日本思想 [転載禁止]©2ch.net
こういう悲惨な状況のなかで、私達が、いま、第一に考えねばならないのは健康の問題である。 一回しか生きられない人生、先ず健康でなくては何事も始まらない。 病気になったら最後、人生は苦痛の日々になる! どうしたら良いのか? 答は一つしかない。免疫力を上げること。これだけである。 免疫力は、体内の免疫細胞(マクロファージやNK細胞)の数で決まる。 免疫力を上げるためには、どうしたらよいか? 1)乳酸菌(特に豆乳ヨーグルト)の摂取 2)血流をあげる運動 3)日光浴(太陽凝視を含む) 4)入浴 5)少食・粗食 上の5項目を確実に実行すれば、私たちは放射能に負けない体質になり、 病気にならずに、健康な人生を送れる!何も心配することはないのだ! いじめ(苛め、虐め、イジメ英: Bullying)とは、「肉体的、精神的、立場的に自分より弱いものを、暴力や差別、 いやがらせなどによって一方的に苦しめること」である いじめ防止対策推進法(平成25年法律第71号)第4条にて、 いじめは禁じられており、同法第25条にて加害児童等に対する懲戒処分・出席停止についても言及されている。 モラルの低下・混乱によるもの。1980年代中ごろに頻発したタイプで、被害者が偶発的に決定されるところに特徴がある。 一種のモラル・パニックや集団ヒステリーといえる。 社会的偏見・差別による排除的なもの。 1のケースと比較するといじめの対象となった理由(特定の社会的属性を持っていたということ)は明瞭であり、 差別意識自体を取り除く指導をすることがこの種のいじめの対策となる。 子供に限らず、社会人(モンスター社員、クラッシャー上司)においても暴力そのものやパワーハラスメント、 セクシャルハラスメントといった職場いじめが起こっている。 上司が部下に対し、職場で陰謀を巡らし、「自分が悪い」と誤解させる状況を、故意につくられるような不当労働行為や、 責任をとって辞めさせるような状況をつくる不当解雇もある。 インターネットが普及した現代社会ではネット上におけるいじめ、 ネットいじめも存在する。 滝川高校いじめ自殺事件(2007年)では学校裏サイトでいじめが行われていた。 イギリスでもインターネット環境の発達とともにネットいじめが増加している アメリカ合衆国、カナダでもネットいじめが深刻化している。 >>327 レスの意味がわからない。 質問なのか、反論なのか、それともただの呟きなのか。 日本思想スレなんだから、普通の日本語で書いてくれ。 日本人の道とはなにか? 神道 武士道 空手道 合気道 柔道 剣道 茶道 華道 弓道 書道 日本人の道とはなにか? 日本人は本来のあるべき道を 外してしまったが為に 現在の世の中のように歪んでしまっているような気がします。 いまの世の中は隠されている部分の方が実体としては大きいのです。 あらゆる分野を多角的に見極めて、初めて見え てくるものがあります 全体をとらえる事で、新しい未来を描 ける事があります。 私たちは細分化時代に生きているとも 言えます。 極度に専門性が高くなり、「木を見て 森を見ず」となってしまい、 バラバラ に社会を組み立ててしまっている事が 社会のひずみを生んでしまっています 地球全体、 社会全体を見つめる事を失 ってしまっているからこそ、多くの対 立が存在するのです。 づく事もあります。 右や左の政治思想に偏る事無く、 スピリチュアルや自然派だけにも偏る事無 く、 または目先の生活や経済ばかりで もなく、 表面的な情報や裏情報に惑わ される事無く、 その為にも日本人の本来のあるべき道に戻らなければいけない気がします。 道の大元は結局のところ 神道になるわけです。 いま一度 縁のある 誠の日本人の方と 地球レベルで地球をよくする実践を していけたらと思います ちなみに 神道とは 一神教ではなく 教典をもたず 押しつけがましくなく 誰もが気軽にお参りできる これだけで すでに 既存の宗教の枠組みには 存在しないことが 日本人には 理解できます 外国は教え 日本は道 今の時代、人間が説いた教えでは駄目なようです。 誰かに教えられそれに従順に従う宗教ではなくて それぞれが互いに 内在する神性を認め合い 尊重し 生かし合いながら ともに栄える 【道】 でなくては これからの混沌とした時代は乗り切れない 神道とはもっとも古く かつもっとも新しい理念であると言われる。 思想や哲学がないと海外から指摘される今の日本は ともすれば破滅の方向に向かわんとしている 人類社会を根底から 救済する偉大なる理念が 巌として存在している。 人間がなぜ、ここまで愚かになれるのだろうか? 右翼思想を考えるときの、もっとも大きな課題だ。 ・なんで日本ではキリスト教が全然広まらなかったのだろうか? 日本人はキリスト教が嫌いなの? ・元々日本は神道や仏教の国だからだと思うよ。 かつて外国から宣教師がやってきて日本にキリスト教を広めようと試みたけど結局根付かなかったのはその為だと思う。 ・日本はキリスト教徒が非常に少ないけど、日本の隣の国の韓国はキリスト教徒がメチャメチャ多いんだよね。 韓国は人口の30%がキリスト教徒だったりする。 私はこの事実をとても興味深いとずっと感じてて、日本と韓国の国民性はこのキリスト教徒の数の違いからも大分異なってるんだと思ってたりする。 日本は島国で自国の自然的哲学のような物が発展したことにより特定の外国の宗教に依存しなかったんだろうと思うんだ。 一方の韓国は大陸と接してることにより外部からの様々な影響を受けたのではないかと思ってたりする。 >>356 日本の独自色を強調したいようだけど、贔屓の引き倒しかもしれない。 キリスト教が広まらなかった国というのは、実はとても多い。 わかりやすいのは、長くキリスト教国の植民地であったインドとパキスタンだろう。 イギリス国教会というちょっと変わった宗派ではあるが、キリスト教には違いない。 調べるまでもなく、両国のキリスト教徒はごく少数派だ。 アジアでキリスト教が強いのは、フィリピンぐらいかな? 要は、時の支配者がどこまでその宗派に肩入れするのかが、その国の宗教を決めているに過ぎないともいえる。 私は、地球の自然の環境を破壊し、無数の生物を殺害し続ける、 人間中心的、自己中心的、利己的、排他的闘争の思想の、間違いを断じ、自然の萬物、全生物の尊厳と畏敬と愛と、 平等と平和の、自然中心の芸術思想、宗教思想を、六十年間の自然の存在と生命に直接に対面し接触した日々の制作の、 自然の真理、真実、美の探究によって、持つことの決定に達した。 地球の自然の環境を破壊し生命を殺害する、傲慢な人間中心思想の物質文明から、 地球の自然の萬物、全生物の尊厳と畏敬と慈愛の、自然中心の精神・心の文明への転換の行動。 人間本位に自然と共生するのではなく、自然に生かされて生きている感謝の謙虚な心。 殺されることが多いからだよ。 殺戮していない敬虔な信者もいるはず。折り合って。 日本思想のなかで、不遇にある無資格の若者のアイテムとして、この世での未来の指針の知恵 を学ぶ智者は、二宮尊徳氏のわらしべ長者の童話でも有名であり、昭和の前半の頃には小学校 のグランドの脇には、少年の頃の二宮尊徳氏が本を読み、木枝をマキにして背にした銅像があり ました。 この世の生業の苦悩の生き方とならない意味でも、アイデアによる創意工夫の知恵が、この世の 幸せに貢献することはあきらかであります。 右翼の人に聞きたいんだけど、なんで日本は世界の中でも特別な存在だ、とか思うの? 自分が住んでるから、なら、世界中どの地域も同じだよね? 江戸時代くらいまで 日本は妖精の国と呼ばれていた 日本が特別な国だったのは確か 俺は日本が好きだが、特別な国だと思ったことは一度もないけどな… 『哲学の探究』第20号目次1992/9 ●第20号刊行にあたって ●シンポジウム自然と人間―その倫理的考察― 題目 著者 報告 プラトンの技術観 小野木 芳伸 報告 カント哲学の限界内における環境倫理学の可能性 小野原 雅夫 報告 日本における自然と人間―その倫理的考察― 平山 洋 シンポジウムのまとめ 頼住 光子 ●テーマ別分科会 題目 著者 種差別か、しらずんば能力差別か? ―ピーター・シンガーはいかにして障害新生児の安楽死を擁護するか― 土屋 貴史 ウェーバー社会学における物象化論の位置 鈴木 宗徳 ●研究発表 題目 著者 ヤスパースの「超越論的」感性論 ―『哲学的論理学・遺稿』よりカテゴリー論をめぐって― 今本 修司 アランのシーニュ論 河津 邦喜 超越論的システム論の可能性 永井 俊哉 ウェーバー研究は何を求めているか 橋本 直人 ●編集後記 ジゼル・ブンチェンはお風呂でオシッコするんだってな . l,‐、i三三三' ,. -"二三,、: : : : : . -"二三- .i lll三三三 ´;ィ彡'",ニ、`ヾ、、: : : ;彳"ニ、ヾミ、、: !三三三 .::メ《″(::🌀:) ,l:ヾ、: : ,イ'ヘ,.(:🌀::) ゞヘ、: 三三 : : : ::``ーゞ='-‐'"ンソ、 ´``'-`''‐="‐'"´:: : ヾ三ミ : ::`ー---‐'''"´: :ノ : : ヾ、 |:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;i′: : : :/ / - ― ′ ', l l:;:;:l゙リ:;:;:;:;:;l : : : : : : ,,r'" ヽ }, l . l:;:;l l゛'r、:;:l: : : : : : / `ー‐、_ ハ ,' ヾヽニンl;;l : : : : : .;';';';';';';';';';';';';';';';';';.,. l. ,' l:;:;|: : : : : : : : : ', ヾ〒〒〒〒〒ァ:;' / "l:: : : : : : : : : ', ヽ±±±ン ;' ,/ . / `丶、:: : :\ ヽ 丶、_ ノ/ / ドンドンドンドン! 苧疾壺玖嵯夷於饅壺雅簾喜軟蛇絽? 【ステロイド抜けたらガリガリで横チンを公共電波に晒したり 土俵に力水はいたり尻の穴ほじくった手でツッパリして相手をひるませたり 自分で隠し持っていた山響株を兄が盗んだと騒いだりした】人は、 マラも洗わずに被害届を出しちゃったのかね? この人こそ、実は協会あげての片八百長で夥しい星を献上してもらっておきながら 何を勘違いしてるのかねえ 970 :コ−ヒ− ◆VMSHVHTgws :2017/11/30(木) 14:10:06.64 0 今の借金いくらなん? 971 :底辺 ◆49ci.4gb8c :2017/11/30(木) 14:15:21.43 0 450万くらいだね。 親には、ほぼ頼ってない。 974 :コ−ヒ− ◆VMSHVHTgws :2017/11/30(木) 14:20:57.29 0 450万の借金て相当だよ どうやって返すつもりなん? もしかして奨学金なのか 975 :底辺 ◆49ci.4gb8c :2017/11/30(木) 14:23:23.73 0 >>974 消費者金融 http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/philo/1509417474/960- 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27) >>368 俺は日本が嫌いだが、やっぱり特別な国だと思ったことはない。 他国も、さまざまな良いところと悪いところがあるのだろう。 だから俺は、しかたなく、嫌いな日本に住み続けてるんだ。 富岡八幡宮の宮司がテロで心肺停止ということだが・・・ 反日本会議、反神社本庁の声明を出したばかりだから、憶測を生むのは間違いないね。 >>378 右翼の行動にはいつでもお金が絡む。 右翼の一番大切なものは、お金。 526 :可愛い奥様 :2018/01/06(土) 20:12:08.92 自分に当てはまる事検索すると発達とかサイコパスとか出てくる 下記は“世界思想”だと思います。 2000年の少し前頃に発刊され、アメリカで異例のベストセラーになり、日本でもベストセラー、 いまや30数カ国以上に翻訳されて読まれているニール・ドナルド・ウォルシュ氏の『神との対話』シリーズ。 もし本当に「神の存在と恩寵」を確信したいなら、まず正しい「神の理解」が必要です。 単なる読書本ではなく、人生の観方と体験が変わるスピリチュアル本ではありますが、 思索的な哲学書として読んでも面白いと思います。 《10分ほどで読めて分かる『神との対話』》 https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法 役に立つかもしれません グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』 35PUA >>302 確かに物質的には西洋文明の方が優秀でしょうが 精神的には東洋 特に日本古来の文明の方が優れていますよ >>385 精神的に東洋、日本古来の文明が優れているという根拠はなに? 物質文明については、現実にある物を比較すれば容易に確認できるけど。 うわっ、東洋思想と西洋思想って極めると 両方同じこと言い始めるの知らないのかね? ただのものの見方の違いなだけでしょ 東洋思想は円を意識してるし、西洋思想は直線を意識してる でも、人間であることは同じだから結局同じことを言い始めるのは道理なんだよね つまりは、思想って螺旋状になってる訳だけど、分からない人多いよね >>388 ものの見かたを思想という。 見かたが違えば思想が違う。 >>389 具体例は忘れちまったわ 覚えてる範囲だとカントみたいなこと言い出したり キルケゴールみたいなことを言い出したりし始める >>390 回転する螺旋状の物体を横から(時間軸を基準に)見るか 上から(輪廻転生だとか流転を基準に)見るかだぞ 確かに西洋は客観的に東洋は主観的に見てるけど、 同じ人間を表現してる思想なんだから 共通点が出てくるのは当たり前じゃないか >>391 >両方同じこと言い始めるの知らないのかね? それでは大威張りで御託を並べるのはやめたほうがいいよ。 >>392 上とか横とかいうことになんの意味もないし、対称させてる概念がめちゃくちゃだよ? ちなみに、転生も流転も時間軸だ。 同じ人間を見ても違う捉え方をするから、思想が成立するんだよ。 >>393 御託ではないから大威張りしてるんだよなぁ… これ、高校倫理程度の知識なのに嘘つきみたいな扱いをするのなお前 >>394 別に輪廻転生が時間軸でないとは言ってないぞ 時間軸+αで西洋思想とは違って明確な区別をしてないだけだぞ その中で、西洋哲学ではパトスを重視する流れが出てくるし、 東洋哲学で理性を求めるっていう明確な区別を重視する思想の流れが生まれるんだ まあ、昔の中国の話だから、ほぼ東洋哲学は進歩が止まっちまったけどな 日本は江戸以降はずっと朱子学中心だからパッとするような発展はないしね >>395 時間軸+αってなに? パトスを重視する西洋哲学って誰? 東洋哲学で理性を求めたのは誰? http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56509?page=2 >私の担当科目「現代政治理論」で扱ったテーマのなかで、 >今年ダントツで評判が悪かったのが、藤田省三だった。 >丸山眞男のもとで学び、高度経済成長による日本社会の変容と批判的に対峙した思想家である。 >講義では「離脱の精神――戦後精神の一断章」(1978年、『精神史的考察』所収) >を紹介したが、「抵抗」なきデモクラシーは「翼賛」になりかねない、と主張する藤田に、 >共鳴する学生はほとんどいなかった。 >最後に学生に書いてもらったオピニオン・シートには、 >藤田に対する違和感と嫌悪の言葉が並んでいた。「たんなる老害」というコメントすらあった。 >「公的なもの」の喪失を危惧するハンナ・アーレントの評判は決して悪くない。 >しかし、彼女とともに「全体主義」について考え、 >経済的な豊かさという「安楽」にすら「隷従状態」を見た思想家は、いまどき受け入れがたいらしい。 藤田省三よりかは橋川文三の方がええわ。 もっと言えば、本多延嘉とか鳴海清とかの方がすごいと思うわ。 >>397 なんだか知らないけど、藤田のほうが正しいのは、現在の安倍政権が証明してるんじゃないか? 学生が、特に日本の学生がバカになってるだけだろ? まあ、ネット依存で物質主義に毒されてる可能性はあるわな。 形式的には出席とかアクティブラーニングで大学への参加が求められてはいるが。 正直言って、今の大学生は、講義や演習で求められる読書を必死に行う以外に エッセイとか文学に嵌りすぎない方がいいかもしれんね。硬い本ならともかく。 卒業後に硬い本を買って読む時間の取れる身分になれるかどうかが大事だと思う。 「古来の大思想家は無欲ではなく大欲を説いた」というのは夜話巻の5(二宮尊徳)にある。 大欲とは何か。「国家を経営して、社会の幸福を増進する」ことである。 小欲を捨て大欲につくー石橋湛山 聖人は無欲と思へども然らず、其の実は大欲にして、 其の大は正大なり・・・・二宮尊徳 https://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/diary/200905120001/ 蒼頡(そうけつ):中国伝説上の漢字の発明者 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/53/Cangjie2.jpg “これは、中国で漢字を発明したと言われる蒼頡という神話上の人物です。 絵を見るとわかるように、蒼頡は四つ目の人物として描かれています。 中国の伝説では、蒼頡は非常に目がよくて、さまざまな動物の足跡などを見分けて それをもとに漢字を発明したことになっています。” ― 『新記号論:脳とメディアが出会うとき』 石田英敬、東浩紀 (2019/3/3) https://kotobank.jp/word/ 不束-619363 不束(読み)フツツカ ふつつか【不▽束】 1 気のきかないさま。行きとどかないさま。不調法。「不束な点はお許しください」 2 太くて丈夫なさま。 「いと大きやかに、―に肥え給ひつるが」〈宇津保・蔵開上〉 3 太くてぶかっこうであるさま。 「指の―になるを厭(いと)ひて」〈浮・禁短気・三〉 4 風情がなく、下品であるさま。無骨。 「山賤(やまがつ)の焚(た)き木を負へる如くなる、いかにも―なる我が身に」〈仮・竹斎・上〉 「ひそ(秘)か」が、「ひ(秘)せられた様子」なら、 「おろそ(疎)か」は、「おろ(下)された様子」ということかな? 私の主語が「天」になるような生き方をしてみてはどうだろうか。 批評家の若松英輔氏は、私の主語が「天」になるような生き方をしてみてはどうだろうかと、 内村鑑三が『代表的日本人』の中で言っているように思うと述べている(『100分de名著 内村 鑑三 代表的日本人』 P.25 NHK出版)。 パチンコ スロット うちこ募集 三万円日払い可 +報酬 『詩経』と『古今和歌集』 “天地を動かし、鬼神を感ぜしむるは、詩より近きはなし” ― 『詩経』 大序 ↓ “天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、 男女の仲をもやはらげ、たけき武士の心をなぐさむるは歌なり” ― 『古今和歌集』 仮名序 『詩経』 目加田誠 訳、講談社学術文庫 (1991) 『新版 古今和歌集 現代語訳付き』 高田裕彦 訳、角川ソフィア文庫 (2009) しかし、ここ数年、明治以降の日本の哲学者や仏僧がどんどん文庫化されている。 良い本が多いので、やはり、日本の出版社の知識はすごいのだろうと想像する。 出版に関わってる人が先に読んで理解しているはずなのだ。 田辺元、大西祝、波多野精一、井筒俊彦、山崎弁栄、鈴木大拙。 ぼくが気づいただけでもこれだけ。 本当に、どんどん良書が出ている。 岩波文庫になった哲学者たち。 2010年:田辺元選集 2013年:波多野精一 2014年:大西祝選集 2016年:鈴木大拙 2018年:山崎弁栄 2019年:井筒俊彦 柳田国男はタピオカを食べていた 「たとへば私の家の朝飯には、折としてタピオカを食ふことがある。」(柳田国男『民間傳承論』現代史學大系第七巻、共立社、1934、P76) https://i.imgur.com/Gjbm8uM.jpg 「〜するな」という禁止の「な」は、「な〜そ」の「な」に由来する。 この「な」は、中国語の「哪(那)ピンインnǎ」に対応しているだろう。 中国語−英語辞典を引くと、「哪」の英訳として、"where"、"which"、 "any"、"how"などが記載されている。ゆえに「どこ」、「どっち」、 「どの」、「いずれの」、「どのように」などの表現に対応すると考えら れるが、より単純には、「なに(何)」の「な」でもあると考えることが できるのではないか。「な〜そ」の「そ」の方は、「す(る)」という 動詞の古い命令形であるとされる。現代の日本語にするなら、「そ」は、 「〜して」という命令形に相当するのではないか。 すると、「な〜そ」は、「〜」を省いてつなげると「なそ」⇒「なぞ」 ということになるが、これは、古語において、反語として「どうして (〜するのか)?」という意味になる。「な」が、「どう/how」に相当 し、「そ」が「〜して」に相当すると考えるなら、「なぞ」が「どうして?」 になるのは当たり前のことであるとも言える。方言では、「なして(〜するか?)」 という言い方もある。したがって、禁止の「な〜そ」は、「どうして〜するのか?」 ⇒「〜しないでくれ」を表現していると解釈することができ、「〜するな」と いう禁止の「な」は、反語的な疑問に由来することになるだろう。 https://cjjc.weblio.jp/content/哪 ; 哪(那) ピンインnǎ ⇒ [異読音] ・na,né;那Nā,nà 副詞 (反語文に用い,結果として否定を示し)どうして…であろうか, …であるはずがない,…であるものか. 用例 天下哪有这样的事?=世の中に(どうしてこんな事があろうか?→) こんな事あり得るはずがない. 明示的に輸入された漢語の場合以外に日本語と中国語の対応関係に気づきにくい とすれば、それは、漢字に頼り過ぎているからであり、さらに、単語の対応という 考え方に囚われて、言葉が表現であることを忘れているからだ。 また、日本語が。どれほど広く、深く中国語の表現を利用していたにしても、 日本語は、中国語が変化して形成されたものではない。そのような仕方で 日本語が形成されたなら、いくら中国語が地域的に多様であり、時代的に 変化しているとはいえ、中国語を学んだ人には誰にでも、日本語は中国語 のヴァリエーションに見えることになるだろう。中国語⇒日本語のような 「系統関係」で考えたのでは、あまりにも違いが大きすぎるので、日本語 の祖語は古代の中国語であるというような説が有力になることはなかった のだろう。 その一方で、古代に日本列島で全体で共通する何らか原日本語が話されて いて、その原日本語に古代の中国語の単語が大量に入ってきて広く用いられる ようになったのだと仮定するような考え方も説得力をもたない。無論、 日本列島で生活する人々は、いつの時代でも何らかの言葉を話していたはず であるが、それがどのような言葉であったのかは、日本列島で使われていた ことが現在、分っている言語から遡って類推する他なく、そのような言語 として知られているのは、現代の日本語につながる歴史的な日本語と、 アイヌ語として括られる言語しかないのである。しかし、歴史的な日本語は、 原日本語としてアイヌ語に近い言語を想定して、その発展形態として説明 できるようなものではない。 日本列島に住む人々が共通で原日本語を用いていたはずであるとするような 考え方は、その具体的な根拠を示すことができないかぎり、幻想に過ぎない。 しかし、歴史的な日本語は、日本列島という広い地理的範囲にわたって高い 共通性を見せている。その共通性は何によるのか。 「共通性を遡るなら、共通の祖先に辿りつくはずである。」そう考えるのが 系統論の発想である。方言の比較研究をしなくても、共通性の認められる表現 を比較検討するなら、「語源」と認識され得るような表現としての共通性を 類推することが可能となる。そのような類推によって「語源」と見なすこと ができるような表現の発音とイメージを抽出してみると、日本語の日常的な 表現の根幹を成すと感じられるような部分まで、中国語の表現との対応関係 を見出すことができる。にもかかわらず、既に指摘したとおり、日本語は、 中国語が変化して形成されたものであるようにはまったく見えない。 したがって、明白に現れていくる表現の対応関係にもかかわらず、中国語 の表現を、日本語の表現の「祖語」と呼ぶことはできないだろう。 日本語は、中国語をその言語的な祖先としているのではなく、中国語の 表現を利用しているのである。しかしながら、中国語の表現を利用する際、 利用する側の主体としての「日本語」は、「原日本語」と呼べるような身元 を有さないのである。だからこそ、中国語の表現を「日本語」に対する 外来の要素と見なして、それを取り除いていっても、「原日本語」が 正体を現すことはなく、その根幹であるように見える部分まで消え去って しまうのである。「原日本語」と呼べるようなものが存在するとすれば、 それはまさしく、中国語の表現を利用することの共通性によって形成され ているであり、その用法の様態こそが日本語の身元として認識されるのだ。 ウィトゲンシュタインを引くまでもなく、言葉の意味とは、その用法 であり、用法の共通性により、言語の共通性が「身元」として現れるのである。 仮に、古代の日本語と呼べる言葉の用法がほとんど全面的に中国語の 表現を利用したピジン語として形成されているとした場合、そのように 形成された「日本語」は、中国語に依存して自律性を欠いた二次的な 言語であることになるのだろうか。 そのように考えることは、中国語の表現をピジン語として流用していた 人々が、実は、中国語を話そうとしていた、つまり、自らの話し方が 中国語の規範を逸脱していることに気づいたなら、その都度、規範に 合せるように自らの言葉遣いを修正しようとしていた、と想定するなら、 確かに正しいだろう。しかし、そのような想定をしなければならない 根拠はどこにもない。 言葉の用法が、すべて他者の表現の流用に由来するという理由で、その 用法に自律性がないと見なすとしたなら、言葉の自律性、さらには 自律性そのものについての理解が間違っている。言葉は、それが 表現として通じてしまうなら、通じるように使われること自体によって、 否認しようもなく自律性を生じてしまうのである。 そのように否認しようもなく生じてしまう自律性の認知を抑圧し、隠蔽する ために用いられる常套手段が、そのような自律性の認知を、あらゆる規範の 受け入れの拒絶と等価であると見なして、暗黙にすり替えを行ったうえで 批判する、いわゆる「相対主義批判」であり、この常套手段は、一見、 それとはまったく無関係に見えながら、同じ抑圧と隠蔽を目的としてる チョムスキーの生成文法の思想の推進と手に手を携えて相補的に用いられ ているのである。 人は、組織が何かを推進しているのを見るとき、それがまったく無駄なこと に見える場合でさえ、単純に何かが目的に向かって推進されていると信じて しまう。そこに大きな錯誤と盲点がある。組織にとって、何かを推進している という名目で人々をそれに動員するとき、しばしば、最大の目的は、人々の 活動の抑圧と排除であり、明示的に掲げられる目標は、そのための空虚な 名目に過ぎない。 人々がいつでも、空虚な名目を容易に信じてしまうのは、組織が推進する 目標に向かって貢献しているように見えるように協力することが、組織の 下で生きる限り、自らの生活条件を優位に保つのにプラスに働くからである。 このことは、それまで属していた組織が転覆してしまい、人々が新たな組織 の管理下で生活することになって、それまでとは逆の名目が掲げられる ことになったとしても変わらない。 誰かが、その時に勇気を出して本当のことを発言していたなら、こんなこと にはならなかったのに、というのは常に幻想だ。多くの人は名目が、名目 に過ぎないことに既に気づいていたのであり、流れが変わっていたとした なら、それにすぐにでも鞍替えをする用意があったことは確かだろう。 だが、それが常態なのである。名目の空虚さに気づかされて、恥じ入って 黙り込むのは、せいぜい、掲げられる名目を本当に心から信じて、その 実現に自分が大いに貢献していると自負している「役に立つ馬鹿」だけだ。 「こんなことにはならなかったのに」と人々が反省を口にするとき、人々は 既に鞍替えを済ませている。そして、新たに掲げられる名目に自ら進んで 協力しているのだ。 少し前に以下のような書き込みをした。 >ところで、日本語の「う」という発音は、「表面」や「表面化」を >想起させるように用いられており、この「う」の用法は、 >中国語の、「虚 ピンインxū」という発音とイメージをそのまま >利用したものであると推測することができる。 >訂正します。発音としては、こちらの方ですね。 >https://ja.wiktionary.org/wiki/ 虚 >閩南語 POJ: hu 確かに、日本語の「う」は、イメージとしては表面化を想起させる ように用いられているが、中国語の発音との対応関係については、 この書込みは少し先走り過ぎて、歩みを誤っている。特に、 「ピンインxū」に対応すると思ってしまったのは、私がピンイン の表記法を理解していなかったからだ。このため、日本語の「う」 と中国語の対応関係については、一筋縄ではいかない感じが強く、 さらに探ることをつづける必要性を感じていた。 特に難しいと感じたのは、万葉仮名で「う」に当てはめられている漢字が、 「兎/鵜」などの、中国語では「う」という発音と無関係の漢字の場合 を除いて、日本語の「う」の発音が多くの場合に想起させるイメージと まるで対応していないことがその理由としてあげられる。私には、中国語 の発音の歴史的な変化についての知識がないので、どのような経緯に よるものかは知らないが、万葉仮名で「う」に当てられている「宇」や 「羽」は、現代の中国語ではいずれも「ピンインyǔ」と発音される ようである。 「虚 ピンインxū」と「う」の対応に無理が感じられる一方で、 訂正として書き込んだ、閩南語の「虚」の発音である「hu 」と「う」の 対応関係には、それほど無理は感じられない。しかしながら、このように 恣意的に都合のよい対応だけを選び出してくることは、手続きとして 仮説のネットワークの形成を妨げる。そこで、閩南語の「虚/hu」を 手がかりに、「う」に、より無理が少ないように対応する中国語の 表現が見当たらないかどうかを探ってみたところ、日本語の「皮膚」 という表現における「膚(ふ)」に対応するように中国で用いられてている 漢字である「肤(膚)ピンインfū」に行き当たった。 こちらの方は、想起させるイメージにおいても、その発音においても、 日本語の「う」に対応し得ると考えて、それほど無理がないように 私には感じられる。 https://cjjc.weblio.jp/content/肤 ; https://zh.hatsuon.info/word/肤 ; https://www.wordreference.com/zhen/肤 ; 肤(膚) fū 名 skin 肤(膚)浅(淺) fūqiǎn 形 superficial こういう回り道をすることで、日本語の「浮(う)く」という表現の「う」も 中国語の「浮 ピンインfú」にそのまま対応していて、本来的に「表面化する 様態」、つまり、英語にするなら"surfacing"を表していることがはっきりと 理解でき、さらにそれが、「空虚である」ことを換喩として表現している ことが分る。 https://cjjc.weblio.jp/content/ 浮 表面の,表に浮いた. 空虚な,中身のない. https://www.wordreference.com/zhen/ 浮 (=表面上) superficial 浮面(麵) (=空虚) empty 浮夸 fúkuā >>435 私自身、以前に以下のように指摘しているので、なぜ、日本語の「う」に 対する中国語として「浮 ピンインfú」を真っ先に思い浮かべなかったのか 不思議だが、これを書き込んだ当時は、中国語のことなど念頭になかった ので、連想のネットワークにおいてつながっていなかったのだ。 >同じ「さ」という要素が「さ(≒removing)る/さ(≒revealing)る」という >関係で、同じ「う」という要素が「う(≒filling)め/う(≒surfacing)く」と >いう関係で、それぞれ互いのインデックスとなるように用いられることを >もたらしている。 単語の対応で重要なのは、身体関係の言葉といわれている。 その他は他の地域の文化からの影響の可能性があって、時代を遡ることが難しい。 面白いレスが続いているが、万葉集は朝鮮語(中国語)だった、というような安易な結論を導き出すことがないように気を付けてほしい。 中国の漢字として「う」の発音とは何の関係もない「兔/兎」や「鵜」が 日本語において「う」と読まれるのは、以前から指摘しているとおり、 これらの名称が、以前から指摘しているとおり、「表面化すること」≒ "surfacing"を表しているからである。 「鵜」が潜水艇のように水から「『浮かび上がってくる』動物」である ことをイメージするのは容易だろう。「兔/兎」が同じように「『浮か び上がってくる』動物」であることが直ちに感じられないとすれば、 それは、ペットとして飼われているような環境で飼育されている ウサギをイメージしてしまうからであり、言うまでもなく、古代の 「兔/兎(う)」は、草叢に身を隠して、時折、飛び跳ねて姿を見せる 野生のウサギを指しているのである。そのように姿を「垣間」見せる ことが、「ウ・サギ」の「サギ」によって表されているのであり、 この「サギ」は、古典で誤って解釈される、あるいは解釈が意図的に 捻じ曲げられて隠蔽されている「見さく」の「さく」と同じもの である。 >>437 そのような誤った理解に対しては、既に>>424-426 で十分に答えている。 >>439 利用という概念では、ただの外来語の受容に過ぎないが? >>438 ところで、「うさぎ」という名称が「う(≒表面化/surfacing)」+ 「さき(≒裂き/間隙/interstice)」のようなイメージを想起させるもの であることを理解すると、『古事記』に出てくる「稻羽之素菟」 (稲羽の素兎)の説話が、「うさぎ」という呼称を利用した 言葉遊びに基づいていることが分る。 https://ja.wikipedia.org/wiki/ 因幡の白兎 兎は、八十神に「海塩を浴び、山の頂で、強い風と日光にあたって、 横になっていることだ」と教えられた通りに伏せていたが、 海塩が乾くにつれ、体中の皮がことごとく裂けてきて >利用という概念では、ただの外来語の受容に過ぎないが? 既に明確に答えているが、利用が日本語を形成している。 それ以外の外来語を除いた原日本語の存在は確認できない。 >>441 口承筆記である古事記に言葉遊びが入る余裕はないと思うが? >>442 原日本語の存在を確認できないというのは、外来語の受容を日本語と外国語との類似と混同しているから、根拠が薄い。 特に日本語は、中国語と比べて著しく音数が少なく、一つの音で多数の意味を持ってしまっているので、偶然の類似多くなる。 万葉集は朝鮮語だったという議論を作った根拠が日本語の音数の少なさ。 >>445 日本語を論じるときの注意点を指摘してあげてる。 >古事記に言葉遊びが入る余裕はないと思うが? 言葉遊びだらけだが? 既に明確な具体例を詳しく例示しているし、それが理解できないようなら、 あなたに判定してもらう必要性がない。 >>449 古事記のウサギが言葉遊びだという根拠は皆無。 思い込みの決めつけが理解されないと怒るのでは、ただの子供だ。 だから、君の記述に注意を促した。 批判は、盲点を突くようなものであるなら役に立つが、結婚しても いない人間に対して、"Stop beating your wife!"と警告するような ものは、相手にする価値がない。相手にされなくて気分を害するなら、 別にそれはそれでいい。私の知ったことではない。 >>451 僕は気分を害したりしてないw 自分の論点の欠陥を指摘されて怒っているのは君のようだ。 冷静に自分の記述を考え直せばいいことだ。 言葉遊びの構図を見て取ることができないと文句を言っているのは あなたであり、何を考え直す必要があるのかまったく不明である うえに、自分がそれを認識できないからといって、不特定多数の 他の人々を代表してあなたが判断する必要性もない。そんな ことは、便所の落書きを目にする各自に任せればいいだけのこと なのだから。 >>453 >言葉遊びの構図 それが思い付きの決めつけ、つまり妄想だと言ってる。 便所の落書きとはいわないが、万葉集は朝鮮語でできているという思い付きと同じレベル。 だから、冷静に、自分の記述を考え直せと注意した。 別にあなたが私の書き込みを妄想だと感じるのは別に構わないですよ。 あなたに、不特定多数の人々の判断を代表してもらう必要がないという だけのことです。さらに、あなたがいくら私の書き込みを妄想である と強く感じたところで、それに同感するように私を導くことができる 根拠をあなたが示せないのであれば、考え直すべき理由は私にはない。 >>455 君の思い込みは他人の意見を寄せ付けない。 根拠がないから、自分の思い付きをどこまでも進めることができるからだ。 根拠のない話には、根拠がないと注意するしかない。 統失患者の幻覚を注意しても無駄だということは知っているが、君が統失患者であるとは思いたくない。 >統失患者の幻覚を注意しても無駄だということは知っているが、 >君が統失患者であるとは思いたくない。 あなたのような人には、統失患者だと思ってもらっていっこうに構わないし、 それどころか、注意することが無駄だと自覚してもらえる方がありがたいw >>457 僕は、君を怒らせるために書いてるわけではない。 君が感情的にしか反応できなくなっているから、これ以上は書かない。 冷静になったときに、一度は読み返して自分の論の欠陥に思い至ってくれることを期待する。 言葉で表現するとは、事象がどのようであるか(という関連付け)と、 どのようでないか(という区別)が伝わるように徴候/合図を構造化して 使ふことである。 どのようであるか(という関連付け)と、どのようでないか(という区別)が うまく伝わるように構造化を工夫するのであり、構造化された徴候/合図の 体系によって、どのようであるか、およびどのようでないかが決まるのではない。 構造化された徴候/合図の体系性をできる限り乱さないように表現を工夫する のは、伝わる関連付けと区別において混乱が生じないようにするためであり、 体系性を規範として守ることによって、伝えようとする関連付けと区別が うまく伝わらないなら、それを逸脱してでも伝わるように、既存の体系を 変形/拡張しようとする試みが行われる。 うさぎの「体中の皮がことごとく裂けてきて」というエピソードは、 「う(≒surfacing)・さぎ(≒splitting)」という言語表現がどのような 様態を表す言葉として構成されているのかを、文脈をずらすことに よって伝えようとするメタ言語的なアレゴリーとなっている。 伝達の手法としてのこのような「言葉遊び」を、おやじギャグのように下らない 駄洒落のようなものと考えるべきではない。なぜなら、このような「言葉遊び」は、 単に「うさぎ」とうい呼称の由来を孤立したエピソードとして伝えるものでは なく、言葉の表現の一般的な分析となっているからであり、しかも、私が、 ここで英語を明示的にメタ言語として利用することによって行っているような 分析を、そのような分析として機能していることに気づかれずに「語り継がれる べき物語」として伝えているからである。 「うさぎ」の「う」が中国語の「浮(fú)」や「肤/膚(fū)」に対応するイメージ を利用しているとするなら、「さぎ」、つまり、「さ(裂)く」という表現は、 どのような中国語の表現を利用していると考えられるか少し検討してみた。 万葉仮名では、「さ」に「狭」という漢字が当てられて用いられているが、 発音から見ても、それが想起させるイメージから見ても、「さ(裂)く」の 「さ」は、中国語の「狭(狹)ピンインxiá」に対応していると見てよさそう である。 https://cjjc.weblio.jp/content/ 狭 狭(狹) ピンインxiá 1(多く書き言葉に用い,単語・4字句を作り;幅・面積などが)狭い. ↔广,宽.⇒窄 zhǎi . 実際、そう想定して検索してみると、「宇佐神社」の「うさ」にも、 「菟狭」という漢字が当てられていたことが分る。 https://kotobank.jp/word/ 菟狭津彦-1057620 菟狭津彦 うさつひこ 古代伝承上の豪族。 宇佐国造(くにのみやつこ)の祖。神武天皇が東征し菟狭(大分県宇佐市)に きたとき,菟狭津媛(ひめ)とともに駅館(やっかん)川の上流に一柱騰宮 (あしひとつあがりのみや)をつくり天皇をもてなしたという。高魂尊 (たかみむすびのみこと)(高皇産霊尊(たかみむすびのみこと))の孫とする 伝承もある。宇沙都比古,宇佐都彦命とも。 私は、このような事実関係を、あらかじめ学んで知っている知識に 基づいて検索して見出しているわけではない。推論の妥当性が仮説の ネットワークの形成を助けるのである。 https://ja.wikipedia.org/wiki/ 因幡の白兎 >『因幡国風土記』は現存せず、『出雲国風土記』に記載はない。 >「稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)が淤岐島(おきのしま)から稻羽(いなば) に渡ろうとして、和邇(ワニ)を並べてその背を渡ったが、和邇に毛皮を剥ぎ取ら れて泣いていたところを大穴牟遲神(大国主神)に助けられる」 ところで、宇佐神宮のあった地の名前は「菟狭(うさ)」である。 https://www.weblio.jp/content/ 菟狭 菟狭 読み方:ウサ(usa) 宇佐神宮のあった地。 では、海を渡った対岸の地の名前は何だろうかと、地図で検索して みると、山口県の宇部市、つまり、「宇部(うべ)」であることが分る。 そこで、「宇部(うべ)」という地名は、「宇佐/菟狭(うさ)」と何か 関係があるのだろうかと思って検索してみると、次のような記述が 見つかるが、地名が関係しているとは説明されていない。 https://ja.wikipedia.org/wiki/ 宇部市 >859年(貞観元年) - 行教が宇佐神宮から石清水八幡宮へ八幡神を勧請する 途中で宇部郷琴芝の浦に行宮が設け、その跡地に村人が八幡神の分霊を祀る (琴崎八幡宮の起源)。 さて、「た(食)べる」という表現は、「たう(食)ぶ」という古語に由来する と考えることができる。この場合、「たう(食)ぶ」の「〜ぶ」は再帰形を 表しているので、既に繰り返し指摘した私の想定では、中国語の「复(複) ピンインfù」を流用している。したがって、「食べ」の「べ」も、活用形 として発音は「ふ/ぶ」から変化しているものの、やはり「复(複)ピンインfù」 に相当すると考えられる。万葉仮名を調べると、「へ」の発音に「返」および 「反」が当てられていることが分るが、これは、そのように「へ」の発音が 再帰形の活用形として用いられていることを反映しているのではないかと 思える。実際、「か(交)ふ」に対して、「かへ(返)る」、「かへ(返/反)す」 という表現が存在する。 すると、「宇部(うべ)」という地名が「う(生/産/初)ぶ」という再帰形の 表現に関係するのではないかと考えても、必ずしもこじ付けとは言えないだろう。 現代語で「うぶ」という表現を聞いたとき、どのようなイメージを思い浮かべる だろうか。「うぶ」をGoogle検索すると、以下のように表示される。 うぶ 1. 【初・初心】 《名ノナ》まだ初々(ういうい)しくて、世間慣れが していないこと。すれていないこと 皮膚が「す(擦)れる」と硬くなって「たこ」ができる。「うぶ」を 英語の"naive"に対応すると考えるなら、その逆の「すれた」状態 は、英語の"callous"に対応することになるので、日本語も英語も 類似した隠喩を用いていることが分り、ここで、「うぶ」という表現 が「すれていないやわらかい皮膚」をイメージさせると考えても 問題ないだろう。 さて、ここで、「うぶ」の「ぶ」は、再帰形を表すものとして、中国語の「复(複) ピンインfù」に対応しているものと想定している。ここで、「うぶ」が 「すれていないやわらかい皮膚」をイメージさせることに留意し、さらに、 「菟狭(うさ)」の「う」が「肤/膚(fū)」に対応するイメージを利用していると 想定したことを思い起こすと、「うぶ」という表現に「肤复」という漢字を 当てはめてみることが思い浮かぶ。また、「ふ/ぶ」が活用形として「へ/べ」に 変化することを考えると、「宇部(うべ)」が「うぶ」から派生していると 想定した場合、「うべ」に「肤复」を当てはめても問題ないことになるだろう。 ところで、ここで発案した「肤复(うべ)」に対応するような中国語の表現は 存在するのだろうか。 「肤复」という漢字で表された表現は、中国語ではなく、日本語としても 存在しないので、当然、そのまま検索しても何もヒットしない。しかし、 ここで、「肤复」の表記を逆転して「复肤」にして検索すると、すぐに 化粧品に関連するらしい、「复肤堂化妆品 - 阿里巴巴」などの結果が 表示される。さらに、私は中国語を知らないので、「复肤」がどのような 意味で用いられているのかを知るために、「复肤 & 翻訳」で検索して みると、中国語「复肤」⇒日本語「スキンリサーフェシング」という 結果が表示される。もちろん、「スキンリサーフェシング」などという 日本語は存在せず、これは、自動翻訳で中間言語として利用されている 英語の翻訳結果、"skin resurfacing"にカタカナを当てただけのものである。 それでも、「复肤」がどのようなイメージの表現なのかは、英語を 知っていれば、すぐに理解できることになる。 ここで、さらに、"skin resurfacing"をGoogle検索してみると、"Photorejuvenation" について表示され、以下のように記載されている。 光線活性化は、レーザー、強力なパルス光、または光線力学療法を使用して皮膚の 状態を治療し、しわ、しみ、質感などの光老化の影響を取り除く皮膚治療です。 このプロセスは皮膚に制御された創傷を誘発し、新しい細胞を作り出すことに よってそれ自身を治癒させる。 ウィキペディア(英語) 「肤复」という漢字によって解釈した、「宇佐/菟狭(うさ)」の対岸の 「宇部(うべ)」という地名は、「因幡の白兎」のエピソードを彷彿とさせ ないだろうか。「うべ(宇部)」という地名は、「宇佐/菟狭(うさ)」という 地名と無関係なのか。古事記に記載される「素菟」の話と無関係なのだろうか。 大穴牟遲神が兎に「今すぐ水門へ行き、水で体を洗い、その水門の蒲(がま) の穂をとって敷き散らして、その上を転がって花粉をつければ、膚はもとの ように戻り、必ず癒えるだろう」と教えたので、そうすると、その体は回復 した。これが、稲羽の素兎(しろうさぎ)である。 日本語は、中国語の表現の構造化を変形することによってではなく、 中国語から借りてきた表現を、好都合に別の構造に組み替えること によって形成されている。だから、日本語の表現が流用したで あろう中国語の表現を見出すことは容易であるものの、日本語を 中国語の変形/ヴァリエーションとして解釈することはできないのだ。 日本刀を帯刀しない日本思想って 必然的にニヒリズムに行き着くと思うんだけど言い過ぎかな? 924 :世界@名無史さん :2019/11/21(木) 20:44:34.94 0 タイ語版の記事「戦艦大和」には 宇宙戦艦ヤマトと戦艦大和の比較図が付いている。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/th/4/45/Yamato_comparison.jpg こうして並べてみると、艦橋の位置とか結構ちがうね。 925 :世界@名無史さん :2019/11/21(木) 20:53:03.20 0 前方からの視点の構図において 艦橋と大砲をワンカットに入れる為に中央に寄せたんだろう 創世神話の外在と内在 [外在] 天地(=世界、宇宙)を創る神 [内在] 天地から成る神、天地に成る神 “1:1 初めに、神は天地を創造された。 1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。 1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、 1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。 1:16 神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。” ― 旧約 「創世記」 1:1-5、16 “天と地とが初めて分かれた開闢の時に、高天原に成り出でた神の名は、 天之御中主神(アメノナカヌシノカミ)、次にタカミムスヒノ神、次にカムムスヒノ神である。 この三柱の神は、皆単独の神として成り出でた神で、姿形を現されなかった。 次に国土がまだ若くて固まらず、水に浮いている脂のような状態で、水母のように漂っているとき、 葦の芽が泥沼の中から萌え出るように、萌えあがる力がやがて神と成ったのが、 ウマシアシカビヒコヂノ神であり、次にアメノトコタチノ神である。” ― 『古事記(上)』 「天地の初め」 次田真幸、講談社学術文庫 (1977) >>477 大川の解釈では、古事記は混沌から宇宙の生成へ、天地が自己展開していくものであり、 宇宙に内在する生命と力とが神として顕現するのだという。(cf.丸山眞男、本居宣長) “この〔古事記本文冒頭の〕意味多き一節は、混沌Chaosが宇宙Cosmosに成り往く道筋を述べたものである。 古事記の世界観に就て注意すべき一事は、そが天地の創造を説かずして、天地の啓発、天地の開展を説く事である。 天御中主神は宇宙の根本生命、高皇産霊・神産霊〔高御産巣日・神産巣日〕の両神は宇宙の生成力の神格化である。 そは決して宇宙に超在する神にあらで、内在せる生命と力とが、神として顕現したのである。” ― 大川周明 『日本文明史』 p25 (臼杵陽『大川周明』青土社、2010、p220より孫引き) 日本創世神話の原型『淮南子(えなんじ)』 ・『淮南子:知の百科(中国の古典)』 池田知久 、講談社 (1989) 原文、書き下し、訳文 ・『淮南子の思想:老荘的世界』 金谷治 、講談社学術文庫 (1992) 解説と部分訳 “天地がまだ形づくられていなかったときは、 ただ何かがもやもやと漂い、ふわふわと浮かんでいるだけであった。 これを太始(大いなる始まり)という。 道がこの虚霩(漠然たる広がり)を作り出したのであるが、 やがて虚霩(カオス)から宇宙(空間と時間と)が生まれ、 宇宙(コスモス)から元気(万物の根源的な元素)が生まれた。 そして元気の中に二つのものへの分化が現れると、 清んで明るい気は、広くたなびいて天となり、重く濁った気は、凝固して地となった。” ― 『淮南子:知の百科(中国の古典)』 「11 天地創造」 池田知久 、講談社 (1989) 『古事記以前』 工藤隆、大修館書店 (2011) 日本神話の源流にあたるものとして、中国四川省イ族の創世神話「勒俄特依(ネウォテイ)」を全文紹介。 1. 前口上 大昔、上界の勒俄(ネウォ)は太陽と月を中心とする儀礼だった。 一方、下界の勒俄の中心は、雲、神と鬼、雲雀、虎、雄鶏、山と谷、水、蜜蜂、魚、ニシキドリ、竹鶏、猿、暴風だった… 2. 天と地の系譜 大昔、空にも大地にも穴が無く、空も大地もそれぞれが四方に繋がっていた。 空も星も無く、大地も草も無く、中間に霧も無く、周囲に空間も無く、あれも無くこれも無く混沌としていて、煙霧が立ち込めていた… 3. 天地開闢 天と地がまだ分かれていなかった時、上界には四十八体の神が、下界には二十四体の神が住んでいた。 大きな石の板の下には阿旨(アジュ)という蛙神が住んでいて、天と地をわけるために九年と九か月も鳴き騒いだ… 神話の類型整理にとどまらず、工藤は長江流域を中心とする「歌垣文化圏」をも想定している。 日本の記紀歌謡や万葉歌が七五調で歌われるのに対し、 同じく母音で終わるイ語の創世神話「ネウォテイ」は五音を中心に歌われている。 これらと似た定型・音数律を持つものとしては、 雲南省ペー族の七七七五+七七七五音であるとか、 江西省チワン族の五音、湖南省ミャオ族の七音、モソ人の七音が挙げられている他、 ブータンの四音や沖縄の六・八音も「休止」を含めて数えることで同類なのだという。 意味ないっす。そういう神話や物語なんていう女子供の読む読み物は。 天地の始まり、という神話はどこにでもある。 自己の立場の正統性を必要とする支配者が周辺環境を自分の正当性に結び付けるために作り上げる。 工藤は>>480 の中で、神話の強度を8段階のレベルに分けて説明している。 共同体の祭式の中での生きた神話のあり方を最高レベルの第1段階とすると、 原型性が薄まった『古事記』は第7段階、 文字と国家意思によって権威づけられる『日本書紀』などは第8段階のものだという。 身内の不幸をはじめとした次々と自分に降りかかる災厄にへこたれず思索し続けた人 ってだけでも西田は凄い人だと感じられる。 西田はこちらで解説書から全集の通読までやってる 【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】 [無断転載禁止]©2ch.net https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1494594731/ 有名な歌が多く、百人一首の元になっている『古今和歌集』と『新古今和歌集』はペアでやる。 それより古い形になるのが『万葉集』。 迷ったら、この三つは、角川ソフィア文庫にあるものが、手軽で註もしっかりしている。 その他は、講談社学術文庫、新潮日本古典集成など。 『百人一首の秘密:驚異の歌織物』 (1981) 『百人一首の世界 新装版』 (1986) 林直道、青木書店 百人一首をテーマ毎に10×10に並べると、一枚の大きな絵になるという話。 https://i.imgur.com/W9dU6hE.png ↓ https://i.imgur.com/qMTQvKq.png ↓ https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/e0/3ce3c037d9c29a6376d9eee7d6a82edb.png 哲学の世界では丸山圭三郎が取りあげた(『丸山圭三郎著作集3』「言葉と無意識」)。 ソシュールのアナグラム研究と比較をして。 井筒「私は、元来は新古今が好きで、古今、新古今の思想的構造の意味論的研究を専門にやろうと思ったことさえあるくらいですから」 ― 井筒俊彦×司馬遼太郎「二十世紀末の闇と光」 『未来哲学:創刊号 特集・未来哲学とは何か』 未来哲学研究所 (2020/11/25) 末木文美士、山内志朗、中島隆博 思想の冬の時代に、あえて船出する思想誌です。希望を語ろうとするのではありません。 そのこと自体が主題となるほどに困難であるからこその挑戦──手がかりは、非西欧の思想圏への、あらためての着目です。 イスラーム、東アジア、ロシアその他の地域の見えなくされた可能性を掘り起こし、思想の風景を描き直すカギを探します。 希望とは何か、終末とは何か。一つの大きなサイクルが巡り終えたかのような、薄暮に閉ざされた時節を超えるために。 <特集・未来哲学とは何か> 前近代・ポストモダン・超近代、あらためて一つの時代区分ではない、思想の、生き方の「近代」を問う。 創刊の言葉 〈哲学〉は〈未来〉に船出できるか? 末木文美士 特集 未来哲学とは何か 1 通底する存在と情念──中世から未来を問うために 山内志朗 2 未来哲学としての東洋哲学 永井 晋 3 来者を思う──哲学の希望 中島隆博 対話 時間軸上の希望とフロンティア──世界哲学と未来哲学 中島隆博・納富信留 コラム 太古の化石林、未来の生態系 辻誠一郎 『バビロン天文日誌』と未来予知学 三津間康幸 二〇世紀の天動説──ロシア宇宙主義のヴィジョン 細川瑠璃 論考 仏教認識論の射程──未来原因説と逆向き因果 護山真也 存在と本質──中世的なるもの 小村優太 AI・仏性・倫理 師 茂樹 モノたちが互いに区別されて存在している世界 法貴 遊 ──アシュアリー学派の行為論と偶因論── 革命・国家・悪──田辺元の実践哲学 田島樹里奈 書評と対話 思想史を書く枠組みをめぐって 葛兆光+末木文美士 185考える名無しさん2020/11/29(日) 11:21:34.350 「『ぢ/じっ』としていろ(≒"hold still")」や「『ぢ/じっ』と見つめる(≒stare at/gaze into)」などの表現における「ぢ/じっ」が流用したのは、中国語の「执(執)ピンインzhí」となった表現だろう。 https://en.wiktionary.org/wiki/ 執#Chinese Middle Chinese: /t͡ɕiɪp̚/ Old Chinese (Baxter–Sagart): /*[t]ip/, (Zhengzhang): /*tjib/ Min Nan (Hokkien, POJ): chip, (Teochew, Peng'im): zib4 それに関連しているのが、日本語にも漢語として取り入れられている 「蟄居(ちっきょ)」の「蟄」という表現である。 https://en.wiktionary.org/wiki/ 蟄 >>492 沖縄には「勢理客」という地名がある。なんと読むのだろうか。 その答えは、「じっちゃく」である。 「じっちゃく」が表現として何を表していたにせよ、それを表記するのに 用いられている漢字「勢」を構成する「埶」が、「執」とよく似ている うえ、「じっ」と読まれていることから見て、共通する表現であり、 なんらかの中国語の表現の流用である。実際、中国で用いられる漢字を 参照すると、「埶」と「執」はともに「执」として簡略化されて表記される 場合があることが分かる。 したがって、 https://ja.wikipedia.org/wiki/ 勢理客 >「じっちゃく」という読みは、「せりきゃく」の沖縄方言(母音の「e」→「i」、 子音の「k」→「ch」)読みである「しりちゃく」が、濁音化・音便化したものである。< という一般に流通している説明は、誤りであるか、あるいは意図的な隠蔽であるものと 私は考える。 https://userweb.mmtr.or.jp/sumiyoshi-do/tetugaku (jinsei)17.htm >縦欲之病可医、而執理之病難医 >縦欲の病は医すべし、而して執理の病は医し難し『菜根譚』 「執」の代わりに簡略された「执」で「执理」を検索すると、 多くのサイトがヒットする。 >「法执重而不去践行佛法,便是执理废事」 「勢理客(じっちゃく)」の「勢」は、本当は「執」と表記されるべきもの であったのではないかと仮定して、「執理客」と書き換え、さらに 「執」を現代の中国で用いられる簡体の「执」に置き換えて「执理客」を 検索すると2件だけヒットするようだが、私は中国語を知らないので、 それがどのような用例なのか明確には分からなない。ただ、 「勢理客(じっちゃく)」が「执理客」に対応すると想定した場合、 「執/执」は、「執念」のように「執着」の意味合いや、 「『じっ』としている」のように「保持された様態」を表すように 用いられているのではなく、「執行」のように「執り行う」ことを 意味するように用いられているのだろうと思われる。すると、「客」 は、「ゲスト」というよりは、「刺客」や「論客」などのように >ある能力で生計を立てる者< https://ja.wiktionary.org/wiki/ 客 や、あるいは、「あるカテゴリーの人々」を表すように用いられている のではないかと推測される。ただし、「勢理客(じっちゃく)」が 実際にそのような表現として地名となったのかどうかは、当然のことながら、 歴史的な検証が必要である。 「あし(足)」や「葦(あし)」が、「あしひきの(≒”lofty”)」の場合と同様に 「高く離れている」ことを表現していることは、既に何度も指摘してきた。 587考える名無しさん2020/10/06(火) 09:33:41.340 話が横に逸れてしまったが、ここで問題にしているのは、指示詞の「あ」であり、 「あなた」の「あ」である。この「あ」は、中国語では「岸ピンイン àn」 (1(そそり立って)高い.2 尊大である.⇒傲岸 ào’àn ) として用いられた 表現の流用であると考えられることを、私は以前から指摘してきた。 https://en.wiktionary.org/wiki/ 岸 Old Chinese (Baxter–Sagart): /*[ŋ]ˤa[r]-s/ (Zhengzhang): /*ŋɡaːns/ 現代の日本語で用いられる「岸」という漢字からは少しイメージが湧きにくいかもしれないが、関連する漢字として用いられてきた「崖」をイメージしてみるといいだろう。ちょうど、水面(みなも)から、そそり立つ断崖を見上げるイメージである。想定される古代の発音が「岸」と近い「仰/卬」の用法もそれに関連しているはずだろうと私は思う。 https://en.wiktionary.org/wiki/卬 ; 卬 (literary or old-style Xiang) I Alternative form of 昂 (áng). to raise high To admire, or look up to (someone) ところで、「勢理客(じっちゃく)」には「神アシャギ」と呼ばれるものが存在する。 「あしゃぎ」は、現代の標準の日本語の発音にすれば、「あしあげ」に相当し、 その語源は、「民間語源説」によって以下ように解釈されているとのことである。 http://yannaki.jp/kamiasagi01.html >神アサギは地域によってアシャギやハサギと呼んでいる。その呼称から「屋根に 足をつけてあげる」ことに由来するとか、「神にご馳走(アシ)をあげる場所」 だからという。久志の汀間や大浦や瀬嵩などの神アサギはかつて海浜や潮がくる 場所にあったことから「足上げ」だと解しているようである< 言うまでもなく、表現を素直に解釈するなら、「神アシャギ(あしあげ)」の 「あし」も、枕詞の「あしひきの」の「あし」と共通であり、「高く離れた様態」 を表現しており、「あげ」は、そのまま「上(あ)げ」であり、 「神アシャギ(あしあげ)」は、単に「神を高く上げること」つまり、 「神をうやま(敬)/おが(拝)む行為のための場所」を意味している。 本当はよく分かっているはずのことを隠蔽しようとするから、簡単に解釈可能な 表現も「由来のよく分からない不明な表現」とされ、さらにそれを語呂合わせで 説明する民間語源説が、誤誘導のために一般に広められるのである。 >>498 「アシャギ(あしあげ)」という言葉をイメージするのに、例えば、 用法は異なるものの、「高揚/昂揚(こうよう)」という表現を考えてみるといいだろう。 放送終了後の長谷川博己も、そのことを匂わせていた。 長谷川博己さんから、みなさんへ。ラストメッセージをお届けします。 https://twitter.com/nhk_kirin/status/1358400195889946625?s=19 ・光秀は生き延びたんだと信じたい ・番外編でお会いできたら嬉しい ・このあと、どうやって光秀は江戸幕府を作ったのか? https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 説の真偽はともかくとして、 ↓などは、タイトルと重なる。 天海所用とされる兜『麒麟前立付兜(きりんまえだてつきかぶと)』 https://pbs.twimg.com/media/EtoUCzUVgAMQvLd.jpg 『現代思想 2020年1月臨時増刊号 総特集=明智光秀』 エンゲルスの『ドイツ農民戦争』の話とか 歴史はこうやって哲学を以て読むべき ロマンではなくて 377考える名無しさん2021/02/08(月) 13:19:12.240 振る舞ひに伴って生じる"accountability"に人々を納得させられる ような形で都合よく応える物語("storytelling")が歴史である。 『朝鮮思想全史』 小倉紀蔵、ちくま新書 (2017) 朝鮮思想史を概観すると、思想の純粋性をめぐる激烈な闘争が繰り返し展開されてきたことがわかる。 思想闘争は政治闘争と直結し、その様相は朝鮮時代の儒教や、解放後の韓国と北朝鮮のイデオロギーに典型的に見られる。 そしてその思想の純粋志向性はやがて運動となり、国家や共同体の成員の肉体的生命を超え 「朝鮮的霊性」が燃え上がる―それが現代の韓国・北朝鮮の激烈な思想運動にもつながってきた。 朝鮮思想をできるだけ客観的に捉え、全体を俯瞰するはじめての試み。 第1章 朝鮮思想史総論 第2章 神話および「古層」 第3章 高句麗・百済・新羅 第4章 高麗 第5章 朝鮮時代1―朱子学(性理学) 第6章 朝鮮時代2―「実学」、陽明学、儒教以外の思想 第7章 朝鮮末期および大韓帝国 第8章 併合植民地期 第9章 朝鮮民主主義人民共和国 第10章 大韓民国 『人物でみる韓国哲学の系譜―新羅仏教から李朝実学まで』 金教斌、金明順 訳、日本評論社 (2008) 韓国に哲学があるのか??教え子の質問に衝撃を受けた著者が構想10年、 誰もが予備知識なしに読める韓国伝統哲学の入門書。 思想家を中心に韓国の思想をわかりやすく書いた一冊。 第1章 韓国哲学の道 第2章 元暁―韓国仏教のルーツ 第3章 知訥―至誠を尽くしても砂でご飯は炊けない 第4章 花潭・徐敬徳―ヒバリを眺めて年を送る 第5章 晦斎・李彦迪―論争を通じて性理学を根づかせる 第6章 退渓・李滉―人が馬を行かせるのか、馬が人を行かせるのか 第7章 栗谷・李珥―王の上には民衆が、民衆の上には米が 第8章 霞谷・鄭斉斗―わが心こそ万物の理致 第9章 燕巖・朴趾源―激動の人生を歩んだ北学の祖 第10章 茶山・丁若〓(よう)―土地は、農民にあらずんば所有すべからず 第11章 現代における韓国哲学 『現代思想 2021年5月臨時増刊号 総特集=陰陽道・修験道を考える』 >>514 この雑誌もやること減ってきてだんだんムーみたいになってきたな >>517 マニア以外に哲学を好む人はいないかも。 歴史なら、普通の人が話に乗ってくることもあるけどな 一般人との会話で哲学を話題にするのは、まず無理だ >>515 陰陽道 → 易 → 『易経』「繋辞上伝」 → 形而上学 東洋哲学の根本 伊藤 仁斎(いとう じんさい、寛永4年7月20日(1627年8月30日) - 宝永2年3月12日(1705年4月5日))は、江戸時代の前期に活躍した儒学者・思想家。京都の生まれ。 『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と尊重した。 初めは朱子学者であったが、後に反朱子学となり、孔子・孟子の原義に立ち返る「古義」を標榜した。 古義学(古学)を提唱し、主著として、『論語古義』『孟子古義』『語孟字義』『中庸発揮』『童子問』。 仁斎の学問手法は、当時支配的だった朱子学的経典解釈を廃し、直接テクストを検討するというものである。 朱子学は学問体系としては非常に整ってはいたが、その成立過程に流入した禅学や老荘思想といった非儒教的な思想のために経書の解釈において偏りがあった。 仁斎はそのような要素を儒学にとって不純なものとみなし、いわば実証主義的な方法を用いた。 このような傾向は同時代の儒学研究に共通にみられるものである。仁斎は朱子学の「理」の思想に反して、「情」を極的に価値づけした。 客観的でよそよそしい理屈よりも人間的で血液の通った心情を信頼している。四端の心や性善説を唱えた。 江戸城には将軍直属の儒学者の詰め所があった 官職で式部大輔、式部少輔、大学頭、紀伝博士、明経博士、明法博士、算博士、音博士、書博士、侍講などに就けたのは伝統的に儒者だけだった γνῶθι σεαυτόν/nosce te ipsum/ Know thyself/我(が="self")としての汝/己(な=羅)を知れ 「〜を!」/《vouloir》がかなは(叶/適/敵)ないことがかな(哀/悲)しいからといって、 「わ(侘/詫)ぶ」こと、すなわち、「みづから(身づ柄/自ら)の我(が)が委縮する」 ことを理想とすることなかれ。「わ(侘/詫)ぶ」ことを「我(が)」の究極的な 理想とすることは、生きることに反する。 JDSC 東大ベンチャー AI企業、この国は変えられる。これからは、AI時代です https://jdsc.ai/mission/ この国は変えられる これからは、AI時代です。AIの活用で、日本は変えられる。 アップグレードできる。AIの活用の活用がキーです JDSC 東大ベンチャー AI企業 加藤 エルテス 聡志 MISSION:この国は変えられる。 わたしたちは、日本をアップグレードする。 この国の未来を憂えるのではなく、変えるために、私たちは、日本の英知を結集する。 東京大学の知を社会に還元する ビッグデータ、機械学習、IoT、ロボティックスなど、デジタル領域で東京大学は膨大な知見を有しています。 JDSCは東京大学の複数の研究室と協力し、知の社会還元と実装をリードします。 2022年 テンバガー候補 JDSC 4418 AI銘柄で、東大からみ AI分野の成長は、まだ始まったばかり 半導体株の成長が何年も続いたと同じ 今後のAI分野の成長、楽しみです AI通信@ 今、投資対象として「AI」をどう見るか? 日興證券 https://www.smbcnikko.co.jp/products/inv/toshin_lab/column/002.html AI関連企業の成長物語はまだ始まったばかり 官民の積極的な取り組みが加速するAI https://www.smbcnikko.co.jp/products/inv/toshin_lab/column/img/column_ai_02.png https://manyoshu-japan.com/10059/ >原文:奈我波伴尓 己良例安波由久 安乎久毛能 伊弖来和伎母兒 安必見而由可武 >訓読:汝が母に嘖られ我は行く青雲の出で来我妹子相見て行かむ >かな:ながははに こられあはゆく あをくもの いでこわぎもこ あひみてゆかむ >訳:あんたの母さんに叱られて私はすごすごと退散する。でも青雲のように そっと出てきておくれ私の彼女。一目見て行きたい。 >>523 中国語の漢字の用法として「情」が「心+青」であるのは、 それが「心の行(ゆ)きの深さ」を感じさせるものだからだろうか。 青が深海と結びつくならそうかもな。 それにしても、原武史って今放送大学で教えているんだな。気づいていなかった。 江戸時代以前の原子論、宇宙論、世界観に関心あり。 わかりやすい本、雑誌記事教えてください デジタル源氏物語「AI画像検索」がリニューアルされました!「源氏物語」諸本の検索の利便性を高めるため、くずし字OCRを活用した検索結果を提供してきましたが、対象資料数が約30点に増えました。読みたい個所を効率的に探したいときなどに是非ご利用ください。 https://mobile.twitter.com/UTokyo_GenLib/status/1552094645282549760 https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 日本あああああああああ!の劣化コピー推進委員会(にほん-れっか-すいしんいいんかい,Nihon Aaaaaaaaa! No Rekkacopy Suishin Iinkai 略称NARSI)とは日本在住の活字フェチ達の有識者会議である。彼らは非常に平仮名を愛好しており、平仮名の最初の文字である「あ」を信仰・崇拝する過激派あ教徒である。この委員会のメンバーは主に夜行性動物であるモモンガ、ヤマネコ、コウモリ、アイアイ、タスマニアデビルなどからなる。彼らの指はキーボードを打つのには不適切だが、人間に改造されてロボットアームを取り付けられたサイボーグアニマルであるためノープロブレムである。 彼らと同様の団体は全世界に存在しており、AAAAAAAAA! Association; AAと称される超国家結社である。彼らの正体はスーパーハッカーである真のVIPPERやNEONEETと呼ばれる大富豪であるため、アンサイクロメディア財団へ大金を寄付して管理権を「買う」ことが可能である。 彼らはなぜかウィキペディアンに恐ろしいまでの怨念を抱いており、ウィキペディア攻撃用に田代砲などのF5兵器を大量に隠し持っていると言われているが、彼らは米帝の陰謀であるとして真っ向から否定している。 朝鮮語で「置く」を意味するように使はれる「두다」の「두」と日本語の「あと(跡)」の「と」の間には、前者の声には漢字の「斗」(万葉仮名では、甲類の「と」に当てられる)が対応するものとされ、「跡」は、万葉仮名では、乙類の「と」に当てられるという違ひがあるものの、共通性が感じられる。 これは、朝鮮語と日本語の間の関係というよりも、中国語とも共通する表現における声の用法にその基盤があるのだろうと思う。 >「把」(bǎ)というのは簡単に言うと日本語の「〜を」という助詞です。 日本語では修飾する目的語の後に「を」という助詞が来ます。 「把」構文完全マスター!中国語学習における使い方と注意点 このように説明されているけれど、表現法としては、日本語の「〜を」は、中国語で介助とされる「把」(bǎ)には対応していない。 むしろ、日本語の「〜は」の方が、中国語の「把」(bǎ)に対応する表現の流用であると見る方が自然ではないのか。 朝鮮語の「혹시 • (hoksi)」の「시 」が「或是」の「是」であるように、日本語の「も(若)し」などの「し」も「是」だと思うが。 「そんな・に」の「に」も、「彼呢」のように台湾語では、「呢」で表記される「昵/暱(Middle Chinese: nrit)」の流用だろうし。 「〜や」の「や」は、そのまま「也(Middle Chinese: yaeX)」だし(「である『是』」)。 国語学/日本語学は、とても不正直だと思う。 岩波古語辞典には、どうみてもこじつけの無根拠な朝鮮語起源ばかり記載されているし。 「ひとつ、ふたつ、みっつ」の「つ」も、数詞が中国語の表現をそのまま使っているのだし、「次々」が「つぎつぎ」と読まれるのだから、「つ(次)」だよね。 「〜が」の「が」が、同一性を表現するように流用された「我」であることは以前から指摘してきた。 こうして、逐一、対応関係を洗い出していく作業は、中国語との対比において日本語の表現がどのように形成されているのかを明確に意識するためにも大切だろうと思う。 その作業を丁寧に進めることで、印欧諸語の表現との意外な対応関係も明らかになる。例えば、日本語の「ぬ(貫)く」などの「ぬ」のこゑ(声)は、中国語の「路」、「露」、「漏」、などに使はれる"Middle Chinese: luH"や"Middle Chinese: luwH"などのこゑ(声)に対応していると考へられるが、この後者の声は、例えば、英語の"luck"などの表現における声の使はれ方と共通して、「通り『ぬ』ける様態」を想起させる。 日本語の「わ」、「ゐ」、「ゑ」、「を」について考へてみても類例がすぐに思ひ当たるはずである。 例えば、逆方向で、英語の"way"を日本語の平仮名で「ゑゐ」に移してみると、そのこゑ(声)は、すぐに中国語の「外((Pinyin): wài (wai4))/(Middle Chinese: ngwajH)」という表現を想起させることになるだろう。 「怨(ゑん)」は、うち(内)にこもると「悪(あく)」にかは(変)り、「鬼(おに)」として姿をあらは(顕/現)すようになる。 「ゑゐ」は、"way"の平仮名への転記としては正しくなく、より適切には「ゑい」だが、「ゑゐ」に移してみることは、"way"という表現の"away"や"way-out"としての用法を捉へるのに役立つ。 英語の"want"と、中国語の「願(Middle Chinese: ngjwonH)」と、朝鮮語としての「원(願) (won)」の流用と、日本語の「〜を」という願ひは、こゑ(声)の使ひ方としても互いによく対応しているだろう。 言語系統論には、「それなりの妥当性」が認められるが、しかし、それはやはり「それなり」のものでしかなく、どのような基準により言語が同系統であると分類されるのかは、その考え方の根本においてそれほどはっきりしていない。 「そんなことはない、異なる言語の間で『基礎的な語彙』を比べて、規則的な音韻対応が認められるなら同系統の言語と認められるのだ」という反論があるかもしれないが、そもそも、「語彙に使はれる音韻に規則的な対応関係が認められるとはどのようなことなのか」について十分に深く考察されているとは言い難い。 無論、ラテン語、イタリア語、スペイン/ポルトガル語、フランス語が「同系統の言語」として認められることや、中国大陸の公用語とされる中国語と台湾の台湾語が「同系統の言語」として認められることを否定する人はまずいないだろう。 しかし、逆に、何がどれだけ異なっていれば、別系統の言語であることになるのかは、それほどはっきりしない。 また、系統を判断する際に、比較の対象として「『借用語』は排除する」ことになっているが、どのような表現が「借用語」であり、どのような表現が「固有の語彙」であるのかを分ける明確な基準があるわけでもなく、そのような明確な基準が存在するかのように決めてかかること自体が、「ことばを使ふとはどのようなことであるのか」について根本的に誤った考え方に人を導くことになる。 >訓読み 訓読み(くんよみ)とは、日本語において、個々の漢字をその意味に相当する和語(大和言葉、日本語の固有語)によって読む読み方が定着したもの。 (ja.wikipedia.org/wiki/訓読み) このように、日本語の「訓読み」は、一般には、和語に対応する意味の中国語の漢字を当てたものであると理解されている。 そのように考へると、「音読み」の方は、それが日本語の発声により変化させられているにしても、中国語における漢字の読み方に対応するものとされ、中国語としての漢字にはその「正しい読み方」が決まっているものであるかのように思える。 その一方で、中国語の「方言」、例えば、台湾語の漢字表記を見ると、公用語としての中国語の漢字の読み方には対応しない「当て字」が多く見られる。 例えば、台湾語で「〜している」を表現する"teh"(教会ローマ字表記)や、「〜にある」などの場所を示す表現である"ti"を表記するのに用ゐられる「在」は、公用語の中国語の漢字の用法から見れば、「当て字」だろう。 これらの「こゑ(声)」の用法から見るなら、これらに対応する漢字として、私には「在」よりも、むしろ、「佇」のような漢字の方が想起される(それが適切であるかどうかは別として)。 しかし、では、翻って、公用語の中国語として使はれる漢字の読みについてはどうなのかと言へば、それぞれの読みが公式に定められているとしても、原理的には、やはり、ことばとして使はれるこゑ(声)を適切に表記するために考案されて慣習的に用ゐられるようになった「当て字」であることになるはずである。 例えば、日常語としてもよく使われる「枠(わく)」という表現について考へてみるといい。 「枠」は、中国では用ゐられない日本で独自に考案された「国字」である。 では、「枠(わく)」は、和語だろうか、漢語だろうか。 「枠外(わくがい)」、「枠内(わくない)」、「予算枠(よさんわく)」のような表現を見ると、漢字の音読みと組み合わされているのだから、漢語であるようにも見える。 その一方で、「窓枠(まどわく)」、「大枠(おおわく)で」、「外枠(そとわく)」を「窓枠(そうわく)」、「大枠(だいわく)」、「外枠(がいわく)」と読む人はいないし、「枠(わく)組(ぐ)み」とは言っても、「枠組(わくそ)」とは言わない。 このことから見ると、「枠(わく)」は、漢語ではないものとして意識されていることになるだろう。 これについて、また後でさらに書き込むことにする。 ひと(人/一)として「気まま」であろうとすること、すなはち、「任(/認)性」を具現化しようとすることにこそ、ひと(人/一)としての「まともさ」/"integrity"の追求がある。 >>554 さて、「枠(わく)」は、漢字の訓読みだろうか、音読みだろうか。 「枠外(わくがい)」、「枠内(わくない)」、「予算枠(よさんわく)」などにおいては、音読みされる漢字の表現と一体化するように組み合はされているのだから、「枠(わく)」も音読みであるように感じられる。 これに対して、「窓枠(まどわく)」、「大枠(おおわく)」、「外枠(そとわく)」、「枠組み(わくぐみ)」などにおいては、訓読みされる漢字の表現と組み合はされているのだから、「枠(わく)」も訓読みであるとするのが自然である。 ところで、「音読み」とは、その定義上、中国語として用ゐられる漢字の日本における漢語として読みとされるのだから、「枠(わく)」という漢字が中国で用ゐられてきたものではなく、日本で考案された「国字」であることから、「枠(わく)」は、定義上、音読みではあり得ないことになり、Wiktionaryの記載を参照してもやはり、「枠(わく)」は、「訓読み」であると記載されている。 「国字」の読みを「音読み」とすることは認められないということだろう。 しかしながら、「枠 - ウィクショナリー日本語版」を参照すると、 >「わく」は糸枠を意味する「篗」の字音であろう。 意義 1. いとわく。まわして糸を繰るのに用いる、木を組み合わせた道具。 2. わく。いとわくの様に、木を組み合わせて周囲を囲むもの。 とも記載されている。ここで「いとわく」を漢字表記するのに「糸(いと)枠(わく)」ではなく、「糸(いと)篗(わく)」と表記し、この事例に限らず、一般的に「枠(わく)」という国字を「篗(わく)」で置き換へたなら、例えば、「窓枠(まどわく)」ではなく、「窓篗(まどわく)」と表記することにしたなら、「窓(まど)」は訓読みのままであるものの、「篗(わく)」の方は、その定義上、音読みということになるだろう。 ところで、「窓枠」や「型枠」が「そうわく」、「けいわく」と読まれるのではなく、「まどわく」、「かたわく」と読まれるのはなぜだろうか。 そもそも、「篗(わく)」という漢字が既に存在するのに、わざわざ日本語独自の「枠(わく)」という「国字」を考案したのはなぜだろうか。 それは、「わく」が、既に漢字としてどのように表記されるのかとは無関係に「日本語のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として通用するようになっていて、「篗(わく)」と表記すると、ただちに「糸を巻き取る道具」としての「篗(わく)」が想起されてしまい、不都合が生じたからだろう。 「わく」の用法に対して「篗(わく)」という漢字表記が適当であるとは感じられなくなっていたからこそ、「枠(わく)」という別の漢字を新たに考案することが要請されたのだろう。 その時点で、「枠」と表記することが適当であると感じられる「わく」という「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は、既に中国語として通用する表現である「篗(わく)」を離れて、日本語として独立した表現となっている。 しかし、日本語としてだけ通用する「わく(枠)」が中国語の表現としての「篗(わく)」から独立したことは、これらのそれぞれの「こゑ(声)」の用法の対応関係が失はれたことは意味していないことに留意することも、極めて重要である。 「わく(枠)」は、日本語の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として独立して通用しているのだから、それがもとは、中国語の表現としての「篗(わく)」の流用であったとしても、その中国語の表現に依拠する「借用」ではない。 その一方で、日本語として意識されるようになったこの「わく(枠)」は、にもかかわらず、依然として、中国語の表現としての「篗(わく)」の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」と、そのそれぞれが想起させるイメージにおいて対応関係を保っている。 さらに具体的に説明しよう。 日本で中華鍋として知られる滑らかなドーム状の円形の鍋のことを、英語では"wok"と呼ぶ。 "wok"の"o"の発音は、日本語の母音に移そうとすると、「あ」とも「お」ともつかない中間的なものなので、日本語を母語とする人がその発音を聞くと、「ワク」と聴こえるだろう。 ところで、この中華鍋を指す英語の"wok"は、言ふまでもなく、その鍋を指す中国語の表現の借用である。 Wikipediaで「中華鍋」の項目を参照すると、次のとおり記載される。 >広東語では「鑊」となる、英語も鑊の音をそのままに訳して「ウォック、wok」と呼ぶ。 もう気づいただろう。「鑊(Middle Chinese: hwak)」("wok")は、「金*蒦」という構成だが、「篗(わく)」は、「竹*蒦」という構成であり、これらの「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は互いに共通している。 ここで、日本語の「わく(枠)」という表現まで含めて、これらの「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」がなぜどのように互いに共通しているのかについて説明することはたやすい。 「篗(わく)」については、岩波古語辞典を参照すると、「糸を巻き取る道具。軸木のついた枠(わく)を回転させながら巻き取る。」と記載される。 要するに、「ぐるりと回(まは)す(ことによりその周囲に糸を巻き取る)道具」である。 その道具を指すことを意図する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が、「鑊(Middle Chinese: hwak)」("wok")や「わく(枠)」を指すことを意図する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」とどのように共通するのかは、 例えば、スペイン語の"contornear"という動詞について考へてみれば、直観的にすぐに分かるだろう。 >contornear 1. ...の輪郭を描く、スケッチする 2. 周囲を回る。contornear una montaña 3. [技] 輪郭に沿ってのごぎりを引く (出典: 小学館 西和中辞典) 「鑊(Middle Chinese: hwak)」("wok")と呼ばれる中華鍋は、調理の具材をぐるぐる回しながら調理するのに都合よく工夫された形状の調理器具であり、「枠(わく)」は、周囲をぐるりと輪郭、すなはち、英語で言へば、"contour"である。 ここで、日本語の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として、周囲をぐるりと輪郭/"contour"を表現するものとして通用するようになった「わく(枠)」が、その日本語としての独自性にもかからわず、中国語の表現における「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」との対応関係も依然として(それを特に意図することなく)保っていることは、例えば、中国語の「廓(Middle Chinese: khwak)」という表現について考へてみれば分かるだろう。 >廓 broad; wide; open; empty (literary) to expand; to widen (literary) to clear away; to eliminate outline; contour 輪廓/轮廓 ― lúnkuò ― outline (出典 en.wiktionary.org/wiki/廓#Chinese) さて、「日本語」そのものが全般的に、中国語とも共通する表現から、このようなプロセスにより「独立した言語」として形成されたと想定したとするとどうだろう。その場合、日本語は、中国語と「同系統の言語」ということになるのか、それとも「別系統の言語」ということになるのだろうか。 >>564 ・中国語…シナ・チベット語族 ・日本語…ウラル・アルタイ語族 ・朝鮮語…ウラル・アルタイ語族 ・ドラヴィダ語…ウラル・アルタイ語族 トラヴィダ語は、南インドやスリランカなどに多い、インド先住民の言語。 日本語・朝鮮語とタミル語などドラヴィダ語との比較は以下が詳しい。 現地では、「しめ縄」や「門松」、「鏡餅」、「どんど焼き」の原型とみられるものも見つかっている。 現在のカマラ・ハリス米副大統領がタミル系。 ・大野晋『日本語はどこからきたのか:ことばと文明のつながりを考える』 中央公論新社 (1999) ・大野晋『弥生文明と南インド』 岩波書店 (2004) 南インドやスリランカは、「南伝仏教(上座部仏教、小乗仏教)」と呼ばれる、ブッダの時代の仏教を今日まで継承してきている地域。 日本が中国・朝鮮を経由して輸入した仏教は漢訳された「北伝仏教(大乗仏教)」。 誤:「枠(わく)」は、周囲をぐるりと輪郭 正:「枠(わく)」は、周囲をぐるりと囲む輪郭 その語源がどうであれ、じゃんけんの「グー」は、手のひらを「にぎる」ような凝集性を想起させる「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」である。 では、中国語の「外(Middle Chinese: ngwajH)」は、どうだろうか。 現代の日本語で考へてみても、中国語の中古音として想定される「外("ngwajH")」は、何らかの「凝集が広がりゆく」ような様態を想起させるのではないか。 このように想像力を働かせて、「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が互ひにどのように「を(折)り合ひがつく」ように用ゐられているのかを考へてみることは、ことばがどのようなことを伝へようとしているのかを知るために無駄なことではないだろう。 「凝集が広がりゆく」という表現は、あまりよくないな。 「何かが凝集した状態から広がりゆく」と表現した方がいいだろう。 ことばの表現の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は、それがどのようなことを伝へようとしているのかを知る手がかりとしてとても役に立つ。 私は、中国語の学習者ではなく、興味本位で地元の図書館から中国語のいくつかの「方言」の入門書を借りてきて眺めてみただけだが、それだけでも、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を比較からいろいろなことに気づかされる。 例えば、台湾語の入門書には、「歹勢 ― pháiⁿ-sè」という表現が出てくる。 この表現は、日本語にすれば、「恐れ入る」に対応するような意味で使はれている。 ここで、「歹」という漢字が当てられている"pháiⁿ"という「こゑ(声)」は、「歹」という漢字の字源がどのように解釈されるにせよ、「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」としては、私には、中国語の普通話における「怕( (Pinyin): pà/Middle Chinese: phaeH)」との対応関係をすぐに想起させる。 しかし、それだけには留まらない。 「歹("pháiⁿ")」/「怕( (Pinyin): pà/Middle Chinese: phaeH)」は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において、フランス語の《avoir peur》という表現における《peur》によく対応しているが、このことは、日本語の表現として「怖気付(おじけづく)」という表現を思ひ起こさせる。 現代の日本語では、かな表記は、「おじけづく」とすることが「標準」とされるが、本来、この表現に適切なかな表記は、「おぢけづく」であり、この「おぢ・け」に表現に当てる漢字は、「懼(お)ぢ・け(気)」である。 気づいただろうか。この「懼(お)ぢ・け(気)」の「懼(お)ぢ」の「ぢ」は、「懼(お)づ懼(お)づと」という表現から分かるとおり、既にかなり詳しく検討した中国語の普通話において"Pinyin: r"として表記される「そり舌音の"r"」に対応するものと考へられると私が指摘した「ゆづ(譲)る」の「づ」の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」と同様である。 「怕( (Pinyin): pà/Middle Chinese: phaeH)」には、「〜を嫌ふ」という用法があるが、この場合の「嫌ふ」が伝えているのは、例えば、「羹に懲りて膾を吹く」という日本語のことわざに対応するように使はれるとされる英語のことわざ、"Once bitten and twice shy"の"shy"であり、"shy away from 〜"である。 このことからも、「歹("pháiⁿ")」/「怕( (Pinyin): pà/Middle Chinese: phaeH)」⇔"shy away from 〜"⇔「懼(お)ぢ」という対応関係を見出すことができる。 ここで、岩波古語辞典で「懼(お)ぢ」を参照すると、 >オドシ(威)の自動詞形。相手を恐ろしい物だと思い込んでいる結果、相手の前で委縮して動作がにぶる意 と記載されている。 しかし、このように見てくると、この説明が「論理的に逆立ちしている」ことに気づくだろう。 表現の関係として、「懼(お)ぢ」が「オドシ(威)」の自動詞形なのではなく、「オドシ(威)」の方が「懼(お)ぢ」から派生させられているのである。 このことは、形容詞として英語の"shy"に対応し、日本語の「懼(お)づ懼(お)づとした」に対応するような意味で用いられるドイツ語の»schüchtern«という表現について考へてみれば分かる。 なぜなら、ドイツ語の»schüchtern«に対応する日本語が「懼(お)づ懼(お)づとした」であるとすれば、「おど(威)す」に対応するのが、そこから派生した動詞である»einschüchtern«だからである。 >einschüchtern Etymology ein- + schüchtern + -en, calque of Latin intimidō. 1. to intimidate den Gegner einschüchtern ― to intimidate the opponent (出典 en.wiktionary.org/wiki/einschüchtern#German) このように「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を手がかりとして利用すると、様々なことばの表現が言語の境界を超えて自然にネットワークを形成することになる。 この場合も、中国語の普通話においては、"Pinyin: r"として表記されることになった「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が日本語の表現として取り入られれて、「和語」として広く使はれているだろうことに気づかされる。 ただし、この場合は、「わく(枠)」のようにまだ漢語であるのかそうでないのかという判断のあいまいさを引き起こす事例とは異なり、中国語としてはすぐに対応関係を見出すこともむづかしい、単に日本語固有の表現において用ゐられる「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」としてしか一般に認識されなくなっている。 ひと(人/一)は、「任性」が「忍性」である限りにおいて、つまり、(恁/忍)=(忍/恁)である限りにおいて、ひと(人/一)として「まとも」であり得る。 しかし、大君(おほきみ)と大伴(おほとも)の間では、「ま(任)けのまにま(随意)に」とみづから(身づ柄/自ら)が気をとりなほしてみても、決して(恁/忍)=(忍/恁)というひと(等)しさは成立しないのである。 台湾語で自身に対する相手を指すのに使はれる「恁」について考へていたら、「恁」と「我」の関係性から日本語の古語の「やさし」の用法についてメタ言語的にうまく記述できることが分かった。 これについて後で書き込むことにする。 万葉集 八九三 >「世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」 この「やさし」が伝へているのは、英語を用ゐて説明するなら、"make one to forebear (too much)/require (too much) forbearance"である。 なぜそのように解釈することが妥当であるのか、後でさらに詳しく説明する。 ヒントとなるサイトの記述を引用しておこう。 >forbearing プログレッシブ英和中辞典(第5版)の解説 [形]((形式))〈人が〉自制心がある,がまん強い;寛容な(lenient). >lenient プログレッシブ英和中辞典(第5版)の解説 [形] 1 (人に)寛大な,哀れみ[情け]深い≪with,to,on≫;(事を)大目に見る≪about≫. 2 ((古))(痛みなどを)やわらげる,静める. [原義は「やわらかくする」] しかし、ここで「恁」という漢字を見れば、 相手である「恁」に対して「我」を自認する者に対して、「恁」の様態は、「『我』を『自・認』する者の「任・性」」に対する「忍」となることから既に応へは得られている。 >「また人の奉り代ふるまでは置かせ給(たま)ひて、とり動かすことはせさせ給はぬ。あまりやさしきことなりな」 (出典 大鏡 師尹) この「やさしき」の用法が現代の日本語では通用しなくなっているのは、「やさし」という表現が日本語の古語において本来、伝へていたはずのこと、すなはち、「恁」(≒"lenience")と「忍」(≒"forbearance")のキアスム的に反転する関係性にあり、(恁/忍)=(忍/恁)という反転が成立することが忘れられているからである。 >「我」を自認する者に対して、「恁」の様態は、「『我』を『自・認』する者の「任・性」」に対する「忍」となる 「あまりやさしき」態度を見せることは、「『我』を『自・認』する者の『任・性』」を増長させる。 >impetret, bellante prior, iacentem lenis in hostem >>584 誤:のキアスム的に反転する関係性にあり 正:がキアスム的に反転する関係性にあり 「やさし」を非人称的に「概念化」すると、「ゆづ(讓/让)り」/"yielding"となる。 >>580 誤:forebear 正:forbear >>548 >「また人の奉り代ふるまでは置かせ給(たま)ひて、とり動かすことはせさせ給はぬ。あまりやさしきことなりな」 (出典 大鏡 師尹) このように「やさしき」という表現ににより「寛容」と「忍耐」のキアスム的な反転可能性が伝はることは、日本語の表現法に特有であるわけではない。 そのことは、例えば、ドイツ語であれば、この「やさしき」に»duldsam«という表現がちょうどそのまま対応することによっても明示することができる。 >duldsam 1. tolerant, indulgent 2. meek, submissive (出典 en.wiktionary.org/wiki/duldsam) >「やさし」を非人称的に「概念化」すると、「ゆづ(讓/让)り」/"yielding"となる ドイツ語の場合は、»nachgiebig«となるだろう。 >nachgiebig ❶ 譲歩しがちな,折れる,弱腰の Er ist ein nachgiebiger Mensch.\彼は弱気な人だ. ❷ たわみやすい,しなやかな. しかし、そもそも、「折り合ひ」をつけることを求めていない人々には、いくら方法論を明示し、その有効性の証拠を提示してみせたところで無駄である。 そのような人々に対して、こちら側が»duldsam«な姿勢を自発的に示そうとするなら、単に沈黙させられることになる。 だから、そのような人々は相手にせずに、独り言を延々と言ひ続ける方が幾分でもましなのだ。 ひと(人/一)としての本当の「やさしさ」とは、 (恁/忍)=(忍/恁)というひと(等)しさを成立させようとすることであり、 「任性」の発揮において「人性」を十全に具現化しようと努めることである。 >En mi nota soy extenso, a mi nadie mí corrige La Gota Fria - Carlos Vives 本当に正しい認識=认识、つまり、ま(真)あたら(可惜)しき認識=认识において、恁/忍性=忍/恁性は、人性である。 >全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。[...] 主はそこから全ての地に人を散らされたので、彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。 — 「創世記」11章1-9節 現実には、人々はすべて同じ言葉と同じ言語を用ゐていたわけでも、一緒に力を合はせて塔を建設しようとしていたわけでもないだろう。 また、人々が、互ひに異なる言語を用ゐる人々と「『ことば』が通じる」ようにしようとするとき、ひとつの塔を建設しようとするような企てに一緒に力を合はせて取り組もうとするのでもない。 それでも、「不特定の人々」は、勝手に放っておかれたとしても、互ひに「『ことば』が通じる」ようにしようとしてしまうのであり、そのことは、利害の相反として、「特定の人々」にはつねに不都合を生じる。 したがって、「特定の人々」は神に成り変はって、「不特定の人々」のそのような振舞ひを絶えず阻害しようと仕組むことに余念がない。 そこで、「『ことば』が通じる」ようにしようとするなら、問ふ必要があるのは、どのような仕掛けにより「不特定の人々」の自然な振舞ひが阻害されるように仕組まれているのかである。 たとえば、「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」について次のような「ことばの表現」の比較を試みてみるといい。 「刃(ぢん)」(例えば、「自刃(じ・ぢん)」)⇔"edge" 「泥(ひぢ)」⇔"smudge"/"dredge" 「づる」(例えば、「裾を[引き]づる」/「定位置からづれる」/「づるがしこ(賢)い」)⇔"sledge/budge/dodge" 人々が、互ひに異なる言語を用ゐる人々と「『ことば』が通じる」ようにしようとするとき、ひとつの塔を建設しようとするような企てに一緒に力を合はせて取り組もうとするのではなく、自身がつか(使/仕/遣)ふことばの表現の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が、相手がつか(使/仕/遣)ふそれと互ひにどのように折り合ひがつくのかを見出そうとするのである。 >>597 このような比較は、比較言語学においては無意味であるとされる。 なぜなら、音韻の規則的な対応関係を示すことを目的としておらず、異なる言語間の系統関係を示すのに何の役にもたたないからだ。 さらに、言語学全般においても、ここで比較の対象とされているのは、「擬態語」や「擬音語」と見做される語彙ですらないため、比較してみようとする行為そのものが無意味であるとされる。 そもそも、学問としての「言語学」は、「ことばの表現法」を研究対象からほぼ完全に意識的に除外してきた。 しかし、言語学がその研究の対象とはしていない「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」に注目するなら、これらの比較から類似性を感じとることがないとすれば、そのような人々は、かなり言語感覚が鈍いのではないかと私には思はれる。 「中国語」と「そり舌音」をキーワードにして検索してみると、 日本人学生の中国語発音の難点とその指導方法 >日本語の中に存在しないそり舌音「zh、ch、sh、r」は、日本人学生にとって最大の難点だと言っても過言ではない といったような説明が多数ヒットする。私自身は、これらの「中国語のそり舌音」と呼ばれる「発音」を習得しているわけではなく、中国語の学習者ですらないので、これらの「発音」をどのように身に付けることがよいのか、その習得法について助言するような立場にはない。 それでも、"Pinyin: r"として表記される「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」について少し検討してみた結果、日本語を母語とする人々にとってこの「発音」を習得することが極めて困難に感じられるのは、この「発音」について大きく誤った捉へ方をするように教へ導かれているからではないかと思える。 そもそも、「ことばの表現」としてつか(使/仕/遣)はれる「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を、人の口を機械的な「音声発声装置」のように見做して、そこから発せられる「物理的な音波」のように見做された「発音」として捉へること自体が、誤りの根源である。 私が独自に勝手に導き出した(つまり、権威による裏書を完全に欠いた)結論から先に述べよう。 確かに、"Pinyin: r"の「発音」は、日本語には存在しない。 しかし、"Pinyin: r"に対応する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は、多少は変形されながらも、ほとんどそのままと云ふことのできるような形で日本語のことばの表現の「こゑ(声)」として極めて広範に活用されている。 そして、その対応関係を最も簡単に見て取ることを可能にする表現の具体例が、「ぢ(焦)れる」の「ぢ」であり、「ぢりぢりと」(例えば、ぢりぢりと・あと(後)づさりする)の「ぢ」である。 その対応関係に気づかなくなっているのは、この場合も、本来、「ぢ」と表記することが適当である「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」に、代わりに「じ」が当てられているからに過ぎない。 >焦れる(読み)ジレル デジタル大辞泉 「焦れる」の意味・読み・例文・類語 物事が思うように進行しないために、いらいらと落ち着かない状態になる。「店員が来ないので―・れて店を出る」 >デジタル大辞泉 「じりじり」の意味・読み・例文・類語 1 ゆっくりとわずかずつ確実に進み迫ったり退いたりするさま。じわじわ。「首位にじりじり(と)迫る」 2 いらだたしい気持ちがつのって落ち着かなくなるさま。「なかなか電車が来なくてじりじりする」 3 太陽が焼けつくように強く照りつけるさま。「真夏の太陽がじりじり(と)照りつける」 4 油などの焼ける音を表す。 「鰯の油が―と垂れて青い焔が立った」〈長塚・土〉 "Pinyin: r"は、そもそも、その表記そのものが、ローマ字のアルファベット表記の利用法として妥当性を欠いている。 この表記が妥当性を欠いていることは、誰がどのような権威に基づいて強弁しようとも変わらない。 その一方で、この「こゑ(声)」を表記するのにいずれのローマ字のアルファベットを(組み合わせを用いてであれ)当てればよいのか、はっきりしないことも確かである。 誰も、他のよい代案を容易に提示することができなかったので、この極めて奇妙な表記が正式に採用されて、通用することになってしまったのだろう。 ところで、この"Pinyin: r"として表記される「こゑ(声)」は、既に指摘したとおり、「『こゑ(声)』としての弁別特性がはっきりしない」ことこそをその「特性」とする「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」なのだ。 逆に言へば、そり舌音とされる「zh、ch、sh、r」のなかで"r"以外の「こゑ(声)」は、この「はっきり」しない"Pinyin: r"の「こゑ(声)」を「はっきりさせる」ように弁別特性を用ゐることによって導き出すことが効率的で、合理的であるように私には感じられる。 より簡単に日本語を母語とする者の立場から云えば、まず"Pinyin: r"を日本語の「ぢ」や「づ」の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」の変形として意識して学び、それを中心にその「こゑ(声)」との違ひをはっきりさせるように「zh、ch、sh」の発声を身に付けようとすることが合理的ではないかと思ふ。 >"Pinyin: r"に対応する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は、多少は変形されながらも、ほとんどそのままと云ふことのできるような形で日本語のことばの表現の「こゑ(声)」として極めて広範に活用されている。 日本語は、この「こゑ(声)」を、その弁別特性のあいまいさのままにそのまま取り入れて活用していると見ることができる。 このため、「ぢ」が、「じ」や「に」に移されると、「ざ行」や「な行」のこゑ(声)として活用されることになり、それが「ぜ」や「ね」や「ぞ」などの形で活用されて現れるともはや、「で」や「ど」の形で活用されて現れる事例とは互ひに何の関係もないように見えることになる。 その対応関係が以前として再び意識にのぼることがあるのは、漢語として日本語に取り込まれて用ゐられる表現が、そのような多様な読み方をいまだに保っているからである。 このことは、朝鮮語が"Pinyin: r"をどのように取り込んでいるかと比較してみるとよく分かる。 既に指摘したとおり、朝鮮語は、日本語の場合とは異なり、漢語として意識される"Pinyin: r"の「こゑ(声)」を、カタカナで表現するなら「ヤ行」に移すことにより、「ゆるみ」を強調し、その弁別特性の不確かさを消してしまっているのだ。 このため、「人」は「イン」となり、「乳」は「ユ」となって、"Pinyin: r"との対応関係ははっきりさせることができているものの、逆に、"Pinyin: r"の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が伝へ、日本語の「ぢ」に移されて想起されるような感覚は、少なくとも漢語として意識される語彙においては、もはや伝へることがなくなっているものと考へられる。 中国語の表現と共通する多くのことばが朝鮮半島経由で日本語に取り込まれているとしても、そのことは、それらのことばが朝鮮語経由で日本語に取り込まれていることは意味しない。 このことは、中国語として"Pinyin: r"で始まる表現である「肉」が朝鮮語では「ユッケ」となり、日本語では「にく」となって、日本語の方が"Pinyin: r"のこゑ(声)により直接的に対応していることからも分かる。 「ユッケ」のように"Pinyin: r"が「ゆるめられたこゑ(声)」が日本語にまず取り込まれ、それが再び"Pinyin: r"を移すように再び「にく」というこゑ(声)に戻されたと考へるのは不自然である。 >>603 誤:その対応関係が以前として再び 正:その対応関係が依然として再び >>607-609 これらは、和製英語として日本語において普通に使われている表現である。 英国では、"air con"が"air conditioning"の略語として通用するようであるが、「エア・コン」という和製英語においては、この表現を日常的に使ふほとんどの人にとって、「コン」が"conditioning"の略語であるとは意識されていないだろう。 「リモ・コン」は、"remote controller"としては英語として通用するが、和製英語として、「エア・コン」と並べられると、「リモ・コン」、これらの「コン」間に違ひがあるとは意識されない。 「ノー・コン・ピッチャー」になると、表現の構成要素は、英語に由来するものの、造語法そのものが英語とは異なり、省略を元に戻しても英語としては通用しない。 「マザ・コン」と「学歴コンプ」では、「コン」と「コンプ」の借用元である英語の表現が同じであるにもかかわらず、和製英語としては別々の形となっている。 「ファミコン」は、"personal computer"/「パーソナル・コンピュータ」を模して造られた商品名としての「ファミリー・コンピュータ」の略語がそのまま一般的に通用するものになったものだが、"family computer"に戻しても英語としては通用しない和製英語の略語である。 このような日本語の表現が日常的に多く流通することは、望ましくないと考える人々も少なくないが、それでも、和製英語は日本語の一部として普通に通用して数多く使はれている。 なぜ、このようなことを云ひ出したかと言ふと、それは、 >中国語の表現と共通する多くのことばが朝鮮半島経由で日本語に取り込まれているとしても、そのことは、それらのことばが朝鮮語経由で日本語に取り込まれていることは意味しない。 という私自身の指摘に留保をつけるためだ。 確かに、「日本語の起源は朝鮮語である」というような短絡的な考へ方は、まともな根拠がなく、岩波古語辞典のような「権威ある辞書」において数多くの項目で記載される数多くの「朝鮮語の〜と同根」とするような「日本語・朝鮮語同根説」のようなものも、そのほとんどが私にはこじつけとしか考えられない根拠の薄いものである。 しかし、それとは別に、日本語の形成に朝鮮語との接触がどのように、どれだけかかわっているかを慎重に探っていくことは重要だろうと私も思ふ。 そして、その根拠となるのが、現代の日本語において、このように和製英語が数多く通用しているという事実である。 私は、「恥(はぢ)」、「恥(は)づかし」、「懼(お)ぢ」、「懼(お)づ懼(お)づ」、「譲(ゆづ)り」、「焦(ぢ)れる」、「ぢりぢりと」などの表現の「ぢ」や「づ」には、中国語においては"Pinyin: r"となったのと共通する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が活用されていると見ることができると指摘した。 ところで、そのように想定してみると、「は・ぢ(恥)」と「懼(お)ぢ」は、「ぢ」において共通する様態の作用を伝へているのだから、「は・ぢ」の「は」、「お・ぢ」の「お」は、「ぢ」の作用の様態をさらに形容する働きをするように用ゐられているのではないかと推測されることになるだろう。 ここで、さらに「ゆ・づ・り」について考へてみると、「ゆ」が、「づ・り」によって伝へられる作用の様態をさらに形容していることになる。 私は、「ゆ・づ・り」においては、「づ」が中国語の"Pinyin: r"に対応する関係にあると考へられると指摘したが、その一方で、朝鮮語において中国語の"Pinyin: r"に対応する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を移すことになっているのは、カタカナ表記するなら「ヤ行」のこゑ(声)であり、「讓」は、"yang/양"(ヤン)となり、「柔」は、"yu/유"(ユ)となる。 ここで、例えば、「づ・る」だけでも、「讓」の中国語の"Pinyin: r"に対応する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」に対応することになっているとしても、この同じ"Pinyin: r"の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を「ヤ行」のこゑ(声)に移して捉へる人々には、その対応関係はうまく伝はらないはずである。 そこで、「讓」を「づ・る」と表現することを諦めて放棄してしまうのではなく、さらに相手によりよく伝はるように、「讓」に対応する相手の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として"yu/유"(ユ)を取り込むということは、和製英語の表現法を参照するなら、十分にあり得ることだろうと私には思える。 この疑ひは、日本語の他の多くの表現、例えば、「矢(や)」や「槍(やり)」などにおいては、「や」のこゑ(声)がいきほ(勢)ひのよさを想起させるように用ゐられているのに対して、「やはらか」、「やさし」などにおいては、別のイメージを想起させることになっていることからも示唆される。 ただし、このような解釈の仕方において慎重でなければならないのは、それが、複数の異なる規範の活用を恣意的に組み合わせる行為となっているからである。 要するに、そのような解釈法を任意に用ゐることをみづからに許すなら、自分に都合のよいという恣意的な規範参照の組合せにより、途方もない数の別様の解釈の正当化が可能となってしまう。 ことばの表現としてみづからが用ゐる「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が恣意的に様々な異なる規範(それが英語のものであれ、フランス語のものであれ、朝鮮語のものであれ)を参照することができることは、そのことばの表現により意味を如実に伝へようとする「相手側の規範に歩み寄るという縛り」が働く限りにおいて、極めて好都合なことである。 しかし、逆に、相手の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を、自分が任意に選択した規範を参照して解釈することは、相手の使ふことばの表現が本当に伝へようとしていることを無視した、相手にとっては意味不明な勝手な解釈を生じることになる。 日本語の形成において、日本語が中国語の表現におけるこゑ(声)と共通する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を大々的に活用していることは間違いなく、また、その活用において、中国語のものとは異なる複数の多様な規範を参照していると考へるのは、日本語が、日本の国としての統一に先立って形成されていることから見ても、自然なことである。 ただし、それらの規範がどのようなものであったのかは、多数の事例を慎重に検討しながら、妥当と思はれる推測により見極めようとする他ないだろう。 誤:自分に都合のよいという恣意的な 正:自分に都合のよいというだけの恣意的な >自分に都合のよいというだけの恣意的な規範参照の組合せにより、途方もない数の別様の解釈の正当化が可能となってしまう 所謂、他人を攻撃することのできる立場を自身に確保するために「藁人形論法」を用ゐる人々がやっていることが、まさにこれである。 >>610 日本語に他の言語からある「こゑ(声)」が取り込まれて多用され、日本語として通用していることは、その「こゑ(声)」が、表現のための「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として用ゐられていることを必ずしも意味しない。 例えば、この和製英語としての「コン」における「こゑ(声)」について考へてみるといい。 ファミ・コン("com・puter") エア・コン("con・ditioning") リモ・コン(con・trol) ゼネ・コン(con・tractor) 生コン(con・crete) 合コン(com・panion) これらの「コン」は、いずれの事例においても、ラテン語由来の英語の表現要素である"con-"に明白に対応しているが、それに相応するような表現要素であるもと解釈された「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として用ゐられているわけではない。 そうではなく、外来の借用語の(場合により、既に意味の不明な)何らかの略語として認識されているのだ。 だから、「コン」は、「パソコン」からの類推で「ファミコン」のような表現を生成することはあっても、ことばの表現法のための「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」としては用ゐられていない。 ただし、明白に外来語としてのカタカナ語として認識されていても、 コンサル コンディション コンパニオン コンクリート コンタクト コンペ などの表現が多用されると、「コン」がどのようにか何らかの形容の役割をしているものとして、言葉遣ひにおいて自ずと類推が働き始める。 >その活用において、中国語のものとは異なる複数の多様な規範を参照している そもそも、参照されてきた「中国語」の規範そのものが多様である。 >>614-615 例えば、容認するという意味で使はれる「ゆるす」に当てられることもある漢字である「容」は、中国語の普通話では、"(Pinyin): róng"と読まれることになっているが、朝鮮語では、"요ᇰ (yong)"(「ヨン」)と読まれる。 さらに、「容易((Pinyin): róngyì)」は、日本語における漢語の用法そのままに、「『や』さしい」という意味で用ゐられる中国語の表現である。 ここで、以上の検討の帰結として得られる哲学的に極めて重要な結論を今一度、確認しておこう。 それは、 「(恁/忍)=(忍/恁)」という「ひと(等/人/一)しさ」においてこそ、「任性」が(俄/=)「人性」であるという理想が実現される ということだ。 同様のことを、多くのことばを費やして主張した人々がこれまでに数多くいたとしても、このことを、これほどまで簡明に明示した人がいまだかつて私以外のどこにいるだろうか? 哲学という営みは、何も積極的に主張しようとせず、つねに折り合ひをつけようとばかりしている。 そのことが、何らかの思想が正しいはずだ、または何らかの正しい思想があるはずだと信じ込んでいる大多数の人々には、あらゆることに譲歩ばかりしている弱さ、或いは、それとは正反対に、正しいに決まっていることを正しいに決まっていることとして受け容れることをあくまでも拒みつづける不明な自己主張に固執する強情さに感じられるのである。 しかし、哲学的な追求が理想としているのは、あらゆる主張にみづからの立場を譲るような脆弱さでも、すべての主張を根拠もなく疑ひつづけようとする偏執的な懐疑でもなく、みづみづしい感性の働きを保つことにより、みづからの生き方のしなやかさとなまめかしさを取り戻すことである。 現代の中国語の普通話における"Pinyin: r"に対応することになった「こゑ(声)」について様々なことを述べてきたが、 この「こゑ(声)」についても簡潔に結論を述べておこう。 この「こゑ(声)」のつか(使/仕/遣)ひ方には、それが感じさせる「こゑ(声)」としての弁別特性の「不確かさ」を積極的に活用しようとする動機と、その活用の際にその「「不確かさ」をどのようにか確かにして相手に伝はるようにしようとする動機の両方が同時に働いており、その実際の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は、その両方の動機の「せめ(鬩)ぎあ(合)ひ」として実現されている。 >>628 これと類似した解釈の「不確かさ」が"YHVH"の"Y"についても生じていることが、興味深い。 つい昨日も「エホバの証人」が訪問勧誘で自宅に廻ってきたが、誰が「証人」を自称してみたところで、"YHVH"の"Y"からして、それが表現としてどのようなことを伝へるものであるのか、既に「不確か」なのである。 "YHVH"の正しいカタカナ表記は、「エホバ」だろうか、「ジェホバ」だろうか、それとも「イェホバ」だろうか。 "YHVH"の"Y"の一般的に通用している正しいとされる「発音」によれば、それは「イェホバ」となるようである。 しかし、そもそも、"Y"がどのようなことを表しているのかが不明なのに、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」としての「こゑ(声)」を本当に確定することができるのだろうか。 ちなみに、"YHVH"の"Y"は、英語に入ると、英語の名前としてとてもよく聞くことのある"John"(ジョン)の語頭の発音となる。 「日本」は、「イルボン」なのか、「ヂパング」なのか、「ジャパン」なのか、「ヤーパン」なのか、「ハポン」なのか、それとも「ニッポン」なのか。 「日本」の発音の妥当な表記として、"Li̍t-pún"はあり得ても(実際、閩南語では、"l"で表記することが妥当な「こゑ(声)」になる)、"Rìběn"には、いくらなんでも無理があるだろうと私は思ふ(しかし、実際にPinyinの表記法では、これが採用されている)。 中国語としての「路((Pinyin): lù (lu4), Middle Chinese: luH)」は、その「こゑ(声)」が日本語においては「ぬ」に対応する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として用ゐられていると推察されることから、感覚としてそれに対応する日本語の表現は、「みち」というより、「とお(通)り『ぬ』け」であると思はれるが、閩南語においては、「路」だけでなく、「落((Hokkien, POJ): lo̍k / lo̍h / làu / lak / lauh / lō͘ / la̍uh / )」も同様に、日本語における漢語の「脱落」の用法のように「『ぬ』け」の感覚を伴って用ゐられている。 (Hokkien) Classifier for a row of houses. (Hokkien) to omit; to leave out (Hokkien) to disassemble; to dismantle (Hokkien) to have diarrhea (Hokkien) to leak (of water or gas) (Hokkien) to coax out of somebody; to trick somebody into telling (of a secret, information, the truth, etc.) (Hokkien) to fall off; to drop off (from somewhere) (Hokkien) to lose; to misplace (出典 en.wiktionary.org/wiki/落) このような書込みをするとき、私は、「自分には中国語ができる」ことを他人に示そうという意図は全くない。 既に述べたとおり、私自身は、中国語の学習者ですらない。また、私は、今から中国語を学んで、それが使ひものになるようなレベルまで自分が習得できるとも思っていない。 それでも、このようなことばの表現の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」の対応関係を丁寧にひとつづつ拾っていくことは、自分の母語である日本語の表現の理解を深めることに役立つだけでなく、より一般的に、ことばが、様々な「こゑ(声)」を、どのように折り合ひがつくように使ふのかを把握する感性を磨くのにも役立つだろうと思っている。 >日本に思想なんか無いよ 日本に思想がないとしても、それは悪しきことではない。 日本語は、哲学するのに好適な言語であり、日本語とされることばの表現は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」自体が哲学的に磨きぬかれることによって形成されている。 「感性を磨く」、このような表現を憎悪する人々が、世間で「学者」と呼ばれる人々の間ににも大勢いることを私はよく知っている。 そのような人々が、「感性を磨く」といったような表現に対して示す反応とは、「一体、自分がどんな高貴なご身分だと思ひ上がっているのか」といったようなものだ。 その反応は、要するに、「奴隷は、命じられたことを黙って命じられたとおりにしていればそれで善い」のであって、餌を与えられたなら、有難き幸せと頂戴し、それを黙ってそのまま食べるのが当然である、といった考え方の表れである。 しかし、たとえそれが「食べ物」の場合であっても、味覚を十全に働かせるように「感性を磨く」ことは、特別に自身を「食通」として自負して、レストランで提供される食事の評点付けしようとすることを特別に意味するわけではない。 そもそも、人が多種多様な食用となるものを選び出して、毒抜きに多くの労力を費やしてまで食べるまでに味覚を発達させているのは、何かを口に入れたときに、それをそのまま食べて自身に取り込もうとすることが良い効果をもたらすのか、悪しき効果をもたらすのかを知ろうとするためであり、またどのような効果をもたらすものをどれだけ取り込もうとしているのかを知るためである。 哲学の営みにおいて、「うたが(疑)ふ」ことと、「かむか(考)ふ」ことと、「感性を磨く」ことは別々のことではない。 >閩南語においては、「路」だけでなく、「落((Hokkien, POJ): lo̍k / lo̍h / làu / lak / lauh / lō͘ / la̍uh / )」も同様に、日本語における漢語の「脱落」の用法のように「『ぬ』け」の感覚を伴って用ゐられている。 Wikipediaで「ろくろ首」の項目を参照すると、次のように記載されている。 >また同様に中国には「落頭」(らくとう)という妖怪も伝わっており、首が胴体からスポッと抜けて飛び回り、首が飛び回っている間は布団の中には胴体だけが残っている状態になる。三国時代の呉の将軍・朱桓(しゅかん)が雇った女中がこの落頭だったという話が伝わっている。耳を翼にして飛ぶという。また秦の頃には南方に「落頭民」(らくとうみん)といわれる部族民がおり、その人々は首だけを飛ばすことができたという。 (出典 ja.wikipedia.org/wiki/ろくろ首) 見てのとおり、哲学の思考は、思想の言説のようにその適用範囲が限定されたものではなく、広汎に応用が効く。 提示された「証明」/"evidence"が「証明」/"evidence"であると認識できるか否かも、それを認識できるように感性が磨かれているかどうかに依存する。 私は、身内の患者に付き添って、レントゲン撮影の写真を見せられながら医師に病状の診断の説明を受けたことがあるが、レントゲン撮影の写真から何かを識別する訓練を受けていない私には、その白黒の陰影からどこにどのような様態が映っているのかまったく分からなかった。 レントゲン撮影を見慣れた医師には、目の前にコップが置かれているのが見えるのと同様に、誰にでも容易にそれが判別できるものと感じられているようだったが、私には、医師に注目すべき箇所を指し示されても、何がどのように映っているのか識別できなかった。 ところで、何らかの「証明」/"evidence"が提示されたとき、それが「自分には識別できない」という理由だけで、その「事実」が、直ちに、「何も『証明』/"evidence"が示されていないという『確信』」にすり替わってしまうような人々が大勢いる。 そして、そのことは、世の中で「学者」と呼ばれるような人々の場合でも、まったく同様である。 自分自身には、提示された「証明」/"evidence"が「証明」/"evidence"としてまったく識別することができなくても、専門の権威がそう主張するのだから、そうであるに違ひないと信じ込む盲目の権威主義と、提示された「証明」/"evidence"が自分には識別できないのだから、事実上、提示された「証明」/"evidence"は何も存在しないとする確信の組合せが、哲学の営みを妨げる。 その組合せにより物事を考へることを習慣とする人々は、「頼みにすることのできる権威」を求めて常に不安にとりつかれている。 >>640 「ろくろ首」⇔「落路首」⇔「通りぬけるように脱落する首」という解釈が自然に導かれる。 では、なぜ、「ろくろ首」などという奇妙な存在者を想定したのだろうか。 それは、「落」ということばの用法に「『ぬ』け」の感覚が伴ふことが閩南語において特徴的であることに関係しているのではないかと私には思はれる。 そして、そのことは、 >南方に「落頭民」(らくとうみん)といわれる部族民がおり という説明によって示唆されているのではないだろうか。 一般的な表現の用法では、「落頭」が「首を落とす」、つまり、「斬首」を想起させるものと考へられるのに、南方の地域で使はれる閩南語においては、その同じ表現が、「首を落とす」ことではなく、「首が通りぬけるように脱落する」様態を想起させてしまうことになり、その奇妙さを面白おかしく説明するために「落頭民」⇔「落路首」⇔「ろくろ首」のような存在者がほら話として創作されたのではないか。 これが、私の暫定的な推論である。 日本語:「『じゃ』まする」 中国語:「打・扰/擾((Pinyin): rǎo)」 フランス語:《gêner》 >>645 ここで私は、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひの対応関係を示そうとしているわけだが、 試しに逆方向で見てみよう。 フランス語の"gentil"に対応する中国語の表現を検索してみると「溫柔((Pinyin): wēnróu)」という表現がヒットする。 "gentil"というこわ(声)づか(使/仕/遣)ひが想起させるイメージとして、やはり、「柔((Pinyin): róu))」が現れるわけだが、さらに面白いことに、Google検索の最上位では、 「让蒂尔(Ràng dì ěr)」という自動翻訳が示される。これが何を意味しているのか検索してみると、以下のとおりである。 >ポールジャンティは、ガボン西部に位置する港湾都市。人口は13万6,000人で、ガボン第二の都市である。ポールジャンティルとも。オゴウェ・マリティム州州都。オゴウェ川デルタ西端の島に位置し、天然の良港を持つ。 1903年、フランスによって建設される。 ウィキペディア 让蒂尔港- 维基百科,自由的百科全书 維基百科 让蒂尔港(法语:Port-Gentil,法语发音:[pɔʁ ʒɑ̃ti])是加蓬的第二大城市和主要海港,也是该国的石油和木材工业中心 要するに、この「让蒂尔」は、フランス語の《Port-Gentil》という地名のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひから想起されるイメージに合うように考案された当て字である。 つまり、私が推測したこわ(声)づか(使/仕/遣)ひの対応関係は、中国語を母語とする人々の間でも同様に働いていることになる。 私は、中国語学習の初心者ですらないが、いづれの言語を学習しようとする場合でも、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひの対応関係に注意を向けることは、表現の学習を効率的に進めるのに役立つのである。 哲学の営みにおいて問ひを発するのは、あ(在/有)るはずの正しいこた(答)へを得るためではない。 そうではなく、哲学における問ひは、いつまでも、どこまで行っても「こころ(試)み(心観)」/"tentative"である。 哲学の問ひが探求しているのは、そのように錯覚されるとしても、「あ(在/有)るはずの正しいこた(答)へ」などではなく、あやま(過)ちの「臨在」であり、あやま(過)ちの「臨在」をし(知/領)ることによ(依/拠)りたし(確)かめられることになる「『適合性』としての『ただ(只)し』さ」である。 したがって、その探求に過程においてその「臨在」がし(知/領)られことになった「あやま(過)ち」に「あたら(可惜)しき適合性」が見出されるなら、その「あやま(過)ち」は、「『新たな適合性』として『ただ(只)し』きもの」、つまり、「新たな正しさ」として認められる。 そして、それが、探求の「こころ(試)み(心観)」/"tentative"がもたらすことになる「進化」である。 数年前に日本語の表現と中国語の対応関係について私が検討し始めた頃、というよりむしろ、中国語の発音について解説した中国語の入門書をつい最近になって手に取るまで、私は、ピンインによる発音の表記法がどのようなものであるかすらまったく知らなかったので、アルファベット表記された日本語と中国語の表現の発音を比べてみて、日本語の「な行」の発音、つまり、アルファベット表記では、"n"を用ゐて転記される発音が、中国語の、英語の語頭の"r"のように発音されるような発音に対応するものと誤認していた。ようやく最近になってその過ちに気づくことになったわけだが、しかし、そのように誤認から歩みを始めても、対応関係を当初、どのように誤認したのかを検討することが、結果として、とても役に立つことになった。 仮に、私が当初から中国語を正しく学習することを目指して、ピンインの"r"の正しいとされる発声の仕方を身に付けようとする訓練に専念するだけであったなら、私がこのスレに書き込んできたような「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」の対応関係は、決して明確に意識されることがなかっただろう。 問ひを発する行為が、過ちの臨在に気づかせることになることは、哲学に限定されない。というより、そもそも、問ひを発することは、過ちの臨在の可能性を探る行為に他ならない。だからこそ、極めて多くの状況において、与えられた指示がよく分からない場合にも、そのよく分からないことをはっきりさせようとして問ふためにであれ、口を開くこと自体が厳しく戒められるのである。 中国語のピンインの"r"の表記法としての奇妙さについて考へることなしには、私は、例えば、 フランス語の《jaillir》や《germer》などの表現の語頭の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」と、日本語の「いづみ(泉)」や「いづる/しづむ」の「づ」の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」の間に何らかの類似性を感じることがあったとしても、それがどのように互ひに似ているのかを明確にメタ言語により記述して表現することはできなかっただろう。 「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」の共通性から、母語以外の言語の表現も感覚的に捉へやすくなる。 >congenial の意味 気が合う;快適な >congenial の語源 1620年代に作られたこの言葉は、「同じ性質や自然的な特徴を持つ」「親族のように」という意味を持ちます。これは、ラテン語のcom「共に、一緒に」(con-を参照)と、genialis「出生の」という語から来ています。これは「親族」を意味し、「出産する、生み出す」と関係するものや、家族や部族のグループを指す言葉を派生させるPIE(インド・ヨーロッパ祖語)の根 *gene- から来ています。'気持ちが良い'という意味で使われ始めたのは1711年で、「自然に親しみやすい」という考えからです。 (etymonline.com/jp/word/congenial#etymonline_v_18201) ところで、中国語の表現としての「路」は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において、日本語としては「みち(道)」というよりも、「通り『ぬ』け」に対応するのだろうということは既に指摘した。 ここで、中国語の普通話ではなく、上海語に注目してみると、「老("lau")」という表現が、日本語としては「とても」に対応するように使はれる用法があることが分かる。 その場合、なぜ「老("lau")」が「とても」に対応するのかを考へてみると、私には、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」から、この「老("lau")」は、英語を用ゐるなら、"throughout"や"through and through"や"thoroughly"などやはり「『ぬ』け」(この場合には、「貫徹」)を想起させるように使はれているからではないかという推測が生じる。 しかし、私の連想による憶測は、そこで留まることはない。 仮にこの推測が妥当であるとした場合、日本語には、中国語の「老」という表現の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」も、通常の漢語の読みとしての「ろう」にとどまらず、それが「ぬ」に移される形でも取り込まれているのではないかという疑念が生じる。 ここで私にすぐに思ひ浮かぶのが、日本語の「ぬし(主)」という語源のよく分からない表現である。 日本語の「ぬし(主)」は、語源的には、中国語の「老子」を、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において移すように取り込まれた表現である可能性があるのではないか。 ただし、これは、現時点では、私にとっても、その可能性があるのではなかと疑われる程度の憶測に過ぎない。 例えば、中国語の「魯(Middle Chinese: luX)」に対応する日本語の表現としてすぐに想起されるのが、「ま『ぬ』け」だろう。 >鲁 中日辞典 第3版の解説 鲁 lǔ 1 [形]そそっかしい.がさつである. 这人办事挺〜的/この人の仕事はとても粗い. >中国語の表現としての「路」は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において、日本語としては「みち(道)」というよりも、「通り『ぬ』け」に対応するのだろう >英語「thoroughfare」の意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書 Weblio https://ejje.weblio.jp › 英和辞典・和英辞典 › 英和辞典 「thoroughfare」の意味・翻訳・日本語 - (通り抜けられる)道路、往来、通り、(特に)大通り、主要道路、本道、通り抜け、通行 宗教の勧誘が来たら話聞いて足運んで出会い求めた方がいいのかな? >>625 付け加えるなら、日本思想とは駄洒落言葉遊びだということだ >>662 匿名の書込みだからといっても、他人の書込みに、その書込みの本人であるかのように「付け加える」ことは、やはり「詐欺行為」であることに変りありませんよ? >>662 まあ、でも、私自身の書込みを思ひ出させてくれて、ありがとう。 >「(恁/忍)=(忍/恁)」という「ひと(等/人/一)しさ」 これを、一言の英語で伝へようとするなら、"congenial"ということになるだろう。 >>662 では、こういう駄洒落はどうですか? >congenial suitable for something Compost provides congenial conditions for roots to develop. (出典 ldoceonline.com/jp/dictionary/congenial) >>655 "congenial"という表現の説明として語源辞典の説明をそのまま引用したが、私は、このメタ言語的記述が適切であると考へているわけではない。 この"congenial"という表現の用法の由来の説明についても、いつものとおり、この記述における"con-"の解釈は逆立ちしている。 "congenial"は、日本語で説明するなら、性質としては「相性(あひしょう)の良さ」、振舞ひとしては「愛相(あいそ)の良さ」ということになるが、「相性(あひしょう)の良さ」も「愛相(あいそ)の良さ」も、「生まれを同じくすること」によ(依/拠)り/由来してもたらされるわけではない。 そうではなく、「(恁/忍)=(忍/恁)」という「ひと(等/人/一)しさ」 /"adequacy"が、性質としては「相性(あひしょう)の良さ」として、振舞ひとしては「愛相(あいそ)の良さ」としてあらは(顕/現)れるのである。 このことは、例えば、 >Compost provides congenial conditions for roots to develop. において、"roots"/(根)と"compost"/(堆肥)の関係を考へてみてもすぐに分かるだろう。 植物が堆肥に根付いて良く育つのは、植物の根と土中の細菌とが、その臨在において「(恁/忍)=(忍/恁)」という「ひと(等/人/一)しさ」 /"adequacy"の関係として協働していることのあらは(顕/現)れであって、植物の根と堆肥や堆肥中の細菌が「生まれつきの性質を同じくしている」ことによ(依/拠)る/由来しているのではない。 >Compost provides congenial conditions for roots to develop. この表現を借用させてもらうと、 The modern Japanese orthography("現代仮名遣ひ") does not provide congenial conditions for philosophy in Japanese to develop. ということになる。 >>668 いずれの辞書にも、英語の解説書にも記載されない、この"congenial"という表現が伝へようとする感覚の解釈は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」からの私の勝手な推測によるものだが、それが通用するかどうか確かめてみよう。 例えば、Merriam-Webster Dictionaryに引用される次の文例は、"congenial"の名詞形である"congeniality"という表現が実際にどのように使はれるかの具体例を示すものである。 >In the mind of the voter, compromise and congeniality between the left and the right is as much a strategic choice as a genuine flourishing of good feelings …— Shervin Malekzadeh 誤:いずれの辞書にも 正:いづれの辞書にも 現代仮名遣ひは、逐一、自然な思考を妨げるように工夫されている。 >>658 >日本語の「ぬし(主)」は、語源的には、中国語の「老子」を、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において移すように取り込まれた表現である可能性があるのではないか。 このように考へることは、私には特に不自然なことであるとは感じられない。 「ぬし(主)」の語源については、「〜の・うし」の短縮形であるという説があり、岩波古語辞典においてもそのように説明されているが、私には、この説に強い説得力があるとも感じられない。 その理由を説明しよう。 「〜の・うし」⇔「ぬし(主)」とする説では、「〜の」は、助詞であるものと解釈され、「うし」が「ぬし(主)」に相当する意味で用ゐられたのだとされる。 しかし、その場合、「うし」がどのような表現であったのか、その表現法としての解釈ははっきりしない。 さらに、「古事記」と「ヌシ」をキーワードにして検索してみると、「古事記」において最初に登場する神の名として、「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ、あまのみなかぬしのかみ)」というのがヒットし、その名のとおり、「神名は天の真中を領する神を意味する」(西郷信綱『古事記注釈』第1巻、平凡社、1975年)とされる。 他に「事代主神(ことしろぬしのかみ)」というのもヒットする。そこで、いずれの場合も、「ぬし(主)」の後に補足された「のかみ(神)」という表現を除外して、「天之御中主神(あめのみなかぬし)」、「事代主神(ことしろぬし)」として考へたとして、「ぬし(主)」を「〜の・うし」に置き換へてみると、表現としてなぜ「〜の」が必要とされるのか不明である。 ところで、「〜の・うし」という表現が用ゐられ、そのような表現解釈が通用するものであったとして、それでは、「ぬし(主)」は、「〜の・うし」の短縮形としてしか解釈され得ないのであろうか。 私には、そのようには思えない。それどころか、「〜の・うし」という分解の方が後付けの解釈によるものである可能性も十分にあるのではないかと思ふ。 なぜなら、私がその可能性を示唆したとおり、「ぬし(主)」が中国語としての「老子」のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひを日本語に移したものであったと想定した場合、後の漢語としては、「老」は、「ろう/らう」と読まれるが、古代の日本語では語頭に"l"の発音が用ゐられないため、"l"の発音は"n"の発音に移されたと考へられるからである。 すると、「老」は、「のう/なう」と発音されることになるので、「老子」は、「のうし/なうし」となる。 実際、朝鮮語でも「老」は、カタカナ表記するなら「ノ」(古代の日本語としては、甲類の「の」に分類されるだろう)に移されている。 そして、古代の日本語で助詞として用ゐられた「の」のこゑ(声)には、万葉仮名の表記においては、甲類の「の」と乙類の「の」が当てられているいずれの事例も見られるので、当てられる漢字が明確にその発音が助詞の「の」として意図されていることを示すのでない限り、「の」の解釈に不確かさが伴ふことになるだろうと思はれる。 このようなあいまいな根拠をいくら並べて見ても、何も確かなことは分からないではないか、という反論があるだろう。 では、「老子(のうし)」⇔「主(ぬし)」のような対応関係を想定することが、表現法として尤もらしいかどうかを検討してみるために、ふたたび、「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ、あまのみなかぬしのかみ)」に戻ってみることにしよう。 「天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)」というのは、簡単に言い換へるなら「天(あま)つ神(かみ)」であり、それが「ぬし(主)」であるとするなら、「天にまします我らが主(ぬし)」ということになるだろう。 ここで、「天にまします我らが主(ぬし)」をスペイン語で言ひ換へるなら、"Nuestro Señor en el cielo"であり、スペイン語の"señor"が日本語の「ぬし(主)」に対応することになるが、"señor"は、英語の""senate"/「上院」(表現として「元老院」に由来する)や、日本語の「シニア世代」の「シニア」と語源を同じくする表現であり、それを漢字一文字で表すなら「老」ということになる。 日本語の古代の表現と中国語の表現の対応関係を論じているのに、突然、まったく無関係のスペイン語を持ち出してきても無意味である、という反論があるかもしれない。 そこで、今度は、このスペイン語の"señor"という表現と中国語の表現の対応関係を見てみよう。 >señor 西班牙语 señor/-a adj. 极好的,华丽的,很大的 m. f. 主人,先生,女士,老爷,太太,夫人,公公,婆婆,岳父,岳母,东家,女东家 (出典 zh.wiktionary.org/wiki/señor) すると、見てのとおり、私には好都合なことに、「老爷」という「老」の漢字を含む記載が見られる。 では、「老爷」とは、どのような表現だろうか。 >老爷 老爷 中日辞典 第3版の解説 老爷 lǎoye 1 [名] 1 旦那さま.▶以前は庶民が役人に対して使った敬称.現在では風刺的にしか用いない. 当官做〜/お役人になる;お偉くなる. 2 旦那さま.▶旧時は下僕が主人に対して使った敬称,または妻が夫に対して使った敬称. 見てのとおり、この場合の中国語の「老」は、日本語としての「主」の用法にぴたりと対応していることが確認でき、そのことがスペイン語の表現を介しても成立することが分かる。 大老(たいろう)は、江戸幕府の職制で、将軍の補佐役、臨時に老中の上に置かれた最高職である。 より広義には、大名家・執政機関の最高責任者群を指す(豊臣政権の五大老などがよく知られる)。 大老 - Wikipedia 哲学の役割は、気づかせることまでであって、気づいたことについてどうするかは各自の勝手である。 read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる