日本思想 [転載禁止]©2ch.net
『哲学の探究』第20号目次1992/9
●第20号刊行にあたって
●シンポジウム自然と人間―その倫理的考察―
題目 著者
報告 プラトンの技術観 小野木 芳伸
報告 カント哲学の限界内における環境倫理学の可能性 小野原 雅夫
報告 日本における自然と人間―その倫理的考察― 平山 洋
シンポジウムのまとめ 頼住 光子
●テーマ別分科会
題目 著者
種差別か、しらずんば能力差別か?
―ピーター・シンガーはいかにして障害新生児の安楽死を擁護するか― 土屋 貴史
ウェーバー社会学における物象化論の位置 鈴木 宗徳
●研究発表
題目 著者
ヤスパースの「超越論的」感性論
―『哲学的論理学・遺稿』よりカテゴリー論をめぐって― 今本 修司
アランのシーニュ論 河津 邦喜
超越論的システム論の可能性 永井 俊哉
ウェーバー研究は何を求めているか 橋本 直人
●編集後記 ジゼル・ブンチェンはお風呂でオシッコするんだってな
. l,‐、i三三三' ,. -"二三,、: : : : : . -"二三-
.i lll三三三 ´;ィ彡'",ニ、`ヾ、、: : : ;彳"ニ、ヾミ、、:
!三三三 .::メ《″(::🌀:) ,l:ヾ、: : ,イ'ヘ,.(:🌀::) ゞヘ、:
三三 : : : ::``ーゞ='-‐'"ンソ、 ´``'-`''‐="‐'"´:: :
ヾ三ミ : ::`ー---‐'''"´: :ノ : : ヾ、
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l:;:;:l゙リ:;:;:;:;:;l : : : : : : ,,r'" ヽ }, l
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ヾヽニンl;;l : : : : : .;';';';';';';';';';';';';';';';';';.,. l. ,'
l:;:;|: : : : : : : : : ', ヾ〒〒〒〒〒ァ:;' /
"l:: : : : : : : : : ', ヽ±±±ン ;' ,/
. / `丶、:: : :\ ヽ 丶、_ ノ/ /
ドンドンドンドン! 苧疾壺玖嵯夷於饅壺雅簾喜軟蛇絽? 【ステロイド抜けたらガリガリで横チンを公共電波に晒したり
土俵に力水はいたり尻の穴ほじくった手でツッパリして相手をひるませたり
自分で隠し持っていた山響株を兄が盗んだと騒いだりした】人は、
マラも洗わずに被害届を出しちゃったのかね?
この人こそ、実は協会あげての片八百長で夥しい星を献上してもらっておきながら
何を勘違いしてるのかねえ 970 :コ−ヒ− ◆VMSHVHTgws :2017/11/30(木) 14:10:06.64 0
今の借金いくらなん?
971 :底辺 ◆49ci.4gb8c :2017/11/30(木) 14:15:21.43 0
450万くらいだね。
親には、ほぼ頼ってない。
974 :コ−ヒ− ◆VMSHVHTgws :2017/11/30(木) 14:20:57.29 0
450万の借金て相当だよ
どうやって返すつもりなん?
もしかして奨学金なのか
975 :底辺 ◆49ci.4gb8c :2017/11/30(木) 14:23:23.73 0
>>974
消費者金融
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/philo/1509417474/960- 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27) >>368
俺は日本が嫌いだが、やっぱり特別な国だと思ったことはない。
他国も、さまざまな良いところと悪いところがあるのだろう。
だから俺は、しかたなく、嫌いな日本に住み続けてるんだ。 富岡八幡宮の宮司がテロで心肺停止ということだが・・・
反日本会議、反神社本庁の声明を出したばかりだから、憶測を生むのは間違いないね。 >>378
右翼の行動にはいつでもお金が絡む。
右翼の一番大切なものは、お金。 526 :可愛い奥様 :2018/01/06(土) 20:12:08.92
自分に当てはまる事検索すると発達とかサイコパスとか出てくる 下記は“世界思想”だと思います。
2000年の少し前頃に発刊され、アメリカで異例のベストセラーになり、日本でもベストセラー、
いまや30数カ国以上に翻訳されて読まれているニール・ドナルド・ウォルシュ氏の『神との対話』シリーズ。
もし本当に「神の存在と恩寵」を確信したいなら、まず正しい「神の理解」が必要です。
単なる読書本ではなく、人生の観方と体験が変わるスピリチュアル本ではありますが、
思索的な哲学書として読んでも面白いと思います。
《10分ほどで読めて分かる『神との対話』》
https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
35PUA >>302
確かに物質的には西洋文明の方が優秀でしょうが
精神的には東洋
特に日本古来の文明の方が優れていますよ >>385
精神的に東洋、日本古来の文明が優れているという根拠はなに?
物質文明については、現実にある物を比較すれば容易に確認できるけど。 うわっ、東洋思想と西洋思想って極めると
両方同じこと言い始めるの知らないのかね? ただのものの見方の違いなだけでしょ
東洋思想は円を意識してるし、西洋思想は直線を意識してる
でも、人間であることは同じだから結局同じことを言い始めるのは道理なんだよね
つまりは、思想って螺旋状になってる訳だけど、分からない人多いよね >>388
ものの見かたを思想という。
見かたが違えば思想が違う。 >>389
具体例は忘れちまったわ
覚えてる範囲だとカントみたいなこと言い出したり
キルケゴールみたいなことを言い出したりし始める >>390
回転する螺旋状の物体を横から(時間軸を基準に)見るか
上から(輪廻転生だとか流転を基準に)見るかだぞ
確かに西洋は客観的に東洋は主観的に見てるけど、
同じ人間を表現してる思想なんだから
共通点が出てくるのは当たり前じゃないか >>391
>両方同じこと言い始めるの知らないのかね?
それでは大威張りで御託を並べるのはやめたほうがいいよ。 >>392
上とか横とかいうことになんの意味もないし、対称させてる概念がめちゃくちゃだよ?
ちなみに、転生も流転も時間軸だ。
同じ人間を見ても違う捉え方をするから、思想が成立するんだよ。 >>393
御託ではないから大威張りしてるんだよなぁ…
これ、高校倫理程度の知識なのに嘘つきみたいな扱いをするのなお前
>>394
別に輪廻転生が時間軸でないとは言ってないぞ
時間軸+αで西洋思想とは違って明確な区別をしてないだけだぞ
その中で、西洋哲学ではパトスを重視する流れが出てくるし、
東洋哲学で理性を求めるっていう明確な区別を重視する思想の流れが生まれるんだ
まあ、昔の中国の話だから、ほぼ東洋哲学は進歩が止まっちまったけどな
日本は江戸以降はずっと朱子学中心だからパッとするような発展はないしね >>395
時間軸+αってなに?
パトスを重視する西洋哲学って誰?
東洋哲学で理性を求めたのは誰? http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56509?page=2
>私の担当科目「現代政治理論」で扱ったテーマのなかで、
>今年ダントツで評判が悪かったのが、藤田省三だった。
>丸山眞男のもとで学び、高度経済成長による日本社会の変容と批判的に対峙した思想家である。
>講義では「離脱の精神――戦後精神の一断章」(1978年、『精神史的考察』所収)
>を紹介したが、「抵抗」なきデモクラシーは「翼賛」になりかねない、と主張する藤田に、
>共鳴する学生はほとんどいなかった。
>最後に学生に書いてもらったオピニオン・シートには、
>藤田に対する違和感と嫌悪の言葉が並んでいた。「たんなる老害」というコメントすらあった。
>「公的なもの」の喪失を危惧するハンナ・アーレントの評判は決して悪くない。
>しかし、彼女とともに「全体主義」について考え、
>経済的な豊かさという「安楽」にすら「隷従状態」を見た思想家は、いまどき受け入れがたいらしい。
藤田省三よりかは橋川文三の方がええわ。 もっと言えば、本多延嘉とか鳴海清とかの方がすごいと思うわ。 >>397
なんだか知らないけど、藤田のほうが正しいのは、現在の安倍政権が証明してるんじゃないか?
学生が、特に日本の学生がバカになってるだけだろ? まあ、ネット依存で物質主義に毒されてる可能性はあるわな。
形式的には出席とかアクティブラーニングで大学への参加が求められてはいるが。 正直言って、今の大学生は、講義や演習で求められる読書を必死に行う以外に
エッセイとか文学に嵌りすぎない方がいいかもしれんね。硬い本ならともかく。
卒業後に硬い本を買って読む時間の取れる身分になれるかどうかが大事だと思う。 「古来の大思想家は無欲ではなく大欲を説いた」というのは夜話巻の5(二宮尊徳)にある。
大欲とは何か。「国家を経営して、社会の幸福を増進する」ことである。
小欲を捨て大欲につくー石橋湛山 聖人は無欲と思へども然らず、其の実は大欲にして、
其の大は正大なり・・・・二宮尊徳
https://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/diary/200905120001/ 蒼頡(そうけつ):中国伝説上の漢字の発明者
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/53/Cangjie2.jpg
“これは、中国で漢字を発明したと言われる蒼頡という神話上の人物です。
絵を見るとわかるように、蒼頡は四つ目の人物として描かれています。
中国の伝説では、蒼頡は非常に目がよくて、さまざまな動物の足跡などを見分けて
それをもとに漢字を発明したことになっています。”
― 『新記号論:脳とメディアが出会うとき』 石田英敬、東浩紀 (2019/3/3) https://kotobank.jp/word/不束-619363
不束(読み)フツツカ
ふつつか【不▽束】
1 気のきかないさま。行きとどかないさま。不調法。「不束な点はお許しください」
2 太くて丈夫なさま。
「いと大きやかに、―に肥え給ひつるが」〈宇津保・蔵開上〉
3 太くてぶかっこうであるさま。
「指の―になるを厭(いと)ひて」〈浮・禁短気・三〉
4 風情がなく、下品であるさま。無骨。
「山賤(やまがつ)の焚(た)き木を負へる如くなる、いかにも―なる我が身に」〈仮・竹斎・上〉 「ひそ(秘)か」が、「ひ(秘)せられた様子」なら、
「おろそ(疎)か」は、「おろ(下)された様子」ということかな? 私の主語が「天」になるような生き方をしてみてはどうだろうか。
批評家の若松英輔氏は、私の主語が「天」になるような生き方をしてみてはどうだろうかと、
内村鑑三が『代表的日本人』の中で言っているように思うと述べている(『100分de名著 内村
鑑三 代表的日本人』 P.25 NHK出版)。 パチンコ スロット うちこ募集
三万円日払い可 +報酬 『詩経』と『古今和歌集』
“天地を動かし、鬼神を感ぜしむるは、詩より近きはなし”
― 『詩経』 大序
↓
“天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、
男女の仲をもやはらげ、たけき武士の心をなぐさむるは歌なり”
― 『古今和歌集』 仮名序
『詩経』 目加田誠 訳、講談社学術文庫 (1991)
『新版 古今和歌集 現代語訳付き』 高田裕彦 訳、角川ソフィア文庫 (2009) しかし、ここ数年、明治以降の日本の哲学者や仏僧がどんどん文庫化されている。
良い本が多いので、やはり、日本の出版社の知識はすごいのだろうと想像する。
出版に関わってる人が先に読んで理解しているはずなのだ。
田辺元、大西祝、波多野精一、井筒俊彦、山崎弁栄、鈴木大拙。
ぼくが気づいただけでもこれだけ。
本当に、どんどん良書が出ている。
岩波文庫になった哲学者たち。
2010年:田辺元選集
2013年:波多野精一
2014年:大西祝選集
2016年:鈴木大拙
2018年:山崎弁栄
2019年:井筒俊彦 柳田国男はタピオカを食べていた
「たとへば私の家の朝飯には、折としてタピオカを食ふことがある。」(柳田国男『民間傳承論』現代史學大系第七巻、共立社、1934、P76)
https://i.imgur.com/Gjbm8uM.jpg 「〜するな」という禁止の「な」は、「な〜そ」の「な」に由来する。
この「な」は、中国語の「哪(那)ピンインnǎ」に対応しているだろう。
中国語−英語辞典を引くと、「哪」の英訳として、"where"、"which"、
"any"、"how"などが記載されている。ゆえに「どこ」、「どっち」、
「どの」、「いずれの」、「どのように」などの表現に対応すると考えら
れるが、より単純には、「なに(何)」の「な」でもあると考えることが
できるのではないか。「な〜そ」の「そ」の方は、「す(る)」という
動詞の古い命令形であるとされる。現代の日本語にするなら、「そ」は、
「〜して」という命令形に相当するのではないか。
すると、「な〜そ」は、「〜」を省いてつなげると「なそ」⇒「なぞ」
ということになるが、これは、古語において、反語として「どうして
(〜するのか)?」という意味になる。「な」が、「どう/how」に相当
し、「そ」が「〜して」に相当すると考えるなら、「なぞ」が「どうして?」
になるのは当たり前のことであるとも言える。方言では、「なして(〜するか?)」
という言い方もある。したがって、禁止の「な〜そ」は、「どうして〜するのか?」
⇒「〜しないでくれ」を表現していると解釈することができ、「〜するな」と
いう禁止の「な」は、反語的な疑問に由来することになるだろう。 https://cjjc.weblio.jp/content/哪;
哪(那)
ピンインnǎ ⇒ [異読音] ・na,né;那Nā,nà
副詞 (反語文に用い,結果として否定を示し)どうして…であろうか,
…であるはずがない,…であるものか.
用例
天下哪有这样的事?=世の中に(どうしてこんな事があろうか?→)
こんな事あり得るはずがない. 明示的に輸入された漢語の場合以外に日本語と中国語の対応関係に気づきにくい
とすれば、それは、漢字に頼り過ぎているからであり、さらに、単語の対応という
考え方に囚われて、言葉が表現であることを忘れているからだ。
また、日本語が。どれほど広く、深く中国語の表現を利用していたにしても、
日本語は、中国語が変化して形成されたものではない。そのような仕方で
日本語が形成されたなら、いくら中国語が地域的に多様であり、時代的に
変化しているとはいえ、中国語を学んだ人には誰にでも、日本語は中国語
のヴァリエーションに見えることになるだろう。中国語⇒日本語のような
「系統関係」で考えたのでは、あまりにも違いが大きすぎるので、日本語
の祖語は古代の中国語であるというような説が有力になることはなかった
のだろう。
その一方で、古代に日本列島で全体で共通する何らか原日本語が話されて
いて、その原日本語に古代の中国語の単語が大量に入ってきて広く用いられる
ようになったのだと仮定するような考え方も説得力をもたない。無論、
日本列島で生活する人々は、いつの時代でも何らかの言葉を話していたはず
であるが、それがどのような言葉であったのかは、日本列島で使われていた
ことが現在、分っている言語から遡って類推する他なく、そのような言語
として知られているのは、現代の日本語につながる歴史的な日本語と、
アイヌ語として括られる言語しかないのである。しかし、歴史的な日本語は、
原日本語としてアイヌ語に近い言語を想定して、その発展形態として説明
できるようなものではない。 日本列島に住む人々が共通で原日本語を用いていたはずであるとするような
考え方は、その具体的な根拠を示すことができないかぎり、幻想に過ぎない。
しかし、歴史的な日本語は、日本列島という広い地理的範囲にわたって高い
共通性を見せている。その共通性は何によるのか。
「共通性を遡るなら、共通の祖先に辿りつくはずである。」そう考えるのが
系統論の発想である。方言の比較研究をしなくても、共通性の認められる表現
を比較検討するなら、「語源」と認識され得るような表現としての共通性を
類推することが可能となる。そのような類推によって「語源」と見なすこと
ができるような表現の発音とイメージを抽出してみると、日本語の日常的な
表現の根幹を成すと感じられるような部分まで、中国語の表現との対応関係
を見出すことができる。にもかかわらず、既に指摘したとおり、日本語は、
中国語が変化して形成されたものであるようにはまったく見えない。
したがって、明白に現れていくる表現の対応関係にもかかわらず、中国語
の表現を、日本語の表現の「祖語」と呼ぶことはできないだろう。
日本語は、中国語をその言語的な祖先としているのではなく、中国語の
表現を利用しているのである。しかしながら、中国語の表現を利用する際、
利用する側の主体としての「日本語」は、「原日本語」と呼べるような身元
を有さないのである。だからこそ、中国語の表現を「日本語」に対する
外来の要素と見なして、それを取り除いていっても、「原日本語」が
正体を現すことはなく、その根幹であるように見える部分まで消え去って
しまうのである。「原日本語」と呼べるようなものが存在するとすれば、
それはまさしく、中国語の表現を利用することの共通性によって形成され
ているであり、その用法の様態こそが日本語の身元として認識されるのだ。
ウィトゲンシュタインを引くまでもなく、言葉の意味とは、その用法
であり、用法の共通性により、言語の共通性が「身元」として現れるのである。 仮に、古代の日本語と呼べる言葉の用法がほとんど全面的に中国語の
表現を利用したピジン語として形成されているとした場合、そのように
形成された「日本語」は、中国語に依存して自律性を欠いた二次的な
言語であることになるのだろうか。
そのように考えることは、中国語の表現をピジン語として流用していた
人々が、実は、中国語を話そうとしていた、つまり、自らの話し方が
中国語の規範を逸脱していることに気づいたなら、その都度、規範に
合せるように自らの言葉遣いを修正しようとしていた、と想定するなら、
確かに正しいだろう。しかし、そのような想定をしなければならない
根拠はどこにもない。
言葉の用法が、すべて他者の表現の流用に由来するという理由で、その
用法に自律性がないと見なすとしたなら、言葉の自律性、さらには
自律性そのものについての理解が間違っている。言葉は、それが
表現として通じてしまうなら、通じるように使われること自体によって、
否認しようもなく自律性を生じてしまうのである。 そのように否認しようもなく生じてしまう自律性の認知を抑圧し、隠蔽する
ために用いられる常套手段が、そのような自律性の認知を、あらゆる規範の
受け入れの拒絶と等価であると見なして、暗黙にすり替えを行ったうえで
批判する、いわゆる「相対主義批判」であり、この常套手段は、一見、
それとはまったく無関係に見えながら、同じ抑圧と隠蔽を目的としてる
チョムスキーの生成文法の思想の推進と手に手を携えて相補的に用いられ
ているのである。 人は、組織が何かを推進しているのを見るとき、それがまったく無駄なこと
に見える場合でさえ、単純に何かが目的に向かって推進されていると信じて
しまう。そこに大きな錯誤と盲点がある。組織にとって、何かを推進している
という名目で人々をそれに動員するとき、しばしば、最大の目的は、人々の
活動の抑圧と排除であり、明示的に掲げられる目標は、そのための空虚な
名目に過ぎない。 人々がいつでも、空虚な名目を容易に信じてしまうのは、組織が推進する
目標に向かって貢献しているように見えるように協力することが、組織の
下で生きる限り、自らの生活条件を優位に保つのにプラスに働くからである。
このことは、それまで属していた組織が転覆してしまい、人々が新たな組織
の管理下で生活することになって、それまでとは逆の名目が掲げられる
ことになったとしても変わらない。 誰かが、その時に勇気を出して本当のことを発言していたなら、こんなこと
にはならなかったのに、というのは常に幻想だ。多くの人は名目が、名目
に過ぎないことに既に気づいていたのであり、流れが変わっていたとした
なら、それにすぐにでも鞍替えをする用意があったことは確かだろう。
だが、それが常態なのである。名目の空虚さに気づかされて、恥じ入って
黙り込むのは、せいぜい、掲げられる名目を本当に心から信じて、その
実現に自分が大いに貢献していると自負している「役に立つ馬鹿」だけだ。 「こんなことにはならなかったのに」と人々が反省を口にするとき、人々は
既に鞍替えを済ませている。そして、新たに掲げられる名目に自ら進んで
協力しているのだ。 少し前に以下のような書き込みをした。
>ところで、日本語の「う」という発音は、「表面」や「表面化」を
>想起させるように用いられており、この「う」の用法は、
>中国語の、「虚 ピンインxū」という発音とイメージをそのまま
>利用したものであると推測することができる。
>訂正します。発音としては、こちらの方ですね。
>https://ja.wiktionary.org/wiki/虚
>閩南語 POJ: hu
確かに、日本語の「う」は、イメージとしては表面化を想起させる
ように用いられているが、中国語の発音との対応関係については、
この書込みは少し先走り過ぎて、歩みを誤っている。特に、
「ピンインxū」に対応すると思ってしまったのは、私がピンイン
の表記法を理解していなかったからだ。このため、日本語の「う」
と中国語の対応関係については、一筋縄ではいかない感じが強く、
さらに探ることをつづける必要性を感じていた。 特に難しいと感じたのは、万葉仮名で「う」に当てはめられている漢字が、
「兎/鵜」などの、中国語では「う」という発音と無関係の漢字の場合
を除いて、日本語の「う」の発音が多くの場合に想起させるイメージと
まるで対応していないことがその理由としてあげられる。私には、中国語
の発音の歴史的な変化についての知識がないので、どのような経緯に
よるものかは知らないが、万葉仮名で「う」に当てられている「宇」や
「羽」は、現代の中国語ではいずれも「ピンインyǔ」と発音される
ようである。 「虚 ピンインxū」と「う」の対応に無理が感じられる一方で、
訂正として書き込んだ、閩南語の「虚」の発音である「hu 」と「う」の
対応関係には、それほど無理は感じられない。しかしながら、このように
恣意的に都合のよい対応だけを選び出してくることは、手続きとして
仮説のネットワークの形成を妨げる。そこで、閩南語の「虚/hu」を
手がかりに、「う」に、より無理が少ないように対応する中国語の
表現が見当たらないかどうかを探ってみたところ、日本語の「皮膚」
という表現における「膚(ふ)」に対応するように中国で用いられてている
漢字である「肤(膚)ピンインfū」に行き当たった。
こちらの方は、想起させるイメージにおいても、その発音においても、
日本語の「う」に対応し得ると考えて、それほど無理がないように
私には感じられる。
https://cjjc.weblio.jp/content/肤;
https://zh.hatsuon.info/word/肤;
https://www.wordreference.com/zhen/肤;
肤(膚)
fū 名 skin
肤(膚)浅(淺) fūqiǎn 形 superficial こういう回り道をすることで、日本語の「浮(う)く」という表現の「う」も
中国語の「浮 ピンインfú」にそのまま対応していて、本来的に「表面化する
様態」、つまり、英語にするなら"surfacing"を表していることがはっきりと
理解でき、さらにそれが、「空虚である」ことを換喩として表現している
ことが分る。
https://cjjc.weblio.jp/content/浮
表面の,表に浮いた.
空虚な,中身のない.
https://www.wordreference.com/zhen/浮
(=表面上) superficial
浮面(麵)
(=空虚) empty
浮夸 fúkuā >>435
私自身、以前に以下のように指摘しているので、なぜ、日本語の「う」に
対する中国語として「浮 ピンインfú」を真っ先に思い浮かべなかったのか
不思議だが、これを書き込んだ当時は、中国語のことなど念頭になかった
ので、連想のネットワークにおいてつながっていなかったのだ。
>同じ「さ」という要素が「さ(≒removing)る/さ(≒revealing)る」という
>関係で、同じ「う」という要素が「う(≒filling)め/う(≒surfacing)く」と
>いう関係で、それぞれ互いのインデックスとなるように用いられることを
>もたらしている。 単語の対応で重要なのは、身体関係の言葉といわれている。
その他は他の地域の文化からの影響の可能性があって、時代を遡ることが難しい。
面白いレスが続いているが、万葉集は朝鮮語(中国語)だった、というような安易な結論を導き出すことがないように気を付けてほしい。 中国の漢字として「う」の発音とは何の関係もない「兔/兎」や「鵜」が
日本語において「う」と読まれるのは、以前から指摘しているとおり、
これらの名称が、以前から指摘しているとおり、「表面化すること」≒
"surfacing"を表しているからである。
「鵜」が潜水艇のように水から「『浮かび上がってくる』動物」である
ことをイメージするのは容易だろう。「兔/兎」が同じように「『浮か
び上がってくる』動物」であることが直ちに感じられないとすれば、
それは、ペットとして飼われているような環境で飼育されている
ウサギをイメージしてしまうからであり、言うまでもなく、古代の
「兔/兎(う)」は、草叢に身を隠して、時折、飛び跳ねて姿を見せる
野生のウサギを指しているのである。そのように姿を「垣間」見せる
ことが、「ウ・サギ」の「サギ」によって表されているのであり、
この「サギ」は、古典で誤って解釈される、あるいは解釈が意図的に
捻じ曲げられて隠蔽されている「見さく」の「さく」と同じもの
である。 >>437
そのような誤った理解に対しては、既に>>424-426で十分に答えている。 >>439
利用という概念では、ただの外来語の受容に過ぎないが? >>438
ところで、「うさぎ」という名称が「う(≒表面化/surfacing)」+
「さき(≒裂き/間隙/interstice)」のようなイメージを想起させるもの
であることを理解すると、『古事記』に出てくる「稻羽之素菟」
(稲羽の素兎)の説話が、「うさぎ」という呼称を利用した
言葉遊びに基づいていることが分る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/因幡の白兎
兎は、八十神に「海塩を浴び、山の頂で、強い風と日光にあたって、
横になっていることだ」と教えられた通りに伏せていたが、
海塩が乾くにつれ、体中の皮がことごとく裂けてきて >利用という概念では、ただの外来語の受容に過ぎないが?
既に明確に答えているが、利用が日本語を形成している。
それ以外の外来語を除いた原日本語の存在は確認できない。 >>441
口承筆記である古事記に言葉遊びが入る余裕はないと思うが? >>442
原日本語の存在を確認できないというのは、外来語の受容を日本語と外国語との類似と混同しているから、根拠が薄い。
特に日本語は、中国語と比べて著しく音数が少なく、一つの音で多数の意味を持ってしまっているので、偶然の類似多くなる。
万葉集は朝鮮語だったという議論を作った根拠が日本語の音数の少なさ。 >>445
日本語を論じるときの注意点を指摘してあげてる。 >古事記に言葉遊びが入る余裕はないと思うが?
言葉遊びだらけだが? 既に明確な具体例を詳しく例示しているし、それが理解できないようなら、
あなたに判定してもらう必要性がない。 >>449
古事記のウサギが言葉遊びだという根拠は皆無。
思い込みの決めつけが理解されないと怒るのでは、ただの子供だ。
だから、君の記述に注意を促した。 批判は、盲点を突くようなものであるなら役に立つが、結婚しても
いない人間に対して、"Stop beating your wife!"と警告するような
ものは、相手にする価値がない。相手にされなくて気分を害するなら、
別にそれはそれでいい。私の知ったことではない。 >>451
僕は気分を害したりしてないw
自分の論点の欠陥を指摘されて怒っているのは君のようだ。
冷静に自分の記述を考え直せばいいことだ。 言葉遊びの構図を見て取ることができないと文句を言っているのは
あなたであり、何を考え直す必要があるのかまったく不明である
うえに、自分がそれを認識できないからといって、不特定多数の
他の人々を代表してあなたが判断する必要性もない。そんな
ことは、便所の落書きを目にする各自に任せればいいだけのこと
なのだから。 >>453
>言葉遊びの構図
それが思い付きの決めつけ、つまり妄想だと言ってる。
便所の落書きとはいわないが、万葉集は朝鮮語でできているという思い付きと同じレベル。
だから、冷静に、自分の記述を考え直せと注意した。 別にあなたが私の書き込みを妄想だと感じるのは別に構わないですよ。
あなたに、不特定多数の人々の判断を代表してもらう必要がないという
だけのことです。さらに、あなたがいくら私の書き込みを妄想である
と強く感じたところで、それに同感するように私を導くことができる
根拠をあなたが示せないのであれば、考え直すべき理由は私にはない。 >>455
君の思い込みは他人の意見を寄せ付けない。
根拠がないから、自分の思い付きをどこまでも進めることができるからだ。
根拠のない話には、根拠がないと注意するしかない。
統失患者の幻覚を注意しても無駄だということは知っているが、君が統失患者であるとは思いたくない。 >統失患者の幻覚を注意しても無駄だということは知っているが、
>君が統失患者であるとは思いたくない。
あなたのような人には、統失患者だと思ってもらっていっこうに構わないし、
それどころか、注意することが無駄だと自覚してもらえる方がありがたいw >>457
僕は、君を怒らせるために書いてるわけではない。
君が感情的にしか反応できなくなっているから、これ以上は書かない。
冷静になったときに、一度は読み返して自分の論の欠陥に思い至ってくれることを期待する。 言葉で表現するとは、事象がどのようであるか(という関連付け)と、
どのようでないか(という区別)が伝わるように徴候/合図を構造化して
使ふことである。 どのようであるか(という関連付け)と、どのようでないか(という区別)が
うまく伝わるように構造化を工夫するのであり、構造化された徴候/合図の
体系によって、どのようであるか、およびどのようでないかが決まるのではない。
構造化された徴候/合図の体系性をできる限り乱さないように表現を工夫する
のは、伝わる関連付けと区別において混乱が生じないようにするためであり、
体系性を規範として守ることによって、伝えようとする関連付けと区別が
うまく伝わらないなら、それを逸脱してでも伝わるように、既存の体系を
変形/拡張しようとする試みが行われる。 うさぎの「体中の皮がことごとく裂けてきて」というエピソードは、
「う(≒surfacing)・さぎ(≒splitting)」という言語表現がどのような
様態を表す言葉として構成されているのかを、文脈をずらすことに
よって伝えようとするメタ言語的なアレゴリーとなっている。 伝達の手法としてのこのような「言葉遊び」を、おやじギャグのように下らない
駄洒落のようなものと考えるべきではない。なぜなら、このような「言葉遊び」は、
単に「うさぎ」とうい呼称の由来を孤立したエピソードとして伝えるものでは
なく、言葉の表現の一般的な分析となっているからであり、しかも、私が、
ここで英語を明示的にメタ言語として利用することによって行っているような
分析を、そのような分析として機能していることに気づかれずに「語り継がれる
べき物語」として伝えているからである。 「うさぎ」の「う」が中国語の「浮(fú)」や「肤/膚(fū)」に対応するイメージ
を利用しているとするなら、「さぎ」、つまり、「さ(裂)く」という表現は、
どのような中国語の表現を利用していると考えられるか少し検討してみた。
万葉仮名では、「さ」に「狭」という漢字が当てられて用いられているが、
発音から見ても、それが想起させるイメージから見ても、「さ(裂)く」の
「さ」は、中国語の「狭(狹)ピンインxiá」に対応していると見てよさそう
である。
https://cjjc.weblio.jp/content/狭
狭(狹)
ピンインxiá
1(多く書き言葉に用い,単語・4字句を作り;幅・面積などが)狭い.
↔广,宽.⇒窄 zhǎi . 実際、そう想定して検索してみると、「宇佐神社」の「うさ」にも、
「菟狭」という漢字が当てられていたことが分る。
https://kotobank.jp/word/菟狭津彦-1057620
菟狭津彦 うさつひこ
古代伝承上の豪族。
宇佐国造(くにのみやつこ)の祖。神武天皇が東征し菟狭(大分県宇佐市)に
きたとき,菟狭津媛(ひめ)とともに駅館(やっかん)川の上流に一柱騰宮
(あしひとつあがりのみや)をつくり天皇をもてなしたという。高魂尊
(たかみむすびのみこと)(高皇産霊尊(たかみむすびのみこと))の孫とする
伝承もある。宇沙都比古,宇佐都彦命とも。 私は、このような事実関係を、あらかじめ学んで知っている知識に
基づいて検索して見出しているわけではない。推論の妥当性が仮説の
ネットワークの形成を助けるのである。 https://ja.wikipedia.org/wiki/因幡の白兎
>『因幡国風土記』は現存せず、『出雲国風土記』に記載はない。
>「稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)が淤岐島(おきのしま)から稻羽(いなば)
に渡ろうとして、和邇(ワニ)を並べてその背を渡ったが、和邇に毛皮を剥ぎ取ら
れて泣いていたところを大穴牟遲神(大国主神)に助けられる」 ところで、宇佐神宮のあった地の名前は「菟狭(うさ)」である。
https://www.weblio.jp/content/菟狭
菟狭
読み方:ウサ(usa)
宇佐神宮のあった地。
では、海を渡った対岸の地の名前は何だろうかと、地図で検索して
みると、山口県の宇部市、つまり、「宇部(うべ)」であることが分る。
そこで、「宇部(うべ)」という地名は、「宇佐/菟狭(うさ)」と何か
関係があるのだろうかと思って検索してみると、次のような記述が
見つかるが、地名が関係しているとは説明されていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/宇部市
>859年(貞観元年) - 行教が宇佐神宮から石清水八幡宮へ八幡神を勧請する
途中で宇部郷琴芝の浦に行宮が設け、その跡地に村人が八幡神の分霊を祀る
(琴崎八幡宮の起源)。 さて、「た(食)べる」という表現は、「たう(食)ぶ」という古語に由来する
と考えることができる。この場合、「たう(食)ぶ」の「〜ぶ」は再帰形を
表しているので、既に繰り返し指摘した私の想定では、中国語の「复(複)
ピンインfù」を流用している。したがって、「食べ」の「べ」も、活用形
として発音は「ふ/ぶ」から変化しているものの、やはり「复(複)ピンインfù」
に相当すると考えられる。万葉仮名を調べると、「へ」の発音に「返」および
「反」が当てられていることが分るが、これは、そのように「へ」の発音が
再帰形の活用形として用いられていることを反映しているのではないかと
思える。実際、「か(交)ふ」に対して、「かへ(返)る」、「かへ(返/反)す」
という表現が存在する。
すると、「宇部(うべ)」という地名が「う(生/産/初)ぶ」という再帰形の
表現に関係するのではないかと考えても、必ずしもこじ付けとは言えないだろう。