【アクトゥアリテート】永井均 10【レアリテート】 [転載禁止]©2ch.net
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かいびゃく(の隠蔽)と結びつけてないニーチェなんかつまんない >>100ではつい「ひねくれて」と表現してしまったが、そうではなくてまさに
解釈による戦いを捨て去ることがイノい願いということだろうか
うーむ
それがあまり理解できないのは、俺が汚れているからかw
なお、しょうもない話だけど、対等なルールの中での戦いだけじゃなく、
外からの評価を持ち込んでルール変更を求めたりするのは、汚れた醜い争い
ということになるだろうかw
(例えば近年では柔道の双手刈に関する話)
そうだとすれば、それは感覚的にも分かりやすい 密かな闘いのP312あたり読んでて思ったけど、永井も独我論の語りえなさを、
〈私〉のメタフィジックスやウィトゲンシュタイン入門で出してる文法的に言いたいことが
先取りされて常に言えてしまうから言えない(@)って趣旨とは別に、
隣合うものがないから言えない(A)って意味でも言ってるんだな
この辺りの永井の考察はもう先の方まで進んでて、「語りえるかえないか」みたいな
方向性から始めるやり方の限界より先に行ってると思う
なんで今更このやり方から始めてるんだろうと思ったけど、シンポジウムの議題自体が、
「語りえぬもの」だったからなんだな たまに「それは一体なにがあることなのか」みたいに書いてるときあるけど、
文章のつなぎとしていれてるのか、それとも本気で未だにわからないのか、
どっちなんだろう 悪ではなく偽として批判、か
「端的におかしい」ではなく、「真である可能性も偽である可能性も認めた上で
偽と考える」ということとすれば、独我論者(「論」というのが不正確とすれば、
端的に独我な人(?))と独我論批判者に対応するのだろうか
いや、そうだとすると、世の中は相手を悪とする醜い争いに満ち溢れてることからして、
世の中の人々はみな独我論者だということになってしまいそうなので、なんかおかしいなw 1000年前の今日みたいいな言い方は半分冗談みたいに聞こえて少し笑っちゃうけど、
私に関する言語的独我論もこの感覚なんだろうか。1000年前なら今日じゃないじゃんみたいなw
まーこの場合はなぜ1000年前だけじゃなく今日までつけるのかというと、一年の内の特定の日付をさしてるからだけど 1年前の今日であろうと1000年前の今日であろうと、「今日じゃないじゃん」
であることに変わりはないので、後者だけが笑えるとしたら、それは体験やイメージなどが全然及ばないからとか
何とかいうことであって、言語的独我論とは
必ずしもつながらないんじゃないかね
むしろ、改めて言うほどのことでもないけど、体験やイメージなどはまるで
通じない「1000年前の今日」であっても、その言葉の意味は当然のごとく理解
できてしまう、というのが言語の威力かと 最近、Twitterで政治ネタやたら多くね?
何かあったのか? 立憲主義や法的安定性だのという、やかましそうな話題にわざわざ触れてるな
別に新しい話が書かれてるわけではないように思うけど 半神も良いけど、イグアナの娘もマンガ的な視点のすごさがあると思うんだけど、
永井は気づかなかったのかな 永井さんも完璧じゃねえからなあ・・・自分の関心事以外は無視する度合いが俺らよりも強烈だろうし >>97アヴィセンニズムというか、存在と本質の問題は
岩波講座・東洋思想第四巻 イスラーム思想2 井筒俊彦著
イスラーム古典叢書 存在認識の道 モッラー・サドラー著 井筒俊彦訳
中公文庫 イスラーム思想史 井筒俊彦著
あたりを読むのがいいのではないでしょうか?
現代思想かぶれ?って感じの山内志朗ではちょっとあまりあてにならない気が・・
(誤読の哲学だけBOOKOFFで買えたのでちょっと読んだけど)
あとは「意識と本質」にも関連したこと書いてあったかも 井筒俊彦は哲学者じゃなくてシャーマンとか書いてたことあったよな 井筒氏は最近ぷねうまから「禅仏教の哲学に向けて」
英文からの和訳出てたよね 黄色い本で虚栄と実栄の話してるけど、虚栄と実栄と真栄って3つにわけたがいいと思うが。
一般的に虚栄というと持ってないのに持ってるように振舞うことだが、
宗教や文明批判の文脈だと持ってること自体が虚栄扱いだったりするし、
文脈に依存するわかりにくい言葉(虚栄)のさらに対比語(実栄)だからすごいわかりづらい。
「一般的な価値=虚栄」だとすると、実栄を求めるってことが「人々(人類)の真の価値を探して導く」
ってことなのか、「人々=虚栄」と判断して独我論の世界に入ることなのかもハッキリしない。 変性意識ってゲシュタルト崩壊と同じ?
変性意識の方を〈自然状態〉(なにも知らない幼児の見方)と定義するのか、
たとえばピアノの音をただそれだけの音としか感じられない人が、ハーモニー(音楽)として
感じれるようになること(あえて言うなら大人の見方)を変性意識というのか、どっちなんだろう。
簡単に言えば〈〉を変性意識ととるか、「」を変性意識ととるかの違い。
鉛筆や木炭のモノクロデッサンだと、うまい人が書くと何も書いてない下地の白の部分が空間
として抜けているから、ただの白色(紙の色)が空間に見えることを変性意識と言うべきだと感じるが、
実際は素人はそこが空間であるとは意識しないで自然に空間だと思って見てる、
むしろそこをただの白い背景と思う方が変性意識というべきかもしれない。
さっきとは別の意味だけど、この意味でも変性の定義はあいまい。
極端な例を出せば、月というホントは途方もなく大きいものが小さく見えることを変性意識というか、
むしろ「実は大きいもの」として見ることを変性意識というか。 >>118
134頁から始まる部分のことなら、別にそれほど分かりにくいことはないと思うけど?
あそこで言われている「虚栄」は「世の中一般で価値あるとされているもの」
とでもいう意味で、「実栄」は「世の中一般などを超越した、真に価値あるもの」
とでもいう意味だから、>>118で言われているような「(世の中一般で価値あると
されているものにつき)持っていないのに持っているように振る舞うこと」
という意味のことは全く議論されてない
あと「実栄」の捉え方については、少なくとも「人々を導く」という要素は
おそらく無いだろう(そんなに明示的に書かれてるわけじゃないけど)
「独我論の世界に入る」というのは、その表現の意味自体も、議論の中で
どんな文脈の中に入るのかも、俺にはよく分からないけど
全体の文脈として重要なのは、「虚栄」に留まることができずに「実栄」を
求めてしまうことこそが実はニヒリズムで、克服すべき課題である、ただし
それは難しい、ということで、これは
『これがニーチェだ』を読んでいれば
ほぼそのまんまだと思うけど 虚栄から自由になりたいという「脱虚栄(という意味での実栄)」(解脱)と、
新しいより良い虚栄を求める革命精神的な「ポスト虚栄(という意味での実栄)」とでは、
主語が違うと思う。前者は個人だが、後者は「我々」。
虚栄の範囲を価値判断や道徳倫理で取るか、永井が根源的道徳と呼ぶ
人称化等の言語化の範囲まで取るかでも具合が違ってくると思う。
「〈子供〉のための哲学」ででてきた「上げ底」という表現の方が混乱が少なくて好きだな。 >>121
「実栄」の中での性質の違い(当てはまる主語の違いとか)を考えるのなら、もはや
元の該当箇所の文脈とは全然違う議論になるんじゃないの?
別にそれが直ちにダメだと言いたいわけではないこと、元の文脈の理解と
自分が新たに論じたい内容の、どちらについての議論をしてるのかの区別は、
できるだけ明らかにするのがいいんじゃないかと
あと「虚栄」が道徳や価値の問題なのか、人称などの問題まで含むのかについては、
とりあえずは前者の問題だと理解しておいて、後者にはどのようなつながりが
あるのかがさらに問題、ということになるんじゃないかと
(実際、「つながりがあると思われる」という趣旨のことは書かれてるけど、
詳しい説明は(少なくとも該当箇所には)ないので) さびしいときにさびしいという森田童子より谷山浩子の
FU・SHI・GIとかの方が同じテーマでグっとくるなぁ
FU・SHI・GI/谷山浩子 1980年
夕暮れに ぽつり たたずんでたら
誰かが つぶやいた あたしの中で
ことばは いつも ききなれた
何気ない たったひとこと
それなのに 思い出せない
不思議…… FU・SHI・GI
夜明けに 霧の中 ただよってたら
誰かが 黙った あたしの中で
今まで いつも 気づかずに
たくさんの 話をしてた
それが 今 思い出せない
不思議…… FU・SHI・GI
あれは 誰……
誰…… 誰…… 表現にひねりがいるのって、規則の問題の問題提議にひねりがいるのと似てると思うな
アイドルはみんな姉妹だと思ってる親父を表現するのに「アイドルだから姉妹だろ?」と
そのまま書くと嘘臭くなってしまう まぁただの誤魔化しの厚化粧かもしらないせど 最近はウィトゲンシュタインbotと絡むのをやめてしまったのか 60過ぎた後期高齢者が
まだそこ(存在の不思議)に躓いているのか、
という気はする
ふつうの会社員などは
25歳ぐらいでおおよそを悟るのではないか 悟るというか忘れる、もしくは逃げなんだろう。
そして死ぬ直前になって、またぼんやり思い出す。 >>132
言語ゲーム
もしくは
言語ゲームからの卒業 疑問なんだが、言語ゲームからの卒業って可能なのか? >>130からの文脈を踏まえると
普通の会社員は25歳ぐらいで言語ゲームから卒業するということか? 「悟り」とは、
人間あーだこーだごねてるけど、それらぜーんぶ後付けであって、
本当は「これ」しか無くて、みーんな、「これ」なんだよね。
それなのに、概念とか言葉とか後付けであーだこーだごねてえるのが、
「これ」から分離した「私達」
(「これ」は勿論、「これ」という具体的な何かを指している訳では無い)
例えば、おかーさんのおなかの中にできた時から早速、おとーさんとおかーさんの
DNAが記憶している事とか、おとーさんとおかーさんの夫婦喧嘩とか「後付け」されている訳。
とか理解する事だと思ってますが、
永井氏が問題にしているのは、
そもそも何故「ここ」から見てるの?「あっち」からでも「こっち」からでもいいよね?
ですよね?
悟りは、それを説明してくれない。「ただ起こった事」で済ますだけ。
と思ってます。 たしかに後期高齢者が悩むような問題じゃないね
13歳程度が悩むなら解るが ???「存在への問いを後期高齢者が悩むような問題でなくしている構造こそが興味深いのだ」 むしろ、後期高齢者こそが考えるべき問題だと思う。
ただ純粋に
「何故、今ここから視界が開けているのか?」
↓
「何故、ごく当然のように、今ここから視界が開けていると思い込んでいるのか?」
↓
「何故、ごく当然のように、今この思考が当然と思い込んでいるのか?」
な感じで思い直す事により、思考の硬直等を悟れるから。 多分、永井氏は、
いついかなる時も究極のシンプルな疑問を持ち続ける事
の意義を語り続けているんだろうと思う。
答えではなく。 俺は永井が論じる問題を子供の哲学としてではなく論理によって初めて切実に理解できた 子供と年寄りってのは似てる。
この世に入りたての人と、この世から出て行く手前の人だから。
だから世界に対する素朴な疑問を持ちやすい。 問い続ける事を止め、「卒業」できたと思えてしまう人には、
哲学は必要無いんだろう。
哲学は思想では無い、と永井氏も言っている。 位階の高い神と低い神の違いって??
(これと志向性?ってどう関わってくるのかなあ) >>132
自分の能力では考えたところでどうしようもない
と諦めること >>149
理の外から世界を展望出来るようになること 賢者タイムというのはいい言葉だ
勉強にも飽きてしまうということがある 天才哲学者ランキング作ったら1位ウィトゲンシュタイン2位ニーチェ3位カント4位プラトン5位アリストテレスか まあ今の日本ではこの人が一番だろうな、それだけ日本の哲学の水準が低いわけだけど(ただ現代は欧米も低いし似たようなものか?) 何?超越論的観念論を作ったカントはお釈迦様より頭いいの?白人様様なんですねわかります 後の時代の人間でインド哲学について散々議論された上で思想を作り出したから上なのも無理ないか >>160
なんで人を対象とした議論にしてしまうの? >>157
ニーチェがダントツだろうな
他の哲学は全てスタティックで運動がない ビンゾって聞くと、相手からも自分が見えない存在のことを思い浮かべてしまうが、
当たり前のように見えると想定して、そうじゃない想定をした人は理解できてないって
あっさり言っちゃうとこが深いな。それ指摘されて「あっ」ってビンゾのなんたるかがわかった。 「〈私〉の哲学を哲学する」のP266-267にある、
身体が決して分割されないって箇所とその前後が難しくてわからない。
P266の8行目「私が私自身を口から〜」の部分から。
なぜ私の身体の数は必然的に「一」であるのかわからない。
他の本の「口」に関する議論は難しいなりに理解できてたつもりだが、
この本のこの箇所は難しいよ>< 読み進めたらストーブの話で結構わかった気がしました。
たまたま自分の幾何学的身体と人々がストーブと呼び習わしている物体が重なっているということですが、
それは「たまたま」ではなく第一次内包のような全てがそこから始まるが故に疑い得ない一致ではないのかという疑問がわきました。 永井先生が何でこんな評価されてるのかわからないんだけどわかる人教えて
あの有名なウィトゲンシュタイン研究者+ちょっと奇抜な思想説いてるから目立つだけという印象しかもてなかった 永井が思想を説いてるなんて
そんな読み方もあるのか 思想がないとか主張がないとかっていうのは周りの文化人と比べてって意味でしょ
子供相手に僕は主張がないなんていえるほど主張がなくはないよ
むしろ主張の塊 >>172
永井のツイッターの取り巻きも臭いよな、森岡とかw 論として妥当かどうか指摘せず臭いだのなんだのって何も言えてないじゃん 第〇次内包を独我論と結びつけるのは元々離れ業だったんだけど、
無内包に関してはその離れ業の第〇次内包にしか対応してない気がする やっぱ幾何学的な口に関する議論を挟まないと、
「外部の無さとしての私」と「唯一動かせる身体って意味での私」(の問題)が
どう繋がって同じ問題としてあつかわれるのか俺にはさっぱり理解できんわ。
永井が口の議論を出したのは割と最近だが、むしろ永井哲学としては応用でなくて基礎だと思う。 ついでに言うとこのつながりに関しては入不二が〈私〉の哲学を哲学するの
P287辺りでも論じててうれしかったな。
今までの永井だと「問題を感じない奴は入ってくるな」しか言ってなかったからね。
そこの繋がりがわからない奴は永井哲学とは無縁の人って扱いだった。 口の問題はこの間の森岡正博との対談でも広がられているので
気になる人はamazonで電子書籍購入したら良いと思います 360円らしいけど、プライム会員とやらだと0円って・・・
なにこの格差 哲楽 第6号ってのも永井特集なんだな
これも545円と0円の格差・・・ くっ プライムで無料なのは
Kindle端末に月一冊ダンロードできるサービスで
基本は有料だぞ
しかも値段分の価値は十分にある 独我論とか一見存在について考えるといつもわからなくなるんだけど、
なんで視界に良い悪いがあるのかな?
簡単に言うとなぜ『ピント』なんてものがあるのか。
なぜ独我論者(一見論者)もメガネをかけるのか。
世界に僕しかいなくてもなぜピントなんてものがありえるのか。
ありえるとしたらそれは「根源的道徳」と言ってもいいものではないか。
こんな感じでボンヤリ考え出してモヤモヤしたままになるw ttp://www.amazon.co.jp/存在と時間-――哲学探究1-永井-均/dp/4163904298
新刊が出るらしい
たぶん文学界の連載の単行本化だろうけど >>183
「ピント」なんて、なくてもいいんじゃないの?
生まれた時から目が悪くて、あるいは悪くなくてもいいけど一生を通じて
視力の変化があまりなくて、無人島で一生暮らした人がいたら、その人には
目がいいも悪いもなく、眼鏡の必要性
なども考えることなく過ごすんじゃないかね >>185
ちょっと中身知らんからはっきりとは言えんが
これタイトル大袈裟すぎじゃね?
存在と時間に哲学探究ってもろ被せやろ…
どんな大作にするつもりなんだろうか? ニーチェの誤診みたいな本は書かないのかな
存在と時間はエンタメとか笑ってたような・・
2000円なら結構分厚そうだ、って336ページか 『存在と時間』は連載を読む限りでは今までの著作の中で最も分かりやすい
しかし1ってことは2の予定があるってことなんだろうか
だとしたら1の続きというよりもそれを批判して乗り越えるような本であってほしい どういう話だっけな
とりあえず時間には累進構造が成立することが可能だということしか理解できなかったわ
永井の著作を読むたびいつも思うが、彼の日本語は理解しづらい
単純に日本語が下手なのかそれとも内容が複雑だから複雑な日本語になってしまうのか
それとも水が合わないだけかな 著作全部合わせて全体の流れを掴むのはそりゃ難しいよ
でも日本語が難しいってのとは違うと思う 分りにくい言い回しを一生懸命理解しようとして、分ったところで、他の人が言ってることとたいして変わらない
ことしか言ってないことが分ったらガッカリだな 哲学じゃそれ良くないか?
そういう言い回しを裏返し表返し何度も繰り返して気づいたときにはちょっと思考力が上がってるみたいな >>183
すいません。「一見論」というのは、何のことですか。
独我論者でも眼鏡をかけるのは、過去の良好な(ピントのあった)視界の記憶
と、今のぼやけた(ピントの合わない)視界とを比較できるから、ではだめでしょうか。 >>196
ピントが合う合わないの基準をどこから持ってこれるのかが不明 私のような子と仲良くなってしまったから
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