
にまで紡ぎだされたのちには、おそらくだれにでも一度はこの宿命論に到達する機会が訪れるであろう 否、人生行路のこまかい点をひとつひとつ考えぬくならば、その行路は彼にとっては、いっさい
が画策されたようにみえることもあろうし、また登場する人間たちは彼にはまるで俳優のようにみえ
もしよう。この超越的宿命論は多大の慰藉となるのみならず、多くの真実をも含んでいよう。ゆえに
いつの時代にもこれは教義として主張されもしたのだ。まことに率直な見解としてここに引用する値
打ちがあるのは、世故にたけた宮廷人の証言、しかもネストルの年齢〔高齢〕に及んでなされたもの
であって、九十歳のクネーベルは一書簡でこう述べている。「仔細に観察すると、たいていの人間の
生涯には一種の計画が存在する。それは自分自身の性質によりあるいはその性質を導く四囲の事情に
よって、いわば彼らの眼前に描きだされたものだ。彼らの生涯の諸状態がいかに変転きわまりないも
のにもせよ、結局はそれらは相互のあいだに或る種の一致がみられるごときひとつの全体として現わ
れる。…………或る特定の運命の手が、いかに隠れて働こうと、手の動きが外的作用によると内的衝
動によるとを問わず、はっきりと姿を現わす。否しばしばその手の進む路で、矛盾する動因が働くこ
とすらある。経過がいかに入りくんでいても動因と方向はつねにそれをとおして姿を現わす」(クネ
ーベル『文学的遺稿』二版、一八四〇年、三巻四五二頁)。
さて以上に述べた各人の人生行路における計画性はたしかに部分的には、生まれつきの性格の不変
なること、あくまで固定的であることから説明できる。これらは人間をつねに同じ軌道へと連れもど
すからである。各自は自分の性格にとって何が最適であるかということをはなはだ直接的にかつ的確
に認識するがゆえに、一般にはこれを明瞭な反省された意識へと取りあえることをせず、人はいわば
本能的にこれに従って行動する。このたぐいの認識は、明確な意識に達することなく行動へと移行す
すかぎりにおいて、マーシャル・ホールの《反射運動》に比較することができる。 この運動によって各人は、みずからに事情の説明できぬまま彼個人に最も適切なものを追求し把握する
のであり、そのさい外からも、また彼自身の誤った概念や偏見からも圧力がかかるわけではない。砂中
で太陽によって孵化され、卵殻からはいでた亀が水を目にしえなくとも、すぐさまその方向へ歩みはじ
めるようなものだ。したがってこれは、唯一の適切な道へと正しく各人を導く心の羅針盤、隠れた性癖
であり、しかもその道が一定の方向を保っていたことは、通過し終えてのちはじめてこれに気づくもの
なのである。――しかしながら外部事情の強い影響や大きな圧力にたいしてはこれでは不十分とおもわ
れる。またその場合、この世で最も大切なもの、つまり多大の行為と心労と苦悩をつうじて購われた人
生行路が(たといこの人生を導く残りの半分、つまり外からくる部分だけにせよ)真に盲目の、そ
れ自身はなにものでもない、いかなる秩序をも欠いた偶然の手から、その部分のすべてを獲得するな
どとは信じられない。むしろ善人はこう考えたい。――《歪象》とよばれる(プイエ、二の一七
一)或る種の像は、肉眼にはゆがんだ不具の怪物にしかみえぬが、円錐形の鏡でみると正常の人間の
形姿となって現われる。――これと同様に世界の過程の純粋に経験的な把握はかの像を肉眼で見るの
に似ており、これにたいして運命の意図を追究するのは散乱せるものを結合し秩序づける円錐鏡での
観察に似る、と。けれども以上の見方にたいしてはこれと対立する見方も成りたつ。すなわち、人生
の出来事に計画的関連性が感じとれるようにみえるにしても、それは、ものごとに秩序をつけ図式を
あてはめようとするわれわれの空想力が無意識に作用するためであり、これは、まったく盲目的な偶
然によって壁面に汚物がまきちらされたのに、そこへ計画的関連性を読みこむ結果、明瞭な美しい人
物像や群像が見てとれるといった場合の空想力に似ている、と。 ところで、われわれにとって言葉の最も高度な真実の意味において正しきもの有益なるものとは、計画
されるのみでついに実現に至らなかったもの、つまりわれわれの脳裏以外には存在せず――アリオストの
《陽の目をみぬ空しき計画》――、偶然による挫折をそのあと一生涯くやまねばならぬもの、おそらくそ
ういったものではなかろうとおもわれる。そうではなくて、現実という大いなる図像のなかにほんとうに
刻印されたもの、それが目的にかなっているところを見とどけたのち、それについてわれわれが確信をも
って《そうなる運命だったのだ》といえるもの、おそらくそういうものであるだろう。したがって、この
意味における偶然と必然の統一によって。この統一のおかげで人生行路を進むさいに、本能的衝動として
現われる内的必然性が、つぎには理性的な熟慮、そして最後に外部からの四囲の状況の働きかけ、これら
が相互に手助けをしあって、人生が終わりをつげたところで、それを円熟し完成したひとつの芸術作品
として現わす。ただしそれ以前、人生の進行の過程においては、着手されたばかりの芸術作品と同じ
く、計画も目的も認識されぬことが多い。けれどもその完成ののち仔細に観察する人ならば、だれで
もかかる人生行路を、慎重きわまる予見と知恵と忍耐の作品として驚きの目をみはるにちがいない。
ところでこの作品の意義は全体的にみれば、それの主体が普通一般のものか、それとも例外異常のも
のかということに応じてきまるものであろう。この観点からすると吾人は、偶然が支配するこの《現
象界の基底にはいたるところ《思惟界》があり、それは偶然そのものをも支配するものだ、とのは
なはだ超越的な思想に達することもできよう。――むろん自然はすべてのことを種族のために行なう
のであって、個体のためにではない。自然にとっては種族こそすべてであり、個体はなきに等しいか
らである。しかしながらわれわれが《作用する》としてここに前提したのは自然ではなく、自然のか
なたにある形而上学的なものであって、これは各個体のうちにおいて完全な不分割の姿で存在し、し
たがってあらゆる個体がそれにあずかるところのものである。 いったいこれらの事物についてはっきりとした考えをもつためには、むろんまず次の問いに答えなく
てはなるまい。人間の性格と運命がまったく相容れないということがありうるのか? ――それとも
大ざっぱにいって、いかなる運命でもいかなる性格にも適合するのか? ――それとも、劇の作者に
も比すべき秘密のとらえがたい不可解な必然性があって、両者をそのつど便宜適合するのであるか?
――だがしかし、まさにここがわれわれの明確にしがたいところなのである。
一方でわれわれは、一瞬一瞬のわれわれの行為がわれわれの左右しうるものであるごとくに信じて
いる。ところが、自分のいままでの生涯をふりかえり、とりわけわれわれの不幸な歩みとその結末を
眼中においてみると、どのようにしてこれをなしえたのか、またあれを中断しえたのか、という点が
わからぬことがよくある。それで、ほかの力がわれわれの歩みを導いたかのごとくにおもえてくる。
だからシェークスピアも、
運命よ、力をお見せ。わたしたちではどうにもならぬ。
定めはまぬかれようがない。なるようになるがよい。
『十二夜』一幕五場
といったのだ。
古代人は詩にせよ散文にせよ運命の全能を飽くことなく強調し、そして運命にたいする人間の無力
を指摘した。いたるところにみられるのだが、これは彼ら古代人にしみこんだ確信であり、彼らは事
物の関連を感じとる場合に、はっきりと経験されるものよりも神秘的な、いっそう深みのあるものに
より強く惹かれた。(ルキアノス『死者の対話』一九、三〇、ヘロドトス『歴史』一巻九一章、九巻一
六章)。 ギリシア語中にこの概念を表わす語が豊富なのはこのためで、ポトモス、アイサ、ヘイマル
メネー、ペプローメネー、モイラ、アドラスティア、その他まだあるであろう。これにたいして《プ
ロノイア(先知、先見)》の語は、《ヌース(精神、知性)》すなわち第二次的なものから出ているので、
運命というものの概念を混乱させてしまう。この語によって概念はむろん平板明快になるが、また皮
相で誤ったものにもなってくる。ゲーテも『ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン』(五幕)で「われ
ら人間と申すものは、われとわが身が意のごとく導けるものではない。われらが身を左右する力はす
べて魔の手に委ねてあるのじゃ。その彼らが思うままに邪念をふりまわしてわれらの悲運をつくるの
じゃ」と。また『エグモント』(五幕最終場)では「人間というものは、自分では自分の生活を導き自
分みずからの舵をとっているつもりだが、そのじつ内心そのものがあらがう術もなく自分の宿命のほ
うへ誘いよせられてしまうものです」といっている。いやすでに予言者エレミヤはいった。「人の道
はおのれによらず、かつ歩む人はみずからその歩みを定むることあたわざるなり」(一〇章二三節)。
こうしたことはすべて、われわれの行為が二つの要因の必然的所産であることにもとづく。そのひと
つ、われわれの性格は不変で固定しているが、ア・ポステリオリにのみ、すなわち徐々にしか知るこ
とができない。他は動因であってこれは外部にあり、この世の動きによって必然的に招きよせられ、
そして性格を、その固定的特性を前提としつつ機械的ともいうべき一種の必然性をもって限定する。
さてそのような経過をたどるのを判断する自我は認識の主体であり、それ自身は前記の二者にたいし
て無縁のまま、ときにはむろん驚きの目をみはることはあるにしても、たんに両者の作用の批判的傍
観者にすぎない。 一八五二年一二月二日の『タイムズ紙』に次のような供述がのっている。グロスターシャー
のニューエントで検屍官ラヴグローヴ氏のまえでマーク・レーンなる男の溺死体の検屍が行なわれた。溺
死者の兄弟は《マーク行くえ不明の第一報をきいて、ただちにそれは溺死だ″とわたしは答えました。
それはわたしが昨夜この件を夢で見たからです。わたしは深く水につかりながら彼を引きあげようとした
のです》と陳述した。次の夜彼はまたしてもマークがオクスンホールの水門の近くで溺れ、マークのそば
で鱒が一匹泳いでいる夢を見た。翌朝別の兄弟とともにオクスンホールへ出かけた。するとそこで水中に鱒が
一匹みえた。彼は即座にマークがそこにいるにちがいないと確信し、じっさいその場で死体をみつけた。
――一尾の鱒が眼前を泳ぎさえるといった些細な出来事でさえ、数時間もまえから一秒の狂いもなしに予見
されるわけである!
過去のいろいろの情景を正確に想いおこしてみると、たくみに構想された小説におけるがご
とく、そこではすべてがじゅうぶんに計画されたもののごとくに見える。
われわれの行為もわれわれの人生行路もわれわれのなす業ではない。ただしわれわれの本質
と存在は別である――だれもそうは考えぬが。というのは、われわれの行為と人生行路はこの本質と存在
の基礎の上に、また厳密な因果の結びつきのもとで現われる四囲の事情と外的な出来事の基礎の上に、完
璧な必然性をもって進行するからである。したがって人間の生誕のさいすでに彼の人生行路の全部がこま
かい点にいたるまで決定的に定まっているのだ。だからきわめて能力のある夢遊病の女は人生行路を正確
に予見しうるのであろう。われわれの人生行路と行為と苦悩とを考察し評価するにあたって、この大いな
る確実な真理をしっかりと心にとどめておくべきだとおもう。 ところで、ひとたび以上の超越的宿命論の視点を把握して、さてその立場から個人の人生を観察す
ると、出来事が明らかに物理的(外面的)には偶然であるのに、精神的(内面的)には形而上学的必然
性をもつという対照の著しさに、いかなる演劇にもまさるすばらしさを眼前に見る思いのすることが
ある。しかも形而上学的必然性のほうはけっして論証しえず、むしろ依然として想像されるのみなの
だ。こうした点を万人周知の実例によって――同時にこの実例は極端などころがあるから典型的な例
になるのだが――はっきりと思いえがくには、シラーの『鉄工所への用足し』をみるがよい。フリー
ドリーンの遅刻はミサの務めのためにまったく偶然にひきおこされるが、他方それは彼にとってはな
はだ大切で必要なことなのである。おそらくだれでもじっくり考えてみれば、かりにそれが格別重大
だとかはっきり印象に残るとかいうのではないにしても、自分の人生行路に類似の場合を見いだすこ
とができるにちがいない。かくして次のような見方をせざるをえない人も少なくなかろう。《秘めら
れた説明不可能な或る力がわれわれの人生行路の紆余曲折のすべてを導くが、それはわれわれの一時
の意図にさからってであるにしても、結局は客観的全体と主観的合目的性に副うように、つまりわれ
われの真の幸福に役立つように導くものである》と。だからわれわれは、愚かにも逆向きの願望をい
だいていたのだという事実に遅まきながら気づくこともよくあるわけだ。《運命は意欲ある者を導き、
意欲なき者を引きずる》――セネカ『道徳書簡』一〇七〔一一〕。さてかかる或る種の力はすべての事
物を見えざる糸で引きつらねながら、因果の連鎖がなんら相互の関連もつけずに放置しておく事物を
も連結して、必要なときにそれを出会わせることになろう。つまりこの力は現実生活の種々の出来事
を、あたかも劇詩人が劇中の出来事にたいしてなすがごとくに、思いどおりに動かすであろう。偶
然と錯誤、これはさしむき直接的には事物の規則正しい因果応報をかき乱すものであるから、かの見
えざる手のたんなる道具なのであろう。 必然性と偶然性が奥深い根底でひとつにつながっていて、そこからかかる端倪すべからざる力がで
てくるのだ。という大胆な臆説にわれわれが駆りたてられるのは、なによりもまず次のようなことが
考慮されているからである。すなわち、自然的、倫理的、知的な意味での各人独自の個性は、彼という人
間のすべてであり、したがって最高の形而上学的必然性に由来するに相違ない。だがいっぽうこの個
性は(和足が主著続編四三章で明示したごとく)、父親の倫理的性格、母親の知的能力および両者の全
結合の必然的な結果として生ずる。しかも両親のむすびつきはたいていはあきらかに偶然な事情によっ
て惹起されたものだ、ということである。ここにおいて、必然性と偶然性は究極的に統一的たるべし
との要求ないし形而上学的・倫理的要請が抗しがたい力でわれわれに迫ってくる。けれども両者を統
一する根底をはっきりした概念として把握することは不可能であろうと私はみるもので、ただ言いう
るのは、両者はともに古代人が《運命》(ヘイマルメネー、ペプローメネー、ファトゥム)とよ
んだもの、彼らが各人を導く《霊(守護神)》の語で理解したもの、またいっぽうキリスト教徒
が《摂理》として尊重したものであろう、ということである。この三者は、ファトゥムが盲目、
他の二つ――ゲニウスとプロノイア――は目がみえると考えられている点でたしかに相違しているけ
れども、しかしこうした神人同形観的な区別は、事物の内奥の形而上学的本質を問題にするさいには
消滅し、いっさいの意味を失うものである。しかもわれわれはそこに、かの偶然と必然の説明不可能
な一致――人間界万般の神秘的な導き手として現われる――の根本を探究しなくれはならない。 各個人にそなわっていて、その人生行路に采配を振る《霊》という概念はエトルリア起源とされ、
古代人には広く親しまれていたものである。その中心的内容がプルタルコスの引用したメナンドロス
の詩句にみられる(プルタルコス『心の平静について』一五、ストバイオス『抜粋』一巻六章四節、
アレクサンドレイアのクレメンス『ストロマテイス』五巻一四章)。
生誕のときからすべての人に良き霊(ダイモン)が、
人生行路の影の導き手として
付きそいとなるものだ。
プラトンは『国家』の末尾で、各人の霊魂が反復される再生をまえにして、自分に適した性格
をくじで引くさまをえがき、次にこういっている。《さてすべての霊魂たちが自分の生涯を選びおえ
たとき、みなくじの順にならんで、ラケシスのところへ進みでた。ラケシスはそれぞれに各自の選ん
だ神霊(守護霊)をつけてやり、生活の守り役、各霊魂の選んだ生活の実行者たらしめた》(一〇巻
〔一六〕六二一)。この個所についてポルピュリオスは熟読の価値ある注解を書き、ストバイオスがそ
れを『抜粋』二巻八章三七節(三韓三六八頁以下、とくに三七六頁)で伝えている。ところでプラト
ンはもう少しまえのところ(六一八)でこれについていう。《神霊が汝らをくじで引きあてるのでは
なく、汝らのほうが神霊を選ぶのだ。最初にひく番の者は最初に生涯を選びとるがよい。その者が必
然的にしばりつけられる生涯を。》――これをホラティウスは美しくいい表わしている。
それを知るは守護神、生誕を導く友、人間性の神のみ
そは各々の生涯に即して死すべきもの、
相貌はうつろいやすく、明るくあるいは暗し。
『書簡』二巻の二の一八七〜一八九 これが《霊》について一読に値するアプレイウスの『ソクラテスの神について』二三六頁にあ
り、短いが有意義な一章がイアンブリコス『エジプト人の秘儀について』九の六、《特殊な霊につい
て》にある。さらに注目されるのがプロクロスのプラトン『アルキビアデス』への注解のなかの個所、
クロイツァー版七七頁である。《われわれの全生活を導き生誕以前に選択されたわれわれの人生行路
を現実たらしめるもの、宿命と運命の神々の賜物を分与し、さらに節理の光明を提供し分配するも
の、これこそ霊である。云々。》テオプラストゥス・パラケルススは同じ思想をとりわけ深く把
握してこういっている。「各々の人間が一つの霊を有し、霊は人間の外部に住み、かつその座を上
天の星辰中に置くのは、《運命》がよく認識されるようにするためである。霊は人間が仕える主人の
独自の性格を利用する。出来事の兆を事前と事後に主人に示すのはこの霊だ。これらの兆は出来事の
後までも残るのであり、かかる霊が《運命》とよばれている」(テオプラストゥス『著作集』シュト
ラースブルク、一六〇三年、二巻三六章)。注意すべきは、まさにこの思想がすでにプルタルコスに
みえていることで、地上の肉体のなかに埋めこまれた霊魂の部分のほかに、より純粋な部分が外部の
頭上に浮遊していて、星として現われ、当然のことながら霊(ダイモーン、ゲニウス)とよばれる。
それは彼を導き、また賢い人はすすんでこの霊に従う、というのである。問題の個所はここに全文を
引くには長すぎる。『ソクラテスの霊について』二二章〔五九一E〕にあり、主要な文章は次のごとく
である。《さて肉体内に埋められた部分は霊魂とよばれるが、消滅をまぬかれる部分は多くの人び
とがこれを精神(知力)とよび、自分たちのなかに宿ると考える〔……〕。正しい見方をする人びとは
外部にあると考えており、それをダイモーンとよぶ。》ついでにいえば、キリスト教は周知のごとく
異教徒の神々や霊どもをすべて悪魔にしてしまったが、この古代人の《霊》からは学者や魔術師た
ちの守護神(スピリトゥス・ファミリアリス)をつくりだしたようである。――キリスト教の摂理の
観念はよく知られているから、ここでくどく述べる必要はなかろう。 ――ただし以上のすべては、問題になっている事柄の比喩的・寓話的なとらえ方である。一般にわれ
われは、きわめて深遠なかくれた真理を図像や比喩以外の方法でとらえることは不得手なのであるが。
ところでじつは、外部からの影響をさえ左右するかの隠れた力は、やはりわれわれ自身の神秘的な
内部にしかその根をもたぬのに相違ない。全存在の始めと終りはけっきょくわれわれ自身のうちにあ
るからだ。しかしその単なる可能性でさえ、われわれがこれを見きわめるのは、最も幸運な場合でも
類推と比喩によるのであり、しかもそのわずかなものをさえはるかに遠くから見るのみである。
さて、かの力の支配の身近な模型をわれわれに示すのは自然の目的性である。それは合目的なるも
のを、目的の認識なしに生ずるものとして示す。外的合目的性、すなわち種々のものとくに異種のも
ののあいだに、無機物にも生ずる合目的性が現われるときにはとりわけそうである。たとえばその著
しい例が流木であって、流木はまさに樹木のない極地方へ海の力で大量に押し流されるものである。
もうひとつの例に、地球の大陸は完全に北極のほうへ偏っていて、北極の冬は天文学的理由で南極よ
りも八日短く、そのためにずっと温和だという事実がある。しかしながら、独立の有機体内で明瞭に
現われる内的合目的性、つまり自然の技術と自然の単なる機構とを、すなわち目的因と作用因とを媒
介する驚くべき一致(これについては私の主著続編二六章三三四〜三三九参照)、この一致からし
てもわれわれは類推によって、いろいろの点、否、遠くへだたった点から発するもの、見かけ上縁な
きものが、それにもかかわらず相互にしめしあわせて究極目的にむかい、そこでぴたりと出会う、し
かもこれが認識によって導かれたのではなくて、あらゆる認識の可能性に先んずる高次な必然性によっ
てそうなる、このような有様をながめわたすことができる。 ――さらにまた吾人は、カントおよびの
ちにはラプラスによって提唱された惑星系の成因にかんする学説を――これが正確である度合いはか
なり高いであろう――はっきりと思いうかべ、かつ私が主著続編二五章三二四頁で試みた考察方法に
達し、かくして、不変の法則に従う盲目的な自然力の動きからついにこの秩序ある驚嘆すべき惑星の
世界が生じた事情を考えあわせるならば、ここでもまた或る種の類推がえられ、次の事態がありうる
ことを一般にまた遠方から見わたすことができるようになる。すなわち、個人の人生行路さえも、出
来事がしばしば盲目なる偶然の気まぐれのしわざであるにもかかわらず、やはりいわば計画的に導か
れ、その人の真の究極的な幸福にかなうものだ、ということである。かく考えてみると、摂理にかん
する教義はどこまでも神人同形観的な見方であるから、そのまま文字どおりに真実だとはいいえまい
が、しかしそれはひとつの真理の間接的、寓意的かつ神秘的な表現であり、あらゆる宗教的説話と同
様実用向きに、また主観的安心立命のためにはじゅうぶん事足りるものである。たとえばカントの道
徳神学の場合がそうで、これは精神修養のプランとしてのみ、つまり寓意的にのみ理解されるべきもの
である。――要するに一言でいうならば、それは真にあらざるも真に近し、であろう。かの鈍重かつ
盲目的な自然の原動力――その相互作用から惑星系が生じた――において、のちに世界で最も完璧な
現象〔人間〕中に登場する《生への意思》はすでに内部作用者、教導者であり、かつ厳密な自然法則
に従い、目的にむかって活動しつつ、世界とその秩序の建設のための基礎をすでに準備している。た
とえばまことに偶然な衝突ないし震動が黄道の傾斜と公転速度を永久的に決定し、最終結果は、かの
意志の本性全体の現われであるに相違ない。なぜならこの本性はすでにかの原動力そのもののなかで
働いていたのだからである。――さてこれと同様に、ひとりの人間の行動を規定するすべての出来事
と、それを招きよせる因果の結びつきは、この人間自身にも現われるのと同一の意思が客観化された
ものにほかならない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています