スピノザ [転載禁止]©2ch.net
浅田彰 ライプニッツはものすごい天才だと思いますが、哲学に関するかぎり、
スピノザはもっとすごい天才かもしれないですね。いまだにぼくはスピノザと
いうのがよくわからないんです。 ショーペンハウアーやプラトンは、「美において生殖活動はされる」と言う意味のことを言っている。
そういうことを「偶像の黄昏」で言っているニーチェ。
これは、として女性を性的対象と見る場合に、美人過ぎると「どうもなあ」とか、整いすぎて「どうもなあ」
という事実があるので、ショーペンハウアーやプラトンの言うこともわかるのである。
というわけでニーチェ氏は、ちと「あんまり分かってない言葉なあ」。そういうことです。
美と魅力(引き付ける力)には差異が存在するということだろうと思う。 .>695 656氏の
「美において生殖活動はされる」という表現は間違っている。間違いである。言いたいことは
、「美において生殖活動は停止される」「刺激されない」・・。そういおうと思ったのですが。・・。
性欲の発動?条件について、 (ショーペンハウアーやプラトンとニーチェが異なる意見を言っているのである。
。つまり美が性欲の発動条件だとは限らないということである。(プラトン、ショーペンハウアー)。
意は美である以上、魅力である。
つまり美は確かに魅力ではある。だけれども「美し」すぎる、美しすぎるもの、そういう女性に(男性などたちは)「性的衝動」が緩和されるのではないか?
・・そういう意見をプラトン、ショーペンハウアーが言っていて、それは正しいと思う。繰り返しで申し訳ない。
ところが、ニーチェはそういうことを「偶像の黄昏」で・・」、「それは違う・・・」と言った。。・美は性的なものに関係があると言うニーチェ。
これに関しては、オレはプラトン、ショーペンハウアーの言うことが理解できる・・ということである。 >679 それは同意だ。・・また話したい。
サンデル先生の教室で、
頑強に?理解できていなかった(したくなかった?中国人いた。が
ところで話変わります。
。アルトゥール・ランボーいる。いた。「己は他者である言った」とか言ったひとである。
ドゥルーズが、「批評と臨床」言っていたのでは「ラッパが木になっていたとて何であろう・・」いうそう場合ランボー少年は
それはい。若った そういうことは幼稚すぎる。そのときドゥルーズは「カントの他者」説明
したかったのである。ランボーは
あれこれして「ランボー(本当に他者)を発見する。
例えば、ある種のタイプの病気になる、。
・・我々が、極度の「苦痛ある状態」、の境地でありなながら、相対的以上に
独立し、明快な「自俺を分」ときがある、いる・・とした己らは(アイツ=痛み)は何者か、なのなんかと・・思う。、「俺が気を使い、気にしてやつらは、つむいだ繭玉と」そして
「繭の中にいた俺が気使っていたもの、をそして「公共」「道徳」
「アイツ」が他者だと、番犬じゃないか、ケルベロスないかと・・と
じゃないか・繭玉=国家=他者
そして、突然だが、オイディプス(いわゆる)になる。いうと卑近な例でいうと
「父親」そうだが「母親」である。おぞましい。子に利益を上げ、重要なところで
でしゃばり、なんで関わりも判断をし、「お金か、頭の悪い親では無知、無垢」を免罪符にする。
「公」では悪くないのでたちが悪い。なぜって、彼らが「国家の端末だからだ」。
ニーチェの杖をヒトラーに渡したフランチェスカ・ニーチェ、ランボーを
「聖者」として棺にいれようとした、ランボーの妹。ゲーテ「母親!なんとおぞましい」。 >679 それは同意だ。・・また話したい。
サンデル先生の教室で、
頑強に?理解できていなかった(したくなかった?中国人いた。が
は下記に訂正します。
>697 それは同意だ。・・また話したい。
サンデル先生の教室で、
頑強に?理解できていなかった(したくなかった?中国人いた。が
すいません。 例えば、将棋をする人(おいらもですが)、藤井君を知っています。
藤井君がすごいのは、ある場面を記憶し、次の場面も記憶し、その次も記憶した・・そのときに
どの場面も「同時」に並列(以前の記憶も以前の記憶にならないで現存在)しているということです。容易に
分かることです。。ときおり藤井君は負けますが(深浦九段とか)・・それは一つの分岐の読みにおいて深浦九段が読みぬいて(記憶)いるということです。
普通は分岐も含めて読むので、とんでもない数の手を読みますが、分岐であるがゆえに深くは読めません。
組み合わせが何億にもなるからです。この分岐の選ぶ(選択)が大局観です。選択肢の減少のこと。何億の手を覚える必要はありません。指してる
筋により組み合わせが減るからです。(厳密にはそうではないですが)。
・・記憶については・・。ベルクソン、ニーチェから学べることです。未来(約束の記憶)、過去(過去の記憶、トラウマも含む)の中でも
未来の記憶(約束=やるべきことの記憶)が為されている限り、その人は過去を有効に使っています。未来、過去というのが形式的に
区別されていて、よく考えれば未来は過去からの類推で、過去は以前として「去らない現在です。」、トラウマは過去の強制的な現存在の一部です。
ただ、年をとると、多数の記憶の想起ができなくなるため、特に「約束の記憶」が(「想起出来なく)なるため、いいかえれば現在が「覆いかぶさり」、約束が意識下へ行くということです。
ただその記憶は「過ぎ去りません」し、「現在の構成部分」でもあります。これらは将棋だけではなくあらゆる知的活動に言えます。
そしてこの能力は「自我」の外部にあるので自我の部分ですが、関係がよくわかりません。そもそも自我は外部の部分です。だけれど(外部「環境」、身体、関係項)は操作できない
わけではないですが、薬の深い知識と同じように、よく考え、相手(外部)との親和性を考慮する必要があります。外部、能力についてはまた別の機会に・・。 スピノザを無視せず宗教のことを語ることはできない。 スピノザは宗教については、それが迷信、妄想を生む限りにおいて「悪」だというだろうし・
宗教それ自身が人間の弱さの印である。ただ敬虔なキリスト教徒を口頭など、日常などで批判することもなかった。
ユダヤ人の宗教はスピノザの実生活(=思想)に影響及ぶため、それを拒否した。政治が彼に及んだ。だが彼は政治的にも利用されなっかたし
本当の自由と必然を信じていた。そして己自身の到達した自由を信じていたように思われる。ゲーテやヘーゲル、ショーペウンハウアー
ニーチェ、の思想の核心はスピノザにある思う。ヘーゲルの場合はよくはわからない。デカルトが大きな一歩をなした。
ライプニッツはやはりその天才をもってデカルト派に組し・・、ではあったが、知られてるように「神」をなんとか「理論的」に説明をししようと苦心した。
スピノザは、そこでは迷わず、神=存在であると認識し、認識すれば必然的に「そうなる」ことを説明した。ニーチェは後にスピノザを見つけた。
・・ヘーゲルは「対立」という「最小の差異」やら。現実の差異を「矛盾」という・・どちらも
同一性を基準にし、それが故に生成そのものが「否定」となることになった。
ライプニッツやベルクソンは、微視的観点から(副次的矛盾)から考察し
偉大な書物を残した。ベルクソンの参照書物が、以外に知られていない人々であることからも彼は、非常に細かいところから積み上げていった。 スピノザやニーチェは、思考、哲学が、国家に奉仕しかねない危機をもっていた。
だからこそ、スピノザ、ニーチェはwikipediaで調べても何も出てこないし、wikipediaは頓珍漢なことを
書いている。ウィキペディアに国家や権威の臭いがプンプンただよっている。変わりにハイデガーやウィトゲンシュタインについては
さも凄いように書いている。御用学者達が。まあハイデガーについても御用学者はどうも分かっていなさそうだ。
「存在」といっても、国家がそれを採用するかどうかは国家側にあり、すでにそのことが哲学が政治が巻き込まれている。
経済については、皆がもっとも関心があり、もっとも隠されているとも言えるし、選挙結果からも言えるし、メディアの傾向からも言える。
マスメディアが「老人」すがって、そのすがる人々の年齢層のメディア関係者は「逃げ切ろう」としている。つまり、老害とマスメディアは
共犯関係で、偽善の共犯である。老人たちは「若者に迷惑かけたくない」というが、実際の投票行為などは若者に迷惑をかける傾向にある。
こういう事柄は、犯罪者や反抗的な人に意見を聞けばいいが、その人たちの意見は聞かれない。法の下にある
弁護士によって妨げられている。弁護士が裁判官と同じというのは、法学者や判例の僕(しもべ)だからである。 俺は初っ端のunderlyingが気になる。スピノザから離れるが、
物自体は認識できないbyカント/できるbyシェリング
の対立を思考処理した結果そうならざるを得なかったのか・・ https://en.wikipedia.org/wiki/Philosophy
意外と初っ端がそんなにややこしくなくて悪くはない感じ
抽象化を避けて物事を簡単にし過ぎるとやばいということか 岩波から全集が出るという知らせがあったのに、ことほぐ人がいないとはね。 >>710
そんなあなたが真っ先に書いてくれてよかった
これはまさに朗報ですね
本当に予定通りの期日に出るかどうかは半信半疑ですけどね とにかく上野先生監修ということで安心した
せっかく全集が出たとしても國分先生だともやもや残しそうな気がしてた 全6巻別巻1…実際の刊行順が大事だな
初回でエチカ、第二回で書簡集だとありがたいが >>708
同意
「神などいないのに、神について議論しても無駄」
と言ったのはポパーだが、日本人ならば創価以外はみんなそう思っているよ。 underlyingというのが”根底にあるもの”ぐらいの意味ならわからんでもないが、
そうすると形而上学とはまるっきり違う形而下の事になってしまうしなあ。 豪華ハードカバー版で新訳のエチカが全集から出るなら多少高かろうが絶対買うぞ。 東京大学大学院人文社会系研究科・文学部
鈴木泉
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/assets/files/teacher/2014-2015/SUZUKI_Izumi.pdf
「岩波書店から刊行予定の『スピノザ全集』編集委員として、全集刊行の準備を進め、
幾つかの著作の翻訳を終え、来年度の刊行に向けて、現在、最終的な調整を行 っている段階である。」
予定より数年遅れでようやく2022年に刊行される事となったのか。 こうなったらラテン語原文・その逐語訳・読める日本語訳の併記
さらに各国語の翻訳・解釈の脚注の同頁掲載くらいやってくれないとな
なんてったって畠中エチカは1700円で所有できちゃうわけで >>719
何年前のだよ。准教授時代のものじゃないか
もう教授になってるよ
しかし、ようやく主著を出す準備をされてるんだな
遅れに遅れまくっているようだが 山内志朗『ドゥルーズ 内在性の形而上学』に以下の記述あり。
「セカイ系に見出される宇宙的な感覚はスピノザ哲学と通底するところが
あるように思われる」(pp.99-100)
これって、スピノザをニューエイジに近づけるような、困った
読み方なんじゃない?
「スピノザの思想は、徹頭徹尾奇妙な思想である。(…)スピノザは
あまりにも禍々しく、戦慄を引き起こす」(p.100)なんて
いうのには同意するんだけどね。 ニューエイジと言うよりかは、
世界を救うんだみたいなストーリーのアニメのことを言ってるんじゃないの。
小泉義之がバタフライ効果と一緒にセカイ系をどっかで批判していたね。 >>1
日本哲学の流れからするとスピノザは独特の読解をなされている
いわゆる神と全に付いての考察だ。
ところが重要なのは神との対比ではなく、実は全体と部分の哲学で
あることは日本ではあまり知られていない
こういう例だ
もし神様なんてものがいるとすればなぜ世界にはこんなに悪があって
救いが無いことが多いのか?と問う
その問いに、では悪や地獄を分けましたと答える
すると、分かれてしまったら神様は全てを扱っていない事になる
神様は全体ではなく部分しか扱えないのか?と言う疑問が生じる
こうした部分と全体の関係と巧妙に繋いでいったのがスピノザである >>723
セカイ系批判って中央の人が地方を差別するのに使う方便だから
あまり本気にしない方がいいな >>725 セカイ系批判というと、例の、社会という水準の欠落というような
やつですか? >>724
>神様は全体ではなく部分しか扱えないのか?と言う疑問が生じる
それ、言葉遊びでしょう。 神なんていないんだから >>727 いるいないは、「神」をどういうものと考えるか次第ですよね。 >>728
主に昭和平成の旧マスコミが原因でしょうね
彼らが神を否定するためにスピノザは神即自然を打ち出したと
提唱し続けましたからね
部分と全体の哲学に関してはあまり注目されていません
全てに神がいるのなら、僕をあの有名人と入れ替えてください!
という願いも叶えられるはず
しかし入れ替えたものが本当に自分なのか?って言う 「スピる」がスピノザと関係なくてよかった。
スピノザのスピり読みほど凡庸なものはない。 スピノザは、スピ(リチュアル)系ではなくて、「トゲトゲしい」、
"espinosa"の方から来てるんだろうね。 >>728
スピノザはトマス・アクィナスから多大な影響を受けているから、
『神学大全』を原書で読んでからでないと、大抵は誤読するよ。 スピノザの神を神様と混同してるやつはスピノザを騙って何がしたいんだろう どちらかと言うとそれは、一神教の神様って実は元ネタがあるんですよっていう話だよな
キリストは三位一体だし
イスラムは気候の神
ユダヤは永遠神
日本も主神は一応いる
それぞれシンボルに描かれている 一神教の制度化によって何がそれまでと変わったのか?
その変化を記述してごらん。 まともな問いを形成することもできないのに、
正しいを認められる答えだけを求めても無駄なことだ 例えば、祷りを捧げるための神聖な空間と人々の関係はどのように変わったのか、
そういうことを具体的に記述してみると、いろいろと見えてくるものがある。 そういうふうに問いを形成しようとすることが、問題へのアプローチを
考えるということ。アプローチを検討しながら、何を問題としているのか
がより明確となり、その問題意識を他者と共有することができるようになる。 それスピノザ関係なくないか?
ホッブスとかジョンロックの方じゃね まったく意外なんだが
神学政治論は読んだがエチカは読んでない
そういう人がいるのかね デカルトといえば、聖アウグスティヌス
スピノザといえば、古代ローマのストア派哲学
絶大な影響を受けてるのは生前から有名 そもそも、哲学者のいう「神」は抽象化された存在であり、聖書やコーランに出てくるのとは違う
イスラム哲学では、哲学者の神は「ハック」、コーランの神は「アッラー」とする区別があった
デカルトやスピノザのいう神とは、ここでいう「ハック」の方 >>744
大陸合理主義っていうのは、名前だけだよ。 >>743
ホッブス、ルソー、ロックは公民
デカルト、スピノザ、ライプニッツは神秘的
パスカル、ニュートンは理系
な感じもするし、混ざらない人もいるんじゃない ニュートンは己の分をわきまえていたけど、
スピノザ、ライプニッツは自分の能力以上のことに挑戦して、自爆してしまった。 >>746
英国経験論も意味不明だよね。
tabula rasaな訳ないでしょう。
サルも人間もtabula rasaならば、同じになってしまう。
もともと、頭の出来が違うんだよ。 2022.02.10
17世紀の哲学者・スピノザを、21世紀の私たちが読むべき理由
『スピノザ―人間の自由の哲学』刊行記念
吉田 量彦
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/92089 昨日のNHKのサイエンス・ゼロは、DNA解析から見た「倫理」がテーマだった。
やはり、科学はすごいね。 文系脳がスピノザにしがみついているのが哀れに思った。 諸感情の定義
…
五 軽蔑とは精神が、ある事物の現在によって、その事物自身の中に在るものよりもむしろ
その事物自身の中にないものを表象するように動かされるほど、それほどわずかしか精神を
とらえるところのない事物の表象である。 宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て
――スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」(全文)
《序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。 云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。》
(2008年宇野弘蔵『『資本論』と私』271-272頁より。同書解説ではスピ ノザエチカ第三部
序言以下のパロディと解釈される。初出は1935年、東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。) 《…宇野は,資本の物質的過程に則した原理の純粋化(方法の模写)と,その純粋化によって要請される政策目標設定との
「同時並行性」を指摘するのであるが,この種の「唯物論」がスピノザの「心身二元論」に着想をえていると,宇野自身に
よって述懐されていることは,十分に注意されてよい。宇野自身によるその説明がない以上,その真意は測りかねるが,た
とえばアルチュセールによれば,「無神論者」スピノザは,敵のもっとも強い陣地たる神=無限実体から始める。これは並
行する二つの属性,思惟(精神)と延長(身体)の無限様態に自己を実現する。しかしスピノザの方法は,情念(身体)に
対して,知性(精神)からの制圧=改善を期待するところにあるのではない。「心身二元論」「心身並行論」の名で知ら
れるスピノザのテーゼは,しかし精神が身体から切り離されているということでもない。精神が身体と「ともに」思考すると
いうことであり,一方の他方に対する優越を禁じているのである。この関係は,国家と資本とのあいだにおいても想定可能
である。つまり国家(精神)は,資本(身体)から切り離されえないばかりか,資本(身体)と「ともに」ありながら,資本
と「ともに」思考する。国家と資本もまた,厳密に「並行関係」を保ちながら,際限のない過程を展開するのである。国家
という「精神」は,ヴェーバーの認識とは反対に,資本の動向に対して,外からその行程を歪めることなく,資本という
「身体」と「ともに」,あるいは資本という「身体」に「おいて」しか思考できない。こうした理解を示すかのように,
宇野は政策と原理との関係を,スピノザにおける精神と身体との関係になぞらえるのである(宇野弘蔵『資本論五十年』上,
法政大学出版局1973]:476)。》
大黒弘慈「宇野理論形成の思想的背景―純粋と模倣―」2007より http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期第20号,太田出版他を纏めたもの) 知性とは知れば知るほど無知であることを思い知ることです。 みなさんカズさんの新著『スピノザ』を読むのです。いい本です。
まあ、最後の最後で祈ってしまうところなど、カズさんが必ずしも
スピノジストでないことを意味するのかもしれないけれど、
それはともかく、エティカの最後のtam difficilia quam raraは、
やはりカズさんの言うように(p.324)「滅多に見かけないが、
それくらいむずかしい」ってことなんでしょうね。
ちなみにスピノザはここで、キケロの友情論にある、名高い、
omnia praeclara raraを踏まえているみたいですね。
ただ、この文の冒頭のSedは、Butではなく(Curleyはそうしているけれど)
Indeedってことじゃないかな? フランス語ならMaisで間に合うけどね。
畠中さんの「たしかに」なんかの方がいいんじゃないか。
「実に、(キケロの言ったとおり)何であれ価値あるものは世に希だが、
それはそのくらい達成困難だということなのである」 279考える名無しさん2021/09/30(木) 08:55:40.750>>283
>三河と尾張となる志香須賀の渡り
志香須賀の渡りは、確かに河の渡り場ではあるとされるものの、
水の流れが激しいために渡ろうか渡るまいか逡巡の思ひが浮かぶので、
なるほど「しかすが」という名のとおりで、そのことが興味深い。 >この文の冒頭のSedは、Butではなく(Curleyはそうしているけれど)
Indeedってことじゃないかな? フランス語ならMaisで間に合うけどね。<
英語の"But"そのものがフランス語の《Mais》と同様に、「それにしても〜」
という意味合いで感慨を表現するように用いられるから、そのように
解釈すると"But"と"Indeed"も互換的になって、結局は、どのように
読み取るかという問題になるのでわ。私は、ラテン語は読めないし、
原文を見たり、訳文を比べて見たりしたわけではないので、よく知らないけど。 ↑ 大阪弁なんかの「しかし」についてもそれは言えるけど、
でもエティカの最後の sed が「しかし」でよいかは別問題かな。 Sub specie aeternitatis は「永遠という相(ないし観点)のもとに」
ということで、これを「永遠の」とすると、「相(ないし観点)」が
イターナルだとも解せてしまう。
ちなみに、アイスばっかたべてるとおなかがイターナル。 もちろん一遍に七冊まとめて出るわけはない
エチカが第1回配本とはかぎらない なんにせよ画期的ね。
岩波文庫の全作に膨大な注釈が付けられるんだろな。
一冊一万円くらいかも。それでも買う >>776
昨日の岩波書店のTwitter
今日はオランダの哲学者スピノザの命日(1677年)。アカデミズムの傍流にありながら、ヨーロッパ思想史のなかで常に重要な位置を占めてきました。9月には、小社より「スピノザ全集」(全6巻・別巻1)を刊行予定です。どうぞご期待ください。 新訳だからみんな歓んでいるんだよ?
それに畠中訳も古いだけで悪くはないよ そう。畠中訳は立派なもの。
で、新訳の訳者の名はまだ秘中の秘なのかね。共訳もありか?
いずれにしても、奇を衒わないようにお願いしたいものです。 企画としては20年以上前からあるみたい
その途中で誰かは知らんが、役者が死亡したりして
発刊が遅れに遅れたらしい エチカの難解さは翻訳のせいではないんだろう
たとえラテン語ネイティブがラテン語オリジナルのエチカを読んだってやっぱりこのスピノザとかいう男は何を書いてんだ?
となるだろうし スピノザに限らず、きちんと理屈を追えば哲学者の考えが理解できて、
その哲学を教えとして学ぶことができると思うのが幻想なのだと思うよ。
そのことは、哲学者に限らず、相手を説得しようとして何らかの理屈を
捏ねる人の話を根気強く聞いてみれば分かるはず。どういう
理屈を捏ねているのか理解できたとしても、それで相手の話に
説得されるわけではない。相手がどのように感じて、そのような理屈
を捏ねているのかが、我が身のこととして感じられて初めて、
それに説得されるか、そうでないかが分かれる。 だから、相手の感じ方がよく分かったとすると、その理屈に説得された
としても、自分にとっては、相手とはまったく正反対の結論が導かれる
ことさえ充分にあり得る。 大陸合理主義では、スピノザとかライプニッツとか意味不明なことがもてはやされたんだよ。 進化は万能であるって本だと評価高いが
けっこうあちこちに面白いことが書いてある ヘーゲル、カント、マルクスって解らなかったがある人の解説で基本が氷解した
けっこう尊敬する学者も基本は解ってはいなかったことが衝撃
数学、科学もそうみたい
学問はまだまだ発展途上ってことかと
解説してた人は学問は中世に毛が生えた程度ではないかと書いていた
そうかも