「神」を完全に解明しました!!(その2) [転載禁止]©2ch.net
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宗教ではなく、科学で「神」を完全に解明したと主張する内容です。
↓メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!』
http://www.mag2.com/m/0001657128.html
http://www.mag2.com/m/0001650933.html
ライプニッツのモナドロジーに則り、実在するのは個々の心(モナド)だけであり、
客観的物質世界なるものは実在しないと考えます。さらに量子力学の多世界解釈を取り、
存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…が実在していると考え、
その集合{M}を「神」と定義します。人間の心は要素の1つです。
「神」は、あらゆる心の状態を体験しているという意味で「全知全能」です。
個々の心が持てる情報をNビットとし、個々のビットが独立して「0」、「1」、「?」
(=「0」+「1」)の3つを取り得るとすると、全部で3^N種類の心になります(N→∞)。
1人の人間である自分の心M1は、
「なぜ自分の心M1は、「存在しない」ではなく「存在する」の方なのか?」、
「なぜ自分の心は、他のM2、M3、M4、…ではなくこのM1なのか?」、
「なぜ自分が住む世界の物理法則は、他の物理法則ではなくこの物理法則なのか?」、
…等の謎を感じますが、「神」の視点に立てば、すべての謎が消滅します。
「神」は全知全能であり、あらゆる○○○に対し、「○○○である」と認識する心と
「○○○でない」と認識する心の両方を作っています。そして、
「「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」と認識する」、
「「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」と認識する」、
というダブル・トートロジーが成立しているだけです。
前スレッド→http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1433496355/ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:7bff9ed63942b4cd01610d20b2c06e65) M0=M1+M2+M3+…が「色即是空・空即是色」の表現です。「右辺」は存在し得る
すべての「色」M1、M2、M3、…の線形の重ね合わせです。線形の重ね合わせは、
様々に解釈できます。一般形は、Mx=a1・M1+a2・M2+a3・M3+…(重みa1、a2、a3、
…は様々な値を取る)です。右辺は便宜上M1、M2、M3、…の重ね合わせのように
書いていますが、本当はすべてのMxも、これらM1、M2、M3、…のどれかとして
含まれていることになります。つまり左辺の「空」M0は《全体》としては「無」
でありながら、右辺が示す通り、《部分》としては「有」であるすべての「色」
M1、M2、M3、…すなわち一般形Mxという心を含んでいることになります。
だから、「空」M0が「色」M1、M2、M3、…を産み出すメカニズムや法則といっ
たものは存在しません。「空」であることがそのまま「色」でもあるのです。
もし「空」が特定の法則に則って「色」に変化するのだとしたら、「空」もま
た特定の法則に縛られることになり、「なぜこの法則に従うのか?」という余計
な謎が発生してしまいます。「空」は法則を超越しており、無矛盾な論理法則
にさえ縛られません。言わば「空」M0は、論理に矛盾を起こし、「M0はM0で
ある」という同一律を否定し、「M0はM0でない(M1、M2、M3、…のどれかであ
る)」を利用することで、「色」M1、M2、M3、…に化けるのです。 例えば、a「生きた猫」+b「死んだ猫」という線形の重ね合わせは、そのまま、
c(「生きた猫」+「死んだ猫」)+d(「生きた猫」-「死んだ猫」)と解釈できます。
M1+M2+M3というのも、「M1、M2、M3、の3つが存在する」であると同時に、「M1、
(M2+M3)、の2つが存在する」、「(M1+M2)、M3、の2つが存在する」、「M2、
(M1+M3)、の2つが存在する」、「(M1+M2+M3)、の1つが存在する」、…のどれ
でもある訳です。一般形として、「Mx=a1・M1+a2・M2+a3・M3(重みa1、a2、a3、
は様々な値を取る)が存在する」と言えます。 「全体の中には無いものが、部分の中には有る」というのが、量子力学の奇妙
なところです(逆なら解り易いですが)。例えば、運動量p=(px、py、pz)の値が
不確定性0でp1に確定している「波」状態|p1>は、不確定性原理Δr・Δp≧h
により、位置座標r=(x、y、z)の不確定性が∞になっています。つまりこの「波」
|p1>は、-∞<x<+∞、-∞<y<+∞、-∞<z<+∞、の範囲に広がっています。
rの不確定性が∞なので、pの不確定性が0になり得ている、ということです。
ところが、|p1>の「波」の、0≦x≦1、0≦y≦1、0≦z≦1、を満たす部分だけ
を|p1a>とすると、この|p1a>の中には、運動量がp1の「波」だけでなく、あ
る程度p1からずれたp2やp3の「波」も含んでいます。なぜならこの|p1a>は、
rの不確定性がもはや∞ではなく、0≦x≦1、0≦y≦1、0≦z≦1、に限定されて
いるからです。だからpの不確定性も、この|p1a>の領域だけでは0に成り得
ず、p1の「波」だけでなく、p2やp3の「波」も含んでしまうのです。もちろ
ん、すべての部分|p1a>、|p1b>、|p1c>、…を足し合わせて|p1>にすると、
p2、p3、…の「波」は打ち消し合って消滅し、p1の「波」だけになります。
M0=M1+M2+M3+…において、《全体》である「空」M0は無意識なのにその《部分》
である「色」M1、M2、M3、…は意識を持っている、というのがまさにそれです。 |p1>は、運動量pがp1=(px1、py1、pz1)に不確定性0で確定している「波」
状態であり、位置座標r=(x、y、z)の不確定性が∞になっており、-∞<x<+∞、
-∞<y<+∞、-∞<z<+∞、の範囲に広がっています。この「波」|p1>全体を
見ると、運動量はp1だけであり他のp2、p3、…の「波」は全く含まれていませ
ん。ところが|p1>の一部である|p1a>だけを見ると、運動量はp1だけでなく、
他のp2、p3、…の「波」もいくらか含んでいます。そこで|p1a>をどこまでも
小さくし、|p1>の「波」の、x=x1、y=y1、z=z1、を満たす部分だけを|p1a>と
すると、この|p1a>は、位置座標rの方が不確定性0でr1=(x1、y1、z1)に確定し
ている「粒子」状態|r1>になります。今度はrの不確定性が0なので、pの不
確定性の方が∞になり、|p1a>つまり|r1>は、-∞<px<+∞、-∞<py<+∞、
-∞<pz<+∞、の範囲のすべての運動量p1、p2、p3、p4、p5、…を持つ「波」
の重ね合わせになっています。|p1>全体は、運動量p1だけの「波」でした。
|p1>の一部である|p1a>だけを見ると、運動量はp1だけでなく、他のp2、p3、
…もいくらか含みます。|p1a>を1個の「粒子」|r1>にまで小さく取ると、あ
らゆる運動量p1、p2、p3、p4、p5、…の「波」を全部含むことになります。 >>5
>マイブームってやつ?
そうです。2〜3年前からハマってて、当分飽きそうにありません。 「全体の中には無いものが、部分の中には有る」というのが、量子力学の奇妙
な性質です。「トンネル効果」をこれで合理的に説明してみます。エネルギー
E1を持つ粒子を、E1<Uであるエネルギー障壁Uにぶつけます。古典物理学だ
と絶対にはね返されますが、量子力学だと障壁を超える確率が0ではありませ
ん。エネルギー保存則に反するかのような、奇妙な現象です。
実は、簡単に「エネルギーがE1の粒子」と言いますが、もし本当にエネルギー
が不確定性0でE1に確定している状態|E1>が生じ得たとすると、不確定性原
理のため|E1>は、時間tの不確定性が∞であり、|E1>とは4次元時空内にお
いて、時間の厚みが∞に及ぶ領域全体で初めて生じ得る状態だということです。
その|E1>の中では確かに、エネルギーはE1だけです。ところが、この粒子が
障壁を超えられるかどうかは、極めて短い時間Δtのうちに決まります。|E1>
の中のこの部分を|E1a>とします。|E1a>の時間の厚みは有限で微小なΔtなの
ですから、不確定性原理により、エネルギーの不確定性はもはや0でなくなり、
|E1a>の中にはE1だけでなく、E2、E3、…の状態も含まれています。それらの
中にはE3>Uとなるものも含まれており、このE3だったらエネルギー障壁Uを
超えてしまう可能性も有る訳です。 なんだマイブームか、
一言で言えば「自己愛」それが暴走すれば人格障害になる。 >>9
>なんだマイブームか、
>一言で言えば「自己愛」それが暴走すれば人格障害になる。
自分を1人の人間だと思い込むと、「なぜ世界なんてものが在るのか?」、「なぜ
自分なんてものが居るのか?」、「なぜ物理法則なんてものに縛られているのか?」、…
といった無数の謎が生じ、訳が解らないまま生まれ、訳が解らないまま生き、
訳が解らないまま死ぬことになります。
一方「SB量子神学」は、科学の立場ではあくまで仮説に過ぎませんが、全知全
能の「神」が実在し、「空」M0と「色」M1、M2、M3、…のすべてを産み出し、
「神」自身がこれらを体験している、と考えます。私の心もあなたの心も「色」
M1、M2、M3、…のどれかであり、体験しているのは「神」です。こう考えると、
1人の人間として感じていたすべての謎とすべての不満が消滅します。
どちらが合理的ですか? >>1
今初めてこのスレを見つけてちろっと読みました。
それで、質問なんですが
>その集合{M}を「神」と定義します。
このように神を定義しよう、と考えたのは、どういう理由からですか?
誤解されるといやなので言いますが「そうじゃないでしょ」と反論したいわけではなく、
純粋に額面通り、どのように考えておられるのかお聞きしたいです。 >>11
何を言っているのか分かりません
意味不明な事ばかりでなく、意味がわかる事を質問して下さい。 >>11
>今初めてこのスレを見つけてちろっと読みました。
>それで、質問なんですが
>その集合{M}を「神」と定義します。
>このように神を定義しよう、と考えたのは、どういう理由からですか?
>誤解されるといやなので言いますが「そうじゃないでしょ」と反論したいわけではなく、
>純粋に額面通り、どのように考えておられるのかお聞きしたいです。
はい、有難うございます。こういう紳士的な方とは、ぜひじっくり議論させて
欲しいと思います。「全知全能の神」の定義は「存在し得るすべての心M0、M1、
M2、M3、…を要素とする集合{M}」だと考えます。これ以外に「全知全能の神」
の定義は有り得ないのではないか、と考えます。その根拠については、前スレ
ッドのhttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1433496355/12-14で説明
しています。いかがでしょうか。 世界の初めをXとしてみます。もしXが、「無」か「有」のどちらかに確定し
ていたり、特定の物理法則や無矛盾な論理法則に従うとすると、「なぜ?」とい
う謎が生じてしまいます。「なぜかそうだからそうなのさ」と決め付けてしま
うと、この謎は永久に隠蔽されてしまいます。謎を発生させないためには、
(1) Xは何ものにも縛られない(何一つ確定していない)。
と考えることが必要です。「SB量子神学」でいう「神」も、『大乗起信論』で
いう「真如」も、この(1)を満たしています。
(1)より、Xは無矛盾な論理法則にさえ従わず、あらゆる○○○に対し「○○○
である」と「○○○でない」の両方になり、全く状態が確定しない無意識状態
「空」M0になります。さらに(1)を(1)自身に適用すると、「「何ものにも縛ら
れない」にさえ縛られない」つまり「何かに縛られる」となり、これが「色」
M1、M2、M3、…です。意識を持つとは、「○○○である」と「○○○でない」
の片方だけを選び、それに縛られ、他方を放棄することです。
(1)は、世界の初めXについて、何も仮定・限定していないことを意味します。
何一つ仮定無しに、存在するのは「空」M0と「色」M1、M2、M3、…の2種類で
あることを、言わば論理的必然性だけで説明した訳です。 我々人間は、特定の物理法則、特定の心理法則、そして無矛盾な論理法則に縛
られた世界に住んでおり、それが当たり前だと思い込んでいます。しかしよく
考えてみると、縛られていない方が自然であり、縛られているのが不自然です。
なぜ縛られているのでしょう? 「そんなもの知るもんか」と諦めてしまうと、
この謎は永久に隠蔽されてしまいます。
何一つ謎を隠蔽しないため、「SB量子神学」でいう「神」も、『大乗起信論』
でいう「真如」も、「何ものにも縛られない」からスタートします。「何もの
にも縛られない」をそのまま実現したのが「空」M0です。「「何ものにも縛ら
れない」にも縛られない」すなわち「何かに縛られる」を実現したのが「色」
M1、M2、M3、…です。では、「「「何ものにも縛られない」にも縛られない」
にも縛られない」はどうなるでしょうか? 言葉が曖昧で、全否定なのか部分否
定なのかよく判らない部分は有るものの、3つ重なると1つだけの「何ものにも
縛られない」に戻るように思われます。4つ、5つ、…と重なっても、結局考え
るべきものは「何ものにも縛られない」と「何かに縛られる」の2つだけで十
分だと思われます。そしてやはり、存在するのは「空」M0と「色」M1、M2、M3、
…の2種類であることになります。 15.
色即是空。
これは、その相互転換を定式化したものである。
空即是色。
そして、これは、空の選択行為を指定したものである。
その相互移行が問題となる。
それは実践の問題となる。
その実践は個別具体的なものである。
よって一般理論の具体例が問題となる。 >>17
GODとエホバの違いは、たぶんマリア様と関係しているはず。 マリア様は、若い女性である、あれが、「ばあさん」なら、誰も崇拝しない。
キリストの像に関しても同じである。GODはエロスと関係しているのである。 >>20
汚いものは悪魔のもの
綺麗なものは天使のもの キリスト教の存在論に、私は満足できません。いきなり仮定が入っているから
です。創世記において、神が7日間で世界を創造する話が出て来ますが、時間・
空間がどうして発生したのかの説明が有りません。神もまた、なぜ「無」では
なく初めから「有」なのかの説明が有りません。あくまで私見に過ぎませんが、
こういう本質的な謎が隠蔽されているように感じてしまうのです。
その点、仏教の存在論ははるかに深いと思います。何一つ仮定を含んでいませ
ん。スタート地点は「空」ですが、これは便宜上こう名付けただけであって、
「「空」とはこういうものだ」という限定が何もなされていません。むしろ「空」
は、何も限定されていないのだから、言葉では表現できないとされ、言葉で表
現しようとすると正しく理解できなくなる点が強調されます。「空」は単純な
「無」ではなく、「無」なのか「有」なのかさえ決まっていない何かです。
この点、「SB量子神学」でいう「神」も同様です。「神」が本当の意味で全知
全能であるためには、「全知全能である」だけでなく「全知全能でない」も実
現せねばならないし、「存在する」、「存在しない」、「存在する」+「存在し
ない」の3つすべてを実現せねばならない、と考えます。「神」について、何
一つ限定してはならない、と主張しているのが「SB量子神学」です。 >いきなり仮定が入っているからです。
貴方の発言がいきなり仮定ばかりの妄想話じゃないですか?
同類嫌悪か? 22.
神について、何一つ限定してはならない。か。
それは何のためか。
それは実践のためである。
SB神学は実践論が欠落している。
それは観念論であることになる。
世界を解釈するのは何のためか。
それは実践するためである。マルクスの提言。 >>20
偶像崇拝自体が、キリスト教の俗物化の産物だし。 >>23
>貴方の発言がいきなり仮定ばかりの妄想話じゃないですか? 同類嫌悪か?
「SB量子神学」では、【究極原理】=「人間が疑問を抱くすべての謎は、トート
ロジーに解消できる。」1つだけが仮定です。これだけを証明無しに「公理」に
定め、【{M}の実在】=「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…が実在(半
存在)している。」と【神の全知全能性】=「神は全知全能である(全知全能の神が
存在する)。」の2つを「定理」として証明します。そして、これら3つを内容
としているのが「SB量子神学」です。
さらにこの上で、「謎」という言葉の解釈という条件付きで、【究極原理】をも
トートロジーに解消します。従って、「SB量子神学」全体が、何一つ仮定を含
まないトートロジーと見なせます。
→http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1433496355/199-204 「神」では、大部分は太陽神です。
それは、自然界の動物達は「太陽のリズム」により、一日を暮らし、四季
を暮します。太陽が動物達を導きます。
「人間」も動物より進化の過程では、太陽に導かれ、太陽は人間を導く
「神」と成りました。
我が日本でも太陽神(天照)より民族の神が生まれ、「古事記」などより、
歴史上の「神」と成り、天照の子孫「天皇家」は世界第一の旧家で、時の
政権の興亡にも「神」として、この「大戦」まで続きました。現在は日本
および日本人の「シンボル」として健在です。
他国にも、太陽神は多い。
、 >>27
古事記といってもある日突然大陸から使者が来てびっくりした当事の支配層が対抗して作り上げた創作でしょw
実際日本は島国である以上は大陸か東南アジアから人が流れてきて住み着いている
日本で高い文明が発生したとは思われていないから
大陸から来た一団が日本に文明をもたらしただろうし、
恐らくは大陸から戦争で負けたか一族か海賊が日本に流れ着いて武力で制圧した結果天皇家を作ったんだろう
ヨーロッパの王家は全て元々ゲルマンの山賊や海賊だったのは歴史的に知られている事実だし
王家なんてそんな大層なもんじゃない そう。「日本固有の文化」なんてものは、もともと存在しない。
すべて海外から流れ着いたもの。せいぜいそれを加工したものに過ぎない。 起きたまま妄想ができるのはすばらしい才能だけど。
貴方のそれは永遠に妄想なのはなぜ? >>31
>起きたまま妄想ができるのはすばらしい才能だけど。
>貴方のそれは永遠に妄想なのはなぜ?
あなたが眠ったままだからです。その証拠にあなたは、「なぜ世界なんてもの
が在るのか?」、「なぜ自分なんてものが居るのか?」、「なぜ物理法則なんて
ものに縛られているのか?」、…といった謎に、何の答も見つけられず、まどろ
みの中で生きているでしょう? あなたが目覚めれば、あなたの方が妄想だっ
たことに気付くはずです。そして、これらすべての謎に答が得られるはずです。
仏教も同じことを説いています。
あなたの人生は、「神」が見ている無数の夢の中の1つなのです。あなたは、
それに気付いていないから、目覚めている私の方が妄想に思えてしまうのです。
多世界解釈を支持している人は、目覚めかかっているので、妄想だとは思わな
いはずですよ。 神話や伝説は、ロマン。
現実であろうが、無かろうが、ロマンはロマンとして、
その程度の「感性」は、人として持ちたいもの。 起きたまま妄想することを、想像力という。凄い才能なんかではない。
イマジネイションだ。まともな情操教育を受けていれば、たいてい身につく。
これが欠落している方が、よっぽどおかしい。 人間が用いている論理は、「真」か「偽」かの2値という意味で二元論と言え
ます。例えばシュレディンガーの猫の話で、猫の生死を観測したら「死」だっ
たとしましょう。自分が住む世界では、「死」が「真」であってこれは認識で
きますが、「生」は「偽」であってこれは認識できません。そうやって2つを
分別し、片方だけを認識できるという性質こそ、「無意識」ではなく「有意識」
であるということ、つまり「空」ではなく「色」であるということです。
では、仮に「偽」が存在せず、すべてが「真」である一元論の論理が支配する
世界があったとしましょう。この世界では、同一の猫の「生」と「死」を同時
に知覚できるのでしょうか? できないように思われます。一元論の論理では、
「生」か「死」かも分別不可能、何かを「認識している」のか「認識していな
い」のかも分別不可能となり、完全な無意識になってしまいそうです。
もちろん、「真」が存在せず、すべてが「偽」だけの世界では、何一つ認識で
きない無意識になってしまうでしょう。
以上の考察が正しければ、完全な無意識状態である「空」こそ、一元論の論理
が成立する世界だと見なせます。人間の心である「色」が住む世界では二元論
の論理が成立しています。三元論、四元論、…の論理は有り得るでしょうか? >起きたまま妄想することを、想像力という。凄い才能なんかではない。
それは誰でもできる想像な。誰もできないキチガイは誰でももっている
才能ではない、すごすぎて治療が必要なのよ。 >>42
バカやキチガイの中に天才が生じやすいのは事実である、
負の何かを背負っている人ほど達人になりやすい、
キチガイを極めれば人間として機能しないからどうにもならない。 プラトンのいわゆる<イデア(理念)>は「範例(モデル」(本物)とコピ(似像)ーを区別した。
その意図は、「コピー」と「コピーのコピー(みせかけ=差異)」を区別するためである、
モデルは、なぜか同一性を保つと主張しており、コピーは、それに似ているか、
類比している(であるから、モデルとコピーは、つながっている)、のでコピーは「偉い。」
ところが 「ソピステス」236、あたり、エレアの客人が「コピー」との「見せかけ」のも
のとを、わけるとき、プラトンは迷っている、なぜなら、ここで、見せかけだけを
作る技術もあることを、言っているからである。だが、なぜか、必死に否定しようとする。
言いたいことは
、モデルの(同一性という錯覚)、これを、ピンチにするもの。それが(みせかけ)であるが、みせかけこそ差異の力だということ。
これをプラトンは、排除したいわけである。「真の演説する人」と「それを全く真似しようとするソフィストたち」。
この同一性神話は、善、主体、自己意識などの同一性に取って代わられ、
長い、神の歴史(デカルトのコギト{欺かない神}、ライプニッツ(最善率)、カント(定言命法)ヘーゲル(学)
、偶像の歴史であり、錯覚の歴史であった。 差異は、不等なものであり、一つの(潜在的、多様体)であるが、(リーマン多様体)でもいい。
その「潜在的なもの」が「平らにされたり(空間)、感覚されうる「性質」にされたり
、つまり、それが、量や質になるとき、「差異は無くなったように」見える。
しかし「差異」は、それが、いかなる形で「繰り広げられても」、
解消されない、差異(多様体)は、おのれを規定するとき、配分するとき
に、配分されたものの方へ割りふるまわれた、そのときでも、いつでも
潜在的なままである。でなければ、割り振られたもののなかで
差異は死に、エネルギーはなくなり、宇宙は死ぬだろう。
ニーチェは、そんな心配をしていたので、ケルヴィン卿(ウィリアム・トムソン)
の物理学を気にしていた。がそんな心配はいらないのである。
差異は「平板化」され、同一化され、自我になり、他我にあり、それが感覚に反
映し「常識」「共通感覚」といった、一連の錯覚においても、取り消されはしないからである。
ベルクソンは、せっかく、潜在的なものの存在を誰にもないほど描いたのだが
、「質」のなかに
「時間」のなかに入れてしまった。これは先験的なものである。 潜在的多様体=(諸理念、微分的諸関係)
=「問い」=「(非)・存在」が
つまり、差異が「否・存在」、否定と言う錯覚になるのは
どうしてか?
これは、以前言っていた、差異が繰り広げられたもの、(質的、量的なもの)と混同される
ときである。そうすると、同一的なもの、表象、自我が本来的なもの
になってしまい、そうでないものは「けしからんもの」になり、解消せねばならぬものになり」「呪われたもの」になり、
人間は、逆さにものを見、罪在る存在になる。常識(道徳)が本来のものになり、道徳を破る、守るという「対立」という、
またも、錯覚が生まれる。規則があるから破りたくなるは、
錯覚である。差異は、常識の反対ではなく、そのウラではない。 差異は「常識」と異なっているだけで、反対ではない。
反対という「偽の運動」。
「神は〜である」、「かつ〜でない」、「どっちも」
といったところで、、うつろな抽象的運動に変わりはない。、それは錯覚の中で
酔っ払っているのであって、
本物の酔っ払い(ディオニュソス)ではない。
差異は、超命題的、下ー表象的、であり、それらの下でうごめく
ものである。
また、正しきものにあっては、肯定が最初であり、肯定が
差異を肯定するのである。否定はその帰結であり、影でしかない。
(道徳の系譜、第一論文、10あたり)。
肯定するのに、根拠は必要なくいきなり肯定から始まるのである。(古代ギリシアでは、
ニーチェいわく、誠実なもの、正直な、もの)、もっと言えば
「存在するもの」(テオグニス)・・これらは皆、同じ意味なのであった。 科学もまた、存在の謎について、説得力の有る答を示せるところまで進歩して
来ました。現在の宇宙論では、いわゆる「ビッグ・バン仮説」が定説となって
います。138億年ほど前、宇宙は1個の点であり、それが大爆発して時間の経過
とともに空間の広がりを産み出し、様々な物質を発生させて来た、と説明され
ています。しかもビッグ・バンは、量子力学的な確率的ゆらぎによって半必然
的に起きる、と理解できます。これは、時間・空間を含め、「無」から「有」
が発生することの説明として、なかなかの説得力を持っていると思います。
ただし1つ不満が有ります。ビッグ・バンが起きた当時、それを観測していた
心など存在しなかったはずです。ビッグ・バン仮説は明らかに、「実在論」=「心
による観測とは無関係に、物質世界は実在し、その状態は確定している」を前
提にしているようです。しかし、J・ホイーラーの「遅延選択実験」など考慮す
ると、人間が観測して初めて、ビッグ・バンが起きたことに確定したのではな
いでしょうか? もし我々の宇宙に観測者が発生しなかったら、我々の宇宙は、
ビッグ・バンで発生したどころか、存在してさえいないのかもしれません。
結局、実在するのは、「自分の住む宇宙はビッグ・バンで発生したと認識して
いる心M1」だけであるという、「観念論」こそが正しいのではないでしょうか? 「SB量子神学」でいう「神」は、「全知全能である」を満たすことを徹底的に
要求します。すると、「全知全能である」だけを選んで「全知全能でない」を
放棄する訳にはいきません。「全知全能である」だけでなく「全知全能でない」
をも実現して初めて、本当の意味での「全知全能である」になります。ここか
ら、「全知全能である」(合)=「全知全能である」(正)+「全知全能でない」(反)
という弁証法的構造が必然です。「神」が人間を作った理由がこれです。
『大乗起信論』でいう「真如」も、「SB量子神学」でいう「神」と殆ど同義語
で、「何も限定されない」です。それゆえ、「真如である」も「真如でない」
も、「真如」に含まれることが必要です。ここから、必然的に弁証法的構造が
発生します。「真如」(合)=「真如である」(正)+「真如でない」(反)です。
仏教の本質である「空」も同様で、「何ものにも縛られない」のが「空」M0で
す。「何ものにも縛られない」をそのまま実現すれば「空」M0になりますが、
「「何ものにも縛られない」にさえ縛られない」すなわち「何かに縛られる」
を実現すると、「色」M1、M2、M3、…になります。それゆえやはり「空」もま
た、「空」(合)=「空」(正)+「色」(反)という弁証法的構造が必然になります。
そしてこれこそが、M0=M0+M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕です。 仏教の教えはおよそこういう内容です。「物質世界も心も、すべては「空」で
あると悟れ。そして自分の心の状態に執着するな。そうすれば、すべての悩み・
苦しみ・恐れを超越できるだろう。」…この教えが、「SB量子神学」の悟りと
全く同じ内容であることを説明します。
「SB量子神学」で悟りを開く方法は、極めて簡単でした。こう思い込むだけで
十分です。…「全知全能の「神」が実在し、存在し得るすべての心M0、M1、M2、
M3、…を平等に体験しており、自分こそがその「神」である」。1人の人間とし
ての現在の自分の心をM1とし、自分が体験しているのはM1だけだと思い込む
と、「なぜ他のM2、M3、…ではなくこのM1なのか?」という謎と、「もっとこ
うありたかったのに…」という不満が生じてしまいます。そこで、本当の自分
は「神」なのであり、すべてのM0、M1、M2、M3、…を平等に体験しているのだ
と悟れば、M1に対する謎も不満も消滅します。そして、すべてのM0、M1、M2、
M3、…を体験しているということは、M0=M0+M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕
から、真の自分は「空」M0なのだ、という意味になります。「真の自分は「空」
M0なのだと悟れ。そして自分の心M1に執着するな。そうすれば、すべての悩み・
苦しみ・恐れを超越できるだろう。」です。仏教の教えと完全一致しています。 「SB量子神学」でいう「神」は自然発生的なの?
人間に意思があることがどんなに尊いものに見えたとしても、結局進化論的に緻密に考えれば自然発生的に出現した複雑な運動にすぎない・・みたいな解釈ってできるけど、
「SB量子神学」でいう「神」もまた、そういう無機質な運動(もちろん我々の宇宙とは異なる法則を含む)の組み合わせから説明がつくひとつの自然現象の1つなのか? それとも別の何かなの? >>55
「SB量子神学」でいう「神」は自然発生的なの?
「SB量子神学」でいう「神」の定義は、「存在し得るすべての心M0、M1、M2、
M3、…を要素とする集合{M}」です。そして、個々の心M0、M1、M2、M3、
…は「半存在」であり、「神」もまた「半存在」です。つまり、
(1)「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」と認識する。
(2)「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」と認識する。
のダブル・トートロジー、さらに正確に言えば、
(3)「存在する」+「存在しない」と認識する視点に立てば、
「存在する」+「存在しない」と認識する。
を併せたトリプル・トートロジーを満たしています。そして客観的には、(1)(2)(3)
のどれにも確定していません。主観的に、(1)(2)(3)のどれにも成り得ます。(1)
の視点に立てば「存在する」に確定します。「神」は、特定の物理法則にも、
特定の心理法則にも、無矛盾な論理法則にさえ縛られないので、自然発生的と
いうか、論理的必然性で(1)(2)(3)の3つすべてを実現している、と考えます。 >>56
翻訳
神とは全知全能・宇宙の中の一部というお粗末な物ではなく、物理法則つまり宇宙を凌駕する(含む)概念なのです。
よって 発生 という物理法則の中での事象はそもそも神の中に 含まれ ます。 好奇心はそれ自体が存在理由を持っているのです。
人は永遠という神秘、生命という神秘、そしてこの実在の驚くべき構造などの神秘について深く思いをめぐらせてみるとき、畏敬の念を覚えずにはいられないのです。
毎日この神秘をほんのわずかでも理解しようと試みるだけで十分です。
科学の進化のみならず、理解したこの世の理を忘れぬようすれば、理不尽・無意味な人間社会での圧力に屈する事は無くなり、真に価値のある人間に近づくでしょう。 生命の神秘への洞察が宗教を生んできたのです。
普段の我々の能力では、その最も素朴な形しか理解できない最高の知恵、最も輝かしい美しさがその姿を現した時、普段の我々には入り込めない真の存在を知るのです。
この知識と感動が真の宗教の中心にあるものなのです。
宗教は長い月日の得て 文化・統制手段・思い込みによるセルフマインドコントロールの手段 となりましたが、科学という真の洞察活動は生き続けています。
科学が上記信仰に陥らないよう、実験により事実確認がなされます。 物質には永続性はないが、エネルギーにはある。エネルギーと結びついた物質が宇宙の実体なんだ。
神・・・。人間が神様の姿に似せて造られた・・・ つまり擬人化だが・・・などと教える宗教じゃないんだ。人間には無限の次元があり、その良心の中に神を見い出した。
この宗教では、世界が合理的であり、人は世界を思い、その法則を使って共に創造することが究極の神意である、という教え以外に教義はない。
ただし、そこには条件が二つだけある。一つは、不可解に見えるものが日常のものと同じほど重要だということ。二つ目は、われわれの能力は鈍感で、表面的な知識や単純な美しさしか理解できないということだ。 で、神はどこにいるのですか。
どこかに存在することは神の定義上不可能じゃないですか。
神の存在は要求されるが、実在しえないのではなかろうか。
(浪人生の呟きです) いないと思うことはいることを否定しているだけなのです。
いると感じたその感覚こそが神の息吹です。
それは何処からきたのですか?その始まりは何なのでしょうか?
何もないところから神の概念は生まれません。 よう考えたら>>61は愚問やったな。
すまんすまん。
神はどこかに存在し、なおかつどこにも存在せんのやろな。
(そんな神を人は神と思えるのだろうか) 回答ありがとうございます。
わかりました。
つまりここは
『「全知全能の神」を集合論的にシンプルに表現する方法編み出しました。』
のスレッドですね。
そういうことなら、こちらも「そうですか」というだけですね。
論理展開は悪くない。でも特に使い道もない。
ただ、「すっきり表現できるからちょっと気持ちいい。」という程度のものですね。
自分にとっては、特にこれ以上議論することは何もないと思います。
ありがとうございました。 >>65
何を言っているのか分かりません。意味不明。意味が分かる事を質問して下さい。 >>57
>翻訳
>神とは全知全能・宇宙の中の一部というお粗末な物ではなく、物理法則つまり
>宇宙を凌駕する(含む)概念なのです。
>よって 発生 という物理法則の中での事象はそもそも神の中に 含まれ ます。
その通りです。「神」は全知全能であるがゆえ、「どんな法則にも縛られない」
と考えるべきです。そして、「どんな法則にも縛られない」を実現している状
態が「空」M0であり、「「どんな法則にも縛られない」にも縛られない」すな
わち「ある法則に縛られる」を実現している状態が「色」M1、M2、M3、…です。
「神」から、「空」M0および「色」M1、M2、M3、…の存在が導かれる過程まで
は、何一つ法則に縛られていませんし、時間も空間も有りません。「時間の流
れ」「空間の広がり」「自己同一性(「自分」と「他者」の区別)」「特定の物
理法則」「特定の心理法則」「無矛盾な論理法則」、…等は、すべて「色」M1、
M2、M3、…の中に観念として存在するだけであり、言わば「神」が見ている無
数の夢M1、M2、M3、…の中だけに存在する架空の設定です。 >>61
>で、神はどこにいるのですか。
>どこかに存在することは神の定義上不可能じゃないですか。
>神の存在は要求されるが、実在しえないのではなかろうか。
>>63
>よう考えたら>>61は愚問やったな。すまんすまん。
>神はどこかに存在し、なおかつどこにも存在せんのやろな。
>(そんな神を人は神と思えるのだろうか)
「神」{M}の要素である個々の心M0、M1、M2、M3、…には、「存在位置」という
性質が有りません。個々の心M0、M1、M2、M3、…の中に、「時間」や「空間」
という観念が存在し得るだけです。1人の人間としての自分は、「2015年8月
31日に、東京の自宅に居る」と実感しています。しかしそれは、「神」が見て
いる無数の夢の中の1つです。そして、夢から目覚めた時の「神」について、
「いつ」「どこに」存在しているのか?と問うのは無意味です。 >>65
>回答ありがとうございます。わかりました。つまりここは
>『「全知全能の神」を集合論的にシンプルに表現する方法編み出しました。』
>のスレッドですね。
その通りです。殆どの人が、はっきりした定義もしないまま「神」についての
議論をしているので、解ったような解らないような曖昧な内容になり勝ちです。
特に、仏教でいう「空」、大乗仏教でいう「真如」、西田幾多郎のいう「「絶対無」
と「絶対有」とが「絶対矛盾的自己同一」した神」、…など、もの凄く面白い概
念なのに、定義が曖昧なので解りにくくなっています。「SB量子神学」は、「神」
の定義を「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}」と
明記することで、これらの概念を解り易く説明してやろうという試みです。
>ありがとうございました。
いえ、こちらこそ。また何か有りましたら、いつでも。 >『「全知全能の神」を集合論的にシンプルに表現する方法編み出しました。』
つまり形骸化しただけ、
因数分解してはいけないレベルまで因数を分解する作業です。 集合論て数学だよな。
数は大きさがないんだろう?
だったら数をいくら集めても大きさにはならない。
つまり元を問えば、数学自体が存在証明は不可能ということじゃないのかな? 集合論は数学に括られているけど
厳密には数学といえないような気もする いやあ・・・
気がする、という程度のもので論じられても神様は迷惑なんじゃないかな。 考えたよ。神様は忘れた事を、なんと[全部]思い出す事が出来る それだったら、どっかにそういう人がいると思うよ、という言いっぱなしでOK。 『場所的論理と宗教的世界観』(西田幾多郎)からの引用です。…「我々が神と
云ふものを論理的に表現する時、斯く云ふの外にない。神は絶対の自己否定と
して、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含むもの
なるがゆえに、自分自身によって有るものであるのであり、絶対の無なるが故
に絶対の有であるのである。絶対の無にして有なるが故に、能はざる所なく、
知らざる所ない、全知全能である。」…大変面白い事を言っているのですが、
言葉の定義が曖昧であり、残念ながら理解困難です。
「SB量子神学」で解説するとこうなります。「神」は、本当の意味で「全知全
能である」ために、自分の「全知全能である」を肯定して「空」M0になること
ができるだけでなく、自分の「全知全能である」を否定して「全知全能でない」
ことも可能でなければならず、それが「色」M1、M2、M3、…です。「空」M0が
「絶対無」。「色」M1、M2、M3、…が「絶対有」。その両方である「神」の定
義が、「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}」にな
ります。ここでもまた、「絶対無」(合)=「絶対無」(正)+「絶対有」(反)とい
う弁証法が成立しています。そしてこれこそが、M0=M0+M1+M2+M3+…〔色即是空・
空即是色〕でした。 鈴木大拙のいう「即非の論理」つまり「A即非A、是名A」(Aはそのまま非Aで
もあり、これをAと名付ける)もまた、全く同じ構造です。
我々人間が住む世界では、論理が「真」と「偽」の二元論なので、Aと非Aとは
別物だと分別され、認識できるのはAまたは非Aのどちらか一方だけです。例
えばシュレディンガーの猫の生死を観測すると、観測にかかるのは「生」また
は「死」のどちらか一方だけです。これが「色」M1、M2、M3、…の住む世界の
特徴です。
ところが「空」M0の世界では、論理が一元論であり、「真」と「偽」の区別が
有りません。Aはそのまま非Aと等しくなります。Aも非AもAであることにな
り、A(合)=A(正)+非A(反)。やはり弁証法的構造が生じます。シュレディンガー
の猫の生死が「生」+「死」という重ね合わせのままになった世界です。 >>70
>因数分解してはいけないレベルまで因数を分解する作業です。
論文を平仮名1文字まで分解して、1文字ずつ理解するってことか?
おれには不可能な領域だな >>70
>>『「全知全能の神」を集合論的にシンプルに表現する方法編み出しました。』
>つまり形骸化しただけ、
>因数分解してはいけないレベルまで因数を分解する作業です。
やっぱり皆さん、量子力学に躓いている訳ですね。量子力学では、1個の素粒子
の状態を記述する時も、全く同じ手法を用います。それが取り得るすべての状
態をψ1、ψ2、ψ3、…とすると、これらを要素とする集合{ψ}が決まります。
観測していない時、すべてのψ1、ψ2、ψ3、…が重ね合わせのままです。どれ
なのかを観測すると、その中のどれか1つ、例えばψ1に確定します。しかし、
他のψ2、ψ3、…が消滅する理由が有りません。ここに量子力学の未解決問題
(観測問題)が残っています。「多世界解釈」では、世界が、そして自分の心が、
ψ1を知覚した「自分1」、ψ2を知覚した「自分2」、ψ3を知覚した「自分3」、
…に分裂したと考えます。
「SB量子神学」では、存在し得るすべての心をM0、M1、M2、M3、…とし、それ
らを要素とする集合{M}が「神」です。量子力学では当たり前の記述方法です。 矛盾自体は自然には無いよ。
それは理解するから生じるだけで、あくまでも人間の側の問題。
AをAの否定で理解するから。 >>84
>根本的に間違っていると思うの。>>82
どこが間違っているのか指摘できるなら、いつでも指摘して下さい。 光速度一定の法則が忘れられているよ。
これに対する合理的な理解は考えたことがあるのかな?
エネルギー保存則は明瞭に破られた現象は確認されていない。
歴史的には、破られたと思えるような現象はいつもあるのだが、後年訂正される。
その繰り返しがエネルギー保存則だそうだ。
超心理学も実験が改良されるとそれまでわからない事象の幾つかが解明され
それでもわからない事象はまた出てくる、という繰り返しで保存則と似たような歴史だそうだ。
それはともかく光速度の法則の合理的理解が色々と鍵を握っているだろう。 >>86
光速度一定の法則が忘れられているよ。
これに対する合理的な理解は考えたことがあるのかな?
人間の心のように特定の意識状態を持つ「色」M1、M2、M3、…の視点に立つ
ためには、「MiはMiである」(i=1、2、3、…)という自己同一性が保証される
べく、少なくとも「同一律」だけは成立していて無矛盾であることが必要です。
矛盾が生じると、「MiはMiである」と「MiはMiでない」の両方が成立して
しまい、Miは自己同一性を保てず、完全矛盾状態である「空」M0になってし
まいます。
特殊相対性理論の「光速は超えられない」という法則は、タイム・パラドック
スのような矛盾が生じるのを防ぐ効果にはなっていると思われます。特殊相対
性理論は、宇宙にとって必須法則でしょうか?、それとも、特殊相対性理論が成
立しない宇宙も有り得るでしょうか? そのへんのところ、自説をお持ちである
なら、ぜひ教えて下さい。 >>88
おまえバカだろ相対性理論のそれは
観測者に対する速度解釈であって(ry
観測という道具は光速なのでどうやっても光速になる。 光速度一定の法則の合理的解釈ってことなんだけど・・・・
30+30=30 30-30=30 って事実をどう考えたら納得できるかっていいう話し。
ちなみに>>89は>>86じゃない。 光速度で距離測る以外に方法があるなら言いたまえ、
光速度が距離の基準なのに、一定以外ありえないだろボケ >>90
>光速度一定の法則の合理的解釈ってことなんだけど・・・・
>30+30=30 30-30=30 って事実をどう考えたら納得できるかっていいう話し。
なるほど、何となく解るような気がします。
非常に「観念論」的なものを感じますね。もし、地球で静止している人が測っ
た光速がcで、光を速度vで追いかけている人が測った光速がc-vなら、いか
にも物質世界は客観的実在であり、自分が静止しているのか運動しているのか
も、客観的事実になりそうです。でも実際はそうでない。どんな座標系で測っ
ても光速は一定cだし、物理法則は全く同じ形式で成立することを保証してい
るのが相対性理論です。どの心も、「自分こそが宇宙の中心で静止していて、
他者たちが自分の周囲を運動しているのだ」、と自己中心的に解釈できる点で、
まるで夢を見ているように、とても「観念論」的だと思います。
「SB量子神学」では、「存在する」と「存在しない」とが相対的です。2つの
心M1とM2とが矛盾する情報を持つとき、どちらも「自分にとって自分の存在
確率は1」ですが、「自分にとって相手の存在確率は0」です。<Mi|Mj>=δij。 科学革命というのは、認識する主体が認識する対象の一つであることを理解することだろう。
自然の存在形態は運動であり、それは否定されたことがない。
光速度一定の法則の肝は絶対座標が実在しないということだろう。 科学は一貫して静止を否定している。
光速度一定の法則はトドメだろう。
つまり自然の存在形式は運動だということじゃね?w 相対性理論の神秘的なところは、時間と空間もまた、
「存在する」と認識する視点に立つと「存在する」と認識する。
「存在しない」と認識する視点に立つと「存在しない」と認識する。
のダブル・トートロジーが成立している点です。
例えば、地球とアンドロメダとは約200万光年離れており、一方から他方へと
光が移動するのに要する時間は約200万年かかります。ただしこれは、地球に
静止している座標系で観測した場合の話です。
一方この光自身の視点に立つと、ローレンツ収縮により、地球とアンドロメダ
との距離は0に、移動に要する時間も0に収縮しており、地球とアンドロメダ
とは4次元時空内でぴったりくっ付いていて、両者の間には空間的距離も時間
的距離も有りません。 E=mc^2の導き方(1)
相対性理論で最も美しい数式とされるE=mc^2の導き方を説明してみます。
ニュートン力学では、エネルギーE、運動量p=(px、py、pz)、質量m、の3つ
はディメンションが異なる全く別の物理量でした。ところが相対性理論では、
時間と空間とが統一されて同じディメンションと見なされるので、これら3つ
が統一されます。エネルギーEは、運動量p=(px、py、pz)の時間成分pt=E/c
であったことになり、p=(pt、px、py、pz)= (E/c、px、py、pz)と4次元に拡張
され、このベクトルpの大きさが質量mのc倍であるmcです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています