日本思想 [転載禁止]©2ch.net
さらに、本当に結論として私が示そうと考えているのは、日本語の古語における「な(汝/己=己/汝)」と中国語の「拉」の声遣ひの近似性である。 しかし、これについて述べるには、さらに多くの例示と論証を必要とするが、その際に中心的な重要性を帯びて現れるのが、この場合も、中国語の普通話においてピンインの"r"により表記される声遣ひである。 中国語において「阿拉」は、「我们」の方言とされるが、 「我们」の用法は、以下のとおり説明される。 >(複数1人称;自分の側にある人々を含めて「私たち」と言う場合)私たち,僕たち,我々. ◆(1)‘我们’は話し相手を含んで「私たち」と言う場合に用いることもあるが,多くは話し相手を含まない場合に用いる. (出典 cjjc.weblio.jp/content/我们) この「多くは話し相手を含まない場合に用いる」という説明は、日本語の「私ら」の場合にもそのまま当てはまるだろう。 さらに、「等」は、中国語においても、 >((文語文[昔の書き言葉])) (人称代名詞や人を示す名詞の後に用いて複数を示し)…ら,…たち として用ゐられる。ただし、その発声は、「〜ら」に類似するものではなく、"děng"である。 しかし、「等」は、動詞としては、 >(友人・自動車・電話・手紙など具体的な人や事物が来るのを)待つ,(…することを)待つ. として用ゐられることから、この「〜ら」も、英語において"waiter"がそのような意味合ひを帯びるように、「〜等」≒"〜 and attendant"のような捉へ方なのではないかという気がするが、私は、中国語そのものについては、知識がないので、検証はできていない。 ここで、一見したところ、この話題とは何の関係もないように思える問ひを発することにしよう。 その問ひとは、 熱(ねつ)は、どのようにあつ(熱)いのか、 である。この問ひに適切に応へようとすると、いろいろと興味深い関係が見えてくる、というより、如実に感じられるように思えてくる。 中国語の普通話においてピンインの"r"とし表記される声遣ひが、どれだけ多様な現れ方をするか、まづは、日本語としてもよく知られている「如来(にょらい)」という表現を具体例として考へてみるといい。 >如來 標準中国語: ピンイン: rúlái 広東語: イェール式: yu4loi4 粤拼: jyu4loi4 閩南語: POJ: jû-lâi, lû-lâi, jî-lâi, lî-lâi 閩東語: 平話字: ṳ̀-lài, ṳ̀-lì 客家語: 白話字: yì-lòi 呉語: zy1 le 中古漢語: nyo loj (出典 ja.wiktionary.org/wiki/如來) >>690 こうして並べてみると、声遣ひが接合しながらづれてゆく様子がうかがへる。 声遣ひのづれがづれとして意識される限りにおいて、す(擦)り合はせがこころみられ、対応関係を探られるが、 しかし、それぞれの声遣ひが規範として意識されるようになると、す(擦)り合はせは放棄されて、づれはもはやづれとして意識されなくなり、すれ違ひとなる。 さらに、すれ違ひを生じるようになった後、別のすり合わせの必要が生じると、声遣ひが規範化は、それぞれ別の体系化に向かふことになる。 >熱(ねつ)は、どのようにあつ(熱)いのか これは、実は、中国語の普通話においてピンインの"r"によって表される声遣ひについての問ひでもある。 なぜなら、「熱(ねつ)」は、漢語であり、普通話では、"(Pinyin): rè"と発話され、それに対応する中国語の中古音が"Middle Chinese: nyet"であったと想定されているからだ。 >熱(ねつ)は、どのようにあつ(熱)いのか このように問はれたとき、大多数の人々は、そのような問ひ自体が無意味であると考える。 なぜなら、熱(ねつ)があつ(熱)いのは、「当たり前」だからである。 つめ(冷)たかったらそれは熱(ねつ)ではない、というわけだ。 したがって、多くの人々には、既に自明であることについて問ひを発することの意味が伝はらない。 しかし、その問ひを次のように変へた場合は、どうだろう。 「思ひが『あつい』」、「こころざし(志)が『あつい』」、「情に『あつい』人」と言ふとき、思ひ、こころざし(志)、情は、どのように「あつい」のか。 相手の熱意が「あつく」伝はってくる場合、その「あつさ」は、どのように「あつい」のか。 さらに、日本語の古語の「病(やまひ)が『あつしく』なる」の「あつし」では、それが「熱(ねつ)」によるものであるという解釈は成立しなくなるわけだけど、では、その「あつし」は、「熱(ねつ)の『あつさ』」とはどのような関係にあるのか。 「熱(ねつ)」が、「どのようにか『あつい』」ことの、その「どのように」とは無縁なのか。 上海語においては、「阿拉」が「我伲」もしくは「伲」にとって代わり、この「拉」の用法そのものは、「a篤」における「篤」の用法と類縁関係にあると見做されていることを思ひ起こそう。 ところで、「篤」は、日本語においては、「あつし」という表現に当てられる漢字である。 ここでも、あまり説明が長引くと、却って、何を言ひたいのか伝はりにくくなるので、一応の私の結論を先に述べておこう。 それは、「あつし」という様態は、その本性において、英語を用ゐるなら、"bearing upon 〜"、さらには"overbearing"とされるような様態に対応しているだろう、ということだ。 >overbear (v.) 14世紀中頃、overberen という言葉は「持ち越す、転送する、伝える」という意味で、現在は使われていない(ラテン語の transferre を翻訳していた)。これは over- と bear(動詞)から派生しています。1535年(カバーデール)からは「物理的な力の重みで押し倒す、圧倒する」という意味で、もともと航海の際に使われていました。比喩的な意味で「権力、権威などによって克服し抑圧する」という意味は1560年代から使われています。 (出典 etymonline.com/jp/word/overbear#etymonline_v_10036) Wiktionaryの記述によれば、以下のとおりである。 >熱 composition 埶灬 Phono-semantic compound (形聲/形声, OC *ŋjed) : phonetic 埶 (OC *ŋeds) + semantic 灬 (“fire”). >埶 The character 埶 (OC *ŋeds) was also often phonetically borrowed to represent another character 勢 (OC *hŋjeds). >勢 posture; position; pose; bearing 日本思想などと言うものはない。 日本幻想ならある。どこの国でも同じ。 >>698 >なつ(夏)はあつい 岩波古語辞典で「なつ(夏)」の項目を参照してみると、この辞典に記載される語源説の「いかがはしさ」が、典型的によく分かる。 そこには、「なつ(夏)」は、 >朝鮮語nyörɐm(夏)と同源 と記載される。この"nyörɐm"は、現代の朝鮮語では、「여름( /jʌ̹ɾɯm/)」であり、カタカナ表記するなら「ヨルム」と転記されるだろう。 (参照 ja.wiktionary.org/wiki/여름) ところで、朝鮮語の場合には、中国語の普通話においてピンインの"r"により表記される声遣ひが、カタカナ表記するなら「ヤ、ユ、ヨ」となる声に移されることは既に指摘した。 朝鮮語を知っているなら、「여름 (yeoreum) 」という声遣ひから、朝鮮語として用ゐられる漢語である「열 (yeol) <熱> 」を想起しないはずがなく、この"nyö"/"yeo"が、「如(여(yeo))」と同様に中国語のピンインの"r"の声遣ひに対応することに気づかないはずはない。 ところが、岩波古語辞典では、語源説明において中国語における対応する表現は完全に無視されているのである。 これは、明白に意図的な無視である。 >上海語においては、「阿拉」が「我伲」もしくは「伲」にとって代わり、この「拉」の用法そのものは、「a篤」における「篤」の用法と類縁関係にあると見做されていることを思ひ起こそう。 >伲 異體字(你):儞|伱|伲|𤙌|妳 (出典 zh.wiktionary.org/wiki/伲) >汝 汉语拼音:rǔ 粵拼:jyu5 臺羅拼音:lí >汝 讀音 訓讀:なんじ (nanji) 音讀:じょ (jo) 朝鮮語 汝 讀音 音讀 여 (ye) (出典 zh.wiktionary.org/wiki/汝) そろそろ、日本語の「な(汝/己=己/汝)」と中国語の「拉」の近似性が如実に感じられるようになってきたのではないだろうか。 >昵懇(読み)ジッコン デジタル大辞泉 「昵懇」の意味・読み・例文・類語 じっ‐こん〔ヂツ‐〕【×昵懇】 [名・形動]《「昵」は、なれしたしむ意》親しく打ち解けてつきあうこと。また、そのさま。懇意。 ここで、大切なことなので、>>691 で述べたことを繰り返そう。 >声遣ひのづれがづれとして意識される限りにおいて、す(擦)り合はせがこころみられ、対応関係を探られるが、 しかし、それぞれの声遣ひが規範として意識されるようになると、す(擦)り合はせは放棄されて、づれはもはやづれとして意識されなくなり、すれ違ひとなる。 さらに、すれ違ひを生じるようになった後、別のすり合わせの必要が生じると、声遣ひが規範化は、それぞれ別の体系化に向かふことになる。 >台湾語の lán は完全に異なる道を通ってきている.意味 からすれば,lán は你 lí と我 góa が融合した複数である.台湾語の複数は単数代名詞にnをつけたも のである) 單數 (多)複數 goa goan lí lín i in (出典 www.academia.edu/39113654/_1人称複数代名詞における除外と包括の対立_漢語諸方言を中心に_第一人称代名词的排除与包括的对立_以汉语诸方言为中心_) ところで、「人」は、中国語の普通話では、ピンイン表記において"rén"であるが、これに対応する閩南語は、"lâng"または"jîn"または"lîn"である。 普通話におけるピンインの"r"に閩南語の"l"が対応していることが分かり、周知のとおり、日本語において漢語の「人」は「ニン」と読まれるので、この場合は、"n"が対応している。 ここでもう、ほぼ、>>687 で述べた結論に達している。 >本当に結論として私が示そうと考えているのは、日本語の古語における「な(汝/己=己/汝)」と中国語の「拉」の声遣ひの近似性である。 > 咱 lán 釋義 代詞 我們。第一人稱複數代名詞。「咱」包括聽話者,「阮」不包括聽話者。 第1項釋義的用例:咱攏來讀冊。Lán lóng lâi tha̍k-tsheh. 我們的。第一人稱複數所有格。 第2項釋義的用例:咱公司最近生理真好。Lán kong-si tsuè-kīn sing-lí tsin hó 您、您們。第二人稱單複數敬語。 第3項釋義的用例:請問咱貴姓? Tshiánn-mn̄g lán kuì-sènn? (出典 sutian.moe.edu.tw/zh-hant/su/4776/) >「ひと(人)」は、その本性において「接合部(joint)」における「ベアリング(bearing)」の如き様態で働くものと「認( rèn)識」される 以上に論じてきた様々な声遣ひに関して、中国語の普通話においてピンインの"r"として表記される発声が、既に繰り返ししてきたその発声の弁別特性の不確かさとそのアルファベット表記の奇妙さ(「すわ(据)りの悪さ」と表現することもできるだろう)にもかかはらず、というよりむしろ、その不確かさと奇妙さゆえに、「軸(ぢく)」のような中心的な重要性を帯びて現れる。 そのことは、しかし、まづ、ピンインの"r"の発声が規範として使はれていて、そこからの発声の「づれ」として、ここで論じてきた様々な声遣ひが生じたことを意味するわけではない。 むしろ、ピンインの"r"の発声は、それらの発声を「づれ」として認識することを可能にする「ベアリング」/"bearing"のような役割を帯びることで「軸(ぢく)」のような働きを見せているのである。 「ぢく(軸)」として働くとは、どのようなことだろうか。それは、私には、次のように説明することができるのではないかと思はれる。 つねにま(間)ぢ(近)か「に/で」あることによ(依)り、遠心性としてでも、求心性としてでもなく、「づれ」が生じることを可能にする中心性としてあらは(顕/現)れること、それが「ぢく(軸)」として芯(しん)「に/で」あることの「中『心』性」である。 言語を身体に喩えるとすれば、その規範性は、身体の動きに喩えることのできる「ことばづか(使/仕/遣)ひ」の骨格である。 骨格は、身体の動きを支へるために発達してきたのであって、骨格に生身(筋や肉など)を後から付け加へることによって身体が形成されるわけではない。 したがって、言語の場合においても、その骨格/規範性ばかりを大切にしようとすることは、「ことばづか(使/仕/遣)ひ」を痩せ細らせて形骸化することになる。 言語の身体性を本当に知ろうとするなら、骨格/規範性を無視してしまえば、その動き方が軟体動物のものように感じられて、捉へどころがなくなってしまうとしても、むしろ逆に「ことばづか(使/仕/遣)ひ」の方から、その動きにおいて骨格がどのように役立つように発達させられているのかを探ることが重要である。 誤:軟体動物のものように 正:軟体動物のもののように >>706-709 「中国語の方言のひとつで、閩南語(ミンナン語)の下位方言」とされる潮州語において、 >閩南語の「咱(lán)」に対応する潮州語は、「㑑(nang2 )」である。 (出典 www.mogher.com/baike?kw=咱) 「づれ」ながら「を(折)りあ(合)ひ」をつけようとする「こころ(心)み(観)/(試み)」により「ぢく(軸)」が「かひ(効果)」としてあらは(顕/現)て、その「かひ(効果)」が中核に存在する「しん(芯)」として概念化される。 たとえば、極めて基本的なこととして、内(ない)外(がい)、つまり、「うち(内)」と「そと(外)」は、どのようにして在り得るのか。 それは、動くことで可能となる「づれ」の連続性(つながり具合)によ(依/拠)り、動きの「ぢく(軸)」が「存在するもの」として概念化されて意識されるからではないのか? 動きの「ぢく(軸)」が概念化されることなしに「うち(内)」と「そと(外)」は在り得るのか? 「づれ」を許容することなく、無化しようとする思想、言ひ換へるなら、「中枢」を、「づれ」を許容する「ぢく(軸)」としてではなく、「中心点」として、つまり大きさが無いものとして理想化しようとする思想は、不特定の「ひと(人/一)」の働きも、容認すべからざるものとして無化しようとすることになるだろう。 >>715 この考へ方は、「『独立した言語』の存在」について考へるときにもそのまま「当てはまる」だろうと思ふ。 「当てはまる」というのは、「該当する」という意味であって、自らの知性が他者より優れているということを示したがる人々が好んで用いる、(哲学者や思想家の「考へ方」や「概念」などを)「応用する」とか、「適用する」といった表現の意味で言っているのではない。 言語の場合、ことばづか(使/仕/遣)ひの「かひ(効果)」が中核に「しん(芯)」が存在するものとして概念化され得ることが、或る言語、例えば、「日本語」が、「独立した言語として存在する」とされることになるだろう。 すると、その言語の「うち(内)」と「そと(外)」が明確に区別され、いくら「漢語」や「英語の表現」の発音を「日本語」に移し替える「カタカナ語」が「日本語」に取り込まれて、それらの語彙が「日本語」において占める割合が増えたところで、「日本語」が「中国語系統の言語」であるとか、「英語系統の言語」であるとかされることはない。 しかし、ここで、多くの人々は、容易に錯誤に陥ることになる。 その錯誤とは、「独立した言語である『日本語』」が「漢語」や「カタカナ語」を「日本語の『そと(外)』」から取り込んでいるのだから、いくら時系列的に過去に遡ってもやはり、そのように「うち(内)に取り込むこと」が可能になるためにはまず、「日本語の骨格」が先に存在しなければならず、そのように存在したものと想定される「日本語の骨格」が「原日本語」である、と考へてしまうことだ。 私は、これまで、日本語の表現の多くが、中国語の表現のに対応する発声の流用であると考えることができることを指摘してきた。 さらに、私自身は、「日本語」から、中国語の表現のに対応する発声を逐一、除外していったなら、それにより「原日本語」が「日本語の骨格」として姿を現すことになるどころか、言語としてほとんど何も残らないだろうと考へている。 しかし、そのように考へることは、「日本語が」「独立した言語」ではないとか、「日本語」が「中国語系統の言語」であるとか、「中国語」こそが真に「独立した言語」として存在して、「日本語」はその「亜種」にすぎない、といったようなことではない。 私は、言語系統論に基づく比較言語学の「言語観」そのものに根本的な誤りがあると考えている。 >>701 に引用した具体例から考へてみよう。 >岩波古語辞典で「なつ(夏)」の項目を参照してみると、[...]。 そこには、「なつ(夏)」は、 >朝鮮語nyörɐm(夏)と同源 と記載される。この"nyörɐm"は、現代の朝鮮語では、「여름( /jʌ̹ɾɯm/)」であり、カタカナ表記するなら「ヨルム」と転記されるだろう。 (参照 ja.wiktionary.org/wiki/여름) 私は、日本語を母語とする日本人であり、朝鮮語については、韓国TVドラマを観る程度で、特にまともに学習したことがないので、極めて初歩的なことくらいしか知らない。 その私が、「現代の朝鮮語で『夏』を意味する『여름( /jʌ̹ɾɯm/)』は、『漢語』の流用である」と主張したなら、「なにを根拠もないデタラメを言っているのか。そんなことがどこに書かれているのか。」と怒り出す、「朝鮮語」を母語とする人々は大勢いるだろう。 実際、これは、私個人の勝手な推測に基づく判断であり、私がネットで検索してみた限りでは(私は、朝鮮語や中国語を読めないので、検索範囲そのものが狭く限定されているが)、そのような主張はどこにも見当たらない。 その一方で、岩波古語辞典という日本の「権威ある辞書」には、 >朝鮮語nyörɐm(夏)と同源 と国語学/日本語学の権威により明記されているのだから、日本語の「夏(なつ)」という表現こそ、「朝鮮語nyörɐm(夏)」の「借用」であると主張する人々が大勢いても不思議ではない。 確かに、私自身も、この記載には、「部分的な真実」が含まれており、「嘘とまでは言へない」だろうと思ふ。 しかし、それにしても、「朝鮮語〜と同源」という「言ひ回し」は、いかにも「曲者」であり、私自身は、その「言ひ回し」に意図的な奸計を感じとらざるを得ない。 というのも、「朝鮮語〜と同源」であることは、その表現が「朝鮮語起源」であることを必ずしも意味するわけではなく、「日本語の表現」と「朝鮮語の表現」の「起源的な共通性」を示すに過ぎないからだ。 いづれにしても、これは、私の勝手な推論に過ぎないので、先にその結論を示しておこう。 「朝鮮語nyörɐm(夏)」、現代の現代の朝鮮語の「여름( /jʌ̹ɾɯm/)」とは、英語を用ゐて言ひ換へるなら、"month(s) of heat"であり、漢字で表記するなら「熱阴」である。 さらに、この推測は、別に何か私の独創的な発想法によるものというわけでもない。例えば、次の表現を参照してみるといい。 >〔フランス革命時 の暦の〕テルミドール、熱月◆グレゴリオ暦で7月20日〜8月18日にあたる第11の月(夏期の第二の月)。 thermidorの意味・使い方 - 英辞郎 - アルク 日本語では、季節感を伝へるのに、旧暦の「皐月」とか、「神無月」いった表現が今でも用ゐられることがあるが、そこに「月」という表現が現れるのは、旧暦が「太阳(/陽)暦」ではなく、「太阴(/陰)暦」であるからだ。 中国語では、「太阳」(="solar")/「太阴」(="lunar")という対比関係にある。 英語でも、「年月日」の「月」を表現するのに用ゐられる表現である"month"は、"moon"に対応している。 >朝鮮語を知っているなら、「여름 (yeoreum) 」という声遣ひから、朝鮮語として用ゐられる漢語である「열 (yeol) <熱> 」を想起しないはずがなく 私は、ここで、「여름( /jʌ̹ɾɯm/)」の"/jʌ̹ɾ"を「熱」(열 (deoul yeol)); Hanja form? of 열 (“fever; heat”))に対応させたわけだが、では、残された"/ɯm/"もしくは"eum"の方はどうなるのだろうか。 ここで、「阴(/陰)」を同様にWiktionaryで検索してみると、 >陰 (eumhun 그늘 음 (geuneul eum)) Hanja form? of 음 (“dark; shady”). と記載される。ここで、ハングルの「〇」のような形の部分は、所謂、「ゼロ記号」であり、全体としても、うまく私の勝手な解釈と対応していることが分かる。 朝鮮語についても、中国語についても何の専門的な知識もない私が、ネット検索ですぐに導き出すことができるような仮説に、専門家が誰も気づくことがなかったとすれば、それはとても奇妙なことと言はざるを得ないのではないか? 私は、このような状況に直面するたびに、あなたたちは「気は確かなのか?」、「正気なのか?」と問ひたくなる。 ここで誤解してもらいたくない、というよりむしろ、それに気づくことこそが大切であるというのが私の言い分であるのだが、だからと言って、私は、朝鮮語の「여름( /jʌ̹ɾɯm/)」が朝鮮語ではなく、外来語であるとか、日本語の「なつ(夏)」が日本語ではなく、 朝鮮語や中国語からの借用語であるなどということを主張しているのではない。 「여름( /jʌ̹ɾɯm/)」は、朝鮮語としてしか通用せず、そのようにしか意識されない以上、紛れもなく朝鮮語の表現であり、同様に、「なつ(夏)」も、日本語としてしか通用せず、そのようにしか意識されない以上、紛れもなく日本語の表現である。 「中国語」であれ、「朝鮮語」であれ、「日本語」であれ、「言語の独立性」、つまり、「独立した言語として存在すること」は、そのようにして成立している。 自信(confidence)とは、みづから(身づ柄/自ら)がつねにあらかじめ不変の不動点として中心に存在するということではない。 そうではなく、うご(動)くことにおいてな(汝/己)(「拉」)がその都度、たの(頼)みになる("believable" - "be・leave・able")ぢく(軸)として求められ得るという感覚である。 >上海語においては、「阿拉」が「我伲」もしくは「伲」にとって代わり、この「拉」の用法そのものは、「a篤」における「篤」の用法と類縁関係にあると見做されていることを思ひ起こそう。 うご(動)くことにおいてな(汝/己)(「拉」)を、その都度、たの(頼)みになるしっかりしたぢく(軸)として求めつづける者は、自身を含めた物事の捉へ方を懐疑することを決して忘れることがないが、みづから(身づ柄/自ら)を、つねにあらかじめ存在する不変の不動点として求める者は、決してや安らぐことのない猜疑心にとり憑かれる。 自己中心的な人間が「懐疑」であると思ひ込んでいるものは、健全な安らぎを保つことに役立つ「懐疑」などではなく、限りのない強迫的な「猜疑」である。 ここで問ひである。 突然、不意に大きく揺さぶられたなら、何か動かないものに必死にしがみつこうとする人々の習性をうまく利用しているのは誰か? 確信に満ちた語り口で陰謀について語る陰謀論者と、懐疑を唱える者がすべてそのような陰謀論者に見えてしまう猜疑心に囚はれた者とは、ちょうど表裏一体の関係にある。 >>698 「熱(ねつ)」の「あつ(熱)さ」が >「あつし」という様態は、その本性において、英語を用ゐるなら、"bearing upon 〜"、さらには"overbearing"とされるような様態に対応しているだろう、ということだ。 と解釈され得るとするなら、「あつ(暑)い」ことこそをその特徴とするものと考へられる「夏(なつ)」の「なつ」は、「捺(Middle Chinese: nat)」に直接に対応している可能性が考へられるだろう。 >捺 to press down firmly with the hand (出典 en.wiktionary.org/wiki/捺) ところで、「捺」は、朝鮮語では、"捺 (eum 날 (nal))"と読まれるものとされるが、この読みは、ピンインの"r"の発声に対応して"(il) (hangeul 일)"と読まれる「日(Middle Chinese: nyit)」のもう一つの読みである"날(nal)"と同じである。 >낮 낮 • (nat) daytime Antonym: 밤 (bam, “night”) noon 낮 열두 시에 ― nat yeoldu sie ― at twelve p.m. (出典 en.wiktionary.org/wiki/낮#Korean) このようなWiktionaryの記述も、専門家が行っているのだから、このような対応関係に気づいていないとすれば、それは著しく奇妙なことと言わざるを得ないだろう。 私は、つい最近まで、中国語についても少しは学んでおこうという気持ちがなかったので、中国語のTVドラマを視聴するようなこともなかった。 近頃は、ネットで中国語のTVドラマも普通にアクセス可能となったので、いくつか面白そうなドラマを観始めた。 そこですぐに気づくことになったのが、私が中国語の入門書に目を通すことすらまだなかった数年前から、日本語の基本的な表現の形成についての個人的な推測として主張していたことが、中国語の初歩さえ学べば、誰にでも直ちに確認できることで、それをわざわざ「推論」と呼ぶほどのこともないということである。 私は、日本語の動詞における「〜ふ」は、中国語の「复/覆」と共通する表現の流用であると以前から指摘してきた。 そして、私は、そのことを、私が中国語の初歩すら知る以前から繰り返し指摘してきた。 ところが、中国語のTVドラマをネットで観ていると、「答复(dáfu)」という表現が台詞に出てきた。 そこで、「答复(dáfu)」を検索してみると、次のとおり記載されている。 中日辞典 第3版の解説 答复 dáfu [動]回答する.返答する.返事する.▶“答覆”とも. [発音]dáfùとも. 会给你一个满意mǎnyì的〜的/ご満足のいく返答ができるでしょう. 〜他的询问xúnwèn/彼の問い合わせに回答する. 〜不上来/返答できない. これを見れば、日本語の「こ・た(答/応)・ふ」という表現がそのまま対応していることが分かる。 それだけではない。日本語の古語の「おも(思)ふ」のさらに古い形は、「も・ふ」であり、この「も・ふ」は、岩波古語辞典にもそう記載されるとおり、「も(面)ふ(覆)」と解釈されるのだから、もはや、中国語の表現との対応関係は疑ふ余地がない。 無論、私は、日本語の「〜ふ」という表現の用法が、中国語の「复/覆」の用法と同じものであると主張しているのではない。 しかし、日本語の「〜ふ」が、中国語の「复/覆」と共通する表現の流用であることは、一目瞭然であり、疑ふ余地がない。 さらに、そのことに、国語学者や言語学者などの日本語の研究を専門とする人々が、気づいていなかったはずはないのだ。 私が驚かされるのは、このような基本的で単純な事実関係についてさえ、誰もが未だに口を噤んでいることである。 結局、言語が同系統と見做されるかどうかも、政治判断に拠るところが大きいのだろうと思う。 日本語の表現を中国語の表現と比較してみると、表現を互いに関係づける、「〜は」、「〜が」、「〜に」、「〜と〜」、「〜や〜」などの、日本語としての発話を構成する基礎の役割を果たす「助詞」とされる「ことば」までが、中国語の表現と共通するこわ(声)づか(使/仕/遣)ひの流用として説明され得ることに気づく。 比較言語学においては、言語が同系統と見做され得るかどうかを判定するのに、主として「名詞」として分類される表現を基礎語彙として抽出して比較するが、日本語の場合、大量の漢語をそのまま、または独自に流用して使用していることは、誰でもが知っているとおりである。 しかし、言語の系統の判定においては、漢語や、それを独自に流用した、所謂、「和製漢語」は、「借用語」とされて、系統論の比較の対象からは除外される。 その結果、言語系統論における中国語と日本語の比較においては、「漢語」と「やまと言葉」が比較されることになる。 ところが、「やまと言葉」とされるのは、その定義からして、漢語としては認識されない表現なのだから、「名詞」とされる分類される表現を比較した場合、対応関係を見出しにくくなるのは当たり前である。 さらには、例えば、日本語の古語において「年をとる」という意味で用ゐられる「ねぶ」という動詞の名詞形である「ねび」などの表現も、それが明白に、漢語の「年(ねん)」に由来することが判明すれば、「借用語」と見做されて、比較対象から除外されることになるだろう。 すると、結局は、対応関係の不明である表現だけが、系統関係を判定するための比較の対象として残ることになる。 これは、根本的に欠陥のある、理論的な根拠も不明な手続きであると言はざるを得ないだろう。 このようなことを言ふと、私が、日本語を中国語の亜種であると主張しようとしていると決めてかかる人々が大勢いるかもしれないが、既に繰り返し説明したとおり、私はそのようなことを主張しようとしているのではない。 そうではなく、私は、言語学の言語観そのものに根本的な大きな欠陥があると指摘しているのである。 日本語が、中国語と共通する表現を流用することによ(依/拠)り形成されたと私が指摘すると、それなら日本語は、中国語の方言とまでは言へないものの、それでも、中国語の方が歴史的にはるかに古いのだから、日本語は、中国語から派生したと主張しているのと変はらないではないかと考へる人もいるだろう。 さらには、そのような考へ方を受け容れるなら、日本語の表現は、対応する中国語の表現から解釈されるべきものとなるはずだと断定する人々も少なくないだろう。 しかし、私の考へは、まったくそのようなものではない。 むしろ、私は、日本語の表現法を中国語との対応関係で探ってみることは、逆に、中国語の表現の解釈に役立つことになることも少なくないのではないかと思ふ。 例えば、中国語の普通話において、副詞的な表現を形成するのに「地」が用ゐられている。 なぜ、「地」という漢字がそのように用ゐられるのかを検索してみると、この用法には、歴史的には、まず表記として「底」が当てられ、その後、それが「的」に対応するものと解釈され、最終的に「地」が当てられることになった、といったような説明がされている。 ところで、中国語におけるこの「地」という表現の用法は、明らかに日本語の「〜に」(例えば、「明らか『に』」の「に」)の用法によく似ている。 「地」は、日本語に取り込まれた漢語としては、「ぢ」と読まれる。 これに関連してすぐに私に想起される古語の表現が、「つい(築)ぢ(地)」である。 >築地(読み)ツイジ デジタル大辞泉 「築地」の意味・読み・例文・類語 ついじ〔ついぢ〕【▽築地】 《「つきひじ(築泥)」の音変化》 1 柱を立て、板を芯として両側を土で塗り固め、屋根を瓦で葺いた塀。古くは、土だけをつき固めた土塀。築地塀。築垣。 さらに関連して想起されるのが、「奈良」にかかる「枕詞」として知られる「あをによし」の「あを(青)に(丹/土)」であるが、「あを・に」の「に」は、もともとは「土(に)」の意であると岩波古語辞典に記載される。 このように見てくると、「あを(青)に(土)よし」の「に(土)」が「ぢ(泥)」でもあることは明白だろう。 では、「あを・に・よし」とは、どのような表現だろうか。「に」が「丹」と表記されると、それは赤い色を表現することになるので、「青丹」であれば、当然、想起されるイメージは、「青と赤」の組合せということになるだろう。 しかし、「あを(青)に(土/泥)よし」であれば、「に(土/泥)」は、「赤」のイメージに限定されない。 さらに、ここで、「あを(青)うま(馬)」という表現がどのように使はれていたかを思ひ起こそう。 「あを(青)うま(馬)」は、無論、物象化されたイメージとしては、「青毛の馬」ということになるが、しかし、これは掛詞による表現であり、「あを・うま」は、様態としては、「あを(≒「限りなく」)うま(≒「満ち足りる」)」ことを表現している。 このことから考へるなら、「あを(青)に(土/泥)よし(吉)」も、当然、掛詞として解釈されることになり、この表現が伝へようとしている様態とは、単純に「あを(≒「限りなし」)・に・よ(吉)い」ことであることになる。 ここで「あを(青)に(土/泥)よし(吉)」の「あを・に(土/泥)」を中国語の表現と並べてみよう。 日本語:「あを・に(土/泥[ぢ])」 中国語:「无限地」 >无限地 副詞フレーズ 日本語訳止め処無く,止処なく 対訳の関係部分同義関係 无限地の概念の説明 日本語での説明 留め処なく[トメドナク] 際限なく (出典 cjjc.weblio.jp/content/无限地) このように見てくると、中国語において語源的にうまく説明のついていない「地」の用法は、日本語の古語における「に(土/泥)」の用法により逆照射されて、解釈が容易になるのではないか。 >私が、日本語を中国語の亜種であると主張しようとしていると決めてかかる人々が大勢いるかもしれないが ところで、日本語で「よ(良)しあ(悪)し」と表現する場合の「あ(悪=亞・心)し」は、「あ(悪=亞・心)」は、漢語だろうか、それとも「本来の日本語」とされる「やまと言葉」だろうか。 >亞(Middle Chinese: 'aeH) second; inferior 亞軍/亚军 ― yàjūn ― second place 不亞於/不亚于 ― bù yàyú ― not inferior to (出典 en.wiktionary.org/wiki/亞#Chinese) 日本語から中国語の表現を逆照射してみるというこころみ(試み/心観)はやってみる価値があるだろうと思ふ。 というのも、日本語では、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひの違ひとして互いひに関連付けられることばの表現も、中国語の場合には、表現としての違ひが認められるなら、それらの表現には、別々の漢字が当てられることになり、そのことにより互いにはっきりと切り離されてしまい、それぞれが切り離されてさらに別の表現に応用されるので、互ひにまったく無関係であるようにしか認識されなくなってしまうからである。 例えば、日本語で、別れの挨拶として 「では、また」と表現する場合と、 「ぢぁ(/じゃ)あ、また」と表現する場合を比べてみよう。 ここで、日本語を母語とする人々には、「ぢぁ(/じゃ)あ」は、「では」とまったく異なる別の意味の表現というより、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひに違ひが認められるものの、「では」の変形/変種であるものと感じられるはずである。 確かに、「で」と「ぢぁ(/じゃ)」の用法は互いに近いが、同じというわけでもない。 例えば、相手の話を一応、聞き終へた後で、「それで?」と言った場合と、「それぢぁ(じゃ)?」と言った場合とでは、発言者の態度に明らかに違ひが感じられる。 「それ・で」の場合には、「それ」を「確認する態度」が伝わってくるのに対して、「それ・ぢぁ(じゃ)?」の場合には、「それ」を認めるように「譲歩する態度」が感じられるはずである。 ここで、日本語の場合には、「ぢぁ(じゃ)」のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひは、「譲歩」の「譲」の発声にも対応する感覚を伝へることになるが、それでも、「で」との対応関係も見失はれるわけではなく、「では、また」と「ぢぁ(/じゃ)あ、また」のように互ひの変種としてしか感じられなくなるような場合すらある。 では(「的话」ピンイン・dehuà)、中国語の場合にはどうだろうか。 「的((Pinyin): de)」と「讓/让((Pinyin): ràng)」は、まったく別の漢字であり、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひとしても互ひにまったく無関係であると認識されているのではないか。 しかし、「的」の"(Pinyin): d"と「讓/让」の"(Pinyin): r"は、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひとして本当に本来的に互ひに無関係につか(使/仕/遣)はれてきたのだろうか。 ここで私は、何か断定的な結論を導き出そうとしているのではない。ただ、このように日本語の側から中国語の表現を逆照射してみる検討をすることが、日本語の表現法についても、中国語の表現法についても理解を深めるのに有用だろうと言っているのである。 read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる