0730to be left to be right2024/05/14(火) 08:04:21.470 自信(confidence)とは、みづから(身づ柄/自ら)がつねにあらかじめ不変の不動点として中心に存在するということではない。 そうではなく、うご(動)くことにおいてな(汝/己)(「拉」)がその都度、たの(頼)みになる("believable" - "be・leave・able")ぢく(軸)として求められ得るという感覚である。 0731篤信2024/05/14(火) 08:08:18.570 >上海語においては、「阿拉」が「我伲」もしくは「伲」にとって代わり、この「拉」の用法そのものは、「a篤」における「篤」の用法と類縁関係にあると見做されていることを思ひ起こそう。 0732考える名無しさん2024/05/14(火) 11:07:38.730 うご(動)くことにおいてな(汝/己)(「拉」)を、その都度、たの(頼)みになるしっかりしたぢく(軸)として求めつづける者は、自身を含めた物事の捉へ方を懐疑することを決して忘れることがないが、みづから(身づ柄/自ら)を、つねにあらかじめ存在する不変の不動点として求める者は、決してや安らぐことのない猜疑心にとり憑かれる。 0733考える名無しさん2024/05/14(火) 11:14:57.670 自己中心的な人間が「懐疑」であると思ひ込んでいるものは、健全な安らぎを保つことに役立つ「懐疑」などではなく、限りのない強迫的な「猜疑」である。 0734考える名無しさん2024/05/14(火) 11:25:30.050 ここで問ひである。 突然、不意に大きく揺さぶられたなら、何か動かないものに必死にしがみつこうとする人々の習性をうまく利用しているのは誰か? 0735考える名無しさん2024/05/14(火) 12:49:05.990 確信に満ちた語り口で陰謀について語る陰謀論者と、懐疑を唱える者がすべてそのような陰謀論者に見えてしまう猜疑心に囚はれた者とは、ちょうど表裏一体の関係にある。 0736考える名無しさん2024/05/22(水) 08:52:10.930>>698 「熱(ねつ)」の「あつ(熱)さ」が >「あつし」という様態は、その本性において、英語を用ゐるなら、"bearing upon 〜"、さらには"overbearing"とされるような様態に対応しているだろう、ということだ。 と解釈され得るとするなら、「あつ(暑)い」ことこそをその特徴とするものと考へられる「夏(なつ)」の「なつ」は、「捺(Middle Chinese: nat)」に直接に対応している可能性が考へられるだろう。
>捺 to press down firmly with the hand (出典 en.wiktionary.org/wiki/捺) 0737考える名無しさん2024/05/22(水) 09:14:02.660 ところで、「捺」は、朝鮮語では、"捺 (eum 날 (nal))"と読まれるものとされるが、この読みは、ピンインの"r"の発声に対応して"(il) (hangeul 일)"と読まれる「日(Middle Chinese: nyit)」のもう一つの読みである"날(nal)"と同じである。 0738考える名無しさん2024/05/22(水) 09:19:48.300 >낮 낮 • (nat) daytime Antonym: 밤 (bam, “night”) noon 낮 열두 시에 ― nat yeoldu sie ― at twelve p.m. (出典 en.wiktionary.org/wiki/낮#Korean) 0739考える名無しさん2024/05/22(水) 09:22:16.780 このようなWiktionaryの記述も、専門家が行っているのだから、このような対応関係に気づいていないとすれば、それは著しく奇妙なことと言わざるを得ないだろう。 0740考える名無しさん2024/05/23(木) 16:27:02.370 私は、つい最近まで、中国語についても少しは学んでおこうという気持ちがなかったので、中国語のTVドラマを視聴するようなこともなかった。 近頃は、ネットで中国語のTVドラマも普通にアクセス可能となったので、いくつか面白そうなドラマを観始めた。 そこですぐに気づくことになったのが、私が中国語の入門書に目を通すことすらまだなかった数年前から、日本語の基本的な表現の形成についての個人的な推測として主張していたことが、中国語の初歩さえ学べば、誰にでも直ちに確認できることで、それをわざわざ「推論」と呼ぶほどのこともないということである。 0741考える名無しさん2024/05/23(木) 16:32:33.530 私は、日本語の動詞における「〜ふ」は、中国語の「复/覆」と共通する表現の流用であると以前から指摘してきた。 そして、私は、そのことを、私が中国語の初歩すら知る以前から繰り返し指摘してきた。 ところが、中国語のTVドラマをネットで観ていると、「答复(dáfu)」という表現が台詞に出てきた。 そこで、「答复(dáfu)」を検索してみると、次のとおり記載されている。