【アクトゥアリテート】永井均 10【レアリテート】 [転載禁止]©2ch.net
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あなた方って自分も入るのかな
再現というよりは、それについて語ってる哲学者がいるなんて!という感じで
興味持ち始めたところ
自分は「〈私〉は相対化されないよなぁ」と思ってます
だから《私》が再現するという話は脇から見ててよくわからない たしかに再現にこだわる私もどうかと思いますけどね
当初自分的には『開示される』とか『発見的把握』とか表現していたのですが
893氏の『永井哲学は理解するより再現するほうが難しい』>>897に乗っかる形で
こんなことになってしまいました
結局、互いにぜんぜん違うことを話していた
のですらもなく
匂いのする記号をぶつけ合っていただけでした
やっぱりねえ
何度同じ失敗を繰り返すのか
絶望しますね 説明できないことってあるでしょ
映画とか音楽とか絵とか小説とか
衝撃的感動を受けたりして
だけどその体験そのものは説明できない
同じものを見たり読んだりしても
それを感じない人には、話が通じない
だって、この感動は説明しても伝わらないのだから
だけどもし同じ体験をした人がいたなら
「ほら、あれよ、あそこがね、すごいね」みたいな契機によって
話が通じる、それは錯覚かもしれないけど
錯覚という奇蹟、奇蹟による錯覚
そこに隠された真実は果たしてあるのか >>906
>私と他人の意識の内容には、全く違いがないと、貴方が判断する根拠は何ですか
ここは俺なりの理解というかやや誇張も入っているので、補足説明しておきます。
まず、
(1)<私>と他者の違い、<今>と他時点の違いは、内容的な違いによって説明されるものではなく、
現に存在するという違い(アクトゥアリテート)しかない。
(2)「現象的意識」と言われる問題は、実は、アクトゥアリテートの違いが反映したものだ。
(よって、クオリアの逆転というような内容的違いが考えられると思うのは、実は疑似問題だ)
というところは、永井の近年の著作から言える、と俺は理解している。
そして、そうであるとすれば、
(3)私と他人の意識の内容には、(状況が十分類似していれば)全く違いがない。なぜなら、
そこにあるのは内容的な違いではなくアクトゥアリテートの違いだけだから。
とまで言う方が、問題の誤解・混同を避ける意味では有益ではないか、と、俺は考えたので、
あえてそういう表現をした。
穏当・正確に表現しようとすれば、「内容に全く違いがない」とまで断言するよりは、「内容の違いに
よって説明されるものではない」というのに留めるほうがよかったかもしれない。
以上が補足説明を含めた論拠の説明です。 それと、しつこいようだが>>925あたりについて。
既に書いたとおり、<私>と他者、<今>と他時点の違い(アクトゥアリテート)は、内容的な違いではないので、
当然ながら、「一定の条件を満たした場合や一定の境地に達した場合(?)にだけ体験することのできる、
特殊な経験や意識状態」などというものでは全くないはずですよ。
もし<私>が、例えば、「『子どものための哲学』の前半を熟読した時に経験する状態」などという
ものだとお考えであれば、例えば以下のようなことを考えてみてはいかがでしょうか。
(1) 私と隣にいる他人が同時に『子どものための哲学』を読み始めて、同時に前半部分を
読み終わったら、<私>が2人生じることになるのか。
(2) また、隣にいる人が先に読み終わったりしたら、それによって隣の人が<私>になるのか。
というか、そんなわけないのは明らかだろうと俺は思うので。
(という例え話を考えてはみたものの、かえってますます誤解を生むだけかもしれないので、
端的に分裂や火星転送の思考実験を改めて読んでいただく方がよいかもしれない) 882さんすまないけど実はうろ覚えでいまさっき数えたら26冊永井均関連の本があるけど
どの本に《私》がでてくるかはあまり覚えてないんだよね
882さんはその根拠は永井均が《私》に言及した著作にあるのでしょうと言うけど
たしかにそのとうりなんだろうけどあまり記憶がはっきりしない
世界の独在論的存在構造に
《私》を見つけた終章中心性と現実性の派生関係の最後ページp269
世界というものは必然的に《私》から開かれるものであり、この世界もまた、とある
882さんは『再現されるのは《私》でしょう』の理解する根拠
『自分にも他者にも成立する<私>』という相対化された理解が
普遍的に理解可能な問題として他者にも開示され たらそれが《私》のことです。
では根拠にはならないのか 《私》とはそもそも永井均さんが造った表現なのだから
この程度の説明でも良いのではないかな なんだか奇妙な論理だと思うなぁ
当事者性が希薄ってことはわかる >>924投稿時間にさっききずいたのですがもしかして私への疑問ですか?
ちゃぶだいひっくり返すようなことを言いますが
だいたい〈私〉と表現できる時点で一度は相対化されてるよね。
永井均氏が何処かで言ってたと思うけどそれは不可避でしょう
だから他者とのコミュニケーションの場面では全て《私》のことしか言えない
累進構造から一段落ちて伝わり自分で辿り直すしかない
ちなみに今日も徹夜して典拠して確認して書いてないので間違いの可能性あり
私の記憶の永井哲学の体感理解度七割ぐらいあといままで書いてきた文章がおかしい
所がある。 「私」と〈私〉が相対化されてるそれは〈私〉が「語り得ぬもの」であるにも関わらず
〈私〉という言語表現をしたことによるものかと
〈私1〉と〈私2〉が相対化されるということではないでしょう 改行が変だった。
「私」と〈私〉は相対化されてる。
それは〈私〉が「語り得ぬもの」であるにも関わらず語ろうとしたため
〈私〉という言語表現をしたことにより生じているものかと。
〈私1〉と〈私2〉が相対化されるということではないでしょう。 永井均は道徳に関しては無頼派を気取ってタブーがないが
性に関しては、堅物の学者の限界で一般人より規制でガチガチ >>937
>改行が変だった。
「私」と〈私〉は相対化されてる。
それは〈私〉が「語り得ぬもの」であるにも関わらず語ろうとしたため
〈私〉という言語表現をしたことにより生じているものかと。
ここは大丈夫なんですけど
〈私1〉と〈私2〉ってなんですか? なんですかと聞かれても、こちらが聞きたいんだけど
あなたの言ってる相対化とは具体的にはどんなことなのですか? >>940
https://www.weblio.jp/content/相対化
自分で調べて考えたらいい小学生でもつかってるような一般的概念なんだから、
それに対して〈私1〉と〈私2〉は辞書にも載っていない君の独自概念だろう
そんなのいきなり使われても意味不明だろうに
だいたい質問に対して全く答えず質問で返すとか答えてもらうつもりがあるの
ああ最初の質問には答えられてももう答える必要はないよ
君のような不実な人とはあまり対話したくないから。
さようなら ?本気で意味がわからない、多分この文の前半が目に入ってないのでしょう
>>941
>質問に対して全く答えず質問で返す 「私」と〈私〉は相対化して語ってるようで、相対化し得ないものでもある。
なぜなら〈私〉とは語り得ぬものだから。
調べていけばそれは本当は全く「私」のことなのかもしれない。
つまり全く物事の裏表というだけで同じことなのかもしれない。
(自分にはとてもそうは思えないけれど、論理的にはあり得る)
つまり永井均や「ピンときてる」読者達の思慮が足りないだけかもしれないのだから。
ともあれピンときてるだけで思慮の足りない自分は
〈私〉は相対化されないと思います。
しかし相対化されると主張してる人がいる。
だったら〈私1〉、〈私2〉、、という存在があるということでなかったら
相対化なんて出来ないでしょ?という問いかけですよ。
質問で返さないで下さい。
相対化とは「具体的には」どんなことを仰ってるのですか?
辞書的意味を訊いていません。 >>930
返信が遅くなりました
現に存在するだけなら、それは<私>である必要はありません
自我で十分であり、誰でも納得できる、普通の話です
もっとも貴方は<私>がなんのことだか分かっていないようですので
そのように考えてしまうのは仕方のないことです
分裂とか火星転送の話をするにしても、<私>をどう捉えているかによって
考えていることが違ってしまうわけですから、対話をしているように見えたとしても
全くすれ違った蒟蒻問答になってしまう
貴方は<私>がなんのことだか分かっていない、と失礼にも私は言いましたが
むしろ貴方が健全であって、私が狂っているのかもしれない
しかしピンとくる人もいるかもしれませんので
『<子ども>のための哲学』で、わたしに<私>が開示された(と勘違いした)箇所を
以下引用してみます ほんとうの問題 〜<子ども>のための哲学」より
ぼくの問題はそうではなかった。ぼくの問題はたとえばA、B、C、D、四人の子どもがいるとき
ぼくがBであって、AやCやDではないことにあった。Bであるぼくが反省意識によって自我を発見
できるか、なんてことはどうでもよかった。もしそんな自我なんてものがあるなら、他人にもある
だろう。そうなればまた、ぼくの自我と他人の自我の違い(つまりぼくの自我の特別さ)が問題に
なる。その特別さは「ぼくの自我」の「自我」の方にあるのではなく「ぼくの」の方にあるはずだ。
その「ぼく」とはいったい何なのだ。
(中略)
でもそんなことをいっても、ほかの人たちだってみんな、それと同じ意味で、それぞれ特別な
「ぼく」なんじゃないか。と、こう思われるかもしれない。でも、そうじゃない。ぼくがぼくであるのと
同じ意味で、かれらは「ぼく」であることはできない。だってそうじゃないか。ぼくがぼくであるという
特別な意味でのぼくが、この世にいない場合でも、彼等はみんなそれぞれ「ぼく」である。そのとき
いないものこそが、ほんとうの意味でのぼくなのだ。これから先、必要な場合、この意味でのぼくを
<ぼく>と書くことにしよう。
(中略)
さて、では、ぼくがこの世にいない状況というのは、どういう状況だろうか。さっきのA、B、C、D、
四人の場合で考えれば、いちばん単純に考えられるのは、なによりもまずBがいない状況だ。
Bが死んでしまったか、あるいはそもそも生まれてこなかったかで、Bという人間が存在しない
状況だ。このときでも、もちろんAやCやDは、それぞれぼく」であるだろう。だから世の中には
「ぼく」はたくさんいる。つまり自己意識を持った生き物はたくさんいる。でも<ぼく>はいない。
そのとき世界には何が欠けているのか。つまり「ぼく」たちがたくさんいるのに<ぼく>がいない
とき、世界は何を失うのか。逆に現実がそうであるように、たくさんの「ぼく」たちのほかに<ぼく>
がいるとき、世界には何がつけ加わるのだろう?
つづきます ぼくが存在しない二種類の状況 〜<子ども>のための哲学」より
ちょっと考えただけのときは、答えは明らかであるように見える。いまの例でいえば、「ぼく」たちが
たくさんいるのに<ぼく>がいないとき、世界が失うものは、もちろんBという人間であり、たくさんの
「ぼく」たちのほかに<ぼく>がいるとき、世界に加わるものも、もちろんBという人間だ。つまり、
どちらにしても、特定の人間の存在と不在が問題になっているにすぎない。一見、このように見える
のだ。
でも実はそうではない。Bという人間が居るにもかかわらず、そいつは<ぼく>ではない、そういう
事が考えられるからだ。いま想定している世界は、A、B、C、D、の四人の男の子がいて、Bが<ぼく>
である世界だった。だから今度は、Bがいなくなるのではなくて、Bはそのままいるのだが、そのBが
<ぼく>ではない、という状況を考えてみればいい。<ぼく>だったBが突然<ぼく>でなくなるか、
あるいはもともと<ぼく>ではなかったかして、<ぼく>が存在しない状況だ。
言うまでもないことだが、Bが<ぼく>ではない状況とは、Bが心のない、外見だけ人間のように
見える、ロボットのようなものであるような、そんな状況のことではない。Bは感情もあれば、記憶も
そのままの、これまでどおりの人間だ。つまり、自己意識を持った生き物のままだ。つまり、Bは
「ぼく」ではあるのだ。でも<ぼく>ではない。そして世界に<ぼく>はいない!
このとき世界は何を失ったのか。Bが「ぼく」ではあるのに<ぼく>ではないとき、世界には何が
欠けたのか。逆に、現実がそうであるように、Bが「ぼく」であるのみならず、さらにまた<ぼく>でも
あるとき、世界には何がつけ加わったのか。Bという人間に何がつけ加わったのか。 ぼくの出した答え 〜<子ども>のための哲学」より
A、B、C、D、の四人が一緒に遊んでいて、急にBが<ぼく>でなくなったとする。さてその変化に
気づくことができるのは、だれだろう?
AやCやDに気づけるはずはない。Bには外見上なんの変化もおきていないのだから。外見だけしか
分からない他人(ここではAとCとD)には、この変化がわかるはずはない。ではB自身はどうか。
B自身だっておなじことだ。Bの内面には何の変化も起きていないのだから。内面をのぞき込めると
いう特権があるだけのB自身に、この変化がわかるわけはないのだ。では<ぼく>はどうだろう?
だが、残念ながら<ぼく>はもう存在しないのだ。死んだ人間が自分が死んだことを知っているはず
がない。という意味で、<ぼく>もまたBに起こった出来事を知っていることはできない。
(中略)
ではこのとき消えてなくなるものはいったい何だろう?逆にいえば、消えてなくなるまえにあった
ものは何だろう?この変化の前後を通じて、Bという人物はこれまでどおりふつうに生きて活動を
しており彼の記憶や意識や自己意識や自我といったものもそもまま存続している。とすれば、いったい
何が変化したのか。変化の前後で、存在したりしなくなったりするものは何か?
それは<ぼく>である。そしてそれ以外には表現できないものだ、というのがぼくの達した結論だった。 引用は以上とします
永井均さんは、「<ぼく>の存在はひとつの<奇跡>なのだ!」と書いたあと
「ところで読者の皆さん、ここまでのところで、ぼくが感じた問題の意味を理解して
いただけただろうか。ぼくの経験では、このような話をどんなにくわしくしても、
そもそも問題の意味をまったく理解しないひとがいるようだ。」
などと言ってます。
いや、いるようだ、ではなく、ほとんどそうなんだよ
<私>を批判しに永井スレに来た私ですが
まさか<私>を擁護するはめになるとは
苦笑を通り越して屁が出ますわ >>944
>「私」と〈私〉は相対化して語ってるようで、相対化し得ないものでもある。
>>937
>「私」と〈私〉は相対化されてる。
>それは〈私〉が「語り得ぬもの」であるにも関わらず語ろうとしたため
>〈私〉という言語表現をしたことにより生じているものかと。
と語っている所は「私」と〈私〉は相対化されていて〈私〉という言語表現をすれば相対化が生じると読める。
>>944
>なぜなら〈私〉とは語り得ぬものだから。
逆、相対化されるから〈私〉は語り得ぬものになる。 >つまり永井均や「ピンときてる」読者達の思慮が足りないだけかもしれないのだから。
「ピンときてる」いきなり出てきて意味不明、何にピンときているのやらこの文からは読み取れない、君に 思慮が足りないだけかもしれないだけで永井均に思慮が足りないわけではない
>しかし相対化されると主張してる人がいる。
だったら〈私1〉、〈私2〉、、という存在があるということでなかったら
相対化なんて出来ないでしょ?という問いかけですよ。
〈私〉とは森羅万象としての世界のことであるから
他者の存在を前提に置かなければ当然相対化できないが言語をつかうコミュニケーションを
おこなう以上他者は前提される。君は他者の視点から相対化されているしまたしている。ことにされている。というか常に既に成っている。そうじゃなければ言葉をつかえない
そうして原初の事実は隠蔽される。〈私〉は言語の在り方に反する。
>>937
>〈私1〉と〈私2〉が相対化されるということではないでしょう。
この文章には?は使われていない自分の都合のいいように後で書き加えている
これだけでは質問文とは見なせない >質問で返さないで下さい。
相対化とは「具体的には」どんなことを仰ってるのですか?
辞書的意味を訊いていません。
辞書的意味は理解してる前提で上の説明で理解できると思うがわからないならばまた質問してください君の望むような対話にはならないと思うが、
永井均先生の一番新しい主著世界の独在論的存在構造を読めばだいたいわかると思うもっと正確に正しく私はウロ覚えで確認して書いてないので…
そもそも私は君の親でも先生でもないので答える必要も義理も無いのだが…
はっきり言って君が理解しようがしなかろうがどうでもいいただただひたすらめんどくさい >>950
> 逆、相対化されるから〈私〉は語り得ぬものになる。
逆ではないよ
語り得ないものだけれど言語化するにはみかけ相対化する必要がある 相対化 読み方:そうたいか
一面的な視点やものの見方を、それが唯一絶対ではないという風に見なしたり、提示したりすること。
〈私〉は絶対に間違えること無く自分だし(つまり唯一)、比類なき自己だし、世界の開闢なんですよね
そして自己というのは単なる「私」ではないと気づいた時に〈私〉ということがわかる
理屈抜きにね
言語化されてないもの、し得ないものだが永井はそれを哲学として
言語化する努力をしている
そして、ピンと来るというのは頭の良し悪しでも、哲学的な思考そのものともあまり関係ない
そういう話だと思いますよ 外から見た様子がみかけの意味でいいなら私から見れば言語化されているし相対化されているということ
もになる >>949
それで、あなた自身は、その引用箇所(に限らずとも〈私〉の意味を)具体的にどのように理解しているのですか?
その引用箇所も、まさに〈私〉が存在する場合としない場合で内容的には何も違いがないという、
アクトゥアリテートの問題を言おうとしている(古い著作を近年の用語で整理することが許容されるなら、
だけど)としか、俺には思えないのだけど。
と言うか、その引用箇所の限りで言うと、「そこから世界が開けている唯一の原点」などと言われる性質と、
しかしそのようなものもやはり誰にでも言えてしまうというアクトゥアリテートの問題が、未分化のままに
なっている段階の記述に過ぎない、とでも言うべきか。
(実際その箇所の後に、他人に理解されることの問題の記述が出てくるはず) >>958
さんざん「語り得ない」と言われている<私>について
具体的にどのように理解しいるのですか?と尋ねる貴方は
いったい私に、どのような返事を期待しているのですか
(これ、答えてくださいね)
貴方の言う「内容的に違いがない」を超えて
意味的にも違いがない
にもかかわらず、違いがあるとしか思えない
あえて言うならそのような感じですかね 永井さんの周辺では、アクチュアリテートなる用語が今流行りなのかもしれない
アクチュアリテートと表現することで解決したことって、どんなことですか
<私>を意識の問題に落とし込める可能性について、ですか
読んでみますので、推薦図書を教えてください
(それとも無用に言葉を増やす結果になっただけか) まずは見出すものであって、理解しようとして理解するものではない
と思うけどな、〈私〉って
山育ちの人が冒険でずーっと歩いていったら海を見出すのと同じで ごめん🙏実は今日、これから誕生日パーティーしなければならないので何かあっても
返信は遅くなるかも知れないです。 (958では名前を書き忘れた)
>>959
どのような答えを期待しているも何もありません。
俺なりの理解のポイントは繰り返し書いてるし、それは永井の近年の著作にひたすらそればっかり
書かれていることなので(と言うと言い過ぎか)、それが違うというなら何が違うのかを尋ねただけです。
「語り得ない」という点だけ補足するなら、「唯一の原点」とか「現にそうである」という点についても、
やはり誰にでも・どの時点でも言えてしまう、という理由で語り得なくなる、という理解です。
逆に言えば、誰にでも・どの時点でも言えてしまう、という点だけが問題であって、それ以外にも
言葉で表現することが全然できないなどという話ではないはずですが。 「もしも哲学が科学的学問でもなく歴史的学問でもなく、
個としての精神が世界を明らかに見ようとする努力であるとすれば、
そのような哲学における知は本来内発的なものでなければならず
それがそのまま他人に伝達出来ないのは当然のことである」
『科学から哲学へ』佐藤徹郎 >>963
貴方のレスから、「ああ、この人は分かってるな」と感じたことがなかったもので
すいません
フィッシャーの絵を見ても何も不思議に思わない人には
謎などどこにも存在しないでしょう 唯一の原点、とか、現にそうある、とかいろいろ言われるのですが
それらは、<私>を構成する属性のようものであって、わたしには
それらが<私>の本質とは思えないのです
永井先生は、ある種の天才であって
『論理的に構成される世界』に潜在する罠を察知できるような
そんな人なのかな、と最近は思います
いまつらつら思うのは、
わたしがやれることは、永井先生の言っている内容をまじめに捉えることではなく
永井先生が表現していることが、いかにして錯誤を持ち得るのかについて
ぼーっと考えるネタにすることではないかな、ということです
どうやろうと自由なんですけど、なんですけど
しかし、あなた方のやっていることには、違和感でいっぱいですね >>967
そのような方針であると明示した上で具体的に論じるのであれば、それこそご自由なので、
これ以上俺がコメントすることは何もありません(そのような論じ方を「批判」とは呼べない
のではないか、とは思いますが)。
あと>>960についてだけ言うと、意識の問題を<私>の問題に落とし込める可能性について、
であれば、『なぜ意識は実在しないのか』に書かれているはずです(繰り返しになりますが)。 >>969
貴方は<私>の奇跡性を、唯一の原点とか、現にそうある、に貶めて
分かったつもりになっているわけですから、そもそもわたしの批判を受け止めることなど
最初から無理ではありませんか
>>947から分かるように、永井均は
世界に<私>がいなかった可能性があり、確率的な存在可能性などそもそも無い
この世界は、『<私>が存在しない以外は物心ともに全く同じ世界である』ことが可能であり、むしろそれが当たり前である
存在する可能性など無かった<私>が、なぜ現に存在するのか、しなければならなかったのか
そこには一切の理由はなく、「奇跡」によって<私>は存在することになった、とするしかない
と言っているわけで、当時のわたしも、その通りだと思ったわけです
その驚きこそが問題なのであって、唯一の原点、などというものは、既に<私>が存在する場合には
そうであるのが必然であって、謎でもなんでもないでしょう
貴方は、私が何を言ってるのか、何に驚いたのか
さっぱり分からないのではありませんか?
だとしたら、貴方と私には、共有できる問題など、最初から存在しないではないですか
『なぜ意識は実在しないのか』は、手に入れましたので、これから読むと思いますが
貴方とはぜんぜん読み方が違うかもしれません
(読んで分かるなら苦労はしませんよ) >>970
いや、「奇跡」や「驚き」に焦点を当てるというのであれば、そう言って具体的に論じればいいのではないですか?
そうやって著作の記述の一部を具体的に指摘するだけでも、ただ単に「自分以外は何も分かっていない」
みたいなことを書くだけで、果ては永井の著作そのものすら真面目に捉えないなどと書くことよりは、
よほど意味のあり得ることだと思いますが。
なお「奇跡」については、俺の理解の仕方からすぐに思い付くのは、奇跡であるという点も誰にでも・
どの時点でも言えてしまうことになる(なぜなら、アクトゥアリテートの違いしかないという点は誰にでも・
どの時点でも言えることであり、そしてその点は理由・原因がないということも含意するだろうから)。
よって、奇跡と言っても、誰にでも四六時中起こっている奇跡(?)と理解するしかないのでは、ということ。
なので、単に「奇跡」と強調するだけでは、単に「いやこの私だけが本当に現実の唯一の〈私〉なのだ」
と強調するだけなのと似たようなことで、あまり意味がないのでは、という感じがするのだけど。 >>972
奇跡いうのは、<私>に対する永井均の感想ですよ
ただ、その感想に見合うだけの内容を、貴方の言う「唯一の原点」が
持っているでしょうか
『唯一の原点が存在する』ことが、『存在するはずのない<私>が存在する』ことを
説明しますか?
説明できるなら、そもそもそれがわたしの希望です
貴方にはぜひやってみて欲しいと思います
貴方が永井の著作を真面目に捉えていない、などとは言いませんし、言ったこともない
むしろ極めて分析的に、つまりトートロジー的に捉えている、と思う
しかしわたしは、それが哲学書の読み方だとは思いません
分析的であることは、その文章の単語と文法が示す以上の内容を持ち得ないからです
以前わたしは、「センスが要る」などとほざいたこともありますが、それだけではないのでしょう
子どものための哲学を読む限り
永井均が「奇跡」という言葉を使ったのは、たぶん
<私>が、偶然性をも超えている、そのことを強調したかったのではないか
と、わたしは解釈しています 奇跡によって存在するなら奇跡によって非存在にも成るのかな 奇跡によって非存在と言うと、個人的には語感が合わないけど、無根拠に存在している以上は、
無根拠に存在しなくなってもおかしくないような気はする
…のだけど、しかし〈私〉が無根拠に存在しなくなるという想定であれば、なぜか〈私〉であった
1人の人間は、そのまま生存しているはず
そして、その人間は、「今日も〈私〉は、無根拠にではあるけど、ちゃんと存在している」だとか
言うだろう
その状態は、本当に〈私〉が存在しなくなった状態と言えるのだろうか
というような話が、『転校生とブラックジャック』あたりに書かれてると思います 多分、永井先生の思っている<私>は、そもそも存在するはずがないのだから
結局、どのような意味でも存在していない
ただ存在しているように思えただけ
なぜそう思えたのか、はわたしには謎だが、たぶん大した謎ではない
こういうのは、永井さん得意なはずだから
既に総括は済んでいるのかもしれない
わたしが知らないだけで >>975
> …のだけど、しかし〈私〉が無根拠に存在しなくなるという想定であれば、なぜか〈私〉であった
> 1人の人間は、そのまま生存しているはず
本当?
> そして、その人間は、「今日も〈私〉は、無根拠にではあるけど、ちゃんと存在している」だとか
> 言うだろう
これも本当?
> その状態は、本当に〈私〉が存在しなくなった状態と言えるのだろうか
どうだろうね。ただこのことは必ず突っ込まれる事だよ。 >>976
哲学者はそこはすでに謎じゃない
哲学的に謎にしておく
必要性があるだけだね。 必要があるのではなく、実際のところ謎なんだよな
けれど、<私>から見るとあら不思議、その謎が謎ではない問題ではない
不思議なのはその<私>は語ることが出来ず、<私>を語ることも難しい
語れたとして伝わることが難しい >>979
そういう感想を持つのは自由だけど主観的な憶測でしかないよね
邪推だと判断できる論拠があればまだいいんだが 何言ってるんだろう?
まさか哲学板で「悪魔の証明をやれ」と言われるとはw
どっちみちわかりもしないことについて
「謎にしておく必要があるだけだね」
と主張する側に証明責任があるだろう >>984
主張された文言に証明責任があるだろうと思ったのは>>984
やるべき自己責任は君が負ったのだよ、悪魔に思考力を奪われたのかなw >>983
> 983 考える名無しさん sage 2020/03/02(月) 23:15:58.28 0
> >>979
> そういう感想を持つのは自由だけど主観的な憶測でしかないよね
> 邪推だと判断できる論拠があればまだいいんだが
>>978
> 978 考える名無しさん 2020/03/02(月) 09:23:30.40 0
> >>976
> 哲学者はそこはすでに謎じゃない
> 哲学的に謎にしておく
> 必要性があるだけだね。
そもそもこれに論拠がない >986の論拠は>>975だから986が論拠を出す必要ないわな >986の論拠は>>976だから986が論拠を出す必要ないわな ○ なんだろうこのゴミみたいな議論は
〈私〉が存在すること自体は謎でも何でも無い事実で
永井哲学はそこから出発している話だろうに
すべての話の大前提だろう
スタート地点つまり自分自身の〈私〉が見えない人にとっては
何の事実も根拠もない話に見えるかもしれないし
隠してるように見えるのかもしれないが
永井哲学はそういう人に向けたものではない
これも大前提だよね
〈私〉は言葉の世界とは馴染まないものなんだよ
なんで?
そこに謎がある
それを謎のままにしておく必要なんかどこにもないだろう
それが「ある」というからには論拠を示さなければ
そんなものは単なる邪推だね >>988
他人の言う「はずだ」が論拠になるのか?
馬鹿げてるだろ
それならどんなことだって言えてしまうじゃないか とりあえず、このスレには永井のまともな読者は一人も書き込んでないとわかったので
自分にとってはもう用はない 引き続き次スレも的を得ない知的議論ごっこをお楽しみ下さい 「全ての誤解は『辞書さえあれば言葉の意味なんてわかる』という思い込みから始まる。
その当たり前だが受け入れがたい事実」
新井紀子 このスレッドは1000を超えました。
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life time: 1873日 13時間 58分 42秒 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。