【アクトゥアリテート】永井均 10【レアリテート】 [転載禁止]©2ch.net
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https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1010342935026544640?s=09
あたりのツイートを見て
同じ一つの価値(=球)の存在を前提として、その中で優劣を競うのがスポーツ(のうち
多くのもの)の本質で、その価値とは別の駆け引きみたいなものが多く混じるのは好まれない、
ということだとすると、多人数の格闘戦のようなスポーツが(あまり)ないのは、それだと
一つの価値の優劣になりにくく、むしろ例えばタイミングよく一対多の状況を作るのに
長けたほうが勝ちやすくなるなど、駆け引きの部分が多くなるからだろうか
だとすると3チーム以上の乱戦のようなスポーツが(あまり)ないのとも、統一的に考えられるか
するとさらに、例えば同時に2つ以上のボールを使うサッカー、なんてのはどうか
例えば、一方のチームが見事な技術・体力で1点取る間に、相手チームが
タイミングのうまさだけでそれ以上取り返す、なんてことが起こってしまう
これも同じように流行らない、ということになるかなw
しかしそのように考えると、「銃弾」という物騒な比喩から始まった話なのに、
何だかずいぶん価値・ルール重視の話になって、むしろ(身も蓋もない現実としては
いかにもありそうな)剥き出しの駆け引きとかやったもん勝ちの世界とは離れていくのが、
何だか面白い
サッカーのワールドカップは比喩的には「戦争」と言われたりもしてたと思うけど、
実は道徳的なものだったのか、それとも道徳的な戦争(?)なのか
と言うか、ここでの文脈では「戦争」はそもそも道徳的なのか(?) サッカーの日本チームは「フェアプレー・ポイント」なるものの差で決勝トーナメントに
出られるそうですが
「戦争」の決着が、ぎりぎりのところで道徳的優劣(?)によってつけられるとは興味深い(適当) 長谷部、本田語録“きよきよしい”を支持!?「もう日本語変えちゃったらいいじゃないですか」(スポーツ報知) https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180708-00000059-sph-ent
ここにも「でんでん現象」が(古)
しかし、もしもこのように、公共で認められた読み方と異なる私的な(?)読み方のほうが、
後に公共的に認められてしまうことが起こったら、それはどんな現象と考えたらよいだろうか https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1020965382423601152
しかし『これがニーチェだ』の時点では,ニーチェは思想家としては完璧に敗北したと
言われていたのに,なぜ急にこんなことになったんだろう
「急に」というわけではなく,もともとニーチェが取り上げていたような道徳や価値は
実はあまりに弱いもので,ニーチェの議論は邪悪すぎたのだろうか
でも道徳や価値そのものを公の場で堂々と否定したり,的確な議論を組み立てたりする人が
別にそんなにいるとも思えない(思想家として敗北していることには変わりはない?)ので,
公には否定されているはずのものが簡単に勢力を伸ばすというのも,なんかよく分からない 新刊『世界の独在論的存在構造』発売記念age
新潟の書店にあったので、多分もういろんなところにあると思われる 暦がずれているのは自明だが、個人で各々ずれていないと暦を策定できないし
占いも当たらず、意味をなさない。ワールドカップが戦争家かというと
どちらかというと調教、統率力兵役実務につながる訓練だと思う。
戦力を見たり、軍事コマンドの人事には使えるだろうが、ショセンはメディア
客商売である。
人によって時間の進み方は違うが、同じ☀の速さ 同じ夜のながさ、同じ日付日めくりを生きている
という保証はない。確認できないのだよね。独我論の世界があくまで正しいから。 ニーチェは古典文献から邪悪になっていっていいのかというといいと思うが、
それだけではつまらない文献学者だろう。道徳の基盤はカントが詳しいが、
道徳を持ち合わせるのは貴重種で、常に戦いに猛っているような魔女の才覚だろうな。 つまんないから学術とかいうやつは書き込まなくていいよ つまらないのはあなたの人生に対する姿勢が、僕に哲学的心理で皮肉られているのでしょう。顕在化されえない力で。
つまらないのはあなたの方だ。世界を詰まらない人がつまらない世界を作り出し
それを必然的に感じているだけ。
と臆面もなく言うことが出来る。
つまらないなら盛り上げて、僕ではなく、面白い世界に彼を導いていけばよい。 と思います。書き込まないというより、掲示物の範疇だから
法律的にはね、つまらないならスルーしてもらって結構。反論も結構。
同じことを言われるとオタク瞬間時間が流れてしまいます。 >>727
独在性という語が成立するかは差し当たり保留して「それ」とし
「それ」が言語に反映され得ないとしたのがウィトゲンシュタインで
「それ」が言語に反映され得るとしたのが永井であろう
もちろんウィトゲンシュタインは独在性なる概念を認めはしない いや、言語に反映され得ないというだけで認めてはいるかな?
ウィトゲンシュタインの独我論と永井の独在性の違いはそこだけで 今という驚きを考えたことがありますかp51より
(前略)独我論と観念論は全然違うじゃないですか。
独我論とは、この〈私〉だけがほんとうに実在するものであり、
外界の物質はもちろん、他人の心も実在しない、もしくは実在するかどうかわからない、
とする考えです。一方で観念論は、物質と精神の対比において精神こそが実在すると考えます。
ここでは精神というものが存在することが前提されています。
すなわち他人にも精神があることは前提になっています。
しかし、独我論との対比で考えたとき、みんなに精神があると考える観念論は、
もっとも反独我論的です。(後略)
いまさらだけど… 観念論は関係無い
永井は独在性が伝達可能であるという立場であるから
中心化された世界が1つだと主張しているわけではないであろう たぶんあなたに対してのレスではありません流れを切って申し訳ないけど またえらく単純な誤読に陥ってるな、このレビュアーは 密かに前言撤回したのに相手が誤読したせいなどと付け加えるやつのレビューなど何の価値もない 自分で議論と思ってるものが意見である場合があるのがなぜか、この人が暴き出してすごいなぁと思ってたけど、
この人、自分だけは違うと思ってるのなんなんだろうな 小説家になろう 永井均の「世界の独在論的存在構造」批判
https://ncode.syosetu.com/n1632ez/ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be20a4887bc3d3353f527d3636c44e3) 神の世界創造を信じてないっていった人って、現に世界があるってことを信じてないっていったんじゃないの
他人の発言を根っこでとらえず自分の型で捉えて切っちゃうよね @hitoshinagai1
西田序で。NHK出版から出ていた拙著『西田幾多郎』の増補改訂版がKADOKAWAの文庫版で出ます。
文庫版の付論においては、西田哲学で時計の成立を説明し、道すがら仏教における解脱とキリスト教における復活、
西田における自覚と仏教におけるサティ(マインドフルネス)の関係を論じ、本論と繋げます。 こどものための哲学を読んだのはもう10年以上前です
永井さんがいまだに<私>にこだわっているとは、少しびっくりしました
さすがに飽きただろうと思っていました 清水将吾氏、どうしたんだろうか
いつも通りの永井論法なのに、イチャモンつけてるようにしか見えんのだが 確かに、なんでああいう流れになってしまってるんだろう
論理的構造だけで言えば、単に、「もしAを前提とすればそこからB、C、…が言える」という
話をした時に、B、C、…が実際に事実と合致しているかどうかはいろんな場合がある、
というだけのことではないかと
(「帰謬法」というと、逆に結論が間違いや矛盾を含んでいないといけないことになるので、
そこは訂正したと)
それと別に事実のコミットメントということになると、純粋に事実といえるかは別として、
永井がよく言っている「自分の哲学のみが真に重要な問題で、それに比べれば世の中の
大抵のことはどうでもいい(そして大抵の人はそういうことを日々頑張っている)」という発想を
暗に前提にしてる、ということにはなるかと思うけど
まあもちろん、その発想を全然知らない人、その中でも現にブラック企業で苦しんでいたり
その問題解決に取り組んだりしている人々にとっては、現実を無視した馬鹿げた発言と
感じられる可能性はあると思うけど
ただ元々永井が永井らしいツイートから始めた文脈に、そういう感じかたを持ち込むのが
適切か、ということになるんだろうけど
(当然ながら、そういう感じかたから話を始めれば、別の議論になるわけで) 永井氏がたびたび指摘しているのは
永井氏のテーマとはまったく関係がない事柄に引きつけて永井氏の考えが解釈されてしまうことが多いということだが
本人も他の哲学者に同じことしてるんでおあいこ >>779
永井は少なくともそれを自覚しているということだろう >>773
ライプニッツとかホワイトヘッド的な解釈だとこうなるんだけど
永井はこっち方面にあまり関心がないらしいね >>781
ろくでなしだよ
蔑みを抑え切れない人格なのは間違いない >>776
飽きるはずないだろ
世界の偶然性だけでも一生飯が食えるのに
世界の偶然性そのものの偶然性を相手にしてんだから >>787
私も一時期、<私>に気がついてびっくりしましたが
今じゃ、熱くなってみんなに語った自分を恥ずかしく思いますよ
永井さんも、本当は分かってると思うんです
引っ込みがつかないだけなんですよ それは引っ込みがつく=精神力が尽きた
引っ込みがつかない=精神力が尽きていないと言い換えれば
君も否定したくならない類の指摘なんだろうな
くだらない 宗教板でサティと呼ばれる人が、永井均の独我論で
「霊の実在を悟性として理解しました」と言ってるんですが、
哲学者が「霊の実在」なんて語っているのですか?
【イエス】 これはわたしの愛する子part37 【キリスト】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1535314321/492
492 :神も仏も名無しさん :2018/08/29(水) 00:33:14.20 ID:GdL7qnw0
>>485
僕はデカルトの独我論で霊の実在を悟性として理解しました
厳密には、ウィトゲンシュタイン→永井均の独我論ですが
それを通ったお陰で霊とは何か、なぜ神の名が「私は私は在る」なのか、理性で触れるようになった感じです
>>491
美魔男の構って欲しい人をディスる癖がまた始まったようじゃなw
http://hissi.org/read.php/psy/20180829/R2RMN3FudzA.html >>792
「霊の実在」というのが何のことかよく分からないけど、多分、永井はそのようなものを
認めて(少なくとも積極的に論じて)いないと思うよ
特に、普通にイメージするような、肉体と切り離されてフワフワ浮かんでるような
精神のみの実体(?)のようなものを指しているのであれば 「私は身体を度外視しても存在しうる」ぐらいの意味で言ってるんだと思うが 永井は、魂については、「脱人格的自我」のことを
昔からそう呼ばれてきたものとして、名称だけ借りている。
もちろん、夜の墓場で青白く光る炎のような目に見える実体のあるものではないが。
霊という言葉を使っているのは知らない。 せめて来世があるなら死の概念は無意味程度の認識は持っといてほしいよね >>792を読む限り、
飽くまで>>792の引用元が永井均を読んで、そこから得たインスピレーションかなにかで
「霊の実在を悟性として理解しました」
と『>>792の引用元の言葉』で語っているだけでないの?
『霊の実在』や『悟性』を想起させる内容を永井均はどこで書いているのか?
のような質問ならわかる。 探究2は誤字が今までで一番多いな
今までも結構あったけど倍以上ある
後ろの方のなにも書いてない紙も異様に多いし、なんかあったんかな なぜ意識は実在しないのか
結局これがベスト・オブ・ベスト 永井先生はハイデガーの記述のダサさのせいでハイデガーを軽視してるけど
自分はハイデガーの感じた恐怖の方がウィトゲンシュタインよりも共感できるかな >>213
間違いなくこれだよね
"ある"か"ない"か以外に選択肢が"ありえない"この現状
こんな不思議な状況に放り込まれてるのに一切疑問を感じず
放り込まれた世界をただただ探求しようとするその姿勢
実に無邪気だ >>744
でも目の前の木を"マロニエ"ではないと見抜いて恐怖するセンスは
決して一般人のものではない、叙述が拙かったとはいえやはりサルトルも哲学者だったよ 永井均 @hitoshinagai1
12月29日
かつて勤務していた大学での大学院の入試面接の際、他専攻の教員も参加していたが
受験者の提出論文の非常に優れた議論を全く理解できずにとんちんかんな質問を連発。
受験者は試験官が素人だとは夢にも思っていないため、質問が理解できないことでしどろもどろに。
試験官はその受験者に最低点を与えた。
永井均 @hitoshinagai1
12月29日
これが「評価者の識見が評価対象の水準に遙かに及ばない場合の低評価」の「興味深い事例」で、
「アマゾンを始めとする今日のネット上では馴染みの現象」ではあるが、
実のところは昔も今もよくある(あった)ことだろう。
人は理解できないものを出来が悪い(と理解できた)と思い込みがちのようだ。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 永井均Twitterより
永井均
禅僧のネルケ無方さんが、拙著『哲おじさんと学くん』を紹介してくれていて、しかも本書に固有のポイントを(お坊さんなのに!)正しく指摘してくれています。
ゆう
下らない質問で申し訳ありませんが、ネルケさんの動画を見るまでずっと、「哲おじさんとガクくん」だと思っていたのですが、「マナブくん」だったのでしょうか?
永井均
書いているときは私は「ガク」と思って書いていましたが、担当者も書籍版編集者もみな「マナブくん」と言っており、本の題名の正しい発音も「てつおじさんとまなぶくん」です。
ゆう
ありがとうございます。著者がつくった名前を、著者だけが誤読していたのだとしたら、面白いですね。 無内包の現実性とは常にトラウマのようにしかやってこない。
永井の独我論は子供だましの虚構 ほんのひとことついでに触れただけの貨幣をタイトルにしたり、
あとがきで無理矢理宗教のホットワードを自分の解釈にかぶせたり、
他の著作と比べても独自性のあった西田幾多郎本に最近の論法からめたり、
もうすっかり耄碌しちゃったな 神の死により自我同一性という虚構がばれそうになり啓蒙主義のルソーの社会契約論、カントの
定言命法による騙し。
哲学とは自我同一性という虚構・秩序維持活動 >>810
自己同一性という虚構の根拠を神(過去の起源)から未来(進化論、文明)への置き換え 「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義
シェリー・ケーガン
https://bunkyosha.com/books/9784866510774/article/1
無料公開ページ
原書 Chapter 2 二元論と物理主義
原書 Chapter 3 「魂」は存在するか?
原書 Chapter 4 デカルトの主張
原書 Chapter 5 「魂」不滅性についてのプラトンの見解
原書 Chapter 6 「人格の同一性」について
原書 Chapter 7 魂説、身体説、人格説ーーどの説を選ぶか? 哲学探究一の第一章p19の「我々の記憶は最初から過去そのものに届いており」の「届く」という言葉の意味がよくわかりません 教えてエロイ人 美魔女が芸能界デビューして、センターで歌って踊って
やがてイケメン俳優と結婚する記憶は、
過去そのものに届いているのだろうか? 美魔女の記憶が徐々に前田敦子の記憶と入れ替わるとき、
美魔女はいつ前田敦子になるのか?
前田敦子はいつ美魔女になるのか? 美魔女と前田敦子の記憶が完全に入れ替わったとき、
美魔女のその記憶は、過去そのものに届いているだろうか? 神をみんなで殺すのも同かな、マンツー神じゃないと、生き死にしても無意味。
定言命法については漢字では完全じゃないけど、完全なありようを目指しても、
ついていけなくて破綻する存在があると思う。
自我同一性を感じる人は食道楽や
オシャレもなく犠牲心もないんだろうなあ。生まれ変わるより死に変わる方がいいよ。 >>810
なぜ我々が神を信じてないのに自我同一性を失わずに狂人にならずに済んでいるのかと
いう疑問がわいてくる
言語習得の最初の段階は意味の側面でなく音の側面であるが哲学では意味の側面しか考察できないという
限界を哲学者は気づいていない >>820
その狂人=独在性に至ろうとして永井センセは瞑想に励んでるw 17 :神も仏も名無しさん :2019/07/05(金) 22:51:37.03 ID:QwCXyyiF
この話に興味がある
833 神も仏も名無しさん 2019/07/03(水) 12:55:44.10 ID:EyBmaQ23
永井さん、内容的に手切れとも取れる講義をしたらしい。
アスペにはその内容の意味がわからない。
秋に本になれば、はっきりする。
841 神も仏も名無しさん 2019/07/03(水) 14:23:40.40 ID:2yDoWBDz
>>833
そうそう
永井さんは山下をすでに見限っている。
山下が勘違いしている。
永井さんは山下と距離をとり始めてり 18 :神も仏も名無しさん :2019/07/05(金) 23:00:43.79 ID:83zqFDG4
<span class="AA"> 永井均@hitoshinagai1 6月25日
後者(27日木曜)に関して。
「内山興正の「いきづまり」は素晴らしい!」
1、内山興正の自己誤解
第一図と第五図はまったく違うことを言っている−私秘性なしに独在性はありうる
すると、どちらからどちらへと「目覚める」べきかは明らか
2、「映画−映画館」解釈と「現世―涅槃」解釈
永井均@hitoshinagai1
3、じつは第四図と第五図こそが同じことを言っている!
変化は単に「即自的にそうある→対自的にそうある」 視点(始点)の移動
4、超越的vs.超越論的 「死なない」のではなく「生死概念のとどかぬところ」
5、道徳的行為(菩薩の実践)をそれ自体として崇めないこと </span> 1 :サビぬき。 ◆THkSItvq3E :2019/07/10(水) 23:59:51.28 0
https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1148947350364160001
永井均@hitoshinagai1
「私は北公次の『光GENJIへ』の愛読者だった。
テレビでは良識的なコメンテーターとして知られている人までもが
ジャニー喜多川をまるで偉人のように礼賛しているのを見ると、
世の中というものは恐ろしいという思いを新たにざるをえない。」
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 107 :fusianasan :2019/07/11(木) 18:15:17.95 0
永井は前にHey!Say!JUMPの知念が好きだとか書いてたような記憶がある
一応ちょっと知ってる人だけど、
ずっと家にこもって本ばかり読んでるようなタイプだよ
まあ学者はそんな感じが多いんだろうけど・・
116 :名無し募集中。。。 :2019/07/11(木) 21:26:36.91 0
これか
https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1112688809651527680
永井均@hitoshinagai1
「平成」にはなんの思い入れもないが、終るとなると、ただ一つ、
私がずっと大ファンであった Hey! Say! JUMP が一時代前の存在になるようで、
それだけはちょっと感慨深いものがある。
たしかに、山田くんも知念くんも…立派な大人になったけどね。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 118 :名無し募集中。。。 :2019/07/11(木) 21:28:49.94 0
永井均@hitoshinagai1
Hey! Say! JUMP の大ファンであったというのは本当か、と尋ねる方がいますが、
例えば『ウィトゲンシュタインの誤診−「青色本」を掘り崩す』の
「31 痛みを感じている人は口から泣き声を出している人か」のウィトゲンシュタイン批判は
「NYC論証」と呼ばれ、各々のキャラを知らないと面白くないですよ。
119 :名無し募集中。。。 :2019/07/11(木) 21:30:42.40 0
永井均@hitoshinagai1
ただし、NYCは Hey! Say! JUMP とは別グループ。
N=中山優馬,Y=山田涼介,C=知念侑李。
この「論証」は超簡単だが重要なので、そこだけでも読んでもらいたい。
なぜウィトゲンシュタインの主張が受け入れられてきたのか不思議だ。
講談社文庫版では『「青色本」を掘り崩す−ウィトゲンシュタインの誤診』。 哲学探究2p 18で
デカルトが欺く神に勝ちうる理由は明らかであった。それはデカルトが自分を捉える際に用いてる「ただそれだけが現にあたえられているから」という理由を欺く神の側は持ち得ないから、であった。
この点なんですが、欺く神もデカルトを捉えることが出来るのではないかとは思ったのですが間違ってますか?(神は全知全能なので) >>828
あなたのおっしゃる通り神はデカルトを捉えます 956 :神も仏も名無しさん :2019/09/01(日) 09:31:10.44 ID:TeGoTQlz
一般の人は騙されても哲学者は騙されない。
仏教3.0鼎談、永井さん最後の言葉。 その「捉える」という表現は、古代ギリシア語の"κράτος"に対応するような意味で使っているのでしょうか どうしてそう思ったかと言うと、最近、Twitterで紹介されていた本を眺めて
みたところ、古代ギリシア語の"κράτος"という表現は、支配という政治的
な意味の外に、その動詞形において、「消化する」とか、「保持する」とか
の意味で用いられて、包み込むようなイメージでも捉えられていると説明
されていたからです。
「捉える」という表現は、「とらふ」に由来し、「とらふ」は、明白に
「とる」+「ふ」の形態をとっている「とる」の再帰表現であると考える
ことができます。すると、「消化する」という意味を考えてみると、
「栄養を摂(と)る」という表現が思い浮かび、この場合、「とらふ」が
「自らにとる」ことを意味していることと類似していることが分る。
さらに、「とらふ」が捕まえることを意味するように用いられる場合、
それが「保持する」ことに近いことは言うまでもないでしょう。
その上、「囚(とら)ふ」という漢字を考えてみると、包み込むような
イメージにも合うことになる。古代ギリシア語を勉強したことはないので、
よくは分りませんが。 833考える名無しさん2019/09/01(日) 18:15:00.470>>822
と表示されていますが、私のレスは、>>822とは無関係です。
誤解のないよう。 >>831
>一般の人は騙されても哲学者は騙されない。
その「騙される」というのはどういう文脈で出たんですか。
よろしければ簡単にでも。 永井さんと山下さんがすれ違ったポイント。
「心と宗教」の山下スレッド(もう落ちちゃってるけど)と、
鼎談直後のポッドキャストを聞いたら、大体のところは分かりました。 山下良道は「第五図に出ると慈悲、アガペーがある」という。
取り出してほれと見せられるものではないし、
そもそも慈悲とかアガペーついては永井哲学の対象ではないだろう。
確定した事実、法則性などとしては扱えない。
哲学者として「ほーそうですかーあるんですねえ」などと言うことは出来ない。
いくら話の終わりだからといってもね。
宗教者と哲学者では興味の領域が違うよねという話だな。 仏教3.0〈哲学〉鼎談は、人間の共通言語としての哲学(数学のように)の代表者として
永井先生の見解をお聞きし、それに沿った仏教解説を試みたといったところでしょう。
以下2つの話は永井さんの話を踏まえた上での仏教者によるもの。
全部で4時間もあるし、ここの人にはつまらないかもしれないけど、
一応紹介しておきます。
山下良道vs藤田一照
19/09/03 帰ってきたアップデートする仏教 in 大阪
https://www.onedhamma.com/?p=7302
19/09/07 世間は虚仮、ただお浄土だけがリアル
https://www.onedhamma.com/?p=7306 永井均「 テーラワーダ仏教の伝統には「生きとし生けるものが幸せでありますように」等と唱える
「慈悲の瞑想」というものがあり、冒頭で触れた鼎談は実は二回目なのだが、その一回目から
この瞑想の評価をめぐって意見の違いがあった(この意見の違いは、
藤田一照・山下良道『アップデートする仏教』幻冬舎・一五一〜一五二頁に表われているので、
興味のある方は参照されたい)。私が注目したのは、他の瞑想(や坐禅)とは異なり、
これは言葉を使ってしかできないこと、しかしその言葉の質は普通のヤリトリの言葉とは
まったく違うこと、であった。私の思うところでは、これは、通常の言葉によるヤリトリとは逆に、
先ほど述べた意味での無為なる存在が、他,の,無,為,な,る,存,在,に,呼びかける、いわば超越者に
対する祈りの言葉なのである。そして、おそらくはそれが、たぶんそれだけが、われわれの場合の蔓なのである。」
https://samgha.co.jp/websamgha/nagai/%e8%87%aa%e5%b7%b1%e3%81%8e%e3%82%8a%e3%81%ae%e8%87%aa%e5%b7%b1%e3%80%81%e3%81%a8%e3%81%9d%e3%81%ae%e8%94%93%e3%81%a4%e3%82%8b/
・・・けれど、哲学者に「慈悲がぶっ続きですよ」と言っても誰も納得しないだろうね。
そういう意味なのでは。 三人称の事実の積み重ねでは時間を捉えられない、辞書的な出来事の単なる積み重ねは時間ではない
主観から見た変化でないと本当の変化ではない、時間は捉えられない
しかし、主観から見た時間が一方向の線形な順序を持つためには前者を持ち込まないと駄目
だから時間は存在しない 三人称の客観を否定して一人称のこの主観にとやる理論はたくさんある
唯物論や自然主義に対抗するカント以来の観念論の系譜が多様にあるが、本質は主観にとっての変化、事実だけが唯一の正解だ
主観にとって繋がる系列、それだけが現実という哲学
マクタガートの発想が参考になる
しかし、主観の系列とは何か
この一瞬前の私と今の私の繋がっている根拠は
一瞬前の私は今はあの犬に
一瞬前の太陽が今の私ではないな
一瞬後の今の私は自転車で
一瞬後の私は今は絵葉書ではないか
また、私が現在過去未来と線形で連続している必要がどこにあるか?
三時間毎に私がいても過去に遡っても全然構わない
そうでないと言う理屈はない >>842
>主観の系列とは何か
客観に解体されない独我論 一人称のこの私はどこまで行っても三人称の辞書的系列のネガでしかない
私があるとしてもその一人称視点で順序づけられるような私ではない
そう解釈し、順序づけた時点で私ではないし、内包とか系列づけられるものなど私ではない 郵便ポストが赤い
しかし、一秒後も郵便ポストと比較してやはり赤いと認識しなければならない理由は何もない
猫でも鉛筆でも半沢さんでもいい
郵便ポストの系列を三人称客観を前提にしないと郵便ポストは赤いという認識は成立しない
これは私のことを語っているわけで私が私であるとか私の内包とか語っている時に既に三人称客観が密輸されている
マクタガートが気づきながら目を逸らした一点
既にそれは私でも変化でも時間でもない 郵便ポストは一秒後には猫であり二秒後には消しゴムで構わない
私の真の体験はそういう無差別なものだ
郵便ポストは郵便ポストで赤いなどと言うのは既に一般性に三人称客観に系列づけられた私ならざるものだ それは、どの点が問題なんでしょうね?
単に、視界の中央にあるものが1秒ごとにポスト→猫→消しゴムと変化していった(ように見えた)として、
それだけであれば、普通の物理的常識とは反する(ように見える)ことが起こった、というだけで、
特に問題ないようにも思うんだけど。
(巧妙なトリックとか幻覚のような場合を考えれば、別に物理的にもあり得なくはないし)
そうではなく、今見ている赤と1秒前や1秒後の赤とが同じ「赤」と呼べる理由はないのではないか、
という趣旨とすれば、永井の言う私的言語の問題と多分つながるのではないかと思います。 この今ここのクオリアもそれが何であるか、右側の視覚の郵便ポストと左側の視覚の薔薇の花が同じ赤なのか
何の根拠もない
右側と左側の視覚、知覚が同じ私である根拠なんかない
a1、a2という体験から何を導き出せるか、そもそもそれは私の体験かなどはわからない
この今のa1という私と、次の今のa2という私に何の関係があるか
永井読者なら何の関係もないことはわかるだろう
私はクオリアではないし、体験でも知覚でも現象でもない
また、ばらばらのままの私かそれでも総体として私だとか間抜けなことは言わないで欲しい
私なるものがもしあるとしたらありうるとしたら少なくともそんなものが私ではない
a1a2とかは私とは関係ないしそれの内包だ何だは私とは全く関係ない
マクタガートの私の主観的系列は三人称を密輸した汚染された客観に過ぎない というようなことを
14歳がノートに書き付けるのならまだ良いのですが、
60歳にもなってまで発する、というのはどうなんでしょうね
「周りからブン殴られて終わり」
というのが、ありそうな現実だと思いますが。 なんで暴力に訴えかけるようなこと言うのかな
気にくわないなら彼にちゃんと反論すればいいのに
揶揄してないで ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています