【アクトゥアリテート】永井均 10【レアリテート】 [転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
というわけで無自性や縁起、不二の哲学を展開したナーガアルジュナは天才ということで ていうかもしかして入不二って「不二に入る」って意味なんじゃないの? >>499
詳しくはないんだが、ウィトゲンシュタイン私は消去できるかって本で
そう言ってたよ。先祖からして偉い人だったんだなぁと思ったが、
言ってることはわかりやすい独我論で親近感が湧いたw >>496
1の表現の違いか解釈の違いかわかんないんだけど、
唯一あるものって外部もないからいちいち「ある」とは言えない、言いたくないって気持ちがある。
ただ永井はそういう論旨で説明するときもあるんだが、チェスの冠の例みたいにチェス盤(と駒)を
付与のものとみなして取ったりつけたり(神が)できるものとして語るときもあるんだよね。 対話空間_失われた他者を求めて 人間は意識を持つか?
http://dialogue-space.hatenablog.com/entry/2016/06/18/153301
このブログのコメント欄の議論はオレが今まで読んだ中では永井氏とは大部考えが違ってるけど一番永井哲学を振り回しているように見えた議論で面白いw まあ永井氏が読んだらいやがりそうだけれど >>501
あるいは何かしらの理解・解釈の違いがあるのかもしれないけど、前半部分には
別に異論はない
そして、もし、チェスの冠の比喩について「チェスのルール(や通常の駒の形状等々)に
付け加えて、何かが増やされたり、着脱されたりする」という意味に思えて気になるなら、
その比喩は別に無視してもいいんじゃないですかね
あるいはもしその比喩を使うとすれば、冠がつけられるというのは、実はそこから
チェス盤や全ての駒が開けて(?)初めてプレイが可能になる(?)原点のような意味がある、
はずなのだが、しかし相手は「何を言ってるんだ、君じゃなく私こそが冠を
つけてるんだ。というか実はそんな冠は誰でも持ってるものにすぎない」と反論してくる、
というように、ちょっと改変して理解してもいいんじゃないかと
と、素人のくせに言ってみる ついでに>>477について
ちょっと疑問の趣旨がよく分からないのではあるけど、まず押さえるべきなのは、
>>496で書いた1と2の対比
「特定の個人を意味する、しない」という話は、3の面が入ってる話だと思われるので、
もし「1と2を対比する議論と、1と3を対比する議論があるように思えて、どっちなのか
分からない」というのが疑問の趣旨であるとすれば、明らかに前者をまずきちんと
確認すべきで、後者はとりあえず無視していいんじゃないですかね
後者のように見える議論は、もともとウィトゲンシュタインの議論を参照しながら
論じ始められたことの名残であって、最近の本からポイントを取り出すという意味では
気にしないほうがいいんじゃないかと
とか素人が放言したら、有識者のお叱りを受けるのだろうか… >>502
途中までしか読んでないけど面白いね
互いに相手を包み込み合うのを繰り返す運動を実際に2人の人間が演じてる。
のちに投げ捨てられるべき梯子をかけようとしたときに「そんな梯子をかけちゃダメだろ!」と言うような振り回し方だ。 哲学って、ある習慣や慣習を受け入れられなくて始めるんじゃなくて、
一番最初に疑問を持つべきところで全く疑問を持たず素通りできた奴が、
あとになって中途半端に一部分だけおかしいと思い始めて始めるようなところあるよね。
例えば「私」は「とって」を受けれることによって変質するみたいに説明されるけど、
そもそも「とって」をうけいれたから「私」なんだろうと。 >>506
「とって」等を受け入れないと、
「ここから世界が開けている「私」」と気付く事はあり得ない、て事? >>502
のリンク先を読んで、
>他にも驚きを表明する人はいるでしょうが、“これ”に驚いているのは僕しかいませんから。まずはそこを断っておかなければなりません。
これの意味が、初めてピンときた。
「他にも驚きを表明する人はいるでしょうが、『私の』“これ”に驚いているのは僕しかいませんから。まずはそこを断っておかなければなりません。」
でOK? あー・・・だから、「他者」にも“これ”があるとしたら、「他者」も「私」になってしまうけど、
しかしながら、「私」は「他者」ではない、だから、「他者」には“これ”が無い、て訳ですか・・・
だったら納得。 >>507
それも言えると思うけど、もっと単純に私という言葉を使う人は最初から
とってを受け入れてるだろうなと。
「私」という言葉から語りだすのは原初の道徳って言ってたけど、
私の哲学もまたその道徳の中のものなんじゃないかな。 >>506
ある概念とか考え方などをとにかく何とか一旦は受け入れないと、それに対して
後から疑問を持って考えていくということ自体も不可能ではないか、ということは、
確かにありそうな気がする
例えば「2+2+2+2…などと、同じ数を同じように足していく」ということをとにかく
受け入れなければ、しかし100以降は104、108…とならないと言えるのか、
そのような根拠は本当に説明できるのか、という疑問も提示できない、とか
もしも「でも「同じ数」「同じように足す」って何だよ?+++って並んでるが、
それで2、4、6…になるって、何なの?」とか言って最初から全く理解しない人が
いたとしたら、そもそも少なくとも計算については全く話が通じない奴とみなされて、
疑問を持つもへったくれもないんだろうね、多分
で、そのように一旦は受け入れないと仕方ないとして、それが何か悪いの? >>511の続き
そういう意味で>>506の全体の論旨は理解できるとして、末尾の
>そもそも「とって」をうけいれたから「私」なんだろうと。
という断定の趣旨はよく分からない
とにかく受け入れた「私」には、しかし、唯一特別なこの私を指すという面と、
なぜだか誰にでも同じように当てはまるという面とがあって、この矛盾している
かのような両面を持つのはどういうことだ?という疑問を持っていくのが、
なぜおかしいの?
あるいは最初から「そもそも「私」って何なんだ?今現に口を動かしているこいつ
(と言って自分を指差す)を指すようでもあり、しかしこいつではなく今まで「私」という
言葉を使っていた親、先生、等々を指すようでもあり、矛盾していてさっぱり
意味が分からない」とか言い出す(そして狂人とみなされる?)というなら、また
それはそれで分かるが
なぜ「とって」だけを断定的に受け入れるべきことになるの? >>509
永井哲学では
だから「私」にも“これ”があるとは言葉では言えないとなるのでは >>510
>「私」という言葉から語りだすのは原初の道徳って言ってたけど
どこでですか?
>言語は原初の道徳であるといえるはずである。「私は~」と語り出すことは、原初の道徳的行為である。誤診p224
のことですか?
だとすれば原初の道徳は言語であって「私」という言葉から語りだすのはあくまで原初の道徳的行為であって原初の道徳の一部でしかないのではないでしょうか? >>513
累進構造を使えば語れると解釈する方もいますが >「そもそも「私」って何なんだ?今現に口を動かしているこいつ(と言って自分を指差す)を
>指すようでもあり、しかしこいつではなく今まで「私」という言葉を使っていた親、先生、
>等々を指すようでもあり、矛盾していてさっぱり意味が分からない」
なんか想像したら笑った 個人的にはどっちか言うと、
そもそも、こうして知覚・認識している、体、感情、思考、感覚等、“これら”って、
べつに“これら”である必然性なんて無いよね?
なのに、何のブレも違和感も無く、“これら”が続いていると思えてしまっているっ!!
て方に、心底びっくりたまげたんだが。 ちなみにこの「必然性なんて無いよね?」というのは、
「こうもできるはずだよね?」ではなく、
「何故か“これら”が起こっている」の方ね。
「私」が意図してやっていたつもりだったのに、実はその意図はそう意図する必然性などなく、
(だって、同じ状況でも「意図」は変わる場合もあるし)
ただ起こっているんだな・・・ってえええええっっっ!!!????て、そういう驚き。
それを追求すると、「私」が無くなってしまう。 >>518ごめんわるいけど理解しにくいので質問させてください
まず「私」という言葉をどういう意味で使っていますか?「私」が無くなってしまうってどういうふうにですか? >>519
「私」が意図してやっていると思い込んでいた
→でも、「何故、そう意図したのか?」の根本を追求していくと、
「何故か」としか言えない。
因果関係を理由にしたところで、今度は
「何故その因果関係を理由にするのか?」となって、
それも「何故か」としか言えない
→これを追求すると、実は全ての「私」が「意図してやっている」と思い込んでいた事が、
「何故か起こっていた」
→全て「何故か起こっている」という事は、「意図する」「私」というものは無い
こんな感じ。 返答ありがとうございます。
全て「何故か起こっている」としたら「意図する」「私」というものは無いと言えないことはなくても「意図しない」「私」は無いとは言えないのではないでしょうか?
意図とつながる形でしか「私」は存在しないということでしょうか?
なんとなく相互に「私」という言葉の解釈が違っている気がしますが >>521
まず、「意図している主体」を探して、見つかったそれを「私」としようとしたけど、
累進構造で永遠に「何故か」としか言えないので見つからず、
結果「意図する」「私」が見つからなくなる、という驚きですからね。
「意図しない」「私」と言うか、「何故か起こっている意図を受け取る」「私」はあるよね、という事に
希望(?)を見出して生きている今日この頃です。
それよりも、「何故か起こっている意図」が、>>517に書いたように
何のブレも違和感も無く、“これら”が続いていると思えてしまっているっ!!
と感じてしまってるのが、更にビックリ、とこういう訳でした。 映画館で例えると、永井さんは、「私」を「ここから映して(開闢して)いる」「映写機」と捉えているように思うけど、
>>517、>>523の感覚からすると、「私」は「映しだされている」「スクリーン」としか思えない、こんな感じですかね。 100回以上は読みましたが残念ながら概念や考えなどが違い過ぎてあまり内容意図するところが理解できませんでした。永井氏の著作の一部分より難解に感じたぐらいですw
>累進構造で永遠に「何故か」としか言えないので
あまり自信はありませんがここは累進構造ではなくて無限背進ではないでしょうか少し似ているところもあるようにも思えますし
>何のブレも違和感も無く、“これら”が続いていると思えてしまっているっ!! と感じてしまってるのが、更にビックリ
こういうことに驚きを感じることができる感度をお持ちになっていることにかんしては正直羨ましい限りです。
あと永井氏は何度か「私」を映画の「スクリーン」に喩えています誤診や闘いなどで。 >>522自己レス
「別」とだけ断言するのは不適切だったかもしれない
意図とその実現の間には、無内包の違いしかないとすれば、その点では
独在性の問題と共通していることになるだろうか
しかし、私が仮に何ら意図を持たないような生活をしていたとして、それで
私が存在しなくなるとも、また他者との違いがなくなるとも思えない、
という意味で、別に直接のつながりは何もないんじゃないか 永井用語って最終的にそれが間違っていることを見て取ることで解法を行う面ってないのかな
そう感じるときはよくある 例えば「パースペクティヴ」や「力への意志」といった用語が、それによる説明を
最後まで貫くことは結局困難であると見て取られる、というような形で?
あるいは「規則の懐疑」が、結局は疑い得ない岩盤に突き当たる、とか?
そうであればそれは大変意味のある検討だと思うけど、具体的に永井用語のどのあたり? goo辞書
い‐と【意図】
[名](スル)
1 何かをしようとすること。
2 何かをしようと考えている事柄。(一部略)
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/13895/meaning/m0u/
意図を持たないなんて想像すらできない強い意味で不可能でナンセンス矛盾している。 >>525
誤診や闘いは、まだ読んでませんでした。ありがとうございます。
それから、もう一度考え直してみます。
累進構造は、無限背進の方が適切ですね。下手に用語使うんじゃなかった・・・ あと思い出したんですが、「私」と<私>を使い分けてるんでしたっけ?
「私」が、認識している私で、
<私>が、「ここから世界が開けている」という私、でいいんでしたか。
一応、その上で、改めてここまで書いてきた事をまとめると、
この体、思考、感情、感覚という「これら」を「私」であると思い込んでいるけど、
そうである必然性なんて無いよね?それら関係無い<私>ってあるよね?とまず気付きました。
この時点では、まぁそうだよなぁてだけで、驚きってまではなかったですね。
じゃあ、「私」が現れる元となっている<私>ってどこ?と、
つまり意図だけではなく、この体、思考、感情、感覚、考えつく限り全ての事の根本を追っていこうとしても、
無限背進で「何故かある」「何故か起こっている」としか言えず、<私>が見つからない。
見つかるのは、何故か結果として現れている「私」だけ。
だから、「映画館」で例えると、「私」が「映写機」で映していたと思い込んでいたけど、
実はただ「スクリーン」に「何故か」「私」が映しだされていただけだったんだ!!とまずビックリ。
「映写機」であるはずの<私>は、どこまでいっても見つけられない。
例え、<私>を見つけたつもりになっても、それは必ず「私」となってしまうから。
あと「PC」や「スマホ」で例えると、なんとなく「私」のある部分(脳みそとか)が「CPU」で、そこで演算等して
「ディスプレイ」に映していたと思い込んでたけど、実は「私」全てが「ディスプレイ」に映しだされていただけでした、
「ディスプレイ」は「CPU」がどこにあるかなんて、想像すらできない、
(想像してしまった時点で「ディスプレイ」に映し出されるものになってしまうから)
て感じ。
で、「何故か」「スクリーン」「ディスプレイ」に映しだされている「私」が、
何のブレも違和感も無く、続いていると思えてしまっているっ!! と感じてしまってる事に、二度ビックリ。
だって、「ゲーム」で例えると、どっかバグがあっても良さそうなんだけど、どこにも見つけられない、すげーっ!!て驚き。
(例え自分が狂っていると自覚していても、それも含めての話)
以降、日常生活の事あるごとに「このゲーム凄くね?」と、驚きっぱなし。
まぁ、そんな感じです。 私の表記の違いは初期は厳密だったが、あとからラフになったというか
ほぼ消滅して文脈で判断する方向に変わった >>530
そうであれば内容的には異論はないけど、その該当箇所(旧版)には明示的に書いてない
というだけで、全編にわたってひたすらその話、つまり本当はこれしかないから
他人に伝わることなどあり得ないはずなのに、なぜだか誰にでも同じように
理解され当てはまることになってしまう、という話をしてるんだと思うけどね 独在性って事象内容ではないのかな
世界の中でどれが僕かなんて事象内容としか思えない
勿論他人とは共有できないけど、永井が俗な意味での私的言語を
可能に決まってるというように私的な事象内容くらい可能に決まってる >世界の中でどれが僕かなんて事象内容としか思えない
これはまた、最近の本を読んでるのか自体を疑うレベル… 今思い出すあのときのアイスクリームの味があのときの味と同じでなければならない
みたいな話って志向性って奴とは違うんですか? 〈仏教3・0〉を哲学する 単行本
藤田 一照 (著), 永井 均 (著), 山下 良道 (著)
9月23日発売だって やはり「世界最速の男」などといった記述は固有名の代わりにはならない、と、
改めて感じたところである(冗談) ゲームの極限脱出って3部作、3作目で急に長いっぽい話がたくさん入ってきた 言語によって存在論的差異は抹消するって言うけど、前言語的世界にはいかなる差異もないのだから、
むしろ言語によって存在論的差異という苦しい言い訳が生まれてくるんだと思う 意識とは、言語が初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、別の意味では、
まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもあるのです。
って永井も言ってるしな 存在(論的差異)とは、言語が初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、別の意味では、
まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもあるのです。
おー、なんか通る気がするなw なぜかこの私だけが私であるという事実を言葉は言い表せないが、それと同時に、「なぜかこの私だけが私である」ということは言葉があることで初めて言い表わせる問題である。
という感じ? >>546
実際そういう対応になるんだろうと思うけど、違うところを考えると、
「まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもあるのです。」の部分に
引っかけて言うと、「意識」は言語の働きによって世界内の普通のもの(石ころとか)と
同じように名付けられて扱われることになるが、「存在」のほうは、普通のものと
同じように扱われるというニュアンスはなさそう、というところだろうか ツイッターで本人に@飛ばしてみるのもいいかもよ。
結構答えてくれる。 >>549
きちんと考えて真摯に質問すれば結構答えてくれるであろうとは思うけど、
おそろしゅうてなかなか踏ん切りがつきませんわw
いや永井がではなく、こっちの心の持ちようとしてね >>550
確かにw
でもツイッター眺めてると、やりとりの中で永井先生が新たに気付くこともあって
先生も望んでるんじゃないのかな、と思うよ。
少なくとも、ウィトゲンシュタインを読み込んでないと質問できない
って話ではないし、素人が素人なりの質問てのを逆に期待してる感じはある。 存在と時間って雑多感がすごいな
最近のだと意識が一番まとまり良かったけど、改訂版は追加でちょっとぐだぐだだったし
改訂ってかいとうって読むのかと思ってたけどなぜかかいていと読む世界が今ライプニッツ原理で選択されたらしい!
そして選択されたあとは改訂をかいとうと読む世界の可能性事態が抹消されるのですね 哲ねこってラジオドラマ聴いたが、全然哲学的じゃなくて苦笑い 可能世界論って大きな物語とか大きな人を前提にしてると思う
常識的なものの見方を異様に神格化してその上での遊びって言うか
こどもにとってはその常識的な
見方(大きな物語)や観測者(大きな人)すら可能性のひとつにすぎなかったと言う可能性は完全に排除されてる
大人の世界がこうあって、その流れの中で自分が生まれたっていう大きな物語は可能性にすぎない
自分が別ようにも生まれることができたと言う可能性ではなく、その大人の世界の時間の流れがある
という考え方自体を可能性の範疇に入れるべき
太宰治は小さい頃空腹を感じず、なぜごはんを食べないといけないか理解できなかったらしいが
ご飯を食べないといけない世界(と身体)はその子供にとっては可能性にすぎない
それはこれからなるかもしれないことだが、最初からそうなってることではない
こういう視点を『見上げ型』、もしくは『自分視点の可能世界論』と呼びたい
逆に大きな物語を不可逆的に前提にした可能世界論を『見下ろし型の不可逆的可能世界論』と呼びたい
永井が様相や内包の問題で取り上げるのは見下ろし型
例をもうひとつ、見下ろし型では小学生は中学にやがて行く可能性があるが、見上げ型では中学と
いうものが存在する可能性があり、別のものがある可能性もあった
そしてこの2つの可能世界論を論じる文章自体は見下ろし型に位置する 見上げ型の特徴を見下ろし型
の記述では「とって」を連発してしか語れないが、それはもっとも重要な点を取り逃している 趣旨がよく分からないけど、「ご飯を食べる必要がない世界」「中学校というものが
存在しない世界」などといった内容であれば、永井の論じる可能世界でも、別に
何も否定されてないと思うけど タウマイゼン語法って見て思ったけど、酒呑む奴って酒呑み語法使うよな
まず酒を飲むを呑むの一語で表す時点で 「驚き」も「呑む」も、それそのものが通じない人に説明するだけ野暮、てことですか
通じる人とだけ、その先の話をする意味があるって感じ? 〈私〉の独我論はそれを語る言葉が既に用意されてるが故に語りえない、
みたいな話でよく思い出すのは葬式文化
お悔やみやらなんやら葬式で礼儀作法に取り込まれてるもんだから、
本当のお悔やみとかそういうものがなくなってしまった 何かを感じ、感動しても、
それを言葉にしてしまえば、
言葉にその感じや感動が取り込まれてしまい、
その言葉を超える何かが無いと、
感じや感動として評価されない
て事ですかね 人間は、何かを使おうとして作るけど、
うっかりすると、その作ったものに使われたり支配されてしまう
というに気付いたのが驚きでしたね。
酒は呑んでも呑まれるな。 「儀礼的なお悔やみ」と「真に心のこもったお悔やみ」の違い(?)とか、
「ありきたりな言葉で表現される感動」と「ありきたりでない真の感動」の違い(?)とか、
そういうふうに内容の違いがあるのであれば、<私>についての無内包あるいは
アクトゥアリテートという問題とは違う話だと思うけど 累進構造すら言語の見せる夢に取り込もうとする入不二の比類なき見解には感動するわ
音楽で一瞬すごいきれいな旋律流れるとこみたいな
永井なら洞察って言いそうだけど、むしろ入不二には他に考えようがないだけなんだろう 永井の本読んで考えてるうちに全然関係なさそうなことを根底で繋がってるように
考えるようになったが、話すときにごく普通にそれやってしますとヤバイw
永井も日常生活で「この人話が飛ぶな」って思われてたりして すいません23日の第四回現代哲学ラボ
これって後日また音源公開されるんでしょうか?
ちょっと行けそうもないので・・
誰か教えて下さいm(__)m 問題を理解しない奴は入ってくるなって言ってるけど、こういうこと言う時永井は
普通の人は既に入ってるところがあるって前提で話してると思う
どこにも入ってない人に向けては言ってないどころかいないもの扱いしてる 青山拓央『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』をパラパラと読んでみた
果たして最後の7章までパラパラと読んでしまってよいのかどうか分からんけど、
7章が印象深かった(素人の永井ファンとしては)
ここで言われている「遊戯」と、ウィトゲンシュタインの言う「チェスの駒に
冠を被せる」(の、永井による紹介)は対応するのだろうか、とか ものすごくどうでもいい個人的感想だけど、永井的観点(?)からすると、
確かにシン・ゴジラって全然面白くなさそうな気がするなw
(別の観点からの面白さを否定するつもりでは全くないので、念のため)
あえて無理やり引き付けると、一時期のツイートに出ていた、永井の用語法での
「右翼」「左翼」という観点から見ると、いかにも「左翼」っぽいことを言っていながら
その実は「右翼」でしかない(実は自国中心的な利害に基づいてるに過ぎないのであって、
本気で普遍化する気などない)のではないか、と思わせる台詞などがあって、そこは
多少面白いとみる余地がないではないかもしれない 「ゴジラの叫びの根源的解釈」には結構ワロタ
もしエンターテイメントとしても上手く仕上げた作品ができたら、画期的すぎるわw 『哲学の誤読』面白かった。
ド素人にはこういう本はありがたい 〈私〉の哲学を哲学するP196に、『意識』は無内包的観点をせずに逆から語った野心的なもの、みたいなことを言ってるよね?
それからすると無内包を取り入れて書き直した改訂版って半端物になってるんじゃないかと思うんだけど 現在ゾンビで「本当は(なかったorあった)」という問いは成立しようがないって存在と時間P292で
言ってるけど、どうして? 神が心を与えたり奪ったりするのと同じだよね?
マンガは哲学するの漂流教室の所で子供に未来を託すって話も、「本当は」(私の底の神)の成立の話だよね? まあだから「神が心を与えたり奪ったりする」ことも、一見すると成立しそうに
思えるけど、実は成立しないということだね(適当)
「他人だから心なんかないに決まってる」という自明な事実と、「人間(私と
同じ種類のもの)なんだから最初から心があるに決まってる」という別の自明な
事実があるだけ …と思ったけど、その該当箇所近くの「現実の動く現在」の議論に引っかけると、
他人の心(が実はない)の問題よりも、現在ゾンビの問題のほうが、より強い意味で
あり得ない、と言えるんだろうか
他人の心の問題はただ現実と概念の対比の問題だけど、現実の動く現在の問題は、
過去や未来も確かに一度は現実の現在である、という意味で
(これはしばらく前の朝日カルチャーセンターの講義から安易に思い付いたので、
本当に適当です) 意識なんてどこにあるんですか?ってノリで今なんてどこにあるんですか?
って言えると思うけど、その方向では論じないんだな 学問的な見方が端的な今を認めないのと独我論者が端的な今を認めないのは内容が違うと思う
独我論者はそれが全てであるものをいちいち名指し(文節化)したくないだけ 存在と時間の後書きに風間くんの質問で『私今神』がどんな画期的な内容になったか書かれてるけど、
言いたいことが言えてしまう故に言えないなんてそれこそ『〈私〉のメタフィジックス』の頃からえんえん
言い続けててどこが画期的なのかわからない。
それに、風間くんの質問も本文で訂正された方の本当の質問(煎じれば「なぜ言葉で考えることができ
るのか」という疑問)の方が深いのに、また前ver.に落とされてて不満。
神の存在論的証明の方は〈端的な今〉に比べて〈現に存在するあの神〉が説明不測で不明瞭だと思う。
『私今神』までの本は全体としてロゴス原理(を所与のものとみなした)の話だから、〈これ〉の側から
言語というウソが構成していくのを観察した『誤診』『意識』『たまたまの孤独』の方が画期的だったと思う。 >>578
その「ノリ」のニュアンスがよく分からないけど、「今なんてどこにあるんですか
(と言うより、いつなんですか)」というのは、『存在と時間』のまさに主題だと思うんだが >>580
「言えない」というのが、無内包・アクトゥアリテートの問題だ、ということを
明確に打ち出したことが画期的なんだろうと思うけど
(用語が明確にされたのはもっと後だけど)
それ以前は、正直個人的には、何がどういう理由で「言えない」とか「語り得ない」
とされていたのか、結局よく分からなくて、無内包という説明でようやく何となく
分かるようになってきた(気がする) ビンゾの設定ってなんであんな特殊なのかな。
普通感覚だけって聞いたら幽霊みたいなの想像すると思うけど、
精神の中だけって要するに夢じゃん。しかも人がいて私がいて
他人がいてって通常の夢の規定よりかなり限定された夢。 なんでって、そりゃゾンビ(物理的には人間と全く同じだが、ただ心だけがない)
との対比で作られた概念だからだろw
そんな設定よりも普通の幽霊のほうがより有意義な議論ができるはずだ、
などと言うのなら分かるけど
しかし普通の世界の中にフワフワと幽霊が存在する(という想定)って、何らか
有意義な議論になるのかな
(ならないと断定したいわけではない) ゾンビとの対比で凡人に思いつくのは「わたしは真悟」に出てくるような体のない子供(幽霊)とかだと思う。
夢の中だと自分が自分じゃなかったり自分がいなかったりとか普通にあるけど、ビンゾが見てる夢はそういう夢じゃなくて、
正気の現実の作りと全く同じ作りの精神世界。それに「真の現実世界」を前提として想定しておく必要もある。
これはかなり特殊な議論の流れじゃないと出てこないと思った。
幽霊の想定をするならゾンビの想定が「哲学ゾンビ」と注釈されることがあるように、「哲学幽霊」に限定されると思う。 改めて熟読もせずに自分流イメージに乗っかって言わせてもらうと、永井が
『なぜ意識〜』(旧版)でゾンビに関連して論じていたのは、「ある意味で本当に
存在するのは私だけだ」「ある意味で本当に存在するのは今だけだ」と対比して、
意識にも実はそれらと同様の構造が当てはまる、という議論(だと理解してる)
すると「ある意味で本当に存在するのは(私の)意識だけだ」ということになり、
「表返した缶詰」という比喩もそれを表しているのではないかと思われる
しかしもちろん、私についても今についても、「他人(他時点)は存在しない、
あるいは通常思われているのは別の内容で存在する」という話をしてるわけじゃない
そういう議論の中でビンゾを想定するとすれば、他人も客観的世界も全てその中に
入ったものとして想定し、ただし内容的には何ら変わっていないとするのは、
別に自然なことじゃないかと思うけど
普通の世界の中に幽霊という特殊なものがポンと存在する、というような想定だと、
普通は存在しない(と考えられる)特殊なものを想定するという点や、ある意味で
本当に存在するのはそれだけだ、とは言えない点で、永井の議論の流れとは
そぐわないから、そんな想定はしないのだと思うけど 他者(他時点)は普通に存在していい、でも現に〜ってのは永井の昔からの主張だけど、
『なぜ意識〜』(旧版)に関しては前言語的〈これ〉さえあれば良いとも読めて、
『〈私〉の哲学を哲学する 』でも青山って人がその点について質問してる。
昔からの主張と新しい語り口(本人曰く野心的な)が混ざってる本で、整理して読むのは難しい本だと思うw ゾンビの場合「実は(魂があるない)」に意味が込められるけど、ビンゾの場合だと「実は(実在しているいない)」に
意味が込められないんじゃないのかな 〈私〉の哲学を哲学するは名著だから読んだが良いよ
むしろあれ読まないで今の永井の本読む方がハードすぎる 身体に独在性が成り立つとか、身体は生物学的にどれだけ分割されても原理的に一つ、
ってのがよくわからない。
幾何学的な目に置き換えるとわかる。生物学的に分割される思考実験をするまでもなく、
現に目は二つあるけど、幾何学的な目は常に一つだろう。
(これは単にウィトゲンシュタイン-永井の言い回し上の定義かもしれないけど)
でも、また身体に戻すとよくわからない。 誤植が誰にも気付かれないという話はちょっと面白いけど、なんでそうなるのかな
例えば事実を報告する本であれば事実関係と照らし合わせることが可能だろうし、
論理的整合性を重視する本(形式論理学とか数学の教科書みたいなもの)だと
論理的にどうもおかしいというチェックが可能のように思われるけど、
哲学書はどちらも不可能(な場合がある)のだろうか
では小説とか漫画とか(特にフィクション・ファンタジーの要素が強いもの)、
あるいは楽譜?とかはどうなんだろう、と、よく分からない連想をしてみた しかし〈私〉とは神の別名ではないのか。今や〈私〉の歴史性、
〈私〉の「歴史的アプリオリ」といってもいいが、
解明される時がきたのではないか。スピノザのいう神=自然、
そしてコナトゥスとしての「私」は、すなわち自然の一部としての、神=〈私〉ではないのか。
しかしここにおいて内在性が問われる。「私」が〈私〉として語られうることによって、
すでに「私」は自然=神を越え出る存在として、すなわち、超越として把握されるのではないか。
それは近代哲学以降、へーゲルをその頂点とする、つまり神を殺し人間が頂点になった世界
記述する伝統の末裔に永井は位置いているのではあるまいか。
ニーチェの「神は死んだ」は〈私〉の出来を予想していたのではあるまいか。彼がニーチェを根拠にしているのは不思議ではない。
その神=〈私〉=賢者としての哲学者こそが、歴史が、そのヘラクレイトス的生成が織りなす「語りえぬものとしての語る者たち」として、
永井の位置、その歴史性は現在するのであって、
〈私〉=神の永の生成が永井の根本意想であるという結論にいたるのではあるまいか。 冠絶って形容語、ウィトゲンシュタインの冠の比喩に合わせるとなんかおもしろいw 物理的世界も他人の心も普通の意味では在っていいって昔の永井の見解だと、
記憶も普通にあって良いんじゃないかな。
なんか記憶を奇妙な合成物みたいに語るときあるけど。
「○○は普通の意味ではあってもいい、でも現実には〜」って考察と、
「○○がどんなふうに構成されていくか」の考察方法とはソリが合わない気がする。
カント原理ライプニッツ原理は前者でしか使えない用語で、
独在性も基本前者で考えてたんだろうけど、後者にも使ってて(読むのが)難しい。
無内包は半々でさらに難しい。 永井さんやっぱり三浦雅士好きだったんだ
「幻のもうひとり」なんかは
only oneとしての自己とone of themとしての自己との区別
みたいなものを論じているとも言えるし themは言語の見せる夢だろうな。しかしthemがなければ、only oneも言えないわけで…
他者が私の成立根拠で、しかしその一撃後(私が成立した後)は遡及的に、つまり私の根拠を遡ることによって他者が発見される。
でもその二番目の他者は最初の他者とは別もので、たぶん二番目の他者は語り得る他者で、最初の他者は語り得ぬ他者
つまりただ示されうるだけの、あたかも神であるかのような他者、そしてそれが根源であり、世界開闢の時なのだろうな。
ただこの全ては私がまさに言語を用いる動物(人間)であるからこそ可能なわけで… ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています