日本思想 [転載禁止]©2ch.net
身内の不幸をはじめとした次々と自分に降りかかる災厄にへこたれず思索し続けた人 ってだけでも西田は凄い人だと感じられる。 西田はこちらで解説書から全集の通読までやってる 【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】 [無断転載禁止]©2ch.net https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1494594731/ 有名な歌が多く、百人一首の元になっている『古今和歌集』と『新古今和歌集』はペアでやる。 それより古い形になるのが『万葉集』。 迷ったら、この三つは、角川ソフィア文庫にあるものが、手軽で註もしっかりしている。 その他は、講談社学術文庫、新潮日本古典集成など。 『百人一首の秘密:驚異の歌織物』 (1981) 『百人一首の世界 新装版』 (1986) 林直道、青木書店 百人一首をテーマ毎に10×10に並べると、一枚の大きな絵になるという話。 https://i.imgur.com/W9dU6hE.png ↓ https://i.imgur.com/qMTQvKq.png ↓ https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/e0/3ce3c037d9c29a6376d9eee7d6a82edb.png 哲学の世界では丸山圭三郎が取りあげた(『丸山圭三郎著作集3』「言葉と無意識」)。 ソシュールのアナグラム研究と比較をして。 井筒「私は、元来は新古今が好きで、古今、新古今の思想的構造の意味論的研究を専門にやろうと思ったことさえあるくらいですから」 ― 井筒俊彦×司馬遼太郎「二十世紀末の闇と光」 『未来哲学:創刊号 特集・未来哲学とは何か』 未来哲学研究所 (2020/11/25) 末木文美士、山内志朗、中島隆博 思想の冬の時代に、あえて船出する思想誌です。希望を語ろうとするのではありません。 そのこと自体が主題となるほどに困難であるからこその挑戦──手がかりは、非西欧の思想圏への、あらためての着目です。 イスラーム、東アジア、ロシアその他の地域の見えなくされた可能性を掘り起こし、思想の風景を描き直すカギを探します。 希望とは何か、終末とは何か。一つの大きなサイクルが巡り終えたかのような、薄暮に閉ざされた時節を超えるために。 <特集・未来哲学とは何か> 前近代・ポストモダン・超近代、あらためて一つの時代区分ではない、思想の、生き方の「近代」を問う。 創刊の言葉 〈哲学〉は〈未来〉に船出できるか? 末木文美士 特集 未来哲学とは何か 1 通底する存在と情念──中世から未来を問うために 山内志朗 2 未来哲学としての東洋哲学 永井 晋 3 来者を思う──哲学の希望 中島隆博 対話 時間軸上の希望とフロンティア──世界哲学と未来哲学 中島隆博・納富信留 コラム 太古の化石林、未来の生態系 辻誠一郎 『バビロン天文日誌』と未来予知学 三津間康幸 二〇世紀の天動説──ロシア宇宙主義のヴィジョン 細川瑠璃 論考 仏教認識論の射程──未来原因説と逆向き因果 護山真也 存在と本質──中世的なるもの 小村優太 AI・仏性・倫理 師 茂樹 モノたちが互いに区別されて存在している世界 法貴 遊 ──アシュアリー学派の行為論と偶因論── 革命・国家・悪──田辺元の実践哲学 田島樹里奈 書評と対話 思想史を書く枠組みをめぐって 葛兆光+末木文美士 185考える名無しさん2020/11/29(日) 11:21:34.350 「『ぢ/じっ』としていろ(≒"hold still")」や「『ぢ/じっ』と見つめる(≒stare at/gaze into)」などの表現における「ぢ/じっ」が流用したのは、中国語の「执(執)ピンインzhí」となった表現だろう。 https://en.wiktionary.org/wiki/ 執#Chinese Middle Chinese: /t͡ɕiɪp̚/ Old Chinese (Baxter–Sagart): /*[t]ip/, (Zhengzhang): /*tjib/ Min Nan (Hokkien, POJ): chip, (Teochew, Peng'im): zib4 それに関連しているのが、日本語にも漢語として取り入れられている 「蟄居(ちっきょ)」の「蟄」という表現である。 https://en.wiktionary.org/wiki/ 蟄 >>492 沖縄には「勢理客」という地名がある。なんと読むのだろうか。 その答えは、「じっちゃく」である。 「じっちゃく」が表現として何を表していたにせよ、それを表記するのに 用いられている漢字「勢」を構成する「埶」が、「執」とよく似ている うえ、「じっ」と読まれていることから見て、共通する表現であり、 なんらかの中国語の表現の流用である。実際、中国で用いられる漢字を 参照すると、「埶」と「執」はともに「执」として簡略化されて表記される 場合があることが分かる。 したがって、 https://ja.wikipedia.org/wiki/ 勢理客 >「じっちゃく」という読みは、「せりきゃく」の沖縄方言(母音の「e」→「i」、 子音の「k」→「ch」)読みである「しりちゃく」が、濁音化・音便化したものである。< という一般に流通している説明は、誤りであるか、あるいは意図的な隠蔽であるものと 私は考える。 https://userweb.mmtr.or.jp/sumiyoshi-do/tetugaku (jinsei)17.htm >縦欲之病可医、而執理之病難医 >縦欲の病は医すべし、而して執理の病は医し難し『菜根譚』 「執」の代わりに簡略された「执」で「执理」を検索すると、 多くのサイトがヒットする。 >「法执重而不去践行佛法,便是执理废事」 「勢理客(じっちゃく)」の「勢」は、本当は「執」と表記されるべきもの であったのではないかと仮定して、「執理客」と書き換え、さらに 「執」を現代の中国で用いられる簡体の「执」に置き換えて「执理客」を 検索すると2件だけヒットするようだが、私は中国語を知らないので、 それがどのような用例なのか明確には分からなない。ただ、 「勢理客(じっちゃく)」が「执理客」に対応すると想定した場合、 「執/执」は、「執念」のように「執着」の意味合いや、 「『じっ』としている」のように「保持された様態」を表すように 用いられているのではなく、「執行」のように「執り行う」ことを 意味するように用いられているのだろうと思われる。すると、「客」 は、「ゲスト」というよりは、「刺客」や「論客」などのように >ある能力で生計を立てる者< https://ja.wiktionary.org/wiki/ 客 や、あるいは、「あるカテゴリーの人々」を表すように用いられている のではないかと推測される。ただし、「勢理客(じっちゃく)」が 実際にそのような表現として地名となったのかどうかは、当然のことながら、 歴史的な検証が必要である。 「あし(足)」や「葦(あし)」が、「あしひきの(≒”lofty”)」の場合と同様に 「高く離れている」ことを表現していることは、既に何度も指摘してきた。 587考える名無しさん2020/10/06(火) 09:33:41.340 話が横に逸れてしまったが、ここで問題にしているのは、指示詞の「あ」であり、 「あなた」の「あ」である。この「あ」は、中国語では「岸ピンイン àn」 (1(そそり立って)高い.2 尊大である.⇒傲岸 ào’àn ) として用いられた 表現の流用であると考えられることを、私は以前から指摘してきた。 https://en.wiktionary.org/wiki/ 岸 Old Chinese (Baxter–Sagart): /*[ŋ]ˤa[r]-s/ (Zhengzhang): /*ŋɡaːns/ 現代の日本語で用いられる「岸」という漢字からは少しイメージが湧きにくいかもしれないが、関連する漢字として用いられてきた「崖」をイメージしてみるといいだろう。ちょうど、水面(みなも)から、そそり立つ断崖を見上げるイメージである。想定される古代の発音が「岸」と近い「仰/卬」の用法もそれに関連しているはずだろうと私は思う。 https://en.wiktionary.org/wiki/卬 ; 卬 (literary or old-style Xiang) I Alternative form of 昂 (áng). to raise high To admire, or look up to (someone) ところで、「勢理客(じっちゃく)」には「神アシャギ」と呼ばれるものが存在する。 「あしゃぎ」は、現代の標準の日本語の発音にすれば、「あしあげ」に相当し、 その語源は、「民間語源説」によって以下ように解釈されているとのことである。 http://yannaki.jp/kamiasagi01.html >神アサギは地域によってアシャギやハサギと呼んでいる。その呼称から「屋根に 足をつけてあげる」ことに由来するとか、「神にご馳走(アシ)をあげる場所」 だからという。久志の汀間や大浦や瀬嵩などの神アサギはかつて海浜や潮がくる 場所にあったことから「足上げ」だと解しているようである< 言うまでもなく、表現を素直に解釈するなら、「神アシャギ(あしあげ)」の 「あし」も、枕詞の「あしひきの」の「あし」と共通であり、「高く離れた様態」 を表現しており、「あげ」は、そのまま「上(あ)げ」であり、 「神アシャギ(あしあげ)」は、単に「神を高く上げること」つまり、 「神をうやま(敬)/おが(拝)む行為のための場所」を意味している。 本当はよく分かっているはずのことを隠蔽しようとするから、簡単に解釈可能な 表現も「由来のよく分からない不明な表現」とされ、さらにそれを語呂合わせで 説明する民間語源説が、誤誘導のために一般に広められるのである。 >>498 「アシャギ(あしあげ)」という言葉をイメージするのに、例えば、 用法は異なるものの、「高揚/昂揚(こうよう)」という表現を考えてみるといいだろう。 放送終了後の長谷川博己も、そのことを匂わせていた。 長谷川博己さんから、みなさんへ。ラストメッセージをお届けします。 https://twitter.com/nhk_kirin/status/1358400195889946625?s=19 ・光秀は生き延びたんだと信じたい ・番外編でお会いできたら嬉しい ・このあと、どうやって光秀は江戸幕府を作ったのか? https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 説の真偽はともかくとして、 ↓などは、タイトルと重なる。 天海所用とされる兜『麒麟前立付兜(きりんまえだてつきかぶと)』 https://pbs.twimg.com/media/EtoUCzUVgAMQvLd.jpg 『現代思想 2020年1月臨時増刊号 総特集=明智光秀』 エンゲルスの『ドイツ農民戦争』の話とか 歴史はこうやって哲学を以て読むべき ロマンではなくて 377考える名無しさん2021/02/08(月) 13:19:12.240 振る舞ひに伴って生じる"accountability"に人々を納得させられる ような形で都合よく応える物語("storytelling")が歴史である。 『朝鮮思想全史』 小倉紀蔵、ちくま新書 (2017) 朝鮮思想史を概観すると、思想の純粋性をめぐる激烈な闘争が繰り返し展開されてきたことがわかる。 思想闘争は政治闘争と直結し、その様相は朝鮮時代の儒教や、解放後の韓国と北朝鮮のイデオロギーに典型的に見られる。 そしてその思想の純粋志向性はやがて運動となり、国家や共同体の成員の肉体的生命を超え 「朝鮮的霊性」が燃え上がる―それが現代の韓国・北朝鮮の激烈な思想運動にもつながってきた。 朝鮮思想をできるだけ客観的に捉え、全体を俯瞰するはじめての試み。 第1章 朝鮮思想史総論 第2章 神話および「古層」 第3章 高句麗・百済・新羅 第4章 高麗 第5章 朝鮮時代1―朱子学(性理学) 第6章 朝鮮時代2―「実学」、陽明学、儒教以外の思想 第7章 朝鮮末期および大韓帝国 第8章 併合植民地期 第9章 朝鮮民主主義人民共和国 第10章 大韓民国 『人物でみる韓国哲学の系譜―新羅仏教から李朝実学まで』 金教斌、金明順 訳、日本評論社 (2008) 韓国に哲学があるのか??教え子の質問に衝撃を受けた著者が構想10年、 誰もが予備知識なしに読める韓国伝統哲学の入門書。 思想家を中心に韓国の思想をわかりやすく書いた一冊。 第1章 韓国哲学の道 第2章 元暁―韓国仏教のルーツ 第3章 知訥―至誠を尽くしても砂でご飯は炊けない 第4章 花潭・徐敬徳―ヒバリを眺めて年を送る 第5章 晦斎・李彦迪―論争を通じて性理学を根づかせる 第6章 退渓・李滉―人が馬を行かせるのか、馬が人を行かせるのか 第7章 栗谷・李珥―王の上には民衆が、民衆の上には米が 第8章 霞谷・鄭斉斗―わが心こそ万物の理致 第9章 燕巖・朴趾源―激動の人生を歩んだ北学の祖 第10章 茶山・丁若〓(よう)―土地は、農民にあらずんば所有すべからず 第11章 現代における韓国哲学 『現代思想 2021年5月臨時増刊号 総特集=陰陽道・修験道を考える』 >>514 この雑誌もやること減ってきてだんだんムーみたいになってきたな >>517 マニア以外に哲学を好む人はいないかも。 歴史なら、普通の人が話に乗ってくることもあるけどな 一般人との会話で哲学を話題にするのは、まず無理だ >>515 陰陽道 → 易 → 『易経』「繋辞上伝」 → 形而上学 東洋哲学の根本 伊藤 仁斎(いとう じんさい、寛永4年7月20日(1627年8月30日) - 宝永2年3月12日(1705年4月5日))は、江戸時代の前期に活躍した儒学者・思想家。京都の生まれ。 『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と尊重した。 初めは朱子学者であったが、後に反朱子学となり、孔子・孟子の原義に立ち返る「古義」を標榜した。 古義学(古学)を提唱し、主著として、『論語古義』『孟子古義』『語孟字義』『中庸発揮』『童子問』。 仁斎の学問手法は、当時支配的だった朱子学的経典解釈を廃し、直接テクストを検討するというものである。 朱子学は学問体系としては非常に整ってはいたが、その成立過程に流入した禅学や老荘思想といった非儒教的な思想のために経書の解釈において偏りがあった。 仁斎はそのような要素を儒学にとって不純なものとみなし、いわば実証主義的な方法を用いた。 このような傾向は同時代の儒学研究に共通にみられるものである。仁斎は朱子学の「理」の思想に反して、「情」を極的に価値づけした。 客観的でよそよそしい理屈よりも人間的で血液の通った心情を信頼している。四端の心や性善説を唱えた。 江戸城には将軍直属の儒学者の詰め所があった 官職で式部大輔、式部少輔、大学頭、紀伝博士、明経博士、明法博士、算博士、音博士、書博士、侍講などに就けたのは伝統的に儒者だけだった γνῶθι σεαυτόν/nosce te ipsum/ Know thyself/我(が="self")としての汝/己(な=羅)を知れ 「〜を!」/《vouloir》がかなは(叶/適/敵)ないことがかな(哀/悲)しいからといって、 「わ(侘/詫)ぶ」こと、すなわち、「みづから(身づ柄/自ら)の我(が)が委縮する」 ことを理想とすることなかれ。「わ(侘/詫)ぶ」ことを「我(が)」の究極的な 理想とすることは、生きることに反する。 JDSC 東大ベンチャー AI企業、この国は変えられる。これからは、AI時代です https://jdsc.ai/mission/ この国は変えられる これからは、AI時代です。AIの活用で、日本は変えられる。 アップグレードできる。AIの活用の活用がキーです JDSC 東大ベンチャー AI企業 加藤 エルテス 聡志 MISSION:この国は変えられる。 わたしたちは、日本をアップグレードする。 この国の未来を憂えるのではなく、変えるために、私たちは、日本の英知を結集する。 東京大学の知を社会に還元する ビッグデータ、機械学習、IoT、ロボティックスなど、デジタル領域で東京大学は膨大な知見を有しています。 JDSCは東京大学の複数の研究室と協力し、知の社会還元と実装をリードします。 2022年 テンバガー候補 JDSC 4418 AI銘柄で、東大からみ AI分野の成長は、まだ始まったばかり 半導体株の成長が何年も続いたと同じ 今後のAI分野の成長、楽しみです AI通信@ 今、投資対象として「AI」をどう見るか? 日興證券 https://www.smbcnikko.co.jp/products/inv/toshin_lab/column/002.html AI関連企業の成長物語はまだ始まったばかり 官民の積極的な取り組みが加速するAI https://www.smbcnikko.co.jp/products/inv/toshin_lab/column/img/column_ai_02.png https://manyoshu-japan.com/10059/ >原文:奈我波伴尓 己良例安波由久 安乎久毛能 伊弖来和伎母兒 安必見而由可武 >訓読:汝が母に嘖られ我は行く青雲の出で来我妹子相見て行かむ >かな:ながははに こられあはゆく あをくもの いでこわぎもこ あひみてゆかむ >訳:あんたの母さんに叱られて私はすごすごと退散する。でも青雲のように そっと出てきておくれ私の彼女。一目見て行きたい。 >>523 中国語の漢字の用法として「情」が「心+青」であるのは、 それが「心の行(ゆ)きの深さ」を感じさせるものだからだろうか。 青が深海と結びつくならそうかもな。 それにしても、原武史って今放送大学で教えているんだな。気づいていなかった。 江戸時代以前の原子論、宇宙論、世界観に関心あり。 わかりやすい本、雑誌記事教えてください デジタル源氏物語「AI画像検索」がリニューアルされました!「源氏物語」諸本の検索の利便性を高めるため、くずし字OCRを活用した検索結果を提供してきましたが、対象資料数が約30点に増えました。読みたい個所を効率的に探したいときなどに是非ご利用ください。 https://mobile.twitter.com/UTokyo_GenLib/status/1552094645282549760 https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 日本あああああああああ!の劣化コピー推進委員会(にほん-れっか-すいしんいいんかい,Nihon Aaaaaaaaa! No Rekkacopy Suishin Iinkai 略称NARSI)とは日本在住の活字フェチ達の有識者会議である。彼らは非常に平仮名を愛好しており、平仮名の最初の文字である「あ」を信仰・崇拝する過激派あ教徒である。この委員会のメンバーは主に夜行性動物であるモモンガ、ヤマネコ、コウモリ、アイアイ、タスマニアデビルなどからなる。彼らの指はキーボードを打つのには不適切だが、人間に改造されてロボットアームを取り付けられたサイボーグアニマルであるためノープロブレムである。 彼らと同様の団体は全世界に存在しており、AAAAAAAAA! Association; AAと称される超国家結社である。彼らの正体はスーパーハッカーである真のVIPPERやNEONEETと呼ばれる大富豪であるため、アンサイクロメディア財団へ大金を寄付して管理権を「買う」ことが可能である。 彼らはなぜかウィキペディアンに恐ろしいまでの怨念を抱いており、ウィキペディア攻撃用に田代砲などのF5兵器を大量に隠し持っていると言われているが、彼らは米帝の陰謀であるとして真っ向から否定している。 朝鮮語で「置く」を意味するように使はれる「두다」の「두」と日本語の「あと(跡)」の「と」の間には、前者の声には漢字の「斗」(万葉仮名では、甲類の「と」に当てられる)が対応するものとされ、「跡」は、万葉仮名では、乙類の「と」に当てられるという違ひがあるものの、共通性が感じられる。 これは、朝鮮語と日本語の間の関係というよりも、中国語とも共通する表現における声の用法にその基盤があるのだろうと思う。 >「把」(bǎ)というのは簡単に言うと日本語の「〜を」という助詞です。 日本語では修飾する目的語の後に「を」という助詞が来ます。 「把」構文完全マスター!中国語学習における使い方と注意点 このように説明されているけれど、表現法としては、日本語の「〜を」は、中国語で介助とされる「把」(bǎ)には対応していない。 むしろ、日本語の「〜は」の方が、中国語の「把」(bǎ)に対応する表現の流用であると見る方が自然ではないのか。 朝鮮語の「혹시 • (hoksi)」の「시 」が「或是」の「是」であるように、日本語の「も(若)し」などの「し」も「是」だと思うが。 「そんな・に」の「に」も、「彼呢」のように台湾語では、「呢」で表記される「昵/暱(Middle Chinese: nrit)」の流用だろうし。 「〜や」の「や」は、そのまま「也(Middle Chinese: yaeX)」だし(「である『是』」)。 国語学/日本語学は、とても不正直だと思う。 岩波古語辞典には、どうみてもこじつけの無根拠な朝鮮語起源ばかり記載されているし。 「ひとつ、ふたつ、みっつ」の「つ」も、数詞が中国語の表現をそのまま使っているのだし、「次々」が「つぎつぎ」と読まれるのだから、「つ(次)」だよね。 「〜が」の「が」が、同一性を表現するように流用された「我」であることは以前から指摘してきた。 こうして、逐一、対応関係を洗い出していく作業は、中国語との対比において日本語の表現がどのように形成されているのかを明確に意識するためにも大切だろうと思う。 その作業を丁寧に進めることで、印欧諸語の表現との意外な対応関係も明らかになる。例えば、日本語の「ぬ(貫)く」などの「ぬ」のこゑ(声)は、中国語の「路」、「露」、「漏」、などに使はれる"Middle Chinese: luH"や"Middle Chinese: luwH"などのこゑ(声)に対応していると考へられるが、この後者の声は、例えば、英語の"luck"などの表現における声の使はれ方と共通して、「通り『ぬ』ける様態」を想起させる。 日本語の「わ」、「ゐ」、「ゑ」、「を」について考へてみても類例がすぐに思ひ当たるはずである。 例えば、逆方向で、英語の"way"を日本語の平仮名で「ゑゐ」に移してみると、そのこゑ(声)は、すぐに中国語の「外((Pinyin): wài (wai4))/(Middle Chinese: ngwajH)」という表現を想起させることになるだろう。 「怨(ゑん)」は、うち(内)にこもると「悪(あく)」にかは(変)り、「鬼(おに)」として姿をあらは(顕/現)すようになる。 「ゑゐ」は、"way"の平仮名への転記としては正しくなく、より適切には「ゑい」だが、「ゑゐ」に移してみることは、"way"という表現の"away"や"way-out"としての用法を捉へるのに役立つ。 英語の"want"と、中国語の「願(Middle Chinese: ngjwonH)」と、朝鮮語としての「원(願) (won)」の流用と、日本語の「〜を」という願ひは、こゑ(声)の使ひ方としても互いによく対応しているだろう。 言語系統論には、「それなりの妥当性」が認められるが、しかし、それはやはり「それなり」のものでしかなく、どのような基準により言語が同系統であると分類されるのかは、その考え方の根本においてそれほどはっきりしていない。 「そんなことはない、異なる言語の間で『基礎的な語彙』を比べて、規則的な音韻対応が認められるなら同系統の言語と認められるのだ」という反論があるかもしれないが、そもそも、「語彙に使はれる音韻に規則的な対応関係が認められるとはどのようなことなのか」について十分に深く考察されているとは言い難い。 無論、ラテン語、イタリア語、スペイン/ポルトガル語、フランス語が「同系統の言語」として認められることや、中国大陸の公用語とされる中国語と台湾の台湾語が「同系統の言語」として認められることを否定する人はまずいないだろう。 しかし、逆に、何がどれだけ異なっていれば、別系統の言語であることになるのかは、それほどはっきりしない。 また、系統を判断する際に、比較の対象として「『借用語』は排除する」ことになっているが、どのような表現が「借用語」であり、どのような表現が「固有の語彙」であるのかを分ける明確な基準があるわけでもなく、そのような明確な基準が存在するかのように決めてかかること自体が、「ことばを使ふとはどのようなことであるのか」について根本的に誤った考え方に人を導くことになる。 >訓読み 訓読み(くんよみ)とは、日本語において、個々の漢字をその意味に相当する和語(大和言葉、日本語の固有語)によって読む読み方が定着したもの。 (ja.wikipedia.org/wiki/訓読み) このように、日本語の「訓読み」は、一般には、和語に対応する意味の中国語の漢字を当てたものであると理解されている。 そのように考へると、「音読み」の方は、それが日本語の発声により変化させられているにしても、中国語における漢字の読み方に対応するものとされ、中国語としての漢字にはその「正しい読み方」が決まっているものであるかのように思える。 その一方で、中国語の「方言」、例えば、台湾語の漢字表記を見ると、公用語としての中国語の漢字の読み方には対応しない「当て字」が多く見られる。 例えば、台湾語で「〜している」を表現する"teh"(教会ローマ字表記)や、「〜にある」などの場所を示す表現である"ti"を表記するのに用ゐられる「在」は、公用語の中国語の漢字の用法から見れば、「当て字」だろう。 これらの「こゑ(声)」の用法から見るなら、これらに対応する漢字として、私には「在」よりも、むしろ、「佇」のような漢字の方が想起される(それが適切であるかどうかは別として)。 しかし、では、翻って、公用語の中国語として使はれる漢字の読みについてはどうなのかと言へば、それぞれの読みが公式に定められているとしても、原理的には、やはり、ことばとして使はれるこゑ(声)を適切に表記するために考案されて慣習的に用ゐられるようになった「当て字」であることになるはずである。 例えば、日常語としてもよく使われる「枠(わく)」という表現について考へてみるといい。 「枠」は、中国では用ゐられない日本で独自に考案された「国字」である。 では、「枠(わく)」は、和語だろうか、漢語だろうか。 「枠外(わくがい)」、「枠内(わくない)」、「予算枠(よさんわく)」のような表現を見ると、漢字の音読みと組み合わされているのだから、漢語であるようにも見える。 その一方で、「窓枠(まどわく)」、「大枠(おおわく)で」、「外枠(そとわく)」を「窓枠(そうわく)」、「大枠(だいわく)」、「外枠(がいわく)」と読む人はいないし、「枠(わく)組(ぐ)み」とは言っても、「枠組(わくそ)」とは言わない。 このことから見ると、「枠(わく)」は、漢語ではないものとして意識されていることになるだろう。 これについて、また後でさらに書き込むことにする。 ひと(人/一)として「気まま」であろうとすること、すなはち、「任(/認)性」を具現化しようとすることにこそ、ひと(人/一)としての「まともさ」/"integrity"の追求がある。 >>554 さて、「枠(わく)」は、漢字の訓読みだろうか、音読みだろうか。 「枠外(わくがい)」、「枠内(わくない)」、「予算枠(よさんわく)」などにおいては、音読みされる漢字の表現と一体化するように組み合はされているのだから、「枠(わく)」も音読みであるように感じられる。 これに対して、「窓枠(まどわく)」、「大枠(おおわく)」、「外枠(そとわく)」、「枠組み(わくぐみ)」などにおいては、訓読みされる漢字の表現と組み合はされているのだから、「枠(わく)」も訓読みであるとするのが自然である。 ところで、「音読み」とは、その定義上、中国語として用ゐられる漢字の日本における漢語として読みとされるのだから、「枠(わく)」という漢字が中国で用ゐられてきたものではなく、日本で考案された「国字」であることから、「枠(わく)」は、定義上、音読みではあり得ないことになり、Wiktionaryの記載を参照してもやはり、「枠(わく)」は、「訓読み」であると記載されている。 「国字」の読みを「音読み」とすることは認められないということだろう。 しかしながら、「枠 - ウィクショナリー日本語版」を参照すると、 >「わく」は糸枠を意味する「篗」の字音であろう。 意義 1. いとわく。まわして糸を繰るのに用いる、木を組み合わせた道具。 2. わく。いとわくの様に、木を組み合わせて周囲を囲むもの。 とも記載されている。ここで「いとわく」を漢字表記するのに「糸(いと)枠(わく)」ではなく、「糸(いと)篗(わく)」と表記し、この事例に限らず、一般的に「枠(わく)」という国字を「篗(わく)」で置き換へたなら、例えば、「窓枠(まどわく)」ではなく、「窓篗(まどわく)」と表記することにしたなら、「窓(まど)」は訓読みのままであるものの、「篗(わく)」の方は、その定義上、音読みということになるだろう。 ところで、「窓枠」や「型枠」が「そうわく」、「けいわく」と読まれるのではなく、「まどわく」、「かたわく」と読まれるのはなぜだろうか。 そもそも、「篗(わく)」という漢字が既に存在するのに、わざわざ日本語独自の「枠(わく)」という「国字」を考案したのはなぜだろうか。 それは、「わく」が、既に漢字としてどのように表記されるのかとは無関係に「日本語のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として通用するようになっていて、「篗(わく)」と表記すると、ただちに「糸を巻き取る道具」としての「篗(わく)」が想起されてしまい、不都合が生じたからだろう。 「わく」の用法に対して「篗(わく)」という漢字表記が適当であるとは感じられなくなっていたからこそ、「枠(わく)」という別の漢字を新たに考案することが要請されたのだろう。 その時点で、「枠」と表記することが適当であると感じられる「わく」という「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は、既に中国語として通用する表現である「篗(わく)」を離れて、日本語として独立した表現となっている。 しかし、日本語としてだけ通用する「わく(枠)」が中国語の表現としての「篗(わく)」から独立したことは、これらのそれぞれの「こゑ(声)」の用法の対応関係が失はれたことは意味していないことに留意することも、極めて重要である。 「わく(枠)」は、日本語の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として独立して通用しているのだから、それがもとは、中国語の表現としての「篗(わく)」の流用であったとしても、その中国語の表現に依拠する「借用」ではない。 その一方で、日本語として意識されるようになったこの「わく(枠)」は、にもかかわらず、依然として、中国語の表現としての「篗(わく)」の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」と、そのそれぞれが想起させるイメージにおいて対応関係を保っている。 さらに具体的に説明しよう。 日本で中華鍋として知られる滑らかなドーム状の円形の鍋のことを、英語では"wok"と呼ぶ。 "wok"の"o"の発音は、日本語の母音に移そうとすると、「あ」とも「お」ともつかない中間的なものなので、日本語を母語とする人がその発音を聞くと、「ワク」と聴こえるだろう。 ところで、この中華鍋を指す英語の"wok"は、言ふまでもなく、その鍋を指す中国語の表現の借用である。 Wikipediaで「中華鍋」の項目を参照すると、次のとおり記載される。 >広東語では「鑊」となる、英語も鑊の音をそのままに訳して「ウォック、wok」と呼ぶ。 もう気づいただろう。「鑊(Middle Chinese: hwak)」("wok")は、「金*蒦」という構成だが、「篗(わく)」は、「竹*蒦」という構成であり、これらの「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は互いに共通している。 ここで、日本語の「わく(枠)」という表現まで含めて、これらの「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」がなぜどのように互いに共通しているのかについて説明することはたやすい。 「篗(わく)」については、岩波古語辞典を参照すると、「糸を巻き取る道具。軸木のついた枠(わく)を回転させながら巻き取る。」と記載される。 要するに、「ぐるりと回(まは)す(ことによりその周囲に糸を巻き取る)道具」である。 その道具を指すことを意図する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が、「鑊(Middle Chinese: hwak)」("wok")や「わく(枠)」を指すことを意図する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」とどのように共通するのかは、 例えば、スペイン語の"contornear"という動詞について考へてみれば、直観的にすぐに分かるだろう。 >contornear 1. ...の輪郭を描く、スケッチする 2. 周囲を回る。contornear una montaña 3. [技] 輪郭に沿ってのごぎりを引く (出典: 小学館 西和中辞典) 「鑊(Middle Chinese: hwak)」("wok")と呼ばれる中華鍋は、調理の具材をぐるぐる回しながら調理するのに都合よく工夫された形状の調理器具であり、「枠(わく)」は、周囲をぐるりと輪郭、すなはち、英語で言へば、"contour"である。 ここで、日本語の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として、周囲をぐるりと輪郭/"contour"を表現するものとして通用するようになった「わく(枠)」が、その日本語としての独自性にもかからわず、中国語の表現における「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」との対応関係も依然として(それを特に意図することなく)保っていることは、例えば、中国語の「廓(Middle Chinese: khwak)」という表現について考へてみれば分かるだろう。 >廓 broad; wide; open; empty (literary) to expand; to widen (literary) to clear away; to eliminate outline; contour 輪廓/轮廓 ― lúnkuò ― outline (出典 en.wiktionary.org/wiki/廓#Chinese) さて、「日本語」そのものが全般的に、中国語とも共通する表現から、このようなプロセスにより「独立した言語」として形成されたと想定したとするとどうだろう。その場合、日本語は、中国語と「同系統の言語」ということになるのか、それとも「別系統の言語」ということになるのだろうか。 >>564 ・中国語…シナ・チベット語族 ・日本語…ウラル・アルタイ語族 ・朝鮮語…ウラル・アルタイ語族 ・ドラヴィダ語…ウラル・アルタイ語族 トラヴィダ語は、南インドやスリランカなどに多い、インド先住民の言語。 日本語・朝鮮語とタミル語などドラヴィダ語との比較は以下が詳しい。 現地では、「しめ縄」や「門松」、「鏡餅」、「どんど焼き」の原型とみられるものも見つかっている。 現在のカマラ・ハリス米副大統領がタミル系。 ・大野晋『日本語はどこからきたのか:ことばと文明のつながりを考える』 中央公論新社 (1999) ・大野晋『弥生文明と南インド』 岩波書店 (2004) 南インドやスリランカは、「南伝仏教(上座部仏教、小乗仏教)」と呼ばれる、ブッダの時代の仏教を今日まで継承してきている地域。 日本が中国・朝鮮を経由して輸入した仏教は漢訳された「北伝仏教(大乗仏教)」。 誤:「枠(わく)」は、周囲をぐるりと輪郭 正:「枠(わく)」は、周囲をぐるりと囲む輪郭 その語源がどうであれ、じゃんけんの「グー」は、手のひらを「にぎる」ような凝集性を想起させる「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」である。 では、中国語の「外(Middle Chinese: ngwajH)」は、どうだろうか。 現代の日本語で考へてみても、中国語の中古音として想定される「外("ngwajH")」は、何らかの「凝集が広がりゆく」ような様態を想起させるのではないか。 このように想像力を働かせて、「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が互ひにどのように「を(折)り合ひがつく」ように用ゐられているのかを考へてみることは、ことばがどのようなことを伝へようとしているのかを知るために無駄なことではないだろう。 「凝集が広がりゆく」という表現は、あまりよくないな。 「何かが凝集した状態から広がりゆく」と表現した方がいいだろう。 ことばの表現の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は、それがどのようなことを伝へようとしているのかを知る手がかりとしてとても役に立つ。 私は、中国語の学習者ではなく、興味本位で地元の図書館から中国語のいくつかの「方言」の入門書を借りてきて眺めてみただけだが、それだけでも、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を比較からいろいろなことに気づかされる。 例えば、台湾語の入門書には、「歹勢 ― pháiⁿ-sè」という表現が出てくる。 この表現は、日本語にすれば、「恐れ入る」に対応するような意味で使はれている。 ここで、「歹」という漢字が当てられている"pháiⁿ"という「こゑ(声)」は、「歹」という漢字の字源がどのように解釈されるにせよ、「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」としては、私には、中国語の普通話における「怕( (Pinyin): pà/Middle Chinese: phaeH)」との対応関係をすぐに想起させる。 しかし、それだけには留まらない。 「歹("pháiⁿ")」/「怕( (Pinyin): pà/Middle Chinese: phaeH)」は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において、フランス語の《avoir peur》という表現における《peur》によく対応しているが、このことは、日本語の表現として「怖気付(おじけづく)」という表現を思ひ起こさせる。 現代の日本語では、かな表記は、「おじけづく」とすることが「標準」とされるが、本来、この表現に適切なかな表記は、「おぢけづく」であり、この「おぢ・け」に表現に当てる漢字は、「懼(お)ぢ・け(気)」である。 気づいただろうか。この「懼(お)ぢ・け(気)」の「懼(お)ぢ」の「ぢ」は、「懼(お)づ懼(お)づと」という表現から分かるとおり、既にかなり詳しく検討した中国語の普通話において"Pinyin: r"として表記される「そり舌音の"r"」に対応するものと考へられると私が指摘した「ゆづ(譲)る」の「づ」の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」と同様である。 「怕( (Pinyin): pà/Middle Chinese: phaeH)」には、「〜を嫌ふ」という用法があるが、この場合の「嫌ふ」が伝えているのは、例えば、「羹に懲りて膾を吹く」という日本語のことわざに対応するように使はれるとされる英語のことわざ、"Once bitten and twice shy"の"shy"であり、"shy away from 〜"である。 このことからも、「歹("pháiⁿ")」/「怕( (Pinyin): pà/Middle Chinese: phaeH)」⇔"shy away from 〜"⇔「懼(お)ぢ」という対応関係を見出すことができる。 ここで、岩波古語辞典で「懼(お)ぢ」を参照すると、 >オドシ(威)の自動詞形。相手を恐ろしい物だと思い込んでいる結果、相手の前で委縮して動作がにぶる意 と記載されている。 しかし、このように見てくると、この説明が「論理的に逆立ちしている」ことに気づくだろう。 表現の関係として、「懼(お)ぢ」が「オドシ(威)」の自動詞形なのではなく、「オドシ(威)」の方が「懼(お)ぢ」から派生させられているのである。 このことは、形容詞として英語の"shy"に対応し、日本語の「懼(お)づ懼(お)づとした」に対応するような意味で用いられるドイツ語の»schüchtern«という表現について考へてみれば分かる。 なぜなら、ドイツ語の»schüchtern«に対応する日本語が「懼(お)づ懼(お)づとした」であるとすれば、「おど(威)す」に対応するのが、そこから派生した動詞である»einschüchtern«だからである。 >einschüchtern Etymology ein- + schüchtern + -en, calque of Latin intimidō. 1. to intimidate den Gegner einschüchtern ― to intimidate the opponent (出典 en.wiktionary.org/wiki/einschüchtern#German) このように「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を手がかりとして利用すると、様々なことばの表現が言語の境界を超えて自然にネットワークを形成することになる。 この場合も、中国語の普通話においては、"Pinyin: r"として表記されることになった「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が日本語の表現として取り入られれて、「和語」として広く使はれているだろうことに気づかされる。 ただし、この場合は、「わく(枠)」のようにまだ漢語であるのかそうでないのかという判断のあいまいさを引き起こす事例とは異なり、中国語としてはすぐに対応関係を見出すこともむづかしい、単に日本語固有の表現において用ゐられる「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」としてしか一般に認識されなくなっている。 ひと(人/一)は、「任性」が「忍性」である限りにおいて、つまり、(恁/忍)=(忍/恁)である限りにおいて、ひと(人/一)として「まとも」であり得る。 しかし、大君(おほきみ)と大伴(おほとも)の間では、「ま(任)けのまにま(随意)に」とみづから(身づ柄/自ら)が気をとりなほしてみても、決して(恁/忍)=(忍/恁)というひと(等)しさは成立しないのである。 台湾語で自身に対する相手を指すのに使はれる「恁」について考へていたら、「恁」と「我」の関係性から日本語の古語の「やさし」の用法についてメタ言語的にうまく記述できることが分かった。 これについて後で書き込むことにする。 万葉集 八九三 >「世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」 この「やさし」が伝へているのは、英語を用ゐて説明するなら、"make one to forebear (too much)/require (too much) forbearance"である。 なぜそのように解釈することが妥当であるのか、後でさらに詳しく説明する。 ヒントとなるサイトの記述を引用しておこう。 >forbearing プログレッシブ英和中辞典(第5版)の解説 [形]((形式))〈人が〉自制心がある,がまん強い;寛容な(lenient). >lenient プログレッシブ英和中辞典(第5版)の解説 [形] 1 (人に)寛大な,哀れみ[情け]深い≪with,to,on≫;(事を)大目に見る≪about≫. 2 ((古))(痛みなどを)やわらげる,静める. [原義は「やわらかくする」] しかし、ここで「恁」という漢字を見れば、 相手である「恁」に対して「我」を自認する者に対して、「恁」の様態は、「『我』を『自・認』する者の「任・性」」に対する「忍」となることから既に応へは得られている。 >「また人の奉り代ふるまでは置かせ給(たま)ひて、とり動かすことはせさせ給はぬ。あまりやさしきことなりな」 (出典 大鏡 師尹) この「やさしき」の用法が現代の日本語では通用しなくなっているのは、「やさし」という表現が日本語の古語において本来、伝へていたはずのこと、すなはち、「恁」(≒"lenience")と「忍」(≒"forbearance")のキアスム的に反転する関係性にあり、(恁/忍)=(忍/恁)という反転が成立することが忘れられているからである。 >「我」を自認する者に対して、「恁」の様態は、「『我』を『自・認』する者の「任・性」」に対する「忍」となる 「あまりやさしき」態度を見せることは、「『我』を『自・認』する者の『任・性』」を増長させる。 read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる