日本思想 [転載禁止]©2ch.net
身内の不幸をはじめとした次々と自分に降りかかる災厄にへこたれず思索し続けた人 ってだけでも西田は凄い人だと感じられる。 西田はこちらで解説書から全集の通読までやってる 【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】 [無断転載禁止]©2ch.net https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1494594731/ 有名な歌が多く、百人一首の元になっている『古今和歌集』と『新古今和歌集』はペアでやる。 それより古い形になるのが『万葉集』。 迷ったら、この三つは、角川ソフィア文庫にあるものが、手軽で註もしっかりしている。 その他は、講談社学術文庫、新潮日本古典集成など。 『百人一首の秘密:驚異の歌織物』 (1981) 『百人一首の世界 新装版』 (1986) 林直道、青木書店 百人一首をテーマ毎に10×10に並べると、一枚の大きな絵になるという話。 https://i.imgur.com/W9dU6hE.png ↓ https://i.imgur.com/qMTQvKq.png ↓ https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/e0/3ce3c037d9c29a6376d9eee7d6a82edb.png 哲学の世界では丸山圭三郎が取りあげた(『丸山圭三郎著作集3』「言葉と無意識」)。 ソシュールのアナグラム研究と比較をして。 井筒「私は、元来は新古今が好きで、古今、新古今の思想的構造の意味論的研究を専門にやろうと思ったことさえあるくらいですから」 ― 井筒俊彦×司馬遼太郎「二十世紀末の闇と光」 『未来哲学:創刊号 特集・未来哲学とは何か』 未来哲学研究所 (2020/11/25) 末木文美士、山内志朗、中島隆博 思想の冬の時代に、あえて船出する思想誌です。希望を語ろうとするのではありません。 そのこと自体が主題となるほどに困難であるからこその挑戦──手がかりは、非西欧の思想圏への、あらためての着目です。 イスラーム、東アジア、ロシアその他の地域の見えなくされた可能性を掘り起こし、思想の風景を描き直すカギを探します。 希望とは何か、終末とは何か。一つの大きなサイクルが巡り終えたかのような、薄暮に閉ざされた時節を超えるために。 <特集・未来哲学とは何か> 前近代・ポストモダン・超近代、あらためて一つの時代区分ではない、思想の、生き方の「近代」を問う。 創刊の言葉 〈哲学〉は〈未来〉に船出できるか? 末木文美士 特集 未来哲学とは何か 1 通底する存在と情念──中世から未来を問うために 山内志朗 2 未来哲学としての東洋哲学 永井 晋 3 来者を思う──哲学の希望 中島隆博 対話 時間軸上の希望とフロンティア──世界哲学と未来哲学 中島隆博・納富信留 コラム 太古の化石林、未来の生態系 辻誠一郎 『バビロン天文日誌』と未来予知学 三津間康幸 二〇世紀の天動説──ロシア宇宙主義のヴィジョン 細川瑠璃 論考 仏教認識論の射程──未来原因説と逆向き因果 護山真也 存在と本質──中世的なるもの 小村優太 AI・仏性・倫理 師 茂樹 モノたちが互いに区別されて存在している世界 法貴 遊 ──アシュアリー学派の行為論と偶因論── 革命・国家・悪──田辺元の実践哲学 田島樹里奈 書評と対話 思想史を書く枠組みをめぐって 葛兆光+末木文美士 185考える名無しさん2020/11/29(日) 11:21:34.350 「『ぢ/じっ』としていろ(≒"hold still")」や「『ぢ/じっ』と見つめる(≒stare at/gaze into)」などの表現における「ぢ/じっ」が流用したのは、中国語の「执(執)ピンインzhí」となった表現だろう。 https://en.wiktionary.org/wiki/ 執#Chinese Middle Chinese: /t͡ɕiɪp̚/ Old Chinese (Baxter–Sagart): /*[t]ip/, (Zhengzhang): /*tjib/ Min Nan (Hokkien, POJ): chip, (Teochew, Peng'im): zib4 それに関連しているのが、日本語にも漢語として取り入れられている 「蟄居(ちっきょ)」の「蟄」という表現である。 https://en.wiktionary.org/wiki/ 蟄 >>492 沖縄には「勢理客」という地名がある。なんと読むのだろうか。 その答えは、「じっちゃく」である。 「じっちゃく」が表現として何を表していたにせよ、それを表記するのに 用いられている漢字「勢」を構成する「埶」が、「執」とよく似ている うえ、「じっ」と読まれていることから見て、共通する表現であり、 なんらかの中国語の表現の流用である。実際、中国で用いられる漢字を 参照すると、「埶」と「執」はともに「执」として簡略化されて表記される 場合があることが分かる。 したがって、 https://ja.wikipedia.org/wiki/ 勢理客 >「じっちゃく」という読みは、「せりきゃく」の沖縄方言(母音の「e」→「i」、 子音の「k」→「ch」)読みである「しりちゃく」が、濁音化・音便化したものである。< という一般に流通している説明は、誤りであるか、あるいは意図的な隠蔽であるものと 私は考える。 https://userweb.mmtr.or.jp/sumiyoshi-do/tetugaku (jinsei)17.htm >縦欲之病可医、而執理之病難医 >縦欲の病は医すべし、而して執理の病は医し難し『菜根譚』 「執」の代わりに簡略された「执」で「执理」を検索すると、 多くのサイトがヒットする。 >「法执重而不去践行佛法,便是执理废事」 「勢理客(じっちゃく)」の「勢」は、本当は「執」と表記されるべきもの であったのではないかと仮定して、「執理客」と書き換え、さらに 「執」を現代の中国で用いられる簡体の「执」に置き換えて「执理客」を 検索すると2件だけヒットするようだが、私は中国語を知らないので、 それがどのような用例なのか明確には分からなない。ただ、 「勢理客(じっちゃく)」が「执理客」に対応すると想定した場合、 「執/执」は、「執念」のように「執着」の意味合いや、 「『じっ』としている」のように「保持された様態」を表すように 用いられているのではなく、「執行」のように「執り行う」ことを 意味するように用いられているのだろうと思われる。すると、「客」 は、「ゲスト」というよりは、「刺客」や「論客」などのように >ある能力で生計を立てる者< https://ja.wiktionary.org/wiki/ 客 や、あるいは、「あるカテゴリーの人々」を表すように用いられている のではないかと推測される。ただし、「勢理客(じっちゃく)」が 実際にそのような表現として地名となったのかどうかは、当然のことながら、 歴史的な検証が必要である。 「あし(足)」や「葦(あし)」が、「あしひきの(≒”lofty”)」の場合と同様に 「高く離れている」ことを表現していることは、既に何度も指摘してきた。 587考える名無しさん2020/10/06(火) 09:33:41.340 話が横に逸れてしまったが、ここで問題にしているのは、指示詞の「あ」であり、 「あなた」の「あ」である。この「あ」は、中国語では「岸ピンイン àn」 (1(そそり立って)高い.2 尊大である.⇒傲岸 ào’àn ) として用いられた 表現の流用であると考えられることを、私は以前から指摘してきた。 https://en.wiktionary.org/wiki/ 岸 Old Chinese (Baxter–Sagart): /*[ŋ]ˤa[r]-s/ (Zhengzhang): /*ŋɡaːns/ 現代の日本語で用いられる「岸」という漢字からは少しイメージが湧きにくいかもしれないが、関連する漢字として用いられてきた「崖」をイメージしてみるといいだろう。ちょうど、水面(みなも)から、そそり立つ断崖を見上げるイメージである。想定される古代の発音が「岸」と近い「仰/卬」の用法もそれに関連しているはずだろうと私は思う。 https://en.wiktionary.org/wiki/卬 ; 卬 (literary or old-style Xiang) I Alternative form of 昂 (áng). to raise high To admire, or look up to (someone) ところで、「勢理客(じっちゃく)」には「神アシャギ」と呼ばれるものが存在する。 「あしゃぎ」は、現代の標準の日本語の発音にすれば、「あしあげ」に相当し、 その語源は、「民間語源説」によって以下ように解釈されているとのことである。 http://yannaki.jp/kamiasagi01.html >神アサギは地域によってアシャギやハサギと呼んでいる。その呼称から「屋根に 足をつけてあげる」ことに由来するとか、「神にご馳走(アシ)をあげる場所」 だからという。久志の汀間や大浦や瀬嵩などの神アサギはかつて海浜や潮がくる 場所にあったことから「足上げ」だと解しているようである< 言うまでもなく、表現を素直に解釈するなら、「神アシャギ(あしあげ)」の 「あし」も、枕詞の「あしひきの」の「あし」と共通であり、「高く離れた様態」 を表現しており、「あげ」は、そのまま「上(あ)げ」であり、 「神アシャギ(あしあげ)」は、単に「神を高く上げること」つまり、 「神をうやま(敬)/おが(拝)む行為のための場所」を意味している。 本当はよく分かっているはずのことを隠蔽しようとするから、簡単に解釈可能な 表現も「由来のよく分からない不明な表現」とされ、さらにそれを語呂合わせで 説明する民間語源説が、誤誘導のために一般に広められるのである。 >>498 「アシャギ(あしあげ)」という言葉をイメージするのに、例えば、 用法は異なるものの、「高揚/昂揚(こうよう)」という表現を考えてみるといいだろう。 放送終了後の長谷川博己も、そのことを匂わせていた。 長谷川博己さんから、みなさんへ。ラストメッセージをお届けします。 https://twitter.com/nhk_kirin/status/1358400195889946625?s=19 ・光秀は生き延びたんだと信じたい ・番外編でお会いできたら嬉しい ・このあと、どうやって光秀は江戸幕府を作ったのか? https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 説の真偽はともかくとして、 ↓などは、タイトルと重なる。 天海所用とされる兜『麒麟前立付兜(きりんまえだてつきかぶと)』 https://pbs.twimg.com/media/EtoUCzUVgAMQvLd.jpg 『現代思想 2020年1月臨時増刊号 総特集=明智光秀』 エンゲルスの『ドイツ農民戦争』の話とか 歴史はこうやって哲学を以て読むべき ロマンではなくて 377考える名無しさん2021/02/08(月) 13:19:12.240 振る舞ひに伴って生じる"accountability"に人々を納得させられる ような形で都合よく応える物語("storytelling")が歴史である。 『朝鮮思想全史』 小倉紀蔵、ちくま新書 (2017) 朝鮮思想史を概観すると、思想の純粋性をめぐる激烈な闘争が繰り返し展開されてきたことがわかる。 思想闘争は政治闘争と直結し、その様相は朝鮮時代の儒教や、解放後の韓国と北朝鮮のイデオロギーに典型的に見られる。 そしてその思想の純粋志向性はやがて運動となり、国家や共同体の成員の肉体的生命を超え 「朝鮮的霊性」が燃え上がる―それが現代の韓国・北朝鮮の激烈な思想運動にもつながってきた。 朝鮮思想をできるだけ客観的に捉え、全体を俯瞰するはじめての試み。 第1章 朝鮮思想史総論 第2章 神話および「古層」 第3章 高句麗・百済・新羅 第4章 高麗 第5章 朝鮮時代1―朱子学(性理学) 第6章 朝鮮時代2―「実学」、陽明学、儒教以外の思想 第7章 朝鮮末期および大韓帝国 第8章 併合植民地期 第9章 朝鮮民主主義人民共和国 第10章 大韓民国 『人物でみる韓国哲学の系譜―新羅仏教から李朝実学まで』 金教斌、金明順 訳、日本評論社 (2008) 韓国に哲学があるのか??教え子の質問に衝撃を受けた著者が構想10年、 誰もが予備知識なしに読める韓国伝統哲学の入門書。 思想家を中心に韓国の思想をわかりやすく書いた一冊。 第1章 韓国哲学の道 第2章 元暁―韓国仏教のルーツ 第3章 知訥―至誠を尽くしても砂でご飯は炊けない 第4章 花潭・徐敬徳―ヒバリを眺めて年を送る 第5章 晦斎・李彦迪―論争を通じて性理学を根づかせる 第6章 退渓・李滉―人が馬を行かせるのか、馬が人を行かせるのか 第7章 栗谷・李珥―王の上には民衆が、民衆の上には米が 第8章 霞谷・鄭斉斗―わが心こそ万物の理致 第9章 燕巖・朴趾源―激動の人生を歩んだ北学の祖 第10章 茶山・丁若〓(よう)―土地は、農民にあらずんば所有すべからず 第11章 現代における韓国哲学 『現代思想 2021年5月臨時増刊号 総特集=陰陽道・修験道を考える』 >>514 この雑誌もやること減ってきてだんだんムーみたいになってきたな >>517 マニア以外に哲学を好む人はいないかも。 歴史なら、普通の人が話に乗ってくることもあるけどな 一般人との会話で哲学を話題にするのは、まず無理だ >>515 陰陽道 → 易 → 『易経』「繋辞上伝」 → 形而上学 東洋哲学の根本 伊藤 仁斎(いとう じんさい、寛永4年7月20日(1627年8月30日) - 宝永2年3月12日(1705年4月5日))は、江戸時代の前期に活躍した儒学者・思想家。京都の生まれ。 『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と尊重した。 初めは朱子学者であったが、後に反朱子学となり、孔子・孟子の原義に立ち返る「古義」を標榜した。 古義学(古学)を提唱し、主著として、『論語古義』『孟子古義』『語孟字義』『中庸発揮』『童子問』。 仁斎の学問手法は、当時支配的だった朱子学的経典解釈を廃し、直接テクストを検討するというものである。 朱子学は学問体系としては非常に整ってはいたが、その成立過程に流入した禅学や老荘思想といった非儒教的な思想のために経書の解釈において偏りがあった。 仁斎はそのような要素を儒学にとって不純なものとみなし、いわば実証主義的な方法を用いた。 このような傾向は同時代の儒学研究に共通にみられるものである。仁斎は朱子学の「理」の思想に反して、「情」を極的に価値づけした。 客観的でよそよそしい理屈よりも人間的で血液の通った心情を信頼している。四端の心や性善説を唱えた。 江戸城には将軍直属の儒学者の詰め所があった 官職で式部大輔、式部少輔、大学頭、紀伝博士、明経博士、明法博士、算博士、音博士、書博士、侍講などに就けたのは伝統的に儒者だけだった γνῶθι σεαυτόν/nosce te ipsum/ Know thyself/我(が="self")としての汝/己(な=羅)を知れ 「〜を!」/《vouloir》がかなは(叶/適/敵)ないことがかな(哀/悲)しいからといって、 「わ(侘/詫)ぶ」こと、すなわち、「みづから(身づ柄/自ら)の我(が)が委縮する」 ことを理想とすることなかれ。「わ(侘/詫)ぶ」ことを「我(が)」の究極的な 理想とすることは、生きることに反する。 JDSC 東大ベンチャー AI企業、この国は変えられる。これからは、AI時代です https://jdsc.ai/mission/ この国は変えられる これからは、AI時代です。AIの活用で、日本は変えられる。 アップグレードできる。AIの活用の活用がキーです JDSC 東大ベンチャー AI企業 加藤 エルテス 聡志 MISSION:この国は変えられる。 わたしたちは、日本をアップグレードする。 この国の未来を憂えるのではなく、変えるために、私たちは、日本の英知を結集する。 東京大学の知を社会に還元する ビッグデータ、機械学習、IoT、ロボティックスなど、デジタル領域で東京大学は膨大な知見を有しています。 JDSCは東京大学の複数の研究室と協力し、知の社会還元と実装をリードします。 2022年 テンバガー候補 JDSC 4418 AI銘柄で、東大からみ AI分野の成長は、まだ始まったばかり 半導体株の成長が何年も続いたと同じ 今後のAI分野の成長、楽しみです AI通信@ 今、投資対象として「AI」をどう見るか? 日興證券 https://www.smbcnikko.co.jp/products/inv/toshin_lab/column/002.html AI関連企業の成長物語はまだ始まったばかり 官民の積極的な取り組みが加速するAI https://www.smbcnikko.co.jp/products/inv/toshin_lab/column/img/column_ai_02.png https://manyoshu-japan.com/10059/ >原文:奈我波伴尓 己良例安波由久 安乎久毛能 伊弖来和伎母兒 安必見而由可武 >訓読:汝が母に嘖られ我は行く青雲の出で来我妹子相見て行かむ >かな:ながははに こられあはゆく あをくもの いでこわぎもこ あひみてゆかむ >訳:あんたの母さんに叱られて私はすごすごと退散する。でも青雲のように そっと出てきておくれ私の彼女。一目見て行きたい。 >>523 中国語の漢字の用法として「情」が「心+青」であるのは、 それが「心の行(ゆ)きの深さ」を感じさせるものだからだろうか。 青が深海と結びつくならそうかもな。 それにしても、原武史って今放送大学で教えているんだな。気づいていなかった。 江戸時代以前の原子論、宇宙論、世界観に関心あり。 わかりやすい本、雑誌記事教えてください デジタル源氏物語「AI画像検索」がリニューアルされました!「源氏物語」諸本の検索の利便性を高めるため、くずし字OCRを活用した検索結果を提供してきましたが、対象資料数が約30点に増えました。読みたい個所を効率的に探したいときなどに是非ご利用ください。 https://mobile.twitter.com/UTokyo_GenLib/status/1552094645282549760 https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 日本あああああああああ!の劣化コピー推進委員会(にほん-れっか-すいしんいいんかい,Nihon Aaaaaaaaa! No Rekkacopy Suishin Iinkai 略称NARSI)とは日本在住の活字フェチ達の有識者会議である。彼らは非常に平仮名を愛好しており、平仮名の最初の文字である「あ」を信仰・崇拝する過激派あ教徒である。この委員会のメンバーは主に夜行性動物であるモモンガ、ヤマネコ、コウモリ、アイアイ、タスマニアデビルなどからなる。彼らの指はキーボードを打つのには不適切だが、人間に改造されてロボットアームを取り付けられたサイボーグアニマルであるためノープロブレムである。 彼らと同様の団体は全世界に存在しており、AAAAAAAAA! Association; AAと称される超国家結社である。彼らの正体はスーパーハッカーである真のVIPPERやNEONEETと呼ばれる大富豪であるため、アンサイクロメディア財団へ大金を寄付して管理権を「買う」ことが可能である。 彼らはなぜかウィキペディアンに恐ろしいまでの怨念を抱いており、ウィキペディア攻撃用に田代砲などのF5兵器を大量に隠し持っていると言われているが、彼らは米帝の陰謀であるとして真っ向から否定している。 朝鮮語で「置く」を意味するように使はれる「두다」の「두」と日本語の「あと(跡)」の「と」の間には、前者の声には漢字の「斗」(万葉仮名では、甲類の「と」に当てられる)が対応するものとされ、「跡」は、万葉仮名では、乙類の「と」に当てられるという違ひがあるものの、共通性が感じられる。 これは、朝鮮語と日本語の間の関係というよりも、中国語とも共通する表現における声の用法にその基盤があるのだろうと思う。 >「把」(bǎ)というのは簡単に言うと日本語の「〜を」という助詞です。 日本語では修飾する目的語の後に「を」という助詞が来ます。 「把」構文完全マスター!中国語学習における使い方と注意点 このように説明されているけれど、表現法としては、日本語の「〜を」は、中国語で介助とされる「把」(bǎ)には対応していない。 むしろ、日本語の「〜は」の方が、中国語の「把」(bǎ)に対応する表現の流用であると見る方が自然ではないのか。 朝鮮語の「혹시 • (hoksi)」の「시 」が「或是」の「是」であるように、日本語の「も(若)し」などの「し」も「是」だと思うが。 「そんな・に」の「に」も、「彼呢」のように台湾語では、「呢」で表記される「昵/暱(Middle Chinese: nrit)」の流用だろうし。 「〜や」の「や」は、そのまま「也(Middle Chinese: yaeX)」だし(「である『是』」)。 国語学/日本語学は、とても不正直だと思う。 岩波古語辞典には、どうみてもこじつけの無根拠な朝鮮語起源ばかり記載されているし。 「ひとつ、ふたつ、みっつ」の「つ」も、数詞が中国語の表現をそのまま使っているのだし、「次々」が「つぎつぎ」と読まれるのだから、「つ(次)」だよね。 「〜が」の「が」が、同一性を表現するように流用された「我」であることは以前から指摘してきた。 こうして、逐一、対応関係を洗い出していく作業は、中国語との対比において日本語の表現がどのように形成されているのかを明確に意識するためにも大切だろうと思う。 その作業を丁寧に進めることで、印欧諸語の表現との意外な対応関係も明らかになる。例えば、日本語の「ぬ(貫)く」などの「ぬ」のこゑ(声)は、中国語の「路」、「露」、「漏」、などに使はれる"Middle Chinese: luH"や"Middle Chinese: luwH"などのこゑ(声)に対応していると考へられるが、この後者の声は、例えば、英語の"luck"などの表現における声の使はれ方と共通して、「通り『ぬ』ける様態」を想起させる。 日本語の「わ」、「ゐ」、「ゑ」、「を」について考へてみても類例がすぐに思ひ当たるはずである。 例えば、逆方向で、英語の"way"を日本語の平仮名で「ゑゐ」に移してみると、そのこゑ(声)は、すぐに中国語の「外((Pinyin): wài (wai4))/(Middle Chinese: ngwajH)」という表現を想起させることになるだろう。 「怨(ゑん)」は、うち(内)にこもると「悪(あく)」にかは(変)り、「鬼(おに)」として姿をあらは(顕/現)すようになる。 「ゑゐ」は、"way"の平仮名への転記としては正しくなく、より適切には「ゑい」だが、「ゑゐ」に移してみることは、"way"という表現の"away"や"way-out"としての用法を捉へるのに役立つ。 英語の"want"と、中国語の「願(Middle Chinese: ngjwonH)」と、朝鮮語としての「원(願) (won)」の流用と、日本語の「〜を」という願ひは、こゑ(声)の使ひ方としても互いによく対応しているだろう。 言語系統論には、「それなりの妥当性」が認められるが、しかし、それはやはり「それなり」のものでしかなく、どのような基準により言語が同系統であると分類されるのかは、その考え方の根本においてそれほどはっきりしていない。 「そんなことはない、異なる言語の間で『基礎的な語彙』を比べて、規則的な音韻対応が認められるなら同系統の言語と認められるのだ」という反論があるかもしれないが、そもそも、「語彙に使はれる音韻に規則的な対応関係が認められるとはどのようなことなのか」について十分に深く考察されているとは言い難い。 無論、ラテン語、イタリア語、スペイン/ポルトガル語、フランス語が「同系統の言語」として認められることや、中国大陸の公用語とされる中国語と台湾の台湾語が「同系統の言語」として認められることを否定する人はまずいないだろう。 しかし、逆に、何がどれだけ異なっていれば、別系統の言語であることになるのかは、それほどはっきりしない。 また、系統を判断する際に、比較の対象として「『借用語』は排除する」ことになっているが、どのような表現が「借用語」であり、どのような表現が「固有の語彙」であるのかを分ける明確な基準があるわけでもなく、そのような明確な基準が存在するかのように決めてかかること自体が、「ことばを使ふとはどのようなことであるのか」について根本的に誤った考え方に人を導くことになる。 >訓読み 訓読み(くんよみ)とは、日本語において、個々の漢字をその意味に相当する和語(大和言葉、日本語の固有語)によって読む読み方が定着したもの。 (ja.wikipedia.org/wiki/訓読み) このように、日本語の「訓読み」は、一般には、和語に対応する意味の中国語の漢字を当てたものであると理解されている。 そのように考へると、「音読み」の方は、それが日本語の発声により変化させられているにしても、中国語における漢字の読み方に対応するものとされ、中国語としての漢字にはその「正しい読み方」が決まっているものであるかのように思える。 その一方で、中国語の「方言」、例えば、台湾語の漢字表記を見ると、公用語としての中国語の漢字の読み方には対応しない「当て字」が多く見られる。 例えば、台湾語で「〜している」を表現する"teh"(教会ローマ字表記)や、「〜にある」などの場所を示す表現である"ti"を表記するのに用ゐられる「在」は、公用語の中国語の漢字の用法から見れば、「当て字」だろう。 これらの「こゑ(声)」の用法から見るなら、これらに対応する漢字として、私には「在」よりも、むしろ、「佇」のような漢字の方が想起される(それが適切であるかどうかは別として)。 しかし、では、翻って、公用語の中国語として使はれる漢字の読みについてはどうなのかと言へば、それぞれの読みが公式に定められているとしても、原理的には、やはり、ことばとして使はれるこゑ(声)を適切に表記するために考案されて慣習的に用ゐられるようになった「当て字」であることになるはずである。 例えば、日常語としてもよく使われる「枠(わく)」という表現について考へてみるといい。 「枠」は、中国では用ゐられない日本で独自に考案された「国字」である。 では、「枠(わく)」は、和語だろうか、漢語だろうか。 「枠外(わくがい)」、「枠内(わくない)」、「予算枠(よさんわく)」のような表現を見ると、漢字の音読みと組み合わされているのだから、漢語であるようにも見える。 その一方で、「窓枠(まどわく)」、「大枠(おおわく)で」、「外枠(そとわく)」を「窓枠(そうわく)」、「大枠(だいわく)」、「外枠(がいわく)」と読む人はいないし、「枠(わく)組(ぐ)み」とは言っても、「枠組(わくそ)」とは言わない。 このことから見ると、「枠(わく)」は、漢語ではないものとして意識されていることになるだろう。 これについて、また後でさらに書き込むことにする。 ひと(人/一)として「気まま」であろうとすること、すなはち、「任(/認)性」を具現化しようとすることにこそ、ひと(人/一)としての「まともさ」/"integrity"の追求がある。 >>554 さて、「枠(わく)」は、漢字の訓読みだろうか、音読みだろうか。 「枠外(わくがい)」、「枠内(わくない)」、「予算枠(よさんわく)」などにおいては、音読みされる漢字の表現と一体化するように組み合はされているのだから、「枠(わく)」も音読みであるように感じられる。 これに対して、「窓枠(まどわく)」、「大枠(おおわく)」、「外枠(そとわく)」、「枠組み(わくぐみ)」などにおいては、訓読みされる漢字の表現と組み合はされているのだから、「枠(わく)」も訓読みであるとするのが自然である。 ところで、「音読み」とは、その定義上、中国語として用ゐられる漢字の日本における漢語として読みとされるのだから、「枠(わく)」という漢字が中国で用ゐられてきたものではなく、日本で考案された「国字」であることから、「枠(わく)」は、定義上、音読みではあり得ないことになり、Wiktionaryの記載を参照してもやはり、「枠(わく)」は、「訓読み」であると記載されている。 「国字」の読みを「音読み」とすることは認められないということだろう。 しかしながら、「枠 - ウィクショナリー日本語版」を参照すると、 >「わく」は糸枠を意味する「篗」の字音であろう。 意義 1. いとわく。まわして糸を繰るのに用いる、木を組み合わせた道具。 2. わく。いとわくの様に、木を組み合わせて周囲を囲むもの。 とも記載されている。ここで「いとわく」を漢字表記するのに「糸(いと)枠(わく)」ではなく、「糸(いと)篗(わく)」と表記し、この事例に限らず、一般的に「枠(わく)」という国字を「篗(わく)」で置き換へたなら、例えば、「窓枠(まどわく)」ではなく、「窓篗(まどわく)」と表記することにしたなら、「窓(まど)」は訓読みのままであるものの、「篗(わく)」の方は、その定義上、音読みということになるだろう。 ところで、「窓枠」や「型枠」が「そうわく」、「けいわく」と読まれるのではなく、「まどわく」、「かたわく」と読まれるのはなぜだろうか。 そもそも、「篗(わく)」という漢字が既に存在するのに、わざわざ日本語独自の「枠(わく)」という「国字」を考案したのはなぜだろうか。 それは、「わく」が、既に漢字としてどのように表記されるのかとは無関係に「日本語のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として通用するようになっていて、「篗(わく)」と表記すると、ただちに「糸を巻き取る道具」としての「篗(わく)」が想起されてしまい、不都合が生じたからだろう。 「わく」の用法に対して「篗(わく)」という漢字表記が適当であるとは感じられなくなっていたからこそ、「枠(わく)」という別の漢字を新たに考案することが要請されたのだろう。 その時点で、「枠」と表記することが適当であると感じられる「わく」という「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は、既に中国語として通用する表現である「篗(わく)」を離れて、日本語として独立した表現となっている。 しかし、日本語としてだけ通用する「わく(枠)」が中国語の表現としての「篗(わく)」から独立したことは、これらのそれぞれの「こゑ(声)」の用法の対応関係が失はれたことは意味していないことに留意することも、極めて重要である。 「わく(枠)」は、日本語の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として独立して通用しているのだから、それがもとは、中国語の表現としての「篗(わく)」の流用であったとしても、その中国語の表現に依拠する「借用」ではない。 その一方で、日本語として意識されるようになったこの「わく(枠)」は、にもかかわらず、依然として、中国語の表現としての「篗(わく)」の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」と、そのそれぞれが想起させるイメージにおいて対応関係を保っている。 さらに具体的に説明しよう。 日本で中華鍋として知られる滑らかなドーム状の円形の鍋のことを、英語では"wok"と呼ぶ。 "wok"の"o"の発音は、日本語の母音に移そうとすると、「あ」とも「お」ともつかない中間的なものなので、日本語を母語とする人がその発音を聞くと、「ワク」と聴こえるだろう。 ところで、この中華鍋を指す英語の"wok"は、言ふまでもなく、その鍋を指す中国語の表現の借用である。 Wikipediaで「中華鍋」の項目を参照すると、次のとおり記載される。 >広東語では「鑊」となる、英語も鑊の音をそのままに訳して「ウォック、wok」と呼ぶ。 もう気づいただろう。「鑊(Middle Chinese: hwak)」("wok")は、「金*蒦」という構成だが、「篗(わく)」は、「竹*蒦」という構成であり、これらの「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は互いに共通している。 ここで、日本語の「わく(枠)」という表現まで含めて、これらの「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」がなぜどのように互いに共通しているのかについて説明することはたやすい。 「篗(わく)」については、岩波古語辞典を参照すると、「糸を巻き取る道具。軸木のついた枠(わく)を回転させながら巻き取る。」と記載される。 要するに、「ぐるりと回(まは)す(ことによりその周囲に糸を巻き取る)道具」である。 その道具を指すことを意図する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が、「鑊(Middle Chinese: hwak)」("wok")や「わく(枠)」を指すことを意図する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」とどのように共通するのかは、 例えば、スペイン語の"contornear"という動詞について考へてみれば、直観的にすぐに分かるだろう。 >contornear 1. ...の輪郭を描く、スケッチする 2. 周囲を回る。contornear una montaña 3. [技] 輪郭に沿ってのごぎりを引く (出典: 小学館 西和中辞典) 「鑊(Middle Chinese: hwak)」("wok")と呼ばれる中華鍋は、調理の具材をぐるぐる回しながら調理するのに都合よく工夫された形状の調理器具であり、「枠(わく)」は、周囲をぐるりと輪郭、すなはち、英語で言へば、"contour"である。 ここで、日本語の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として、周囲をぐるりと輪郭/"contour"を表現するものとして通用するようになった「わく(枠)」が、その日本語としての独自性にもかからわず、中国語の表現における「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」との対応関係も依然として(それを特に意図することなく)保っていることは、例えば、中国語の「廓(Middle Chinese: khwak)」という表現について考へてみれば分かるだろう。 >廓 broad; wide; open; empty (literary) to expand; to widen (literary) to clear away; to eliminate outline; contour 輪廓/轮廓 ― lúnkuò ― outline (出典 en.wiktionary.org/wiki/廓#Chinese) さて、「日本語」そのものが全般的に、中国語とも共通する表現から、このようなプロセスにより「独立した言語」として形成されたと想定したとするとどうだろう。その場合、日本語は、中国語と「同系統の言語」ということになるのか、それとも「別系統の言語」ということになるのだろうか。 >>564 ・中国語…シナ・チベット語族 ・日本語…ウラル・アルタイ語族 ・朝鮮語…ウラル・アルタイ語族 ・ドラヴィダ語…ウラル・アルタイ語族 トラヴィダ語は、南インドやスリランカなどに多い、インド先住民の言語。 日本語・朝鮮語とタミル語などドラヴィダ語との比較は以下が詳しい。 現地では、「しめ縄」や「門松」、「鏡餅」、「どんど焼き」の原型とみられるものも見つかっている。 現在のカマラ・ハリス米副大統領がタミル系。 ・大野晋『日本語はどこからきたのか:ことばと文明のつながりを考える』 中央公論新社 (1999) ・大野晋『弥生文明と南インド』 岩波書店 (2004) 南インドやスリランカは、「南伝仏教(上座部仏教、小乗仏教)」と呼ばれる、ブッダの時代の仏教を今日まで継承してきている地域。 日本が中国・朝鮮を経由して輸入した仏教は漢訳された「北伝仏教(大乗仏教)」。 誤:「枠(わく)」は、周囲をぐるりと輪郭 正:「枠(わく)」は、周囲をぐるりと囲む輪郭 その語源がどうであれ、じゃんけんの「グー」は、手のひらを「にぎる」ような凝集性を想起させる「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」である。 では、中国語の「外(Middle Chinese: ngwajH)」は、どうだろうか。 現代の日本語で考へてみても、中国語の中古音として想定される「外("ngwajH")」は、何らかの「凝集が広がりゆく」ような様態を想起させるのではないか。 このように想像力を働かせて、「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が互ひにどのように「を(折)り合ひがつく」ように用ゐられているのかを考へてみることは、ことばがどのようなことを伝へようとしているのかを知るために無駄なことではないだろう。 「凝集が広がりゆく」という表現は、あまりよくないな。 「何かが凝集した状態から広がりゆく」と表現した方がいいだろう。 ことばの表現の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は、それがどのようなことを伝へようとしているのかを知る手がかりとしてとても役に立つ。 私は、中国語の学習者ではなく、興味本位で地元の図書館から中国語のいくつかの「方言」の入門書を借りてきて眺めてみただけだが、それだけでも、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を比較からいろいろなことに気づかされる。 例えば、台湾語の入門書には、「歹勢 ― pháiⁿ-sè」という表現が出てくる。 この表現は、日本語にすれば、「恐れ入る」に対応するような意味で使はれている。 ここで、「歹」という漢字が当てられている"pháiⁿ"という「こゑ(声)」は、「歹」という漢字の字源がどのように解釈されるにせよ、「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」としては、私には、中国語の普通話における「怕( (Pinyin): pà/Middle Chinese: phaeH)」との対応関係をすぐに想起させる。 しかし、それだけには留まらない。 「歹("pháiⁿ")」/「怕( (Pinyin): pà/Middle Chinese: phaeH)」は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において、フランス語の《avoir peur》という表現における《peur》によく対応しているが、このことは、日本語の表現として「怖気付(おじけづく)」という表現を思ひ起こさせる。 現代の日本語では、かな表記は、「おじけづく」とすることが「標準」とされるが、本来、この表現に適切なかな表記は、「おぢけづく」であり、この「おぢ・け」に表現に当てる漢字は、「懼(お)ぢ・け(気)」である。 気づいただろうか。この「懼(お)ぢ・け(気)」の「懼(お)ぢ」の「ぢ」は、「懼(お)づ懼(お)づと」という表現から分かるとおり、既にかなり詳しく検討した中国語の普通話において"Pinyin: r"として表記される「そり舌音の"r"」に対応するものと考へられると私が指摘した「ゆづ(譲)る」の「づ」の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」と同様である。 「怕( (Pinyin): pà/Middle Chinese: phaeH)」には、「〜を嫌ふ」という用法があるが、この場合の「嫌ふ」が伝えているのは、例えば、「羹に懲りて膾を吹く」という日本語のことわざに対応するように使はれるとされる英語のことわざ、"Once bitten and twice shy"の"shy"であり、"shy away from 〜"である。 このことからも、「歹("pháiⁿ")」/「怕( (Pinyin): pà/Middle Chinese: phaeH)」⇔"shy away from 〜"⇔「懼(お)ぢ」という対応関係を見出すことができる。 ここで、岩波古語辞典で「懼(お)ぢ」を参照すると、 >オドシ(威)の自動詞形。相手を恐ろしい物だと思い込んでいる結果、相手の前で委縮して動作がにぶる意 と記載されている。 しかし、このように見てくると、この説明が「論理的に逆立ちしている」ことに気づくだろう。 表現の関係として、「懼(お)ぢ」が「オドシ(威)」の自動詞形なのではなく、「オドシ(威)」の方が「懼(お)ぢ」から派生させられているのである。 このことは、形容詞として英語の"shy"に対応し、日本語の「懼(お)づ懼(お)づとした」に対応するような意味で用いられるドイツ語の»schüchtern«という表現について考へてみれば分かる。 なぜなら、ドイツ語の»schüchtern«に対応する日本語が「懼(お)づ懼(お)づとした」であるとすれば、「おど(威)す」に対応するのが、そこから派生した動詞である»einschüchtern«だからである。 >einschüchtern Etymology ein- + schüchtern + -en, calque of Latin intimidō. 1. to intimidate den Gegner einschüchtern ― to intimidate the opponent (出典 en.wiktionary.org/wiki/einschüchtern#German) このように「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を手がかりとして利用すると、様々なことばの表現が言語の境界を超えて自然にネットワークを形成することになる。 この場合も、中国語の普通話においては、"Pinyin: r"として表記されることになった「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が日本語の表現として取り入られれて、「和語」として広く使はれているだろうことに気づかされる。 ただし、この場合は、「わく(枠)」のようにまだ漢語であるのかそうでないのかという判断のあいまいさを引き起こす事例とは異なり、中国語としてはすぐに対応関係を見出すこともむづかしい、単に日本語固有の表現において用ゐられる「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」としてしか一般に認識されなくなっている。 ひと(人/一)は、「任性」が「忍性」である限りにおいて、つまり、(恁/忍)=(忍/恁)である限りにおいて、ひと(人/一)として「まとも」であり得る。 しかし、大君(おほきみ)と大伴(おほとも)の間では、「ま(任)けのまにま(随意)に」とみづから(身づ柄/自ら)が気をとりなほしてみても、決して(恁/忍)=(忍/恁)というひと(等)しさは成立しないのである。 台湾語で自身に対する相手を指すのに使はれる「恁」について考へていたら、「恁」と「我」の関係性から日本語の古語の「やさし」の用法についてメタ言語的にうまく記述できることが分かった。 これについて後で書き込むことにする。 万葉集 八九三 >「世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」 この「やさし」が伝へているのは、英語を用ゐて説明するなら、"make one to forebear (too much)/require (too much) forbearance"である。 なぜそのように解釈することが妥当であるのか、後でさらに詳しく説明する。 ヒントとなるサイトの記述を引用しておこう。 >forbearing プログレッシブ英和中辞典(第5版)の解説 [形]((形式))〈人が〉自制心がある,がまん強い;寛容な(lenient). >lenient プログレッシブ英和中辞典(第5版)の解説 [形] 1 (人に)寛大な,哀れみ[情け]深い≪with,to,on≫;(事を)大目に見る≪about≫. 2 ((古))(痛みなどを)やわらげる,静める. [原義は「やわらかくする」] しかし、ここで「恁」という漢字を見れば、 相手である「恁」に対して「我」を自認する者に対して、「恁」の様態は、「『我』を『自・認』する者の「任・性」」に対する「忍」となることから既に応へは得られている。 >「また人の奉り代ふるまでは置かせ給(たま)ひて、とり動かすことはせさせ給はぬ。あまりやさしきことなりな」 (出典 大鏡 師尹) この「やさしき」の用法が現代の日本語では通用しなくなっているのは、「やさし」という表現が日本語の古語において本来、伝へていたはずのこと、すなはち、「恁」(≒"lenience")と「忍」(≒"forbearance")のキアスム的に反転する関係性にあり、(恁/忍)=(忍/恁)という反転が成立することが忘れられているからである。 >「我」を自認する者に対して、「恁」の様態は、「『我』を『自・認』する者の「任・性」」に対する「忍」となる 「あまりやさしき」態度を見せることは、「『我』を『自・認』する者の『任・性』」を増長させる。 >impetret, bellante prior, iacentem lenis in hostem >>584 誤:のキアスム的に反転する関係性にあり 正:がキアスム的に反転する関係性にあり 「やさし」を非人称的に「概念化」すると、「ゆづ(讓/让)り」/"yielding"となる。 >>580 誤:forebear 正:forbear >>548 >「また人の奉り代ふるまでは置かせ給(たま)ひて、とり動かすことはせさせ給はぬ。あまりやさしきことなりな」 (出典 大鏡 師尹) このように「やさしき」という表現ににより「寛容」と「忍耐」のキアスム的な反転可能性が伝はることは、日本語の表現法に特有であるわけではない。 そのことは、例えば、ドイツ語であれば、この「やさしき」に»duldsam«という表現がちょうどそのまま対応することによっても明示することができる。 >duldsam 1. tolerant, indulgent 2. meek, submissive (出典 en.wiktionary.org/wiki/duldsam) >「やさし」を非人称的に「概念化」すると、「ゆづ(讓/让)り」/"yielding"となる ドイツ語の場合は、»nachgiebig«となるだろう。 >nachgiebig ❶ 譲歩しがちな,折れる,弱腰の Er ist ein nachgiebiger Mensch.\彼は弱気な人だ. ❷ たわみやすい,しなやかな. しかし、そもそも、「折り合ひ」をつけることを求めていない人々には、いくら方法論を明示し、その有効性の証拠を提示してみせたところで無駄である。 そのような人々に対して、こちら側が»duldsam«な姿勢を自発的に示そうとするなら、単に沈黙させられることになる。 だから、そのような人々は相手にせずに、独り言を延々と言ひ続ける方が幾分でもましなのだ。 ひと(人/一)としての本当の「やさしさ」とは、 (恁/忍)=(忍/恁)というひと(等)しさを成立させようとすることであり、 「任性」の発揮において「人性」を十全に具現化しようと努めることである。 >En mi nota soy extenso, a mi nadie mí corrige La Gota Fria - Carlos Vives 本当に正しい認識=认识、つまり、ま(真)あたら(可惜)しき認識=认识において、恁/忍性=忍/恁性は、人性である。 >全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。[...] 主はそこから全ての地に人を散らされたので、彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。 — 「創世記」11章1-9節 現実には、人々はすべて同じ言葉と同じ言語を用ゐていたわけでも、一緒に力を合はせて塔を建設しようとしていたわけでもないだろう。 また、人々が、互ひに異なる言語を用ゐる人々と「『ことば』が通じる」ようにしようとするとき、ひとつの塔を建設しようとするような企てに一緒に力を合はせて取り組もうとするのでもない。 それでも、「不特定の人々」は、勝手に放っておかれたとしても、互ひに「『ことば』が通じる」ようにしようとしてしまうのであり、そのことは、利害の相反として、「特定の人々」にはつねに不都合を生じる。 したがって、「特定の人々」は神に成り変はって、「不特定の人々」のそのような振舞ひを絶えず阻害しようと仕組むことに余念がない。 そこで、「『ことば』が通じる」ようにしようとするなら、問ふ必要があるのは、どのような仕掛けにより「不特定の人々」の自然な振舞ひが阻害されるように仕組まれているのかである。 たとえば、「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」について次のような「ことばの表現」の比較を試みてみるといい。 「刃(ぢん)」(例えば、「自刃(じ・ぢん)」)⇔"edge" 「泥(ひぢ)」⇔"smudge"/"dredge" 「づる」(例えば、「裾を[引き]づる」/「定位置からづれる」/「づるがしこ(賢)い」)⇔"sledge/budge/dodge" 人々が、互ひに異なる言語を用ゐる人々と「『ことば』が通じる」ようにしようとするとき、ひとつの塔を建設しようとするような企てに一緒に力を合はせて取り組もうとするのではなく、自身がつか(使/仕/遣)ふことばの表現の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が、相手がつか(使/仕/遣)ふそれと互ひにどのように折り合ひがつくのかを見出そうとするのである。 >>597 このような比較は、比較言語学においては無意味であるとされる。 なぜなら、音韻の規則的な対応関係を示すことを目的としておらず、異なる言語間の系統関係を示すのに何の役にもたたないからだ。 さらに、言語学全般においても、ここで比較の対象とされているのは、「擬態語」や「擬音語」と見做される語彙ですらないため、比較してみようとする行為そのものが無意味であるとされる。 そもそも、学問としての「言語学」は、「ことばの表現法」を研究対象からほぼ完全に意識的に除外してきた。 しかし、言語学がその研究の対象とはしていない「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」に注目するなら、これらの比較から類似性を感じとることがないとすれば、そのような人々は、かなり言語感覚が鈍いのではないかと私には思はれる。 「中国語」と「そり舌音」をキーワードにして検索してみると、 日本人学生の中国語発音の難点とその指導方法 >日本語の中に存在しないそり舌音「zh、ch、sh、r」は、日本人学生にとって最大の難点だと言っても過言ではない といったような説明が多数ヒットする。私自身は、これらの「中国語のそり舌音」と呼ばれる「発音」を習得しているわけではなく、中国語の学習者ですらないので、これらの「発音」をどのように身に付けることがよいのか、その習得法について助言するような立場にはない。 それでも、"Pinyin: r"として表記される「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」について少し検討してみた結果、日本語を母語とする人々にとってこの「発音」を習得することが極めて困難に感じられるのは、この「発音」について大きく誤った捉へ方をするように教へ導かれているからではないかと思える。 そもそも、「ことばの表現」としてつか(使/仕/遣)はれる「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を、人の口を機械的な「音声発声装置」のように見做して、そこから発せられる「物理的な音波」のように見做された「発音」として捉へること自体が、誤りの根源である。 私が独自に勝手に導き出した(つまり、権威による裏書を完全に欠いた)結論から先に述べよう。 確かに、"Pinyin: r"の「発音」は、日本語には存在しない。 しかし、"Pinyin: r"に対応する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は、多少は変形されながらも、ほとんどそのままと云ふことのできるような形で日本語のことばの表現の「こゑ(声)」として極めて広範に活用されている。 そして、その対応関係を最も簡単に見て取ることを可能にする表現の具体例が、「ぢ(焦)れる」の「ぢ」であり、「ぢりぢりと」(例えば、ぢりぢりと・あと(後)づさりする)の「ぢ」である。 その対応関係に気づかなくなっているのは、この場合も、本来、「ぢ」と表記することが適当である「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」に、代わりに「じ」が当てられているからに過ぎない。 >焦れる(読み)ジレル デジタル大辞泉 「焦れる」の意味・読み・例文・類語 物事が思うように進行しないために、いらいらと落ち着かない状態になる。「店員が来ないので―・れて店を出る」 >デジタル大辞泉 「じりじり」の意味・読み・例文・類語 1 ゆっくりとわずかずつ確実に進み迫ったり退いたりするさま。じわじわ。「首位にじりじり(と)迫る」 2 いらだたしい気持ちがつのって落ち着かなくなるさま。「なかなか電車が来なくてじりじりする」 3 太陽が焼けつくように強く照りつけるさま。「真夏の太陽がじりじり(と)照りつける」 4 油などの焼ける音を表す。 「鰯の油が―と垂れて青い焔が立った」〈長塚・土〉 "Pinyin: r"は、そもそも、その表記そのものが、ローマ字のアルファベット表記の利用法として妥当性を欠いている。 この表記が妥当性を欠いていることは、誰がどのような権威に基づいて強弁しようとも変わらない。 その一方で、この「こゑ(声)」を表記するのにいずれのローマ字のアルファベットを(組み合わせを用いてであれ)当てればよいのか、はっきりしないことも確かである。 誰も、他のよい代案を容易に提示することができなかったので、この極めて奇妙な表記が正式に採用されて、通用することになってしまったのだろう。 ところで、この"Pinyin: r"として表記される「こゑ(声)」は、既に指摘したとおり、「『こゑ(声)』としての弁別特性がはっきりしない」ことこそをその「特性」とする「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」なのだ。 逆に言へば、そり舌音とされる「zh、ch、sh、r」のなかで"r"以外の「こゑ(声)」は、この「はっきり」しない"Pinyin: r"の「こゑ(声)」を「はっきりさせる」ように弁別特性を用ゐることによって導き出すことが効率的で、合理的であるように私には感じられる。 より簡単に日本語を母語とする者の立場から云えば、まず"Pinyin: r"を日本語の「ぢ」や「づ」の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」の変形として意識して学び、それを中心にその「こゑ(声)」との違ひをはっきりさせるように「zh、ch、sh」の発声を身に付けようとすることが合理的ではないかと思ふ。 >"Pinyin: r"に対応する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は、多少は変形されながらも、ほとんどそのままと云ふことのできるような形で日本語のことばの表現の「こゑ(声)」として極めて広範に活用されている。 日本語は、この「こゑ(声)」を、その弁別特性のあいまいさのままにそのまま取り入れて活用していると見ることができる。 このため、「ぢ」が、「じ」や「に」に移されると、「ざ行」や「な行」のこゑ(声)として活用されることになり、それが「ぜ」や「ね」や「ぞ」などの形で活用されて現れるともはや、「で」や「ど」の形で活用されて現れる事例とは互ひに何の関係もないように見えることになる。 その対応関係が以前として再び意識にのぼることがあるのは、漢語として日本語に取り込まれて用ゐられる表現が、そのような多様な読み方をいまだに保っているからである。 このことは、朝鮮語が"Pinyin: r"をどのように取り込んでいるかと比較してみるとよく分かる。 既に指摘したとおり、朝鮮語は、日本語の場合とは異なり、漢語として意識される"Pinyin: r"の「こゑ(声)」を、カタカナで表現するなら「ヤ行」に移すことにより、「ゆるみ」を強調し、その弁別特性の不確かさを消してしまっているのだ。 このため、「人」は「イン」となり、「乳」は「ユ」となって、"Pinyin: r"との対応関係ははっきりさせることができているものの、逆に、"Pinyin: r"の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が伝へ、日本語の「ぢ」に移されて想起されるような感覚は、少なくとも漢語として意識される語彙においては、もはや伝へることがなくなっているものと考へられる。 中国語の表現と共通する多くのことばが朝鮮半島経由で日本語に取り込まれているとしても、そのことは、それらのことばが朝鮮語経由で日本語に取り込まれていることは意味しない。 このことは、中国語として"Pinyin: r"で始まる表現である「肉」が朝鮮語では「ユッケ」となり、日本語では「にく」となって、日本語の方が"Pinyin: r"のこゑ(声)により直接的に対応していることからも分かる。 「ユッケ」のように"Pinyin: r"が「ゆるめられたこゑ(声)」が日本語にまず取り込まれ、それが再び"Pinyin: r"を移すように再び「にく」というこゑ(声)に戻されたと考へるのは不自然である。 >>603 誤:その対応関係が以前として再び 正:その対応関係が依然として再び >>607-609 これらは、和製英語として日本語において普通に使われている表現である。 英国では、"air con"が"air conditioning"の略語として通用するようであるが、「エア・コン」という和製英語においては、この表現を日常的に使ふほとんどの人にとって、「コン」が"conditioning"の略語であるとは意識されていないだろう。 「リモ・コン」は、"remote controller"としては英語として通用するが、和製英語として、「エア・コン」と並べられると、「リモ・コン」、これらの「コン」間に違ひがあるとは意識されない。 「ノー・コン・ピッチャー」になると、表現の構成要素は、英語に由来するものの、造語法そのものが英語とは異なり、省略を元に戻しても英語としては通用しない。 「マザ・コン」と「学歴コンプ」では、「コン」と「コンプ」の借用元である英語の表現が同じであるにもかかわらず、和製英語としては別々の形となっている。 「ファミコン」は、"personal computer"/「パーソナル・コンピュータ」を模して造られた商品名としての「ファミリー・コンピュータ」の略語がそのまま一般的に通用するものになったものだが、"family computer"に戻しても英語としては通用しない和製英語の略語である。 このような日本語の表現が日常的に多く流通することは、望ましくないと考える人々も少なくないが、それでも、和製英語は日本語の一部として普通に通用して数多く使はれている。 なぜ、このようなことを云ひ出したかと言ふと、それは、 >中国語の表現と共通する多くのことばが朝鮮半島経由で日本語に取り込まれているとしても、そのことは、それらのことばが朝鮮語経由で日本語に取り込まれていることは意味しない。 という私自身の指摘に留保をつけるためだ。 確かに、「日本語の起源は朝鮮語である」というような短絡的な考へ方は、まともな根拠がなく、岩波古語辞典のような「権威ある辞書」において数多くの項目で記載される数多くの「朝鮮語の〜と同根」とするような「日本語・朝鮮語同根説」のようなものも、そのほとんどが私にはこじつけとしか考えられない根拠の薄いものである。 しかし、それとは別に、日本語の形成に朝鮮語との接触がどのように、どれだけかかわっているかを慎重に探っていくことは重要だろうと私も思ふ。 そして、その根拠となるのが、現代の日本語において、このように和製英語が数多く通用しているという事実である。 私は、「恥(はぢ)」、「恥(は)づかし」、「懼(お)ぢ」、「懼(お)づ懼(お)づ」、「譲(ゆづ)り」、「焦(ぢ)れる」、「ぢりぢりと」などの表現の「ぢ」や「づ」には、中国語においては"Pinyin: r"となったのと共通する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が活用されていると見ることができると指摘した。 ところで、そのように想定してみると、「は・ぢ(恥)」と「懼(お)ぢ」は、「ぢ」において共通する様態の作用を伝へているのだから、「は・ぢ」の「は」、「お・ぢ」の「お」は、「ぢ」の作用の様態をさらに形容する働きをするように用ゐられているのではないかと推測されることになるだろう。 ここで、さらに「ゆ・づ・り」について考へてみると、「ゆ」が、「づ・り」によって伝へられる作用の様態をさらに形容していることになる。 私は、「ゆ・づ・り」においては、「づ」が中国語の"Pinyin: r"に対応する関係にあると考へられると指摘したが、その一方で、朝鮮語において中国語の"Pinyin: r"に対応する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を移すことになっているのは、カタカナ表記するなら「ヤ行」のこゑ(声)であり、「讓」は、"yang/양"(ヤン)となり、「柔」は、"yu/유"(ユ)となる。 ここで、例えば、「づ・る」だけでも、「讓」の中国語の"Pinyin: r"に対応する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」に対応することになっているとしても、この同じ"Pinyin: r"の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を「ヤ行」のこゑ(声)に移して捉へる人々には、その対応関係はうまく伝はらないはずである。 そこで、「讓」を「づ・る」と表現することを諦めて放棄してしまうのではなく、さらに相手によりよく伝はるように、「讓」に対応する相手の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として"yu/유"(ユ)を取り込むということは、和製英語の表現法を参照するなら、十分にあり得ることだろうと私には思える。 この疑ひは、日本語の他の多くの表現、例えば、「矢(や)」や「槍(やり)」などにおいては、「や」のこゑ(声)がいきほ(勢)ひのよさを想起させるように用ゐられているのに対して、「やはらか」、「やさし」などにおいては、別のイメージを想起させることになっていることからも示唆される。 ただし、このような解釈の仕方において慎重でなければならないのは、それが、複数の異なる規範の活用を恣意的に組み合わせる行為となっているからである。 要するに、そのような解釈法を任意に用ゐることをみづからに許すなら、自分に都合のよいという恣意的な規範参照の組合せにより、途方もない数の別様の解釈の正当化が可能となってしまう。 ことばの表現としてみづからが用ゐる「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が恣意的に様々な異なる規範(それが英語のものであれ、フランス語のものであれ、朝鮮語のものであれ)を参照することができることは、そのことばの表現により意味を如実に伝へようとする「相手側の規範に歩み寄るという縛り」が働く限りにおいて、極めて好都合なことである。 しかし、逆に、相手の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を、自分が任意に選択した規範を参照して解釈することは、相手の使ふことばの表現が本当に伝へようとしていることを無視した、相手にとっては意味不明な勝手な解釈を生じることになる。 日本語の形成において、日本語が中国語の表現におけるこゑ(声)と共通する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を大々的に活用していることは間違いなく、また、その活用において、中国語のものとは異なる複数の多様な規範を参照していると考へるのは、日本語が、日本の国としての統一に先立って形成されていることから見ても、自然なことである。 ただし、それらの規範がどのようなものであったのかは、多数の事例を慎重に検討しながら、妥当と思はれる推測により見極めようとする他ないだろう。 誤:自分に都合のよいという恣意的な 正:自分に都合のよいというだけの恣意的な >自分に都合のよいというだけの恣意的な規範参照の組合せにより、途方もない数の別様の解釈の正当化が可能となってしまう 所謂、他人を攻撃することのできる立場を自身に確保するために「藁人形論法」を用ゐる人々がやっていることが、まさにこれである。 >>610 日本語に他の言語からある「こゑ(声)」が取り込まれて多用され、日本語として通用していることは、その「こゑ(声)」が、表現のための「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として用ゐられていることを必ずしも意味しない。 例えば、この和製英語としての「コン」における「こゑ(声)」について考へてみるといい。 ファミ・コン("com・puter") エア・コン("con・ditioning") リモ・コン(con・trol) ゼネ・コン(con・tractor) 生コン(con・crete) 合コン(com・panion) これらの「コン」は、いずれの事例においても、ラテン語由来の英語の表現要素である"con-"に明白に対応しているが、それに相応するような表現要素であるもと解釈された「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として用ゐられているわけではない。 そうではなく、外来の借用語の(場合により、既に意味の不明な)何らかの略語として認識されているのだ。 だから、「コン」は、「パソコン」からの類推で「ファミコン」のような表現を生成することはあっても、ことばの表現法のための「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」としては用ゐられていない。 ただし、明白に外来語としてのカタカナ語として認識されていても、 コンサル コンディション コンパニオン コンクリート コンタクト コンペ などの表現が多用されると、「コン」がどのようにか何らかの形容の役割をしているものとして、言葉遣ひにおいて自ずと類推が働き始める。 >その活用において、中国語のものとは異なる複数の多様な規範を参照している そもそも、参照されてきた「中国語」の規範そのものが多様である。 >>614-615 例えば、容認するという意味で使はれる「ゆるす」に当てられることもある漢字である「容」は、中国語の普通話では、"(Pinyin): róng"と読まれることになっているが、朝鮮語では、"요ᇰ (yong)"(「ヨン」)と読まれる。 さらに、「容易((Pinyin): róngyì)」は、日本語における漢語の用法そのままに、「『や』さしい」という意味で用ゐられる中国語の表現である。 ここで、以上の検討の帰結として得られる哲学的に極めて重要な結論を今一度、確認しておこう。 それは、 「(恁/忍)=(忍/恁)」という「ひと(等/人/一)しさ」においてこそ、「任性」が(俄/=)「人性」であるという理想が実現される ということだ。 同様のことを、多くのことばを費やして主張した人々がこれまでに数多くいたとしても、このことを、これほどまで簡明に明示した人がいまだかつて私以外のどこにいるだろうか? 哲学という営みは、何も積極的に主張しようとせず、つねに折り合ひをつけようとばかりしている。 そのことが、何らかの思想が正しいはずだ、または何らかの正しい思想があるはずだと信じ込んでいる大多数の人々には、あらゆることに譲歩ばかりしている弱さ、或いは、それとは正反対に、正しいに決まっていることを正しいに決まっていることとして受け容れることをあくまでも拒みつづける不明な自己主張に固執する強情さに感じられるのである。 しかし、哲学的な追求が理想としているのは、あらゆる主張にみづからの立場を譲るような脆弱さでも、すべての主張を根拠もなく疑ひつづけようとする偏執的な懐疑でもなく、みづみづしい感性の働きを保つことにより、みづからの生き方のしなやかさとなまめかしさを取り戻すことである。 現代の中国語の普通話における"Pinyin: r"に対応することになった「こゑ(声)」について様々なことを述べてきたが、 この「こゑ(声)」についても簡潔に結論を述べておこう。 この「こゑ(声)」のつか(使/仕/遣)ひ方には、それが感じさせる「こゑ(声)」としての弁別特性の「不確かさ」を積極的に活用しようとする動機と、その活用の際にその「「不確かさ」をどのようにか確かにして相手に伝はるようにしようとする動機の両方が同時に働いており、その実際の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は、その両方の動機の「せめ(鬩)ぎあ(合)ひ」として実現されている。 >>628 これと類似した解釈の「不確かさ」が"YHVH"の"Y"についても生じていることが、興味深い。 つい昨日も「エホバの証人」が訪問勧誘で自宅に廻ってきたが、誰が「証人」を自称してみたところで、"YHVH"の"Y"からして、それが表現としてどのようなことを伝へるものであるのか、既に「不確か」なのである。 "YHVH"の正しいカタカナ表記は、「エホバ」だろうか、「ジェホバ」だろうか、それとも「イェホバ」だろうか。 "YHVH"の"Y"の一般的に通用している正しいとされる「発音」によれば、それは「イェホバ」となるようである。 しかし、そもそも、"Y"がどのようなことを表しているのかが不明なのに、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」としての「こゑ(声)」を本当に確定することができるのだろうか。 ちなみに、"YHVH"の"Y"は、英語に入ると、英語の名前としてとてもよく聞くことのある"John"(ジョン)の語頭の発音となる。 「日本」は、「イルボン」なのか、「ヂパング」なのか、「ジャパン」なのか、「ヤーパン」なのか、「ハポン」なのか、それとも「ニッポン」なのか。 「日本」の発音の妥当な表記として、"Li̍t-pún"はあり得ても(実際、閩南語では、"l"で表記することが妥当な「こゑ(声)」になる)、"Rìběn"には、いくらなんでも無理があるだろうと私は思ふ(しかし、実際にPinyinの表記法では、これが採用されている)。 中国語としての「路((Pinyin): lù (lu4), Middle Chinese: luH)」は、その「こゑ(声)」が日本語においては「ぬ」に対応する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として用ゐられていると推察されることから、感覚としてそれに対応する日本語の表現は、「みち」というより、「とお(通)り『ぬ』け」であると思はれるが、閩南語においては、「路」だけでなく、「落((Hokkien, POJ): lo̍k / lo̍h / làu / lak / lauh / lō͘ / la̍uh / )」も同様に、日本語における漢語の「脱落」の用法のように「『ぬ』け」の感覚を伴って用ゐられている。 (Hokkien) Classifier for a row of houses. (Hokkien) to omit; to leave out (Hokkien) to disassemble; to dismantle (Hokkien) to have diarrhea (Hokkien) to leak (of water or gas) (Hokkien) to coax out of somebody; to trick somebody into telling (of a secret, information, the truth, etc.) (Hokkien) to fall off; to drop off (from somewhere) (Hokkien) to lose; to misplace (出典 en.wiktionary.org/wiki/落) このような書込みをするとき、私は、「自分には中国語ができる」ことを他人に示そうという意図は全くない。 既に述べたとおり、私自身は、中国語の学習者ですらない。また、私は、今から中国語を学んで、それが使ひものになるようなレベルまで自分が習得できるとも思っていない。 それでも、このようなことばの表現の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」の対応関係を丁寧にひとつづつ拾っていくことは、自分の母語である日本語の表現の理解を深めることに役立つだけでなく、より一般的に、ことばが、様々な「こゑ(声)」を、どのように折り合ひがつくように使ふのかを把握する感性を磨くのにも役立つだろうと思っている。 >日本に思想なんか無いよ 日本に思想がないとしても、それは悪しきことではない。 日本語は、哲学するのに好適な言語であり、日本語とされることばの表現は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」自体が哲学的に磨きぬかれることによって形成されている。 「感性を磨く」、このような表現を憎悪する人々が、世間で「学者」と呼ばれる人々の間ににも大勢いることを私はよく知っている。 そのような人々が、「感性を磨く」といったような表現に対して示す反応とは、「一体、自分がどんな高貴なご身分だと思ひ上がっているのか」といったようなものだ。 その反応は、要するに、「奴隷は、命じられたことを黙って命じられたとおりにしていればそれで善い」のであって、餌を与えられたなら、有難き幸せと頂戴し、それを黙ってそのまま食べるのが当然である、といった考え方の表れである。 しかし、たとえそれが「食べ物」の場合であっても、味覚を十全に働かせるように「感性を磨く」ことは、特別に自身を「食通」として自負して、レストランで提供される食事の評点付けしようとすることを特別に意味するわけではない。 そもそも、人が多種多様な食用となるものを選び出して、毒抜きに多くの労力を費やしてまで食べるまでに味覚を発達させているのは、何かを口に入れたときに、それをそのまま食べて自身に取り込もうとすることが良い効果をもたらすのか、悪しき効果をもたらすのかを知ろうとするためであり、またどのような効果をもたらすものをどれだけ取り込もうとしているのかを知るためである。 哲学の営みにおいて、「うたが(疑)ふ」ことと、「かむか(考)ふ」ことと、「感性を磨く」ことは別々のことではない。 >閩南語においては、「路」だけでなく、「落((Hokkien, POJ): lo̍k / lo̍h / làu / lak / lauh / lō͘ / la̍uh / )」も同様に、日本語における漢語の「脱落」の用法のように「『ぬ』け」の感覚を伴って用ゐられている。 Wikipediaで「ろくろ首」の項目を参照すると、次のように記載されている。 >また同様に中国には「落頭」(らくとう)という妖怪も伝わっており、首が胴体からスポッと抜けて飛び回り、首が飛び回っている間は布団の中には胴体だけが残っている状態になる。三国時代の呉の将軍・朱桓(しゅかん)が雇った女中がこの落頭だったという話が伝わっている。耳を翼にして飛ぶという。また秦の頃には南方に「落頭民」(らくとうみん)といわれる部族民がおり、その人々は首だけを飛ばすことができたという。 (出典 ja.wikipedia.org/wiki/ろくろ首) 見てのとおり、哲学の思考は、思想の言説のようにその適用範囲が限定されたものではなく、広汎に応用が効く。 提示された「証明」/"evidence"が「証明」/"evidence"であると認識できるか否かも、それを認識できるように感性が磨かれているかどうかに依存する。 私は、身内の患者に付き添って、レントゲン撮影の写真を見せられながら医師に病状の診断の説明を受けたことがあるが、レントゲン撮影の写真から何かを識別する訓練を受けていない私には、その白黒の陰影からどこにどのような様態が映っているのかまったく分からなかった。 レントゲン撮影を見慣れた医師には、目の前にコップが置かれているのが見えるのと同様に、誰にでも容易にそれが判別できるものと感じられているようだったが、私には、医師に注目すべき箇所を指し示されても、何がどのように映っているのか識別できなかった。 ところで、何らかの「証明」/"evidence"が提示されたとき、それが「自分には識別できない」という理由だけで、その「事実」が、直ちに、「何も『証明』/"evidence"が示されていないという『確信』」にすり替わってしまうような人々が大勢いる。 そして、そのことは、世の中で「学者」と呼ばれるような人々の場合でも、まったく同様である。 自分自身には、提示された「証明」/"evidence"が「証明」/"evidence"としてまったく識別することができなくても、専門の権威がそう主張するのだから、そうであるに違ひないと信じ込む盲目の権威主義と、提示された「証明」/"evidence"が自分には識別できないのだから、事実上、提示された「証明」/"evidence"は何も存在しないとする確信の組合せが、哲学の営みを妨げる。 その組合せにより物事を考へることを習慣とする人々は、「頼みにすることのできる権威」を求めて常に不安にとりつかれている。 >>640 「ろくろ首」⇔「落路首」⇔「通りぬけるように脱落する首」という解釈が自然に導かれる。 では、なぜ、「ろくろ首」などという奇妙な存在者を想定したのだろうか。 それは、「落」ということばの用法に「『ぬ』け」の感覚が伴ふことが閩南語において特徴的であることに関係しているのではないかと私には思はれる。 そして、そのことは、 >南方に「落頭民」(らくとうみん)といわれる部族民がおり という説明によって示唆されているのではないだろうか。 一般的な表現の用法では、「落頭」が「首を落とす」、つまり、「斬首」を想起させるものと考へられるのに、南方の地域で使はれる閩南語においては、その同じ表現が、「首を落とす」ことではなく、「首が通りぬけるように脱落する」様態を想起させてしまうことになり、その奇妙さを面白おかしく説明するために「落頭民」⇔「落路首」⇔「ろくろ首」のような存在者がほら話として創作されたのではないか。 これが、私の暫定的な推論である。 日本語:「『じゃ』まする」 中国語:「打・扰/擾((Pinyin): rǎo)」 フランス語:《gêner》 >>645 ここで私は、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひの対応関係を示そうとしているわけだが、 試しに逆方向で見てみよう。 フランス語の"gentil"に対応する中国語の表現を検索してみると「溫柔((Pinyin): wēnróu)」という表現がヒットする。 "gentil"というこわ(声)づか(使/仕/遣)ひが想起させるイメージとして、やはり、「柔((Pinyin): róu))」が現れるわけだが、さらに面白いことに、Google検索の最上位では、 「让蒂尔(Ràng dì ěr)」という自動翻訳が示される。これが何を意味しているのか検索してみると、以下のとおりである。 >ポールジャンティは、ガボン西部に位置する港湾都市。人口は13万6,000人で、ガボン第二の都市である。ポールジャンティルとも。オゴウェ・マリティム州州都。オゴウェ川デルタ西端の島に位置し、天然の良港を持つ。 1903年、フランスによって建設される。 ウィキペディア 让蒂尔港- 维基百科,自由的百科全书 維基百科 让蒂尔港(法语:Port-Gentil,法语发音:[pɔʁ ʒɑ̃ti])是加蓬的第二大城市和主要海港,也是该国的石油和木材工业中心 要するに、この「让蒂尔」は、フランス語の《Port-Gentil》という地名のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひから想起されるイメージに合うように考案された当て字である。 つまり、私が推測したこわ(声)づか(使/仕/遣)ひの対応関係は、中国語を母語とする人々の間でも同様に働いていることになる。 私は、中国語学習の初心者ですらないが、いづれの言語を学習しようとする場合でも、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひの対応関係に注意を向けることは、表現の学習を効率的に進めるのに役立つのである。 哲学の営みにおいて問ひを発するのは、あ(在/有)るはずの正しいこた(答)へを得るためではない。 そうではなく、哲学における問ひは、いつまでも、どこまで行っても「こころ(試)み(心観)」/"tentative"である。 哲学の問ひが探求しているのは、そのように錯覚されるとしても、「あ(在/有)るはずの正しいこた(答)へ」などではなく、あやま(過)ちの「臨在」であり、あやま(過)ちの「臨在」をし(知/領)ることによ(依/拠)りたし(確)かめられることになる「『適合性』としての『ただ(只)し』さ」である。 したがって、その探求に過程においてその「臨在」がし(知/領)られことになった「あやま(過)ち」に「あたら(可惜)しき適合性」が見出されるなら、その「あやま(過)ち」は、「『新たな適合性』として『ただ(只)し』きもの」、つまり、「新たな正しさ」として認められる。 そして、それが、探求の「こころ(試)み(心観)」/"tentative"がもたらすことになる「進化」である。 数年前に日本語の表現と中国語の対応関係について私が検討し始めた頃、というよりむしろ、中国語の発音について解説した中国語の入門書をつい最近になって手に取るまで、私は、ピンインによる発音の表記法がどのようなものであるかすらまったく知らなかったので、アルファベット表記された日本語と中国語の表現の発音を比べてみて、日本語の「な行」の発音、つまり、アルファベット表記では、"n"を用ゐて転記される発音が、中国語の、英語の語頭の"r"のように発音されるような発音に対応するものと誤認していた。ようやく最近になってその過ちに気づくことになったわけだが、しかし、そのように誤認から歩みを始めても、対応関係を当初、どのように誤認したのかを検討することが、結果として、とても役に立つことになった。 仮に、私が当初から中国語を正しく学習することを目指して、ピンインの"r"の正しいとされる発声の仕方を身に付けようとする訓練に専念するだけであったなら、私がこのスレに書き込んできたような「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」の対応関係は、決して明確に意識されることがなかっただろう。 問ひを発する行為が、過ちの臨在に気づかせることになることは、哲学に限定されない。というより、そもそも、問ひを発することは、過ちの臨在の可能性を探る行為に他ならない。だからこそ、極めて多くの状況において、与えられた指示がよく分からない場合にも、そのよく分からないことをはっきりさせようとして問ふためにであれ、口を開くこと自体が厳しく戒められるのである。 中国語のピンインの"r"の表記法としての奇妙さについて考へることなしには、私は、例えば、 フランス語の《jaillir》や《germer》などの表現の語頭の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」と、日本語の「いづみ(泉)」や「いづる/しづむ」の「づ」の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」の間に何らかの類似性を感じることがあったとしても、それがどのように互ひに似ているのかを明確にメタ言語により記述して表現することはできなかっただろう。 「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」の共通性から、母語以外の言語の表現も感覚的に捉へやすくなる。 >congenial の意味 気が合う;快適な >congenial の語源 1620年代に作られたこの言葉は、「同じ性質や自然的な特徴を持つ」「親族のように」という意味を持ちます。これは、ラテン語のcom「共に、一緒に」(con-を参照)と、genialis「出生の」という語から来ています。これは「親族」を意味し、「出産する、生み出す」と関係するものや、家族や部族のグループを指す言葉を派生させるPIE(インド・ヨーロッパ祖語)の根 *gene- から来ています。'気持ちが良い'という意味で使われ始めたのは1711年で、「自然に親しみやすい」という考えからです。 (etymonline.com/jp/word/congenial#etymonline_v_18201) ところで、中国語の表現としての「路」は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において、日本語としては「みち(道)」というよりも、「通り『ぬ』け」に対応するのだろうということは既に指摘した。 ここで、中国語の普通話ではなく、上海語に注目してみると、「老("lau")」という表現が、日本語としては「とても」に対応するように使はれる用法があることが分かる。 その場合、なぜ「老("lau")」が「とても」に対応するのかを考へてみると、私には、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」から、この「老("lau")」は、英語を用ゐるなら、"throughout"や"through and through"や"thoroughly"などやはり「『ぬ』け」(この場合には、「貫徹」)を想起させるように使はれているからではないかという推測が生じる。 しかし、私の連想による憶測は、そこで留まることはない。 仮にこの推測が妥当であるとした場合、日本語には、中国語の「老」という表現の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」も、通常の漢語の読みとしての「ろう」にとどまらず、それが「ぬ」に移される形でも取り込まれているのではないかという疑念が生じる。 ここで私にすぐに思ひ浮かぶのが、日本語の「ぬし(主)」という語源のよく分からない表現である。 日本語の「ぬし(主)」は、語源的には、中国語の「老子」を、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において移すように取り込まれた表現である可能性があるのではないか。 ただし、これは、現時点では、私にとっても、その可能性があるのではなかと疑われる程度の憶測に過ぎない。 例えば、中国語の「魯(Middle Chinese: luX)」に対応する日本語の表現としてすぐに想起されるのが、「ま『ぬ』け」だろう。 >鲁 中日辞典 第3版の解説 鲁 lǔ 1 [形]そそっかしい.がさつである. 这人办事挺〜的/この人の仕事はとても粗い. >中国語の表現としての「路」は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において、日本語としては「みち(道)」というよりも、「通り『ぬ』け」に対応するのだろう >英語「thoroughfare」の意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書 Weblio https://ejje.weblio.jp › 英和辞典・和英辞典 › 英和辞典 「thoroughfare」の意味・翻訳・日本語 - (通り抜けられる)道路、往来、通り、(特に)大通り、主要道路、本道、通り抜け、通行 宗教の勧誘が来たら話聞いて足運んで出会い求めた方がいいのかな? >>625 付け加えるなら、日本思想とは駄洒落言葉遊びだということだ >>662 匿名の書込みだからといっても、他人の書込みに、その書込みの本人であるかのように「付け加える」ことは、やはり「詐欺行為」であることに変りありませんよ? >>662 まあ、でも、私自身の書込みを思ひ出させてくれて、ありがとう。 >「(恁/忍)=(忍/恁)」という「ひと(等/人/一)しさ」 これを、一言の英語で伝へようとするなら、"congenial"ということになるだろう。 >>662 では、こういう駄洒落はどうですか? >congenial suitable for something Compost provides congenial conditions for roots to develop. (出典 ldoceonline.com/jp/dictionary/congenial) >>655 "congenial"という表現の説明として語源辞典の説明をそのまま引用したが、私は、このメタ言語的記述が適切であると考へているわけではない。 この"congenial"という表現の用法の由来の説明についても、いつものとおり、この記述における"con-"の解釈は逆立ちしている。 "congenial"は、日本語で説明するなら、性質としては「相性(あひしょう)の良さ」、振舞ひとしては「愛相(あいそ)の良さ」ということになるが、「相性(あひしょう)の良さ」も「愛相(あいそ)の良さ」も、「生まれを同じくすること」によ(依/拠)り/由来してもたらされるわけではない。 そうではなく、「(恁/忍)=(忍/恁)」という「ひと(等/人/一)しさ」 /"adequacy"が、性質としては「相性(あひしょう)の良さ」として、振舞ひとしては「愛相(あいそ)の良さ」としてあらは(顕/現)れるのである。 このことは、例えば、 >Compost provides congenial conditions for roots to develop. において、"roots"/(根)と"compost"/(堆肥)の関係を考へてみてもすぐに分かるだろう。 植物が堆肥に根付いて良く育つのは、植物の根と土中の細菌とが、その臨在において「(恁/忍)=(忍/恁)」という「ひと(等/人/一)しさ」 /"adequacy"の関係として協働していることのあらは(顕/現)れであって、植物の根と堆肥や堆肥中の細菌が「生まれつきの性質を同じくしている」ことによ(依/拠)る/由来しているのではない。 >Compost provides congenial conditions for roots to develop. この表現を借用させてもらうと、 The modern Japanese orthography("現代仮名遣ひ") does not provide congenial conditions for philosophy in Japanese to develop. ということになる。 >>668 いずれの辞書にも、英語の解説書にも記載されない、この"congenial"という表現が伝へようとする感覚の解釈は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」からの私の勝手な推測によるものだが、それが通用するかどうか確かめてみよう。 例えば、Merriam-Webster Dictionaryに引用される次の文例は、"congenial"の名詞形である"congeniality"という表現が実際にどのように使はれるかの具体例を示すものである。 >In the mind of the voter, compromise and congeniality between the left and the right is as much a strategic choice as a genuine flourishing of good feelings …— Shervin Malekzadeh 誤:いずれの辞書にも 正:いづれの辞書にも 現代仮名遣ひは、逐一、自然な思考を妨げるように工夫されている。 >>658 >日本語の「ぬし(主)」は、語源的には、中国語の「老子」を、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において移すように取り込まれた表現である可能性があるのではないか。 このように考へることは、私には特に不自然なことであるとは感じられない。 「ぬし(主)」の語源については、「〜の・うし」の短縮形であるという説があり、岩波古語辞典においてもそのように説明されているが、私には、この説に強い説得力があるとも感じられない。 その理由を説明しよう。 「〜の・うし」⇔「ぬし(主)」とする説では、「〜の」は、助詞であるものと解釈され、「うし」が「ぬし(主)」に相当する意味で用ゐられたのだとされる。 しかし、その場合、「うし」がどのような表現であったのか、その表現法としての解釈ははっきりしない。 さらに、「古事記」と「ヌシ」をキーワードにして検索してみると、「古事記」において最初に登場する神の名として、「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ、あまのみなかぬしのかみ)」というのがヒットし、その名のとおり、「神名は天の真中を領する神を意味する」(西郷信綱『古事記注釈』第1巻、平凡社、1975年)とされる。 他に「事代主神(ことしろぬしのかみ)」というのもヒットする。そこで、いずれの場合も、「ぬし(主)」の後に補足された「のかみ(神)」という表現を除外して、「天之御中主神(あめのみなかぬし)」、「事代主神(ことしろぬし)」として考へたとして、「ぬし(主)」を「〜の・うし」に置き換へてみると、表現としてなぜ「〜の」が必要とされるのか不明である。 ところで、「〜の・うし」という表現が用ゐられ、そのような表現解釈が通用するものであったとして、それでは、「ぬし(主)」は、「〜の・うし」の短縮形としてしか解釈され得ないのであろうか。 私には、そのようには思えない。それどころか、「〜の・うし」という分解の方が後付けの解釈によるものである可能性も十分にあるのではないかと思ふ。 なぜなら、私がその可能性を示唆したとおり、「ぬし(主)」が中国語としての「老子」のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひを日本語に移したものであったと想定した場合、後の漢語としては、「老」は、「ろう/らう」と読まれるが、古代の日本語では語頭に"l"の発音が用ゐられないため、"l"の発音は"n"の発音に移されたと考へられるからである。 すると、「老」は、「のう/なう」と発音されることになるので、「老子」は、「のうし/なうし」となる。 実際、朝鮮語でも「老」は、カタカナ表記するなら「ノ」(古代の日本語としては、甲類の「の」に分類されるだろう)に移されている。 そして、古代の日本語で助詞として用ゐられた「の」のこゑ(声)には、万葉仮名の表記においては、甲類の「の」と乙類の「の」が当てられているいずれの事例も見られるので、当てられる漢字が明確にその発音が助詞の「の」として意図されていることを示すのでない限り、「の」の解釈に不確かさが伴ふことになるだろうと思はれる。 このようなあいまいな根拠をいくら並べて見ても、何も確かなことは分からないではないか、という反論があるだろう。 では、「老子(のうし)」⇔「主(ぬし)」のような対応関係を想定することが、表現法として尤もらしいかどうかを検討してみるために、ふたたび、「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ、あまのみなかぬしのかみ)」に戻ってみることにしよう。 「天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)」というのは、簡単に言い換へるなら「天(あま)つ神(かみ)」であり、それが「ぬし(主)」であるとするなら、「天にまします我らが主(ぬし)」ということになるだろう。 ここで、「天にまします我らが主(ぬし)」をスペイン語で言ひ換へるなら、"Nuestro Señor en el cielo"であり、スペイン語の"señor"が日本語の「ぬし(主)」に対応することになるが、"señor"は、英語の""senate"/「上院」(表現として「元老院」に由来する)や、日本語の「シニア世代」の「シニア」と語源を同じくする表現であり、それを漢字一文字で表すなら「老」ということになる。 日本語の古代の表現と中国語の表現の対応関係を論じているのに、突然、まったく無関係のスペイン語を持ち出してきても無意味である、という反論があるかもしれない。 そこで、今度は、このスペイン語の"señor"という表現と中国語の表現の対応関係を見てみよう。 >señor 西班牙语 señor/-a adj. 极好的,华丽的,很大的 m. f. 主人,先生,女士,老爷,太太,夫人,公公,婆婆,岳父,岳母,东家,女东家 (出典 zh.wiktionary.org/wiki/señor) すると、見てのとおり、私には好都合なことに、「老爷」という「老」の漢字を含む記載が見られる。 では、「老爷」とは、どのような表現だろうか。 >老爷 老爷 中日辞典 第3版の解説 老爷 lǎoye 1 [名] 1 旦那さま.▶以前は庶民が役人に対して使った敬称.現在では風刺的にしか用いない. 当官做〜/お役人になる;お偉くなる. 2 旦那さま.▶旧時は下僕が主人に対して使った敬称,または妻が夫に対して使った敬称. 見てのとおり、この場合の中国語の「老」は、日本語としての「主」の用法にぴたりと対応していることが確認でき、そのことがスペイン語の表現を介しても成立することが分かる。 大老(たいろう)は、江戸幕府の職制で、将軍の補佐役、臨時に老中の上に置かれた最高職である。 より広義には、大名家・執政機関の最高責任者群を指す(豊臣政権の五大老などがよく知られる)。 大老 - Wikipedia 哲学の役割は、気づかせることまでであって、気づいたことについてどうするかは各自の勝手である。 「私ら」と言ふ場合の「〜ら」には、日本語としては、通常、「等」という漢字が当てられるが、中国語の表現として用ゐられる「等」は、「ら」という発声とは無関係である。 では、この「〜ら」は、どのような表現なのかと言へば、それは、例えば、上海語の「阿拉」の「拉(la)」に対応しているのだろうと私は思ふ。 この「拉(la)」は、通常、単に複数であることを示す指標として用ゐられているものと解釈されているようだが、この「拉(la)」については、なかなか面白い推測が成り立つように思えるので、それについて、また後で書き込むことにする。 日本語において「私ら」と言ふ場合に、通常、「等」という漢字が当てられる「〜ら」に、中国語としては、上海語において「私ら」を意味する表現として用ゐられる「阿拉」の「拉(la)」がそのまま対応するだろうという考えは、何ら私独自の勝手な推測によ(依)るものではない。 なぜなら、この「阿拉」の語源については、次のとおり説明されているからである。 >Originally Ningbonese. Due to an influx of migrants from Ningbo to Shanghai, this has supplanted the original Shanghainese 我伲 or 伲. 阿 is from 我 (MC ngaX, “I; me”). 拉 is a plural marker, also seen in 伊拉 (“they; them”). (出典 en.wiktionary.org/wiki/阿拉) したがって、ここで私が問題にしているのは、日本語の「〜ら」が、中国語としての「拉」に対応しているか否かではない。 そうではなく、この日本語としての「〜ら」、そしてそれが対応する中国語としての「拉」を、"拉 is a plural marker"という記載のとおり、単に「複数を表す標識」として解釈すれば、それで十分なのかどうかである。 日本語としては、「私ら」と同様に一人称複数を表す表現として、「私ども」、「私たち」などがある。 「これ・ら」の表現がすべて一人称複数を表すことにおいて同様であるとしても、そのことは、「〜ら」、「〜ども」、「〜たち」が表現として同等であり、互換的であることは意味しない。 日本語においては、「〜ら」が「〜等」と表記され、日本語としては、「等」という漢字が主として「ひと(等)しい」という意味で用ゐられ、「〜等々(などなど)」という表現が、英語にすれば、"〜 and the like"に対応すると考へられることから、「私ら」も、"me and the like"、つまり、「〜ら」は、「同等のもの」を表現しているように思える。 しかし、この解釈は、本当に妥当だろうか。というのも、「等」は、漢語としては、「ら」とは読まれないからである。 日本語の「〜ら」が中国語としては「〜拉」に対応し、その「〜拉(ら)」の日本語としての表記が、便宜上、「〜等(ら)」として置き換へられたとすれば、どのような解釈によりその置換へは、折り合ひのつくものとなるのだろう。 いくつかの興味深い事実が注目され、それは、既に引用したWiktionaryの記述にも見られる。 それは、 >this has supplanted the original Shanghainese 我伲 or 伲 という記載である。 さらに、「拉」について、同じくWiktionaryで検索してみると、次の記載に行き当たる。 >篤 Cognate with Shanghainese 拉, as in 阿拉 (“we”), 伊拉 (“they”) (You, 1995). Pronunciation Wu (Wugniu) (Northern): 7toq; 0toq Definitions 篤 (Suzhounese) Suffix indicating plural for pronouns. a篤/a笃 [Suzhounese] ― 6n-toq0 [Wugniu] ― you (plural) 俚篤/俚笃 [Suzhounese] ― 1li-toq0 [Wugniu] ― they (en.wiktionary.org/wiki/篤) これらすべての互いの関係についていろいろ言ひたいことはあるのだが、まとめて参照する項目があまり増えすぎると、何を言ひたいのが伝はりにくくなるので、「〜ら(拉)」だけについて、一応、私の結論を先に述べておこう。 それは、この「〜ら(拉)」は、単に複数であることを示す標識として用ゐられているだけでなく、「拉」が動詞として用ゐられる場合に伝へられる様態も反映しているだろうということだ。 「『拉』が動詞として用ゐられる場合に伝へられる様態」として私の念頭にあるのは、それをメタ言語的に記述するなら、「接合を生じながら引く様態」、「『づれ/づらし』をもたらす様態」であり、 具体例としては、次のようなものである。 >拉 ・他拉不好锯。〔+可補+目〕=彼はのこぎりをうまくひけない. ・把抽屉 ・ti 拉出来。〔‘把’+目+拉+方補〕=ひきだしを開けてください. ・孩子哭闹不走,大人只好拉着他走。〔+兼+動〕=子供が泣きわめいて歩こうとせず,大人は仕方なく彼を引っ張って歩かせた. ・我不会拉大提琴,只会拉小提琴。〔+目〕=私はチェロが弾けない,ただバイオリンが弾けるだけである. ・弦拉断了。=(弾いているうちに)弦が切れてしまった. ・坏人拉干 gàn 部下水。〔+兼+動〕=悪人が幹部を引きずり込んで悪事を働かせる,悪の道に引きずり込む. (出典 cjjc.weblio.jp/content/拉) これらの「動きの様態」から推測するなら、「私ら」の「〜ら」も、「『づれ/づらし』をもたらす様態」、つまり、「随伴」を表現しているのではないかと私には思える。 さらに、本当に結論として私が示そうと考えているのは、日本語の古語における「な(汝/己=己/汝)」と中国語の「拉」の声遣ひの近似性である。 しかし、これについて述べるには、さらに多くの例示と論証を必要とするが、その際に中心的な重要性を帯びて現れるのが、この場合も、中国語の普通話においてピンインの"r"により表記される声遣ひである。 中国語において「阿拉」は、「我们」の方言とされるが、 「我们」の用法は、以下のとおり説明される。 >(複数1人称;自分の側にある人々を含めて「私たち」と言う場合)私たち,僕たち,我々. ◆(1)‘我们’は話し相手を含んで「私たち」と言う場合に用いることもあるが,多くは話し相手を含まない場合に用いる. (出典 cjjc.weblio.jp/content/我们) この「多くは話し相手を含まない場合に用いる」という説明は、日本語の「私ら」の場合にもそのまま当てはまるだろう。 さらに、「等」は、中国語においても、 >((文語文[昔の書き言葉])) (人称代名詞や人を示す名詞の後に用いて複数を示し)…ら,…たち として用ゐられる。ただし、その発声は、「〜ら」に類似するものではなく、"děng"である。 しかし、「等」は、動詞としては、 >(友人・自動車・電話・手紙など具体的な人や事物が来るのを)待つ,(…することを)待つ. として用ゐられることから、この「〜ら」も、英語において"waiter"がそのような意味合ひを帯びるように、「〜等」≒"〜 and attendant"のような捉へ方なのではないかという気がするが、私は、中国語そのものについては、知識がないので、検証はできていない。 ここで、一見したところ、この話題とは何の関係もないように思える問ひを発することにしよう。 その問ひとは、 熱(ねつ)は、どのようにあつ(熱)いのか、 である。この問ひに適切に応へようとすると、いろいろと興味深い関係が見えてくる、というより、如実に感じられるように思えてくる。 中国語の普通話においてピンインの"r"とし表記される声遣ひが、どれだけ多様な現れ方をするか、まづは、日本語としてもよく知られている「如来(にょらい)」という表現を具体例として考へてみるといい。 >如來 標準中国語: ピンイン: rúlái 広東語: イェール式: yu4loi4 粤拼: jyu4loi4 閩南語: POJ: jû-lâi, lû-lâi, jî-lâi, lî-lâi 閩東語: 平話字: ṳ̀-lài, ṳ̀-lì 客家語: 白話字: yì-lòi 呉語: zy1 le 中古漢語: nyo loj (出典 ja.wiktionary.org/wiki/如來) >>690 こうして並べてみると、声遣ひが接合しながらづれてゆく様子がうかがへる。 声遣ひのづれがづれとして意識される限りにおいて、す(擦)り合はせがこころみられ、対応関係を探られるが、 しかし、それぞれの声遣ひが規範として意識されるようになると、す(擦)り合はせは放棄されて、づれはもはやづれとして意識されなくなり、すれ違ひとなる。 さらに、すれ違ひを生じるようになった後、別のすり合わせの必要が生じると、声遣ひが規範化は、それぞれ別の体系化に向かふことになる。 >熱(ねつ)は、どのようにあつ(熱)いのか これは、実は、中国語の普通話においてピンインの"r"によって表される声遣ひについての問ひでもある。 なぜなら、「熱(ねつ)」は、漢語であり、普通話では、"(Pinyin): rè"と発話され、それに対応する中国語の中古音が"Middle Chinese: nyet"であったと想定されているからだ。 >熱(ねつ)は、どのようにあつ(熱)いのか このように問はれたとき、大多数の人々は、そのような問ひ自体が無意味であると考える。 なぜなら、熱(ねつ)があつ(熱)いのは、「当たり前」だからである。 つめ(冷)たかったらそれは熱(ねつ)ではない、というわけだ。 したがって、多くの人々には、既に自明であることについて問ひを発することの意味が伝はらない。 しかし、その問ひを次のように変へた場合は、どうだろう。 「思ひが『あつい』」、「こころざし(志)が『あつい』」、「情に『あつい』人」と言ふとき、思ひ、こころざし(志)、情は、どのように「あつい」のか。 相手の熱意が「あつく」伝はってくる場合、その「あつさ」は、どのように「あつい」のか。 さらに、日本語の古語の「病(やまひ)が『あつしく』なる」の「あつし」では、それが「熱(ねつ)」によるものであるという解釈は成立しなくなるわけだけど、では、その「あつし」は、「熱(ねつ)の『あつさ』」とはどのような関係にあるのか。 「熱(ねつ)」が、「どのようにか『あつい』」ことの、その「どのように」とは無縁なのか。 上海語においては、「阿拉」が「我伲」もしくは「伲」にとって代わり、この「拉」の用法そのものは、「a篤」における「篤」の用法と類縁関係にあると見做されていることを思ひ起こそう。 ところで、「篤」は、日本語においては、「あつし」という表現に当てられる漢字である。 ここでも、あまり説明が長引くと、却って、何を言ひたいのか伝はりにくくなるので、一応の私の結論を先に述べておこう。 それは、「あつし」という様態は、その本性において、英語を用ゐるなら、"bearing upon 〜"、さらには"overbearing"とされるような様態に対応しているだろう、ということだ。 >overbear (v.) 14世紀中頃、overberen という言葉は「持ち越す、転送する、伝える」という意味で、現在は使われていない(ラテン語の transferre を翻訳していた)。これは over- と bear(動詞)から派生しています。1535年(カバーデール)からは「物理的な力の重みで押し倒す、圧倒する」という意味で、もともと航海の際に使われていました。比喩的な意味で「権力、権威などによって克服し抑圧する」という意味は1560年代から使われています。 (出典 etymonline.com/jp/word/overbear#etymonline_v_10036) Wiktionaryの記述によれば、以下のとおりである。 >熱 composition 埶灬 Phono-semantic compound (形聲/形声, OC *ŋjed) : phonetic 埶 (OC *ŋeds) + semantic 灬 (“fire”). >埶 The character 埶 (OC *ŋeds) was also often phonetically borrowed to represent another character 勢 (OC *hŋjeds). >勢 posture; position; pose; bearing 日本思想などと言うものはない。 日本幻想ならある。どこの国でも同じ。 >>698 >なつ(夏)はあつい 岩波古語辞典で「なつ(夏)」の項目を参照してみると、この辞典に記載される語源説の「いかがはしさ」が、典型的によく分かる。 そこには、「なつ(夏)」は、 >朝鮮語nyörɐm(夏)と同源 と記載される。この"nyörɐm"は、現代の朝鮮語では、「여름( /jʌ̹ɾɯm/)」であり、カタカナ表記するなら「ヨルム」と転記されるだろう。 (参照 ja.wiktionary.org/wiki/여름) ところで、朝鮮語の場合には、中国語の普通話においてピンインの"r"により表記される声遣ひが、カタカナ表記するなら「ヤ、ユ、ヨ」となる声に移されることは既に指摘した。 朝鮮語を知っているなら、「여름 (yeoreum) 」という声遣ひから、朝鮮語として用ゐられる漢語である「열 (yeol) <熱> 」を想起しないはずがなく、この"nyö"/"yeo"が、「如(여(yeo))」と同様に中国語のピンインの"r"の声遣ひに対応することに気づかないはずはない。 ところが、岩波古語辞典では、語源説明において中国語における対応する表現は完全に無視されているのである。 これは、明白に意図的な無視である。 >上海語においては、「阿拉」が「我伲」もしくは「伲」にとって代わり、この「拉」の用法そのものは、「a篤」における「篤」の用法と類縁関係にあると見做されていることを思ひ起こそう。 >伲 異體字(你):儞|伱|伲|𤙌|妳 (出典 zh.wiktionary.org/wiki/伲) >汝 汉语拼音:rǔ 粵拼:jyu5 臺羅拼音:lí >汝 讀音 訓讀:なんじ (nanji) 音讀:じょ (jo) 朝鮮語 汝 讀音 音讀 여 (ye) (出典 zh.wiktionary.org/wiki/汝) そろそろ、日本語の「な(汝/己=己/汝)」と中国語の「拉」の近似性が如実に感じられるようになってきたのではないだろうか。 >昵懇(読み)ジッコン デジタル大辞泉 「昵懇」の意味・読み・例文・類語 じっ‐こん〔ヂツ‐〕【×昵懇】 [名・形動]《「昵」は、なれしたしむ意》親しく打ち解けてつきあうこと。また、そのさま。懇意。 ここで、大切なことなので、>>691 で述べたことを繰り返そう。 >声遣ひのづれがづれとして意識される限りにおいて、す(擦)り合はせがこころみられ、対応関係を探られるが、 しかし、それぞれの声遣ひが規範として意識されるようになると、す(擦)り合はせは放棄されて、づれはもはやづれとして意識されなくなり、すれ違ひとなる。 さらに、すれ違ひを生じるようになった後、別のすり合わせの必要が生じると、声遣ひが規範化は、それぞれ別の体系化に向かふことになる。 >台湾語の lán は完全に異なる道を通ってきている.意味 からすれば,lán は你 lí と我 góa が融合した複数である.台湾語の複数は単数代名詞にnをつけたも のである) 單數 (多)複數 goa goan lí lín i in (出典 www.academia.edu/39113654/_1人称複数代名詞における除外と包括の対立_漢語諸方言を中心に_第一人称代名词的排除与包括的对立_以汉语诸方言为中心_) ところで、「人」は、中国語の普通話では、ピンイン表記において"rén"であるが、これに対応する閩南語は、"lâng"または"jîn"または"lîn"である。 普通話におけるピンインの"r"に閩南語の"l"が対応していることが分かり、周知のとおり、日本語において漢語の「人」は「ニン」と読まれるので、この場合は、"n"が対応している。 ここでもう、ほぼ、>>687 で述べた結論に達している。 >本当に結論として私が示そうと考えているのは、日本語の古語における「な(汝/己=己/汝)」と中国語の「拉」の声遣ひの近似性である。 > 咱 lán 釋義 代詞 我們。第一人稱複數代名詞。「咱」包括聽話者,「阮」不包括聽話者。 第1項釋義的用例:咱攏來讀冊。Lán lóng lâi tha̍k-tsheh. 我們的。第一人稱複數所有格。 第2項釋義的用例:咱公司最近生理真好。Lán kong-si tsuè-kīn sing-lí tsin hó 您、您們。第二人稱單複數敬語。 第3項釋義的用例:請問咱貴姓? Tshiánn-mn̄g lán kuì-sènn? (出典 sutian.moe.edu.tw/zh-hant/su/4776/) >「ひと(人)」は、その本性において「接合部(joint)」における「ベアリング(bearing)」の如き様態で働くものと「認( rèn)識」される 以上に論じてきた様々な声遣ひに関して、中国語の普通話においてピンインの"r"として表記される発声が、既に繰り返ししてきたその発声の弁別特性の不確かさとそのアルファベット表記の奇妙さ(「すわ(据)りの悪さ」と表現することもできるだろう)にもかかはらず、というよりむしろ、その不確かさと奇妙さゆえに、「軸(ぢく)」のような中心的な重要性を帯びて現れる。 そのことは、しかし、まづ、ピンインの"r"の発声が規範として使はれていて、そこからの発声の「づれ」として、ここで論じてきた様々な声遣ひが生じたことを意味するわけではない。 むしろ、ピンインの"r"の発声は、それらの発声を「づれ」として認識することを可能にする「ベアリング」/"bearing"のような役割を帯びることで「軸(ぢく)」のような働きを見せているのである。 「ぢく(軸)」として働くとは、どのようなことだろうか。それは、私には、次のように説明することができるのではないかと思はれる。 つねにま(間)ぢ(近)か「に/で」あることによ(依)り、遠心性としてでも、求心性としてでもなく、「づれ」が生じることを可能にする中心性としてあらは(顕/現)れること、それが「ぢく(軸)」として芯(しん)「に/で」あることの「中『心』性」である。 言語を身体に喩えるとすれば、その規範性は、身体の動きに喩えることのできる「ことばづか(使/仕/遣)ひ」の骨格である。 骨格は、身体の動きを支へるために発達してきたのであって、骨格に生身(筋や肉など)を後から付け加へることによって身体が形成されるわけではない。 したがって、言語の場合においても、その骨格/規範性ばかりを大切にしようとすることは、「ことばづか(使/仕/遣)ひ」を痩せ細らせて形骸化することになる。 言語の身体性を本当に知ろうとするなら、骨格/規範性を無視してしまえば、その動き方が軟体動物のものように感じられて、捉へどころがなくなってしまうとしても、むしろ逆に「ことばづか(使/仕/遣)ひ」の方から、その動きにおいて骨格がどのように役立つように発達させられているのかを探ることが重要である。 誤:軟体動物のものように 正:軟体動物のもののように >>706-709 「中国語の方言のひとつで、閩南語(ミンナン語)の下位方言」とされる潮州語において、 >閩南語の「咱(lán)」に対応する潮州語は、「㑑(nang2 )」である。 (出典 www.mogher.com/baike?kw=咱) read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる