日本思想 [転載禁止]©2ch.net
"YHVH"の正しいカタカナ表記は、「エホバ」だろうか、「ジェホバ」だろうか、それとも「イェホバ」だろうか。 "YHVH"の"Y"の一般的に通用している正しいとされる「発音」によれば、それは「イェホバ」となるようである。 しかし、そもそも、"Y"がどのようなことを表しているのかが不明なのに、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」としての「こゑ(声)」を本当に確定することができるのだろうか。 ちなみに、"YHVH"の"Y"は、英語に入ると、英語の名前としてとてもよく聞くことのある"John"(ジョン)の語頭の発音となる。 「日本」は、「イルボン」なのか、「ヂパング」なのか、「ジャパン」なのか、「ヤーパン」なのか、「ハポン」なのか、それとも「ニッポン」なのか。 「日本」の発音の妥当な表記として、"Li̍t-pún"はあり得ても(実際、閩南語では、"l"で表記することが妥当な「こゑ(声)」になる)、"Rìběn"には、いくらなんでも無理があるだろうと私は思ふ(しかし、実際にPinyinの表記法では、これが採用されている)。 中国語としての「路((Pinyin): lù (lu4), Middle Chinese: luH)」は、その「こゑ(声)」が日本語においては「ぬ」に対応する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として用ゐられていると推察されることから、感覚としてそれに対応する日本語の表現は、「みち」というより、「とお(通)り『ぬ』け」であると思はれるが、閩南語においては、「路」だけでなく、「落((Hokkien, POJ): lo̍k / lo̍h / làu / lak / lauh / lō͘ / la̍uh / )」も同様に、日本語における漢語の「脱落」の用法のように「『ぬ』け」の感覚を伴って用ゐられている。 (Hokkien) Classifier for a row of houses. (Hokkien) to omit; to leave out (Hokkien) to disassemble; to dismantle (Hokkien) to have diarrhea (Hokkien) to leak (of water or gas) (Hokkien) to coax out of somebody; to trick somebody into telling (of a secret, information, the truth, etc.) (Hokkien) to fall off; to drop off (from somewhere) (Hokkien) to lose; to misplace (出典 en.wiktionary.org/wiki/落) このような書込みをするとき、私は、「自分には中国語ができる」ことを他人に示そうという意図は全くない。 既に述べたとおり、私自身は、中国語の学習者ですらない。また、私は、今から中国語を学んで、それが使ひものになるようなレベルまで自分が習得できるとも思っていない。 それでも、このようなことばの表現の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」の対応関係を丁寧にひとつづつ拾っていくことは、自分の母語である日本語の表現の理解を深めることに役立つだけでなく、より一般的に、ことばが、様々な「こゑ(声)」を、どのように折り合ひがつくように使ふのかを把握する感性を磨くのにも役立つだろうと思っている。 >日本に思想なんか無いよ 日本に思想がないとしても、それは悪しきことではない。 日本語は、哲学するのに好適な言語であり、日本語とされることばの表現は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」自体が哲学的に磨きぬかれることによって形成されている。 「感性を磨く」、このような表現を憎悪する人々が、世間で「学者」と呼ばれる人々の間ににも大勢いることを私はよく知っている。 そのような人々が、「感性を磨く」といったような表現に対して示す反応とは、「一体、自分がどんな高貴なご身分だと思ひ上がっているのか」といったようなものだ。 その反応は、要するに、「奴隷は、命じられたことを黙って命じられたとおりにしていればそれで善い」のであって、餌を与えられたなら、有難き幸せと頂戴し、それを黙ってそのまま食べるのが当然である、といった考え方の表れである。 しかし、たとえそれが「食べ物」の場合であっても、味覚を十全に働かせるように「感性を磨く」ことは、特別に自身を「食通」として自負して、レストランで提供される食事の評点付けしようとすることを特別に意味するわけではない。 そもそも、人が多種多様な食用となるものを選び出して、毒抜きに多くの労力を費やしてまで食べるまでに味覚を発達させているのは、何かを口に入れたときに、それをそのまま食べて自身に取り込もうとすることが良い効果をもたらすのか、悪しき効果をもたらすのかを知ろうとするためであり、またどのような効果をもたらすものをどれだけ取り込もうとしているのかを知るためである。 哲学の営みにおいて、「うたが(疑)ふ」ことと、「かむか(考)ふ」ことと、「感性を磨く」ことは別々のことではない。 >閩南語においては、「路」だけでなく、「落((Hokkien, POJ): lo̍k / lo̍h / làu / lak / lauh / lō͘ / la̍uh / )」も同様に、日本語における漢語の「脱落」の用法のように「『ぬ』け」の感覚を伴って用ゐられている。 Wikipediaで「ろくろ首」の項目を参照すると、次のように記載されている。 >また同様に中国には「落頭」(らくとう)という妖怪も伝わっており、首が胴体からスポッと抜けて飛び回り、首が飛び回っている間は布団の中には胴体だけが残っている状態になる。三国時代の呉の将軍・朱桓(しゅかん)が雇った女中がこの落頭だったという話が伝わっている。耳を翼にして飛ぶという。また秦の頃には南方に「落頭民」(らくとうみん)といわれる部族民がおり、その人々は首だけを飛ばすことができたという。 (出典 ja.wikipedia.org/wiki/ろくろ首) 見てのとおり、哲学の思考は、思想の言説のようにその適用範囲が限定されたものではなく、広汎に応用が効く。 提示された「証明」/"evidence"が「証明」/"evidence"であると認識できるか否かも、それを認識できるように感性が磨かれているかどうかに依存する。 私は、身内の患者に付き添って、レントゲン撮影の写真を見せられながら医師に病状の診断の説明を受けたことがあるが、レントゲン撮影の写真から何かを識別する訓練を受けていない私には、その白黒の陰影からどこにどのような様態が映っているのかまったく分からなかった。 レントゲン撮影を見慣れた医師には、目の前にコップが置かれているのが見えるのと同様に、誰にでも容易にそれが判別できるものと感じられているようだったが、私には、医師に注目すべき箇所を指し示されても、何がどのように映っているのか識別できなかった。 ところで、何らかの「証明」/"evidence"が提示されたとき、それが「自分には識別できない」という理由だけで、その「事実」が、直ちに、「何も『証明』/"evidence"が示されていないという『確信』」にすり替わってしまうような人々が大勢いる。 そして、そのことは、世の中で「学者」と呼ばれるような人々の場合でも、まったく同様である。 自分自身には、提示された「証明」/"evidence"が「証明」/"evidence"としてまったく識別することができなくても、専門の権威がそう主張するのだから、そうであるに違ひないと信じ込む盲目の権威主義と、提示された「証明」/"evidence"が自分には識別できないのだから、事実上、提示された「証明」/"evidence"は何も存在しないとする確信の組合せが、哲学の営みを妨げる。 その組合せにより物事を考へることを習慣とする人々は、「頼みにすることのできる権威」を求めて常に不安にとりつかれている。 >>640 「ろくろ首」⇔「落路首」⇔「通りぬけるように脱落する首」という解釈が自然に導かれる。 では、なぜ、「ろくろ首」などという奇妙な存在者を想定したのだろうか。 それは、「落」ということばの用法に「『ぬ』け」の感覚が伴ふことが閩南語において特徴的であることに関係しているのではないかと私には思はれる。 そして、そのことは、 >南方に「落頭民」(らくとうみん)といわれる部族民がおり という説明によって示唆されているのではないだろうか。 一般的な表現の用法では、「落頭」が「首を落とす」、つまり、「斬首」を想起させるものと考へられるのに、南方の地域で使はれる閩南語においては、その同じ表現が、「首を落とす」ことではなく、「首が通りぬけるように脱落する」様態を想起させてしまうことになり、その奇妙さを面白おかしく説明するために「落頭民」⇔「落路首」⇔「ろくろ首」のような存在者がほら話として創作されたのではないか。 これが、私の暫定的な推論である。 日本語:「『じゃ』まする」 中国語:「打・扰/擾((Pinyin): rǎo)」 フランス語:《gêner》 >>645 ここで私は、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひの対応関係を示そうとしているわけだが、 試しに逆方向で見てみよう。 フランス語の"gentil"に対応する中国語の表現を検索してみると「溫柔((Pinyin): wēnróu)」という表現がヒットする。 "gentil"というこわ(声)づか(使/仕/遣)ひが想起させるイメージとして、やはり、「柔((Pinyin): róu))」が現れるわけだが、さらに面白いことに、Google検索の最上位では、 「让蒂尔(Ràng dì ěr)」という自動翻訳が示される。これが何を意味しているのか検索してみると、以下のとおりである。 >ポールジャンティは、ガボン西部に位置する港湾都市。人口は13万6,000人で、ガボン第二の都市である。ポールジャンティルとも。オゴウェ・マリティム州州都。オゴウェ川デルタ西端の島に位置し、天然の良港を持つ。 1903年、フランスによって建設される。 ウィキペディア 让蒂尔港- 维基百科,自由的百科全书 維基百科 让蒂尔港(法语:Port-Gentil,法语发音:[pɔʁ ʒɑ̃ti])是加蓬的第二大城市和主要海港,也是该国的石油和木材工业中心 要するに、この「让蒂尔」は、フランス語の《Port-Gentil》という地名のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひから想起されるイメージに合うように考案された当て字である。 つまり、私が推測したこわ(声)づか(使/仕/遣)ひの対応関係は、中国語を母語とする人々の間でも同様に働いていることになる。 私は、中国語学習の初心者ですらないが、いづれの言語を学習しようとする場合でも、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひの対応関係に注意を向けることは、表現の学習を効率的に進めるのに役立つのである。 哲学の営みにおいて問ひを発するのは、あ(在/有)るはずの正しいこた(答)へを得るためではない。 そうではなく、哲学における問ひは、いつまでも、どこまで行っても「こころ(試)み(心観)」/"tentative"である。 哲学の問ひが探求しているのは、そのように錯覚されるとしても、「あ(在/有)るはずの正しいこた(答)へ」などではなく、あやま(過)ちの「臨在」であり、あやま(過)ちの「臨在」をし(知/領)ることによ(依/拠)りたし(確)かめられることになる「『適合性』としての『ただ(只)し』さ」である。 したがって、その探求に過程においてその「臨在」がし(知/領)られことになった「あやま(過)ち」に「あたら(可惜)しき適合性」が見出されるなら、その「あやま(過)ち」は、「『新たな適合性』として『ただ(只)し』きもの」、つまり、「新たな正しさ」として認められる。 そして、それが、探求の「こころ(試)み(心観)」/"tentative"がもたらすことになる「進化」である。 数年前に日本語の表現と中国語の対応関係について私が検討し始めた頃、というよりむしろ、中国語の発音について解説した中国語の入門書をつい最近になって手に取るまで、私は、ピンインによる発音の表記法がどのようなものであるかすらまったく知らなかったので、アルファベット表記された日本語と中国語の表現の発音を比べてみて、日本語の「な行」の発音、つまり、アルファベット表記では、"n"を用ゐて転記される発音が、中国語の、英語の語頭の"r"のように発音されるような発音に対応するものと誤認していた。ようやく最近になってその過ちに気づくことになったわけだが、しかし、そのように誤認から歩みを始めても、対応関係を当初、どのように誤認したのかを検討することが、結果として、とても役に立つことになった。 仮に、私が当初から中国語を正しく学習することを目指して、ピンインの"r"の正しいとされる発声の仕方を身に付けようとする訓練に専念するだけであったなら、私がこのスレに書き込んできたような「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」の対応関係は、決して明確に意識されることがなかっただろう。 問ひを発する行為が、過ちの臨在に気づかせることになることは、哲学に限定されない。というより、そもそも、問ひを発することは、過ちの臨在の可能性を探る行為に他ならない。だからこそ、極めて多くの状況において、与えられた指示がよく分からない場合にも、そのよく分からないことをはっきりさせようとして問ふためにであれ、口を開くこと自体が厳しく戒められるのである。 中国語のピンインの"r"の表記法としての奇妙さについて考へることなしには、私は、例えば、 フランス語の《jaillir》や《germer》などの表現の語頭の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」と、日本語の「いづみ(泉)」や「いづる/しづむ」の「づ」の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」の間に何らかの類似性を感じることがあったとしても、それがどのように互ひに似ているのかを明確にメタ言語により記述して表現することはできなかっただろう。 「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」の共通性から、母語以外の言語の表現も感覚的に捉へやすくなる。 >congenial の意味 気が合う;快適な >congenial の語源 1620年代に作られたこの言葉は、「同じ性質や自然的な特徴を持つ」「親族のように」という意味を持ちます。これは、ラテン語のcom「共に、一緒に」(con-を参照)と、genialis「出生の」という語から来ています。これは「親族」を意味し、「出産する、生み出す」と関係するものや、家族や部族のグループを指す言葉を派生させるPIE(インド・ヨーロッパ祖語)の根 *gene- から来ています。'気持ちが良い'という意味で使われ始めたのは1711年で、「自然に親しみやすい」という考えからです。 (etymonline.com/jp/word/congenial#etymonline_v_18201) ところで、中国語の表現としての「路」は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において、日本語としては「みち(道)」というよりも、「通り『ぬ』け」に対応するのだろうということは既に指摘した。 ここで、中国語の普通話ではなく、上海語に注目してみると、「老("lau")」という表現が、日本語としては「とても」に対応するように使はれる用法があることが分かる。 その場合、なぜ「老("lau")」が「とても」に対応するのかを考へてみると、私には、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」から、この「老("lau")」は、英語を用ゐるなら、"throughout"や"through and through"や"thoroughly"などやはり「『ぬ』け」(この場合には、「貫徹」)を想起させるように使はれているからではないかという推測が生じる。 しかし、私の連想による憶測は、そこで留まることはない。 仮にこの推測が妥当であるとした場合、日本語には、中国語の「老」という表現の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」も、通常の漢語の読みとしての「ろう」にとどまらず、それが「ぬ」に移される形でも取り込まれているのではないかという疑念が生じる。 ここで私にすぐに思ひ浮かぶのが、日本語の「ぬし(主)」という語源のよく分からない表現である。 日本語の「ぬし(主)」は、語源的には、中国語の「老子」を、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において移すように取り込まれた表現である可能性があるのではないか。 ただし、これは、現時点では、私にとっても、その可能性があるのではなかと疑われる程度の憶測に過ぎない。 例えば、中国語の「魯(Middle Chinese: luX)」に対応する日本語の表現としてすぐに想起されるのが、「ま『ぬ』け」だろう。 >鲁 中日辞典 第3版の解説 鲁 lǔ 1 [形]そそっかしい.がさつである. 这人办事挺〜的/この人の仕事はとても粗い. >中国語の表現としての「路」は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において、日本語としては「みち(道)」というよりも、「通り『ぬ』け」に対応するのだろう >英語「thoroughfare」の意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書 Weblio https://ejje.weblio.jp › 英和辞典・和英辞典 › 英和辞典 「thoroughfare」の意味・翻訳・日本語 - (通り抜けられる)道路、往来、通り、(特に)大通り、主要道路、本道、通り抜け、通行 宗教の勧誘が来たら話聞いて足運んで出会い求めた方がいいのかな? >>625 付け加えるなら、日本思想とは駄洒落言葉遊びだということだ >>662 匿名の書込みだからといっても、他人の書込みに、その書込みの本人であるかのように「付け加える」ことは、やはり「詐欺行為」であることに変りありませんよ? >>662 まあ、でも、私自身の書込みを思ひ出させてくれて、ありがとう。 >「(恁/忍)=(忍/恁)」という「ひと(等/人/一)しさ」 これを、一言の英語で伝へようとするなら、"congenial"ということになるだろう。 >>662 では、こういう駄洒落はどうですか? >congenial suitable for something Compost provides congenial conditions for roots to develop. (出典 ldoceonline.com/jp/dictionary/congenial) >>655 "congenial"という表現の説明として語源辞典の説明をそのまま引用したが、私は、このメタ言語的記述が適切であると考へているわけではない。 この"congenial"という表現の用法の由来の説明についても、いつものとおり、この記述における"con-"の解釈は逆立ちしている。 "congenial"は、日本語で説明するなら、性質としては「相性(あひしょう)の良さ」、振舞ひとしては「愛相(あいそ)の良さ」ということになるが、「相性(あひしょう)の良さ」も「愛相(あいそ)の良さ」も、「生まれを同じくすること」によ(依/拠)り/由来してもたらされるわけではない。 そうではなく、「(恁/忍)=(忍/恁)」という「ひと(等/人/一)しさ」 /"adequacy"が、性質としては「相性(あひしょう)の良さ」として、振舞ひとしては「愛相(あいそ)の良さ」としてあらは(顕/現)れるのである。 このことは、例えば、 >Compost provides congenial conditions for roots to develop. において、"roots"/(根)と"compost"/(堆肥)の関係を考へてみてもすぐに分かるだろう。 植物が堆肥に根付いて良く育つのは、植物の根と土中の細菌とが、その臨在において「(恁/忍)=(忍/恁)」という「ひと(等/人/一)しさ」 /"adequacy"の関係として協働していることのあらは(顕/現)れであって、植物の根と堆肥や堆肥中の細菌が「生まれつきの性質を同じくしている」ことによ(依/拠)る/由来しているのではない。 >Compost provides congenial conditions for roots to develop. この表現を借用させてもらうと、 The modern Japanese orthography("現代仮名遣ひ") does not provide congenial conditions for philosophy in Japanese to develop. ということになる。 >>668 いずれの辞書にも、英語の解説書にも記載されない、この"congenial"という表現が伝へようとする感覚の解釈は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」からの私の勝手な推測によるものだが、それが通用するかどうか確かめてみよう。 例えば、Merriam-Webster Dictionaryに引用される次の文例は、"congenial"の名詞形である"congeniality"という表現が実際にどのように使はれるかの具体例を示すものである。 >In the mind of the voter, compromise and congeniality between the left and the right is as much a strategic choice as a genuine flourishing of good feelings …— Shervin Malekzadeh 誤:いずれの辞書にも 正:いづれの辞書にも 現代仮名遣ひは、逐一、自然な思考を妨げるように工夫されている。 >>658 >日本語の「ぬし(主)」は、語源的には、中国語の「老子」を、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において移すように取り込まれた表現である可能性があるのではないか。 このように考へることは、私には特に不自然なことであるとは感じられない。 「ぬし(主)」の語源については、「〜の・うし」の短縮形であるという説があり、岩波古語辞典においてもそのように説明されているが、私には、この説に強い説得力があるとも感じられない。 その理由を説明しよう。 「〜の・うし」⇔「ぬし(主)」とする説では、「〜の」は、助詞であるものと解釈され、「うし」が「ぬし(主)」に相当する意味で用ゐられたのだとされる。 しかし、その場合、「うし」がどのような表現であったのか、その表現法としての解釈ははっきりしない。 さらに、「古事記」と「ヌシ」をキーワードにして検索してみると、「古事記」において最初に登場する神の名として、「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ、あまのみなかぬしのかみ)」というのがヒットし、その名のとおり、「神名は天の真中を領する神を意味する」(西郷信綱『古事記注釈』第1巻、平凡社、1975年)とされる。 他に「事代主神(ことしろぬしのかみ)」というのもヒットする。そこで、いずれの場合も、「ぬし(主)」の後に補足された「のかみ(神)」という表現を除外して、「天之御中主神(あめのみなかぬし)」、「事代主神(ことしろぬし)」として考へたとして、「ぬし(主)」を「〜の・うし」に置き換へてみると、表現としてなぜ「〜の」が必要とされるのか不明である。 ところで、「〜の・うし」という表現が用ゐられ、そのような表現解釈が通用するものであったとして、それでは、「ぬし(主)」は、「〜の・うし」の短縮形としてしか解釈され得ないのであろうか。 私には、そのようには思えない。それどころか、「〜の・うし」という分解の方が後付けの解釈によるものである可能性も十分にあるのではないかと思ふ。 なぜなら、私がその可能性を示唆したとおり、「ぬし(主)」が中国語としての「老子」のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひを日本語に移したものであったと想定した場合、後の漢語としては、「老」は、「ろう/らう」と読まれるが、古代の日本語では語頭に"l"の発音が用ゐられないため、"l"の発音は"n"の発音に移されたと考へられるからである。 すると、「老」は、「のう/なう」と発音されることになるので、「老子」は、「のうし/なうし」となる。 実際、朝鮮語でも「老」は、カタカナ表記するなら「ノ」(古代の日本語としては、甲類の「の」に分類されるだろう)に移されている。 そして、古代の日本語で助詞として用ゐられた「の」のこゑ(声)には、万葉仮名の表記においては、甲類の「の」と乙類の「の」が当てられているいずれの事例も見られるので、当てられる漢字が明確にその発音が助詞の「の」として意図されていることを示すのでない限り、「の」の解釈に不確かさが伴ふことになるだろうと思はれる。 このようなあいまいな根拠をいくら並べて見ても、何も確かなことは分からないではないか、という反論があるだろう。 では、「老子(のうし)」⇔「主(ぬし)」のような対応関係を想定することが、表現法として尤もらしいかどうかを検討してみるために、ふたたび、「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ、あまのみなかぬしのかみ)」に戻ってみることにしよう。 「天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)」というのは、簡単に言い換へるなら「天(あま)つ神(かみ)」であり、それが「ぬし(主)」であるとするなら、「天にまします我らが主(ぬし)」ということになるだろう。 ここで、「天にまします我らが主(ぬし)」をスペイン語で言ひ換へるなら、"Nuestro Señor en el cielo"であり、スペイン語の"señor"が日本語の「ぬし(主)」に対応することになるが、"señor"は、英語の""senate"/「上院」(表現として「元老院」に由来する)や、日本語の「シニア世代」の「シニア」と語源を同じくする表現であり、それを漢字一文字で表すなら「老」ということになる。 日本語の古代の表現と中国語の表現の対応関係を論じているのに、突然、まったく無関係のスペイン語を持ち出してきても無意味である、という反論があるかもしれない。 そこで、今度は、このスペイン語の"señor"という表現と中国語の表現の対応関係を見てみよう。 >señor 西班牙语 señor/-a adj. 极好的,华丽的,很大的 m. f. 主人,先生,女士,老爷,太太,夫人,公公,婆婆,岳父,岳母,东家,女东家 (出典 zh.wiktionary.org/wiki/señor) すると、見てのとおり、私には好都合なことに、「老爷」という「老」の漢字を含む記載が見られる。 では、「老爷」とは、どのような表現だろうか。 >老爷 老爷 中日辞典 第3版の解説 老爷 lǎoye 1 [名] 1 旦那さま.▶以前は庶民が役人に対して使った敬称.現在では風刺的にしか用いない. 当官做〜/お役人になる;お偉くなる. 2 旦那さま.▶旧時は下僕が主人に対して使った敬称,または妻が夫に対して使った敬称. 見てのとおり、この場合の中国語の「老」は、日本語としての「主」の用法にぴたりと対応していることが確認でき、そのことがスペイン語の表現を介しても成立することが分かる。 大老(たいろう)は、江戸幕府の職制で、将軍の補佐役、臨時に老中の上に置かれた最高職である。 より広義には、大名家・執政機関の最高責任者群を指す(豊臣政権の五大老などがよく知られる)。 大老 - Wikipedia 哲学の役割は、気づかせることまでであって、気づいたことについてどうするかは各自の勝手である。 read.cgi ver 07.5.0 2024/04/24 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる