【論語】孔子の哲学【儒教】 [転載禁止]©2ch.net
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中国の春秋時代の思想家、孔子について語るスレッドです 初発の選択はどうでもいいじゃないかという事
フランス現代哲学だと起源幻想は放棄するという事なるか 何かを選択してそれについてのコミットへの気力があれば自己選択の神話については疑わなくても良い 省みず後悔しないって事?
強くはあっても敵を作りそうだね 神も自己も要せず促しに答えて善を目指すという事ですよ 意欲を持ったら否定しないという程度の事
その意欲が大事だと ジョージマロリーの言葉らしいけども、彼は自己選択かどうかによらず山に登るしそれでいいじゃないかと その意欲は自己に従属しない
意欲について、自己選択を考えてもダメだろう
自己選択じゃない、システムの初産だろうがだからなんだと どうせ山には登る
そういう意欲でないと意欲とは言えない 自己選択を示すためではなくと自己選択でない事を示すのは良いかもしれない
それでも山には登るのだろうけど 自己選択を考えると安易な意欲否定に陥りそうな気がする
それは良くない
意欲は社会システムに還元できないのではないかと 宮崎駿がアニメを作るのを社会システム理論で理解していいのか 宮崎もアニメやアニメ作家としての自分について考えると思うが、でもアニメ作家以外のものになる気はないと思う
その意味で自己選択について疑っていない 自己選択か強いられたものかという問いとは無関係に彼のアニメへの意欲は屹立していて、それを懐疑するのはナンセンスじゃないか 宮崎が自己選択について悩むのは寧ろ自己欺瞞ではないか
そうしても結局答えは出ず宮崎はアニメを作る
欺瞞であってその欺瞞によって意欲をシステムに還元してアニメ作家を止めたら悲劇だろうし、宮崎はそうならず自己選択について考えて挫折するだけでナンセンスだろうけども、その経験は良いかもしれない 自分は何にもコミットしてないので何かやりたい
そこで自己選択かどうかはどうでもいいと思ってしまう コミットした後で自己選択について考えてもコミットはやめない 社会システム理論批判ではなくて、自己選択について考えるのはどうでもいいと思ってしまう
自己選択について考える事が欺瞞的な気がする 自己選択について考えるとシステム理論になるので、言及したがこれは止めたい
自己選択そのものはどうでもいいと思ってしまう 何も選択してコミットした事がないから自分が自己選択について考えるのは止めたい 帰宅した
携帯からの連投は止めたい
書き込みも止めたい 言ってる事は変えるつもりはないが、PCで見ると連投感が酷い
携帯からだとそう感じない 俺は自己選択については興味がないんだと思う
自分が方向性を決定付ける何かを意欲を持って選択したら、自分はその意欲を重視して、その意欲について何らかの結論を出すのは放棄すると思う
意欲は自分からは来ない衝動で自己由来ではないだろうし、意欲はまだなされぬ事への意欲で現状適応的なものではないと思うから既存の社会由来のものでもない
しかしまた選択は自己の意欲であって他人のそれではなく、自分が創造主でない社会的存在である以上社会由来でもある
そこについての結論は出さず、結論付けられないのが意欲であると思い、そういう具体的な意欲を抱けた事に喜びを感じ、その意欲によって行動すると思う ○意欲は外部から襲われる衝動で自己由来ではないだろうし、意欲はまだなされぬ事への意欲で現状適応的なものではないと思うから既存の社会由来のものでもない
しかしまた選択は自己の意欲であって他人のそれではなく、自分が創造主でない社会的存在である以上社会由来でもある 意欲は自分で望んで得られるものではないから自己由来ではないが、自己の自由にならない意欲は現状適応的なものではなく社会の枠にも収まらない
そういう意欲をどちらかにおいて結論付けるのではなく、自分が抱けた事を喜び、衝動によりつつ行動する 意欲はそういう切迫したものだから分析して出来ない事は無いだろうが、
それはそれでどうかと思う ○意欲はそういう切迫したもので、意欲を分析して出来ない事は無いだろうが、 それはそれでどうかと思う 意欲は安易を嫌うだろうからそれに従ってもおかしなことにはならないと思う
意欲は抱いてしまい具体的なものに自己を開くもので、それがあるという事を否定する事はないと思った 野球なら、理論通りに実践できる訳じゃないし、才能が無いとプロになれないから、
儒教も同じように、理論と実践は違い、才能によっても違うもんじゃなかろうか。 意欲というのは、結局好きかどうかという感情からストレートに出てくるものなんではないかな?
とすれば、なんだかんだ理屈つけてもしょうがない気がする。
インタビュとか受けてて一番ムカつくのは、「なぜ好きなんですか?」っていう質問。
感情に理由なんてあるかってんだ。好きだから好きなんだよと言い返したくなる。 俺は、自己選択の不安について考えるのに重要なのは意欲が自他由来どちらによるのかという事だと思うが、
意欲は自分のものであり自分のものでなく他人のものであり他人のものでないというようなもので、意欲は自分のものか他人のものかという事について結論は出ないし、
ある人が具体的な対象について意欲を抱けるという事が恩寵のようなものだし、自己選択の不安についてはどうでもいいと思った。
でも自分の意欲がどういうものかを疑ってもいいけどね。意欲を疑う意欲というものもあるだろうし。 意欲を持ったら具体的に何かをしたほうがいいと思った。
意欲によって具体的な何かをする事以外になにもない。 意欲を疑うにしても意欲があるからで、意欲がなければどうでもよくなってしまう。 また意欲を疑ってもそれが何なのか結論は出ないだろうし、それでもその意欲に従って生きるだろうし、
意欲への疑問は答えも出ず意欲が消えることもなく無な煩悶な気はしその意味で堂でもいいとおもったが、
意欲を疑うのは自然だ必要な気もしないでもない。 才能もないが、他者嫌悪や自己不全感もなく、何かをする意欲がない。
自分は意欲を無理に作らないと何もしない状態。 不全感と言ったが宮台のブログを読んだのではない。
宮台はすごいと思うし、著作やネットの論考はマストで読まれるべき人と思う。 自分が何かをしている人でないと本や論考を主体的に読もうとはしないと思う。
上の様に思いつつ自分は読めていない。 大好きなことがあれば毎日明るく過ごせる。
目的意識を持てば勉強する気にもなる。
「好きこそ物の上手なれ」っていうけど、ホントかもね。
とすれば、まずは、大好きなことを探すのが第一関門なんじゃないか?
「哲学者に最も必要な才能は、驚くことだ」という話があったが、
「おー、なんということだ!?」という脳刺激がやる気をもたらすのでは? それしってどうなるの感が人生のうえにのしかかってきて
コーヒーで気合をいれる日々であるのかね?? とりあえず「実用」とは切り離して、「知」そのものを楽しむ心根が必要なんだろうねえ。
科学史を辿ると、そういう場面がたくさん出てくる。
何でも「役に立つか」で考えるのは、中国思想の影響らしい。
「かも知れない学習」って聞いたことあるでしょ?
せいぜいあの位の余裕が欲しい。 「かも知れない学習」初めて聞きましたね。
ググっても、一つも出てきませんので
お手数ですがもしよろしければお教え願えませんか? 中学や高校で、だんだん難しいこと習うようになると、
ついて来れない生徒が、
「先生、なんでこんなこと知らなければならないのー?何の役に立つの?」
と質問して来ます。
そんなときに使うのが、
「将来役立つかもしれないでしょ?」
これを称して
「かもしれない学習」
およそ教養・雑学というのは、そういうものです。
その意味では、案外本質を突いている言葉だと思いますよ。 自己選択についてはもやもやがあったが、それについて学説に頼らずに続けてみようと思う
人が何かを行うのはほぼ全て成り行きで選択は受動的であるが、
その選択を引き受けて主体的になった所にしか主体性は発生しないのではないかと思った。
だから初発の選択が自己が行ったのか社会が行ったのかは、主体性が現れるのはその後なので、どうでもいいと思った。 選択時における自己があるとしても、それは過去に選択の引き受けから生まれた主体性が形となって、
それが自己に影響を与える自己としてアイデンテティを得てからだろう。
それ以前の初発の時点では、何かに意欲があればやってみて主体性を育てていけばいいとおもう。
その主体性が育ったときに、選択における自己、更にそれに抗う自己というものも現れて来ると思う。 選択における形成されたアイデンテティとしての自己も社会も、選択における自己からは外的なもので自己ではない環境の様なもの。
選択における自己というものがあるとすれば環境と対立する自己だ。
生んだ主体性は外的なものになり、それと社会に対して抗う限りで選択における自己もある。 選択における自己があるとしたらそれは過去の履歴としてある自己と社会という環境に対立する自己でしかないという事。 内面は外面の反映でしかない、という結論に達せられるといいように見えるが、
最後に引っかかっているのは何だろう??? 選択における自己は環境に抗う自己でしかなく抗いつつ引き受け何をなすか、
そこにおいては、環境としての自己も社会認識も豊かな方が良い、そのためにも何かやってみるべきだろうと思う。 才能はないんだが、何かやった気がしない。
消えよう。 コーヒーとやら、スレ汚しやめてくんねえかな
よそ行けよ 反動だとやる気がなくなるし、そうでないと何でもいいじゃないかになる
上のはふりでしかなく、何かやりたい 自己は背景となってる社会とは切り離せないでしょ?
古代中国で育ったら違う価値観抱いてるはず
真理も全く同じ
今、ある考えが真理とされているのはその考えを実行することで我々の社会がよりよくなるから
だから自己が問題になるのは社会と反対の考えを抱くときだけで
別に普通に選択して暮らしていけばいいんじゃない?
社会に反する考えを抱いた時は、自分にとって何が重要なのかと、欲求がどこから来るのかを考えればいい
まったく関係ないけど、儒教知ると中国よりシナって呼んだ方がいいんじゃないかなあと思えてくる 実用性を重視するのは間違いないだろうが、儒教はそこまで軽薄ではないだろうし、中国といってもそこまで単純ではない。 ジョゼフ・ニーダム『中国の科学と文明』(2.3.思想史上下)読んだ
上は頭の中をすっきり整理してくれるみたいだったよ
そっから先は消化するの覚悟しないといけなさそう
しっかし原著は半世紀前ってなると古さが気になるなあ
今でも通用するんだろうけど
というわけで溝口雄三ほか『中国思想史』と湯浅邦弘『概説中国思想史』をパラパラと読んでみる
前者は渡邉義浩『宗教から見る中国古代史』をさらに詳しくして清まで扱ったような、中国史にも強くなれそうな本
哲学板的にはどうなんだろう?
後者もよくできてます。湯浅さんって、中国思想の熊野純彦みたいなイメージ持ってるんだけど
これは博学が活きた形になってると思います
戸川芳郎ほか『儒教史』とアンヌ・チャン『中国思想史』も目を通したけど、この二つは真剣に読まなきゃ無理。結構興味わいてる
個人的には森三樹三郎『中国思想史』が興味あるんだけど近所の図書館どこも置いてないんだよなあ
これ目を通したら読むもの絞って、哲学史のテキスト探しなんてのは終わりにしたい
最後に言いたいこと
ジョゼフ・ニーダム『中国の科学と文明』の思想史編と、浅野裕一『孔子神話』、『儒教―ルサンチマンの宗教』は超おススメ! 君子危うきに近寄らず、という言葉の意味がやっとわかった。 「日々新た」というのは、目新しいことを求めろというのでなく、
毎日なにか新しいことが見つかるというのが健全だという事だとわかった。 >>169
儒教ルサンチマンを読んでオススメにあげちゃうってどんな理性してんの?
あんな論理性のないおっさんの文章を疑いもなく信じちゃうとか全く懐疑精神持ってないだろ 中国では儒教が金権腐敗に対する民間のコミュニティーの原理として
再浮上しているようです。世界の宗教のあるべき姿のさきがけと
捉えられるもののような気がします。 ルサンチマンは視点としては斬新性がなくはないが、それ自体がルサンチマンな書きっぷりだからな。極論の域で全くオススメできない
同じ東北大でも金谷先生とは大違いだわ
最近なら土屋健二郎の論語集注が近世儒学解説の白眉
ただし儒学の基礎教養は前提だが 洗脳される為に自分から積極的に自己暗示をかけていくわけですか
なんとも間抜けな話ですねw そもそも儒教って権力や財力への執着だろ?
金権腐敗の発端じゃねーか >>177
アホすぎて誰からも相手してもらえないぞ >>177
今の世の中ではこういうふうに誤解され方をしているのでは
ブラック企業が掲げるイメージ的な
実際は
仁=思いやり
義=正義
勇=勇気
などを説くものだと受け止めているが
ワタミとか稲盛和夫氏とかが儒教的精神を会社への滅私奉公と混同させて
思想に盛り込んでいる印象 同じことだろ。良いことだから邪悪になる。その逆もしかり。
馬鹿なの?
本当はいいものだって弁護することこそ間抜けなものもないんだが。
死ねば? せめて儒教の中には滅私奉公思想はないとか主人は足蹴にしてよいとか、
論じて見ろよ。 「ダメな主人ならさっさと去ること」ってあちこちに書いてあるけど
まあ儒教批判者ってたいてい文盲だから、書いてあることが読めないんだろうね 「尽く書を信ずれば則ち書無きに如かず」(孟子)
論語を鵜呑みにすることなく、自己研鑚のために善用していけば良いだけのことではないでしょうか?
教養をいかに活用していくか、それも自分自身の才覚を問われるところでしょう
知識とは悪用も出来れば善用も出来るはずでしょう
だからこそ知識に加え「見識」「良識」の研鑚が必要だと思うのです いつもはROM専門だけど、誘われて。
孟子曰、「盡信《書》,則不如無《書》。吾於《武成》,取二三策而已矣。仁人無敵於天下。以至仁伐至不仁,而何其血之流杵也?」
抑々、聖典である書経の意味だった筈なのに、どうして一般の書の意に転じてしまったんだろう。
それから、書経に血みどろの流血戦が描かれてるなら、それを信じるのが普通だろうに、
武王は仁者だから天下無敵なんだと言い張って、捻くれて信じないのは彼を特徴づけてる。
聖典である書経を疑うのはいいとしても、検証してる訳じゃないんだから、
根拠なく、仁者なんだと言い張り、書経なんぞたいして信じられないよと言ってみても、
武王はお前の思ってる様な奴じゃないよと返されるのがおちなんじゃないのと思うけどね。
そして孔子が書経を編纂したと信じられていたんだったなら、
それを否定してるのも、特徴を上塗りしている。
まあそれだけ、現代は無論、当時から、
中国では書物に嘘がまかり通り、警戒しないといけないと思ってたのかもしれないけどね。
そんなせいで我が強く、勝手に信じてるっていうのはわからんでもないけど、
現代にはそう言う風に伝わらないで、美化されてるっていうのは面白いね。
(我が強く、勝手に信じてる感じは現代の中国人にきちんと引き継がれてる感じもするが。)
ところで、儒教は俗っぽかったのに、時代が下るのに従い、段々格好つけて、格式ばってくる。
私の儒教像は格式ばってる方だけどね。科挙以降、宋学以降の。
孔子、孟子をV1.X。漢代以降をV2.X。宋学をV3.Xみたいに。
だから、V1.Xで滅私奉公がなくても違和感はないし、無条件に悪いものだとも思ってない。 >>185
滅私奉公が無条件に悪いという訳でないのか、
滅私奉公はそもそもの儒教ではないという考えなのか、
読み取れなかった。どっちか教えてくれ。すまん。 いや、そもそもの儒教の伝統の大部分を否定しているのか。
分かりにくいな。 現状肯定、秩序維持重視で社会を阻害してきた、
下の者に自己犠牲を隸従を求め、
多くの犠牲、停滞をもたらしたのは事実だし、否定できない。
そういう意味では糞思想なのは否定しようのない真実。
その上で多少弁解したって、大筋は変わらない。
利用されただけで本質はそこにないと言い訳しても、
そう利用されるだけの原因、要素があるわけで。
元々駄目な物を修理したって、駄目な物は駄目。
この真実から目を逸らすなよ。 >>188
そりゃお前みたいにイジケていたい奴にとっては無用の長物になるに決まってんだろ
お前とは無縁のものなんだから黙って一人で腐っててくれよ >>189
礼を失してはいけないよ
そんなときは反省して相手に云う事があるでしょう?
良い子ならわかるよね これこそ、儒教が使えない理由。
なんで、礼を失してはいけないのかも分からない。
どうにでも語れてしまう。つまり、詐られ、欺かれるって事だ。 じゃあ俺の理解で平たく言うよ
バカにされた物言いをされたくないから自分からまず礼儀を持って接する
目上(力を持った人)の人には用心してより丁寧に礼を尽くす
自分の味方に出来れば得をして敵に回せば痛い目を見るから >>193
いや、知ってるけど
いちおう訊いてみたいじゃん
俺は孔先生の教え>>194に同意
論語にもそう書いてあるし
あなたはなんでだと思う? 儒教みたいな不道徳な退廃思想を信奉する儒教オタクは全員犯罪者予備軍の社会不適合者 いつのまにか礼は処世術になってしまったんだな。小人の礼という所か。
あれは古代の、君子の学問。君子のいない現代では弊害しかないだろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています