【ショーペンハウアー】ペシミズム [転載禁止]©2ch.net
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人生とは、通例、裏切られた希望、挫折させられた目論見、
それと気づいたときにはもう遅すぎる過ち、の連続にほかならない。 >>435
ペシミズムは悲壮感から来るものだが、死を強く意識する点では武士道に通じるものがあって
日本人の国民性と親和性が合致したのかもしれない
それにしてもこれほど死を美化する民族って他にいるんだろうか ハイデガーの母国もそうなんじゃないの。
人間の本来性は死を覚悟するものだということで。 この人よりも説明が簡潔で分かりやすい哲学者はいないと思う、ヘーゲルとは正反対だ ショーペンハウアーの正体はヒトの生態調査に来たエイリアンなんじゃないか? スレタイが最悪だな
ショーペンハウアーに最初にペシミストのレッテルを貼ったのはただのキチガイ素人哲学者のマインレンダーだしその風評被害を持ち込んだ森鴎外はそもそもショーペンハウアーの著作もマインレンダーの著作も読んだことがない又聞きだけの野次馬だし
ショーペンハウアーに対してペシミストのレッテルを貼るのはまったくもって不当だ ショーペンハウアーは、生きてても良いことなんてないと言ってる訳で
実際ペシミズムな訳だが 悲観主義を前提に「それでも」何かを成そうと生きることに意義があるという文脈でないかな。 西尾維新氏の作品を支持してる読者はどれくらい自覚的な実存主義者なんだろうな。
武器の名前が「自殺志願(マインレンデル)」だったり異能の力が「過負荷(マイナス)」だったり芥川龍之介、夏目漱石、太宰治の言葉を引用してたり、
直接ショーペンハウエルの言葉を散りばめるんじゃなくて、後から影響を受けた人物からの引用が目立つ。 ショーペンハウアーの意志と表彰の世界をちゃんと読むにはその前に書かれた論文である根拠律の論文や色彩論の論文も読まないといけない
第1巻の時点でショーペンハウアー自身が自分が以前に書いたそれらの論文で説明しているので本稿では説明を省略すると断っている記述が大量に、しかも理論の基盤となる重要なポイントで出てくる
一冊で完全な体系として残してくれれば俺の財布に優し買ったのになぁ、やっぱシリーズ全部買わせたいというショーペンハウアーの父親譲りの商人気質がここに現れてるんじゃないか ショ−ペンハウア−哲学の客観(=物自体)とは、“何らかの主観に認識された対象物”と定義されている。
従って、カント哲学での「物自体」とは、大きく概念が異なっている。ショ−ペンハウア−は、“世界のすべての事象(客観的世界)”は
自己の主観を通して認識されるとしている。
カントの主観と客観(物自体)との連関に見られる“物自体”の捉え方は、形式論理思考(三段論法)に基づく主観の認識を基底として
“物自体”を捉えている。当然、形式論理思考からは“物自体”を導き出すことはできない。
従って、カントの場合は、主観と客観との関係は、完全に切り離されて定義化されている。 主観だけじゃ世界が欠けるだろう。客観があるから物は見えている。 客観があるから見えてると言うのは、結局は誰にも分からないとして経験論では無視してた訳だが
そういう態度でいるのが妥当だろうな、カントのように分からないけど確かにあると前提することで
有効な法則性を抽出しようと言う試みにも一定の意味はあるだろうが
幽霊がいるみたいな不確かなことを断定的に定義しようとするのやはり信仰だ 学習院でショーペンハウエル研究やるんだってな。ついに皇室まで動き始めたか。 >>446
後のエッセーで「私の主著、私の主著」と繰り返し言及してるから、
「これ一冊を読めば十分なんだな?」と思ったんだが。
そうじゃなかったのか。 「根拠律の四つの根」はラテン語が原文だからな。私はショーペンハウエルの伝記を、ロシア語で読んだ。
恐らくドイツ語よりも読みやすい筈。 時間・空間の考え方なんかは、思いっきりカントっぽいな? 457
仮釈放の身になったのか
二度と罪を犯すなよ >>457
どんな罪なんだよ? 幸ちゃんはショーペンハウエル大先生と同じ仏教徒だから、
原罪という考え方はしない。 とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
EU1SB 何故第一印象で未来の妻を可愛いと思ったのだろう?
この答えは「自然の大意志」としか言いようがない。つまり、自然が幸ちゃんにこの女性に将来
子供を産ませるように命じたわけだ。様々な妨害のために長い年月を経てしまったが、
今やっと過去の記憶の大切な部分が戻った。やはり儀式じゃなくて認識なんだ。
愛の告白? バカバカしい。我々が1年半感情を共にしたことを、何で自然は忘却させていたのか?
いや、逆に忘却という狂気によって種族の霊は我々二人を守ってくれたのだ。
ショーペンハウエルはこう述べている。「幸福は、どんな時でも、決してありえないような場所にしか、存在しない」と。
本当にその通りだな。心が満たされるとどうなるか? 感情がなくなって、食欲と性欲と睡眠欲が残るだけだ。
それ以外の感情はない。つまり、生まれたばかりの赤ん坊と同じで、本能のみになり、理性もなくなる。
だが、理性がなくなっても、倫理は残るし、肉体的苦痛もあるわけだから、神経だけで動くということだ。
いくら他の女が誘惑しようと、無反応なら、もう誘惑すらされなくなる。これこそ、「完全な結婚」なのだ。
じじつまた、激しい熱情は通常、一目見たときに生ずるものである。
真に恋し者にして、ただ一目見て恋せざりし者のあるべきや
(シェークスピア『お気に召すまま』第三幕・第五場)
↑
要するに4歳の幸ちゃんが「この娘可愛い」と思ったことが「激しい熱情」だったわけだ。
勿論、幼児の幸ちゃんにはそれを表現する方法は限られている。そこで未来の妻は、
熱情を結婚に変換するための「儀式」を仕組んだわけさ。女は直接的にしか愛を確認する
すべがない。それが茶摘みの手遊びだったわけだ。そして幸ちゃんはそれに勝利し、愛を
勝ち取ったわけだが、幼児には結婚もセックスもまったく理解できない。そして忘却の薬を
飲まされて狂気に陥った。長い年月を経て記憶を回復し、狂気から脱し、今度こそ本当に
「愛とは単なる性欲の表現手段に過ぎぬ」と幸ちゃんは証明した! これならショーペンハウエル
もフロイドもユングも納得であろう!! 今ショーペン先生は、その主著というよりは、その倫理観によって反出生界隈で注目を浴びつつありますね 精神的に参って、こうなったらむしろドン底まで落ちてみようと思い
この人の著作を一通り読んだんだがむしろ元気が出ちゃったよ、どうしてくれるんだよ。こいつ本当はプラス思考だろ。
ありがとうショーペン先生 フランス革命以降の、近世が終わって近代が始まる期間と、ショーペンハウエルの生きた時代は重なる。
この辺を掘り下げると興味深いな。 子供より二人の関係が永遠にあること、信仰が別々にでも永遠に続くこと。 >>471
もともと、ウツ病で自殺寸前くらいの人に愛読される書物だろ ブラックホールが、ホワイトホールに通じてるのと同じだ
究極の後ろ向き思想は、究極のポジティブへとつながる 介護もほふく前進か、簡易トイレ(おむつ新製品)を使えば。
〜笑止 停止の時代より〜 869幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2018/04/15(日) 13:49:53.87ID:0DcrEf5C0
神道の日本人も、道教の中国人も、ヒンドゥー教のインド人も
全員多神教だよね。 ショーペンハウエルの生誕場所発見
https://www.google.com/maps/@54.3406415,18.6455155,3a,75y,40.69h,90t/data=!3m8!1e1!3m6!1sAF1QipOEWR6IYDgT93662Tdw5cnNIL9rKwm1Kb4fLzqi!2e10!3e11!6shttps:%2F%
2Flh5.googleusercontent.com%2Fp%2FAF1QipOEWR6IYDgT93662Tdw5cnNIL9rKwm1Kb4fLzqi%3Dw203-h100-k-no-pi-0-ya279.62378-ro0-fo100!7i8421!8i3799
昔はここに商船の倉庫があった。 育ての親のフローリス=ショーペンハウエルは、1773年のベルリン滞在時に
カール大帝に見染られて謁見を受けた大商人のブルジョア銀行家だった。
その15年後にアルトゥール=ショーペンハウエルは誕生した。
産みの母は、倉庫で出産した子供アルトゥールを捨てたのだろう。 ダンツィヒもこの150年間でかなり埋め立てたんだな。以前のモトワヴァ川の中州の島は、
今では陸続きになっていて、ショーペンハウエルの生誕地の倉庫があった場所は、
グダンスク=オルニヤ駅から続く鉄道のヤードになっている。 (たとえばキーザーの記録の第三巻・第二冊にある少年アルストの話や、やはりキ
ーザーの記録の第一〇巻・第三号八―二一頁に出てくる夢遊症患者コッホの話のほかに、一八二四年版
ユスティヌス・ケルナー『二人の夢遊症患者』三二三―三三〇頁に出てくる少女の話などがあるが、ケ
ルナ―に出てくる少女は「この視力の場所は、目がさめているときと同様に脳である」とつけ加えて述
べている。)なぜなら、たといわれわれが胃のあたりなどの神経の感受性がきわめて強度のものになると
考えようとしても、本来の意味での視覚は、すなわち光線の媒介をつうじる視覚は、たとい問題の部分
のように厚くおおわれておらず光が通ってゆくところであっても、光学的器官がないところではけっし
て生じないからである。視覚を可能にするのはたんに網膜の高度の感受性ばかりでなく、眼球内のいた
るところにあるきわめて芸術的で複雑きわまる光学的器官である。物理的な視覚はたしかにまず第一に
光に対して敏感な面を必要とする。しかしこれにつづいて、この面上に光彩ならびに光を屈折させるき
わめて複雑につくられた透明な媒体をつうじて、外部からあいついで到達する光線をふたたび集中させ
ることを必要とする。そしてこれによって像―もっと正しく言えば外の対象にきちんと適合した神経
の印象―が生じ、さらにこの像をつうじることによってのみ、悟性に微妙な素材が与えられ、これら
の素材をもとに悟性は、知性的な、因果律を適用する過程を経て、空間ならびに時間における直観をも
たらすのだ。これに反し、みぞおちや指先は、たとい皮膚、筋肉などが透明であったにしても、たんに
孤立した光の反射がえられるにすぎない。したがって、みぞおちや指先で見ることができないのは、す
きまのある暗箱では集光ガラスがなければ写真がとれないのと同じ事情である。さらに、体のなかの
まったく奇妙な部分が感官の機能をはたすことができるなどと称しても実はそれは本来の機能ではない
こと、またこうした場合は光線の物理的作用をつうじて物をみているわけではないことを証拠だてる実
例がある。それはキーザーが言及した少年の場合である。 Ouvertüre aus der Oper: SARDANAPALUS (1698)
https://www.youtube.com/watch?v=NKwvI9fL4nM 「意志と表象としての世界」ということは
魔道士アレイスター・クロウリーの「魔術とは意志に従って変化を起こす科学であり業である」と関連があるのではないか?666 【ショペンハウエルの言葉】
不幸は一般に原則である >>鹿取信二
>>これらの大学では、聖書の逐語霊感論(or 聖書無誤説)に立っていませんから、そうなります。 そんなに驚いているのを見ると、聖書学の本を何も読んだことがないんですね。
だったら、『聖書解釈の歴史』(日本基督教団出版局、同様のが三種類あります。よかったら全部)を読んでみてください。 聖書は人間の原語で、特定の文化の下で書かれているので、その意味で制限があります。
また、古代の人と近代以降の人とでは、文章を書く上で、その精神性に大きな違いがある。このことをあなたのような人が「誤りや矛盾」があると騒ぎ立てているわけですね。
なので、そういうことを「誤りや矛盾」と言っていいのだとすれば、それを知ったうえで、聖書の啓示としての神の言葉の部分を読み取っていこうというのが、多数派の聖書学の立場なわけです。
あなたは、おそらく現代の聖書学の本を一冊も読んだことがないようなので(無神論者なのでしょうがないいけど)、「爆弾発言」だなんて、無知ぶりをひけらかしているのではなく、図書館
にでも行って専門書を見てみてくれませんかね。
そうすれば、信じようと信じまいと、何が常識的なことなのかがわかると思いますから。 すべての人に開かれていることです。 この少年は厚い木綿の靴下をはいていても足
の爪先が物を読むことができるし、また本気でそうしたいと望んだときは、指先で物を見ることができ
るけれども、そのまえにいちおう室内を手で触れて歩くのである。このことを少年自身が彼の異常な知
覚について述べたことが裏書きしている(前掲書一二八頁)。「彼(少年)はこの異常な知覚を視覚とは
名づけず、"いま起こっていることがどうしてわかるのか"という質問に対し、"なにか新しいことだか
らわかるのです"と答えた。」やはりキーザーの記録の第七巻・第一冊五二頁で、ある女の夢遊病患者
は、彼女の知覚を。「これはたしかに見ることであるが、けっしてふつうの視覚ではなく、直接の視覚
である」と言っている。一八一八年シュトゥットガルトで刊行された『カールスルーエの透視者アウグ
ステ・ミュラーの物語』の三六頁は次のように伝えている。「彼女は、われわれならば眼のまえの手で
すら見わけのつかないようなまっくらやみのなかでも、人びとや対象をすべて、このうえもなくはっき
りと見、かつ認識する」夢遊病者の聴覚にかんして、キーザーの陳述(『大地主義』(テルリスムス)初版・
第二巻一七二頁)は、同じようなことを証明している。すなわち、周知のように音の伝導体としては綿は最悪の
ものであるにもかかわらず、木綿糸はとくに良好に音を伝えるというのだ。こうした点についてとくに教え
るところが多いのは、上述のアウグステ・ミュラーについての本のなかの次のような個所である。「注
目すべきことは、他の夢遊症患者のなかでも観察されるように、アウグステは部屋のなかにいる人びとのうち
彼女のすぐそばにいる人の発言でも、直接話しかけられたのでなければ、なにも聞きとれないことであ
る。これに反し、たとい大ぜいの人びとがそれぞれ勝手気ままに話しあっているさいちゅうでも、どん
なに小声であろうと彼女に向かって発せられた言葉のすべてを彼女ははっきりと理解し、返答する。文
章が朗読される場合も同様である。彼女のために文章を声を出して読んでくれる人が、文章以外のこと
を考えたとたんに、彼女はなにも聞こえなくなってしまう」(四〇頁)―― さらに八九頁には次のよう
なことが書かれてある。「彼女の聴力は妨げられないからだ。」――同じように、一八四三年刊の『ドレ
ースデンの夢遊症患者アウグステ・Kの睡眠生活からの報告』のなかで、彼女がときには手のひらだけ
を用いて、さらにしかも、まったく音をたてず唇を動かすだけで話すのを聞いたとくりかえし述べてい
る。三二頁では彼女自身が、この能力を普通の意味での聴力ととってはならないと警告している。
したがって、あらゆる種類の夢遊症患者にあっては言葉の本来の意味での感覚的知覚は問題にならな
い。彼らの知覚は、奇妙不可思議な夢の器官をつうじて生ずる直接的正夢である。知覚しようとする対
象を額やみぞおちのそばに置いたり、前述の個々の場合のように夢遊症患者がひろげた指先を対象に向
けたりすることは、その対象がそれぞれ夢遊症患者の正夢の主題となるように接触をつうじて夢の器官
をその対象に指向させるための単なる手段にすぎない。夢遊症患者のこうしたしぐさは、彼らの注意力
をはっきりと問題の対象にさし向けるために、技術用語を用いれば、彼らをこれらの対象と近い関係に
おくために生ずるのである。そのさい、夢遊症患者はこうした対象を夢に見るが、それもたんに見るば
かりでなく、対象を聞き、その言葉をわきまえ、その匂いもかぐのだ。それというのも、多くの透視者
たちは、彼らの感官のすべてはみぞおちに置きかえられると証言しているからだ(デュポテ『睡眠術全
般にかんする論文』四四九−四五二頁)。したがって、催眠術を実施するさいに両手を用いることも似
たような事情があるからで、両手が物理的に作用するのでなく、催眠術師の意志が作用するのである。
そうはいってもこの意志は、両手を使うことによって方向が定まり、決定的となる。なぜなら、相手に
接触する場合も接触しない場合もあるが、とにかく遠くから、壁の向こうからも行なう催眠術師のあり
とあらゆるしぐさがもつ効果を理解するたすけとなるのは、肉体は意志と完全に同一であり、肉体は脳
のなかに生ずる意志の像にほかならないというわたしの哲学に示されている洞察だからである。 夢遊症患者の視覚が光によって物理的に仲介される普通の意味での視覚ではないことは、千里眼も度合いが
高まれば壁によっても妨げられず、ときには遠方の国々にまで達するということからもすでに明白であ
る。この間の事情をとくに判然と説明するのは、千里眼も高度になるとおのれの内部を見とおすことが
できるようになることだ。こうした場合、千里眼をそなえた夢遊症患者はおのれの主体のあらゆる部分
をはっきりと正確に見てとる。ところが、そうした場合は、光がまったく欠如しているばかりか、当の
夢遊症患者が見ている部分と脳のあいだにある隔壁は、物理的視覚がえられるすべての条件を消滅させ
る。このことからわれわれは、どのような種類のものであれ、夢遊症患者の知覚のすべてを導きだすこ
とができる。それが外部のはるか彼方のものを見るときでも、一般に夢の器官をつうじて直観するとき
でも、言いかえれば、夢遊症患者が外部の対象を見るときでも、夢を見るときでも、白昼夢を見るとき
でも、千里眼が活動するときでも、はたまた死んだ人がまるで生きかえったように出現するときでも、
すべて同じ事情にある。なぜなら前述のおのれの肉体のなかの部分を見ることは、おそらく神経節組織
の慣習的形式のなかで手を加える。こうした作業の結果、外向けの感官から由来する直観と同様な直観
が生ずるが、この直観も外向けの直観と同じ尺度、同じ感覚で、直観された事物に適合している。した
がって夢の器官をつうじて見ることのすべては、通常の外からの印象のかわりに、内からの印象によっ
て刺激され物を見るという脳機能の活動である。しかしこうした活動が外界の事物ばかりか遠方との事
物にも関係する場合でも、客観的な現実性と真実さをもつことができるということは、形而上学的方法
によってのみ説明できる事実である。すなわち、すべての固体化を制限し物自体に対立する現象を分離
することによってのみ説明できる事実である。 すなわち、すべての個体化を制限し物自体に対立する現象を分離
することによってのみ説明できるのだが、これについては再度述べることにしよう。しかし一般に夢遊
症患者の外界との結合が、われわれの覚醒時における外界の結合とはまったく別物であることは、透視
者の感覚がおのれ自身のいっさいの印象を受け入れない反面、催眠術師の印象をすべて感じとること、
たとえば、透視者は催眠術師が嗅ぎタバコをつまむとくしゃみをし、催眠術師の食べものをそのまま味
わい、さらに、同じ家でも遠方の部屋で演奏される音楽が催眠術師の耳にはいるときはやはりともにそ
の音楽を聞くというような、かなりしばしば発生する事情が最もはっきりと証明してくれる(キーザー
の記録、第一巻・第一冊一一七頁)。
(1)医師の記述によると、強硬症が運動神経の完全に麻痺することである反面、夢遊症は感覚神経
がまったく麻痺することである。それを夢の器官が代行するわけだ。
夢遊症患者の知覚にさいしての生理学的な動きは困難な謎だが、これが解明されれば真の夢の生理学
の第一歩となるであろう。すなわち夢のなかではどのような種類の脳活動が行なわれるか、これはいっ
たい何によって覚醒時の活動と区別されるのか――そして最後に、夢のなかの脳活動はどこから刺激を
受けるのか、さらにその活動の成り行きをきめるのは何かということなどがはっきりと確実に認識され
ることになる。ただこれまでも睡眠中の直観し指向する活動のすべてについて、次のことだけは確実に
わかっている。第一に、脳が相対的に休止している睡眠中には、脳の物質的器官が活動するにほかなら
ないこと、また第二に、夢のなかで物を見るために与えられる刺激は、感官をとおして外から来るもの
ではない以上、生体の内部から来るにちがいないことである。しかし夢遊症患者の場合に、夢のなかで
の像が外界と誤りなく正しい正確な関係におかれている事情は、いまだに謎に包まれている。わたしも
それに解答を与える気持はなく、ただいくつかの一般的暗示をするにとどめておこうと思う。これに反
し前述の夢の生理学の基礎となるもの、つまりわれわれが夢のなかで物を見ることにかんする説明とし
て、わたしはまったく確実な次のような仮説を考えた。 睡眠中、脳は空間に展開する諸像を見るうえでの刺激を、前述したように覚醒時のように外からでな
く内から受けるために、その刺激の影響は、普通一般の感官からくる影響とはまったく正反対の方向を
たどらなくてはならない。その結果、そのすべての活動、したがって脳繊維の内部での振動あるいは波
動は、普通とは逆の方向に、いわば蠕動運動を起こす。普通はこの運動は感覚を受ける印象の方向
に、つまり感覚神経から脳の内部に波及するのだが、夢のなかでは逆の方向と順序をたどる。しかもこ
れによって体の他の部分でもすべてが逆行する。したがって、たしかに脳の上面のかわりに脳の下面と
はいかないまでも灰色の皮質の器質のかわりに白い髄質の器質が、逆に活動しなくてはならない。睡眠
中は脳がちょうど逆に活動する。このことから、夢遊症患者の活動が覚醒した本人になんらの記憶も残
さない理由がまず説明できる。それというのも、脳が脳繊維によってまったく逆の方向をたどることに
なり、したがって、まえにあった状態つまり睡眠中のことについては、あらゆる痕跡が失われるからで
ある。ちなみに、この考え方の正しさをとくに保証するきわめて平凡だがやはり奇妙な次のような事実
がある。それは、われわれが最初に眠りこんだすぐあとに目ざめたとき、空間的な方向感覚がおかしく
なっていることだ。そのさい、われわれはすべてをまったく逆に把握する。寝台の右側にあるものが左
側に、後ろにあるものが前にあるように想像せざるをえなくなる。しかもこの感覚は極度にはっきりし
ている。そこで、どんなに頭がしっかりしていても闇のなかでは逆の感覚が神輿をすえ、誤った想像を
打ち消すことができず、いちおうさわって物を確かめる必要がある。しかも夢のなかでは事物がまった
くいきいきと見え、夢のなかに知覚される対象のすべてが、まえにも書いたように現実と見まごうばか
りのいわば生き写しの状態になっている。このことについて、われわれの仮設は次のように説明する。
いったん生体内部から発生し、ついで中枢部から発信する脳活動の刺激は、普段の経路とは逆の経路を
たどり、最後には全経路を通って感覚器官の神経にまで達する。これがさらに普段のように外部でな
く、内部からゆり動かされて現実の活動に踏み込むことになる。 したがって、われわれは夢のなかでも
実際に光、音、匂い、それに味の感覚を持っている。ただそれらの感覚は普段のように外的原因に
刺激されて生じるのではなく、内部からの刺激によって、それも逆の方向、逆の時間的順序で生じる。
このことから単なる空想とはいちじるしく異なっている夢のいきいきしたありさまが説明できる。(覚
醒時の)空想力が描く像はつねにただ脳のなかだけにある。なぜなら空想が描く像は、たしかに形こそ
変わっているが、感官をつうじて生じた脳活動の刺激、それも過去にほんとうにあった刺激のなごりだ
からである。これに反し夢にあらわれる像は、たんに脳のなかばかりでなく感覚神経のなかにもある。
そしてこれは、内部から生じて脳のなかまで浸透し物質的・現実的に作用する感覚神経の刺激の結果と
して発生する。なんとしてもわれわれは夢のなかで実際に物を見ている。したがって、睡眠中のトラシ
ルスの両眼をシャリスがえぐり出そうとしたときアプレイウスが彼女に言わせた言葉、すなわち「生涯、
おまえの両眼は死んでいるだろう。おまえは眠っているあいだしか見ることはない」(『変身譚(メタモルフォーセス)』
第八巻一七二頁)はまことに適切な、微妙でしかも熟考されたものである。それゆえ夢の器官も、覚醒時
の意識の器官および外界を見る器官と同じである。ただ、いわば逆の末端でとらえられ、逆の順序でも
たらされるという違いがある。そして覚醒時でも夢を見ているときでも活動する感覚神経は、内部の末
端のみならず外部の末端からでも作動する。その状態はちょうど、内部が空洞化した鉄球を内部からで
も外部からでも灼熱できるのと同じである。夢の場合、最後に活動するのが感覚神経であるために、感
覚神経は脳がすでに覚醒し夢の像が普段の直観と交替したときにはじめて動きだし活動する。そうなる
と、われわれはすぐに目ざめ、現実と完全にしかもなんらの歪みもなく適合する明白さと客観性をそな
えて種々の音声、たとえば、声やドアをたたく音、銃の発射音などを聞くようになる。そのさい、われ
われは、これらの音は外部からの現実の音であることを知り、こうした音を聞いた結果、われわれはは
じめて覚醒したのだと確信するにいたる。 あるいはわれわれは、これはめったにないことだが、完全に
経験的現実性をそなえたもろもろの形姿を見ることになる。このことはすでにアリストテレスが『不眠
について』第三章の末尾で述べている。――だがここに記した夢の器官こそ、これまで詳細に論じてき
た夢遊症患者の直観、透視、第二視覚、その他ありとあらゆる種類の幻覚を出現させるものである。――
では、こうした生理学的観察から前述したような正夢の現象に戻ろう。正夢はふつう夜の眠りのなか
にも登場できる。またこの正夢が、ほとんどの場合がそうであるように直接的なとき、すなわち現実の
身近な環境で展開されるときには、夢を見たことが覚醒と同時に確かめられる。さらに、これはあまり
ないことだが、夢でまわりの環境を多少はみだし、眼前の壁の向こう側に行ったときでも、事情は変わ
らない。しかしこうした視野の拡大がさらにすすみ、たんに空間的ばかりではなく時間的にも拡大する
場合がある。その証拠に、透視能力のある夢遊症患者は、最高潮の状態に達したときには、それと定め
たあらゆる任意の場所を自分が見ている夢の知覚のなかにもたらし、その場のもろもろの動きを正しく
伝えることができる。そればかりではなく、ときとして彼らは、いまはまったく存在せずとも未来の胎
内には存在しているもの、つまり時がたち、無数の偶然に関連したこまかな原因が作動してはじめて現
実に登場するものについても、報告できる。なぜなら、人工的につくられたものであれ、自然に夢遊症
患者の視覚中に出現したものであれ、すべての透視のなかに登場する覆われたもの、存在しないもの、
はるか彼方にあるもの、未来のものについての知覚は、いずれも正夢の知覚とは寸分違っていないから
である。これらの対象は、夢の像と同様に、知性にはっきりいきいきと示される。そうしたことから
も、夢遊症と同様に、神秘的な、外部の印象に拘束されず、夢をつうじて知られる例の直覚が、現実の外界
とは知覚の関係にあることについて確実な証拠を握っている。もっとも、両者の関連がどうなっている
かは謎のままである。ふだん夜見る夢と、透視や夢のなかの覚醒との区別は、まず前者が外界との例の
関連をまったく欠いていることである。 252幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2018/10/05(金) 01:52:01.47ID:74THyRWz0>>254
『異史 明治天皇伝』を読んでいるが、福沢諭吉は実に開明的な人物だったんだな。
福沢諭吉は適塾時代に緒方洪庵からオランダ語で医学を学んだのだが、緒方洪庵は
フーフェラントの『医学全書』を『林氏医戒之略』として30巻の大著を翻訳した。
そのフーフェラントはショーペンハウエルにとってはゲッティンゲン大学医学部の先輩だ。
ローマン主義時代の欧州の啓蒙思想が幕末日本で福沢諭吉に伝わったのは興味深い。
254山師さん@トレード中2018/10/05(金) 01:53:00.23ID:IBAOAUqpp>>257
>>252
お前は適当すぎる、諭吉叩いてただろ
257幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2018/10/05(金) 01:54:27.95ID:74THyRWz0
>>254
幸ちゃんは福沢諭吉の「百姓や車曳きに学問を教えたのは間違いだった」という晩年の言説を引用しただけだぞ。
福沢諭吉は封建制の身分制度が大嫌いだったんだがな。結局身分制度は必要だったと痛感したのであろう。
264幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2018/10/05(金) 01:57:38.80ID:74THyRWz0
福沢諭吉は大坂の適塾で学んだが、最初は大坂で腸チフスを患って緒方洪庵の弟子の治療を
受けてから、本貫のある大分の中津に戻っているんだな。適塾は明治元年に閉鎖されて、
後に大阪大学医学部になった。それゆえ阪大医学部と慶応医学部は兄弟みたいなもんだ。
273幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2018/10/05(金) 02:03:01.52ID:74THyRWz0
>>266
日本語版ウィキペディアの緒方洪庵の項目には、幕末の1857年にフーフェラントの
『医学全書』を『林氏医戒之略』として30巻の大著を翻訳した件についてすっぽり抜け落ちてる。
日本語版ウィキペディアは実にいい加減な編集をしていると言わざるを得ない。
どうせヤブ医者組合の都合なのだろうが。
277幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2018/10/05(金) 02:04:24.81ID:74THyRWz0
第8回 緒方洪庵:扶氏医戒之略
https://istudy.konan.ed.jp/renandi/materialcontents/107929/101920/2016PreLabo08.pdf 、,-ー- 、_,.,r-r,.;r';"´ ゛ヽ,
.;r゛ ' , ,.ミ' ー--、ilr;r _ 'i
Y ,: r' ヾ ;r '';
(ヽ , r' ,ノ 彡
i' j! ; i .:::. ;'
ヾi. 'rtr::.' .:-':tテ、:. `i r'"t
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r ! ヽ._ _, -' .r'::::::::::::;!:::ヽ、 アルトゥール=ショーペンハウエル 1788ダンツィヒ〜1860フランクフルト
/::::::´:〉- 二 `/::::::::::::::/::::::::::::::ヽ、
r'::::::::::::::::7Tl T /´::::::::::::::/::::::::::::::::;r::::::::::-、 http://meigetu.net/?p=7082
かつて角川文庫で出ていた石井立訳「女について」が復刊の様子 パットンという連続殺人犯は人間社会に出ることはまず出来ないとのこと。
とっくに相当、人外らしい 幸福については何度も読んでるな、最近出た鈴木訳のもかなり読み易かった
アインシュタインも孤独と人生が愛読書だったとか言われてるね 「読書について」、はイチローが本を読まない理由にも通ずるもんがあるな
本を読むと主体性を失う
だが、知識がないと考えるってことも限定的になってしまうのもまた事実だな 精神に好影響な良書を読みまくることはいいことだと思うよ
知識欲を満たすこともいいし、読書のメリットは何より理性に引き戻される感がいいよね イチローとかアスリート系の人は寧ろ読書とかしない方がいいんじゃないかと思う
言い方は悪いかもだけどスポーツ選手はちょっとバカの方が良いというか
知性よりも筋肉の方が必要だから スポーツは肉体の感覚を頼りにして進歩していく世界だから
知識は先入観に繋がり邪魔になることもあるだろうな
ただ、指導者やトレーナーとなり自らが掴んだ感覚を後進に教えることで
成果を得ることも事実としてあるのでそれが全てとも言えないが
イチローにはそのやり方が正しかっただけで正解ないだろう 絶大知者のショーペンさんを観てても解る様に知性と鬱はワンセットだからね。
スポーツに励んだことある人なら解るとは思うけど、長期的な持続したトレーニングとか頭の活動を停止してある意味バカにならないと打ち込めない部分もある。
もちろん身体のコンディションを整える知識を初めとした筋トレの方法や栄養学とかメンタルトレーニングも必要だしそして何より野球での合理的な身体の使い方の感覚と言うこういうアスリート分野の知性は物凄いし、まさに天職だと思う。 運動好きや現役アスリートは統合失調症にならないという説がある
逆にいえば身体動かさないインドアの「怠け者」が頭でっかちなった結果糖質になるともいえる
頭使いすぎて結果壊れて脳筋よりバカになるとは皮肉だね でもアスリートも無理し過ぎて身体を壊し心も…てあるからほんと気を付けないといけないね 知性の仕事もアスリートもストイックさは必要だけど、いわゆる濃密に太く短くか緩やかに細く長くかの人生があるよね。
それでも人生80年、若き日はアスリートだったけど年老いて研究者になってるとかそういう色々なことを経験して楽しむことは大切だよな。 30代から能力は低下するよ
勉強は積み重ねだから引退後の中年になってからだと研究者は厳しい 確かにショーペンさんも35歳位までが神経力というか頭のピークだよみたいな話してたよな 知性の「分ける」「曖昧をつくらない」って根本に欠陥がある気がする
どっちみち厭世のまま終わってしまう人は、物に対する判断と人に対する判断を混同している
もちろん人を知性でさばいて行くことでしか生き渡っていけないのは事実だが 厭世的になって「自殺を考える子供」というのがなかなか存在しない様に知性が発達して様々な現実を知ることの欠落もあるのかなと
人生で一度も死や自殺を考えたこともない知的障害者はある意味幸福かもしれないね >知性の発達の欠陥
あるだろうな
ニーチェの「天才とは耐え難い存在である」
ってのは天才は凡人の嫉妬や羨望を煮えたぎらせるから、って他人目線で長く解釈してたけど
天才本人の「天才という状態」に対する耐え難さを現した主観からの話なのかなと思うことがある ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています