スピノザ [転載禁止]©2ch.net
浅田彰 ライプニッツはものすごい天才だと思いますが、哲学に関するかぎり、
スピノザはもっとすごい天才かもしれないですね。いまだにぼくはスピノザと
いうのがよくわからないんです。 デカルトは、無神論の流行に危機感を抱き、「神の存在を証明して無神論者に反論する」という目的で哲学を始めた。
その哲学の継承者であるスピノザはどうだったか? 彼の哲学の目的は『知性改善論』のはじめに書かれているね
「人間としての最高完全性へ到達すること」
「精神と全自然との合一性の認識」を為すこと、あるいはそれに向かうことが彼にとっての喜びだったらしい 神を信じないのではなく神が知覚できないのが無神論だよ。 左が身体、右が精神
スピノザの哲学はこうした対義語を有機的に構成するためのレッスン
スピノザ『エチカ』
1実体
/\
/無限\
/_無限定)\
________/_2a属性__\________
\知 抑制 / 小←/\→大 完全性 至福/
\ 悪/___2b様態\____\善 /
\受動/\悲しみ_/\_喜び /\能動/
\/ 憎しみ \努力/ 愛/ \/
/\対象/ /_\/_\ \認識/\
所産的自然/物体__欲望__観念\/ \
/ 延長\ 身体3感情/精神 /思惟 \能産的
神/______\___\/_第三種認識____\自然
\ 4理性 /
\ /
\_徳./
\/
5自由
ダビデの星ではなくバラの花だと思ってほしいcaute!
http://nam21.sa kura.ne.jp/spinoza/caute.jpg >>261
あれほど、読むのに根気が要る本も珍しいな 最高で完全なるものが間違いなく存在していて神はそれに他ならず
万物はそれによって産み出された被造物であり
創造は聖書に記述された神話的時代、あるいは現世の時間の外もしくはそのはじまりにのみ行われた
現世には創造的進歩はない
言い換えれば自然法則は永遠不変のもので現世において新しく生じることはない
人間本性も創造されたときから変化していない
これらすべてを信じている人はそうはいないだろう 神は世界全体のことであり、世界に存在しているものすべてが神の一部です。
私たちが目にしたり感じたりする事の出来る実体のあるものは全て神の一部ということです。
つまり、人間も神の一部ということになります。
それは、人間の行動すべても神の一部がしているということであり、例えば罪を犯すことも神の意志ということになります。
言い換えると人間の自由意志はないということもできます。 今日されたレス全体的にわりと面白いじゃん
これとか>>269 >>273
>人間の行動すべても神の一部がしているということであり、例えば罪を犯すことも神の意
志ということになります
広島と長崎の原爆投下による無残な大量虐殺、ナチスのアウシュビッツ収容所でのユダ
ヤ人の大量虐殺、第一次世界大戦と第二次世界大戦での大規模戦争と人間の大量殺戮、
そして日常的な世界でのおびただしい凶悪殺人事件―これらすべては、神による行為。つ
まりスピノザの神は、人間を大量殺戮することを頻繁に、日常的に行う「大量殺戮をするこ
ともある神」であるということになる(「戦争を頻繁にする神」でもある)。
「大量殺戮をすることもある神」が善いか悪いかは、人間にとって「悪い」に決まっている。
しかし、それでもスピノザの神は、哲学的に信ずるに値する神だと思う。 「天の父は、悪しき者の上にも善き者の上にも太陽を昇らせ、 正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」ということ 親鸞と親和性高そうな思想だなぁ
スピノザと親鸞の対話篇よさそうだ どちらも他人という存在にきわめて深い理解があるもの デカルトは、機械論的な世界観や人間観を確立した科学的合理主義者だが、
「瞑想中の幻夢」を思想の原点とする、いたってマジメなスピリチュアリストでもあった デカルトを「科学的合理主義の祖」として信奉する人々には、デカルト本人が言及している神秘主義者としての側面を、「後世の偽作」とする向きもある スピノザの汎神論は、一種の自然哲学
神というから現代人には宗教っぽく見えるが、中身は機械論的な物理世界観だ
スピノザの決定論も、宗教っぽく聞こえるのだが、実際には、人間を身体という機械として捉える思想 それでいて、「宇宙との合一」というような、宗教的境地を目標としている スピノザは宗教の洞察を決して軽んじてはいなかった
確かに迷信や教会の組織的腐敗等に関しては抵抗していた
しかしだからといって、全面的に宗教から身を引いたわけではなく、理性をもって自然すなわち神と接した
単なる部分の集積によっては汲み尽くされない全体(性)について考察を続けた デカルトの神の存在証明
まず、否定できないものが存在し、精神がそれであるということから精神が実体であると証明する。次に、その精神についての疑問が出てくる。精神が完全で、他の何者にもよらないということは、経験上いえないから。精神が何を原因としているかが問われることに。
しかし、その原因として延長をあげることはできない。精神についての考察で、既に否定しているから。
そこで、別のものとして原因が措定されなくてはならないということになる。これが神の存在証明 スピノザによる批判
実体であると一度精神を認めながら、そこに不完全性を認めてその上位の実体を想定したのが誤りである、というのがスピノザの批判。
そこで、デカルトの証明したことから精神が実体であることをのぞくことになる。つまり、実体が一つであって全ては必然だと言うこと。今まで、神だとか精神だとか言う名前で呼んで感銘を受けていたものは、全て自然の実体性の一部を見て感じていたものにすぎないということ。 実体の本質の分析と、それが唯一であることの証明の二段階よりなる。
自然の必然性。現に産出されているのとは異なった秩序があり得ないことの証明。これが基礎になっている。
これは、それより上位のもの、それを変化させうるものがあり得ないという仕方で証明される。神の存在証明。また、同時に神に付されていた諸々の性質を否定することで。
自然の必然性を否定するものが無くなった以上、その一部でしかない人間、意識も同様に考察されることになる。それを否定する根拠が存在しないから。
逆に言えば、スピノザの特色は証明の順序を確定したことにある。まず最初に考察されなければならないのは、自然の必然性を否定するとしてそれはどういう可能性によるのか。それを一々検討して、それが不可能であることを示した。
世界が必然であるかどうかをまず議論して、その後で人間が自由意志を持つかどうかを考えよう、という順序。 そして、これは複数の観点で述べられている。
人間は実体ではない
存在するのは観念のみであり、それとは別の意志など存在しない。すべて観念により決定する
精神は身体を動かさない。その原因ではない。 神を主語ー述語の言語構造で処理すると神は唯一の根本的主語にしかならない
そのような根本的主語に実体という語を与えたのなら、他の一切のものはその述語にしかならない
だから、それら他の一切のものに対しては、神(実体)という主語との関係において、それらにふさわしい述語としての名を与えなければならない
デカルトはこのような構造で神を処理しなかったが
スピノザは徹底的にこの構造で処理した ちょっと煩わしい程度の害悪を徹底的に未然に防ごうとすべきではない。
あからさまに悪意のある相手さえ、その行為が自分に大きな被害をもたらさない
限りは、自分の役に立っていると認識することが重要。
小さな害悪というのは、そのものがいわば日常的な予防接種のようなもの
として作用する。出した資源ゴミを勝手に持ち去られるのは煩わしいし、
きちんと処理が行われなければ迷惑だ。しかし、そのような小さな窃盗
行為を経験することで、油断をしていれば、いつでも家宅侵入による窃盗
などの被害に遭う可能性が意識されて、警戒する。それでいいのだ。
日常的に小さな害悪すら生じないことが当たり前になって、警戒しなくなり、
ある日、突然、取り返しのつかない大きな被害に遭うよりよほどいい。 こんな所で糞の役にも立たない長文を書き
他人様に何かを伝達できたと悦に入っているであろう者の人生の敗残は
少し興味深い スピノザを読んでいるとそういうことを書き込むのに躊躇するはずなんだけど スピノザを素通りできない人たちが案外多いことに関心があります 結局のところ、「不完全な人間が、どうやって完全になるか?」というのが、スピノザ哲学 スピノザ哲学では「完全」なのは神だけなのでは。
人間はただ「改善」ができるだけであって。 自分の不完全さを自覚しない人にはまるで関係がない、存在しないのと同じだから
重ねて不完全さを自覚してなおかつ生きようとする人の中でも、二重にその関係性が重なってくる
ヘーゲルに対するキルケゴールの関わり方は、見逃せない意味がある
ヘーゲルが重要な人間だってことと、キルケゴールが重要な人間だってことをどちらも身に染みて実感した上で二つの立場を枠外から捉え直した時、なおどの立場に付くか何をすべきかそこに踏みとどまる
自分には、同じ考え方を取ったうえでヘーゲルの側についたバタイユが先行する人間としてこの世にいてくれたことに感謝してる うんまあ
ちょっと前に引用されているように「人間としての最高完全性」なんだけどね その過程はスピノザより後になって、個人の極限の主張という形となって個別の事例で現れてくるという話だ
例え自分の中や世間で反発しあうもの同士に観念的にバランスを整えられたとしても、自分自身だけでは別の価値観の極点には関与できない
だから他人が限界まで推し進めた主張と、その敵対関係にあるまた限界の姿をした主張とに、身を投げ込む必要がある
平均台の上を渡りきることと、谷の上で綱渡りをすることは違うことだと思う 完全になったら終わりなのだろうか。完全という概念にたどり着いたらもう成長はないのか。何をもって未熟な人間が完全を目指し完全なのか。 >From towering redwood trees and diminutive mosses to plants
>that have stinging hairs and poisons,[...]
"diminutive mosses"は、普通に訳せば「ちっぽけなコケ」だが、
この"diminutive"を「わび(侘)しい」に変換できるかどうかが
センスの分かれ目だろう。 神を紙面の中だけに見るのもつまらないだろうな。下積み生活だなあ。 スピノザ哲学のベースには、常にデカルト哲学がある。
スピノザのいう「完全、不完全」というのは、かの有名な「デカルトによる神の存在証明」と切っても切れない。 デカルトは有名な「神の存在証明」を行い、それにしたがって認識の確実性を基礎づけようとしている。一般にこのデカルトの証明は詭弁とされているが、一応見ておこう。
何かを疑いの対象とするのは不完全な存在のみだ。疑うためには完全であってはならない。それゆえ人間は不完全な存在である。
不完全な人間が完全な神の観念をもっている。不完全なものは完全なものに由来するのでなければならない。したがって神が存在するのでなければならない。
ところで人間のもつ観念は神に由来する。神が人間を欺くことはありえない。したがって人間の観念は確実に真であるほかない。
つまりこういう感じだ。
神は完全(無限)であり、人間は不完全(有限)。完全なものが不完全なものに由来することはありえない。むしろ逆。だから不完全な人間の由来としての完全な神が存在すると言わなければならない。 ヘーゲルはカントのあとを受けているがカントより危険でなく、
はからずも、はかられて刑務所インフラや病院インフラに人事をうって、凋落の
一途をたどっているとこが笑える。 >>304
まあ、「人間が神になる」というのを目指してるわけでは、さすがにない。
「普遍的な世界認識に到達する」というのが、ここでの最終目標でしょうな。 神が人間におりてまた返り咲くか人間を選んだら感動的だ。神は高次の段階だと思うよ。人間から成りあがってもほぼ不完全な人が多いだろうね。 デカルトの本業は数学者だ。
デカルトのいう「完全・不完全」というのは、数学の「無限・有限」とセットで考える必要がある。
無限から一部を切り離せば、有限になる。
しかし、有限をどれだけ伸ばしても、決して無限にはならない。
無限から有限は生まれるが、逆は無理なのだ。 無限なら大酒のみがいいだろう。有限ならタバコかなあ。 『短論文』には「我々の完全性は、我々が常にますます向上しようとつとめずにおられぬ点に存する……」(第二部第十八章)と書かれている
岩波の古い訳からとってきたので現代仮名遣いに直しておいた
最近、知性改善論と短論文の二つの新しい訳を合わせた単行本が出たんだけど高すぎて買ってない 人間の完全性はその能力の能う限りにおいて自然をより広く認識し
自然のうちのものどもに、各々の本分を十分に発揮できるようにさせ
もって神の永遠無限の存在と同一になることにある
人間の観点から見ると神へと向上する、神の完全性へと向かっていく、というふうにいわれる
同一「になる」というよりはむしろ同一「である」というほうが、万物は神から流出しているという観点からみれば正しい
というわけで人間の完全性は神が神自身を表現し続ける永遠の過程の一部だともいえる 論理の先に神が存在したというのなら理解できるが神というものを前提にして論理を組み上げるってのは
理性的なやり方ではないね スピノザは完全なるものとしての神を前提にしてそこから論理によって
世界と人間がどのようなものであるかを導き出しているのであって、
「論理を組み上げ」ている訳ではない。 幾何学の定理と演繹法則が異なるように
論理によって組み上げられるものと論理そのものは別物 科学用語でもない論理という言葉に数学の公理や定理とそこから導き出される関係性を指すような厳密な意味などない 論理学においてはもちろん日常用語でも
論理はある事実からある事実を導出する基本的な規則を意味しており
そこには大した曖昧さはない まあ言いたいことはわかる
スピノザが神の定義に至る前に多少なりとも一連の思考の過程というか手続きが確かにある(『エチカ』にはないけれども他の著作ではある)
神の認識についてスピノザは直観だと言うだろうがね 私は神の名のもとに、無限性や必然性、絶対性であるといった観念を抱くが、それらの観念は私自身の中にはもともと存在しないものである。
何故なら私は有限であり、偶然に支配され、誰かとの相対的な関係の中でしか生きられない存在だからである。
だから、これらの観念は神によって私にもたらされたのだと考えるほかはない。 私は、清楚で淫乱な人妻という、明晰判明な観念をもっている
それは、私の中には存在しないものである この観念は、エロ動画によって私にもたらされたのだと考えるほかはない お前たちは全て私の自己の中に包摂されている
私も包摂されたかったなー 317 :学術 :2018/10/21(日) 08:39:35.41
有限を分かち合うこと。無限に還ってゆくこと。 つまり、こういうことだ
無限=神は、すべてを包摂し、逆に、個物から包摂し返されるのを待望している
だが、
中には包摂し返されたくない個物もおり、拒絶されるのは、個物自身が神となることを欲するような包摂の場合である
ただしい包摂とは、神から包摂されているという事実への反省、すなわち、神からの包摂の包摂=受託である それだと神の必然性に個物側が抗いうるということだから
スピノザの考える神ではなくなっちゃうよ
個物側にも形而上学レベルである種の自由を与える思想は他にもあるだろうから
そっちを研究したほうがいい 「スピノザは、石がある衝撃によって空中を飛ぶとき、石に意識があれば、自分自身の意志
で飛んでいるのだと考えるだろう、と言っている[書簡六十二]。わたしはこれにさらにつけ加え
て、石の考えていることは正しいとだけ言っておく。」
ショーペンバウアー「意志と表象としての世界」第24節より スピノザが言っているのは全体としての自然
しかもここでの「全体」は全体と部分という意味とともに全体はおのれ自身を元としては含まないというような意味での全体でもある
また、スピノザが自然について言及するとき、五感で知覚できる純粋に物体的な自然(スピノザにおいては延長における諸様態)だけを指しているわけでもない
哲学では同じ語でも意味がまったく違ったりすることがよくある
だから>>342の言うところの「自然」と「神様」はどういう文脈で使うのかを明らかにしてくれないとなんとも言えない 自然こそ神なんてわざわざ宣言しなくて良いよな
なぜ神を持ちこまなきゃいけなかったのか
自然は自然で良いわけで
自然には完璧な法則が働いてるということを
神抜きで言ってしまうと不味かったのか 精神世界と物質世界は、同時平行で進行している
両方とも、神が持つ2つの性質の表れ 「自然」が物質世界だけを指しているのなら、わざわざ「神」という必要はない
そこには精神世界、つまり、人間の心の中の観念も含まれる カントを先に読んでいたんだが
カントとはア・プリオリの使い方が違っていて混乱した思い出がある
もっともスピノザの特別な用語の使い方じゃなくてデカルトもそうだったんだけど スピノザのいう「自然」は、現代人が「自然」と聞いてイメージするものとは、だいぶ異なる(そもそも、訳語だし)
起源は古代ローマのストア派哲学なので、それを知っとくと意味が分かってくる ストア派の哲学は、古代ギリシャのゼノンという人物による思想で、「禁欲主義」と呼ばれています。
ちなみに、「ストイック」という言葉はこのストア派に由来します。
そのことからもわかるように、ストア派の哲学では理性(ロゴス)によって感情(パトス)に打ち勝つことを目指します。
そして、それによって感情に負けない心(アパテイア=不動心)という究極の境地に到達することが幸福だと考えます。
財産や地位など外的なものを欲する感情に打ち勝ち、理性による自己鍛錬で徳を高めていこうというわけです。
それこそが幸福の道だと。 ゼノンは「自然に従って生きよ」とも主張しました。
何も文明を捨てて自然の中で暮らせとか、食品添加物は食べるなとか言っているわけではありません。
全宇宙を貫く自然の法則は、全てが必然で合理的なものであるから、「人間もその秩序に従って生きるべきだ」という意味。
富や名誉といった人間の欲望や感情に起因する物事に縛られていることこそ不自然であり自然の摂理に合致していないというわけです。
だから、そういった人間のちっぽけな欲望や感情に理性をもって打ち勝ち、自然に従って生きよ、というのがストア派の哲学。
人間の欲望や快楽に飲み込まれることなく、宇宙の秩序と法則に従い自然の全体と一致して生きれば、心の安らぎが得られると説いたわけです。
現在一般的に使われる「ストイック」という言葉のイメージとは少し違いますね。
ストア派の哲学は、どちらかというと修行僧のようなイメージに近いかもしれません。 ストア派(希: Στωικισμός)はヘレニズム哲学の一学派で、紀元前3世紀初めにキティオンのゼノンによって始められた。
破壊的な衝動は判断の誤りから生まれるが、知者すなわち「道徳的・知的に完全」な人はこの種の衝動に苛まされることはない、と説いた。
ストア派が関心を抱いていたのは、宇宙論的決定論と人間の自由意思との関係や、自然と一致する意志(プロハイレーシスと呼ばれる)を維持することが道徳的なことであるという教説である。
このため、ストア派は自らの哲学を生活の方法として表し、個々人の哲学を最もよく示すものは発言内容よりも行動内容であると考えた。 ストア倫理学では決定論が支持される。ストア的な徳を欠いた人間に関して、邪悪な人間は「車にくくり付けられた犬のようなもので、車の進む方向へどこにでも行かされる」とクレアンテスは考えた。
対照的に、ストア派の徳は人間の意志を世界と一致するものへと修正し、エピクテトスの言うところによれば、「病むときも幸福で、危機の内に在るときも幸福で、
死を迎える時にも幸福で、追放されたときにも幸福で、恥辱を受けた時にも幸福[7]」であらしめるために、「完全に自立的な」個人の意志と同時に「厳密に決定論的な統一体」である世界を断定する。
この思想は後に「古典的汎神論」と呼ばれ(、オランダの哲学者バールーフ・デ・スピノザに採用され)た[9]。 ストア派によれば、世界は物質的で、神あるいは自然として知られている理性的な実体であり、能動的・受動的の二種類に分けられる。受動的な実体は物質であり、「何にでも使える実体だが不活性で、何者かによって運動を加えられないと動かないままでいる[17]」
運命あるいは普遍的な理性(ロゴス)と呼ばれる能動的な実体は知的なエーテルつまり原初の炎であり、受動的な物質に働きかける: 世界それ自体が神であり、世界が自身の霊魂を流出する;
それは同じ世界を導く原理であり、物の一般的本性やあらゆる物質を包含する全体性とともに心や理性の中で働く;
運命づけられた力と未来の必然性; それにエーテルの炎と原理;
さらに水、大地、空気のような本来の状態が流動的・遷移的な諸元素;
それから太陽、月、星々;
これらと、全てのものが内包されるような普遍的存在が含まれる
—クリュシッポス,キケロ『神々の本性について』第I巻より 「読書百遍、意おのずから通ず」というけど
エチカを百回よんだって、スピノザの言ってることは理解不能
でも、古代ローマのストア派哲学を予備知識として知っとくと、急に分かってくる