漢字が読めずに哲学書は読めるのか? [転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
> 168: 第三の波平 ◆JXLBbnYqTY 2011/11/01(火) NY:AN:NY.AN 0 AAS
> 中国の歴史書に日本(倭国)が初めて登場するのは、初めて中国を統一した始皇帝の秦の次、漢時代である。
> 有名な双国が貢ぎ物を送り、正式な倭国の代表とみて認められて金印を授かる。
×双国
○奴国
> 176: パルメゾーン ◆JXLBbnYqTY 2011/11/01(火) NY:AN:NY.AN 0 AAS
> 次、漢時代である。有名な双国が貢ぎ物を送り、正式な倭国の代表とみて認められて金印を授
> かる。漢は初めて儒教を国学として認めたが、双国が認められるには、ある程度漢字を操り、
×双国
○奴国 414 : 第三の波平 ◆JXLBbnYqTY [] : 投稿日:2012/02/13 23:30:15 0
しかたがないことなんだろうが、
なにを読んでも、近代西洋に毒されていて
ヘキヘキする。
西洋哲学なって、もうその総本山みたいなもので、
外人のきつい体臭ぐらいに、えずく。
それでも日本人はまだマシな方なんだろう。
415 : 考える名無しさん[sage] : 投稿日:2012/02/13 23:32:03 0
× ヘキヘキ
○ 辟易
416 : 考える名無しさん[] : 投稿日:2012/02/13 23:32:49 0
ヘキヘキしてきたのかね〜?
417 : 考える名無しさん[] : 投稿日:2012/02/13 23:33:19 0
>>414
>西洋哲学なって
・・・? ラテン・アルファベットが読めれば、いくらでも読めるだろ。
ギリシャ文字が読めるに越したことはないが。 > 44 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2011/01/12(水) 14:59:06 0
> ここ最近、読者の質が悪いや
> 佐々木わたるんの読者評価が高いのが気に入らないと
> つぶやいているらしいが、
↓
> 85 :純一 ◆QzuB1xeuck :2011/01/12(水) 18:06:48 0
> あと、俺気になったんだけど、
> 上の方で波平って『中(あたる)』を『わたる』って読んでないか?
↓
> 798 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2011/01/14(金) 01:04:17 0
> あたるんにはまるのは必然。クオリティは別にして、
> びっくりするぐらいに思考の系譜が似ているから。
↓
> 804 :考える名無しさん:2011/01/14(金) 01:07:40 0
> 何事もなかったかのようにあたるんって言ってる・・・屑だなあ 87 :エターナルラブ ◆XDfaVt3s1. :2008/09/29(月) 17:08:22 0
ゼロ年代、結局読んでない。
なんかテレビ評論タレント本みたいだし・・・食指がわかない。
93 :考える名無しさん:2008/09/29(月) 17:15:51 0
>>87
食指がわかないって何?
98 :エターナルラブ ◆XDfaVt3s1. :2008/09/29(月) 17:21:40 0
>>93
http://www.google.co.jp/search?num=100&hl=ja&as_qdr=all&q=%22%E9%A3%9F%E6%8C%87%E3%81%8C%E3%82%8F%E3%81%8F%22&lr=
100 :考える名無しさん:2008/09/29(月) 17:24:55 0
>>98
33件ほど誤用がヒットしているようですが、それがどうかしましたかW マスゴミ・売国奴・医療業界が隠そうとする真実-------------------安楽死------------------------------奴隷に勝手に死なれては困る
安楽死旅行企画が大人気|竹田恒泰チャンネル
https://www.youtube.com/watch?v=XmP1TRsAe88
武田邦彦:安楽死と大麻、そして売春・・・オランダに学ぶ
https://www.youtube.com/watch?v=nWV8YOY39tw
安楽死党
https://www.youtube.com/watch?v=8nU2UaSlGx0
安心して生きるために---------------------------------------安楽死制度------------------------------最後の保険 「漢字や日本語」は、インターナショナルで「無い」ので、外語コンプレックス
(朝鮮語は除くが)の日本の学問、文献にはなら無い。
ただ、歴史的には、「大陸コンプレックス(儒、仏、道)」でそちら
からの「輸入品」を、日本人をタイセツにした。
「漢字が読める」は哲学(西洋からの輸入品、西周先生の命名品)には、関係無し。
「毛語録」を「バイブル」と誤解している哲人は今は少数派。大陸内でも
傾向あり。 「漢字の書けない中国の大学生(教授も)」でも、パソコンを使う故に
困ら無いと言う。 哲学書を読んで、うきうきで自分も哲学者になりたいみたいな
厨房が2chでそれをデムパし始める、当然だろ? スキャンティーを履きたいお猿さん
サイドがヒモだとまだ結べない女心 ・・・・・ 何歳ぐらいかなって 漢字に頼るのも過去に頼るのも偉人の主張に頼るのもカンニングだよ。
カントや釈迦やアリストテレスがどうとかは哲学じゃなく哲学史だと思う。
まず自分はどう考えたのか?が重要だと思う。
私はカンニングを愚かだと思わない。が私はカンニングをしない。 西谷啓治や田辺元のテクストでも難しい漢字が出てくるよな。 というか擬古文が読めないと、
戦前生まれの思想家や哲学者たちの多くの著作の読解が困難になるわな。 ほとばしるが迸るであることを、
波多野精一の『時と永遠』を読んで初めて知った。 哲学とは、すべての事象に対して、その本質を考えることである。
だから、難しい漢字が書いてあるのが哲学ではない。 哲学とは事象の本質を
考えることであるのだから、平易に書かれて、誰しもがそこに書かれている論理を理解できる
哲学書が、最も優れた書物ということが出来る。 その意味から最も優れている哲学書をあげるとしたら
デカルトの「方法序説」と「省察」をあげる。このデカルトの本は、難しい漢字はなく、平易に書かれている。
優れた哲学書は難しい漢字は少なく、平易に書かれていて、“論理が本質”をついていることである。
だから、哲学とは“本質を考えること”であり、その論理が具体性を持ち、的確に語られていることである。 デカルトは漢字知らんだろうしな
馬鹿は哲学なんかするなよ >>40
ここに書いている漢字という意味は、西洋の哲学書の翻訳で使う漢字のことだよ。
デカルトが漢字を知っている訳がないだろう。難しい漢字が書いてあるというのは翻訳者にもよるが、
西洋の哲学者自身が難しい字を使う場合もある。
君は、文の意味を全体的に理解し、短絡的にならないように心掛けるのも哲学には必要だな。 方法序説と省察でどんな漢字を使うかは、翻訳者と出版社次第だろうが
アホなのかね
ちなみにわたしの持っている古い「省察」は、読めないような漢字でいっぱいだわ >>42
方法序説と省察で使う漢字は、翻訳者と出版者が決める訳ではないよ。
西洋の哲学者の論理、或いは、哲学の概念を“忠実”に伝えているのが翻訳者であり、
日本語として出版されたデカルトの『省察』も“原語の意味”を忠実に表現している。
例えば、哲学的に自己と外界の関係を述べてみる。
デカルトの場合は、「私はある、私は存在する」(省察の二)で記述しているが、この命題の意味は、
自己と存在との本質を、“考える”という言葉を略し、平易な言葉で表現している。
それに対して、ハイデガ−は「現存在(自己)は世界内存在として在る」と記述している。
上記でも分かるように、デカルトの場合は、私と存在という平易な言葉しか使わないが、ハイデガ−は
現存在、世界内存在、そして、投企、被投的企投、、存在論的差異、などの難しい言葉を使用している。 ハイデガーが「Dasein」の訳語には「現存在」を使ってくれと言ったわけではないわ
だが新しい概念として定立する必要があったため、苦心して翻訳者がひねり出した造語だよ
君は本当にアホのようだな
ちなみに君の言う「省察の二」だが、わたしの手元にある本での冒頭はこうだ
「恰も渦巻く深淵の中へ不意に落ち込んだように私は狼狽して・・・」
翻訳は三木清
「恰も」なんて、いまどきの若い奴は初見で読めるのか疑問だわ
もう一度言う
馬鹿が哲学なんかするな、不幸になるから >>45
三木清が正しい翻訳をしているとは限らないだろう。
君は『省察』に記述されている「私はある、私は存在する。」の命題を
三木清以外の日本人がどう訳しているか知ってるかな。 例えば、井上庄七、森啓、野田又夫は
「私はある、私は存在する。」と訳している。 正しい翻訳かどうか、どうやって判断できるのかね?
君の言うように、「原語の意味を忠実に表現する」ことなど
そもそも可能だとでも思ってるのかね?
たとえば「現存在」は「Dasein」を“忠実に表現している”と
君は思っているのかね
>例えば、井上庄七、森啓、野田又夫は 「私はある、私は存在する。」と訳している。
つまり、翻訳者と出版社次第ってことだろうが、阿呆 「哲学」は「Φιλοσοφία」を忠実に表現しているのか
哲って何? それでは、井上庄七、森啓、野田又夫氏も阿呆いうことになる。
君なら、「私はある、私は存在する。」の部分のデカルトの原語(省察二)をどう翻訳するのかな。 >それでは、井上庄七、森啓、野田又夫氏も阿呆いうことになる
なるわけないでしょ
三木清でもそこは「私は有る、私は存在する」と訳している
「ある」を「有る」と、漢字を使ったら間違いなのか?
君は何が問題となっているか、まるで分かっとらんな
デカルトが、日本語訳にどんな漢字を使うかについて、指定することなんか
できませんよ、って言っているわけよ
分かったか >>51
「ある」を「有る」と訳するのは、存在の本質を述べているのだから、
間違いではないでしょう。 そこで、君に問いたいが、デカルトは方法序説にて
「私は考える、ゆえに私は存在する。」と述べているが、省察では「私はある、私は存在する。」と、
述べている、省察では「考える」を省略している。この違いは見落としやすいが、ここに存在の本質が
隠されているように思うが、 君はどう捉えるかな。 君は>>39で
>優れた哲学書は難しい漢字は少なく、平易に書かれていて、“論理が本質”をついていることである。
とか書いてるよな、その一方で>>44
>ハイデガ−は 現存在、世界内存在、そして、投企、被投的企投、、存在論的差異、などの
>難しい言葉を使用している。
とも書いている
つまりそれは、「ハイデガーの著作は優れた哲学書ではない」って言ってるわけだが
そうなんだな? >>53
阿呆
そのあと、「さてこの私とはなんのことであろうか」
と続いて、「そうだ私とは思惟だ」となるわけだよ
結局、同じ内容なんだよ
省察は方法序説より説明がくどいだけよ >>55
方法序説の「私は考える、ゆえに、私は存在する。」の命題では、
“ゆえに”という記述によって、互いに独立したものとして述べられている。
つまり、方法序説での、〈私と考える〉は“ゆえに”の記述によって“差異化”している。
省察(二)での「私はある、私は存在する。」の数ペ−ジ後にデカルトは、「私とはなんであるのか。
考えるものである。」と記述しているが、ここに書かれている「私」と「考えるもの」は、“同一化”している。
従って、省察と方法序説の命題は、互いに別の概念を現している。 >>54
存在の本質を認識する場合に、個々の哲学者によって微妙に“本質”に対する
“肉付け(=言語表現)”が異なっている。その異なった“肉付け”が個々の哲学者によって
難しい言葉であったり、平易な言葉であったりする訳であり、論理の本質は変わらない。 「我思う故に我あり」に続く方法序説での記述はこうだよ
・「私とは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるというという
ことだけにあって、・・・」
実体とは属性に依らないもののことであるから
《私とは即ち、考えるということ》、そう言っているわけだよ
君の大好きな言葉で言うなら、“本質”は『省察』の内容と変わらない
何が“差異化”されているというのかね??
「ゆえに」と記述することで“差異化”して、”別概念”となるわけか?>>57
言語表現(肉付け)が異なっていても、論理の本質は変わらない>>58、のであれば
何が差異化であり、何が肉付けなのか、どうやって君に判断できるのかね?
そもそも、難しい言葉でも平易な言葉でも、本質が変わらないのだとすれば
なんのために現存在やら投企などといった妙な言葉をひねり出す必要があったのか
ためしに、「現存在」を、君が思う“本質の変わらない平易な表現”で表現してくださいよ >>59
>何が差異化されているのか。
>「私はある、私は存在する」(省察二)に於いてデカルトは、すぎ後に「私が存在するのは、どれだけの間か。」と
記述している。これは、“考えている間”という時間概念を、この命題に導入している。この時間概念によって、
私(主観)に“考える前と考えた後”の時間差により、私(主観)という存在に於いて“差異化”が生じている。
他方に於いて、主観(私)の“同一化”とは、どの様な過程に於いて成立してくるのかということです。
デカルトは“方法的懐疑”により、その究極の次元に於いて、“疑っている私は疑えない”という
不可疑的存在(超越論的時間概念の次元)としての「私」に至るが、 この不可疑的存在(超越論的主観)が
“同一化”の領野として成立する。
上記の様に、デカルト哲学は主観(私)そのものが“同一化領野”と“差異化領野”という二通りの捉え方を現出している。 『考えている間』からどうやって『考える前と考えた後』に話がすり替わるのか
“論理の本質”が分かるように説明よろしく だいたいさ、「省察では差異化されずに同一化されている」>>57
とか言ってたでしょ?
まるで話が違ってるわな
超越論的とか念仏唱える暇があったら、誰しもが理解できるような平易な言葉で本質を語ってくださいよ
それが優れた哲学なんでしょ?>>39 ちなみに「私が存在するのは、どれだけの間か。」に続く内容は
方法序説も省察も同じであって「それは私が思惟する間である。」となる
私が思惟することをやめると、私は有ることをやめる
私が存在することの一切の理由は無くなる
そんな論理展開なのだが、これはつまり
私という思惟は、思惟している限りで思惟であり、それ以外に思惟である理由はない
ゆえに思惟であるところの私は、“実体”なのである
そういう理屈なんだね
分かったか >>64
「考えている間」とは、考えが続いているのだから、考え始めから〜考えが終わるという時間の流れがある。
当然に、思考の内容・概念は、時間の流れの中で、考え始めと中間そして、終わりという思考過程の流れによって
捉えられている主観の概念が異なってくる訳です。 つまり、考え始めている状態での「私」と、考えが終わった
状態での「私」は、同じ〈私(=主観)領野〉でも捉えている様態が異なる。 デカルトはそこで「何を思惟するか」など問題としていない
そこで“考えている間”と記述されていることの“本質”は
思考される内容ではなく、思惟する事態そのものですよ
思惟の内容について分析されるのは、もっと後であり
そのために神を必要とする
君はデカルトをべた褒めしたわりには>>39、その“論理の本質”は
さっぱり理解できないようですね >>68
デカルトの“思惟する事態そのもの”は、「方法的懐疑」を基底としている。
君は、「方法的懐疑」という思考法をどの様に捉えているのかな。 「基底」などという念仏をそこで用いる意味があるのか?基底をどのように捉えているのかな?
方法的懐疑とは、「あれもこれも疑わしい」とうそぶく懐疑論者に対して
「懐疑することは無条件に可能なのではなく、懐疑であるが故の限界がある」←ここ重要!
そのことを示し、懐疑論者を粉砕することに成功した一連の作業のことだ
何度でも言う、馬鹿は哲学など諦めろ >>71
方法的懐疑とは、“すべての事象”に対して、真(不可疑的存在)を最終目標として、
“疑わしきもの”を偽として斥ける思考法です。
この方法的懐疑を基礎として、すべての物事をデカルトは判断しているのであるから
基底と書いても間違いではない。
それから君は、「懐疑であるが故の限界」と書いているが、この“限界”とはどの様な意味かな? それなら「基礎」と言えばよいものを、わざわざ基底などという
小難しい言葉にしたのはどうしてなんだ、って聞いているのだよ
どういう“肉付け”なんですかね、それ?
それとも“本質”を誤魔化そうとする姑息な根性の表れなのか
「懐疑であるが故の限界」の意味が分からんのか
それでよく方法序説を賞賛できるよな
いいか、懐疑というのは、特定の命題に対して「それは明晰ではないから疑わしい」
と言い立てることなのだが、そもそもそのような行為(=懐疑)が可能なのは
それが「疑うべき根拠があるが故に、疑わしい」という論理的な行為だからだ
懐疑とは感覚や知識の不完全を根拠にして、独断的な完全性を攻撃するものと言える
だから懐疑する能力が及ばない「明晰なこと」に対しては、懐疑論は無力なのだ
分かったか
しかしとりあえず、君がスル―した以下の質問、少し考えてみてはどうかね
それが哲学だ(難しい問題ですから、答える必要はありませんよ)
・(訳語が)原語の意味を忠実に表現することなど、そもそも可能だとでも思ってるのかね>>47
・たとえば「現存在」は「Dasein」を“忠実に表現している”と、君は思っているのかね >>47
・難しい言葉でも平易な言葉でも、本質が変わらないのだとすれば、ためしに「現存在」を
君が思う“本質の変わらない平易な表現”で表現してください>>59
念仏書いたタロットカードを気ままに並べるのが哲学ではないでしょう
もう卒業したらどうですか
馬鹿の相手をして漢字の話から遠く離れた、スレ違いも甚だしい
みなさんごめんなさいね >>74
懐疑というのは、特定の命題(=前提)に対して「それは明晰ではないから疑わしい」という思考法だが、
方法的懐疑の場合は、特定の命題を“不可疑的存在=真”と設定したところにある。
最終目標として設定された“真(=前提)に対して、すべての事象、そして自分自身の存在をも疑った結果として
デカルトは、「疑っている私は疑えない」という認識に達している。
この方法的懐疑は、君の言ってることと同じですよ。
フッサ−ルの「現象学的還元」は、「方法的懐疑」の思考形式をベ−スとして創出したものであり、
その意味では、方法的懐疑による不可疑的存在と、現象学的還元による超越論的主観性(純粋精神)とは
密接な関わりを持っている。 「疑っている私は疑えない」
そんなことは、小学生でも分かることなんですよ
デカルトはさらに、「それはどうしてなのか」と問う
そして「それは“明晰に知られるから”であることの他に理由はない」と知る
ならば、明晰に知られることは真としても良いはず
・・だが、本当にそれで良いのか・・
そこから、「私と神と真」の関係によって世界の合理性が説かれる
そのスリリングな、つまりぎりぎりの説明こそが、方法序説の神髄
分かったか
デカルトが“平易な言葉”で説明しているのに
“それは超越論的主観性と関係がある”などとほざくことに何の意味がある?
説明にも何にもならないだろうが
君はそうやって哲学の入口も分からず、念仏唱えるしか能が無い
君らは、いくつかの念仏を助けとして、哲学書をなにか芸術か音楽を
鑑賞するように捉えようとするよな
それは君らの自由なのだが、科学者であったデカルトが見た景色は恐らく
君らのそれとは似ても似つかぬものだろう
哲学書を読む前に、諸学を勉強するべきなのだよ
そうしないと、ただのお花畑になってしまう
あと小説を読みなさい >76
君は「超越論的」という言葉を“念仏”といって忌避している様だが、この「超越論的」という言葉は、
カント、そしてフッサ−ル、その他多くの哲学者が使用している。 ただし、「超越論的」の意味に於いては、
カントの場合は、ア・プリオリ(先天的)な認識を基礎づける概念としてであり、 フッサ−ルの場合は、現象学的還元の
後に確保される認識の構成の働きのことを言う。
だから、カントの述べている「超越論的」と、フッサ−ルが述べている「超越論的」の概念は180度異なっている訳です。
「超越論的」という概念を理解する為には、方法的懐疑の思考過程と、この方法的懐疑と一定の共通性を持つ
「現象学的還元」の思考過程を理解する必要がある訳です。 >>78
そんな貴方に伺います
超越論的と先験的とは、何が違うのですか 和辻は比較的読める方だな。難しい漢字を知らなくても。 >>79
「先験的」とはドイツ語のtranszendentalの訳語であり、「超越論的」と「先験的」とは
同じ意味です。 >>78にも記述しているように、超越論的(=先験的)の意味は、カントとフッサ−ルでは
意味が異なっている。 現代の現象学では、フッサ−ルの超越論的の概念が基底となつて論理展開している。 >>82
同じ意味ですか
そうすると、transzendentalの訳語としては、超越論的でも先験的でも良いと
いうことですね
しかしどちらが『“原語の意味”を忠実に表現している』のでしょうか >>83
超越論的と先験的は、どちらも同じ意味であり、どちらも原語の意味を忠実に表現している。
ただし、現代哲学では、現象学に重点が移っているので、超越論的と訳するのが多い様に思う。
ところで、超越論的(=先験的)の概念を理解するには、まず、「現象学的還元」の思考形式を
理解し、経験することが必要ですが、君は「現象学的還元」をどの程度まで理解しているのでしょうか。 >>84
『どちらも原語の意味を忠実に表現している』
そうですか
しかしどうして同じ意味の言葉が二つもあるのですか すいません、もう寝ますけど、
先験的と超越論的とでは見た感じ、全然印象違いますよね
なのにtranszendentalを先験的と訳しても、超越論的と訳しても
結果として問題無かったわけです
それが先験的とか超越論的と訳されたのは、ほとんど偶然の早い者勝ちです
「臨界的」でも良かったと思いますが、『これまでに無い言葉(概念)』
である必要性を感じたはずです
誰が感じたのか
もちろん翻訳者です
そして>>42に戻る 明日から現象学的還元の話、やりましょうか
わたしは、ある時期から現象学には全く期待しなくなりました
その認識が改まるようなことがあれば幸いです >>87
「ある時期から現象学には全く期待しなくなりました。」とは、現象学の論理に
対してということでしょうか。 「現象学の論理」なる言葉によって、貴方が何を言おうとしているのか
わたしにはさっぱりわかりません
現象学とは何ですか?
以下は、木田元さんの言葉です
『わたしは、現象学を完結した一つの理論体系とか、ましてや形而上学のたぐいとは考えない。
それはあくまでも開かれた方法的態度なのである。といっても、フランシス・ジャンソンも
言っていたように、この方法なるものを料理の「作り方」とか自動車の操縦の「仕方」の
ような一定の結果を保証してくれる一連の「手つづき」と考えるとすれば、それは論外である。
方法とは本来、デカルトの解析の方法やヘーゲルの弁証法がそうであったように、
思考のスタイル、研究対象に立ち向かう態度のことなのである。』
どういうことなんでしょうか。
含蓄がありそうすぎて、私には正直よく分からないというのが本音です。 『超越論的』
木田さんは、こう言っています
『意識の素朴な「自然的態度」に対して「超越論的還元」がくわえられ、「超越論的態度」が
えられる。それによって開かれる意識が「超越論的意識」であり、この態度に立つ哲学が
「超越論的現象学」だというわけである。』
分かります? わたしにはさっぱり
超越論的還元とは、いったい何のことでしょうか
続きがあります
「定立されてしまった世界」は素朴な断定(自然的態度)に過ぎないのだから
いかにその断定が生じてきたかを見ようとするのが、超越論的還元である。
ああつまり、“世界”がこのように構成されるその由来を、
われわれに直接に与えられる意識体験に求める
世界を規定する精神活動を探る行為であるから、超越論的だと、
そういうことなのでしょうか >>90
「定立されてしまった世界(既成概念の世界=自然的態度)」を判断中止(括弧に入れる)して、
その後に訪れる認識体験の領域を捉える為の一連の思考法を、現象学的還元と解釈しています。 ××が×めずに×××は×めるのか? [××××]・2ch.net 『現象学的還元』
木田さんによると、「超越論的還元は、狭義の現象学的還元」だそうです
どうして狭義となるのかと言えば、現象学的還元は後に、形相学的還元と
超越論的還元に区別されることになるからです
ところで形相学的還元とはいったいなんのことでしょうか
形相学的還元とは、超越論的主観性により、個別的な経験から本質へと
目を向け換える手続きであると辞書には載っています
しかし超越論的主観(性)とはなんのことでしょうか
簡単には、先の超越論的還元、つまり定立された世界の自明性を反省する当の主観
つまり超越的な対象(=自然的実在)を基礎づける主観のこと、と説明されます
分かりますか?
しみじみ分かる、と感じる人が、ひょっとしておられるかもしれない
しかしその理解が勘違いではないことの保証を、どこに求めればよいのでしょうか
どこにもないように思います
アカデミズムにおいてどうであるかは知りませんが
一般人にとって現象学は、馬鹿ホイホイとしてしか機能していません 自然的態度を判断中止とするその行為は、正当なものと言えるでしょうか
動機としては理解できます
この「理解できる」の意味は、「同じような思いが自分にもあります」ぐらいの内容です
フッサールは恐らく、デカルトの説明には飽き足らなかった
デカルトは不徹底だ、と感じたのだと思います
デカルトは数学世界に対しても懐疑するポーズは見せましたが結局、
デカルトの思惟は、数学を丸ごと飲み込んでしまったように見えます
またデカルトはたしかに、思惟の存在は疑えないことを突き付けましたが
そこから「思惟は存在する」と結論付けるのは、テクニカルに過ぎる印象を
受けます
それでもわたしは、デカルトは結果として正しかったと思います
消極的に評価すれば「仕方なかった」
これ以上の深入りは、いかに注意して歩もうとしても、無用な混乱を招きます
なぜなら、超越論的還元という言葉で捉えられるような活動は、なるほど人間一般に
可能であるようにも思われますが、しかし超越論的還元から始まる様々な『反省』は
世界定立を伴い、そこには超越論的還元が及ばないからです
悪いことに、心的現象に新しい記号を与えて記述的に分析する行為は
自由度が大きすぎて、記述に対して対応するのは“個々に勝手な思い”でしかなくなる
空中分解してしまうのです 木田さんによれば、フッサールは後に、自然的態度と自然主義的態度を
区別するようになります
自然主義的態度とは、簡単に言えば科学的世界観を全肯定する態度です
それを除かれた自然的態度は、自然な日常経験を肯定する態度
そしてフッサールは、現象学的還元によって、自然主義的態度は退けるが
日常の生活世界である自然的態度に対しては、それを“振り返る”と言い出す
振り返り、見つめ直す
ふりだしに戻ったかのようにも思えますが、そうするしかなかった
しかしどのように見つめ直すのか
それは恐らく『自由に』ということになる
以降、現象学は肯定的に言うならば“豊かに展開する”ことになる
そういうことでしょうか >>96
「超越論的還元から始まる様々な『反省』は世界定立を伴い
そこには超越論的還元が及ばないからです。」と述べていますが、
超越論的還元は、客観世界とその対象の一切を判断中止(括弧入れ)して、
内在意識の現象として還元し、そこに現れる認識が再構築されるのを観取する方法ですが、
君は、「世界定立を伴い、そこには超越論的還元が及ばない」と述べていますが、この辺の論理が
よく分かりませんので、説明してもらえますか。 「直接に与えられるもの」という罠
凡そ哲学者は外界、つまり自然的実在が素朴に存在することを、そのままでは
認めない、そういった傾向が拭いがたくあります
どうしてなのか
それは、自然的実在は経験を超えた超越的対象であると判断されるからです
その判断は妥当なのか
経験的には妥当だと思えます
その意味は、我々の感覚は不完全であることは経験によって知られる事実である
ということです
そこでどうするのか
「世界がどうであれ、“ここにこうやって居るこのわたしが、今これと共にあること”
たとえ神であっても否定することはできない」
という絶対の領域があって、それを無条件に信頼することになります
たしかに“わたし”も“これ”も、それ以上ばらばらでは使い物になりません
しかし「使い物にならない」ことの意味は、ばらばらではもはや確信という演者として
意識という舞台に立てないというだけ、と考えることができるのです
たとえば「私には確かにこの色が見えており、“そのこと自体”は疑いようがない」という
哲学的確信があるとして、それが確信の一人舞台でしかないことを、内省という手段によっては
批判することができないのです
そう考えるようになって、わたしは現象学を“厳密な学”としては見れなくなりました
こんな説明で分かりますかね >>99
それはつまり
『内在意識の現象として還元し、そこに現れる認識が再構築されるのを観取する』
という記述によって説明されるところの一連の作業のようなものは、やってみせることもできず
個々に、還元したつもり、再構築されたつもり、観取したつもり、で勝手に納得するしかなく
それらの全てが勘違いのお花畑であるだろうことについて、還元することも、再構築することも
観取することもできない、ということです
貴方のように、気楽に念仏唱える人を見ておりますと、まことに現象学とは
無駄なことをしたなと、フッサールに同情せずにはおられません >>101
超越論的還元と方法的懐疑が異なるのは、方法的懐疑が“真”を最終目標として
設定しているところであり、超越論的還元は最終目標を設定しないところにある。
両者の“排する(宙吊り)”とする思考過程の全体的な流れは、類似していると思う。
従って、方法的懐疑を進めることにより、一定の“超越論的還元”に対する認識・経験が
得られるものと解釈している。 貴方は方法的懐疑の思考過程を経験されていると思うがどの様に捉えていますか。 >貴方は方法的懐疑の思考過程を経験されていると思うがどの様に捉えていますか。
何を問われているのか、さっぱりわかりません >>100
>経験的には妥当だと思えます。
気持ちはわかるけど、気持ち悪いよ。
経験を超えたものなのに、経験が不完全であるから、経験を超越した
(完全な)自然的実在を認めがたいのだってのは、腑に落ちない。
そもそも、経験が不完全であると断言してる時点で、(完全な存在である)
自然的実在が(素朴に)存在することを(そのまま)認めてしまってるんじゃないかな? 経験が不完全なのではなく、感覚が不完全なのだ
感覚が不完全であるとは、ベタに言うなら
「感覚は時に我々を欺く(デカルト)」と表現できる
自分の感覚が誤っていた、そのような『経験』が、貴方にはありませんか?
感覚がそのように頼りないものである場合に、
そのことは『経験』によって知られる
そして一度その事を知ってしまうと、見えるもの、聞こえるものを
そのまま信用することができなくなる
また超越とは、あらゆる可能な経験を超え出るもの
ベタに言うなら『神』、カントが言う『物自体』も超越
だから自然的実在がそのようなものだと考えるなら、それは超越となる
ちなみに、感覚が一切、我々を欺くことが無いなら
つまり、そのような『経験』が全く無いなら
意識という概念も生まれないし
懐疑論も生まれない
こんな説明で分かりますかね >>105
うん、悪いんだけど、分かるとか、分からないとかじゃないの。
感覚でも経験でもいいけど、「不完全」だと断定してる時点で、
(完全な存在である)自然的実在を認めてないとおかしいよね?
その上、感覚が不完全であるということが、経験によって知られる
というのであれば、感覚によって欺かれることのなかった、自然的実在が
存在するであろうということを経験によって認めることができる証左になりそうだけど。
さらに、>>105の「超越とは、あらゆる可能な経験を超え出るもの」という記述から、
より訳が分からなくなってる。経験を超えたものの、存否が不確かだということを、
経験を用いて妥当だとするのは、いかにもおかしいよ。
だって、経験を超越したものなのに、経験に基づいて、不確かだとか、妥当だとか、
そんなのはわかりそうにないんだが。
私は、現象学とかよくわからんが、こういうとこから、どうにも、あなたにミスリーディングが
ありそうに思える。 貴方は>>100対して>>104で、私が書いてもいない「経験が不完全」という内容に
勝手に読み替えましたね
さらに私は「自然的実在が素朴に存在することを、そのままでは認めない」と書いており
「自然的実在を認めない」とは書いていないはずです
こういうのをミスリーディングとは言わないのですか
素朴とは素朴実在論の素朴
その意味をベタに言うなら
「この世界というのは、自分の眼に見えたままに存在している」
(素朴の意味を説明しなかった私が悪いのでしょうね)
感覚が信用できない中では、世界が見えたままに存在していると断定できなくなる(※)
そう言っているわけです
>経験を超越したものなのに、経験に基づいて、不確かだとか、妥当だとか、
>そんなのはわかりそうにないんだが。
『妥当』というのは、上の(※)の判断が妥当だと思えると、私は言っているわけだ
存否が不確かだと言っているわけではありません
感覚は不確かだという『経験』によって、「見えたままの世界がそのまま存在する」とは
思えなくなる
そこから、「本当の自然は経験を超えるようなありようなのだろうな」
と思われてくる
そういう意味です
おかしいですか >>97
フッサ−ルは、本来的次元での自然的実在(超越論的な対象)と、日常的生活領野(非本来的次元)とを、
同一のものとして述べている様に思う。 つまり、自然的実在には二通りの概念があり、普段われわれが接している
日常的生活次元での“自然的実在”と、超越論的還元の後に捉えられる“自然的実在”がある。
フッサ−ルは、現象学的還元によって、日常生活世界(非本来性の次元)である自然的実在に対しては、
それを“振り返る”と述べているが、現象学的還元の後に捉えられる“自然的実在”は超越論的な対象としての
領野(本来的次元)であり、両者は明確に概念を分けるべきものと考えられる。 >>110
「本来的次元」とは、超越論的還元の後に捉えられる“自然的実在の領野”ですが、本来的という言葉は、
ハイデガ−哲学で使われている“本来性”と同じ意味として解釈しているので使用している。 私は、日常的生活世界を
一種の“頽落”と解釈しているのる。 この日常的生活社会(=頽落)の対極にある超越論的世界を現す言葉として使用している。 木田さんによれば
フッサールの言う、振り返るべき“生活世界”は、全ての真理の前提となるような
根元的臆見であり、それ以上超えることのできないもの、とされている
それは『客体的世界の手前にある、生きられる世界(メルロポンティー)』のこと
この説明を読んで私は、なるほどそうあるべきだなと納得しました
私が現象学に関心を失ったのは、実際そのように気付いたからです
一方で、頽落(Verfallen)をハイデガーがどのように用いているか
現存在(自分を人間として理解している存在者)が、その自己自身を喪失し
空談、好奇心、曖昧性などのうちに逃避している状態
・・辞書にはそのように載ってますね
頽落した日常世界と、振り返るべき生活世界
ぜんぜん内容が違うように思えますね
貴方はその“解釈”で満足なんですか
ああ、それから
『超越論的な対象』>>109とは、何のことですか
おかしいとは思いませんか >>113
貴方が現象学に関心を失ったのは“生きられる世界(=生活世界)”は、
もともと我々の身近にあるものであり、現象学的還元を実践しなくとも良い、という考えでしょうか。 >>114
現象学的還元を実践したほうが良い、と思う理由が貴方にはあるのですね
それは何ですか >>115
フッサ−ルの「生活世界」とは、“すべての真理の前提となる根源的存在”のことですが、フッサ−ルは
「生活世界」と「科学的世界」の連関について「科学的世界は私達の生活世界の部分をなす(場合によっては
圧倒的な部分をなす)もの、 この意味での部分世界なのであって、生活世界のすべてではないのである。
生活世界は、科学的世界を自らの内に含んだ包括的な世界として、我々の前に姿を現している。」と述べている。
我々の“日常的生活次元”に於いては、「科学的世界」が混在し、本来的な「生活世界」ではない訳です。
従って、本来的な領野(=根源的存在)に至る為には、非本来的な「生活世界」から現象学的還元を実践することによって、
本来的な「生活世界」に至ることが可能となる。 貴方が言いたいことは分かりますよ
しかし辞書などを調べる限り、「非本来的」に対応するのは「日常性」であって
「生活世界」ではないと思われますね
また、「領野」というのは、反省によって得られる部分的で有限な視界、
つまりその限定性を強調するために、メルロ・ポンティーが使用した特殊な概念
そのように辞書には載っていますね
毎度毎度、貴方は言語感覚が雑ですね
それでどうして哲学なんかやろうと思ったのか、動機が謎ですね ああ、それから
現象学的還元によって得られるのは、ただ『現象学的態度』のみであって
どこに至るわけでもないと思いますね >>118
フッサ−ルは、「生活世界に於いて、科学的世界を自らの内に含んだ包括的な世界として現出する。」と
述べているように、この状態での生活世界は“真”の生活世界ではない訳です。
科学的世界を包括した生活世界を、“真の生活世界”と対極にあるものとして、私は捉えている。
従って、私は、「生活世界」の概念は、二通りあると解釈している。 その意味に於いて、
「非本来的」という概念を拡大解釈して、「非本来的な生活世界(=日常的世界)」と「本来的な
生活世界(=超越論的世界)」として記述した訳です。
私が読んでいる限りでは、フッサ−ルは「生活世界」と対極するものとしての「日常的世界」という
記述が見あたらない。「生活世界」と「日常的世界(=非本来的な生活世界)」は“現象学的還元”を
分岐点として、はっきりと分かれるのであり、「現象学的還元」は重要な位置づけにあると捉えています。 「日常性(Alltäglichkeit)」はハイデガーが用いた言葉でしょう
フッサールの記述に見あたらなくても不思議ではありませんよ
私がそこで「日常性」を挙げたのは、「本来的/非本来的」もハイデガーの用語だから
この場合の「非本来的」とは、“日常性”の中に埋没して根本的な不安から逃避している
そのことを表現する言葉(Eigentlichkeit/Uneigentlichtkeit)
本当のところは私なんかにはよく分かりませんけどね
ちなみに「真の生活世界」などという記述を、フッサールがしているのですか
なるほど貴方は『拡大解釈』したわけですね
好き勝手な拡大解釈が許されるような、そういう“哲学”なわけです、現象学というのは >>119
現象学的還元によって得られるのは、「現象学的態度」のみと述べていますが、
この、現象学的還元というのは、「一切の既成概念を判断中止(括弧入れ)したあとに現れる
“純粋現象(=内在意識)”を本質観取することですが、貴方の述べている「現象学的態度」というのは
判断中止(括弧入れ)した後の「純粋現象」のことでしょうか。 >>123
貴方は「内在意識」を「純粋現象」と言うのですか
フッサールは、いわゆる「現象学的括弧入れ」によって「現象学的残余」として
『純粋意識』へと導かれる、と言ったことがあるようですが
しかし後に、「純粋意識」という表現に代わって「超越論的意識」や「超越論的主観性」
という呼びが多用されるようになるようです
以下はフッサールの言葉として紹介されています
「(超越論的還元は)なるほど一躍にして<超越論的われ>へと導いてくれはするが、
しかしこの<われ>は先行すべき一切の解明を欠いているために一見まったく無内容であるかの
観を呈し、したがって人々は、いったいこれによって何が得られたことになるかについて
さしあたってはただ途方に暮れるしかない。」
ここで言われている<超越論的われ>とは超越論的主観性のことですよね
つまりフッサール自身、現象学的還元によって、実際、何が得られたかについて
さっぱり掴めないままなんですよ
フッサールはその後も一生かかって、確実な岩盤を求め続け、思考の極限まで潜り続けたようですが
右往左往しただけで、肝心の求めたいものはまるで得ることができない
それでもフッサールが尊敬されているのは、それだけの理由があるわけでしょう
想像を絶するような、限界を超えた思考の可能性を披露してみせたわけですから
ところで内在意識とは一般的には深層意識のことをいうようですが
貴方の言う内在意識とか純粋現象というのは、いったい何のことですか
教えてください
それが無理なら、現象学に於ける『純粋現象』の原語を教えてください ひとつ答えるのを忘れていました
現象学的態度というのはですね、言ってみれば「謙虚な態度」以上のものには
成り得ません
生活世界に戻ってくる必要性は、必ずしもなかった
結局そこにも岩盤などないからです
それでも、私自身、現象学を見直す機会を得て、大事な遺産が残されているかもしれない
そんな気もしてきました
馬鹿は哲学をしない方がいい >>125
野家啓一氏は、フッサ−ル後期哲学について「デカルトの理性が“身体”を必要としなかったのに対して、
フッサ−ルの理性は、身体(=キネステ−ゼ)の中へと錨を下ろし、パ−スペクティヴの世界が開かれる「場」として、
「超越論的機能」を果たしており、「私は考える(純粋精神)」は「私はできる(身体=キネステ−ゼ)」の中に投錨することに
よって、真の意味での「超越論的主観性」たりうるのである。」と述べている。(『現代思想の源流』より)
つまり、フッサ−ル前期の思想は、「超越論的主観性」をデカルトと同じ様に“純粋精神”として解釈していたが、フッサ−ル
後期の思想に於いては、身体(=キネステ−ゼ体系)を基底とした、いわゆる“心身合一”を基本に据えて、「超越論的主観性」の
論理展開を進めていると解釈している。 おい、なんでこのスレタイでそんな話してんだよ
波平の誤魔化しにしか見えんぞ >>128
フッサ−ルは前期哲学に於いて、「現象学的還元」による「現象学的括弧入れ」により、
現象学的残余として、“純粋意識”へ導かれると述べているが、 後期哲学に於いては
身体(=キネステ−ゼ体系)を基底とした“心身合一”を基本に据えて現象学的還元が行われている。
フッサ−ル後期哲学での「現象学的残余」は、単に『純粋意識(=純粋精神)』ではなく、心(精神的様態)と
身(物質的様態)との“合一”したものとして現象している。その意味から“純粋意識”から“純粋現象”という
言葉に置き換えて私は使用している。 >>131
ああなるほど
それを>>123に当て嵌めると、
『心と体との合一したものとして現象している「純粋現象」を本質観取する』
それが現象学的還元、なのですね
ところで本質観取するのは「何によって」ですか
それは「超越論的主観(性)によって」となりますよね
超越論的主観性と純粋精神、それぞれの言葉が指示する対象を区別することは
ほとんど不可能です
敢えて言うなら、純粋精神に意味が“肉付け”されたものが超越論的主観性
ということでしょうか
貴方の言うように、「純粋精神」を「純粋現象」と言い換えることができるのなら
超越論的主観性は結局、純粋現象ということになりますから
『純粋現象を本質観取するのは純粋現象によってである』
そういうことになります
「ヨーロッパの学問の危機と超越論的哲学」の最後に
似たような話が展開されています
結局、フッサールが目指した確かな岩盤は得られなかった
ただ一つ、宙に浮いた『謙虚な態度』だけが残った >>134
>敢えて言うなら純粋精神に意味が“肉付け”されたものが
「超越論的主観性」ということでしょうか。
>“肉付け”ではなく、純粋精神(=心)と純粋物質(=身)との関係は、
純粋精神(=心)に純粋物質(=身)が“肉ずけされる”という連関の働きではなく、両概念が一体化(=両義性)
しているという捉え方です。
つまり、別な言い方をすると、“1つのコイン”の裏と表という関係です。 >>137
フッサ−ル後期哲学に於いて、キネステ−ゼを基盤とした“心身合一”により、
現象学的還元をする論理へと深化しているが、この“心身合一”の心が「精神(=意識)」のことであり、
身が「物質的要素(=物質)」です。 この“心身合一”を基底として現象学的還元(括弧入れ)を実行した場合に
心(精神)と同時に、身(=物質)も還元される。そして、現象学的還元が実行された後の『純粋な現象(純粋現象)』
は“純粋な精神”と“純粋な物質”の〈合一したもの〉として現象する。
この純粋な状態での“物質的様態”を、私は「純粋物質」と呼んでいる。
フッサ−ル哲学の前期での現象学的還元は、「一切の既成概念を“宙づり”として捉え、その現象を『純粋意識』として捉え
本質観取することですが、客観的存在を還元(宙吊り)により、内在意識としての“純粋意識(=純粋精神)”として捉える
あり方に、今1っ、しっくりしないものを感じていた。
しかし、フッサ−ル後期哲学に於いて、“心身合一”を基底とした現象学的還元による、純粋精神と純粋物質の
“合一”としての本質観取がなされるという在り方によって、客観的存在等を内在現象として捉えることに実感を
持てる様になった訳です。 ああつまり貴方が勝手に「純粋物質」とか言ってみただけで、
フッサールの用語でも、現象学の用語でもないわけですか
それでは誰にも通じませんよ
貴方を見ていると、現象学とは言葉のゴミ捨て場のようですね >>140
私が勝手に「純粋物質」と言ってるわけではない。フッサ−ルのキネステ−ゼ(身体)を基底とした
「心身合一論」から導かれる。つまり、この場合の「身」とは、我々人間の物質的要素(=細胞等)のことであり、
純粋意識(=純粋精神)が還元(宙づり)により導き出されているのだから、物質的要素(物質)が還元によって純粋物質として
導き出されるのは正しい論理の方向性を示している。 >>141
フッサールが「純粋物質」などと言っているのですか
どこに載っているのか教えてください キネステーゼにしても、いきなり「心身合一」とか
どれだけ雑な脳を持てばそんなことになるのか
キネステーゼのもともとの意味は「運動感覚」でしょう
フッサールに於いては、運動と感覚の不可分な結合を意味する用語
>>127の野家さんが言っていることというのはつまり
知覚とは静的なものではなくて、身体の運動可能性が知覚を構成する
よって現象としての物体を物体として規定する当の超越論的自我はしかし
物体である身体と結びついている
そういうことであって、そこに「純粋物質」などというアホな念仏が入り込む余地は
1oも無い >>125
>大事な遺産が残されているかもしれない
そうなんだよね。
そこに気が向いてからがスタート。 >>143
どの様な論理も完全なものはない。
君は、他人の論理を根拠として批判するクセがある様ですね。
君自身は、現代哲学への意見・論理を持っているのだろうか。 マイ用語を勝手に捏造して使うのが貴方にとっての現象学なんですね
私の意見は度々表明している
現象学は、馬鹿ホイホイにしかならない
その典型的なサンプルがいまここに展開されている
方法序説もまともに読めない奴が、フッサール読むだけ無駄でしょう 哲学には動機が必要ですよ
『世界のほんとうが知りたい』
その強い思いが無ければ、単なる連想ゲームに墜ちる
哲学が何の役に立つのか
哲学では自動車を動かすことはできない
だが哲学で『人間』を動かすことができる
それが哲学の力
哲学に力を与えたまえ 務台理作の本は旧字体以外はさほど難しい漢字は使われていないな。
古本で買った『哲学概論』や『現代のヒューマニズム』は、
マス・プロダクション、マス・コミによって疎外状況に人々が陥っているとした上で、
唯物論と観念論を対照させて現実と切り結ぶ地点を見定めている感じだな。 西田幾多郎の『善の研究』は難しい漢字を使ってはいるけど、
岩波文庫だからルビが振ってあって助かる。
全集だと振ってないんだろうな。 >>149
「世界のほんとうが知りたい。」と君は述べているが、この「世界のほんとうが知りたい」という意味は、
ハイデガ−の述べている「存在」の本質を知りたいということかな? 言葉と概念
馬鹿につき合って現象学ごっこをしてきたわけですが
何でも良いから、誰か一人にでも、何か意味のあることが成立したのなら
ここまでのレスが損したというようなことはないだろう、なんて思いますが
>>75が『超越論的主観性』とかほざいたことで、こんなことになったわけですが
そもそも“超越論的”とはいったい何のことなのか、分かります?
私は長い間、もう何年も、さっぱり分かりませんでした
結局、今でも理解できていないのかもしれません
なぜなら、理解というのは結局、当該の言葉に纏わる諸々を相対的に捉えることで
やっと一段落を見るからです
>「超越論的」の意味に於いては、カントの場合は、ア・プリオリ(先天的)な認識を
>基礎づける概念としてであり、 フッサ−ルの場合は、現象学的還元の後に確保される
>認識の構成の働きのことを言う。 >>78
この説明で分かります? まあ分かると言い切れる人もいるのかな
超越論的(transzendental)は超越(transzendenz)を踏み台にして作られた言葉でしょうけど
そもそも超越という概念が面倒なので、超越論的はさらに面倒なことになります
何事かが“超越している”と言うためには、この“世界”が『“超越”に意味が生じる世界』であることが
既に前提です
ここで言う“世界”とは、素朴な意味の自然的世界ではなく、
右とか左とか、前とか後ろとか、以前とか以後とか、内部とか外部とか
そのような思考が可能であるとするような、通常の懐疑が及ばないぐらいの当たり前が
ひょっとして当たり前では無い、その可能性を考えた上で、しかし当たり前とする、
そのような“世界”です
その世界にあって初めて、超越にも意味が生じるわけです
ですから、「真の世界は経験を超越している」などと無造作に言えるようなことは
本当は当たり前のことではなく、条件付きのこと、なわけです そこで『超越論的』ですが、この言葉の作ったのは一応カントだと
そういうことにして、カントによる超越論的の定義はこうです
『わたしは、対象にではなく、対象を認識する我々の認識の仕方に、この認識の仕方が
アプリオリの可能である限りに於いて一般に関与する一切の認識を超越論的と称する。』
分かります?これで分かったらすごいですわ
一般的な解釈はこうです
我々は幾何学の問題を解くのに先天的(アプリオリ)な能力を使いますが、
その能力は超越論的とは違う
超越論的とは、「我々は幾何学の問題を先天的に解く能力を持つ」という
その事態をも認識することができる、その認識を超越論的と呼びましょう
そういうことなんですが、分かります?
カントは、当たり前の世界を当たり前としている先天的な認識について
それがいかに可能であるかを自分はこれから問題としますよ、と
多分、そのぐらいのことが言いたいのでしょう >>157
キリスト教の、イエス・キリストと信者の関係が『“超越”に意味が生じる世界』ではないかな。
実際に現実世界で起きている事実でしょう。 何を考えるのも自由ですよ
私の話なんて所詮、インスピレーションのネタぐらいにしかならない
しかし、超越について私が言いたいこと、があるとして
それに対する私の説明が足らないのだな
つまりな、我々は個別的な感覚から「外界」のありようを構成する、と
そのような説明は、近代哲学では非常な説得力を持って君臨してきたわけでしょう
だから、「そこにある」と信じている物体は、実際には感覚から直接に知られるわけでは
なくて、感覚を素材として精神によって“作られたもの”ということになって、
それが「思ったままのもの」として存在していると信じることは“超越的である”、と
そういうことになってきたわけです
しかしそもそも、『我々の精神が“世界”を構成している』というのは、
“よくできたお話”に過ぎないわけなんですよ
なぜなら、それを証明しようがないから
証明しようがないのだけれど、「感覚が私の前に現れる」という強力無比な確信があって
そこを覆すようなことは、まずしない、そこが基本
しかし覆してもいい、と私は思う
なぜなら、それは論理を破壊するまでの行為とはならないから
そのように考えるならば、超越というのは、不可知な何事かに対する言及ではなくて
意識がこのようにある限り意味として生成してしまう根拠の無い幽霊のようなもの、
ということになって、超越は超越に意味が成立する世界でしか超越しない
・・・そういうことが言いたかったわけだが
わたしは説明下手だな
結局まだ自分でもよく分かってないのだろうな
ごめんなさいね >>161
「感覚が私の前に現れる」という確信を覆してもいい、と述べているが
その確信を君は、覆すことが出来るのでしょうか。 「このわたし」などというのは、統一感を伴うユニークな感覚にすぎないのですよ
つまり『意識を主観的に見つめる場合に形成される幻影』なのです
ノエマ、ノエシスにしてもそうです
「意識の内部構造を主観的に分析する」という行為は、その行為による結果の普遍性を
保証することも不可能ですし、確認し合うことも不可能です
記述された内容は、頓珍漢な勘違いとなって伝わり、自分勝手な“納得”が拡散するだけとなるわけです
それが証拠に、>>136>>139>>141は、
『現象学的還元によって純粋精神と純粋物質の合一がなされる』とか言ってますよね
この人は「純粋物質」という言葉を使うことが、良い理解であると思っているわけです
哲学的な確信というのは、その程度のことなんですよ >>164
君は「“このわたし”とは、“意識を主観的に見つめる場合に形成される幻影なのです。」と
述べているが、君にとって「主観」、或いは「客観」という概念は、どのようなものと解釈しているのかな? >>164の“主観的(に)”は、日常用語としての
・ 表象・判断が、個々の人間や、人間間の心理的性質に依存しているさま
・ 自分ひとりのものの見方・感じ方によっているさま
ぐらいの意味で良いと思いますよ
哲学用語の『主観/客観』は、またそれとは別の、面倒な概念
それについて何か論じたいことが貴方にあるのならつき合います
まあ多分、またゴミが増えるだけ、ですけど >>164
「主観的意識(このわたし)」を、統一感を伴うユニ−クな“感覚”と述べている。
意識を主観的に見つめる場合に形成される“感覚の幻影”と述べているが、“感覚が幻影”であるということを
証明することが出来るのでしょうか? 「主観的意識」の内容がよく分からない
「このわたし」とは、デカルトの“私”
フッサールに従うなら「純粋精神」に相当するでしょう
貴方はそれを「主観的意識」と呼ぶのですか
問われている内容もよく分からない
まず“感覚の幻影”などといった言葉を私は使っていない
「感覚」について問われているのか、「このわたし」について問われているのか
敢えて貴方の気持ちを忖度して
「感覚は幻影なのか?」ぐらいに問われているのだ勝手に解釈するとして
その場合の問題は大きく二つある
一つは
・感覚は対象の存在について何を知覚できるのか
という意味での感覚の不確かさ
これについては、VRにあれだけの力があることが、事実として確かめられている
我々の感覚は「対象の何事か」として「事物の“射影”」を知覚することによって
ありもしない「事物そのもの」を捉えてしまうが、これは幻影です
もう一つは
・たとえ感覚が対象に一致せずとも“感覚そのもの”は存在している、という確信は正しいのか
という認識の根幹に係わる問題
それについては>>100に一応の説明をしたつもりですが、少しは納得できますか >>100
「世界がどうであれ、“ここにこうやって居るこの私が、今これと共にあること”たとえ神であっても
否定することは出来ない。という絶対の領域があって、それを無条件に信頼することになります。」と、
述べていますが、 この“絶対の領域(=超越論的領域)は、デカルトによれば“疑うことのできない領域”です。
つまり、“不可疑的領域”であるので、「感覚」・「知覚」をも疑うものとしての対象であり、それら一切を“排した(斥けた)”
次元が“絶対の領域”と解釈している。 >>173
そうですよ
小学生でも分かることです
そして、それが幻影だと言っているわけです >>174
日常的意識次元での「感覚」と、方法的懐疑の後の「私(超越論的主観性)」とは次元が異なる概念です。
つまり、日常的意識次元に於ける日常的一般での「感覚」と、方法的懐疑の後の「私(=理性)」は異なる様態としてある。
従って、日常的意識世界の概念としての『感覚』に固執することによって、貴方の解釈は対象化される全てのものに対して、
“感覚の不確かさ”という呪縛から抜け出すことが出来なくなっているだと思います。 >>174
それが幻影だっていうことは、この板じゃいまさら感が強すぎるかな 漢字の意味を問うならば、漢字の起源を知りたまえ、
そして分野ごとにある方言が違う意味をなすことも受け入れて
柔軟な態度で認めろ、
俺正義の思考は哲学ではない >>176
日常的な感覚とは当然違います
ですから“ユニークな感覚”と申し上げている
しかし「感覚」という言葉は不用意なのかもしれない
話の流れからいって「現象」が適当でしょうか
すいません
純粋精神とか超越論的主観性などというものも、所詮は現象
しかも、それが普遍的な現象であることを証明しようがない
個人的個別的に、それぞれ納得してもらう以外、意味が成立しないただの念仏
実際、貴方も現象学がよく分からないでしょう
ふらふらと「・・と解釈している」と頓珍漢な解釈を場当たりに言ってみるだけ
問題は、それが貴方だけではないってことです 任意の単語の漢字の発音が読めても、その観念となる体系を理解することは
できない。
辞書の乗せられた形骸化した説明を暗記しそれが正解だと理解してしまえば
元の意味となる言葉の起源とはまったく別解釈の比喩である用法で
その単語を利用してしまう。
たとえばマナーとルールという英単語があるが、日本語で使うそれは
英語では別の意味なのに解釈する日本語側では完全に同じ意味としか
認知できないあやしい若者が量産されている >>180
マナーは「やり方・方法」でルールは「規則・規定」だから日本語でも全然違うし、そんなことは若者たちも知り切っているよ。 気が向いてから、とか
知り切っている、とか
日本語おかしいだろ
波平かよ honnnou tekini kasikoiwarsi ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています