スピノザ [転載禁止]©2ch.net
https://www.msz.co.jp/book/detail/08348.html 著者 スピノザ 訳者 佐藤一郎 「共同の暮しの中でよく出遭うものがみなむなしく、くだらないということを経験から教わったのち、 失われるのではないかと心配していたもの、招くことを恐れていたものがどれも、それによって気持が揺すぶられたからということがなければ、 それそのものには善いところも悪いところもそなわらないことを見たとき、わたしはやっとたずねようと心を定めた。 真の善でみずからを分ちあずからせるような或るものが与えられるかどうか。 ほかのいっさいを投げ棄てて、独りそれだけから気持が触発されるようなもの、 それを見出して獲得すると、持続する最高の喜びが永遠にわたって享受されるような或るものが与えられるかどうかをたずねよう、と。」(「知性改善論」) 「歴史上、最も過激な思想家」という、スピノザへの評価は、普通の日本人にはまずピンとこないだろう。 スピノザの汎神論は、八百万の神の文化を持つ日本人にとっては、一神教よりも ずっと親しみやすい。過激どころか、むしろ穏健な思想に思われる。 ところが、キリスト教の教義とは真っ向から対立する。 キリスト教では「神に創造された被造物」とされる、この世の諸存在を「神」だという思想。 17世紀といえば、まだまだ異端者が火あぶりにされていた時代。 これほどキリスト教の教義をバッサリと否定する思想を唱えた、スピノザは驚異。 当然のごとく迫害されたため、「言論の自由」を唱えた。 汎神論があまりにも有名になりすぎたために隠れているが、史上初めて「言論の自由」を唱えた、 自由主義者としても重要。 >>1 宗教と無縁な人生を送ってきた浅田彰に、スピノザの過激さを実感できるはずがない。 だからどうだってわけじゃないんだが、いい悪いは別にして、無理だ。 迫害されたといっても、スピノザが隠遁して逃げ回っていた最大の原因は、 カトリック教会ではなく、彼を破門した同胞のユダヤ教会だった。 カトリック教会が恐るべき敵なのは明らかだったが、それ以前に、ユダヤ教会が目前の敵だった。 そうした逃亡の日々の中で精神的にも追いやられハゲ散らかしたのだった。 ユダヤ教徒に刺し殺されそうになったと伝記で読んだがどこまで本当なのだろう? 小学校の頃ミサを1〜2回か経験したことはあった。けれども、中学受験では無宗教の学校を選んだ。 浅田彰みたいに中1から高3まで6年間もカソリック系の学校に通う気にはとてもならなかったわ。 >浅田彰みたいに中1から高3まで6年間もカソリック系の学校に通う気にはとてもならなかったわ。 それは、単に京都で一番の名門校に通ってただけだろ(笑) 以下、スピノザ『神学・政治論』 (光文社古典新訳文庫) より Kindle: http://www.amazon.co.jp/dp/B00PRK11PG iBooks : https://itunes.apple.com/jp/book/shen-xue-zheng-zhi-lun-shang/id942883345?mt=11 《…キリスト教が禁じられている国に暮らす人は、こうした儀礼を行わないよう義務付 けられる。それでも彼らは幸福に生きられるのだ。この例は日本という王国に見出せる*。》 (上巻第五章) *極東におけるオランダの交易相手として、スピノザは日本という非キリスト教国の存在 だけでなく、日本でのオランダ商人たちの暮らしぶりについてもある程度のことを知って いたらしい。宗教儀礼にこだわらないことで開かれる異教徒・異教国との交流可能性を 説明する好例として、スピノザは本書後半でもう一度日本のことを引き合いに出している。 《もし、至高の支配権を手にしているのが異教徒たちだったら、次の二通りの考えがあり うる。…たとえばキリスト教国を支配している人たちは、自国の安全を高めるためなら、 トルコ人などの異教徒たちと同盟を結ぶことをためらわない。また現地滞在に赴く自国民 たちには命令を出し、人事であれ神事であれ、両国間ではっきり取り決めているか、現地 政府がはっきり認めている以上の自由を求めないよう促しているのである。これは前に 述べておいた、オランダ人と日本人の取り結んだ協定からはっきり分かる。》 (下巻第十六章二十二節) 倍根(ベーコン) 度加多(デカルト) 斯比諾薩(スピノザ) 洛克(ロツク) 来布尼(ライプニツツ) 伯科里(ベルキユリ) 富謨(フユーム) 里度(リード) 韓図(カント) 非布底(フイフテー) 舎倫(シエルリング) 歇傑而(ヘーゲル) 波密頓(ハミルトン) 空山(クーデン) 坤図(コント) 弥爾(ミル) 斯賓撒(スペンセル) 愛阿尼(アイオニツク) 以太利(イタリツク) 英利亜底(エリヤチツク) 詭弁(ソフイズム) 瑣克剌底(ソクラテス) 弗拉的(プラトー) 亜里斯多徳(アリストートル) 土多亜(スター) 英彼古羅(エピキユラス) とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法 役に立つかもしれません グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』 6GKRI ウサイン・ボルトはスピノチスト https://twitter.com/arapanman/status/963695738394886144 ボルトが桐生選手にしたアドバイスを出場選手全てに贈りたい。「いいか桐生 自分のために走れ それが国のためになればいい まずは“自分のために走る” そして“楽しむ” それが日本のためになるんだ 決して国のためだけに走っては だめだ 楽しもう スポーツは楽しむものだ」 よくスピノジストとかいうけど○○イズムってスピノザ的からいちばん遠い 汎神論者を上手くカタカナで言った言葉ってないのか? パンテイストでぐぐったらパンについての記事しかヒットしなかった スピノザの学説に関する書簡 Friedrich Heinrich Jacobi (原著), F.H. ヤコービ (著), 田中 光 (翻訳) 出版社: 知泉書館 (2018/4/15) 本書は1785年に刊行され、ヘーゲルなどに大きな影響を与え、 カント、ゲーテをはじめドイツ思想界を巻き込んだ「汎神論論争(スピノザ論争)」発端の書である。 巻末には訳者によるヤコービの紹介と年譜、『スピノザ書簡』各版の異同情報を付す。 きょう岩波の短論文をブックオフでみつけて300円で買った そのまま本屋に行ったら短論文と知性改善論の新訳が出てた 7000円もするのだった スピノザの定理は面白いよな。どんな世界でそんなことが起こっているのか 想像つかないし、まあ尋常な哲学ではないさ。ライプニッツの比ではない。 あちこちで新訳全集のうわさがあると聞いて久しいが 専門家ならラテン語で読むんだろ 何万にもなるだろうし売れそうもないから頓挫したかな 岩波文庫が畠中訳全巻を復刊してほしい 新全集頓挫の話はみすずから出た知性改善論の新訳のあとがきに書いてあった。 みすずの知性改善論は全集として出すはずのものだったとのこと。 うえに佐藤訳の例があったけど畠中訳より読みづらいね 精確さではなく日本語としての話だけど 神学政治論の新訳は読みやすい 岩波は書簡集だけ持ってないんだよなあ 高くても良いから、エチカ単体をハードカバー愛蔵版とかで出して欲しいな。 今普通に買えるものは岩波の文庫サイズと中公の新書サイズしか出ていないし。 ハードカバー本なんか本棚に飾って来客にさり気なく知的な風を装ったり 悦に浸るための価値しか無い ハードカバーの方が所有しているという喜びを感じることができるんだよ。 余白にも書き込みやしやすいし。 ワイド版の岩波文庫を買って雑誌製本してもらうという手はある ゲプハルト版ラテン語原文との対訳仕様なら今出しても価値はありそうだな 競馬でも当たったら買っちゃうんじゃないかな ゲルーの注釈本とゲプハルト版の翻訳、今からでもやってくれい 新訳よりめぼしい解説書の翻訳のほうがありがたいかもね 公理7でもう躓いちゃったよ たぶん向いてないし俺の頭も悪いんだろうけど わかりたいんだよなあエチカ 第2部定理8の矩形の説明は佐藤訳の訳注が詳しかった気がする 神学なんとかってのが本棚にあるけど、ラテン語勉強していないから当分、読む予定はない。 神学政治論のラテン語の原書があるよって話か?いいな みすず書房で出している、佐藤訳の『エチカ抄』は、他の訳者との違いを際立てようとするあまり、 全体的に妙な当て字を使っているから読みづらいのだ。 いっそ可能な限り言語的曖昧性を排して すべての連関を図解で示してもらいたい 神にも人間にも自由意志はなく、一切の事物は必然であるなんて、 スピノザ哲学のどこに魅力があるのかわからねえ。 スピノザ哲学の解説書をやっと見つけた暇な時間に 酒をやりながら開いたが、酒がまわっているとよくわからんな。 3:56備考 http://nam21.sak ura.ne.jp/spinoza/#note3p56n 備考 きわめて多様であるべき感情の種類(前定理により)の中でも特に著しい のは美味欲、飲酒欲、情欲、食欲および名誉欲である。これらは愛もしくは欲望の 感情の本性をその関係する対象によって説明する概念にほかならない。なぜなら、 我々は美味欲、飲酒欲、情欲、食欲および名誉欲を美食、飲酒、性交、富および 名誉への過度の愛もしくは欲望としか解しないからである。なおこれらの感情は、 単にその関係する対象のみによって相互に区別される限り、反対感情を有しない。 http://nam21.sak ura.ne.jp/spinoza/#note3k48 …これらの感情に対置されうるものは、我々がのちに述べるであろう寛仁と勇気のみ である。 定理は面白いけど、情報は伝わるものの、文、読書 行動 として成り立つにはまだ時間がかかるだろう。情報の受け手の対応策も大事なら 書き手の送り手への配慮も賭けてはならないと思う。天才的というより 独立している、書簡だと思う。 心に響く。頭で理解していなくても、理屈を捏ねて否定しようとしても、 既に伝わってしまっている。 心理学や病跡学でIQ180と推定されているゲーテが、 スピノザの「没我主義の輝き」にひきつけられたと言って (『詩と真実』)、 スピノザを研究していた時期があるくらいだから、 スピノザってのは凄いんだろうな ゲーテのスピノザ論 https://www.soka.ac.jp/files/ja/20170428_224130.pdf >>182 お前は真実性よりも魅力のあるなしで哲学に関心をもつのか スピノザを推す人たちが豪華すぎて無視できない 万が一わかったらそんな偉人たちと肩を並べた気になれるのだとしたら そんな幻想抱いてもいいよねなんせスピノザの翻訳薄いし安いし >>1 浅田彰って修士だったんだな 博士は持っていない まあ論文すらまともに書いていないんだから 彼の学者としての限界は意外と早くて 助手になってからすぐだったんだだろう 書けないんじゃどうにもならない スピノザ実践の哲学でドゥルーズがヘンリー・ミラーを引用してるけど そのミラーの出典分かるって方いらっしゃいませんか? 大江柄谷全対話より 2018[1995] 大江 … 自然と、自然の中に含まれるすべてのもの、僕のようなもののサブスタンスも実在 も、全部神という大きい実在のうちにあるもので、自然イコール神であると同時に 神は実在全体に対する認識を持っていて、その認識の一部として僕の認識もあると考 えれば、むしろ歴史の対極にあるものだと思います。 ところが、そのような僕たちの実在、神の認識の中で動いて生きている僕たちの実 在が、じつは歴史を構成している。そうすると、あなたがおっしゃったマルキシズム も、あるいはポスト構造主義も、スピノザの考え方の展開の中にある。その意味で、 僕は決して矛盾しないと思うんです。 それをはっきり具体的に示していた人はドゥルーズです。マルクス主義との関係、 あるいはポスト構造主義との関係においてスピノザを考えれば、ドゥルーズはこれか らも非常に意味のある人だろうと思います。 118頁 柄谷 …スピノザは人格神を想像物と見なしています。 しかし、神 世界 自然=唯一実体という考えの中には、ヘブライ的なものが入って いると思います。それが伝統的な形而上学、あるいはデカルトの実体論とは異質な点 です。スピノザが永遠と呼ぶのは、この歴史的世界を越えるものではなくて、この歴 史的世界そのものだと思うんです。 一見すると、それは矛盾するようですが、このような矛盾は、スピノザが自由意思 を否定したことについてもいえます。つまり、それなら、彼の行動は、自由な決断で はなかったのか、というような。もちろん、彼の決断は自由になされています。しか し、それは彼がこの世界を越えてあることではないし、さまざまな諸原因によってい るわけです。すべてが自然的原因によって決定されているから自由はない。しかし、 自由はある。この問題を徹底的に考えたのはカントだと思うんです。いわゆる第三ア ンチノミー(二律背反)というのがそうですが、彼は、これは第一 ・第二のアンチノ ミーと違って、矛盾しないと考えました。彼は、この二つの次元が違うというふうに 考えたと思うんです。片一方から見れば、すべて自然に決定されているともいえる。 しかし、片一方から見れば自由であるともいえる。永遠と歴史にかんしても同じこと がいえると思います。 120頁 1996 ---------------------------------------------------------------------------------------- 神は一切である 一切の事物は神により、必然的に生ぜしめられたものであり、一として偶然のものは存在しない。 神即自然 | スピノザ https://hitopedia.net/%E7%A5%9E%E5%8D%B3%E8%87%AA%E7%84%B6/ ----------------------------------------------------------------------------------------- 「一切の事物は必然である」って、『エチカ』のどこに書いてあるのか教えてください とても気になる部分です 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 第1部 公理三 与えられた一定の原因から必然的にある結果が生ずる。これに反して なんら一定の原因が与えられなければ結果の生ずることは不可能である。 >>195 195番さんの書き込みは、 「一切の事物は必然である」、 一切の事物は神により、必然的に生ぜしめられたものであり、一として偶然のものは存在し ないという事とは、少し意味が違うと思うんですが・・・ 「一切の事物は必然である」って、『エチカ』のどこに書いてあるんでしょうか? 「人間は自由の刑に処せられている」と言ったサルトルだったら、 「一切の事物は必然である」と断定したスピノザを、どのように否定するだろうか。 スピノザの、 一切の事物は神により、必然的に生ぜしめられたものであり、一として偶然のものは存在し ない。 事物の必然性の背後には神がいる。神の本性が自然のあり方を決定しているので、事物は いまあるように存在するほかない。全ては必然的なものとして、神に決定されている。 といったスピノザの定説の根本的な誤りに、サルトルは明確に言及するかもしれない。 スピノザでは必然こそが自由なんだよ いやまじでそういってるらしいんだよ 第2部 定理49備考 …三角形の本質からその三つの角の和が二直角に等しいことが生ずるのと同一の 必然性をもって、一切のことは神の永遠なる決定から生ずるからである。 ちなみにスピノザのいう神とはいわゆ神さまとは違うからなる そもそも定義で自由という言葉の使い方を普通とは変えている 『スピノザの世界』のキャッチコピーによると 「神は制作者ではない。神にも人間にも自由な意志は存在しない。」 神に決定されているんじゃなくて、神「も」決定されているって感じだ 現代の科学的決定論から見たら 当たり前のことを言っているだけのように見える いや本当にとりあえずエチカを翻訳で読みなさいよ 岩波でも中公でもいいからさ エチカくらい読んでからといったら誰もいなくなっちゃった 最初から1ページずつ読んでいくもんじゃないね。 まず定義と公理と定理だけを読んで用語と流れを掴んでから 証明やら系やら説明やらをクリアしていく。 といってもとりあえず第一部は受け入れないと始まらないっていうね 「神」=自然、宇宙 と我流で勝手に読み換えたら、結構納得できました。>エチカ ただそれだと啓示宗教との戦いが意味不明になるから、 神学・政治論も読むべき エチカの属性とその変様に関するお話を読めば その読み替えで大丈夫なときと大丈夫ではない場合があることがわかるはず 排中律博士bot@dr_haichu_bot 2 時間2 時間前 コンタクトは適当に人と会う時に使う場合とそうでない場合があるぞい 排中律博士bot@dr_haichu_bot 23時間23時間前 でもやっぱり、ここで捕まるわけにはいく場合といかない場合があるぞい 中律博士bot@dr_haichu_bot 8月28日 人生は一箱のマッチに似る場合とそうでない場合があるぞい >>219 フフフ実は私が排中律博士だったのだ! 一応言っておくとさっきの書き込みで言いたかったのは 延長と思惟との違いに注意しようねってことね まあさらに実体について考えるときはそれ以上に注意しようね マジなのか 排中律博士の中の人がスピノジアンだったと…? 「神」=自然、宇宙 と読み換えたらまあ納得できましたね、 私の場合は。 それは独自の読み方でもなんでもない、汎神論ってのはそのことを指してるのだから スピノザは文学じゃねえんだよ 文字通りに読まなきゃはじまらん >>4 天才がどうのというより、「浅田彰でもよくわからないほど、謎の哲学者」ってのがミソでしょうな 実際のところ、デカルトやロックはよく分かるんだが、スピノザはなんとなく謎めいている 一般教養レベルの王道哲学史ではけっして重要視されていないこの変態思想に いまどきの現実社会で生活する日本人すなわちあなたたちが 興味を持つにいたる その経緯のほうが興味深い 定理なんて面白いけど実現性は薄いかもね。ほとんどの人にとって。 ただの決定論だからこの上なく現代的な思想というべきだろう >>230 まあ、汎神論には、欧米人より日本人のほうがかえってナジミ深いとは、よく言われるけどな ただし、「八百万の神」という日本人のアミニズム信仰は、スピノザにしてみれば迷信・俗信そのものなんだが 「神より大いなるものは無い」。これが大前提。 もしも、世界のどこかに、神でないものがあるとする。 そうすると、「世界 (= 神+神でないもの) > 神」ということになり、この前提と矛盾する。 このため、必然的に唯神論とならざるを得ない。 >>213 神を「自然、宇宙」と読み替えたのでは、作者の意図が伝わらなくなる 作者は、自然や宇宙を神と言っているわけではない あえて、「神の属性」、「神の様態」と言っている これを一種の自然崇拝みたいなものだと思ったら、かなりの誤読になる恐れがある 自然の背後に人格的な存在があってそれを崇拝していると考えたら 誤読になるけど、自然の背後には自然しかなくそれを崇拝していると 考えたら間違えではないのでは 崇拝もなにもおれもあんたも神の変状っていってるんだよ 中世イスラム哲学では、宗教の人格神を「アッラー」、哲学の抽象的な神を「ハック」と呼び、この2つを明確に区別していた。 近代ヨーロッパの哲学も、これを継承している。 デカルトにとっても、カントやヘーゲルにとっても、神とは、「ハック」の方を意味する。 スピノザは、これを誰よりも明確に表面化させたにすぎない。 スピノザは、哲学史の系譜から逸脱する孤高の異端児みたいに思われることが多いけど、実際にはそうでもない。 基本的には、デカルトの物理的な世界観を継承している。 それから、ホッブズ的な、リアリストの政治思想家という側面が、勝るとも劣らないほど重要だ。 思想史的には、「言論の自由」を初めて唱えた人物という面が、それ以上に重要だろう。 汎神論という面が、ちょっと有名になりすぎた。 これのせいで、なんだか、古代ローマの神秘思想家みたいに見えてきてしまった。 実際には、そうではない。 先行する英仏の物理的な世界観や、リアリスト的な政治思想を受け継ぎ、後のカントやヘーゲルへとつなげた人。 まあ、現代においては 自分の好き勝手に読めば良いと思いますよ 「誰も」それで迷惑を被ることは無いし あと、読まないよりマシ、という別の観点から言っても 信仰 結婚 改宗 だって 難しいテーマだよ。精霊八百万は現実であり、スピノザの神も然り。 5ちゃんねるに書き込まれる解釈に従うなら、神などという表現を使う必要が微塵もない 実は神って言わなくていいからな 実体とかポチとかタマでもいい 第一部のように定義しさえすればいい しかしそうするとポチやタマを犬や猫を指すときに使う場合には注意書きが必要になる まあ神や実体という語によって当時考えられていたものがスピノザが定義したものに一番近かったんだろう スピノザは破門されたとかってことになってるけど、実はそんな大げさ なことではなくて、当時の状況はもっと複雑だったって話をしてたけど、 なんだかよく覚えていないな。どっちにしろ、そんなドラマチックな 話ではなかったらしいということだけ憶えている。 スピノザにとって、人間は感情に支配される卑小な生物。 そんなつまらない存在である人間が集まった社会で、いかなる政治が行われるべきか。 そこから出発しているから、徹底したリアリストになる。 >>250 スピノザを破門したのは、キリスト教会ならともかく、ユダヤ教会だからな。 ユダヤの狂信者に刺されかけた(あるいは刺された?)っていうエピソードは伝説的に残ってる 穴の空いたマントを教訓として残してたとかなんとか 実際、書簡集でも自分の哲学を語る相手は選んでた印象を受ける もっとも相手のほうがまったく理解出来なくてやりとりをやめちゃったり 科学の話だけするようになったり カトリック教会の宗教体験にやられちゃったかつての友人からボロクソに書かれた手紙に悲しそうに返信してたり かなり大変だった模様 人間も先輩に恵まれればチャンスはあるよな。ルイ サイファー バランス型がおススメ。 >>249 神以外のことを考えていたらああいうものを思いついたんじゃなくて あくまで絶対的な神というものを考え抜いたらああいうものになって しまったんだろう >>256 そのほうが正しいだろうね >まあ神や実体という語によって当時考えられていたものがスピノザが定義したものに一番近かったんだろう この一文は忘れてくれ スピノザより前のデカルトでさえ、「フランスでは無神論がはびこっています」という書簡を残しているくらいなんだから、スピノザの時代のオランダも、無神論者は珍しくなかっただろう。 デカルトは、無神論の流行に危機感を抱き、「神の存在を証明して無神論者に反論する」という目的で哲学を始めた。 その哲学の継承者であるスピノザはどうだったか? 彼の哲学の目的は『知性改善論』のはじめに書かれているね 「人間としての最高完全性へ到達すること」 「精神と全自然との合一性の認識」を為すこと、あるいはそれに向かうことが彼にとっての喜びだったらしい 神を信じないのではなく神が知覚できないのが無神論だよ。 左が身体、右が精神 スピノザの哲学はこうした対義語を有機的に構成するためのレッスン スピノザ『エチカ』 1実体 /\ /無限\ /_無限定)\ ________/_2a属性__\________ \知 抑制 / 小←/\→大 完全性 至福/ \ 悪/___2b様態\____\善 / \受動/\悲しみ_/\_喜び /\能動/ \/ 憎しみ \努力/ 愛/ \/ /\対象/ /_\/_\ \認識/\ 所産的自然/物体__欲望__観念\/ \ / 延長\ 身体3感情/精神 /思惟 \能産的 神/______\___\/_第三種認識____\自然 \ 4理性 / \ / \_徳./ \/ 5自由 ダビデの星ではなくバラの花だと思ってほしいcaute! http://nam21.sa kura.ne.jp/spinoza/caute.jpg >>261 あれほど、読むのに根気が要る本も珍しいな 最高で完全なるものが間違いなく存在していて神はそれに他ならず 万物はそれによって産み出された被造物であり 創造は聖書に記述された神話的時代、あるいは現世の時間の外もしくはそのはじまりにのみ行われた 現世には創造的進歩はない 言い換えれば自然法則は永遠不変のもので現世において新しく生じることはない 人間本性も創造されたときから変化していない これらすべてを信じている人はそうはいないだろう 神は世界全体のことであり、世界に存在しているものすべてが神の一部です。 私たちが目にしたり感じたりする事の出来る実体のあるものは全て神の一部ということです。 つまり、人間も神の一部ということになります。 それは、人間の行動すべても神の一部がしているということであり、例えば罪を犯すことも神の意志ということになります。 言い換えると人間の自由意志はないということもできます。 今日されたレス全体的にわりと面白いじゃん これとか>>269 >>273 >人間の行動すべても神の一部がしているということであり、例えば罪を犯すことも神の意 志ということになります 広島と長崎の原爆投下による無残な大量虐殺、ナチスのアウシュビッツ収容所でのユダ ヤ人の大量虐殺、第一次世界大戦と第二次世界大戦での大規模戦争と人間の大量殺戮、 そして日常的な世界でのおびただしい凶悪殺人事件―これらすべては、神による行為。つ まりスピノザの神は、人間を大量殺戮することを頻繁に、日常的に行う「大量殺戮をするこ ともある神」であるということになる(「戦争を頻繁にする神」でもある)。 「大量殺戮をすることもある神」が善いか悪いかは、人間にとって「悪い」に決まっている。 しかし、それでもスピノザの神は、哲学的に信ずるに値する神だと思う。 「天の父は、悪しき者の上にも善き者の上にも太陽を昇らせ、 正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」ということ 親鸞と親和性高そうな思想だなぁ スピノザと親鸞の対話篇よさそうだ どちらも他人という存在にきわめて深い理解があるもの デカルトは、機械論的な世界観や人間観を確立した科学的合理主義者だが、 「瞑想中の幻夢」を思想の原点とする、いたってマジメなスピリチュアリストでもあった デカルトを「科学的合理主義の祖」として信奉する人々には、デカルト本人が言及している神秘主義者としての側面を、「後世の偽作」とする向きもある スピノザの汎神論は、一種の自然哲学 神というから現代人には宗教っぽく見えるが、中身は機械論的な物理世界観だ スピノザの決定論も、宗教っぽく聞こえるのだが、実際には、人間を身体という機械として捉える思想 それでいて、「宇宙との合一」というような、宗教的境地を目標としている スピノザは宗教の洞察を決して軽んじてはいなかった 確かに迷信や教会の組織的腐敗等に関しては抵抗していた しかしだからといって、全面的に宗教から身を引いたわけではなく、理性をもって自然すなわち神と接した 単なる部分の集積によっては汲み尽くされない全体(性)について考察を続けた デカルトの神の存在証明 まず、否定できないものが存在し、精神がそれであるということから精神が実体であると証明する。次に、その精神についての疑問が出てくる。精神が完全で、他の何者にもよらないということは、経験上いえないから。精神が何を原因としているかが問われることに。 しかし、その原因として延長をあげることはできない。精神についての考察で、既に否定しているから。 そこで、別のものとして原因が措定されなくてはならないということになる。これが神の存在証明 スピノザによる批判 実体であると一度精神を認めながら、そこに不完全性を認めてその上位の実体を想定したのが誤りである、というのがスピノザの批判。 そこで、デカルトの証明したことから精神が実体であることをのぞくことになる。つまり、実体が一つであって全ては必然だと言うこと。今まで、神だとか精神だとか言う名前で呼んで感銘を受けていたものは、全て自然の実体性の一部を見て感じていたものにすぎないということ。 実体の本質の分析と、それが唯一であることの証明の二段階よりなる。 自然の必然性。現に産出されているのとは異なった秩序があり得ないことの証明。これが基礎になっている。 これは、それより上位のもの、それを変化させうるものがあり得ないという仕方で証明される。神の存在証明。また、同時に神に付されていた諸々の性質を否定することで。 自然の必然性を否定するものが無くなった以上、その一部でしかない人間、意識も同様に考察されることになる。それを否定する根拠が存在しないから。 逆に言えば、スピノザの特色は証明の順序を確定したことにある。まず最初に考察されなければならないのは、自然の必然性を否定するとしてそれはどういう可能性によるのか。それを一々検討して、それが不可能であることを示した。 世界が必然であるかどうかをまず議論して、その後で人間が自由意志を持つかどうかを考えよう、という順序。 そして、これは複数の観点で述べられている。 人間は実体ではない 存在するのは観念のみであり、それとは別の意志など存在しない。すべて観念により決定する 精神は身体を動かさない。その原因ではない。 神を主語ー述語の言語構造で処理すると神は唯一の根本的主語にしかならない そのような根本的主語に実体という語を与えたのなら、他の一切のものはその述語にしかならない だから、それら他の一切のものに対しては、神(実体)という主語との関係において、それらにふさわしい述語としての名を与えなければならない デカルトはこのような構造で神を処理しなかったが スピノザは徹底的にこの構造で処理した ちょっと煩わしい程度の害悪を徹底的に未然に防ごうとすべきではない。 あからさまに悪意のある相手さえ、その行為が自分に大きな被害をもたらさない 限りは、自分の役に立っていると認識することが重要。 小さな害悪というのは、そのものがいわば日常的な予防接種のようなもの として作用する。出した資源ゴミを勝手に持ち去られるのは煩わしいし、 きちんと処理が行われなければ迷惑だ。しかし、そのような小さな窃盗 行為を経験することで、油断をしていれば、いつでも家宅侵入による窃盗 などの被害に遭う可能性が意識されて、警戒する。それでいいのだ。 日常的に小さな害悪すら生じないことが当たり前になって、警戒しなくなり、 ある日、突然、取り返しのつかない大きな被害に遭うよりよほどいい。 こんな所で糞の役にも立たない長文を書き 他人様に何かを伝達できたと悦に入っているであろう者の人生の敗残は 少し興味深い スピノザを読んでいるとそういうことを書き込むのに躊躇するはずなんだけど スピノザを素通りできない人たちが案外多いことに関心があります 結局のところ、「不完全な人間が、どうやって完全になるか?」というのが、スピノザ哲学 スピノザ哲学では「完全」なのは神だけなのでは。 人間はただ「改善」ができるだけであって。 自分の不完全さを自覚しない人にはまるで関係がない、存在しないのと同じだから 重ねて不完全さを自覚してなおかつ生きようとする人の中でも、二重にその関係性が重なってくる ヘーゲルに対するキルケゴールの関わり方は、見逃せない意味がある ヘーゲルが重要な人間だってことと、キルケゴールが重要な人間だってことをどちらも身に染みて実感した上で二つの立場を枠外から捉え直した時、なおどの立場に付くか何をすべきかそこに踏みとどまる 自分には、同じ考え方を取ったうえでヘーゲルの側についたバタイユが先行する人間としてこの世にいてくれたことに感謝してる うんまあ ちょっと前に引用されているように「人間としての最高完全性」なんだけどね その過程はスピノザより後になって、個人の極限の主張という形となって個別の事例で現れてくるという話だ 例え自分の中や世間で反発しあうもの同士に観念的にバランスを整えられたとしても、自分自身だけでは別の価値観の極点には関与できない だから他人が限界まで推し進めた主張と、その敵対関係にあるまた限界の姿をした主張とに、身を投げ込む必要がある 平均台の上を渡りきることと、谷の上で綱渡りをすることは違うことだと思う 完全になったら終わりなのだろうか。完全という概念にたどり着いたらもう成長はないのか。何をもって未熟な人間が完全を目指し完全なのか。 >From towering redwood trees and diminutive mosses to plants >that have stinging hairs and poisons,[...] "diminutive mosses"は、普通に訳せば「ちっぽけなコケ」だが、 この"diminutive"を「わび(侘)しい」に変換できるかどうかが センスの分かれ目だろう。 神を紙面の中だけに見るのもつまらないだろうな。下積み生活だなあ。 スピノザ哲学のベースには、常にデカルト哲学がある。 スピノザのいう「完全、不完全」というのは、かの有名な「デカルトによる神の存在証明」と切っても切れない。 デカルトは有名な「神の存在証明」を行い、それにしたがって認識の確実性を基礎づけようとしている。一般にこのデカルトの証明は詭弁とされているが、一応見ておこう。 何かを疑いの対象とするのは不完全な存在のみだ。疑うためには完全であってはならない。それゆえ人間は不完全な存在である。 不完全な人間が完全な神の観念をもっている。不完全なものは完全なものに由来するのでなければならない。したがって神が存在するのでなければならない。 ところで人間のもつ観念は神に由来する。神が人間を欺くことはありえない。したがって人間の観念は確実に真であるほかない。 つまりこういう感じだ。 神は完全(無限)であり、人間は不完全(有限)。完全なものが不完全なものに由来することはありえない。むしろ逆。だから不完全な人間の由来としての完全な神が存在すると言わなければならない。 ヘーゲルはカントのあとを受けているがカントより危険でなく、 はからずも、はかられて刑務所インフラや病院インフラに人事をうって、凋落の 一途をたどっているとこが笑える。 >>304 まあ、「人間が神になる」というのを目指してるわけでは、さすがにない。 「普遍的な世界認識に到達する」というのが、ここでの最終目標でしょうな。 神が人間におりてまた返り咲くか人間を選んだら感動的だ。神は高次の段階だと思うよ。人間から成りあがってもほぼ不完全な人が多いだろうね。 デカルトの本業は数学者だ。 デカルトのいう「完全・不完全」というのは、数学の「無限・有限」とセットで考える必要がある。 無限から一部を切り離せば、有限になる。 しかし、有限をどれだけ伸ばしても、決して無限にはならない。 無限から有限は生まれるが、逆は無理なのだ。 無限なら大酒のみがいいだろう。有限ならタバコかなあ。 『短論文』には「我々の完全性は、我々が常にますます向上しようとつとめずにおられぬ点に存する……」(第二部第十八章)と書かれている 岩波の古い訳からとってきたので現代仮名遣いに直しておいた 最近、知性改善論と短論文の二つの新しい訳を合わせた単行本が出たんだけど高すぎて買ってない 人間の完全性はその能力の能う限りにおいて自然をより広く認識し 自然のうちのものどもに、各々の本分を十分に発揮できるようにさせ もって神の永遠無限の存在と同一になることにある 人間の観点から見ると神へと向上する、神の完全性へと向かっていく、というふうにいわれる 同一「になる」というよりはむしろ同一「である」というほうが、万物は神から流出しているという観点からみれば正しい というわけで人間の完全性は神が神自身を表現し続ける永遠の過程の一部だともいえる 論理の先に神が存在したというのなら理解できるが神というものを前提にして論理を組み上げるってのは 理性的なやり方ではないね スピノザは完全なるものとしての神を前提にしてそこから論理によって 世界と人間がどのようなものであるかを導き出しているのであって、 「論理を組み上げ」ている訳ではない。 幾何学の定理と演繹法則が異なるように 論理によって組み上げられるものと論理そのものは別物 科学用語でもない論理という言葉に数学の公理や定理とそこから導き出される関係性を指すような厳密な意味などない 論理学においてはもちろん日常用語でも 論理はある事実からある事実を導出する基本的な規則を意味しており そこには大した曖昧さはない まあ言いたいことはわかる スピノザが神の定義に至る前に多少なりとも一連の思考の過程というか手続きが確かにある(『エチカ』にはないけれども他の著作ではある) 神の認識についてスピノザは直観だと言うだろうがね 私は神の名のもとに、無限性や必然性、絶対性であるといった観念を抱くが、それらの観念は私自身の中にはもともと存在しないものである。 何故なら私は有限であり、偶然に支配され、誰かとの相対的な関係の中でしか生きられない存在だからである。 だから、これらの観念は神によって私にもたらされたのだと考えるほかはない。 私は、清楚で淫乱な人妻という、明晰判明な観念をもっている それは、私の中には存在しないものである この観念は、エロ動画によって私にもたらされたのだと考えるほかはない お前たちは全て私の自己の中に包摂されている 私も包摂されたかったなー 317 :学術 :2018/10/21(日) 08:39:35.41 有限を分かち合うこと。無限に還ってゆくこと。 つまり、こういうことだ 無限=神は、すべてを包摂し、逆に、個物から包摂し返されるのを待望している だが、 中には包摂し返されたくない個物もおり、拒絶されるのは、個物自身が神となることを欲するような包摂の場合である ただしい包摂とは、神から包摂されているという事実への反省、すなわち、神からの包摂の包摂=受託である それだと神の必然性に個物側が抗いうるということだから スピノザの考える神ではなくなっちゃうよ 個物側にも形而上学レベルである種の自由を与える思想は他にもあるだろうから そっちを研究したほうがいい 「スピノザは、石がある衝撃によって空中を飛ぶとき、石に意識があれば、自分自身の意志 で飛んでいるのだと考えるだろう、と言っている[書簡六十二]。わたしはこれにさらにつけ加え て、石の考えていることは正しいとだけ言っておく。」 ショーペンバウアー「意志と表象としての世界」第24節より スピノザが言っているのは全体としての自然 しかもここでの「全体」は全体と部分という意味とともに全体はおのれ自身を元としては含まないというような意味での全体でもある また、スピノザが自然について言及するとき、五感で知覚できる純粋に物体的な自然(スピノザにおいては延長における諸様態)だけを指しているわけでもない 哲学では同じ語でも意味がまったく違ったりすることがよくある だから>>342 の言うところの「自然」と「神様」はどういう文脈で使うのかを明らかにしてくれないとなんとも言えない 自然こそ神なんてわざわざ宣言しなくて良いよな なぜ神を持ちこまなきゃいけなかったのか 自然は自然で良いわけで 自然には完璧な法則が働いてるということを 神抜きで言ってしまうと不味かったのか 精神世界と物質世界は、同時平行で進行している 両方とも、神が持つ2つの性質の表れ 「自然」が物質世界だけを指しているのなら、わざわざ「神」という必要はない そこには精神世界、つまり、人間の心の中の観念も含まれる カントを先に読んでいたんだが カントとはア・プリオリの使い方が違っていて混乱した思い出がある もっともスピノザの特別な用語の使い方じゃなくてデカルトもそうだったんだけど スピノザのいう「自然」は、現代人が「自然」と聞いてイメージするものとは、だいぶ異なる(そもそも、訳語だし) 起源は古代ローマのストア派哲学なので、それを知っとくと意味が分かってくる ストア派の哲学は、古代ギリシャのゼノンという人物による思想で、「禁欲主義」と呼ばれています。 ちなみに、「ストイック」という言葉はこのストア派に由来します。 そのことからもわかるように、ストア派の哲学では理性(ロゴス)によって感情(パトス)に打ち勝つことを目指します。 そして、それによって感情に負けない心(アパテイア=不動心)という究極の境地に到達することが幸福だと考えます。 財産や地位など外的なものを欲する感情に打ち勝ち、理性による自己鍛錬で徳を高めていこうというわけです。 それこそが幸福の道だと。 ゼノンは「自然に従って生きよ」とも主張しました。 何も文明を捨てて自然の中で暮らせとか、食品添加物は食べるなとか言っているわけではありません。 全宇宙を貫く自然の法則は、全てが必然で合理的なものであるから、「人間もその秩序に従って生きるべきだ」という意味。 富や名誉といった人間の欲望や感情に起因する物事に縛られていることこそ不自然であり自然の摂理に合致していないというわけです。 だから、そういった人間のちっぽけな欲望や感情に理性をもって打ち勝ち、自然に従って生きよ、というのがストア派の哲学。 人間の欲望や快楽に飲み込まれることなく、宇宙の秩序と法則に従い自然の全体と一致して生きれば、心の安らぎが得られると説いたわけです。 現在一般的に使われる「ストイック」という言葉のイメージとは少し違いますね。 ストア派の哲学は、どちらかというと修行僧のようなイメージに近いかもしれません。 ストア派(希: Στωικισμός)はヘレニズム哲学の一学派で、紀元前3世紀初めにキティオンのゼノンによって始められた。 破壊的な衝動は判断の誤りから生まれるが、知者すなわち「道徳的・知的に完全」な人はこの種の衝動に苛まされることはない、と説いた。 ストア派が関心を抱いていたのは、宇宙論的決定論と人間の自由意思との関係や、自然と一致する意志(プロハイレーシスと呼ばれる)を維持することが道徳的なことであるという教説である。 このため、ストア派は自らの哲学を生活の方法として表し、個々人の哲学を最もよく示すものは発言内容よりも行動内容であると考えた。 ストア倫理学では決定論が支持される。ストア的な徳を欠いた人間に関して、邪悪な人間は「車にくくり付けられた犬のようなもので、車の進む方向へどこにでも行かされる」とクレアンテスは考えた。 対照的に、ストア派の徳は人間の意志を世界と一致するものへと修正し、エピクテトスの言うところによれば、「病むときも幸福で、危機の内に在るときも幸福で、 死を迎える時にも幸福で、追放されたときにも幸福で、恥辱を受けた時にも幸福[7]」であらしめるために、「完全に自立的な」個人の意志と同時に「厳密に決定論的な統一体」である世界を断定する。 この思想は後に「古典的汎神論」と呼ばれ(、オランダの哲学者バールーフ・デ・スピノザに採用され)た[9]。 ストア派によれば、世界は物質的で、神あるいは自然として知られている理性的な実体であり、能動的・受動的の二種類に分けられる。受動的な実体は物質であり、「何にでも使える実体だが不活性で、何者かによって運動を加えられないと動かないままでいる[17]」 運命あるいは普遍的な理性(ロゴス)と呼ばれる能動的な実体は知的なエーテルつまり原初の炎であり、受動的な物質に働きかける: 世界それ自体が神であり、世界が自身の霊魂を流出する; それは同じ世界を導く原理であり、物の一般的本性やあらゆる物質を包含する全体性とともに心や理性の中で働く; 運命づけられた力と未来の必然性; それにエーテルの炎と原理; さらに水、大地、空気のような本来の状態が流動的・遷移的な諸元素; それから太陽、月、星々; これらと、全てのものが内包されるような普遍的存在が含まれる —クリュシッポス,キケロ『神々の本性について』第I巻より 「読書百遍、意おのずから通ず」というけど エチカを百回よんだって、スピノザの言ってることは理解不能 でも、古代ローマのストア派哲学を予備知識として知っとくと、急に分かってくる ニーチェやハイデガーもそうだけど、キリスト教のドグマに異論を唱える人が拠り所にするのは、やっぱり、ギリシャ・ローマの古代思想 要するに、「キリスト教が普及する以前に還れ」ということになる 柄谷行人『哲学の起源』第四章2でスピノザの先行者として言及されたクセノファネスに 関しては、http://happy.ap.teacup.com/togenuki/635.html 、 http://www005.upp.so-net.ne.jp/entartete/miretos.html 等を参照。 「しかしもし牛や馬やライオンが手を持っていたとしたら/ あるいは手によって絵をかき/ 人間たちと同じような作品をつくりえたとしたら/ 馬たちは馬に似た神々の姿を、牛たちは牛に似た神々の姿をえがき/ それぞれ自分たちの持つ姿と同じような身体をつくることだろう」 (クセノファネス断片15) 参考: 「もし三角形が話す能力を持つとしたら、三角形は同様に、神は優越的に三角形であると 言うでしょうし、また円は円で、神的本性は優越的意味において円形であると言うでしょう。 そして、このようにして各人は、自己の諸属性を神に帰し、自己を神と類似のものとし、その 他のものは彼には醜く思われるでありましょう。」 書簡56(スピノザからボクセルへ)『スピノザ書簡集』岩波文庫261頁より ただしスピノザは定義に起成原因を求めている点が優れている 例えば円の定義には円を作図する方法が含まれるべきなのだ (参考『探究2』柄谷行人) 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:87f20c3c9ee883ab649a4d7f8b996d63) 新プラトン主義的でもあるとも言える デカルトは必須として 結局いろいろ読まないと理解出来ないというのは確か まあ、論語も孟子も知らずに、荻生徂徠や伊藤仁斎を理解しようというようなものだからな 無理がある 小林秀雄の『本居宣長』 孔子はともかくそういった人びとについてまったく知識がなく挫折した 今も読んでない俺を叱ってくれ そもそもそんな書を読む必要はないでしょ もう少し言うと 「エチカ」も読みづらくてつまらないから読む必要はないと思う さらに言うと 読み了えた所で、どうせ死んでしまうし 惑星ソラリスとスターウォーズを見ればエチカがわかる 逆にエチカを読めば上の映画をもっと楽しめる 《スピノザの哲学は (「人間」的なものの籠絡からの)静かなデタッチメントの哲学だ。 すなわち、われわれの身体が物質宇宙の一部分であるように、われわれの思考も無限な 思考宇宙 の一部分である。われわれに思考があるのにわれわれがその部分である自然 に思考がないとするのは不自然である。われわれの中で事物自身が事物自身について 肯定したり否定したりするようになったとき、われわれの精神は「自動機械」となって、自分 のいる場所(自然)がずっと「神」であったとわかる。カメラが引いていくと、帰還した地球の 故郷が実は惑星ソラリスの変様部分であるのが判明するあのタルコ フスキー監督の「惑星 ソラリス」のラストシーンを思い出す。》 (上野修、講談社『本』5月号「スピノザから見える不思議な光景」より) >>373 そういうことでしょうな。 「物質世界と精神世界が、並行して同時進行している」というのが、スピノザの世界観の核心 われわれ人間の身体は、あきらかに物質世界の一部として存在している であれば、われわれ人間の精神もまた、同じように精神世界の一部であるはずだ 山葵(わ・さび)≒"diminutive+さび"でしょうか ちょっと寂びを感じるんでしょうね 古代ローマ哲学を、デカルト風に書いたのがスピノザ 古代インド哲学を、カント風に書いたのがショーペンハウアー 肉体的快楽を全否定せずに凡庸な快楽主義からいかに脱するか? 隠れて生きよ。か。アナトールフランスのテクストも日本翻訳ですら、質が高い。 スピノザ哲学の要点は デカルトが 精神 身体 と 確立させたヒエラルキーを 身体ー精神 と 並行に捉えたということ これはデカルト哲学の根本的な読み直しでかつ デカルトへの最大評価でもある 歴史的な第一歩で 人類にとって不可逆的な進歩なのだ >>382 デカルトくらい、殆どの哲学者が論破してるのに、デカルトごときで、何の自慢があるのやら さすがにそれはデカルトを見損ない過ぎ 例えば学校で見てきたx軸とy軸の直交座標系はデカルトがもたらしたもの 彼が「整理した」(心身二元論的思考は古代ギリシャはもちろん東洋にもあったといえばあった)心身二元論もビックリするほど現代に影響を与えている 他にもたくさんあって枚挙の暇がない デカルト自身の形而上学がそのまま採用されることはほぼなくなったとはいえ デカルトを抜きにして現代のあらゆる思想は語れない 明白な間違いが彼の思想にはあったのだろうが それゆえにこそ我々が乗り越えるべき地盤を作った人でもある おれはなぜいまここでスピノザなのかを聞きたいんだよなあ 延長的世界観に支配されたといっていい現代社会において その世界観がそもそもどこに由来するのだろうかと考えるとだいたいデカルトに行き着く しかしスピノザを見るとデカルトに大きな影響を受けつつも思惟(精神)を自然から放逐してはいない デカルトとは別の、そして今日とは別の形而上学体系を構築している それはいったいいかなる考え方なのだろうか スピノザの思想は今現在生きているわれわれの生の問題に現代諸科学とは別の側面から、というか別の次元からアプローチ出来るようにさせてくれるのではないか とか考えろ 逆に現代の科学信仰にまったく違和感を覚えておらず人生も充実しているなら 多分読む時間が無駄になるから自分のお仕事や研究に邁進してどうぞ >>385 プラトン的なものとアリストテレス的なものが、手を変え、品を変え、違う形で何度でも再登場するのが、哲学の歴史 今は、新プラトン主義が復活しているのではないか? >>385 >おれはなぜいまここでスピノザなのかを聞きたいんだよなあ オレも、なぜいまここでスピノザの哲学が必要とされるのか、 自分の人生にスピノザの哲学が「なくてはならないもの」なのかが聞きたい それこそが本質論だろう それこそ自分で読んでみて「なくてはならないもの」と見極める問題では…… ほかの哲学でも科学でも宗教でもなんだったらスポーツとか芸術とかそういうのでもいいだろ デカルトもそうだしスピノザも、本人は思いっきり新プラトン主義にハマっているのだが、後世から見ると「脱・宗教」の先駆者 デカルトにはアウグスティヌス、スピノザにはゼノンの影響が顕著であることが、たびたび指摘されている 両方とも、古代ローマ帝国期の人だ 日本では、デカルトとカントについては、高校の倫理の授業のおかげで、世間の一般人も普通は知っている スピノザだと、普通の人はまず知らない 現代人にとっては、汎神論や決定論よりも、言論の自由や、思想の自由を唱えたという、社会思想史上の意義のほうが大きいように思われる 誰でも、という時代だものね 中島義道のチラ見した本で「現代では哲学の門はすべての人に開かれている。カントも百姓や大工に読まれるとは考えなかっただろう」という意見を書いてた 限定された知識階層で回してきたものが、下から這い上がってきた素材と努力の善く結合した人間に思いきりひっくり返されることがよく起こると思う そうなると、汎神論というのがついに現実に姿を表したという風に私は見る 新プラトン派ないし新プラトン主義(neoplatonism、ネオプラトニズム)とは、西暦205年〜270年ごろに生きていたギリシアの哲学者であるプロティノス(Plotinos)を創始者とする哲学思想の潮流であり、 新プラトン派においては、プラトンのイデア論の思想に基づいて、現実の世界における具体的な事物の背後には、真なる実在としてのイデア(idea)が存在する観念の世界であるイデア界があるとされ、 そうした真なる実在としてのイデアが存在する知性的世界(イデア界)と、現実の世界における具体的な事物が存在している感覚的世界(現象界)という二世界論において世界の構造がとらえられていくことになります。 認識においては、自分自身の魂の探求から、自らの始原である知性、そして、さらにその大本にある究極の根本原理である一者へと到達し、 自らの存在の根源にある一者へと帰一することが哲学的探究の究極の目標であるとされることになります。 そして、 こうした新プラトン派の認識論においては、エピクロス派における認識の区分と同様に、知性による認識のあり方は、 部分から部分へと論証を積み重ねて真理へと迫っていく論理的思考と、事物のあり方全体を一挙に把握する直観的把握という二つの認識のあり方に分けて捉えられることになるのですが、 人間の魂自身は、論理的思考しか行えないため、部分から部分へと論証をつなげていく際に、その思考の過程に誤りが生じてしまうという不完全な認識にとどまるのに対して、 直観的把握の方は、全体を一挙に把握するため誤りが生じ得ない完全な認識であるとされ、 そうした完全な認識のあり方である直観的把握は、魂がその始原である知性へと純化していくことによって得られる純粋な知性の働きによってもたらされると説かれることになります。 つまり、 人間の精神がその究極の原理である一者の認識へと到達するためには、哲学的探究と自分自身の魂の内省を経て、その精神を知性へと純化して高めていくことが必要であり、 そうした一者に対する究極の認識は、自己自身を含むすべての存在をその根拠から一挙に捉えるという純粋な知性の働きに基づく直観的認識によってもたらされるとされることになるのです。 ・・・という具合に、新プラトン主義の存在論や認識論を見ていくと、そのまんま、スピノザ哲学そのものだってことが分かる。 スピノザ哲学というのは、新プラトン主義の一種だと言える。 ルネサンス期のイタリアでは、フィチーノやピコ・デッラ・ミランドーラといった人々が出て新プラトン主義を創始し、古代ギリシャ・ローマの哲学を復興した。 デカルトとスピノザは、古代ギリシャ人・ローマ人の思想を直に学んだというよりは、こういうルネサンス期の新プラトン主義から強い影響を受けたと考えられる。 さらに、当時はまだ哲学といえば中世のスコラ哲学だったため、彼らもスコラ哲学をしっかりと学んでいた。 デカルトの「我思う、ゆえに我あり」、「すべてを疑う」という元ネタは、聖アウグスティヌスだと言われている。 結局、浅田彰がなんで「スピノザというのがよく分からない」なのかというと、彼は20世紀の唯物思想からこの道に入ったため、新プラトン主義の素養がないからであろう。 本だけ読んで哲学を頭に詰めるだけも汚い生き方だろう。 哲学者 若手の課題。 イデアと違う世界の構成の相手に世界を善意で押し付けるきらいがあるな。 もっとよく考えてみなければならないところだ。 浅田彰は誰よりもスピノザを理解している ただし浅田彰自身はライプニッツ的多元論の人だからスピノザを 理解しているとしたらスピノザを批判せざるを得なくなる だから理解できないということにしているのだろう 《ジル・ドゥルーズのわかりやすい言葉でいえば、この現実のほかにいろんな可能性があるという ことではなく、ほかならぬこの現実が潜在性においていかに多層的で豊かであるかを発見するこ とが重要なんだ、と。そこのところを、そのあとで出てきたSFやアニメやコンピュータ・ゲームの類 は全部間違えている。(略)本当はこの現実しかない、言い換えればメタロジックなんてものはな いんだから。》浅田彰 「オウムとは何だったのか」 『諸君! 1995年8月号』(文藝春秋)所収 『「オウム事件」をどう読むか』 (文藝春秋)再録 この浅田の発言に呼応するものとして、以下の言説がある。 《クリプキが現実社会から出発して可能世界を考えるとき、その現実社会とは、素朴な経験的世 界ではなく、すでに可能性から見られた現実性の世界である。ここに一種の循環がある。クリプ キの批判者はこの論理的循環を衝く。しかし、この循環は、「現実性」が「可能性」なしに考えられ ないということにすぎない。最初にのべた多数世界論に欠けているのは、この現実性なのであ る。》(柄谷行人『探究2』(単行本版p52) >>404 そりゃそうだろうな あれだけジル・ドゥルーズに傾倒したんだから、ドゥルーズを通じてスピノザにも慣れ親しんだであろう スピノザ研究は、ドゥルーズのライフワークと言ってよい しかし、現代の唯物論者たちは、スピノザを「無神論の祖」として評価している スピノザ本人にとっては、心外なことであろう スピノザとライプニッツの調停法は一つしかない。 可能世界のない世界が可能世界的に一つだけあるということだ。 プロティノスをはじめとする新プラトン主義の哲学者とライプニッツの関連が問題になるが、これについては、かなり明瞭なつながりが認められているようだ。 たとえばドゥルーズ「襞----ライプニッツとバロック」には、ライプニッツのモナドという言葉は、新プラトン主義の哲学者の用語に由来すると書いてある。 スピノザと同じく、ライプニッツの哲学も、思いっきり新プラトン主義っぽい スピノザにおける「本当の」存在は神だからね この世の事物はその派生物に過ぎない 勝義の実在を身近な事物ではない何かに見出すのは本当にプラトン的というか宗教的というか 一なるものが多なるものをうちに含むということを強調するか 多なるものが一なるものをかたちづくるということを強調するか この違い スピノザに目をつけるとは 哲学板で、初めてマトモな人を見た気がしましたわ😃👯 >>417 なるほど 一者からの流出がスピノザ 多者による綜合がライプニッツってとこか それと神様が外にいるか内にいるかという違いもある あの時代に内にいると言うといろいろな所から怒られる 神について言及しても「宗教じゃんそれ」って言われないからねぇ 他の哲学者のスレだと形而上学的話題に踏み込むだけでアレルギー反応を示す人も多い あとドゥルーズのお気に入りなのも大きいか 定理 は 確かに日本翻訳ですらよくできていたよ。 存在証明なんだろうなビジネスライクな神の人を介した。 読後感は繊細で堅い哲学だなあと。切り崩していってたけど。 よしあなたたちの見解を信じて見る気になったぞ なので一冊でわかる新プラトン主義入門的な書籍を紹介してくれたまえ 目的はあくまでスピノザ理解なのでその一助になるかも程度のやつで結構です 中央公論社の哲学の歴史第二巻 プロティノスのほかにストア派やエピクテトス等ヘレニズム期の他の思想の解説もあってオススメ >>426 ありがとうございますググってみたら良さそうですね 年内には読みたいと思います 世界思想社からその名も『新プラトン主義を学ぶ人のために』 が出てたな 現代の分析哲学においてしばしば用いられる「可能世界論」は、可能性と現実性についてのライプニッツの主張から始まっている。 ライプニッツは我々のこの世界を最善の世界であるとしたのは、神がそうなるように選択したからという根拠に基づくものだった。 しかし可能性においては、神はこの世界とは違った世界を作ることもできたはずであるが、「現実」に神が創造したのは我々のこの世界なのである。 つまりあらゆる可能的世界において、神が「この世界」を選択して創造したのだから、この世界は最善の世界であるとするのが、オプティミズムである。 このライプニッツの思想は、スピノザの思想への反論でもある。 スピノザはそうした可能性を認めず、この世界は神の必然的な決定によって出てきたのであり、これ以外の仕方は考えられないとするからである(『エチカ』第一部定理28)。 スピノザの考えでは、神における知性と意志とは区別されない。神は全能であるゆえに、神に何らかの思惟(可能性)が生じたなら、それはすべて現実化されるはずだと考える。 従って神の知性と意志とを区別する必要もなくなるわけである。 この世界は善く・悪く創造された云々についてはプラトンやストア派や新プラトン派等でも話題にされていたとだけ言っておく >>430 要するに、この宇宙は無数のモナドの集合であり、あらゆる可能性の中から、予定調和によって最善の均衡へと向かう・・・というのが、ライプニッツの説 ざっと過去のレス眺めて思ったのは 物理学的対象としての「自然」の哲学だと思ってスピノザを学びはじめて 実はスピノザの自然がそういう「自然」と違っていて困惑する人が多いんだなあということ >>433 いやいや、そこに気づいて困惑する人より、気づかない人のほうが多い ていうか、むしろ、そこに気づかない人はスピノザの言ってることが意味不明に見えて困惑する そもそも、それは「自然」という日本語の訳語の語感によるものが大きい 日本人には「八百万の神々」という古代の自然信仰の伝統が残っているので、どうしてもそこにバイアスがかかる 早い話が、哲学マニアを除く普通の日本人が、スピノザの汎神論の話を聞くと、「八百万の神々」というような自然信仰のイメージがパッと浮かぶ でも、スピノザの汎神論は、そういうものではない あーなるほど 物理学的対象としての「自然」について語られているのだろう 「汎神論」なる言葉から日本の八百万の神のようなもののについて書かれているんだろう といった風にスピノザを読む前にスピノザについて書かれたものからちょろっとワードだけ引き抜いてそれらを前提にして読んでしまうと大混乱大会になっちゃうのか とか言いつつもはじめて読んだ時に混乱した人 正直に手を挙げなさい はい 訳語だと「自然」と「本性」が違うもののように見えるけども ラテン語だとnaturaだし 「本質」(essentia)という訳語も 英語でいうところのbe動詞の派生語であることがわかりにくくなるという問題がある これらも日本語での読解の障害になると思われる ちょっと前で話題になってた『新プラトン主義を学ぶ人のために』を図書館で借りてみたんだけど 新プラトン主義の思想の流れを概観出来てかなり便利だね >>440 最近みすずから出た抄訳版では「自然の性」と訳している。 でも、かえってわかりにくい。あなたの書き込みを見て ああ「natura」をこう訳しているんだなと思ったけど、 平凡に「本性」と訳してくれた方がよかった。。。 >>444 確かにそれは逆にわかりにくいですね…… たとえば神にデウスというようにいちいちルビをふってくれればよかったのに翻訳 もう訳として定着しちゃった以上 ルビふるなり訳注で説明するなりするのがベターか スピノザのお気に入り愛読書は、古代ローマのセネカ デカルトと並んで、ストア派に決定的な影響を受けた 現代人にとってスピノザの世界観はなんとも摩訶不思議なものに思えるのだが、セネカを読めば分かってくる やはり、思想家を理解する早道は、そいつの愛読書を読むこと セネカ 人生の短さについて、の版だよ。日吉にあったのは。 岩波じゃないけどプラトンからスピノザに行くといいと思うよ。 スピノザの神の構成構造とは私は違うから、ひかれあって存在するんだろう。 100分de名著 スピノザ エチカ http://www.nhk.or.jp/meicho/ https://nhks-vh.akamaihd.net/i/meicho/movie/an_82.mp4/master.m3u8 1分30秒 https://www.amazon.co.jp/dp/B07KR3HC77/ 私はスピノザ哲学を講じる際 、学生に向けて 、よくこんなたとえ話をします 。 ─ ─たくさんの哲学者がいて 、たくさんの哲学がある 。それらをそれぞれ 、スマホや パソコンのアプリ (アプリケ ーション )として考えることができる 。ある哲学を勉強して理解 すれば 、すなわち 、そのアプリをあなたたちの頭の中に入れれば 、それが動いていろいろ なことを教えてくれる 。ところが 、スピノザ哲学の場合はうまくそうならない 。なぜかというと 、 スピノザの場合 、 O S (オペレ ーション ・システム )が違うからだ 。頭の中でスピノザ哲学を 作動させるためには 、思考の O S自体を入れ替えなければならない … … 。 現代でこそ哲学史上の名著とされる「エチカ」ですが、出版当初は無神論者による冒涜の書として黙殺されました。 その理由は、常識を覆すあまりにも革新的なスピノザの思考法にありました。 この世界のすべてのものは神のあらわれであり、神は世界に偏在しており、神と自然は一体であるという「汎神論」。 それをベースとして、「自由意志の否定」「人間の本質を力だと考える人間観」「活動能力による善悪の再定義」など、常識とは全く異なる考え方が導かれていきます。 >「人間の本質を力だと考える人間観」 マジか!? それは知らんかった それは、ショーペンハウアーやニーチェその他、後世への影響があまりにも大きいな ライプニッツの「欲求」がカントの「物自体」になり、それがショーペンハウアーの「生きんとする盲目的な意志」となり、さらにはニーチェの「権力への意志」となった・・・ というのが、よく言われる哲学思想の流れだが 言い出しっぺはスピノザだったか? >>456 それは、ユダヤ人なのでキリスト教の影響が小さいからですな キリスト教掘り下げまくりだっつうの 神学政治論が生前の主著みたいなもの 参考: 「我思う、故に我あり(cogito ergo sum. 正確には、ego cogito , ergo sum .)」 デカルト(1596-1650『方法序説』『哲学原理』他) 「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」 スピノザ( 『デカルトの哲学原理』) 「私は思惟する事物である 」 ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 ) 《スピノザは、石がある衝撃によって空中を飛ぶとき、石に意識があれば、自分自身の意志で飛んで いるのだと考えるだろう、と言っている[書簡六十二]。わたしはこれにさらにつけ加えて、石の考え ていることは正しいとだけ言っておく。》ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」第24節より 《僕はすっかりびっくりして、うっとりしているんだ! 僕には先駆者がいるのだ、なんという先駆者 だろう! 僕はほとんどスピノザを知らなかった、僕がいまスピノザをもとめたというのは、ひとつの 「本能的な行為」であったのだ。彼の傾向がすべて、――認識をもっとも力づよい情熱とする――僕の 傾向にそっくりというだけではない。彼の説の五つの主要な点に僕は僕の姿をみたのだ。この最も異質 な最も孤独な思想家は、まさに僕にもっとも近い、――彼は意志の自由を否定する、目的を、道徳的 世界秩序を、非利己的なものを、そして悪を否定する。………つまりだね、高い高い山に登った時の ように、ときどき僕の息を詰まらせたり、僕の血を流させたりした僕の孤独が、少なくともいまは、 二人連れの孤独なのだ――ふしぎだね!》 (ニーチェ。1881年7月30日、オーヴァーベック宛て書簡。ちくま文庫ニーチェ全集別巻1上500頁より) たしかコレ孤独がEinsamkeitで「二人連れの孤独」がZweisamkeitなんだが 「前はひとりぼっちだったが、今はふたりぼっちだ」と訳した人がいてうまいと思った エチカは書物だけじゃない 定理でも厳しい読み手に向けてはね。 佐藤優が國分との対談で、スピノザの汎神論は汎悪魔論に転化する云々語っていて、 國分はその発言に対して何も語っていないように見受けられたけど、 エチカのどこを読んでそんな解釈が成り立つのかと。 佐藤はかつて自著のブックガイドでエチカを挙げていたけど、本当に読み通したのか怪しいもんだ。 シェリングあたりの時期のドイツ観念論では、スピノザをそういう方向で捉えてキリスト教のスタンスから再批判する人がいたから、クリスチャンならそうなる >>458 >>459 ニーチェ自身、『人間的な、余りに人間的な』の著書の中で、霊界でスピノザとよく精神的 交流をしているといったようなことを言っているそうだ。 『善悪の彼岸』『悦ばしき知識』(理想社)の人名索引でも、スピノザとの関連ページが多い。 スピノザの「神への知的な愛」について、ニーチェが何度か論じていた。 スピノザもニーチェも、「哲学史上、最も過激な思想家」として、よく名前があがる ヘルダーの『神・スピノザをめぐる対話』の新訳を読んだ人いる? 登場人物の対話の中で、神=世界という理解は汎神論的な考えで否定すべきという記述があったけど、 『エチカ』の代名詞と言えば、「神即自然」と言われるくらいだから、読んでいて混乱してきたのだが。 ニーチェもスピノザを貶すときは貶してるからな スピノザもところどころは認めてやるって程度だろ そりゃ、スピノザは非キリスト教的だけど、きわめてプラトン的だからな キリスト教だけでなく、プラトンも否定しなければニーチェの立場では認められまい ニーチェも己の考えに固執するあまりその行き過ぎた信念が宗教じみてて皮肉な結果となったな >>471 存在に<対して>神という概念があれがば汎神論 存在に<対する>神という概念で<なければ>汎神論にはならない 悪魔の方が多様で軍勢が多いのではないかな。神魔というカテゴリーをつくろうよ。 女神転生。 神のうちに世界があるというか 世界とは神の顕現なわけで神と世界は等置されるわけではない 定義における起成原因の重要性に触れなかったことと 疑いつつある、というフレーズを紹介しなかったのが残念 コルベンハイヤー こるべんはいやー Erwin Guido Kolbenheyer (1878―1962) ドイツの作家、思想家。ブダペスト生まれ。ウィーン大学で哲学、自然科学、心理学を学ぶ。 処女作の戯曲『ジョルダーノ・ブルーノ』(1903)、スピノザを主人公とする長編小説『神を愛す』(1908)、 小説三部作『パラケルスス』(1917〜26)など、正統的な思潮に抗する歴史上の異端者の孤独で悲劇的な生涯を題材とする作品が多い。 「民族生物学」なるもののうえに個人と集団の関係を意味づけようとする俗流形而上(けいじじょう)学的体系の書『建築小屋』(1925)にはナチズムとの内的親近性が歴然とみられ、 異端者崇拝と相まって、ナチス時代の代表的な作家とされた。[池田浩士] 『手塚富雄訳『神を愛す』(1953・筑摩書房)』 >>186 「・・・、ゲーテ、・・・などの文人は、明らかにスピノザ主義の精神を汲み取った人たちである。 ・・・特に、ゲーテはスピノザを「最高の有神論者、最高のキリスト者」とみなしているのである」 (工藤喜作著 『スピノザ』 P.204) >>456 紹介の例えにはいいかもしれないけど初めからスピノザと同じOSを積んでる人間だってきっと多くいるね 私は逆に、ここで言われる「たくさんの哲学者」を読むほうが困難で仕方ない 恐らく自分のようなタイプ以外の読者に対して配慮して書かれた文章が心底気に食わずにイライラさせられるんだろうけど スピノザの本にはそんな瞬間が一度も訪れないという幸せがある スピノザはほとんど読んでないな 最近、よく「コナトゥス」とかいう言葉を持ち出してくる人を見かけるけど、 ネットの検索でヒットする説明を読んでもよく分らない。 「コナトゥス」という表現自体は死語になってしまったのだから、 現代の言葉でそれに取って代わった表現があるはずだし、 感覚的に馴染むように現代の日本語で表現したらどういう言葉になるんだろう。 承認欲求やそれを得ようと必死に動く現代の人たちの努力は、他者に依存したコナトゥスであるかもしれない 「コナトゥス」という言葉を使ってみたい人がそれなりに沢山いるだけで、 この言葉によってイメージしていることや、意図していることはまるで ばらばらである可能性も十分にあるわけだ スピノザ『エチカ』を図解すると以下になる。 1実体 /\ /無限\ /_無限定_\ ________/_2a属性__\________ \知 抑制 / 小←/\→大 完全性 至福/ \ 悪/___2b様態\_____\善 / \受動/\悲しみ_/\_喜び /\能動/ \/ 憎しみ \努力/ 愛/ \/ /\対象/ /_\/_\ \認識/\ 所産的自然/物体__欲望__観念\/ \ / 延長\ 身体3感情/精神 /思惟 \能産的 神/______\___\/_第三種認識____\自然 \ 4理性 / \ / \_徳_/ \/ 5自由 文字化けしているかもしれないが、肝心なのは私見では縦の中心線にある、「努力」、「欲望」、「徳」だ。 (コナトゥスを努力ではなく傾力と訳す人もいるが、内在する力というイメージがなくなるからいい訳語ではない) 逆にいうとコナトゥスと徳が位置づけられないと欲望もわからない。法学でいう自然権とも関わる。 ドゥルーズ的には思惟と延長の平行する系列が重要。 國分のドゥルーズ論も一応ドゥルーズの系列的思考に触れていてその点は優秀だ。 以下は國分NHKテキストより 《コナトゥスを定義した定理が次のものです 。 おのおのの物が自己の有 〔引用者注 :存在 〕に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない 。 (第三部定理七 ) 文中の 「有 」という訳語より 、 「存在 」としたほうが分かりやすいでしょう 。ここで 「努力 」と訳されているの がコナトゥスで 、 「自分の存在を維持しようとする力 」のことです 。大変興味深いのは 、この定理でハッキリと 述べられているように 、ある物が持つコナトゥスという名の力こそが 、その物の 「本質 e s s e n t i a 」であると スピノザが考えていることです 。》 >おのおのの物が 「物」という表現で何が想定されているのか不明だな。 その場合、風や光は物なのか? おそらく、私の哲学へのアプローチの仕方が、スピノザについて語る大多数の 人々の場合とは異なっているのだろうと思う。スピノザに限らず、誰か特定の 哲学者に共感を覚えるかどうかは、私にとってどうでもいい、というより、 その発言を役立てることができる限りで、発言者である哲学者に私は共感 していると言える。『神学・政治論』にはそういう発言があったような曖昧 な記憶があるが、よく憶えていない。「コナトゥス」の定義を見せられても、 それがどう役に立つのか、今のところ私にはよく分らない。 「コナトゥス」という表現を用いなければ得られない洞察とはどのようなものなのか? それが示されないかぎり、「コナトゥス」という表現を用いるべき理由が私には 見当たらない。 スピノザが「コナトゥス」についてどう論じたのかよく知らないので、定義や ネットで見かける説明からの印象に過ぎないが、「コナトゥス」という概念が 分りにくいのは、その理路に大きな問題があるからだろうという気がする。 コナトゥスって躓くようなところじゃないと思うんですが… 中公の『エティカ』が本当に好きだ すごく伝わってくる。原典が読めないから、訳者の熱量かスピノザの熱量か判らないけど 畠中訳の『知性改善論』と光文社新訳の『神学政治論』も好きだ 自分は日本のスピノザ翻訳の恩恵をたくさん受けている >>501 翻訳者の工藤喜作の『スピノザ哲学研究』もいいよ。 『エティカ』理解の助けになるし。 >>499-500 じゃあ、「コナトゥス」は日本語の「努力」と理解していいわけですか? 「コナトゥス」は、ラテン語から派生したフランス語、イタリア語、 スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語などでは、どのように継承 されて、またはどのように変容して用いられているのですか? >>500 好き嫌いということで言えば、私は、そうやってなんでもかんでも 人物評価や人格の問題にすり替えようとする人間が身の毛もよだつほど嫌いだ。 あなたのその言い方がすでに人格還元なわけでしょう? いわゆる「自分の頭で考える」在野幻想が強すぎる御仁とみた >あなたのその言い方がすでに人格還元なわけでしょう? いいえ、匿名の人の行為に対する一般的な発言なのだから、 人格還元ではなく、振舞い還元ですよ? >>503 「そういうわけで、一個の力能の度としての様態の本質は、その様態が存在し始めたときから、コナトゥスとして、いいかえれば存続しようとする努力もしくは傾向として規定されることになる。 傾向とはいっても存在への移行もそれではなく、その存在を維持し確立しようとする傾向である。力能はどこまでも現実態であることをやめるわけではないからだ。」(ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』鈴木雅大訳、208頁) 「「努力」というと何かある目標があってその達成に努めるという語感が残るが、スピノザの「努力」は実はどんな目的意図とも無縁である。」(上野修『デカルト、ホッブズ、スピノザ』125頁) 「あたりまえだが、猫Aをかくあらしめている肯定は猫Aの否定を含まない。一般に、事物はみなそれぞれに、それ自身の肯定であり、それをキャンセルしようとする一切に抵抗する。スピノザはこの抵抗力を「コナトゥス」と読んでいる。」(上野修『スピノザの世界』135頁) 「我々の精神の最初にして最主要なもは、我々の身体の存在を肯定する努力である」(スピノザ『エチカ』畠中尚志訳、第3部定理10証明) フランス語ではポートラ訳だとeffort コナトゥス概念がなんの役に立つかはネットの解説だけじゃなく自分で本読んで勉強して考えてくれ 少なくともここで教わるようなことじゃない あと國分功一郎はコナトゥスの定義って言ってるけど厳密にはコナトゥスは定理のなかで証明されて出てくるものであって、スピノザ自身も定義はしていない。 だから「これ!」っていう定義は実はないからそこに拘ると話がややこしくなる。 國分功一郎はわかりやすさ重視して結構重要な議論をはしょったり短絡的な表現を使ったりするから注意が必要。 概ねは正しいんだろうけど。 >>508 すばらしい、最高 読んでないけどぱっと目で見たその行為に賞賛! >>508 ドゥルーズからの引用に誤字があった ×傾向とはいっても存在への移行もそれではなく ◯傾向とはいっても存在への移行のそれではなく >>508 その説明を読む限り、やはり理路に大きな問題があるとしか思えない。 「コナトゥス」という表現が重要であると言うなら、やはり、それが どのように現在、用いられている言語表現に継承されているのかを説明でき なければならないだろう。 それを言い出したら現代の言葉に直接的に影響を与えていない哲学者はほぼ全滅しそうだけど… あなたが言う「現在、用いられている言語表現に継承されている重要な表現」って例えば何? コナトゥスという言葉自体で見れば、そりゃ何百年も前の哲学用語なんだから現代は使われていないし、現代の言葉に対応するものを見つけようとしても「その言葉がコナトゥスを継承しているか」は文献学的な証明が必要なわけで、相当な苦労を要する とは言ってもスピノザの哲学が現代に至るまで様々な哲学者や思想家に多大な影響を与え続けているのは事実なわけだし、言葉そのものが「現代に継承されていない」というだけで理路に問題があるはかなり乱暴な議論かと 古代哲学やスコラ学なんてもう今は見なくなった哲学用語だらけなわけだし >現代の言葉に直接的に影響を与えていない哲学者はほぼ全滅しそうだけど… その考え方が完全に狂っている。哲学者は、自らが生きた時代と先人の言語表現を 借りているのであり、問題は、哲学者が借りた言語表現がどのように(変容を 受けながらでも)受け継がれているのか、どのように派生させられているのかだ。 それが分らない限り、「よく分らない表現だ」と言うほかない。 >>517 狂っていると言われましても、あなたの考え方に乗っかればそういうことになるんじゃないかという指摘です 四日間洗ってないって、前に洗った日を含めて四日目ということ、 それとも前に洗った翌日から数えて四日経過して五日目に入っているってこと? 同じ日本語を使っていても、分っているようで実はよく分っていない表現は沢山ある。 努力とはいうがそこはスピノザ、 自由意志ではありえません スピノザの用いる「コナトゥス」という表現と、アリストテレスによって 表明される次の考え方とは、どのような関係にあると考えればよいのでしょうか? 「すると、消滅するものはどんなものでも、同一で数的に一つのまま存続 することはできないから、持続的に永遠的なものと神聖なものにあずかる ことは不可能だという理由で、それぞれに可能な仕方で多少ともあずかる のであって、つまり、そのものが存続するのではなく、類似したもの、 すなわち、数的に一つのものではなく種において一つのものが存続するの である。」 アリストテレス、「心とはなにか」、p.88 「コナトゥス」という表現の用法の歴史から見て、「コナトゥス」 という表現によって何が意図されているかよく分るなんて主張する 人間は、それをよく分る日本語の表現に言い換えることができない 限り、嘘をついているとしてか思えないね。 https://en.wiktionary.org/wiki/wiki/conor Etymology From Proto-Italic *kōnāō, from Proto-Indo-European *kona, from root *ken- (“to set oneself in motion”). https://en.wikipedia.org/wiki/Conatus The history of the term conatus is that of a series of subtle tweaks in meaning and clarifications of scope developed over the course of two and a half millennia. Successive philosophers to adopt the term put their own personal twist on the concept, each developing the term differently. [...] Today, conatus is rarely used in the technical sense, since modern physics uses concepts such as inertia and conservation of momentum that have superseded it. https://ja.wiktionary.org/wiki/ いきおい いきおい【勢い】(歴史的仮名遣い: いきほひ) 1. 発動しようとする力。ものが運動する際に生じる力。 3. 弾み。成り行き >modern physics uses concepts such as inertia and >conservation of momentum that have superseded it 発動しようとする力≒momentum、成り行き≒inertiaで考えれば、 だいたい合ってるよね。きっかけは提供したので、次の方どうぞ↓ >>501 中公の『エティカ』、注文しました 書評がすごく伝わってきました 「短論文」読み始めた 自分には「エチカ」よりこっちのほうがいいかもしれない エチカは普通の読み物じゃないから、よほどの動機がないと最後まで読めないな >「悪であるようなあることをしようと努力する」? これってどういう文脈で言っているのだろう。畠中尚志訳の 「エチカ」は、ざっと目を通したことがある気がするけど、まるで 憶えていないな。 >>533 参考: エチカ第4部 定理四五 憎しみは決して善ではありえない。 証明 我々は我々の憎む相手を滅ぼそうと努める(第三部定理三九により)。言いかえれば 我々はそれによって(この部の定理三七により)悪であるようなあることをしようと努める。… 岩波文庫版より ドゥルーズの言う通り『エチカ』は定理証明という流れと独立的に備考という流れがあるから、ひとつひとつの定理の証明を追うのがしんどい人は序文定義備考付録だけ追って読んでもいいかもしれない 多分専門的なスピノザ研究者以外の人はほとんどそうしてる 定理はいいものだよ。しかし数学的自信がないな。寄稿しとくよ。 目を通したのが「エチカ」だったのかどうか不確かだけど、 定理と証明の形式で書かれていたことは記憶している。 随分、考えが青いなという印象受けたけど、「エチカ」は 後期の著作なんだね。 >>537 ぼくちゃん5ちゃんねるで何いってんのw 工藤喜作、上野修、國分功一郎のスピノザ論をそれぞれ読んだけど国内だと上野修が頭一つ抜きん出てると感じ 工藤喜作はちょっと古すぎかて、目新しいものがない 國分功一郎はほぼドゥルーズのコピーでドゥルーズのスピノザ解釈入門といった感じ 上野修だけがドゥルーズを参照しつつも独自性を打ち出してるように感じた いまだ國分のスピノザ解釈ではなく上野のスピノザ解釈がスタンダードなのも頷ける スピノザ『エチカ』講義: 批判と創造の思考のために 単行本 – 2019/2/26 江川 隆男 (著) 単行本 ¥ 5,400 内容紹介 誰もが知る『エチカ』は、その重要さと同じくらい難解さでも知られている。 本書は、全五部のうち、多くの人が躓いてきた第一部と第二部をあとにまわし、第三部の経験論的な場面から出発することで、この稀代の書の読破を実現する。 そこに立ち現れるのは、過去に蔵された古典作品である以上に、現代に生きる人々が生きる上での指針の書の姿にほかならない。 強い推進力で一気に読ませる著者待望のスピノザ論! 著者について 1958年生まれ。東京都立大学大学院博士課程満期退学。立教大学現代心理学部教授。専門は西洋近現代哲学。 著書に『存在と差異――ドゥルーズの超越論的経験論』(知泉書館、2003年)、 『超人の倫理――〈哲学すること〉入門』(河出書房新社、2013年)、 『アンチ・モラリア――〈器官なき身体〉の哲学』(河出書房新社、2014年)などがある。 登録情報 単行本: 406ページ 出版社: 法政大学出版局 (2019/2/26) 言語: 日本語 ISBN-10: 4588150987 ISBN-13: 978-4588150982 発売日: 2019/2/26 >>540 100分de名著本に出ている國分功一郎の読み方に共通しているな 第一部と第二部は確実に後回しにされている でもあれスピノザ的には第一部や第二部を通して思考を矯正する意図があるんじゃなかろうか だから第一部からごりごり読まないとダメなのではないか ……と思ったけど哲学に慣れていない初学者は 第三部から読んで哲学的思考に慣れた後で第一部からまた読み直せばいいのか >>540 何にせよ、発売日が待ち遠しいな。『エティカ』理解に役立つのか、立ち読みしてから購入検討するつもりだ。 スピノザが使っている、17世紀頃のラテン語を学べる良い本ありますか? 17世紀にはラテン語は日常言語ではなくて 神と学問のためにもっぱら使われていたんじゃないの 普通にその辺の参考書で十分だよ スピノザのラテン語はかなりシンプルだし 思うにスピノザはラテン語がデカルトやホッブズほど得意ではなくて、自分の哲学を上手くラテン語にできなかったんじゃないかという節もある 古典ギリシャ語やラテン語はちょっとやって基本語彙とその変化を学ぶだけでも 英独仏らへんの本がだいぶ読みやすくなる ありがとうございます 有田潤の初級ラテン語入門を読んでみようと思います 若い人なら『基本から学ぶラテン語』が一番現代的な構成(最近の英語の参考書みたい)になってていいかも 『ラテン語四週間』はあまりおすすめ出来ない ラテン語勉強は会話を楽しむことがないし 主要な古典は邦訳されているので長続きしない そこで副読本に勧めるのは オウィディウスでラテン語を読む 著者 風間喜代三 さらに順序は逆だが同著者による ラテン語・その形と心 オウィディウスはエチカを読むものには特別な存在のはずだ 数箇所だが引用は異例 肝心のエチカもラテン語はネットにある http://users.telenet.be/rwmeijer/spinoza/works.htm?lang=E ラテン語と対照させると中公より岩波文庫の方がしっくりくることがわかる 気分転換にグレゴリオ聖歌もおすすめ youtubeでかなり聴ける Ut queant laxis 聖ヨハネ賛歌 https://youtu.be/9fMppPLocmo Ut queant laxis リラックスできるように Resonare fibris 響かせ Mira gestorum 貴方の行いの奇跡を Famuli tuorum 貴方のしもべ(親族)に Solve polluti 罪を溶かして下さい Labii reatum 穢れた唇から Sancte Johannes 聖ヨハネ様 チコちゃん https://video.twimg.com/ext_tw_video/987860684506521600/pu/vid/480x360/j3qMl0eVF23csU-C.mp4 >>553 すごい早口で言ってそう それが透けてみえるんだから、まだ勉強が足りないね スピノザって本は全部ラテン語で書いてんの? 不得意なら他の言語で書いたものは残ってないんか 哲学板にしてはマトモなスレだな。 去年の國分功一郎のNHKの番組がなかなか好評だったからのようだ。 コナトゥスという言葉の意味が問題になっている。 俺の思考OSでは、神性と獣性の狭間で葛藤しつつなんとか神性の方へ向かおうとする人間だけが持つ志向と理解した。 欲望や恐怖といった弱さの葛藤が存在しない神や動物ではコナトゥスは問題にならない。 恐らく東洋的な概念でもないだろう。 そう言えば、ラテン語は日本語に近いところがあると誰かに聞いたことがある。 動詞の主語が省略されることが多く、誰の行動なのかはっきりしないことがままある。 動詞の格変化で誰の行動なのか推測することが多い。 昔の言語は何でもだいたいそういうものだったのかも知れない。 近代に向かって人間が主体性を確立するにしたがって主語をはっきり言うようになった。 日本語はまだまだだ。 どの言語でもよく知れば日本語に近いところが見つかる 英語にも、ドイツ語にも日本語と瓜二つの表現が見つかる 相手を敬う場合に、相手を主体として特定することを避けようとする場合が多くある。 相手の命令によってやらされるのではなく、相手の意向に沿って自主的に やることによって、相手があらかじめ責任を免れる。 「させていただく」、"with your permission" 相手は、「させる」こと、使役することができるだけ身分が高いが、 相手が「させる」のではなく、自分がそうすることを「相手が許す」のである。 >>557 コナトゥスは存在者であればすべてが備えている本質 それに神性とか獣性はいかにも価値評価的で全然スピノザ的ではない言い方 あらゆる存在は神の可能性の表現という意味で等価なのではと思ってる >>556 スピノザ研究者は全部読めなきゃいけないんか 大変やな オランダ語は、ドイツ語と英語を学んでいれば楽勝という気がする ヘブライ語がどのような言語なのか知らないが、まずは文字を覚えるのが 面倒くさそう。 読めなくてもエチカだけならなんとかなるけど神学政治論ちゃんとやるならヘブライ語文法綱要も踏まえた方が良いのは言うまでもない 読めなくてもエッチかだけならなんとかなるけど神学蛇論ちゃんとやるなら クリフトブライ語文法綱要も押さえてドラクエIVを1章からという スピノザ研究に没頭したいという動機が働かない ユダヤ教に関心があるわけでもないので、ヘブライ語を勉強する 時間があったら、その時間を、5ちゃんねるへの書き込みとか 他のことに使うだろう スピノザの神学政治論はユダヤ教批判の古典だから、むしろユダヤ教苦手な人が読むとよい。 とはいっても内在批判だが スピノザの神学政治論を読むのはいいんだが、というか、ラテン語版を 所持している(読んではいない)が、その読解のためにわざわざヘブライ語 を勉強しようという気にはならないな。 神学政治論ではヘブライ語はスピノザ自身がラテン語に訳してるからね スピノザ自体の研究であれば読める必要はそんなにないと思う 畠中尚志も工藤喜作も上野修も國分功一郎も読めないんじゃないかな確か ユダヤ学としてスピノザを読むなら別だろうけどね 合田正人とかは読めるんだろうか ユダヤ教なんて日本に全然関係ないしな 少なくとも聖書が日常に登場する機会のある国ならスピノザ以外の動機でも文脈を遡ろうとする気が湧くだろうけど >>577 そういった疑問を持ってる時点でカント的な枠組みに囚われている スピノザは近代哲学の常識で捉えているうちは理解出来ない ある意味そうだよ というか現象もカテゴリーさえもその存在のレベルにおいて神の顕れだよ カントの体系とスピノザの体系をそれぞれ絶対視せずに比較検討し 明白な差異や接点を見つけるお仕事 言うは易し行うは難し…… そもそもスピノザはデカルトやカント的な認識主体や認識対象みたいな認識論ではないから、物自体という言葉自体がそぐわない 上野さんや國分さんの本を読めばなんとなくわかると思うが、我々は神の思考の一部なんだよ 認識と存在が一致した神という概念を議論の出発点としているから 存在論と区別された認識論を論じる余地がないんだね でもやってるだろ? 誰もやらずに放置されてるってことはさすがに現代ではないんだろ? 変状と様態って同じようなもん? ラテン語だとどういうふうに使い分けされてるの? >>580 スピノザの言う思惟と延長に対してそれ以外の未確認の属性 この二分法を取ればカントの批判哲学と繋げられるはず ただカント体系は記述順に負いすぎる 思索の経験論として偉大だし嘘はないが 誰もピラミッドをスケッチするときひとつひとつの石から描き始めないのに… 原理論と方法論の区別が先だ フィードバック装置としてはわかりにくい より厳密にはスピノザに多々言及しているカントの遺稿を読むべきだろう (カントの遺稿は岩波全集には収録されなかったので中公哲学の歴史シリーズ*を読む必要がある) * 『哲学の歴史 07 理性の劇場』 加藤尚武編 (中央公論新社). 理性の劇場 にコンパクトな福谷茂によるカント遺稿関連の論考が載っている 英訳を読む方がはやいかも 定理は使えるがほかの文脈にはなじまないだろう。天災の書だが他人行儀さがない。 神よりも大きいものはない ここで、神の他に、なにか別のものが存在すると仮定する そうすると、「神+別のもの」は、「神」よりも大きいということになる それは、「神より大きいものはない」ことと矛盾する ゆえに、神でないものは存在しない 「物自体」は存在のすべてではない だから、スピノザの神ではない 世界各地では殆ど進化論支持です。 君達遅れてるね。 神=自然、宇宙 と読み替えれば『エチカ』は現代人にも読解可能だが しかし現代人には 「結局、3行程度で言える内容だよね、それ」 で済まされて終わる 世界を貧しい禁欲主義的小市民的な去勢された内面化として捉える 神がいて有限な人間は神には届かないから子羊として定言命法に従属する スピノザの全てはそういう認識論の否定だ スピノザはカント的な認識論、近代的主体性に基づく、 実はキリスト教的な神学的知の欺瞞を暴いているところが凄いわけで 自然とか唯物論とか宇宙とかどうでもいい 唯物論だとしてもカント的な布地の中で考えているなら 下らない鼻くそみたいなもんだ 実際マルクス主義も分析哲学の物理主義もその手の 去勢された倒錯した神学に過ぎない カントは神じゃない人間はアンチノミーにさらされるから無限はわからないと言った そうやっておっかなびっくり周りの目を気にしながら他人を傷付けてないか 心配しながら正しい道徳に従属しよう そんな道徳=哲学をスピノザは嘲笑う 神に叩きつけられて衝動の中で選択もくそもない他人を気にしている余裕はない スピノザには偽善も欺瞞もない それがスピノザの神=自然=世界=宇宙 そんな中で何がなしうるかそれを問うのがスピノザの哲学=倫理 道徳と倫理は真っ向から背反する スピノザの衝動を自然を無視した欺瞞の中に成立するのが カントの道徳論でありヘーゲルの絶対精神でありドイツ観念論 道徳的であるとき人は自由である。つまり、自由意志が無ければ道徳的であることはできないから 選択もクソもあるってカントは言ってるんだろ ポストモダンで流行ったスピノザのニーチェ的な解釈だね 現代思想2019年3月臨時増刊号 総特集=ジュディス・バトラー T i t l e : T h i s L i f e , T h i s T h e o r y J u d i t h B u t l e r この生、この理論 ジュディス・バトラー/坂本邦暢訳 私はここにいることを大変光栄に思っており、東京、そしてとりわけ明治大学への訪問を可能にしてくれた すべての人に感謝いたします。私は自分の哲学上の歩みについて話せないかと頼まれました。私は回想録や 自叙伝を書こうと思ったことは一度もありません。なぜなら、私の自己は、私にとって最も不透明なものか もしれないからです。私の自己が、著者として語る私の声にたいしてもっている関係は、少なく見積もっても 大変にぎこちないものなのです。… …スピノザいわく、人間の場合、人間の精神(神の属性と考えられています)の観念は、なにか存在する ものとリンクしていなければならず、その存在するものと独立にあるということはないのです。このことが スピノザを二つの重要で驚くべき定理に導きます。第一に、人間の精神の観念は、必然的に身体について の観念であるという定理です。身体は、人間の精神に対応して存在しているのです。第二の定理は、精神の 観、精神の観念というのは、触発される過程で形づくられるというものです(これは、神によって触発さ れることだと考えられるでしょう。これが観念をもたらすのです)。さらに、人間の精神が別の個体を 触発できるのは、精神に対応して存在しているもの、すなわち身体を通してだけだということがいえます。 スピノザは精神と身体を区別して話していますが、それらがダイナミックな統一体をなしていることは、 はっきりさせています。人間の身体は、私たちが知覚するようにそれが存在している限りで、精神の対象です。 しかし人間の身体というのは、精神が現実的に存在するあり方でもあるのです。… 訳註 [1]スピノザ 『エチカ 』第二部公理二、三、岩波文庫、2011年改版、上巻、113ページ(訳語を変更した)。 [2]スピノザ 『エチカ 』第二部要請五、141ページ 。 [3]スピノザ 『エチカ 』第二部要請四、141~141ページ 。 [4]スピノザ 『エチカ 』第三部定理七、214ページ 。 [5]スピノザ 『エチカ 』第三部定理一九、229ページ。 「死者に死者を葬らせよ」 マタイ8章22節(ルカ9章60節) エチカ第2部より 定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の 様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。 定理二三 精神は身体の変状〔刺激状態〕の観念を知覚する限りにおいてのみ自分自身を認識する。 エチカ 第2部より 定理二六 人間精神は自己の身体の変状(アフェクトゥス)〔刺激状態〕の観念によってのみ 外部の物体を現実に存在するものとして知覚する スピノザみたいな心身並行論だと、思考はどうなっちゃうの? お腹すいたなあ とか この世界は夢かもしれないなあ とか そういう漂う思考は身体に基盤を持っていない気がするんだが スピノザは禁断の木の実を食べることはそれが腹下しをするから体に悪いから避けられると語る スピノザ往復書簡集 神の掟に従わないから神に罰せられる失墜するなどの過剰な物語、道徳の因果物語は認めない 原罪を神に突き放された人間の贖罪の神話を認めない んなこと言うからユダヤ社会から追放されキリスト教社会から無神論と呪われ続けた カントは定言命法、万人にとって普遍的にいついかなる時も変わらない法則を元に理論を作る 個人の欲望離れて誰にとっても妥当する道徳、己を捨てたところに成り立つもの 普遍的な効率良いルール、自分がやられたらうれしいことを人に与えよ スピノザはカント式の小市民を効率的に支配するそういう畜群道徳を批判する 善悪はない 母親殺しさえオレステスでは褒められネロでは悪行の第一に数え上げられる 行為に予め善悪はない つねに正しい道徳も反対の悪もなく全ては状況で決まり内部では正しさは決定できない 全ては善悪の彼岸で、それぞれの生の可能性を押し広げるならそれは良いものである、それがスピノザの倫理 人を殺すことも良いことになりうるし、道徳的なことも生を抑圧するものになりえ全ては状況依存だ 善悪の常に成立する状況離れたアフリオリな正しさなどはない カントとは正反対だが 同一性ではなく差異を秩序や目的ではない欲望や衝動を突きつける 己を殺すのがライプニッツやカント 己を突きつけるのが、己をいかに伸ばすかがエチカ スピノザの倫理はカント的な普遍的道徳を抹殺するところに成立する スピノザはニーチェともドゥルーズとも違うがカント的な道徳律の全面批判や ライプニッツ式目的の予定調和や秩序の批判として成立する、これは揺るがない そんなのはポストモダンの解釈だ本当のスピノザは違うとか小賢しく言って否定する奴はただ死ね 馬鹿は死ね 自分を勘定に入れないのがカント 自分の勘定を如何に最大にするのかがスピノザ カントでも何でも他を貶めてスピノザを持ち上げることしかできない時点で ポモにどうしようもなく毒されているんだよ。江川のスピノザ講義も酷かった。 >>611 カントが自分を無にして万人にとっての道徳律を語ったのに スピノザは同じことやってもネロとオレステスは違う善悪の彼岸を語った 同じことやっても扱いは違う 普遍的な道徳なんかはない それにはどう答えるんだ? スピノザの標的はカント的なものなのにお前は死んだ方がいいよ こんな所で誰も読まない長文を投稿している、 という一つの生のあり方には、とても興味を覚える 晒しage プラトンはソフィストの批判だしアリストテレスはプラトンへの批判 カントはライプニッツやヒュームへの批判 何を標的に哲学を語っているかそれがわからなきゃ哲学なんかできない 禁断の木の実の話一つ取ってもスピノザが万人にとっての普遍道徳の批判を目的にしていることは明らかで カントやライプニッツみたいな一般的道徳や秩序信仰が敵なんだよ スピノザが普遍道徳を批判しているのは証明さえいらない前提条件だ 著作に明白に書いてある その上でスピノザは何を語ったか スピノザの無限、スピノザの公理主義を語らなければならない そこでははっきりニーチェなんかとは違う スピノザは、一切を必然と考えることは、人間に安らぎと最高の幸福を与えると言っているという。 (『スピノザの世界』 上野 修著) 世の中の言論はおおむね、沈黙と工作に二分されている いつでもこういうものだ。戦争に向かうときでもね。 戦前だろうと戦後だろうと、決して反省などしていない。 都合が変わったから、それに合わせて表向きの言動が変わっているだけ。 自分に都合がいいように発言するか、さもなければ沈黙している。 だからこそ、ほとんどの人間はうまくコントロールできる。 どういう言動をすることが自分の不都合になるのか、実力行使または その可能性を示唆して、示してやればいいだけだから。 自分の都合にすら配慮しない人間は、まともではない変な人間だ。 だからコントロールが効かず、危険である。 統治にとっての危険は、ご都合主義の沈黙を可視化してしまうこと において、大方、人々にとっても危険である。それは、人々全体に とって危険であるというのではなく、そのことで気まずい思いを させられる各自にとって危険なのだ。ご都合主義が人々全体に 危険を招いたとしても、その危険が皆に共有されていると感じられる 限り、人々は心の安らぎを確保できる。 社会が人間主体で形作られる限りにおいてご都合主義でないことなど存在しない 誰にとってご都合主義なのか?という違いがあるだけだ だから、各自にとって何が不都合であるかを思い知らせてやることが できるなら、全体にとっての不都合は、それがカタストロフィ的な破滅を もたらすとしても重要ではなくなる。 個々人の選好がそれぞれ異なるってる時点で全体に適用できる不都合ってのは限られるんだよ 経済システムがその好例だが、ある人にとって良いことが別の人にとって悪いことになる 誰かが損しなきゃ儲からないってのが経済の本質でありそれが社会の基本構造だろう ある充足を求める目的社会では生存以外の権利はほとんど どうでも良いことと看做されるが 経済社会においてはその生存権すら脅かされるという始末だ 太古のように団らんとか過剰を求めない安定的な暮らしに基礎を置くなら 誰からも奪わず奪われず、奪う対象者がいないので こうした悲劇は生じてこない 自分の活動能力を高めてくれるものが「善」であるとスピノザは言っているようだが、スピノ ザの哲学は、果たして自己の活動能力を高めてくれるものであるのだろうか? また、スピノザ哲学が自己の活動能力を高めてくれるものであるとしても、それはどの程度 のものであるのか? 例えば、「神即自然」の認識は、どの程度自己の活動能力を高めてくれるものであるのだろ うか? 猟奇犯、サディストなんかは他人を傷つけることで性的興奮を満たし活動能力が高まる訳だからな 善というのは個人の活動にのみ還元できる代物ではなく他者との関わりという複合的な要素が 絡んでいるからそんな風に単純化できるものではないだろう >>632 コトバンクの神即自然のスピノザよりに書かれている「神」の部分を「何か」に 置き換えて読んでみるのだ。スピノザは説いたと思っていたのかもしれないが 人間精神が完全な能動に達して自由を実現してないから犯罪も紛争も止まないわけで。 人間精神が完全に自律的であることなどありえないとスピノザは前提してるんだよ だから、精神が活発に働くような生き様が善でありそれが善であるとした スピノザもデカルトもやっていることは同じ 他者とは意見が異なりうる、視点によって見方は変わる 全ては疑いうる デカルトの悪霊 しかし、連続関数でどっかに不動点はある それが神だ アリストテレス、アンセルムス、トマスなどと同じで個々の事実は疑えても遡って食い違いのない正解は必ずある それが方法論的懐疑 更に数学とか経験離れたアプリオリな真理も嘘ついちゃ仕方ないから、疑いえない真理に基づく合理論哲学が構築できる デカルトは天才数学者でもあり、数学を柱に延長を使って哲学を作る スピノザは、方法論的懐疑の所を無限に置き換える 無限で全てを白日の元にさらせば必ず正解はある 他者との食い違いも、関係ない正しい答えが存在することは証明できる また、相対的な経験、感覚、内面を排除して、無限の操作で、円に対する正しい観念は得られる それは主観に関係ない 主観に基づく内面性、弱者の連帯の観念論廃した、唯物論の白馬の騎士、ドゥルーズ型のスピノザの出来上がり 作図された円に感覚で接している限り、歪んでいて、半径もこちら側とあちら側で違う ヒルベルトが言うように公理主義的な点や直線や平面は、経験的な点や直線や平面とは違う 全ては無限の規則の束で、であるが故に主観や感覚や相対性と無縁だ この無限を通された物は、誰にとっても厳密に妥当し、揺らぎはない、誰にとっても違いはないから 主観主義的観念論、相対性、非厳密性は排除される 主体や内面性、視点の相対性が除外される ヒルベルトの無限は、 一、全てを目の前に持ち出し何も外部がないこと 二、感覚や相対性超越した無限の厳密性 この二つの意味がある スピノザ『エチカ』wiki*、ってものを発見したよ。 2007年というから、ずいぶん前からあったんだね。 一見トンデモとおもたよ。なにせ「自己原因」が「ひとり立ち」、 「実体」が「物質」(! それじゃmatterじゃん)、「属性」が「性質」 (それじゃnatureじゃん)、「様態」が「化身」(それじゃ渡辺淳一じゃん) になっているのだからね。文体もこんなふうに、まあくだけてる。 でもこれがなかなか本格的なんだ。ちゃんとしているみたいなんだ。 ありふれたかぶれじゃないみたいなんだ。いいんだ。じゃ。 朝から起きてるなら 探せばいいのに 【バイトル】でバイト選び!アルバイト・パートの求人・仕事探しなら ... https://www.baitoru.com 【バイト選びならバイトル】時給1200円以上、短期バイト、日払いのアルバイト等、 人気のバイトルオリジナル求人やハローワーク求人情報が満載。バイトルなら 地図検索で自宅近くの仕事を探したり、動画で職場の雰囲気を知る、さらにバロメータで応募状況も ... バイトも終わったんで、改めてスピノザ『エチカ』wiki*について。 どこのどなたがスピノザになりかわっているのか知らないが、 感謝の気持ちを表明させてもらう。「知性」の解釈など。 で、再開してもらうわけにはゆかんのだろうか。第五部だけでも っていうのは都合がよすぎるかな。 以下は読み飛ばしてね。 まず、「舗装」のところは何か誤解があるのかな。 それから、スピノザは祈らなかったと思う。往復書簡集の53(岩波文庫では) の最後のところによれば、「ボクセルさん、あなたのことで神に祈ることは、 私には笑うことなしにはできません」とスピノザは言ったらしい。これは ボクセルのことがきらいだったからでなく、そもそも自分を含めて 誰のためにも祈らなかったということだと思う。畠中さんもそう見ている。じゃ。 スピノザ『エチカ』wiki*のことで、とりあえず最後に。 考えてみたら、このなりすましさんはもう(ないし以前から)立派な 論文をお書きかも知れないわけで(皮肉じゃないよ)、 その筋の人にはすでに知られているかもね。 いっそ、あいつの名前なんかは省いたり、さすがに「物質」は やりすぎかもと思ってもらったりした上で、書物にしてみたら? バルーフさんが草葉のかげで泣くようなものにはならないと 思うんだけどな。じゃ。 神学・政治論おすすめ エチカ挫折するやつ多いからなおさら >>647 >エチカ挫折するやつ多いからなおさら お薦め本: 『スピノザ よく生きるための哲学』 (フレデリック・ルノワール著) 『エチカ』がわからなくても、『エチカ』がゲーテをはじめ物凄い影響力をもち、 人間の生き方を変えてしまう書物だということがよくわかる。 エチカは、すごい平面的だ。「素直」に読めば理解できる。ただ、なぜ理解できたかのか(自分では理解できてるつもり) あんまり疑わずに読んだからである。悪は何とか・・、徳とは何とか・・・そういうのをいちいち反論せず、まあまあで読むと最後に分かるの である。「お前は本当に理解してるのか」とか言われると、まあ、そうと思う、と言う。スピノザは何を言っている?のか!教えろ!、だとか、言う人がいる。 正解は?と言われる。そういう問いそのものは「還元すれば?、演繹すれば?どうなのか」・・そういう問いと似たものである。5 「エチカ」自身が「還元」の書物なのであるので、エチカを読んでくれ、としか言いようがない。1〜3部が、骨であり、4〜5部はそれの展開なのである。 これについて何か言え!というなら、 事実は、1から3部を理解すると、4−5部は驚くほど簡単に理解うるということ。1〜3部を読むとき、注釈や前文(訳者による)を読まないで 曖昧なままに読む・・ということ、神、存在、形相、概念、本性・・といったものは、それで、一々引っかかっているのではよくない。デカルト的な感じで 読めば良いと。 ある種の本は「ザーッと」一回読んで、読み飛ばして、もう一回読めば良い。なぜなら、一回目で言われている概念は一回目では 分からないからである。つまり応用されて初めてその概念が分かるからである。大きい概念ならなおさら。例えば「アパッショナータ」と言われれば、 人は思う。ある知識のあるものは、べートーヴェンのピアノソナタ23番のソナタである。ソナタとは1〜3部からなる形式。とか、 テーマ、テーマの展開部、テーマに戻る、終局部・・。展開部はテーマが長調なら、短調になる。・・だとか。こういうものは実際に譜面を読むか、聴くかしか ないのである。 本は2回は読むべきというのはそういうことである。そういう基本的なことである。詩を暗記しろ!というのも、「落葉」を見たことが無い人に、「君はいつか落ち葉を見るだろう」 という、ことを想定しているからである。その他いろんな無駄と思われることも後に役に立つのである。 そうして、なんだかんだ概念を覚え、概念を使い、そして概念は権力だと思うに至り、概念を破壊し、「適切」な概念を構築しようと思うのである。 エチカは、倫理である。というと、倫理よ道徳を混同する人がいたが、倫理は「良いー悪い」の基準で会って、善悪のことであはない。 善悪は良い悪いから、発生したのである。「良い悪い」は、痛い、嫌だ、気持ち悪い、」などの身体的反応が原因である。 反応(反動、反射)は、己でコントロールできないのは明らかである。「オレは絶対傷付かないぞ!と言う人は、実際には「グサッと傷つく」。 ボードレールや太宰のように、言葉がナイフのようなし方で傷つく人種がいる。こういう人は、傷つく練習をしてもやはり傷つく。 ディオゲネス(キニク派の、樽の中に住んでた人)は怒られる練習をしていたが、ボードレールがこれをしたらヤバいであろう。 ヘルダリンやクライストが、カントの「批判シリーズ」にショックを受けるようなものだ。ゲーテは「お酒」でしのいでいた。 こういうことから分かるけれど、感覚、イメージは「それ自身内在」していて、ある条件下で意識に上る、それ故、身体の基準である「良いー悪い」 にこそ気を付ければならないということであり、「善悪」などの基準は二の次だという事である。 つまり「道徳」ということはそれが「過度な一般性」を持つ場合には個人にとって有害だということである。 住み慣れた田舎が良いと・・老人は言う・・のは、己の身体と他のもの(環境)との適切な距離を築いたので、都会は嫌だという。 習慣は脳の硬直性であるが、「動き過ぎた脳」はこれは、実験的なものであり、真に「創造者」の領分であるり、柔らかくなり過ぎた脳である。 「こういう「全部」のことに「できるだけ早く」到達すべきと言っているのではないだろうか?。ドゥルーズがいうのは「ゆらぎながら、動くように、 その目安、基準、澪標(みおつくし)が、エチカには存在する。・・。 エチカというタイトルからしても、スピノザの最大の関心は倫理にあったようだ 以下、スピノザ『神学・政治論』 (光文社古典新訳文庫) より 《…キリスト教が禁じられている国に暮らす人は、こうした儀礼を行わないよう 義務付けられる。それでも彼らは幸福に生きられるのだ。この例は日本という王国に 見出せる。》(上巻第五章) 以下、上野修『「無神論者」は宗教を肯定できるか』#4より 《スピノザは自分は教会には行かなかったけれども、下宿のおかみさん家族には 毎週説教を聞くようにすすめていたらしい。そして、ある日おかみさんから、 いまの自分の宗教で幸福になれるだろうかと尋ねられて、こう答えたという。 「あなたの宗教は立派です。あなたは静かに信心深い生活に専念なさりさえすれば、 幸福になるために何も他の宗教を求めるには及びません。」 (リュカス、コレルス『スピノザの生涯と精神』)》 >>655 それを言うなら、17世紀のオランダだってそうだ 「正常性性バイアス」などと言っている。同一性のバイアスである。同一性幻想の存在のこと。 明日も生きているだろう、明日も大丈夫だろう。明日も健康であるだろう・・。 例えば、日本で震度3くらいの地震が起こる。日本人は「まあ、これくらいは大丈夫」と。外国人「ど、どうしよう!」と、パニックを起こす。 これの対応でどちらが相応しいということは言えない。日本人は習慣から、まあ大丈夫、外国人は驚く。 この大丈夫・・という感覚が経験に基づく類推であり「「科学的でない」ので、経験値のバイアス(補正)の存在が示される。原理的(演繹的)、科学的なものは二次的になる。 これ(補正)は哲学的に言えば、抑圧、、「忘却」のことであり、痕跡(トラウマ)の処理方法でもある。人間の恒常性の維持でもある。幻想の維持(しかし幻想は幻想の理由がある・・」。 災害の記憶を「そのまま」伝えるということは「トラウマ」を植え付けることであり、いつも「意識」「覚醒」しろということで、これではノイローゼになるので 人間は「忘却」機能を持つのである。幸福、快楽、はすべて「忘却」を前提している。胃の動きは意識されない。それは脳が抑圧しているからで、 忘却能力が能動的、積極的能力であるからだ。体調がすこぶる良いと、今度はすごく小さい傷、変化にも意識が行く。 話変わって・・・・「孤独」というのは、外部刺激が小さいということを示しており、その結果、おのれ自身へ意識が向く。というか「おのれ」という事態が起こる。孤独への適応方法に悩む人がいるらしい。 自由を得ると困るのかな。 ・・コロナ禍における要請・・「もっとステイホームして」、地震、災害において「いつも考えていて!」「避難訓練を本気でやれ」というのは、別の病気へと誘うものである。 「記憶そのものを」人間に押し付けるのは「トラウマ」の伝達であり、限界があり、返ってそれは「虐待」でもある。それは「法」「「システム」に反映されるべkいものである。 「個人の意識」が大事だと言っている人は、悪しき精神論に陥っている。小池知事の「ステイホーム連呼」のように。「がんばれ」の連呼の悪夢で、旧日本陸軍的である。 ニーチェは言った、目的を欲するものは手段も欲しなければならない・・。コロナをどうにかしたければ、その具体的な方法を欲さなければならない・・。 つまり、自殺はいろいろな刺激がある日常(=行動、習慣、ドーパミン放出など) が阻止され別の、行動をするように結果である。行動=習慣を変えられ、相対的に 阻止されれば、小さな傷は意識され(拡大されうる)。行動は実は忘却の作業であった ことが分かる。そして忘却は脳の作業であり、極めて脳の作業である。脳の反響である。 人が行動、ブームであれ、行列に並ぶのであれ、「じっとしているのが苦痛」が あるからである。それらをくだらないと言ってはダメであろう。それらを「いつも逃げている」 と言うのを「ポジティブ」な意味で理解しなければならない。有機体を保持したいならば。 「脳とじかに触れ合う」ことは、脳と対峙することは、これは有機体の、オルガノンの そと(外)を発見してしまう。「人間」はある組織化された「有機」化されたつまり、国家 なのであり、常識、共通感覚、・・そういう幻想である。文化が「必要な嘘」であることも 同じ意味である。だが宇宙がそうであるようこと、宇宙が非有機的であることに 反抗している。 有機体は崩壊過程であるので、 遅かれ早かれ終わる。関係の崩壊である。関係が崩壊するまえに別の関係を創造するのが 「生殖」と呼ばれている。子供を産むことである。子供を産めば産んだ当事者らが 「不要」になるという・・のは生物学の範囲である。人間は生物学を超えているので、 不要に(生物学にポジシオンするならば)生きるのである。 「自殺は悪いと言う」のは脳であり、国家でもある。自殺は良いも悪いもないけれど、 必然的に訪れる。「自粛」「ステイホーム」などの要請は、自殺を手助けしている。 自殺は、その前にうつ状態になっている。というか、うつ状態という定義が自殺から 導きだされたようにも見える。苦痛の持続もそれだけで威力があるが、苦痛を考えて それで、苦痛が「有機体の響き」であることも知るようになる。これは苦痛の意味の変化 であり、即永劫回回帰へ結びつくので、つまり、「苦痛は生命に対する抗議」ではなく、 ニーチェはこれを言っていた。しかし、生命(有機体)には抗議しているのではないかと 思う。抗議というか、この「痛み」自身が我々を流れさせ、忘却させ、一度は克服した 痛みを再び襲うからである。ライプニッツの「沖に行ったと思ったら、岸に戻っていた」 ヤスパースがニーチェについて言っていた「以前考えていたときに戻っていた」 ということ、文言は違うが。 聞き分けが無い「(差異と反復、ハードカバー版、財津理訳 のP387ページ)」から、常識を知らないから、器官なき身体=他者=自我がそれに よって作られるそれ、自我を上から見てるヤツ、自我にとって恐怖である「そのヤツ」である。 ・・孤独に慣れており、またはそういう上記のような真理を知っている ものは、孤独は練習、鍛錬の過程だと知っている。しかし、脳が非常に強く、脳が 極めて、常識的、公的、国家的・・すなわちオピニオン(偏狭なモデルの支配下)つまり自我 であることは知られている。苦痛のただなかで「それ=脳」を知る者は 「器官無き身体」の存在を経験で知ることになる。「不眠」「狂気」は器官無き身体の 現存在を示している。自我を「そとから」見るような、本質的に「他」であるもの。経験的に 知られ得る。論理的にも知られ得るだろうが、経験の方が早いと思われる。 この「点」が多くのものを「巻き込む」ので自我が衛星だということが分かる。 あんまり適切ではないけれど、つまり太陽系における地球が自我、地球にとっての月 だとも言える。そしてこの月は物体ではないと思われる。物体が「それによって動かされる それ」である。だが「それ」は抽象的ではなく、それが働きかけるものの近くにいる。 近場にいる物質どもに関係するものである。dx/dyとドゥルーズは言っていたが、規定 されうるものである。未規定、規定、規定可能性のどれかと言われれば、規定可能性の 存在だと言えるかもしれない。可能性は「現事態の併存の表象」と言われてきたが 「(現事態の併存の表象)の態勢、傾向」の生成過程であると言える。結局「微分」という 概念である・・。速度の平方根(立方根、多面体根?)と言えばいいのかな。 つまり、ある「独立」に関わる・・・他の独立)。 というわけで、自殺は「他者」による行為であり、自殺は他殺といことになり、この 他は「他の秩序」がある。カオスから自我が発生しているので、その反対をたどれば、カオスが「ある秩序」があることは分かる。 さて・・。牽引するそのヤツの正体は・・。?? > 『この「痛み」自身が我々を流れさせ、忘却させ、一度は克服した 痛みを再び襲うからである。ライプニッツの「沖に行ったと思ったら、岸に戻っていた」 ヤスパースがニーチェについて言っていた「以前考えていたときに戻っていた」 ということ、文言は違うが。」』 という文章は、分かりにくい、書いたときは、自然に思えた。 つまり、「痛み」のせいで、今まで学んでいた「考え」「信念」「信条」などを忘れる、それらの思想から離れてしまう、思考、信念、、などが 「無効」になるということである。「痛み」のせいで、賢いものもアホになってしまうということで・・。 ・・ツゥラトゥストラはこう言った(かく語りき)を読むといろいろ気付く。普通のアホから〜高度なアホまでの物語とそれらを俯瞰する ツゥラトゥストラ自身もそれらの「〜」に含まれている。 ・・「・・だから信じる・・ということはつまらないことだ」と ツゥラトゥストラは言っていた。だがどうであろうか?結局、「差異と反復」に翻弄されることを肯定する他ないが、これの意味は 「差異と反復」を肯定するのと、差異と反復を「欲する」ことなのである。そして・・。 スピノザについては、ニーチェとドゥルーズが継承しているように思われる。進化したのか、そうではないのかは分からないけども。 ドゥルーズ氏の「スピノザと表現の問題」の問題点は、コナトゥスの説明のとき「あれ?」と思う。多くの人がそしてオレも気付いたけども 結局分からないのである。「分からない」というのが、「分からない」=「それが答え」と言うのは気取っている感じがするし・・。どうだろろう???表現の問題? とオレは言っていたけど、痛みそのもの最中で、痛みを捕らえると、痛みそのものの外部 には行ける。痛み自身が続いているのだけれど、659〜661氏はまあ自分のことですが・・痛みを脳であるが脳でないかではっきりしていない。 それは、痛みと(脳)と他者が互いに巻き込みあっているからだろうと思う。痛みを俯瞰するものがいる。 痛み。の変状。様態としての痛み、は身体の変状の現在である。まあ炎症である。ひざ、こし、舌、胃、咽頭、腸 様々な部位である。自己免疫性疾患であることが 多い。「闘い」「戦いの最中」である。炎症が意識されるか否かで、病的かどうか判断されうる。というのも「病的」という概念が 問題というより、「個人的痛み」が重要である・・・??。上咽頭の療法、これは別のスレッドで盛んに意見が言われている。 上咽頭はこれは、頭部の中心で、縦から横から見ても。刺激することによって様々な部位を即刺激する。 「塩化亜鉛」「ミョウバン」「ヨウ素」などで刺激するらしい。上咽頭の上に脳の重要な部分がある。扁桃体、海馬、など。 まあ。個人的には顔、頭部の骨の配置、筋肉の強さが、第一のみるところで・・。身体、強度。延長、精神。 ・・コロナで、習慣を変えられたものたちは、それゆえに身体も精神も、延長も強度も変えられうる。 自己免疫性疾患。ストレスを「外部」と捕らえていた人々はその「外部」が無くなるにつれ、外部が 無くなるのではなく、内部の「外部」を気付く。ヘルペス、リュウマチ、アレルギー、鼻炎(咽頭の生理学的炎症,頭痛など、自己免疫性疾患である。 が現れてくる。これは、行動の大きさ、動きの多さ・・、これの平均値が、つまり習慣が変えられることに基づく。スピノザが言う「小さな完全性、大きな完全性」、・・その変動過程の。つまり、 「関係」そのものの解体、再構築なのである。これは類比の破壊であり、これは痛み、傷の生成過程 である。普通の言葉で言えば、「運悪くこの時代に生きていて損だな」と。まあそうなのである。 だが、こういう事態で「得をしているものがいる」。それらの人は比較的習慣を変えられていない・・はずだ。 そういうもの・・大きな変動を免れていない集団。変動が「最後の方に来る」集団。「庶民」の 苦痛をじかに感じないもの。苦痛が遅れてやってくるだろう集団。政治家、マスコミ。 人が出歩かない→物を買わない→利益が出ない→給料下がる、物を買えない→・・。 消費は生産だというのは、消費は給料だからである。消費が少なければ、給料を上げればよい。 という簡単な話である。ここの「割りあい」を個別、具体的にやれない。さて、利益なのか、ルサンチマンなのかという大きな命題に到達する。というのも、国家というもの組織というものは、庶民、雑多なもの 「真に自由なもの」を嫌い、憎しんでいるからである。小池知事の「命令」がカントの「定言命令法」と それに「残酷の臭いがすると言ったニーチェ。これは、小池知事「なぜ庶民どもは分からないのか」と思っているだろうが、庶民から 言うと「なぜ国、自治体はアホなのか」という問い・・そういう事態と似ている。 結局は法は負ける。規定(法)と無規定(法など知らない)な人々では、どちらが多様に振る舞えるか かである。法は結局、庶民と同等に下りてきて、警察、暴力、を振るうようになる。これで ドゥルーズーガタリのいう人間は、とりわけ組織は「戦争機械」という意味がなんとなく分かる。 皆は、ミヒャエル・コールハースだということだと。結局、暴力が出現するのは最後の ほうであるが、賢い、さかしい?人はいきなり暴力だと理性で思うのは、すごい直観か、普通に思考しているか、オレのように「考えて到達する」ということなのである。そして「考える」というのは 「表現」と不可分らしい・・。つまり「観念する」ことらしい。「観念しろ!」というけれど、これは 観念自体が名詞であるというより、観念が動詞に近いことを思わされる。諦めろ、行動を諦めろ、 そういう意味であるから。小池知事に「観念」「怨念」を感じる・・。古代の暴力・・暴力は 「暴力になる前」に化粧(理性)していないとなれば、スッピンをさらすことになり、おぞましい事態へと生成し、見た目が良くない・・そういうことになる。見た目は実は本質も含んでいる・・というのはスピノザの「変状」と「属性」の関係である。属性の関係の変化が「神」であり、関係の変化は「類比」を 破壊している。比自身が己自身が異なる。どのような同一性の種類の概念(類似、類比、対立)も当てはまらない。類比、類似、対立は「生成における同一性」を指示しており、互いに「参照」している。 空中で仲良くしている。大地にすむものに「関係」なし・・である。 ・・・「働いている」ことと「労働すること」の区別は、昔‥特に江戸時代以前は無かった。労働と休息などと言うのは、だらけがちな欧米人の キリスト教のせいである。労働は様々な意味を持つ、「行動のよる忘却」「行動による思考の停止、または更新」「賃金獲得のための苦行」など・・。 一元的に語れない。例として、テレビに出ているアナウンサーを調べてみよう。とくにフリーか、所属会社があるのかはまあ問わない。どちらも縛られている。 まず「思ったことを自由に言えない」「ある種のルール、規律、コード、変数、」の掟がある。それを言うと「クビになる」ような事態である。まず一点。 そして、「印象」の掟がある。これは、顔面、服、髪の毛のタイプ・・などの制限がある。本人らが意識かは問わない。今は。言葉の単語、単語の関係、の ルールがある。・・。お前は何を当たり前のことを言っているんだ!と言われそうだが、・・。 それらは、それらの発言は社風を反映しており、利益、その会社の利益も反映している。大概、それらの団体、それと国家、産業、利益団体、学問的な団体 ・・それらはそれぞれの利益を追求し、衝突もしているし、利益があるなら一致もする。メディアスクラムというのもそうであり、同じ情報、情報の発信の方法が 各団体において、それぞれの利益にかなうものになる。 ・・そして、利益のための手段で「ちょこっと」「少し」真実を入れている。読売だろうが朝日だろうが おんなじ である。「こういう不要な」人々は、人々への「恐怖」「不安」「の出入り口になっている。またはなろうとする。不要不急の外出云々・・というがテレビは不要不急なのである。 しかし、高齢者どもは中毒になっており、著しく衰えている。ので、習慣性テレビ依存になっている人がいて、それの要求がまた、対象(会社)の利益と近づいている。共依存という関係である。 ステイホーム派か否か・・の二者択一に追いやれている国民。こういう結果、国家が、国民とともに「大本営」へと生成している。歴史は繰り返すというのは正しいらしい・・。 その原因は、明日も同じ、明後日も同じ。明日も飯が食える、明後日も同じ飯が食える・・。そういう単純な理由によるものが大半である。「差異」「チャレンジ」「セロトニン」「安定」「反応」 と聞いて、連想するのは日本である。世界の大事故。。大敗戦、原爆2個、原発爆発、こういう「でっかい出来事のとき」に失敗するのがこの国の運命である・・。というのも おれがやる前におまえがやれ、おまえがやるならオレもやる、というふうな、古くから言われてきた、護送船団、責任回避、長い文章の連続投稿、すいませんでした。 スピノザの言いたいことは、 まず存在(神)、属性(神を構成するもの) 様態(神の様態自体の変状)。 静止と運動の割合は維持される方が良い(コナトゥス)。 割合が変化するというのは、例えば、記憶喪失など (第4部定理39、備考)。死の概念は個体の割合の変化 のことを言っている。大人になることは子供が死ぬことである。 ある人間が記憶喪失になることは「ある人間」が死ぬことである。 スピノザは迷信的な人を「考慮」して、備考をあんまり展開しない。 認識する能力が理性である。より多くの刺激を受けうる身体を 優れたものである。これは、テレビがつまらん、楽しみがない、何もすることが ないというとき、それはその人自身に「受け取る能力」がないのである。 エチカを読んでも「これは!」とか衝撃を受けることが大事である。しかしテレビや新聞がつまらないというのも真実です。 だが、エチカやその他の書物を読みきったり、理解するのには 多少の苦痛が必要があることもあり、それゆえ苦痛の善である場合の根拠 になっている。ある程度「読んで」「急がなく」していると、途中で「強度」を 迎えるときがくる。そういうことを考えれば、書物は最後まで読むべきで、 なんなら二回も読むほうが良いだろう。エチカについて言えば、彼のその 概念の意味は後になって分かるからで、あらかじめ分かるように努力はしているけれど どんな著作も複数回読むほうが良い。 苦痛は、それが快感を過度にしないように、また能力を減少 させない限りにおいて善である。・・とかスピノザについては いろいろ話せるのだが、結局「エチカ」を読めばよいし、ドゥルーズ も確かに良いのだが。スピノザの弱点は運動、生成がないということだろうか。 「様態の変状」が「神」と呼ばれるのであり、その逆ではないということ。 類比に縛られてはいないか?という疑問がある。 コロナ禍において、エンジンをもたない人々、何の能力も開発してこなかった 人々がいる。「退屈」している金持ちだ。そうとは限らないけれど、スピノザの 第4部の備考は、「火山」にあふれている。つまり怒っていたり、凡人や金の 亡者 (生きるためのお金を望む人はそうではない)「第4部、付録、第29項。 第29項は、金融や、お金自体を目的とする人を攻撃している。怒っているようである。 。、手段を目的と考えるもの、過去に生きるもの・・「端正人」じゃない人。 死について考えることが少ない人は」は、オレ個人としては、少し疑問がある。 というのも、思考や理性が受動から生み出され、またそれ故過敏になり、 カオスの牽引を受けるからである。アルコールが引っぱり役になることが多いし、 コロナ禍での、医者、メディア、政府などにうんざりもし、たいして生きる価値あるのか とは一度は思うだろう。・・。とにかくエチカやその他の偉大な書物に戻るだろう。 ちなみにショーペンハウアーは7割はスピノザであとゲーテと反ヘーゲルでできている。 また、第2部、定理11にオレは躓いていない。 確か、チルンハウスとかいう、小賢しい青年がいてた。 その人はスピノザの「人間はその本性どうり 生きるのが善である」に何か文句を付けていた。 じゃあ、悪人は悪人の本性で生きるのは正しいのか?というような意味の質問をした。 スピノザの答えは、まあそうだ。ということだ。 悪人、例えば明らかに遺伝的なもののせいが悪人にならざるをえないケース。明らかに遺伝・・とは言えないが 何かしら遺伝が関わり、産まれてきて、親が悪人っぽい、「親自身そのものが殴られて育たれてきた」ケース。 遺伝的、社会的にもマイノリティの世界の中で育てられたもの・・。は本性上、悪、意地悪、暴力を喜びとするもの、 憎しむものが破壊されるのを喜ぶ、・・その人は、「悪、意地悪、暴力を喜ぶこと」をすることが善になる。それが小なるものであっても。 悪は相対的なのかどうか?つまり8時間労働しないものは怠け者だとして、8時間労働しないやつらを消す。そうすると今度は7時間労働するやつは 相対的に悪となる。そして、おまえ7時間しか労働できないのか?という怠け者のレッテルが張られる。7時間人間は消される。そして今度は6時間人間 が「おまえ7時間働けないのかよって。」言われる。こうして、一体全体、するべき労働時間の幅、や悪を次々消していったところで、「まだましなやつ」が繰り上がるだけである。 以前は犯罪者じゃなかったもののちょっと妖しかったものも、より「悪だったやつら」が消えたせいで、「今度はオレらの番かよ」。そういうふうになる。 で。絶対悪というものはなさそうだ。となる。メジャーかマイナーかの争いになり、グローバルか国家蝟、国家かテロか、警察かヤクザかとなる。しかしお互いが互いに必要としている。 結局パワーバランスとなる。(ニーチェの力への意志が「力関係」だとドゥルーズは言いたいわけで、それは合っているように思われる)。 スピノザもよく似た意地悪な問いをチルンハウスから受けたわけである。 これは各々、自分自身のポジションを守り、エゴイズムを貫くことが正しいのである。 日本人、や集団主義の場合、エゴイズムがいけないというのは、公共性がエゴイズムと重なるからである。スピノザの推奨は、公共性とエゴイズムが近くなる方が良いと 言っていた。エチカ第4部のどこか。エゴイズムと人が言う場合、個人なのか、代理なのか(後から組織から恩恵を受ける)見極める必要がある。 ドイツで緑の党が高い人気を得ているのは、地元の政治で利害を代表するか、 国政において政権をとっていない限りにおいてだよ。フランスで政権をとるまで、 マクロンの「共和国前進(REM)」が圧倒的に人気を得たのと同じ。 「環境の正義」が「神の座」につくことができるには、人々が神の名において 血で血を洗う抗争を繰り広げたように、対立する利害を代表する人々が 「環境の正義」の名の下で互いに鋭く対立できるような状況になることが 要件となる。でなければ、与党の座につくことができたとしても、いままで の与党と同等か、それを上回るグダグダの状況をもたらすことになるだろう。 皆が「環境の正義」に依りかかることができるようになれば、健康食品や ダイエットなんかと同じように、それを信じていようといまいと、多数の 人々が活発にそれを商売として積極的に利用しようとすることになるが、 いまのところ、人々は、その「商売」が大部分、政府と大企業に独占され ていると感じている。 なぜ、第二部、定理11につまずく・・とスピノノザは言うのだろう それは、神の本性を人間によって「説明」も表現しうるからである。 神の本性は「それ自身必然的」なので、あれか?これか?を選択することはないからである。 人間(神である限りの)と人間(人間である限りの)が区別されている。。。 これはスピノザを読むものは理解できるであろう、、。 これは人間というものが「非妥当的」に知覚、観念もしうることを言っている。 またこれらは弟2部、定理7が根拠になっている。 「なぜ、第二部、定理11につまずく・・と言うのだろう」のは、 繰り返し言えば、それは「人間が嘘をついたり、虚栄をはる・・」そういうことを行い得るからで、いろいろな身体の変状を多く知ること によって、それらは正される、(どの属性でもよい)、 。つまり多く知るものは、必然性も知る。つまり、一応経験論の過程もあればよいかなって言っている。だが経験論は間違いうることも言っているのだろう、 ちなみに、第2部、定理13、公理1と公理2は矛盾していないのかなぁて戻ってしまう・。。「変状を考えずにそれ自体で考察すれば」、それは分かる。 そして第1部定理1に向かわせる。。「実体は本性上アフェクティオ=変状)」に先立つ・・?そして 定義3に行く。。そうして、第1部定理1が証明になっているのかどうか?と思う。ここらへんだな、この天才・・ 違うぜ、アフェクティオが先なのだよ。というのは、そんなに難しくがない。彼(スピノザ)はどんな苦労をしたのだろう。彼の知性は苦悩が見えるが 彼は、苦悩l、苦痛、・・それらは良くないものだ。そう言うだろう。そういうものを経ずに到達できる思想があるのだと。 >>674 そうなのだ。環境、sdgs(持続可能な開発目標)だとか、何やかんや言うている。ふざけているにもほどがある。 これらは、「それらの概念を用いて金儲け」する新たな手段の概念で、5年ごとくらいに出てくる。 お金以上の目的はない。そうすれば、中国のウイグル問題、香港、など武力で解決できるであろう。 日本の「コロナの水際問題」も解決できるであろう。中国に生産工場があるから・・人権はできない・・そういうことである。 結局、問題は経済しかなく、コロナ問題も「経済を悪くする限り」において問題で、そうでなければ、2番目の問題である。 「問題」はいつも経済でしかない。他の理由「温暖化、sdgs、フェアトレード、人権、地球に優しい、再生的商売・・」は経済の手段である。 人間は地球をリサイクルできないし、地球を「やさしく使う、過剰に」使う・・そういう判断の権限はない。地球そのものがわかっていないのだから。 わかっているのは、地球が冷える(惑星として)、隕石のブツカリで出来た火の玉の地球・・恒星ではない、なので冷える・ 、太陽もいずれ膨張する。 いずれにしても「人間ごときが」あれこれ言ってもたいしたことではない。人間ごときが地球に物を 言っているのがバカバカシい。それなら、「自由に人間をやれ」。何が持続?誰が持続・・?極めて小さな問題・・プラスティック問題? 。んな問題は「科学存在しない」。どいつもこいつも小さな政治問題だ。プラスティック?使えばいい。二酸化炭素減らす?植物を殺したいのか? ちなみにコロナのこと、茶番のことは、人口削減、高齢者削減のように思う。 コロナ(初期、→中期(行動できない、中期2?→自分のイメージを越えなければ ならないのに超えれれない)、コロナが終わるか、知事が変身する(発狂して) 終わるか、同終わるか分からない。 時はまだ来ていない、中間休止が 来ない、「徴(ツゥラトゥストラ)。 どちらも「同一性の叫び」であり、過去に生きていて、 彼らには「行動するには大きすぎる」これは、都知事、行政側のことを言っている。 彼らオイディプスやハムレットのように今だ行為するに及ばない、。行動と等しくなる というのは、オイディプスの場合は「預言者テイレシアス」の預言(予言ではない) ハムレットの場合は、ポローニアスを殺すところではなく(それはある、欠如よる 行動、オイディプスがまだ預言を聞いていないときである。ハムレットの後半は 恐らくレアティーズを殺してからだろうか。つまり、オイディプスとハムレット、アンティゴネー ツゥラトゥストラは形式的に同じであり、ツゥラトゥストラは後半の悲劇が書かれていない。 (書くはずだったにちがいないとドゥルーズはいう)。つまり、前半の反復が何か出来事を 起こし後半へと反復するのだけれど、動物そのものを背負い(人間以外の形態、形相そのものとなり、行動するということなのである。 これら行動(過去のなかで)、中間休止=自我の破壊=行動に等しくなる。行動する。 こういうことをヘルダーリンは、オイディプス王とアンティゴネーにおいて発見したのである。 それと中間休止のこと、ニーチェの真夜中・・というのは何だろう。偶像(表象、宗教) の黄昏であろうか。差異と反復(p.147〜) 観念→運動はない。 これはスピノザを理解しているかどうかの試金石でもある。 ドゥルーズも水泳のことについて、学習についてで語っている。 つまり「泳げ!」といっても泳げるようにはならない。観念→運動は存在しない。ただ観念=運動の平行があるだけである。 がんばれ!と言ってひとが「頑張る人」がいるとき、観念属性に働きかけており、その働きは働きかけられた人がその観 念に反応する場合に限りにおいて同時に延長(筋肉だとか)「に影響する。 これは、属性は他の属性に影響できないという当然のことである。だから属性が「神」でないのである。 これは、例えば、ある人がある人に「右足を上げて」というと命令されたその人が右足を上げた場合にも、これは観念が 延長に影響されたのではない。 観念が観念に働きかけたからである。そして「右足を上げる」運動を「すでにやったことがある場合に限る。 耳の聞こえない人を想像すると良いかもしれない。平泳ぎせよ・・と言って、いくら説明しても、平泳ぎできるようにはならない。 平泳ぎと平泳ぎの観念は平行であり、比例、類比は存在しない。運動としての平泳ぎと観念としての平泳ぎは一致することがない。 そもそも「一致」という概念と概念なき運動は、「一致」というものが考えることができない。運動は「考え」ではないからである。 こういう風に考えるとデカルトの松果体という結論にいたる。つまり脳のことである。デカルトの松果体は本質をついて いる、そして依然我々も同じ困難に陥っている。 。脳は精神系の物質を運動系の物質に伝えている・・というのでは物質のことしか語っていない。アドレナリンが出て「 興奮」「免疫力がおちる」 と「言う」のはトートロジーみたいなもので、「何も説明していない」。精神系の物質?物質の精神? そもそも何が間違っているのか?それは、精神を物質で説明し、物質を精神で説明することから来ている。 ・・スピノザの言うことが分かるだろう・・・。精神は物質を認識することだけで、それだけである。ひたすら認識である。 そして、物質に名前をつけ、区別し、精神(観念)の因果関係の必然性を追及することに尽きる。「自由」の観念が精神が物質を 動かす・・ような事態に陥っている。「自由」の概念は、「必然性」とか「運命」の概念と重なっている。自由の概念が本質をとらえるとき それはまた「体」のメカニズムをとらえたときであり、マシンのマシンを捕らえたときであろう。メカニズムには「組織」の概念が不可欠だが メカニズムを捕らえたければ「マシン」の認識が必要であろう。 で、習慣的に、とか「くせ」などはいちいち「意識」はいないであろう・・という。 それは、表象と観念を混同していることが原因である。ライプニッツの「微少表象」を 考えればわかるであろう。身体の何か、各々の部分は「各自に」指令しているのである。表象してなくとも(脳にあげなくても) 勝手に「観念」し、「動いている」のである。 つまり、身体の各部分は「脳がなくとも」考えているのである。それは当たり前だと、無意識の運動、はあるだろうよ・・と。 無意識とは、繰り返された運動であり、動物のものである。人間とは動物の「はみ出た」ところである。 人間という「形相」は動物の形相も背負っている。「超人」とは動物ごと変化することであるが、我々は「動物」も知らなさ過ぎるし、 細胞の心も知らないし、医学がいろいろ解明してはいるが、。本当に何にも知らないで、道徳的におしゃべりしているのに唖然とする・・。 つまり自由と運命の概念、能動的と反動、意志と抵抗する意志・・これらが「偽りの対立」なのである。 というのも。 自由とは深く調べると必然性の認識でしかないからである。自由の概念はそもそも無条件で何でもし得る・・その「感情状態」を言っている・。自由の意識とそれが事実であることはことなる。・ 話し変わってオレは・・。?はて。、「父と子と精霊の御名において」・・。この認識はイエス・キリストの奇怪、ある人にとってはわかりやすいらしい。 自由=子供 。子=「世界に入り」 。父=世「界に入った」、。精霊=「せかいに入る感情」 ニーチェはこれらを「掌のように分かる」と言っていた。これは難しい、要するにこれを手に取るように分かる・・。 オレもちょっと分からない。どういうことなのだろう。? 簡単だと、。そのような感情を認識するニーチェを理解するのは・・我々には難しい・・いったい何の話か。論理的に解明できなさそうだ・・。 そのイエスの感情をやはり理解できなく、やはり弟子らしく誤解するらしい・(弟子の慣例)・。即時的に幸福(快感ではない)に成ったイエス。あれこれ論理を考える弟子ども。 弟子は大体歪曲する。・・・・。 そしてまたその幸福状態の条件をひねくって考える弟子たち。(要するにイエスと同じ経験をしていないので分からない)、イエスの成立条件を、イエス自身と同じ体験をしていない?・、 この「いつわりの」概念は、自我の概念からきている。 ある少年が才能があっても、母親が耳が聞こえなく、父親が酒飲みだとする。その少年はその才能が開花されないだろう。 しかし、本当に「聡明」には育たない・・とする。しかし、そういう状況ながら「聡明」になって、生い立ちの条件が 「己の育ちに影響した」そう思うだろう。それは両親にも言えることだ・・そういうことを知るだろう。その両親の親にも同じことが言えるだろう・・ そういう全部のことを聡明な少年は知るだろう。そして、少年自身も「まともな親」になるのに「必要なこと」は学べなかった・・。そういうだろう・。 そして己自身も、親も、誰も責任がないことを知るだろう。 ・・・・そして「まともな親」「正常な親」というのが、ある社会の「要請」であることを知るだろう。その概念が「いつわり」だと知るだろう・ そして、もっと学んだ少年は「正常な」という嘘の概念が社会に必要なのか?と思うだろう。自由意志というのは無いことも知るだろう。 でも、自由意志が「存在」するがごとくに振るまうしかないことを知るだろう。「王様は裸」だとは言えない、ご立派な衣装です・・そういい続けねば ならない、そういい続ける・・それが「社会」だとしるだろう。ホントウのことを言えば社会はつぶれる・・。嘘ばかり言い、舌先三寸で「生きてる」ものも 必要なのか?と問うようになるだろう。「正常よりの嘘」をいうことを「常識をしる」ことだと知るだろう。医者が我々を助けるのではなく、我々が医者を助けている そういうことを知るだろう。そういう事態があちこちであることに気づくだろう。もっと考えると「媒体業」がもっとも薄汚れていることに気づくであろう。 「銀行」「人材派遣」「テレビ」これらは、自らは仕事しないで儲ける職業だと気づくであろう。富豪が自ら働かず、金を与えて働かすだろう。 これらの職業は、己たちは「中立」「公平」という嘘で、「他人に意見」を言わし、いつまでも自分たちは「透明」だというだろう。何にも労働してないのだから。 彼らは「自らが滅びない限りにおいて」「その程度に至らない限り人々に優しい」だろう。そしてこれらの対立が、遠くに見えたユダヤ人問題だということに気づくであろう。 ジル・ドゥルーズ氏の「差異と反復」の結論あたりの文章で、スピノザが「ただひとつ間違えた」というのは。という文言がでてくる。 それは差異が差異であることは、精神、延長の概念にだけに還元できないということである。同じ平面を有しない差異なのでそれらは 多義性と、差異といわれるのであって 比較(比例、類比)が不可能であるからこそ差異と呼ばれるのである。 差異の多様性は「本当のデコボコ、凸凹であって」、その差異を「属性」に還元する、演繹するのは間違い」であって、 「差異の即時」」を「己以外」によって説明するからである。 スピノザ・・エチカは、は「属性の多様性」を言いながら、二元論的な解釈も許す ことができうる・・・・ように見える・・。ただ我々はスピノザは「他の属性」の存在を主張していたことは知っている。精神、物質。属性は二種類だけだという理由はない。 「?」属性があり、それを我らが「思惟、精神」属性によって「認識」できうるかどうかはわからないのである。 「差異が存在する」というのは、一義的には言われない。一義的であるというのは「比較」」「類比」を意味しているからだ。 「永劫回帰」は一義的の反対であり、「反復の即時、独自」である。「義」とういう概念が分かりにくいのは、義が延長概念の上下、精神の概念の優劣 を含むのを思わせる。差異が「対立」「矛盾」と何の関係もないことを考えればわかるけれど、。 文化、法体系、常識、これらは全部「偽りの概念の」もとに運用されている。我々が嘘の世界で生きれるのは、、 我々の感覚が元になっている。 自由の概念はほぼ笑いたいほどウソで満ちている。我々は条件付けられているのは明らかで、感覚も「ウソの生産」で必死であり(生物自身の思考がサキドリする)、それを前提とする思考なども 二重に間違えている。ベルクソンが言うように知覚そのものが類似の原型を作っている。 そういうデタラメ、科学もそうだが・・、。デタラメな思考の人をよく目にする(要するにコチラから見ればある公準に従ってものを言っている人)。 無規定で、自由で、根拠を持ってる人・・・・これらの人々は「奴隷」である。この原因は条件付けられた人が、その条件を害する理由がなかったということに元ずく。なので金持ちに多い。 なぜなら、「障害物」に出会いもしないし、己を 拘束され、規定され、自由などウソくさいと、パントマイムよろしく透明の壁の存在を察する人・・は逆に「自由人に生成できうるであろう」?か。 。 ドゥルーズが哲学とは何か?と問われたとき「真の自由の概念」の認識 だと答えた。「偽の自由の概念」の「意思の自由」これらが、人々を愚かにしている。政治を変えるのは「選挙」だという人の言い分が一見合理的だが。大概頭が悪い人だ。これらの推論の根拠は法が 正しい・・からきている。 法の成立根拠や、法のベクトルを何にも考えようとしない。「責任」というむかつく偽りの概念などといえば、 その人は年齢に関わらず「老害者」のレッテルを貼り付けるべきだろう。 攻撃を「絶対的に忌避」するものは、時と場合によって「馬鹿者」である。それは、法による暴力もありえるし、ありえるどころか法はいつでも「有無を言わさず」襲ってきて、反論を許さない大きなハンマーであるから。 ときおり、ゆるく、優しいのはこの大きなハンマーの土台を固めるためである。攻撃をしらない人を時折みかける・・。反撃もできない??そういう人が存在する・・。飼いならされすぎたか、幼児なのか? そのような存在でいて、いられたということ。反論できないので反論を演じる・・。 観念ができなければ、・・行為もできない・・。 関係ないけれど、ニーチェが「おのれがダイナマイト」だというとき、比喩ではなくダイナマイトなのである、ハンマーで哲学するというときも同じで、暴力の行使であり、怒りなのである。 ニーチェが「おのれがダイナマイト」だというとき、比喩ではなくダイナマイトなのである・・ という「。 これは「発破」に使う(「物理的なダイナマイト)・・の概念を、概念自体が変形している。 。というときダイナマイトの概念が変形する。これはニーチェ自身も知らない。我々はいつも我々を表現した際h表現」を行為しているのである。 大事なことは、ドゥルーズも言っていたが、概念を疑うことなのである。「法」「正義」「科学」などの概念が「ふんわり成立」しているもの、 「ふんわり成立し、で生成できない」概念であるということだ。キルケゴールがヘーゲルに対して言っていることは「対立」「矛盾」の概念が 運動に関わらないこと、概念の変化を受け入れるのには抽象的で大きすぎるということだ。 これはドゥルーズがハイデガーの「存在」に対して 言っているのと同じである。運動を抽象的概念に回収しても、その概念が運動に関わらないということである。ハイデガーは 「 存在」がその「由来」するものに基づかない・・って言っても。つまり「差異と反復」のドゥルーズのハイデガー批判のことである。 これは、ハイデガーが執拗に「存在」に固執して、意図せずとも・・「差異」を同一性に「回収」するからである。 だから、概念を運動させねばいけない、ということである。ニーチェが「体系家」を信じないというのは、そういう者は運動を抽象的に 整理するだけで、何にも生成に関わらないように見えるからである。 で、皆がいう哲学はつまらん・・屁理屈だとかいういわれの原因になっている。そんなことは「知っている」というものは浅い。 己らが「何をしている」の一端を我々は捕らえた。 快 楽が手段であって、その逆ではない。「快感原則の彼岸」とは、快感は「それの」手段であり、快感は「向こう」へ行こうと生成する。「快感」は己のなした ことによって、己が変化する。「快感を目的」にしているように見えるが、「快感自身」の変異を「行っている。快楽は手段なのである。そういう予感は 自我をも壊しかねない。でも進むのである。恒常性の破壊の印を見せる。また快楽の条件が外部にたくさんある。こういうことで、節制は出会いにも制限を設ける。 すなわち、恒常性、同一性を破壊しにくることと同じなので 己を折りたたみ理性として・・・例えば性行為のときにある種の破壊、 精神におけるパニック障害におけるパニックが怖い」のは差異が自立して「己の」行きたいところに行くという。・・それらを避けるために「己の世界を」せまくする必要がある。 それが節制なのである。 古代ギリシアで・・へクトールは馬車で引きずられた。パトロクロスも引き回された。 こういうことは理解できうる。しかし、アポロンがプラトンとアスクレピオスを産んだ・・・という。 。。こういう「神」と「人間」の同一平面?どう理解すべきなのだろう? トロイア戦争にゼウスやら神が参加している。神々と人間が「普通の関係」をしていたり、 神々が人間にあきれていて、いつも注意するし、・・大概人間に怒っている神々・・。 そして罪や罰は神々のせいである・・。キリスト教と違って、神は人々の罪、罰を引き受けるのである ギリシアの世界に我々は入れていない気がする。どういう世界だったのか?「二千年もたつのに神が生れないとは」 とハイデガーは言った。こハイデガーは古代ギリシアに行こうとして、ナチスに行ってしまった。まことに古代ギリシアに行くことは難しい。 古代ギリシアとはソクラテス以前、まだまだ神々が本当に生きていた時代だ。 >>687 の発言はオレなのだが、いろいろ誤りがある。責任の概念は強者の由来であるし、虚構の概念の中でも存在しなければ ならない概念でもある。ただ、強者、弱者の概念もそのように「責任」の「概念」自身が誰でも運用できるので すなわち我々の世界に巻き込まれて機能しているので、「偽り」とか要っても仕方がない。 「老害者」とか言っていたが、それは、ちと言い過ぎた。もっとも無力感を感じているのは、若者も老人も同じで、 ある。レッテルを貼るべきとか言う狂暴な発言もだめだ。恥ずかしい限りだ。オレとしたことが・・。 まあ、一応。。 欲望、快楽、それ自身はよい。欲望という概念が「怪しい」。大きすぎる。欲望と「生」という概念が」同じすぎる。 欲望以外の「何か」が存在するかのようだ。やはり「欲望」の概念が大きすぎる。 「ある人と話したい、肌に触れたい、嫌な感じの人に接触されたくない、ある人を殴りたい、ある人と性的関係を望む意」・・ それらが全部「欲望」の名で「一緒くた」にされている。欲望は「ヴァリエーション」に満ちている・・。といっても 相変わらず「欲望」の多様性であって、「欲望自身は「変化の元」であると認識されている。 欲望というで多様な「欲望」をまとめて」しまう。それは「欲望」の一義性のことである。欲望を「存在」と言い換えても同じようだ。 で、多義性、多義的というのは、「欲望」の一犠牲の破壊である。例えば、あるタイプの女性とセックスしたい。女性の着衣の状態が 良い。え・・・パンツを集めたい・・。俺は細い男性が好きだ。・・そういう多様性が「そのまま」の表現で、性欲、欲望ではなく・・、変態」というが「そのまま正常 というふうに」言われたならば、それは欲望の多義性で、「欲望」観念の破壊である。だけれども便宜上は使われるけど。 性的行為、登山したい、人を殴りたい、・・側溝に寝て女性を下からみる、これらは変態の種類であり、であるから、「同じ」だといえる。「差異が同じ」というのはこういう意味で言われる。 数的に区別されうるが、つまり「正常、異常」は数的区別だというまあ普通の結論に至る。そして言いたかったことは・・人間のあらゆる行為は「それ自身」で非難されない。 つまり「恥ずかしい行為」は無い。存在しない。「恥ずかしい」は「メジャーの人がお前がマイナーだと言う」・・、でマイナーの人も「メジャーの考え」に成っている限りにおいて成立する。 ニーチェが「「偶像の黄昏」において、「達成された自由の印は己自身に恥じないこと」といっていた。それこの人を見よ」で、恥ずかしげも無く「私はなぜこんなにも賢いのか」 ということなどを書いた。思想が実行されている。・・。で「偶像の黄昏」で、「一番悪いこと」は・・「人を辱しめること」だと。 ショーペンハウアーやプラトンは、「美において生殖活動はされる」と言う意味のことを言っている。 そういうことを「偶像の黄昏」で言っているニーチェ。 これは、として女性を性的対象と見る場合に、美人過ぎると「どうもなあ」とか、整いすぎて「どうもなあ」 という事実があるので、ショーペンハウアーやプラトンの言うこともわかるのである。 というわけでニーチェ氏は、ちと「あんまり分かってない言葉なあ」。そういうことです。 美と魅力(引き付ける力)には差異が存在するということだろうと思う。 .>695 656氏の 「美において生殖活動はされる」という表現は間違っている。間違いである。言いたいことは 、「美において生殖活動は停止される」「刺激されない」・・。そういおうと思ったのですが。・・。 性欲の発動?条件について、 (ショーペンハウアーやプラトンとニーチェが異なる意見を言っているのである。 。つまり美が性欲の発動条件だとは限らないということである。(プラトン、ショーペンハウアー)。 意は美である以上、魅力である。 つまり美は確かに魅力ではある。だけれども「美し」すぎる、美しすぎるもの、そういう女性に(男性などたちは)「性的衝動」が緩和されるのではないか? ・・そういう意見をプラトン、ショーペンハウアーが言っていて、それは正しいと思う。繰り返しで申し訳ない。 ところが、ニーチェはそういうことを「偶像の黄昏」で・・」、「それは違う・・・」と言った。。・美は性的なものに関係があると言うニーチェ。 これに関しては、オレはプラトン、ショーペンハウアーの言うことが理解できる・・ということである。 >679 それは同意だ。・・また話したい。 サンデル先生の教室で、 頑強に?理解できていなかった(したくなかった?中国人いた。が ところで話変わります。 。アルトゥール・ランボーいる。いた。「己は他者である言った」とか言ったひとである。 ドゥルーズが、「批評と臨床」言っていたのでは「ラッパが木になっていたとて何であろう・・」いうそう場合ランボー少年は それはい。若った そういうことは幼稚すぎる。そのときドゥルーズは「カントの他者」説明 したかったのである。ランボーは あれこれして「ランボー(本当に他者)を発見する。 例えば、ある種のタイプの病気になる、。 ・・我々が、極度の「苦痛ある状態」、の境地でありなながら、相対的以上に 独立し、明快な「自俺を分」ときがある、いる・・とした己らは(アイツ=痛み)は何者か、なのなんかと・・思う。、「俺が気を使い、気にしてやつらは、つむいだ繭玉と」そして 「繭の中にいた俺が気使っていたもの、をそして「公共」「道徳」 「アイツ」が他者だと、番犬じゃないか、ケルベロスないかと・・と じゃないか・繭玉=国家=他者 そして、突然だが、オイディプス(いわゆる)になる。いうと卑近な例でいうと 「父親」そうだが「母親」である。おぞましい。子に利益を上げ、重要なところで でしゃばり、なんで関わりも判断をし、「お金か、頭の悪い親では無知、無垢」を免罪符にする。 「公」では悪くないのでたちが悪い。なぜって、彼らが「国家の端末だからだ」。 ニーチェの杖をヒトラーに渡したフランチェスカ・ニーチェ、ランボーを 「聖者」として棺にいれようとした、ランボーの妹。ゲーテ「母親!なんとおぞましい」。 >679 それは同意だ。・・また話したい。 サンデル先生の教室で、 頑強に?理解できていなかった(したくなかった?中国人いた。が は下記に訂正します。 >697 それは同意だ。・・また話したい。 サンデル先生の教室で、 頑強に?理解できていなかった(したくなかった?中国人いた。が すいません。 例えば、将棋をする人(おいらもですが)、藤井君を知っています。 藤井君がすごいのは、ある場面を記憶し、次の場面も記憶し、その次も記憶した・・そのときに どの場面も「同時」に並列(以前の記憶も以前の記憶にならないで現存在)しているということです。容易に 分かることです。。ときおり藤井君は負けますが(深浦九段とか)・・それは一つの分岐の読みにおいて深浦九段が読みぬいて(記憶)いるということです。 普通は分岐も含めて読むので、とんでもない数の手を読みますが、分岐であるがゆえに深くは読めません。 組み合わせが何億にもなるからです。この分岐の選ぶ(選択)が大局観です。選択肢の減少のこと。何億の手を覚える必要はありません。指してる 筋により組み合わせが減るからです。(厳密にはそうではないですが)。 ・・記憶については・・。ベルクソン、ニーチェから学べることです。未来(約束の記憶)、過去(過去の記憶、トラウマも含む)の中でも 未来の記憶(約束=やるべきことの記憶)が為されている限り、その人は過去を有効に使っています。未来、過去というのが形式的に 区別されていて、よく考えれば未来は過去からの類推で、過去は以前として「去らない現在です。」、トラウマは過去の強制的な現存在の一部です。 ただ、年をとると、多数の記憶の想起ができなくなるため、特に「約束の記憶」が(「想起出来なく)なるため、いいかえれば現在が「覆いかぶさり」、約束が意識下へ行くということです。 ただその記憶は「過ぎ去りません」し、「現在の構成部分」でもあります。これらは将棋だけではなくあらゆる知的活動に言えます。 そしてこの能力は「自我」の外部にあるので自我の部分ですが、関係がよくわかりません。そもそも自我は外部の部分です。だけれど(外部「環境」、身体、関係項)は操作できない わけではないですが、薬の深い知識と同じように、よく考え、相手(外部)との親和性を考慮する必要があります。外部、能力についてはまた別の機会に・・。 スピノザを無視せず宗教のことを語ることはできない。 スピノザは宗教については、それが迷信、妄想を生む限りにおいて「悪」だというだろうし・ 宗教それ自身が人間の弱さの印である。ただ敬虔なキリスト教徒を口頭など、日常などで批判することもなかった。 ユダヤ人の宗教はスピノザの実生活(=思想)に影響及ぶため、それを拒否した。政治が彼に及んだ。だが彼は政治的にも利用されなっかたし 本当の自由と必然を信じていた。そして己自身の到達した自由を信じていたように思われる。ゲーテやヘーゲル、ショーペウンハウアー ニーチェ、の思想の核心はスピノザにある思う。ヘーゲルの場合はよくはわからない。デカルトが大きな一歩をなした。 ライプニッツはやはりその天才をもってデカルト派に組し・・、ではあったが、知られてるように「神」をなんとか「理論的」に説明をししようと苦心した。 スピノザは、そこでは迷わず、神=存在であると認識し、認識すれば必然的に「そうなる」ことを説明した。ニーチェは後にスピノザを見つけた。 ・・ヘーゲルは「対立」という「最小の差異」やら。現実の差異を「矛盾」という・・どちらも 同一性を基準にし、それが故に生成そのものが「否定」となることになった。 ライプニッツやベルクソンは、微視的観点から(副次的矛盾)から考察し 偉大な書物を残した。ベルクソンの参照書物が、以外に知られていない人々であることからも彼は、非常に細かいところから積み上げていった。 スピノザやニーチェは、思考、哲学が、国家に奉仕しかねない危機をもっていた。 だからこそ、スピノザ、ニーチェはwikipediaで調べても何も出てこないし、wikipediaは頓珍漢なことを 書いている。ウィキペディアに国家や権威の臭いがプンプンただよっている。変わりにハイデガーやウィトゲンシュタインについては さも凄いように書いている。御用学者達が。まあハイデガーについても御用学者はどうも分かっていなさそうだ。 「存在」といっても、国家がそれを採用するかどうかは国家側にあり、すでにそのことが哲学が政治が巻き込まれている。 経済については、皆がもっとも関心があり、もっとも隠されているとも言えるし、選挙結果からも言えるし、メディアの傾向からも言える。 マスメディアが「老人」すがって、そのすがる人々の年齢層のメディア関係者は「逃げ切ろう」としている。つまり、老害とマスメディアは 共犯関係で、偽善の共犯である。老人たちは「若者に迷惑かけたくない」というが、実際の投票行為などは若者に迷惑をかける傾向にある。 こういう事柄は、犯罪者や反抗的な人に意見を聞けばいいが、その人たちの意見は聞かれない。法の下にある 弁護士によって妨げられている。弁護士が裁判官と同じというのは、法学者や判例の僕(しもべ)だからである。 俺は初っ端のunderlyingが気になる。スピノザから離れるが、 物自体は認識できないbyカント/できるbyシェリング の対立を思考処理した結果そうならざるを得なかったのか・・ https://en.wikipedia.org/wiki/Philosophy 意外と初っ端がそんなにややこしくなくて悪くはない感じ 抽象化を避けて物事を簡単にし過ぎるとやばいということか 岩波から全集が出るという知らせがあったのに、ことほぐ人がいないとはね。 >>710 そんなあなたが真っ先に書いてくれてよかった これはまさに朗報ですね 本当に予定通りの期日に出るかどうかは半信半疑ですけどね とにかく上野先生監修ということで安心した せっかく全集が出たとしても國分先生だともやもや残しそうな気がしてた 全6巻別巻1…実際の刊行順が大事だな 初回でエチカ、第二回で書簡集だとありがたいが >>708 同意 「神などいないのに、神について議論しても無駄」 と言ったのはポパーだが、日本人ならば創価以外はみんなそう思っているよ。 underlyingというのが”根底にあるもの”ぐらいの意味ならわからんでもないが、 そうすると形而上学とはまるっきり違う形而下の事になってしまうしなあ。 豪華ハードカバー版で新訳のエチカが全集から出るなら多少高かろうが絶対買うぞ。 東京大学大学院人文社会系研究科・文学部 鈴木泉 http://www.l.u-tokyo.ac.jp/assets/files/teacher/2014-2015/SUZUKI_Izumi.pdf 「岩波書店から刊行予定の『スピノザ全集』編集委員として、全集刊行の準備を進め、 幾つかの著作の翻訳を終え、来年度の刊行に向けて、現在、最終的な調整を行 っている段階である。」 予定より数年遅れでようやく2022年に刊行される事となったのか。 こうなったらラテン語原文・その逐語訳・読める日本語訳の併記 さらに各国語の翻訳・解釈の脚注の同頁掲載くらいやってくれないとな なんてったって畠中エチカは1700円で所有できちゃうわけで >>719 何年前のだよ。准教授時代のものじゃないか もう教授になってるよ しかし、ようやく主著を出す準備をされてるんだな 遅れに遅れまくっているようだが 山内志朗『ドゥルーズ 内在性の形而上学』に以下の記述あり。 「セカイ系に見出される宇宙的な感覚はスピノザ哲学と通底するところが あるように思われる」(pp.99-100) これって、スピノザをニューエイジに近づけるような、困った 読み方なんじゃない? 「スピノザの思想は、徹頭徹尾奇妙な思想である。(…)スピノザは あまりにも禍々しく、戦慄を引き起こす」(p.100)なんて いうのには同意するんだけどね。 ニューエイジと言うよりかは、 世界を救うんだみたいなストーリーのアニメのことを言ってるんじゃないの。 小泉義之がバタフライ効果と一緒にセカイ系をどっかで批判していたね。 >>1 日本哲学の流れからするとスピノザは独特の読解をなされている いわゆる神と全に付いての考察だ。 ところが重要なのは神との対比ではなく、実は全体と部分の哲学で あることは日本ではあまり知られていない こういう例だ もし神様なんてものがいるとすればなぜ世界にはこんなに悪があって 救いが無いことが多いのか?と問う その問いに、では悪や地獄を分けましたと答える すると、分かれてしまったら神様は全てを扱っていない事になる 神様は全体ではなく部分しか扱えないのか?と言う疑問が生じる こうした部分と全体の関係と巧妙に繋いでいったのがスピノザである >>723 セカイ系批判って中央の人が地方を差別するのに使う方便だから あまり本気にしない方がいいな >>725 セカイ系批判というと、例の、社会という水準の欠落というような やつですか? >>724 >神様は全体ではなく部分しか扱えないのか?と言う疑問が生じる それ、言葉遊びでしょう。 神なんていないんだから >>727 いるいないは、「神」をどういうものと考えるか次第ですよね。 >>728 主に昭和平成の旧マスコミが原因でしょうね 彼らが神を否定するためにスピノザは神即自然を打ち出したと 提唱し続けましたからね 部分と全体の哲学に関してはあまり注目されていません 全てに神がいるのなら、僕をあの有名人と入れ替えてください! という願いも叶えられるはず しかし入れ替えたものが本当に自分なのか?って言う 「スピる」がスピノザと関係なくてよかった。 スピノザのスピり読みほど凡庸なものはない。 スピノザは、スピ(リチュアル)系ではなくて、「トゲトゲしい」、 "espinosa"の方から来てるんだろうね。 >>728 スピノザはトマス・アクィナスから多大な影響を受けているから、 『神学大全』を原書で読んでからでないと、大抵は誤読するよ。 スピノザの神を神様と混同してるやつはスピノザを騙って何がしたいんだろう どちらかと言うとそれは、一神教の神様って実は元ネタがあるんですよっていう話だよな キリストは三位一体だし イスラムは気候の神 ユダヤは永遠神 日本も主神は一応いる それぞれシンボルに描かれている 一神教の制度化によって何がそれまでと変わったのか? その変化を記述してごらん。 まともな問いを形成することもできないのに、 正しいを認められる答えだけを求めても無駄なことだ 例えば、祷りを捧げるための神聖な空間と人々の関係はどのように変わったのか、 そういうことを具体的に記述してみると、いろいろと見えてくるものがある。 そういうふうに問いを形成しようとすることが、問題へのアプローチを 考えるということ。アプローチを検討しながら、何を問題としているのか がより明確となり、その問題意識を他者と共有することができるようになる。 それスピノザ関係なくないか? ホッブスとかジョンロックの方じゃね まったく意外なんだが 神学政治論は読んだがエチカは読んでない そういう人がいるのかね デカルトといえば、聖アウグスティヌス スピノザといえば、古代ローマのストア派哲学 絶大な影響を受けてるのは生前から有名 そもそも、哲学者のいう「神」は抽象化された存在であり、聖書やコーランに出てくるのとは違う イスラム哲学では、哲学者の神は「ハック」、コーランの神は「アッラー」とする区別があった デカルトやスピノザのいう神とは、ここでいう「ハック」の方 >>744 大陸合理主義っていうのは、名前だけだよ。 >>743 ホッブス、ルソー、ロックは公民 デカルト、スピノザ、ライプニッツは神秘的 パスカル、ニュートンは理系 な感じもするし、混ざらない人もいるんじゃない ニュートンは己の分をわきまえていたけど、 スピノザ、ライプニッツは自分の能力以上のことに挑戦して、自爆してしまった。 >>746 英国経験論も意味不明だよね。 tabula rasaな訳ないでしょう。 サルも人間もtabula rasaならば、同じになってしまう。 もともと、頭の出来が違うんだよ。 2022.02.10 17世紀の哲学者・スピノザを、21世紀の私たちが読むべき理由 『スピノザ―人間の自由の哲学』刊行記念 吉田 量彦 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/92089 昨日のNHKのサイエンス・ゼロは、DNA解析から見た「倫理」がテーマだった。 やはり、科学はすごいね。 文系脳がスピノザにしがみついているのが哀れに思った。 諸感情の定義 … 五 軽蔑とは精神が、ある事物の現在によって、その事物自身の中に在るものよりもむしろ その事物自身の中にないものを表象するように動かされるほど、それほどわずかしか精神を とらえるところのない事物の表象である。 宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て ――スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」(全文) 《序言 経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の 物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。 云々 定義 一、二 略 三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品 経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。 それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と 解し、然らざる場合には受'働'と解する。 仮定 一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又 同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。 二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って 物の同じ表象像を維持することが出来る。 定理 一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於 いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。 証明。略 系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、 又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。》 (2008年宇野弘蔵『『資本論』と私』271-272頁より。同書解説ではスピ ノザエチカ第三部 序言以下のパロディと解釈される。初出は1935年、東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。) 《…宇野は,資本の物質的過程に則した原理の純粋化(方法の模写)と,その純粋化によって要請される政策目標設定との 「同時並行性」を指摘するのであるが,この種の「唯物論」がスピノザの「心身二元論」に着想をえていると,宇野自身に よって述懐されていることは,十分に注意されてよい。宇野自身によるその説明がない以上,その真意は測りかねるが,た とえばアルチュセールによれば,「無神論者」スピノザは,敵のもっとも強い陣地たる神=無限実体から始める。これは並 行する二つの属性,思惟(精神)と延長(身体)の無限様態に自己を実現する。しかしスピノザの方法は,情念(身体)に 対して,知性(精神)からの制圧=改善を期待するところにあるのではない。「心身二元論」「心身並行論」の名で知ら れるスピノザのテーゼは,しかし精神が身体から切り離されているということでもない。精神が身体と「ともに」思考すると いうことであり,一方の他方に対する優越を禁じているのである。この関係は,国家と資本とのあいだにおいても想定可能 である。つまり国家(精神)は,資本(身体)から切り離されえないばかりか,資本(身体)と「ともに」ありながら,資本 と「ともに」思考する。国家と資本もまた,厳密に「並行関係」を保ちながら,際限のない過程を展開するのである。国家 という「精神」は,ヴェーバーの認識とは反対に,資本の動向に対して,外からその行程を歪めることなく,資本という 「身体」と「ともに」,あるいは資本という「身体」に「おいて」しか思考できない。こうした理解を示すかのように, 宇野は政策と原理との関係を,スピノザにおける精神と身体との関係になぞらえるのである(宇野弘蔵『資本論五十年』上, 法政大学出版局1973]:476)。》 大黒弘慈「宇野理論形成の思想的背景―純粋と模倣―」2007より http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf (これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期第20号,太田出版他を纏めたもの) 知性とは知れば知るほど無知であることを思い知ることです。 みなさんカズさんの新著『スピノザ』を読むのです。いい本です。 まあ、最後の最後で祈ってしまうところなど、カズさんが必ずしも スピノジストでないことを意味するのかもしれないけれど、 それはともかく、エティカの最後のtam difficilia quam raraは、 やはりカズさんの言うように(p.324)「滅多に見かけないが、 それくらいむずかしい」ってことなんでしょうね。 ちなみにスピノザはここで、キケロの友情論にある、名高い、 omnia praeclara raraを踏まえているみたいですね。 ただ、この文の冒頭のSedは、Butではなく(Curleyはそうしているけれど) Indeedってことじゃないかな? フランス語ならMaisで間に合うけどね。 畠中さんの「たしかに」なんかの方がいいんじゃないか。 「実に、(キケロの言ったとおり)何であれ価値あるものは世に希だが、 それはそのくらい達成困難だということなのである」 279考える名無しさん2021/09/30(木) 08:55:40.750>>283 >三河と尾張となる志香須賀の渡り 志香須賀の渡りは、確かに河の渡り場ではあるとされるものの、 水の流れが激しいために渡ろうか渡るまいか逡巡の思ひが浮かぶので、 なるほど「しかすが」という名のとおりで、そのことが興味深い。 >この文の冒頭のSedは、Butではなく(Curleyはそうしているけれど) Indeedってことじゃないかな? フランス語ならMaisで間に合うけどね。< 英語の"But"そのものがフランス語の《Mais》と同様に、「それにしても〜」 という意味合いで感慨を表現するように用いられるから、そのように 解釈すると"But"と"Indeed"も互換的になって、結局は、どのように 読み取るかという問題になるのでわ。私は、ラテン語は読めないし、 原文を見たり、訳文を比べて見たりしたわけではないので、よく知らないけど。 ↑ 大阪弁なんかの「しかし」についてもそれは言えるけど、 でもエティカの最後の sed が「しかし」でよいかは別問題かな。 Sub specie aeternitatis は「永遠という相(ないし観点)のもとに」 ということで、これを「永遠の」とすると、「相(ないし観点)」が イターナルだとも解せてしまう。 ちなみに、アイスばっかたべてるとおなかがイターナル。 もちろん一遍に七冊まとめて出るわけはない エチカが第1回配本とはかぎらない なんにせよ画期的ね。 岩波文庫の全作に膨大な注釈が付けられるんだろな。 一冊一万円くらいかも。それでも買う >>776 昨日の岩波書店のTwitter 今日はオランダの哲学者スピノザの命日(1677年)。アカデミズムの傍流にありながら、ヨーロッパ思想史のなかで常に重要な位置を占めてきました。9月には、小社より「スピノザ全集」(全6巻・別巻1)を刊行予定です。どうぞご期待ください。 新訳だからみんな歓んでいるんだよ? それに畠中訳も古いだけで悪くはないよ そう。畠中訳は立派なもの。 で、新訳の訳者の名はまだ秘中の秘なのかね。共訳もありか? いずれにしても、奇を衒わないようにお願いしたいものです。 企画としては20年以上前からあるみたい その途中で誰かは知らんが、役者が死亡したりして 発刊が遅れに遅れたらしい エチカの難解さは翻訳のせいではないんだろう たとえラテン語ネイティブがラテン語オリジナルのエチカを読んだってやっぱりこのスピノザとかいう男は何を書いてんだ? となるだろうし スピノザに限らず、きちんと理屈を追えば哲学者の考えが理解できて、 その哲学を教えとして学ぶことができると思うのが幻想なのだと思うよ。 そのことは、哲学者に限らず、相手を説得しようとして何らかの理屈を 捏ねる人の話を根気強く聞いてみれば分かるはず。どういう 理屈を捏ねているのか理解できたとしても、それで相手の話に 説得されるわけではない。相手がどのように感じて、そのような理屈 を捏ねているのかが、我が身のこととして感じられて初めて、 それに説得されるか、そうでないかが分かれる。 だから、相手の感じ方がよく分かったとすると、その理屈に説得された としても、自分にとっては、相手とはまったく正反対の結論が導かれる ことさえ充分にあり得る。 大陸合理主義では、スピノザとかライプニッツとか意味不明なことがもてはやされたんだよ。 進化は万能であるって本だと評価高いが けっこうあちこちに面白いことが書いてある ヘーゲル、カント、マルクスって解らなかったがある人の解説で基本が氷解した けっこう尊敬する学者も基本は解ってはいなかったことが衝撃 数学、科学もそうみたい 学問はまだまだ発展途上ってことかと 解説してた人は学問は中世に毛が生えた程度ではないかと書いていた そうかも >>794 まあそうなんだけど、スピノザは或るところで 「哲学的には不死」と言うんだよ。 訂正。Curleyがさる論文で以下のように言っているだけだった。 Had Spinoza worked out, in 1658, the views he later tried to articulate in the Ethics, then he might have said this to Fr. Solano: the soul is immortal, but only philosophically. >>794 物理としては他の物理状態に生成変化するだけで生滅しないようです エチカの最後のところのsed、独訳もaberで問題ないが、 だから「しかし」でよいとはならないわけです。 吉田先生の新書読んだよ どちらかというと背景にフォーカスしてて、それももちろん大切だし有益だったけど、 肝腎のスピノザの思想の紹介は正直物足りないと感じた 本体1200円の新書としてもお買い得だと思うけど、どうせならもう100ページ書き足して1000円高い選書あたりがちょうどよかった気がする >>748 ライプニッツが自爆したなんてないだろ モナドロジーは使えるし、神の予定調和も健在だ >>758 DNAとか量子論とか気象学って文系でも学んでおくべき理系分野って気もするけどね ガチガチの理系は天文とか物性やっている、他には地球の内部とかそんなの 理系も文系も扱うけど切り口が全然違うのが料理と小売業だな 働かないと言うから誤解されるんだな 働いてはいけないと言えば良いのか 時間は有限なんだ、その事が分かってない それと私は君みたいな凡庸な存在とは違うので働いては駄目なんだ すると現実を拒絶して怒り出している 残念だけど、これが差なんだよ 君のような平凡な存在は働くことが奉公だが 私のような存在は 職業:私 だから自分らしくあれば良いのだ 働くと言う事は他人に従属する行為だからやってはいけないと 教わりました、これ本当 神様の完全なるコピーは神様なのか?と言う問いだろう 正道ではテーマにならないけど、同人や批評界隈だと良くテーマになる そこそこ人気のだ、批評も二次創作みたいなものだからね この完全なるコピーってのが良く分からないんだよね 天国でも地獄でもない奇妙な空間って古典でも設定されている キリスト教では煉獄、日本では黄泉、ギリシャ神話では奈落、仏教では天魔 単純に割り切れないものがあるんでしょうな 根源的には全と部分の扱い方になるんだろう >>807 それがスピノザとどう関係するのか説明してもらえる? 全集刊行を見届けるまでは落ちてもらいたくないので保守しておきますね 保守します 六月もおしまいですが、全集に関する続報はとくに届いていないようですな…… どんな装幀になるか楽しみですね 岩波だから奇抜なのにはならないだろうが従来の箱入りクロス装幀がいいな 八月お盆ど真ん中 いまだ全集一切音沙汰なし 本当に出るんかね 来月刊行予定のスピノザ 全集は新刊案内を読む限り、 「初訳作品を収録」とか書かれているから、いずれも新訳ではないのかな? 講談社現代新書で読んだスピノザ 入門の著者の名前が全集の編者として出ていたから期待したんだけど。 エチカ単体を豪華ハードカバーで手に入れたいから、 他の作品と抱き合わせで収録してほしくないなぁ。 エチカは読むのに根気が要る書物 かなりの根性がないと無理 スピノザ全集、なんか途中で訳者の人が亡くなったりして 大変だったらしい >>813 全部新訳と聞いてます 文庫は文庫で残すのかな? 本当に今月中にスピノザ全集は刊行されるのだろうか。 本気で出すつもりはあると確認できただけで収穫なのである 今年中に一冊でも出たらよくやったと歓ぶくらいの気構えでちょうどよいのではないか ……といま一応ググってみたら、その岩波から国分氏がまた関連書を出すようだな 岩波のHP上では、今月の新刊案内に全集のことが一切書かれていない…。 全集の発売は来月以降、下手したら来年に延期なのか? 岩波もこれから発売予定のスピノザ関連書籍の情報を載せるくらいなら、 全集の刊行について現在どの様な状況にあるのか教えて欲しいものだ。 神有!!! 神即自然!! 神持無限様態 神是唯一実体而二個以上実体不可有!! >>822 全集の刊行予定日について新しい情報が出たのですかな? >>824 おお! ありがと! 初回配本からエチカ? 上野先生自らの翻訳!? しかも俺の想定よりはリーズナブルな価格設定 ここまでは減点ゼロだわ >>824 この情報をずっと待っていました! ありがとうございます!! エチカは絶対買うぞ。 第一回目配本&単体収録で良かった〜。 全集出るんですね ところで編者の上野先生は専門家として 二人目の鈴木先生はデカルトとフランス現代思想の専門家ではなかったでしょうか? しばらく業界の動きをウォッチしていなかったのでわかりません 知っている方いたらご教示願います 新訳エチカ読んだ人は感想書いてくれたまえ もちろん個人の見解でいっこうに構いません >>829 一番初めに知ったときは朝日新聞で市民運動モドキみたいなニュースに載せられていたが 後日名前だけ覚えていたら徐々にそれっぽい仕事しているんだなってのは分かった>哲学者 >>832 畠中訳でも鬼頭・斎藤訳でも「動物精気」だが、より適切な訳語があるというなら御教示ねがいます 一応、念の為 >>835 だが、俺は >>832 ではない 「動物精気 訳語」でぐぐったら2位に出る文献 これくらい読もうや スピノザはデカルトのいわゆる「動物精気」、そんなものは虚構であると言っているので誤訳もなにもないのではないかな 全集、あんまり話題にならないみたいですね。 『エティカ』の新旧訳の具体的な比較を、どなたか示してくださいませんかね。 それ次第では購入するかも。 「動物精気」と呼ぶか、別の名称で呼ぶかにかかわらず、そのような名称で呼ばれる「存在者」を優先的に想定してしまうことが罠なのですよ。 知性改善論 (講談社学術文庫) バールーフ・デ・スピノザ、 秋保 亘 | 2023/12/11 文庫 ¥792 自由意志の否定と倫理学—『エチカ』第4部読解— 小田 裕二朗(大阪大学) スピノザが『エチカ』において人間の自由意志を否定したことはよく知られている。精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない」(『エチカ』第2部定理48)、「精神の自由な決意で話をしたり、黙っていたりその他いろいろなことを為すと信じる者は、目をあけながら夢を見ているのである」(『エチカ』第3部定理2備考)など、スピノザによる自由意志の否定は、『エチカ』の至るところに見受けられる。ところがその一方で、『幾何学的秩序によって論証された倫理学』というタイトルに示される通り、『エチカ』は倫理学についての著作である。しかし、前述の通り自由意志を否定したうえでの倫理学はいかにして可能なのだろうか。スピノザの生前においても、この問題はチルンハウスによって「我々が外的事物によって強制されるとしたら、誰が徳の習性を獲得しうるでしょう」(書簡57)と批判されている。自由意志を否定したうえでスピノザはいかにして倫理学を構築するのか、そしていかなる倫理学を構築するのか、これらがまず提起される問題である。 『エチカ』が倫理学の領域に入るのは第4部からである。その第4部の序言では、完全性、そして倫理学の基礎的概念となる善悪について述べられているが、スピノザは完全性及び善悪を事物の実在的な性質ではなく、我々が事物を相互比較することによって形成される概念にすぎないとする。しかしスピノザは同じ序文で、これらの言葉を保存しておくのは有意義であると述べる。「なぜなら、我々は、眺めるべき人間本性の型(naturae humanae exemplar, quod intueamur)として、人間の観念を形成することを欲している」(『エチカ』第4部序言)のであるから。そして、この「人間本性の型」という概念を用いてスピノザは完全性と善悪を以下のように定義しなおす。 善:「人間本性の型」に近づく手段となると我々が確知するもの。 悪:「人間本性の型」と一致するようになるのを妨げると我々が確知するもの。 完全性:「人間本性の型」により多くあるいはより少なく近づく限りにおいて、より完全、あるいはより不完全と言われる。 スピノザはこの概念の導入によって倫理学の用語を復活させ、倫理学を構築しはじめる。従って、スピノザは『エチカ』においてこの「人間本性の型」という概念を導入することによって自由意志を否定したうえでの倫理学を構築していると言える。 本発表ではこの「人間本性の型」という概念の分析を通して、スピノザの倫理学をその構築から考察し、いかなる倫理学を構築したのかを検討していく。そこではスピノザの倫理学にはなぜ「~~すべし(ought to)」という命法が用いられないのかということについても明らかにされるであろう。 絶賛進行中だろ 予告の通りには進まないが全集というのはだいたい後れるものだから想定内 read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる