夏目漱石を読む・小説・その思想 [転載禁止]©2ch.net
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主な著書(小説)
「坊ちゃん」
「吾輩は猫である」
(前期三部作)
「三四郎」
「それから」
「門」
(後期三部作)
「彼岸過迄」
「行人」
「こころ」
「道草」
「草枕」
「虞美人草」
「明暗」
「夏目漱石論」蓮實重彦
「夏目漱石」江藤淳
「夏目漱石を読む」吉本隆明
「漱石論集成」柄谷行人
「 有島武郎『小さき者よ』
深夜の沈黙は私を厳粛にする。私の前には机を隔ててお前たちの母上が坐っているようにさえ思う。
その母上の愛は遺書にあるようにお前たちを護らずにはいないだろう。よく眠れ。
不可思議な時というものの作用にお前たちを打任してよく眠れ。そうして明日は昨日よりも大きく賢くなって、
寝床の中から跳り出して来い。私は私の役目をなし遂げる事に全力を尽すだろう。私の一生が如何いかに失敗であろうとも、
又私が如何なる誘惑に打負けようとも、お前たちは私の足跡に不純な何物をも見出し得ないだけの事はする。きっとする。
お前たちは私の斃れた所から新しく歩み出さねばならないのだ。然しどちらの方向にどう歩まねばならぬかは、
かすかながらにもお前達は私の足跡から探し出す事が出来るだろう。
小さき者よ。不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。
そして暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。
行け。勇んで。小さき者よ。 >この後どうなる? 表面の一部がくっついた2連星発見
>二つの恒星が近づき、表面の一部が融合している珍しい2連星を発見したと、欧州南天天文台(ESO)が
>発表した。このまま融合が進むと、超高速で回転する一つの特殊な巨大天体になるか、二つの連なった
>ブラックホールができる可能性があるという。
>この2連星は、16万光年離れたタランチュラ星雲にある「VFTS352」。二つ合わせた質量が
>約60倍ある似た大きさの恒星が、地球の1日とほぼ同じ周期でお互いの周りを回っている。中心部の距離
>は約1200万キロしか離れておらず、巨大な天体としては極めて近い。実際に二つの天体が融合する姿を
>確認できたわけではないが、位置関係や表面温度などから、一部が融合しているとみられるという。
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6178564
ロレンスは「恋する女たち」の中で、お互いの周りを一定の距離を保ちつつ回る連星をイメージした、男にとって
都合の良いエゴイスティクな恋愛関係を提示した。
だがこのタランチュラ星雲の連星はお互いが一つに融合しつつあるという。恋愛の一つの理想像だ。 小説のなかで最もしの実存に近い物語調の小説。
梶井基次郎「ある崖上の感情」
梶井基次郎というと「檸檬」が代表作だけど、この小説が一番自分にはしっくりくる
ある蒸し暑い夏の宵よいのことであった。山ノ手の町のとあるカフェで二人の青年が話をしていた。
話の様子では彼らは別に友達というのではなさそうであった。銀座などとちがって、狭い山ノ手のカフェでは、
孤独な客が他所よそのテーブルを眺めたりしながら時を費すことはそう自由ではない。
そんな不自由さが――そして狭さから来る親しさが、彼らを互いに近づけることが多い。彼らもどうやらそうした二人らしいのであった。
一人の青年はビールの酔いを肩先にあらわしながら、コップの尻でよごれた卓子テーブルにかまわず肱ひじを立てて、
先ほどからほとんど一人で喋しゃべっていた。漆喰しっくいの土間の隅すみには古ぼけたビクターの蓄音器が据えてあって、
磨り滅ったダンスレコードが暑苦しく鳴っていた。
「元来僕はね、一度友達に図星を指されたことがあるんだが、放浪、家をなさないという質たちに生まれついているらしいんです。
その友達というのは手相を見る男で、それも西洋流の手相を見る男で、僕の手相を見たとき、
君の手にはソロモンの十字架がある。それは一生家を持てない手相だと言ったんです。
僕は別に手相などを信じないんだが、そのときはそう言われたことでぎくっとしましたよ。とても悲しくてね――」
その青年の顔にはわずかの時間感傷の色が酔いの下にあらわれて見えた。彼はビールを一と飲みするとまた言葉をついで、
「その崖の上へ一人で立って、開いている窓を一つ一つ見ていると、僕はいつでもそのことを憶おもい出すんです。
僕一人が世間に住みつく根を失って浮草のように流れている。そしていつもそんな崖の上に立って人の窓ばかりを眺めていなければならない。
すっかりこれが僕の運命だ。そんなことが思えて来るのです。――しかし、それよりも僕はこんなことが言いたいんです。
つまり窓の眺めというものには、元来人をそんな思いに駆るあるものがあるんじゃないか。
誰でもふとそんな気持に誘われるんじゃないか、というのですが、どうです、あなたはそうしたことをお考えにはならないですか」 (続き)
もう一人の青年は別に酔っているようでもなかった。彼は相手の今までの話を、
そうおもしろがってもいないが、そうかと言って全然興味がなくもないといった穏やかな表情で耳を傾けていた。
彼は相手に自分の意見を促されてしばらく考えていたが、
「さあ……僕にはむしろ反対の気持になった経験しか憶い出せない。
しかしあなたの気持は僕にはわからなくはありません。反対の気持になった経験というのは、
窓のなかにいる人間を見ていてその人達がなにかはかない運命を持ってこの浮世に生きている。
というふうに見えたということなんです」
「そうだ。それは大いにそうだ。いや、それがほんとうかもしれん。僕もそんなことを感じていたような気がする」
酔った方の男はひどく相手の言ったことに感心したような語調で残っていたビールを一息に飲んでしまった。
「そうだ。それであなたもなかなか窓の大家だ。いや、僕はね、実際窓というものが好きで堪たまらないんですよ。
自分のいるところからいつも人の窓が見られたらどんなに楽しいだろうと、いつもそう思ってるんです。
そして僕の方でも窓を開けておいて、誰かの眼にいつも僕自身を曝さらしているのがまたとても楽しいんです。
こんなに酒を飲むにしても、どこか川っぷちのレストランみたいなところで、
橋の上からだとか向こう岸からだとか見ている人があって飲んでいるのならどんなに楽しいでしょう。
『いかにあわれと思うらん』僕には片言のような詩しか口に出て来ないが、実際いつもそんな気持になるんです」
「なるほど、なんだかそれは楽しそうですね。しかしなんという閑のどかな趣味だろう」
「あっはっは。いや、僕はさっきその崖の上から僕の部屋の窓が見えると言ったでしょう。
僕の窓は崖の近くにあって、僕の部屋からはもう崖ばかりしか見えないんです。
僕はよくそこから崖路を通る人を注意しているんですが、元来めったに人の通らない路で、通る人があったって、
全く僕みたいにそこでながい間町を見ているというような人は決してありません。実際僕みたいな男はよくよくの閑人なんだ (続き)
「ちょっと君。そのレコード止してくれない」聴き手の方の青年はウエイトレスがまたかけはじめた「キャラバン」の方を向いてそう言った。
「僕はあのジャッズというやつが大嫌いなんだ。厭いやだと思い出すととても堪らない」
黙ってウエイトレスは蓄音器をとめた。
彼女は断髪をして薄い夏の洋装をしていた。しかしそれには少しもフレッシュなところがなかった。
むしろ南京鼠なんきんねずみの匂いでもしそうな汚いエキゾティシズムが感じられた。
そしてそれはそのカフェがその近所に多く住んでいる下等な西洋人のよく出入りするという噂うわさを、少し陰気に裏書きしていた。
「おい。百合ゆりちゃん。百合ちゃん。生をもう二つ」
話し手の方の青年は馴染なじみの
ウエイトレスをぶっきら棒な客から救ってやるというような表情で、彼女の方を振り返った。そしてすぐ、
「いや、ところがね、僕が窓を見る趣味にはあまり人に言えない欲望があるんです。
それはまあ一般に言えば人の秘密を盗み見るという魅力なんですが、僕のはもう一つ進んで人のベッドシーンが見たい、
結局はそういったことに帰着するんじゃないかと思われるような特殊な執着があるらしいんです。
いや、そんなものをほんとうに見たことなんぞはありませんがね」
「それはそうかもしれない。高架線を通る省線電車にはよくそういったマニヤの人が乗っているということですよ」
「そうですかね。そんな一つの病型タイプがあるんですかね。それは驚いた。
……あなたは窓というものにそんな興味をお持ちになったことはありませんか。一度でも」
その青年の顔は相手の顔をじっと見詰めて返答を待っていた。
「僕がそんなマニヤのことを言う以上僕にも多かれ少なかれそんな知識があると思っていいでしょう」
その青年の顔にはわずかばかりの不快の影が通り過ぎたが、そう答えて彼はまた平気な顔になった。 (続き)
「そうだ。いや、僕はね、崖の上からそんな興味で見る一つの窓があるんですよ。しかしほんとうに見たということは一度もないんです。
でも実際よく瞞だまされる、あれには。あっはっはは……僕がいったいどんな状態でそれに耽ふけっているか一度話してみましょうか。
僕はながい間じいっと眼を放さずにその窓を見ているのです。するとあんまり一生懸命になるもんだから足許もとが変に便たよりなくなって来る。
ふらふらっとして実際崖から落っこちそうな気持になる。はっは。それくらいになると僕はもう半分夢を見ているような気持です。
すると変なことには、そんなとき僕の耳には崖路を歩いて来る人の足音がきまったようにして来るんです。
でも僕はよし人がほんとうに通ってもそれはかまわないことにしている。しかしその足音は僕の背後へそうっと忍び寄って来て、
そこでぴたりと止まってしまうんです。それが妄想もうそうというものでしょうね。僕にはその忍び寄った人間が僕の秘密を知っているように思えてならない。
そして今にも襟髪えりがみを掴つかむか、今にも崖から突き落とすか、そんな恐怖で息も止まりそうになっているんです。
しかし僕はやっぱり窓から眼を離さない。そりゃそんなときはもうどうなってもいいというような気持ですね。
また一方ではそれがたいていは僕の気のせいだということは百も承知で、そんな度胸もきめるんです。
しかしやっぱり百に一つもしやほんとうの人間ではないかという気がいつでもする。変なものですね。あっはっはは」
話し手の男は自分の話に昂奮こうふんを持ちながらも、今度は自嘲的なそして悪魔的といえるかも
知れない挑いどんだ表情を眼に浮かべながら、相手の顔を見ていた。
「どうです。そんな話は。――僕は今はもう実際に人のベッドシーンを見るということよりも、
そんな自分の状態の方がずっと魅惑的になって来ているんです。何故と言って、
自分の見ている薄暗い窓のなかが、自分の思っているようなものでは多分ないことが、僕にはもう薄うすうすわかっているんです。
それでいて心を集めてそこを見ているとありありそう思えて来る。そのときの心の状態がなんとも言えない恍惚こうこつなんです。
いったいそんなことがあるものですかね。あっはっはは。どうです、今から一緒にそこへ行ってみる気はありませんか」
「それはどちらでもいいが、だんだん話が佳境には入いって来ましたね」
(続き)
そして聴き手の青年はまたビールを呼んだ。
「いや、佳境には入って来たというのはほんとうなんですよ。僕はだんだん佳境には入って来たんだ。
何故なぜって、僕には最初窓がただなにかしらおもしろいものであったに過ぎないんだ。
それがだんだん人の秘密を見るという気持が意識されて来た。そうでしょう。すると次は秘密のなかでもベッドシーンの秘密に興味を持ち出した。
ところが、見たと思ったそれがどうやらちがうものらしくなって来た。
しかしそのときの恍惚こうこつ状態そのものが、結局すべてであるということがわかって来た。
そうでしょう。いや、君、実際その恍惚状態がすべてなんですよ。あっはっはは。空の空なる恍惚万歳だ。この愉快な人生にプロジットしよう」
その青年にはだいぶ酔いが発して来ていた。そのプロジットに応じなかった
相手のコップへ荒々しく自分のコップを打ちつけて、彼は新しいコップを一気に飲み乾した。
彼らがそんな話をしていたとき、扉をあけて二人の西洋人がは入いって来た。
彼らはは入いって来ると同時にウエイトレスの方へ色っぽい眼つきを送りながら青年達の横のテーブルへ坐った。
彼らの眼は一度でも青年達の方を見るのでもなければ、お互いに見交わすというのでもなく、絶えず笑顔を作って女の方へ向いていた。
「ポーリンさんにシマノフさん、いらっしゃい」
ウエイトレスの顔は彼らを迎える大仰な表情でにわかに生き生きし出した。
そしてきゃっきゃっと笑いながら何か喋しゃべり合っていたが、彼女の使う言葉はある自由さを持った西洋人の日本語で、
それを彼女が喋るとき青年達を給仕していたときとはまるでちがった変な魅力が生じた。
「僕は一度こんな小説を読んだことがある」
聴き手であった方の青年が、新しい客の持って来た空気から、話をまたもとへ戻した (続き)
「それは、ある日本人が欧羅巴ヨーロッパへ旅行に出かけるんです。英国、仏蘭西フランス、
独逸ドイツとずいぶんながいごったごたした旅行を続けておしまいにウィーンへやって来る。
そして着いた夜あるホテルへ泊まるんですが、夜中にふと眼をさましてそれからすぐ寝つけないで、
深夜の闇のなかに旅情を感じながら窓の外を眺めるんです。空は美しい星空で、
その下にウィーンの市が眠っている。その男はしばらくその夜景に眺め耽っていたが、
彼はふと闇のなかにたった一つ開け放された窓を見つける。その部屋のなかには白い布のような塊かたまりが明るい燈火に照らし出されていて、
なにか白い煙みたようなものがそこから細くまっすぐに立ち騰のぼっている。
そしてそれがだんだんはっきりして来るんですが、思いがけなくその男がそこに見出したものはベッドの上にほしいままな裸体を投げ出している男女だったのです
。白いシーツのように見えていたのがそれで、静かに立ち騰のぼっている煙は男がベッドで燻くゆらしている葉巻の煙なんです。
その男はそのときどんなことを思ったかというと、これはいかにも古都ウィーンだ、
そしていま自分は長い旅の末にやっとその古い都へやって来たのだ――そういう気持がしみじみと湧いたというのです」
「そして?」
「そして静かに窓をしめてまた自分のベッドへ帰って寝たというのですが――
これはずいぶんまえに読んだ小説だけれど、変に忘れられないところがあって僕の記憶にひっかかっている」
「いいなあ西洋人は。僕はウィーンへ行きたくなった。あっはっは。それより今から僕と一緒に崖の方まで行かないですか。ええ」
酔った青年はある熱心さで相手を誘っていた。しかし片方はただ笑うだけでその話には乗らなかった。 >>325のレスは非常に面白いね。ロマンティックアイロニーというやつですね。
>ロレンスは「恋する女たち」の中で、お互いの周りを一定の距離を保ちつつ回る連星をイメージした、男にとって
都合の良いエゴイスティクな恋愛関係を提示した。
だがこのタランチュラ星雲の連星はお互いが一つに融合しつつあるという。恋愛の一つの理想像だ。
男のロマンティシズム、殊に日本人の男のそれはまさに上述の通り、一定の距離を保ち続けて、それを維持しようとする
エゴイスティックな恋愛観に満ちたものが多いわけです。クールジャパンのマンガなどは、こういった恋愛観に満ち満ちている。
一定の距離というものにも黄金比というものがあり、男はそれによく酔ってしまう。
酩酊してそれをずっと保とうとするわけです。つまり性関係を留保して付き合うわけですね。あるいは付き合う前の段階です。
これってよく考えるとエゴイスティックですよね。だって女にはそんなエゴに付き合う時間などないのだから。
勿論女は「もういいや」になるわけです。女は短い時間を生きてるわけですから、関係が黄金比になったって関係ないわけです。
待たないわけですよ。ずっとクルクル回って何もない。そういう世界観です。 そうなんだ。
漱石は、関係なくてもいいんだね・・・ 漱石門下は沢山いますので、その弟子や関係者含めて、この際よしにしましょう! ・・・英文学の社会に対する関心の深さというものには改めて感心さ
せられる。社会主義の魔に取り込まれてしまったところが日本文学の
巨大な陥穽だったと思うけれども、近代文学の厚みがやはりイギリス
は違うので、深刻なぎりぎりのところまで追い詰められ方もまた違う
けれども、その時代その時代のテーマというか問題性もまた明瞭であ
るような気がする。日本の場合はその時代の問題性というよりも、非
西欧社会に西欧近代を移植した根本的な問題性が常に先に立ってしま
うので、より問題が複雑かつ重層的になりある問題の解決が他の問題
の解決を阻害するという方向性の分裂が厳しくなってしまうという宿
命のようなものがある。第二次世界大戦の破滅に突き進んだのもその
宿命に引き裂かれた面が強いと思うし、そのあたりの考察が文学でも
社会科学でも十分に行われてきていないのが日本の最大の問題なのだ
と思う。
http://honsagashi.net/life/igirisubungakusi.html >>337
くだらん浅薄な落書き。まあ、2chにはぴったり。 夏目漱石「道草−六十五」より
二人は両方で同じ非難の言葉を御互の上に投げかけ合った。そうして御互に腹の中にある蟠わだかまりを御互の素振そぶりから能く読んだ。
しかもその非難に理由のある事もまた御互に認め合わなければならなかった。
我慢な健三は遂に細君の生家へ行かなくなった。何故行かないとも訊きかず、また時々行ってくれとも頼まずにただ黙っていた細君は、
依然として「面倒臭い」を心の中うちに繰り返すぎりで、少しもその態度を改めようとしなかった。
「これで沢山だ」
「己もこれで沢山だ」
また同じ言葉が双方の胸のうちでしばしば繰り返された。
それでも護謨紐ゴムひものように弾力性のある二人の間柄には、
時により日によって多少の伸縮のびちぢみがあった。
非常に緊張して何時切れるか分らないほどに行き詰ったかと思うと、
それがまた自然の勢で徐々そろそろ元へ戻って来た。
そうした日和ひよりの好いい精神状態が少し継続すると、
細君の唇から暖かい言葉が洩もれた。
「これは誰の子?」
健三の手を握って、自分の腹の上に載せた細君は、彼にこんな問を掛けたりした。
その頃細君の腹はまだ今のように大きくはなかった。
しかし彼女はこの時既に自分の胎内に蠢うごめき掛けていた生の脈搏みゃくはくを感じ始めたので、
その微動を同情のある夫の指頭しとうに伝えようとしたのである。
「喧嘩けんかをするのはつまり両方が悪いからですね」
彼女はこんな事もいった。それほど自分が悪いと思っていない頑固がんこな健三も、微笑するより外に仕方がなかった。
「離れればいくら親しくってもそれぎりになる代りに、一所にいさえすれば、たとい敵かたき同志でもどうにかこうにかなるものだ。
つまりそれが人間なんだろう」
健三は立派な哲理でも考え出したように首を捻ひねった。 >>341
活字とパソコン表示の字に慣れた現代人には、見ただけ読む気がなくなるよね。
こういう手紙も、古文書みたいに専門家しか読めなくなるんだろうか? 高校は知らんけど、文学部だと古典の読解コースなんかあるだろう?
その世界に入ればなんてことない、と思うぞ(笑 どうかな? >>343
授業で影印本をやったけど、そんな程度で身につくものでもないな。
古文書と近代の崩し字はぜんぜん違うということもあるし。 慣れもあるらしいけどな。
明治あたりだと、印刷物でも変体がなや合字なんかが出てくるから、
ちょっと面食らうけど、やっぱり印刷は偉大だ。
泉式部日記の影印本は見たことがあるけど、授業で何使った? 大正終わりに坊国立大学を受けた曾祖父は、入試が筆書きだったと言ってたな 「世の中に片付くなんてものは殆どありやしない。一遍起つた事は何時迄も続くのさ。
たゞ色々な形に変るから他(ひと)にも自分にも解らなくなる丈の事さ」 『道草』百二 上小澤健介 効率的 エネルギッシュ 自信家 意思が強い 戦略家 カリスマ性がある 奮起させてくれる
http://www.eps4.comlink.ne.jp/~yoshiken/dsc01140kao1.jpg
https://twitter.com/chaosweiss 夏目漱石「それから」におもしろい箇所がある ↓
「君はさっきから、働らかない働らかないと云って、大分僕を攻撃したが、僕は黙っていた。
攻撃される通り僕は働らかない積りだから黙っていた」
「何故働かない」
「何故働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、
大袈裟おおげさに云うと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。
第一、日本程借金を拵こしらえて、貧乏震いをしている国はありゃしない。この借金が君、何時になったら返せると思うか。
そりゃ外債位は返せるだろう。けれども、
そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行ゆかない国だ。それでいて、
一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入をしようとする。だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、
一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙かえると同じ事で、
もう君、腹が裂けるよ。その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。こう西洋の圧迫を受けている国民は、
頭に余裕がないから、碌ろくな仕事は出来ない。悉ことごとく切り詰めた教育で、そうして目の廻る程こき使われるから、
揃そろって神経衰弱になっちまう。話をして見給え大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考えてやしない。
考えられない程疲労しているんだから仕方がない。精神の困憊こんぱいと、身体しんたいの衰弱とは不幸にして伴なっている。のみならず、
道徳の敗退も一所に来ている。日本国中何所を見渡したって、輝いてる断面は一寸四方も無いじゃないか。悉く暗黒だ。その間に立って僕一人が、
何と云ったって、何を為たって、仕様がないさ。僕は元来怠けものだ。いや、君と一所に往来している時分から怠けものだ。あの時は強いて景気をつけていたから、
君には有為多望の様に見えたんだろう。そりゃ今だって、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於おいて健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。 そうなれば遣る事はいくらでもあるからね。そうして僕の怠惰性に打ち勝つだけの刺激もまたいくらでも出来て来るだろうと思う。然しかしこれじゃ駄目だ。
今の様なら僕は寧むしろ自分だけになっている。そうして、君の所謂いわゆる有のままの世界を、有のままで受取って、その中うち僕に尤も適したものに接触を保って満足する。
進んで外の人を、此方こっちの考え通りにするなんて、到底出来た話じゃありゃしないもの――」
代助は一寸ちょっと息を継いだ。そうして、一寸窮屈そうに控えている三千代の方を見て、御世辞を遣った。
「三千代さん。どうです、私の考は。随分呑気のんきで宜いいでしょう。賛成しませんか」
「何だか厭世えんせいの様な呑気の様な妙なのね。私わたしよく分らないわ。けれども、少し胡麻化ごまかしていらっしゃる様よ」
「へええ。何処どこん所を」
「何処ん所って、ねえ貴方」と三千代は夫を見た。平岡は股ももの上へ肱ひじを乗せて、肱の上へ顎あごを載せて黙っていたが、
何にも云わずに盃を代助の前に出した。代助も黙って受けた。三千代は又酌をした。
代助は盃へ唇を付けながら、これから先はもう云う必要がないと感じた。元来が平岡を自分の様に考え直させる為の弁論でもなし、
又平岡から意見されに来た訪問でもない。二人はいつまで立っても、二人として離れていなければならない運命を有もっているんだと、
始めから心付ているから、議論は能いい加減に引き上げて、三千代の仲間入りの出来る様な、普通の社交上の題目に談話を持って来ようと試みた。
けれども、平岡は酔うとしつこくなる男であった。胸毛の奥まで赤くなった胸を突き出して、こう云った。 「そいつは面白い。大いに面白い。僕みた様に局部に当って、現実と悪闘しているものは、
そんな事を考える余地がない。日本が貧弱だって、弱虫だって、働らいてるうちは、忘れているからね。
世の中が堕落したって、世の中の堕落に気が付かないで、その中うちに活動するんだからね。君の様な暇人ひまじんから見れば日本の貧乏や、
僕等の堕落が気になるかも知れないが、それはこの社会に用のない傍観者にして始めて口にすべき事だ。つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから、
そうなるんだ。忙がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だって忘れているじゃないか」
平岡は饒舌しゃべってるうち、自然とこの比喩ひゆに打ぶつかって、大いなる味方を得た様な心持がしたので、其所そこで得意に一段落をつけた。
代助は仕方なしに薄笑いをした。すると平岡はすぐ後を附加えた。
「君は金に不自由しないから不可いけない。生活に困らないから、働らく気にならないんだ。要するに坊ちゃんだから、
品の好い様なことばっかり云っていて、――」
代助は少々平岡が小憎らしくなったので、突然中途で相手を遮さえぎった。
「働らくのも可いいが、働らくなら、生活以上の働はたらきでなくっちゃ名誉にならない。
あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭パンを離れている」
平岡は不思議に不愉快な眼をして、代助の顔を窺うかがった。そうして、
「何故なぜ」と聞いた。 「何故って、生活の為めの労力は、労力の為めの労力でないもの」
「そんな論理学の命題みた様なものは分らないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云ってくれ」
「つまり食う為めの職業は、誠実にゃ出来悪にくいと云う意味さ」
「僕の考えとはまるで反対だね。食う為めだから、猛烈に働らく気になるんだろう」
「猛烈には働らけるかも知れないが誠実には働らき悪いよ。食う為の働らきと云うと、つまり食うのと、
働らくのと何方どっちが目的だと思う」
「無論食う方さ」
「それ見給え。食う方が目的で働らく方が方便なら、食い易やすい様に、働らき方を合せて行くのが当然だろう。
そうすりゃ、何を働らいたって、又どう働らいたって、構わない、
只麺麭が得られれば好いいと云う事に帰着してしまうじゃないか。
労力の内容も方向も乃至ないし順序も悉く他たから制肘せいちゅうされる以上は、その労力は堕落の労力だ」
「まだ理論的だね、どうも。それで一向差支さしつかえないじゃないか」
「では極ごく上品な例で説明してやろう。古臭い話だが、ある本でこんな事を読んだ覚えがある。織田信長が、
ある有名な料理人を抱えたところが、始めて、その料理人の拵えたものを食ってみると頗すこぶる不味まずかったんで、
大変小言を云ったそうだ。料理人の方では最上の料理を食わして、叱しかられたものだから、その次からは二流もしくは三流の料理を主人にあてがって、
始終褒められたそうだ。この料理人を見給え。生活の為に働らく事は抜目のない男だろうが、自分の技芸たる料理その物のために働らく点から云えば、
頗る不誠実じゃないか、堕落料理人じゃないか」
「だってそうしなければ解雇されるんだから仕方があるまい」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云わば、物数奇ものずきにやる働らきでなくっちゃ、真面目な仕事は出来るものじゃないんだよ」
「そうすると、君の様な身分のものでなくっちゃ、神聖の労力は出来ない訳だ。じゃ益ますます遣る義務がある。なあ三千代」
「本当ですわ」
「何だか話が、元へ戻っちまった。これだから議論は不可ないよ」と云って、代助は頭を掻かいた。議論はそれで、とうとう御仕舞になった。 三四郎を読んだ。ビルドゥンクスロマンとしては三四郎の腰が引けてるというか、何か物足りない感じが
した。小説冒頭の「汽車の女」や美禰子との肉体関係を三四郎が持つ筋書き、つまり生きた若い男女が互い
のなかに深く踏み込む交渉が主人公の観念に鋭く反映された物語が展開されたならば随分と面白い小説に
なったろうと思うのは僕だけか。これでは戦国時代の戦を将棋盤の上で血も流さずやってるようなものだ。
この作品の特質を簡単にいえば、間接的に描かれた美禰子の心情は悲劇的であるのに対し、直接的に描かれた
三四郎のそれはどちらかといえば道化ている、ということだろう。三四郎も、広田先生も、明治時代の知識人
のタイプとして、その肌の体温がこちらにじかに伝わってくるほど見事に造形されているが、人生のモラルに
切り込むという点では、なにかものたりないというしかない。(これは『三四郎』の続編ともいうべき『それ
から』の大助でもおなじである。)もし漱石が、キリスト教的な悪魔をメメント・モリとする人物を主人公に
し、脱俗的な「水密桃」をメメント・モリとする人物を主人公にする人物をせいぜい副主人公にするような小
説――簡単にいえば、美禰子が主人公で、三四郎が副主人公であるような小説――を書きえたら、日本の近代
文学の系譜も変わっていたと考えられるのだ。
第十二章の終りの教会の場面にでてくる「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」の言葉を踏まえ上で
このように述べた人もある。漱石にジッドになれと言っているわけではあるまい。そしてぼくの考えは三分の一
程度はこれと重なっていると思うがどんなものだろう。 >>353
「このように述べた人」は誰?
「ぼく」というのは誰?
「三分の一程度」というのは具体的にはどこ?
無教養の僕にはわからない。 そういう場合は先ず自分を明らかにしてから問うのが礼というもの
「無教養の僕には」という言葉には大変な匕首が隠されているわけで「覚悟して発言せい」といわんばかり
だがそれはそれとして
僕は、漱石は現代日本語の基礎を作った、イギリスでいえばシェークスピアにも匹敵する位置にも立ちうる
極めて優れた文学者だと思っている、文学の入門者
入門者だから思いつきに近い発言も多いだろうがそれはそれで意味のあることと考えている
また相手にする人物は僕のグルー、千歩の開きを一歩でも二歩でも近付きたいと思っている人物 >>355
君が>>353書いた人?
覚悟した発言なんかいらないけど、内容以前に日本語として意味がとりにくいから聞いたんだよ?
誰かの著作を踏まえての話なら、その著作を確認することで補足できるから、誰かの文なのかを聞いた。
もし、>>353を自分の考えとして書いてるなら、まず日本語として意味が通じるように、主語と述語を明確にした方がいいと思う。 漱石は国家を無くし地球市民になるべきだという考えですか?
あと、ベジタリアンですか?同性愛に肯定的ですか?
これらの事は知識人としての最低限の要素ですよ。 「このように述べた人」=イケメン
「ぼく」=イケメン
「三分の一程度」=イケメン 漱石とシェークスピアを比較しちゃ駄目だよ、あらゆる点で格が違いすぎる。 太宰によれば、足音の大きさだそうだ。
太宰自身の作品との違いのことだけど。 >>357
夏目漱石はベジタリアンじゃなかったっけ? 夏目漱石の「それから」をiBookの朗読で聞き流しているんだが、あらためて壮絶だな。
略奪愛。それも非常にまずいかたちで終わっている。
代助と平岡と美千代は三者三様に破滅している。
酷すぎるな それから不貞を働いた代助に対しての代助の親父や兄貴の疎外は壮絶だ。
許してやらんのだな。 小林秀雄の「モオツァルト」をひき込まれるように面白く読んだ。
だが風呂にはいりながらちょっと考えてみると、小林という人は古典的な作家や作品を、
既に定まった評価を土台にしてそれに対抗するような形で自分の考えを述べることが多
かったのではなかったろうか。
音楽で言えば、バッハ・ハイドン・モーツアルト・ベートーヴェン等々は批評の対象に
なるが新ウイーン派の作曲家や現代作曲家は対象にならない。画家においてもゴッホや
セザンヌ等々の近代画家は対象として採りあげられたが、モンドリアン・クレー・ポロ
ック等には触れていない。文学作家にしても現代の作家や作品についての批評があった
だろうか。
僕たちとしては身近な時代の作家や作品に関するよき批評・評価を参考に知りたいこと
も多いと思うが。 漱石は西洋音楽には関心がなかったの?この時代に生きていたらこのフランスの作曲家のことをどう考えただろうね?
>仏作曲家のピエール・ブーレーズ氏死去
>現代音楽の巨匠の一人とされ、指揮者としても著名なフランスの作曲家、ピエール・ブーレーズ氏が
>5日、自宅のあるドイツ南西部バーデンバーデンで死去した。90歳だった。
>1925年に仏中部モンブリゾンで生まれる。パリ国立高等音楽院で学び、40年代半ばごろから本格的に
>作曲を開始。55年に代表作の一つである「マルトー・サン・メートル」を発表し、現代音楽家として
>確固たる地位を築いた。
>50年代後半からは指揮者としても活躍し、米クリーブランド管弦楽団や英BBC交響楽団など各国の楽団
>を指揮した。 「それから」
僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけの事を貴方に話したい為にわざわざ貴方を呼んだのです」
代助の言葉には、普通の愛人の用いる様な甘い文彩あやを含んでいなかった。彼の調子はその言葉と共に簡単で素朴であった。寧ろ厳粛の域に逼せまっていた。
但ただ、それだけの事を語る為に、急用として、わざわざ三千代を呼んだ所が、玩具おもちゃの詩歌に類していた。
けれども、三千代は固より、こう云う意味での俗を離れた急用を理解し得る女であった。
その上世間の小説に出て来る青春時代の修辞には、多くの興味を持っていなかった。代助の言葉が、
三千代の官能に華やかな何物をも与えなかったのは、事実であった。三千代がそれに渇いていなかったのも事実であった。
代助の言葉は官能を通り越して、すぐ三千代の心に達した。三千代は顫える睫毛の間から、涙を頬の上に流した。 僕はそれを貴方に承知して貰もらいたいのです。承知して下さい」
三千代は猶泣いた。代助に返事をするどころではなかった。袂たもとから手帛ハンケチを出して顔へ当てた。
濃い眉の一部分と、額と生際はえぎわだけが代助の眼に残った。代助は椅子を三千代の方へ摺すり寄せた。
「承知して下さるでしょう」と耳の傍はたで云った。三千代は、まだ顔を蔽おおっていた。しゃくり上げながら、
「余あんまりだわ」と云う声が手帛の中で聞えた。
それが代助の聴覚を電流の如くに冒した。代助は自分の告白が遅過ぎたと云う事を切に自覚した。
打ち明けるならば三千代が平岡へ嫁ぐ前に打ち明けなければならない筈はずであった。
彼は涙と涙の間をぼつぼつ綴つづる三千代のこの一語を聞くに堪えなかった。 中原中也と小林秀雄、長谷川泰子の三角関係
ある日、部屋に中原中也がやってくる。そして、またやってくる。何回もやってくる。
気がつくと、妙なぐあいに三角関係ができていた。散歩のおりに、
中原中也が甘えたように泰子のほうに寄り添ってきて、キスをねだる。キスをしてくれという。
泰子は、小さな中野公園の隅っこの芝生の上に寝転び、彼を久しぶりに受け入れてやる。
彼はもう中学を卒業し、顎には髭も生え、いっぱしのダダイストの存在になっていた。
山口にいたころの中原中也とは大違いだった。横光利一みたいな新感覚派気取りの帽子をかぶり、
手には大学ノートを持ち、いつでも詩が書けるようにいつもそれを持ち歩いていた。
とうぜん、キスだけで終わる話じゃなく、昼間の公園の木陰で、いつの間にか性交してしまう。
泰子は妊娠を恐れて中出しを拒んだ。彼はしかたなく、
泰子の腹の上に出した。泰子はやさしく中原中也のものを拭いてやった。
彼女は、満足する間もなく、果ててしまったことを恨みに思うことはなかった。彼が年下だったこともあって、
母性が反応してしまったらしい。中原中也には、いつもやさしく接した。小林のセックスは、
中原中也とはまったく違い、泰子は小林と出会って、女の幸せを感じた。
長谷川泰子は、生涯を通じて、小林秀雄との生活が唯一幸せだったと自伝に書き記している。
それくらい性の快楽を堪能したようだった。――中原中也は、大人になっても子供のような気持ちを捨てなかった。泰子のまえでは、
甘えん坊だった。彼は泰子と出会って、いい詩が書けた。 僕は三四年前に、貴方にそう打ち明けなければならなかったのです」と云って、憮然ぶぜんとして口を閉じた。
三千代は急に手帛から顔を離した。瞼まぶたの赤くなった眼を突然代助の上に※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって、
「打ち明けて下さらなくっても可いいから、何故」と云い掛けて、一寸ちょっと※(「足へん+厨」、第3水準1-92-39)躇ちゅうちょしたが、思い切って、
「何故棄ててしまったんです」と云うや否や、又手帛ハンケチを顔に当てて又泣いた。
「僕が悪い。勘忍かんにんして下さい」
代助は三千代の手頸てくびを執って、手帛を顔から離そうとした。三千代は逆おうともしなかった。
手帛は膝ひざの上に落ちた。三千代はその膝の上を見たまま、微かすかな声で、
「残酷だわ」と云った。小さい口元の肉が顫う様に動いた。
「残酷と云われても仕方がありません。その代り僕はそれだけの罰を受けています」 三千代は不思議な眼をして顔を上げたが、
「どうして」と聞いた。
「貴方が結婚して三年以上になるが、僕はまだ独身でいます」
「だって、それは貴方の御勝手じゃありませんか」
「勝手じゃありません。貰おうと思っても、貰えないのです。それから以後、宅うちのものから何遍結婚を勧められたか分りません。
けれども、みんな断ってしまいました。今度もまた一人断りました。その結果僕と僕の父との間がどうなるか分りません。
然しかしどうなっても構わない、断るんです。貴方が僕に復讎ふくしゅうしている間は断らなければならないんです」
「復讎」と三千代は云った。この二字を恐るるものの如くに眼を働かした。
「私わたくしはこれでも、嫁に行ってから、今日まで一日も早く、貴方が御結婚なされば可いいと思わないで暮らした事はありません」
と稍やや改たまった物の言い振であった。然し代助はそれに耳を貸さなかった。 いや僕は貴方に何処どこまでも復讎して貰いたいのです。それが本望なのです。今日こうやって、
貴方を呼んで、わざわざ自分の胸を打ち明けるのも、実は貴方から復讎されている一部分としか思やしません。
僕はこれで社会的に罪を犯したも同じ事です。然し僕はそう生れて来た人間なのだから、罪を犯す方が、僕には自然なのです。世間に罪を得ても、
貴方の前に懺悔ざんげする事が出来れば、それで沢山なんです。これ程嬉うれしい事はないと思っているんです」
三千代は涙の中で始て笑った。けれども一言も口へは出さなかった。代助は猶なお己れを語る隙ひまを得た。――
「僕は今更こんな事を貴方に云うのは、残酷だと承知しています。
それが貴方に残酷に聞こえれば聞こえる程僕は貴方に対して成功したも同様になるんだから仕方がない。
その上僕はこんな残酷な事を打ち明けなければ、もう生きている事が出来なくなった。
つまり我儘わがままです。だから詫あやまるんです」 残酷では御座いません。だから詫まるのはもう廃よして頂戴ちょうだい」
三千代の調子は、この時急に判然はっきりした。沈んではいたが、前に比べると非常に落ち着いた。然ししばらくしてから、又
「ただ、もう少し早く云って下さると」と云い掛けて涙ぐんだ。代助はその時こう聞いた。――
「じゃ僕が生涯黙っていた方が、貴方には幸福だったんですか」
「そうじゃないのよ」と三千代は力を籠こめて打ち消した。「私だって、貴方がそう云って下さらなければ、生きていられなくなったかも知れませんわ」
「そうじゃないのよ」と三千代は力を籠こめて打ち消した。「私だって、貴方がそう云って下さらなければ、生きていられなくなったかも知れませんわ」
今度は代助の方が微笑した。
「それじゃ構わないでしょう」
「構わないより難有ありがたいわ。ただ――」
「ただ平岡に済まないと云うんでしょう」
三千代は不安らしく首肯うなずいた。代助はこう聞いた。――
「三千代さん、正直に云って御覧。貴方は平岡を愛しているんですか」
三千代は答えなかった。見るうちに、顔の色が蒼あおくなった。眼も口も固くなった。凡すべてが苦痛の表情であった。代助は又聞いた。 では、平岡は貴方を愛しているんですか」
三千代はやはり俯うつ向いていた。代助は思い切った判断を、自分の質問の上に与えようとして、
既にその言葉が口まで出掛った時、三千代は不意に顔を上げた。その顔には今見た不安も苦痛も殆ほとんど消えていた。
涙さえ大抵は乾いた。頬の色は固もとより蒼かったが、唇は確しかとして、動く気色はなかった。
その間から、低く重い言葉が、繋つながらない様に、一字ずつ出た。
「仕様がない。覚悟を極めましょう」
夏目漱石「それから」より 雪国を読んだ
最初の汽車の窓に映る夕景色の場面を過ぎると結末近くの縮作りの場面になるまで
どこかポルノ小説を読んでいるような気分であった
この小説が人間の意識の重層性・心の歴史的重層性の表現たりえてることを理解するには
縮織りの場面まで待つ必要があった
ここではじめて雪国の長く厳しい生活から生み出される縮織りと
貧しい大家族の一員として生をうけ、芸者として必死に生きる娘の生活とがはじめて一体となる印象だった
冬空にあってどこまでも透明で美しい天の川と、哀しくも透き通った声をした葉子の火災での死
それは駒子の純粋な生き方のひとつの死を象徴したのではないのか
結末の「この子、気がちがうわ。気がちがうわ。」という言葉は濁り一つない冬空のような駒子の心が崩れる時の悲痛な叫びではなかったのか
だからこそ、さあと音を立てて天の川が流れ落ちたのだ 岩波の「文学」が11月に休刊(実質廃刊)。「国文学」(学燈社)や「国文学 解釈と鑑賞」(ぎょうせい)は既に休刊(廃刊)。
日本人の感性と認識力とが急速に衰えつつある証拠ですね。なんともならないだろうな。 日本人は自由が嫌いだから、文学のように自由を希求しなければ成立しない学問は消えていくな。
政権が文学の廃止を主張しても、声をあげる学者もいない。 漱石とか芥川の幼少期に問題あるのが似てるなぁから
演じきる芸人と辿りきれない素人みたいな流れで
どう時間かけすぎて有散霧散みたいな状態
かつポルノ表現習作中なの?? 渡部直己と丹生谷の対談から
渡部
絶対、口が裂けても、中上健次の傍らに三島の名は出さない、と。桂さんはあっさり、「文化防衛論」は疎外論批判だ、とか書いちゃうわけで 略
、それはむろん卓見なんだけど、僕がやるとしたら、谷崎を絡めた別のバイアスが必要ですし、仮にやるとしてもまだ十分な用意がないのです。
ただら、例えば天皇をめぐる大江と三島の対抗関係なら三島につく、という中上健次の態度はさしあたり理解できます。
丹生谷さん、どこかで大江健三郎は「田舎の優等生」だってさらっと書いてましたよね。あれは決定的に正しい(笑)
実際、「万延元年のフットボール」以降、大江さんの作中人文たちは、、そのつど何だか「故郷に錦を飾る」って感じで、あの四国の森に帰っていくわけですね。
村の住人がなぜかイェーツを原書で読んだりして。その「錦」が可能なのは、主体をはじめ、さまざまなことがらに関して、
結局は実体論を手放さないからですね。イマージュの問題にしたって何にしたって。 (続き)
そこが仮に「田舎者」の、それこそノーベル賞的な強みがあるとすれば、これに対して、三島の方が実体論からはかなり飛んでいた面がある。
彼のいう「アナーキズム」は、丹生谷さんが無数の水滴群のランダムか衝撃や変動・偏差として示すアフェクションに近接しかけてますね。
しかし、彼の場合、その情動をはらんだ「雲」の全体を「天皇」と呼ぶ。これが許し難いのだけれど、困ったことに、中上にもそのけがある。
しかし、これでゆくと、すべてを天皇が独り占めするわけで、個々の発生がそのまま、式年遷都や折口信夫のいう「新嘗祭の本義」にすっぽり回収されかねない。
折口的な天皇の身体というのは、「天皇霊」がそれこそ世世の消費財として使うという形になるわけですね。
これをどう考えるか。この点、蓮實重彦の「大江健三郎論」も実は巧妙で、あそこでは、さまざまな「数の祝祭」と、固定しきった数字としての天皇制、
つまり「万世一系」との対比が描き出され、後者への批判と抵抗を前者が担いうるといった文脈になっている。
あそこでもまた、三島と「文化防衛論」の名がいつ出てきても不思議ではないわけですが、ともかく、これが悩みの種で、本来なら「雲」はどこにでも、
世界中の空に浮かんでいるわけですよね。その、どこにでも生起する事態に、「枯木灘」の作家までもが天皇を持ち込んでくるという姿勢の、想像力の閉域。
もちろん、彼自身のある種の思い込みや、大逆事件のことなんかもあったんだろうけども、「68年」の心意気からすれば、
中上健次は万事にもっと無頓着になれたはずですよね。だって「発生」なんて、そもそも無頓着な出来事として、
無方向に繰り返されるしかない。責任と対になった無責任ではなくて、「外の思考」のフーコーのいう無頓着。
この意味で乱暴にいうと、例えば、前衛の限界が無責任と結託することだとすれば、中上健次の最良の一瞬、
とりわけそのその細部感覚は無頓着の賜だったと見えるわけだけど。逆に伺いますが、丹生谷さんがわりと三島にこだわっているのは、どこから来るのだろう? 太宰治をめぐるストーリー
・太宰治生家炎上
・リスペ芸人受賞
・編集者が嫁と寝ちゃう。資本が勝ち、作家はただの道具ゥ 上の対談は中上健次の「路地」「うつほ」と「がらんどう」についてがお題だが、
渡部と丹生谷の話し聞いていても何言ってるのかさっぱりわからん。わからんのだが結構中上健次の認識の部分でディスる。中上健次だけじゃない。大江健三郎とか三島についてもディスる。
中上健次なんかはドゥールーズなんかに精通していて、「路地」や「うつほ」を構造化して認識していたが、
アカデミズムの先生や専門家はかなり作家の認識を馬鹿にする。まあ馬鹿にするというよりは小説家は何言っても認識の部分で専門家を超えられない。
そればかりを言うな。本当に文芸批評家は捻くれているよ。 恋愛の負の面とか結婚の負の面がみえないしチャソって
どう小説かきあげられない幻影につつまれ存在である
ワケナノ?? 付き合ってみると大変なんだろうなと思う。
男女の仲なんて、そもそもが赤の他人だからな。 >>392
血縁者との関係のほうが、大変ともいえるんじゃない?
漱石だって子供に対するDVがあったわけだし。 /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ
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https://www.youtube.com/watch?v=dFj6B-dIKY8 「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。
僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。
結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎない
僕にとって文章を書くのはひどく苦痛な作業である。一ヶ月かけて一行も書けないこともあれば、
三日三晩書き続けた挙句それがみんな見当違いといったこともある。それにもかかわらず、
文章を書くことは楽しい作業でもある。生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりにも簡単だからだ。
もしあなたが芸術や文学を求めているならギリシャ人の書いたものを読めばいい。真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が必要不可欠だからだ。
古代ギリシャ人がそうであったように、奴隷が畑を耕し、食事を作り、船を漕ぎ、
そしてその間に市民は地中海の太陽の下で詩作に耽り、数学に取り組む。芸術とはそういったものだ。」
「風の声を聴け」村上春樹 冒頭
村上春樹さんは、「この作品の冒頭の文章が書きたかっただけ」と語っています。
ガッ作家としてのキャリアを積み重ねてからも、自分を見失った時に読み返し、勇気づけられているそうです。 今の日本人には、美は我がうちにのみあるものじゃあない。わが手のすぐ先にでも
普通にある者さ。手が縮んで何もかもが分からなくなつているのさ。 川崎寿彦の「草枕」の評論、『漱石における東洋と西洋』は骨太で何百年の風雪にも耐えうる素晴らしいものだ。
岩波書店も版権を得てこういう評論を「草枕」の解説として掲載しなくちゃ。
でなきゃ、日本文学は衰退するばかり、文学どころか日本人の感性や批判力もおとろで日本人は流浪の民に成り果てちゃうよ。
文学関係の評論家や大学の先生たちはもっと頑張ってくださいよ、
文学は明日の文明から完全に消されちゃいますよ。 >>397
その評論が簡単には手に入らないのなら、どこがどう凄いのか、紹介してくれないか? その論文は川崎の『薔薇をして語らしめよ』に収録されている
興味があれば購入すべし
価格:5,940円 (2016年5月7日現在) 田山花袋「蒲団」と太宰治「人間失格」は比べるものではないが、
文学的には田山花袋は自然主義文学で、太宰治は無頼派とか言われるが、
文学としては太宰治の人間失格はちょっと信じられない。
嘘をついているとまでは言わないが、どうも本当のことを書いているとは思えない。
それに比べると田山花袋の「蒲団」はまあ本当のことを書いているなというながわかる。
太宰治の「斜陽」の直治もどうも怪しい。直治の思想信条や手紙から窺える言語は人間の本当のことを
言っているとは思えない。
そういった意味で太宰治とあと川端康成なんかも好きになれないなあ。
中上健次もちょっと読みづらい。 >>404
そうすると、漱石、芥川などの作品は純文学ではない、ということになるが? >>406
え?
「吾輩は猫である」も「坊ちゃん」も「門」も「こころ」も、きりがないからこのくらいにしておくけど、などのどこに「本当のこと」が書いてあるんだ?
芥川も、あげればきりがないw
太宰を例にあげてもいいぞ? ああ、なるほど。
確かにそうかもしれない。
ただ本当のことについて問いたい。
本当のことっていろいろあるけど、本当のことの本質はどこに置いている >>408
それは、>>402とか>>404に聞いて欲しい。
僕は、ごく普通の意味で、事実、と受け止めた。 純文学は筆者が芸術性を追及していくものだとすると、
必ずしも本当のことを書かなくてもいいものだな。
そうなると本当のことを書かなくてはいけないという発言は撤回せざるをえない。
だが言い方を変えよう。
偽善的なまたは偽悪的な人間心理を描いてはならない。 いやまだ違う。作品の本質のなかに偽善的なまたは偽悪的な人間心理を持ち込んで書くべきではない。 >>411
さて、偽善的というと、漱石が描くところの漱石の養父、養母を思い出すな。
偽悪的といえば、放蕩三昧で早世した漱石の兄かも知れない。
どちらも作品に出てくる。
偽善、偽悪というのをことさら掘り下げないとしても、文学との関係を簡単にはいえないんじゃないだろうか? まあ有り体に言えば、作品の本質的な部分とは筆者の主観や内面独白の部分のことだがな 人間の機微の結晶化したものが含まれているのがいいよね。 中上健次論
丹生谷と渡部直己の対談
渡部 丹生谷さんの「天皇と倒錯」の一節に、「思い出」は「記憶の抹消である」という
ドゥールーズの言葉が引かれていますが、あれで言えば、『灰色のコカコーラ』『十九歳の地図』
から『岬』『枯木灘』に至る段階では「路地」は「記憶」なんです。
つまりは、忘れられないはずなのに、言葉にできないと。『枯木灘』末尾近くの有名なくだりで、
そうだ「路地」かあった、何故それに気づかなかったんだという思いに、秋幸は貫かれる (続き)
しかし、その時点では、秋幸も作者自身それがどんなものだからわからないし、
わからぬが故に記憶として、言葉の、絶句すれすれの呟きのすぐ裏側に何かが張り付いている、
その感触を書いているっていう感じがありますね。
ところが、その後、露骨に「聖と穢が還流する日本的自然」と、その濃度に充たされる「路地」
といった形でこれが形成されるとき、それは「思い出」になってしまう。 (続き)
たやすく表象可能なものになり、結果、「路地」だからこう生きて死ぬんだという形におさまる。
その「思い出」を、作家はやがて、足もとの紀州熊野から、日本全国、さらには東アジアへと探しに行く。
秋幸は逆です。あれは、だからこれは「私」なのだ、という事後性を生き抜く場所であり、
そこに形成されると同時に消費される主体です。
そうした「思い出」と、言葉にできない「記憶」とがその場で衝突し軋みあうという意味では、
八十三年の『地の果て 至上の時』が、ひとつリミットを示していると思う。
そこから、消費ではなく、消耗路線になってきたような気がする。 (続き)(中略)
丹生谷 まあここでジジェク風の図式は出したくないんだけども、いわば初期から『紀州』くらいまで、
中上はいわば「現実界」のなかにいて・・・というかそこに密接して、
そこに自身の「書くこと」を見出していた。しかし「うつほ」「聖と俗」という図式を外在的な枠として
導入することによって、彼は「想像界」あるいは「象徴界」の方へと自分の場所を転移させてしまう。
中上=現実界的絶対異物であったものが・・・桂さんか渡部さんどっちが言ったのかはともかくとして。
渡部 僕は「現実」としか言ってないよ 愛は「聖と穢」を含んで膨張する。クレヨンしんちゃん的な象徴界のなかで (続き)
丹生谷 ともかくジジェク風に言えばそんな感じがするわけで、「がらんどう=現実界」的なるものだった
中上の場が、それを外から描く象徴界的な場に移行する。それについてお聞きしたいのは、
その移行は何故起こったのかということです。中上に内発する何かのきっかけがあったのか
あるいは時代的っていうか、何か外からの要因があったのか?(中略)僕はそこのところがよく把握できない。
中上さんって、粗爆に直感的な人だったけれど、一方で不思議なくらない方法的に自覚的な人でもあったから‥
渡部 「路地を書く」動機としては、目の前でその生地が消滅しはじめるという
現実的な事態があったわけですね。この衝撃に促された「路地」の発見と仮構というドラマ
(その功罪がいま問われているのですが)があり、同時に、先ほどいった「兄」の美学化という切実さが重なる。
これがたぶん、中上作品における「路地」成立の要因だと思います。 (続き)
で、次に、『日輪の翼』以降、みずから作り上げた「路地」の拡散的消滅を描き続けるうちに、
そのエクリチュールに一種の貧しさと消耗が露呈するわけですが、
これについては、例えば浅田彰が『異族』などを捉えて、現実がこんなに戯画化しているんたから、
後期の作品がスカスカになるのもやむをえないといった視界を提出するのも、
あながち否定しきれない。いかに粗雑で貧しい形ではあれ、目的語としての「路地」およびその拡散消失をあえて書く、
その消耗じたいが、現実的なんたとらいう捉え方、僕はなかばわかるんですよ。
丹生谷 図式としてはね、そりゃあその通りどろうけど。 夏目漱石「韓満所感」(抜粋)
「昨夜久し振りに寸(すん)閑(かん)を偸(ぬす)んで満洲日日へ何か消息を書かうと思ひ立つて、
筆を執りながら二三行認(したた)め出すと、伊藤公が哈(は)爾(る)浜(ぴん)で狙撃されたと云ふ号外が来た。
哈爾浜は余がつい先達て見物(けぶ)に行つた所で、公の狙撃されたと云ふプラツトフオームは、現に一ケ月前(ぜん)に余の靴の裏を押し付けた所だから、
希有(けう)の兇(きょう)変(へん)と云ふ事実以外に、場所の連想からくる強い刺激を頭に受けた」
「満韓を経過して第一に得た楽天観は在外の日本人がみな元気よく働いてゐると云ふ事であつた」
「歴遊の際もう一つ感じた事は、
余は幸にして日本人に生れたと云ふ自覚を得た事である。内地に跼(きょく)蹐(せき)してゐる間は、日本人程(ほど)憐(あわ)れな国民は世界中にたんとあるまいといふ考に始終圧迫されてならなかつたが、
満洲から朝鮮へ渡つて、わが同胞が文明事業の各方面に活躍して大いに優越者となつてゐる状態を目撃して、
日本人も甚だ頼(たの)母(も)しい人種だとの印象を深く頭の中に刻みつけられた 同時に、余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた。
彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以て事に当るわが同胞は、真に運命の寵(ちょう)児(じ)と云はねばならぬ」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています