「神」を完全に解明しました!!(その2) [転載禁止]©2ch.net
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宗教ではなく、科学で「神」を完全に解明したと主張する内容です。
↓メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!』
http://www.mag2.com/m/0001657128.html
http://www.mag2.com/m/0001650933.html
ライプニッツのモナドロジーに則り、実在するのは個々の心(モナド)だけであり、
客観的物質世界なるものは実在しないと考えます。さらに量子力学の多世界解釈を取り、
存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…が実在していると考え、
その集合{M}を「神」と定義します。人間の心は要素の1つです。
「神」は、あらゆる心の状態を体験しているという意味で「全知全能」です。
個々の心が持てる情報をNビットとし、個々のビットが独立して「0」、「1」、「?」
(=「0」+「1」)の3つを取り得るとすると、全部で3^N種類の心になります(N→∞)。
1人の人間である自分の心M1は、
「なぜ自分の心M1は、「存在しない」ではなく「存在する」の方なのか?」、
「なぜ自分の心は、他のM2、M3、M4、…ではなくこのM1なのか?」、
「なぜ自分が住む世界の物理法則は、他の物理法則ではなくこの物理法則なのか?」、
…等の謎を感じますが、「神」の視点に立てば、すべての謎が消滅します。
「神」は全知全能であり、あらゆる○○○に対し、「○○○である」と認識する心と
「○○○でない」と認識する心の両方を作っています。そして、
「「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」と認識する」、
「「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」と認識する」、
というダブル・トートロジーが成立しているだけです。
前スレッド→http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1433496355/ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:7bff9ed63942b4cd01610d20b2c06e65) 「神」では、大部分は太陽神です。
それは、自然界の動物達は「太陽のリズム」により、一日を暮らし、四季
を暮します。太陽が動物達を導きます。
「人間」も動物より進化の過程では、太陽に導かれ、太陽は人間を導く
「神」と成りました。
我が日本でも太陽神(天照)より民族の神が生まれ、「古事記」などより、
歴史上の「神」と成り、天照の子孫「天皇家」は世界第一の旧家で、時の
政権の興亡にも「神」として、この「大戦」まで続きました。現在は日本
および日本人の「シンボル」として健在です。
他国にも、太陽神は多い。
、 >>27
古事記といってもある日突然大陸から使者が来てびっくりした当事の支配層が対抗して作り上げた創作でしょw
実際日本は島国である以上は大陸か東南アジアから人が流れてきて住み着いている
日本で高い文明が発生したとは思われていないから
大陸から来た一団が日本に文明をもたらしただろうし、
恐らくは大陸から戦争で負けたか一族か海賊が日本に流れ着いて武力で制圧した結果天皇家を作ったんだろう
ヨーロッパの王家は全て元々ゲルマンの山賊や海賊だったのは歴史的に知られている事実だし
王家なんてそんな大層なもんじゃない そう。「日本固有の文化」なんてものは、もともと存在しない。
すべて海外から流れ着いたもの。せいぜいそれを加工したものに過ぎない。 起きたまま妄想ができるのはすばらしい才能だけど。
貴方のそれは永遠に妄想なのはなぜ? >>31
>起きたまま妄想ができるのはすばらしい才能だけど。
>貴方のそれは永遠に妄想なのはなぜ?
あなたが眠ったままだからです。その証拠にあなたは、「なぜ世界なんてもの
が在るのか?」、「なぜ自分なんてものが居るのか?」、「なぜ物理法則なんて
ものに縛られているのか?」、…といった謎に、何の答も見つけられず、まどろ
みの中で生きているでしょう? あなたが目覚めれば、あなたの方が妄想だっ
たことに気付くはずです。そして、これらすべての謎に答が得られるはずです。
仏教も同じことを説いています。
あなたの人生は、「神」が見ている無数の夢の中の1つなのです。あなたは、
それに気付いていないから、目覚めている私の方が妄想に思えてしまうのです。
多世界解釈を支持している人は、目覚めかかっているので、妄想だとは思わな
いはずですよ。 神話や伝説は、ロマン。
現実であろうが、無かろうが、ロマンはロマンとして、
その程度の「感性」は、人として持ちたいもの。 起きたまま妄想することを、想像力という。凄い才能なんかではない。
イマジネイションだ。まともな情操教育を受けていれば、たいてい身につく。
これが欠落している方が、よっぽどおかしい。 人間が用いている論理は、「真」か「偽」かの2値という意味で二元論と言え
ます。例えばシュレディンガーの猫の話で、猫の生死を観測したら「死」だっ
たとしましょう。自分が住む世界では、「死」が「真」であってこれは認識で
きますが、「生」は「偽」であってこれは認識できません。そうやって2つを
分別し、片方だけを認識できるという性質こそ、「無意識」ではなく「有意識」
であるということ、つまり「空」ではなく「色」であるということです。
では、仮に「偽」が存在せず、すべてが「真」である一元論の論理が支配する
世界があったとしましょう。この世界では、同一の猫の「生」と「死」を同時
に知覚できるのでしょうか? できないように思われます。一元論の論理では、
「生」か「死」かも分別不可能、何かを「認識している」のか「認識していな
い」のかも分別不可能となり、完全な無意識になってしまいそうです。
もちろん、「真」が存在せず、すべてが「偽」だけの世界では、何一つ認識で
きない無意識になってしまうでしょう。
以上の考察が正しければ、完全な無意識状態である「空」こそ、一元論の論理
が成立する世界だと見なせます。人間の心である「色」が住む世界では二元論
の論理が成立しています。三元論、四元論、…の論理は有り得るでしょうか? >起きたまま妄想することを、想像力という。凄い才能なんかではない。
それは誰でもできる想像な。誰もできないキチガイは誰でももっている
才能ではない、すごすぎて治療が必要なのよ。 >>42
バカやキチガイの中に天才が生じやすいのは事実である、
負の何かを背負っている人ほど達人になりやすい、
キチガイを極めれば人間として機能しないからどうにもならない。 プラトンのいわゆる<イデア(理念)>は「範例(モデル」(本物)とコピ(似像)ーを区別した。
その意図は、「コピー」と「コピーのコピー(みせかけ=差異)」を区別するためである、
モデルは、なぜか同一性を保つと主張しており、コピーは、それに似ているか、
類比している(であるから、モデルとコピーは、つながっている)、のでコピーは「偉い。」
ところが 「ソピステス」236、あたり、エレアの客人が「コピー」との「見せかけ」のも
のとを、わけるとき、プラトンは迷っている、なぜなら、ここで、見せかけだけを
作る技術もあることを、言っているからである。だが、なぜか、必死に否定しようとする。
言いたいことは
、モデルの(同一性という錯覚)、これを、ピンチにするもの。それが(みせかけ)であるが、みせかけこそ差異の力だということ。
これをプラトンは、排除したいわけである。「真の演説する人」と「それを全く真似しようとするソフィストたち」。
この同一性神話は、善、主体、自己意識などの同一性に取って代わられ、
長い、神の歴史(デカルトのコギト{欺かない神}、ライプニッツ(最善率)、カント(定言命法)ヘーゲル(学)
、偶像の歴史であり、錯覚の歴史であった。 差異は、不等なものであり、一つの(潜在的、多様体)であるが、(リーマン多様体)でもいい。
その「潜在的なもの」が「平らにされたり(空間)、感覚されうる「性質」にされたり
、つまり、それが、量や質になるとき、「差異は無くなったように」見える。
しかし「差異」は、それが、いかなる形で「繰り広げられても」、
解消されない、差異(多様体)は、おのれを規定するとき、配分するとき
に、配分されたものの方へ割りふるまわれた、そのときでも、いつでも
潜在的なままである。でなければ、割り振られたもののなかで
差異は死に、エネルギーはなくなり、宇宙は死ぬだろう。
ニーチェは、そんな心配をしていたので、ケルヴィン卿(ウィリアム・トムソン)
の物理学を気にしていた。がそんな心配はいらないのである。
差異は「平板化」され、同一化され、自我になり、他我にあり、それが感覚に反
映し「常識」「共通感覚」といった、一連の錯覚においても、取り消されはしないからである。
ベルクソンは、せっかく、潜在的なものの存在を誰にもないほど描いたのだが
、「質」のなかに
「時間」のなかに入れてしまった。これは先験的なものである。 潜在的多様体=(諸理念、微分的諸関係)
=「問い」=「(非)・存在」が
つまり、差異が「否・存在」、否定と言う錯覚になるのは
どうしてか?
これは、以前言っていた、差異が繰り広げられたもの、(質的、量的なもの)と混同される
ときである。そうすると、同一的なもの、表象、自我が本来的なもの
になってしまい、そうでないものは「けしからんもの」になり、解消せねばならぬものになり」「呪われたもの」になり、
人間は、逆さにものを見、罪在る存在になる。常識(道徳)が本来のものになり、道徳を破る、守るという「対立」という、
またも、錯覚が生まれる。規則があるから破りたくなるは、
錯覚である。差異は、常識の反対ではなく、そのウラではない。 差異は「常識」と異なっているだけで、反対ではない。
反対という「偽の運動」。
「神は〜である」、「かつ〜でない」、「どっちも」
といったところで、、うつろな抽象的運動に変わりはない。、それは錯覚の中で
酔っ払っているのであって、
本物の酔っ払い(ディオニュソス)ではない。
差異は、超命題的、下ー表象的、であり、それらの下でうごめく
ものである。
また、正しきものにあっては、肯定が最初であり、肯定が
差異を肯定するのである。否定はその帰結であり、影でしかない。
(道徳の系譜、第一論文、10あたり)。
肯定するのに、根拠は必要なくいきなり肯定から始まるのである。(古代ギリシアでは、
ニーチェいわく、誠実なもの、正直な、もの)、もっと言えば
「存在するもの」(テオグニス)・・これらは皆、同じ意味なのであった。 科学もまた、存在の謎について、説得力の有る答を示せるところまで進歩して
来ました。現在の宇宙論では、いわゆる「ビッグ・バン仮説」が定説となって
います。138億年ほど前、宇宙は1個の点であり、それが大爆発して時間の経過
とともに空間の広がりを産み出し、様々な物質を発生させて来た、と説明され
ています。しかもビッグ・バンは、量子力学的な確率的ゆらぎによって半必然
的に起きる、と理解できます。これは、時間・空間を含め、「無」から「有」
が発生することの説明として、なかなかの説得力を持っていると思います。
ただし1つ不満が有ります。ビッグ・バンが起きた当時、それを観測していた
心など存在しなかったはずです。ビッグ・バン仮説は明らかに、「実在論」=「心
による観測とは無関係に、物質世界は実在し、その状態は確定している」を前
提にしているようです。しかし、J・ホイーラーの「遅延選択実験」など考慮す
ると、人間が観測して初めて、ビッグ・バンが起きたことに確定したのではな
いでしょうか? もし我々の宇宙に観測者が発生しなかったら、我々の宇宙は、
ビッグ・バンで発生したどころか、存在してさえいないのかもしれません。
結局、実在するのは、「自分の住む宇宙はビッグ・バンで発生したと認識して
いる心M1」だけであるという、「観念論」こそが正しいのではないでしょうか? 「SB量子神学」でいう「神」は、「全知全能である」を満たすことを徹底的に
要求します。すると、「全知全能である」だけを選んで「全知全能でない」を
放棄する訳にはいきません。「全知全能である」だけでなく「全知全能でない」
をも実現して初めて、本当の意味での「全知全能である」になります。ここか
ら、「全知全能である」(合)=「全知全能である」(正)+「全知全能でない」(反)
という弁証法的構造が必然です。「神」が人間を作った理由がこれです。
『大乗起信論』でいう「真如」も、「SB量子神学」でいう「神」と殆ど同義語
で、「何も限定されない」です。それゆえ、「真如である」も「真如でない」
も、「真如」に含まれることが必要です。ここから、必然的に弁証法的構造が
発生します。「真如」(合)=「真如である」(正)+「真如でない」(反)です。
仏教の本質である「空」も同様で、「何ものにも縛られない」のが「空」M0で
す。「何ものにも縛られない」をそのまま実現すれば「空」M0になりますが、
「「何ものにも縛られない」にさえ縛られない」すなわち「何かに縛られる」
を実現すると、「色」M1、M2、M3、…になります。それゆえやはり「空」もま
た、「空」(合)=「空」(正)+「色」(反)という弁証法的構造が必然になります。
そしてこれこそが、M0=M0+M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕です。 仏教の教えはおよそこういう内容です。「物質世界も心も、すべては「空」で
あると悟れ。そして自分の心の状態に執着するな。そうすれば、すべての悩み・
苦しみ・恐れを超越できるだろう。」…この教えが、「SB量子神学」の悟りと
全く同じ内容であることを説明します。
「SB量子神学」で悟りを開く方法は、極めて簡単でした。こう思い込むだけで
十分です。…「全知全能の「神」が実在し、存在し得るすべての心M0、M1、M2、
M3、…を平等に体験しており、自分こそがその「神」である」。1人の人間とし
ての現在の自分の心をM1とし、自分が体験しているのはM1だけだと思い込む
と、「なぜ他のM2、M3、…ではなくこのM1なのか?」という謎と、「もっとこ
うありたかったのに…」という不満が生じてしまいます。そこで、本当の自分
は「神」なのであり、すべてのM0、M1、M2、M3、…を平等に体験しているのだ
と悟れば、M1に対する謎も不満も消滅します。そして、すべてのM0、M1、M2、
M3、…を体験しているということは、M0=M0+M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕
から、真の自分は「空」M0なのだ、という意味になります。「真の自分は「空」
M0なのだと悟れ。そして自分の心M1に執着するな。そうすれば、すべての悩み・
苦しみ・恐れを超越できるだろう。」です。仏教の教えと完全一致しています。 「SB量子神学」でいう「神」は自然発生的なの?
人間に意思があることがどんなに尊いものに見えたとしても、結局進化論的に緻密に考えれば自然発生的に出現した複雑な運動にすぎない・・みたいな解釈ってできるけど、
「SB量子神学」でいう「神」もまた、そういう無機質な運動(もちろん我々の宇宙とは異なる法則を含む)の組み合わせから説明がつくひとつの自然現象の1つなのか? それとも別の何かなの? >>55
「SB量子神学」でいう「神」は自然発生的なの?
「SB量子神学」でいう「神」の定義は、「存在し得るすべての心M0、M1、M2、
M3、…を要素とする集合{M}」です。そして、個々の心M0、M1、M2、M3、
…は「半存在」であり、「神」もまた「半存在」です。つまり、
(1)「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」と認識する。
(2)「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」と認識する。
のダブル・トートロジー、さらに正確に言えば、
(3)「存在する」+「存在しない」と認識する視点に立てば、
「存在する」+「存在しない」と認識する。
を併せたトリプル・トートロジーを満たしています。そして客観的には、(1)(2)(3)
のどれにも確定していません。主観的に、(1)(2)(3)のどれにも成り得ます。(1)
の視点に立てば「存在する」に確定します。「神」は、特定の物理法則にも、
特定の心理法則にも、無矛盾な論理法則にさえ縛られないので、自然発生的と
いうか、論理的必然性で(1)(2)(3)の3つすべてを実現している、と考えます。 >>56
翻訳
神とは全知全能・宇宙の中の一部というお粗末な物ではなく、物理法則つまり宇宙を凌駕する(含む)概念なのです。
よって 発生 という物理法則の中での事象はそもそも神の中に 含まれ ます。 好奇心はそれ自体が存在理由を持っているのです。
人は永遠という神秘、生命という神秘、そしてこの実在の驚くべき構造などの神秘について深く思いをめぐらせてみるとき、畏敬の念を覚えずにはいられないのです。
毎日この神秘をほんのわずかでも理解しようと試みるだけで十分です。
科学の進化のみならず、理解したこの世の理を忘れぬようすれば、理不尽・無意味な人間社会での圧力に屈する事は無くなり、真に価値のある人間に近づくでしょう。 生命の神秘への洞察が宗教を生んできたのです。
普段の我々の能力では、その最も素朴な形しか理解できない最高の知恵、最も輝かしい美しさがその姿を現した時、普段の我々には入り込めない真の存在を知るのです。
この知識と感動が真の宗教の中心にあるものなのです。
宗教は長い月日の得て 文化・統制手段・思い込みによるセルフマインドコントロールの手段 となりましたが、科学という真の洞察活動は生き続けています。
科学が上記信仰に陥らないよう、実験により事実確認がなされます。 物質には永続性はないが、エネルギーにはある。エネルギーと結びついた物質が宇宙の実体なんだ。
神・・・。人間が神様の姿に似せて造られた・・・ つまり擬人化だが・・・などと教える宗教じゃないんだ。人間には無限の次元があり、その良心の中に神を見い出した。
この宗教では、世界が合理的であり、人は世界を思い、その法則を使って共に創造することが究極の神意である、という教え以外に教義はない。
ただし、そこには条件が二つだけある。一つは、不可解に見えるものが日常のものと同じほど重要だということ。二つ目は、われわれの能力は鈍感で、表面的な知識や単純な美しさしか理解できないということだ。 で、神はどこにいるのですか。
どこかに存在することは神の定義上不可能じゃないですか。
神の存在は要求されるが、実在しえないのではなかろうか。
(浪人生の呟きです) いないと思うことはいることを否定しているだけなのです。
いると感じたその感覚こそが神の息吹です。
それは何処からきたのですか?その始まりは何なのでしょうか?
何もないところから神の概念は生まれません。 よう考えたら>>61は愚問やったな。
すまんすまん。
神はどこかに存在し、なおかつどこにも存在せんのやろな。
(そんな神を人は神と思えるのだろうか) 回答ありがとうございます。
わかりました。
つまりここは
『「全知全能の神」を集合論的にシンプルに表現する方法編み出しました。』
のスレッドですね。
そういうことなら、こちらも「そうですか」というだけですね。
論理展開は悪くない。でも特に使い道もない。
ただ、「すっきり表現できるからちょっと気持ちいい。」という程度のものですね。
自分にとっては、特にこれ以上議論することは何もないと思います。
ありがとうございました。 >>65
何を言っているのか分かりません。意味不明。意味が分かる事を質問して下さい。 >>57
>翻訳
>神とは全知全能・宇宙の中の一部というお粗末な物ではなく、物理法則つまり
>宇宙を凌駕する(含む)概念なのです。
>よって 発生 という物理法則の中での事象はそもそも神の中に 含まれ ます。
その通りです。「神」は全知全能であるがゆえ、「どんな法則にも縛られない」
と考えるべきです。そして、「どんな法則にも縛られない」を実現している状
態が「空」M0であり、「「どんな法則にも縛られない」にも縛られない」すな
わち「ある法則に縛られる」を実現している状態が「色」M1、M2、M3、…です。
「神」から、「空」M0および「色」M1、M2、M3、…の存在が導かれる過程まで
は、何一つ法則に縛られていませんし、時間も空間も有りません。「時間の流
れ」「空間の広がり」「自己同一性(「自分」と「他者」の区別)」「特定の物
理法則」「特定の心理法則」「無矛盾な論理法則」、…等は、すべて「色」M1、
M2、M3、…の中に観念として存在するだけであり、言わば「神」が見ている無
数の夢M1、M2、M3、…の中だけに存在する架空の設定です。 >>61
>で、神はどこにいるのですか。
>どこかに存在することは神の定義上不可能じゃないですか。
>神の存在は要求されるが、実在しえないのではなかろうか。
>>63
>よう考えたら>>61は愚問やったな。すまんすまん。
>神はどこかに存在し、なおかつどこにも存在せんのやろな。
>(そんな神を人は神と思えるのだろうか)
「神」{M}の要素である個々の心M0、M1、M2、M3、…には、「存在位置」という
性質が有りません。個々の心M0、M1、M2、M3、…の中に、「時間」や「空間」
という観念が存在し得るだけです。1人の人間としての自分は、「2015年8月
31日に、東京の自宅に居る」と実感しています。しかしそれは、「神」が見て
いる無数の夢の中の1つです。そして、夢から目覚めた時の「神」について、
「いつ」「どこに」存在しているのか?と問うのは無意味です。 >>65
>回答ありがとうございます。わかりました。つまりここは
>『「全知全能の神」を集合論的にシンプルに表現する方法編み出しました。』
>のスレッドですね。
その通りです。殆どの人が、はっきりした定義もしないまま「神」についての
議論をしているので、解ったような解らないような曖昧な内容になり勝ちです。
特に、仏教でいう「空」、大乗仏教でいう「真如」、西田幾多郎のいう「「絶対無」
と「絶対有」とが「絶対矛盾的自己同一」した神」、…など、もの凄く面白い概
念なのに、定義が曖昧なので解りにくくなっています。「SB量子神学」は、「神」
の定義を「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}」と
明記することで、これらの概念を解り易く説明してやろうという試みです。
>ありがとうございました。
いえ、こちらこそ。また何か有りましたら、いつでも。 >『「全知全能の神」を集合論的にシンプルに表現する方法編み出しました。』
つまり形骸化しただけ、
因数分解してはいけないレベルまで因数を分解する作業です。 集合論て数学だよな。
数は大きさがないんだろう?
だったら数をいくら集めても大きさにはならない。
つまり元を問えば、数学自体が存在証明は不可能ということじゃないのかな? 集合論は数学に括られているけど
厳密には数学といえないような気もする いやあ・・・
気がする、という程度のもので論じられても神様は迷惑なんじゃないかな。 考えたよ。神様は忘れた事を、なんと[全部]思い出す事が出来る それだったら、どっかにそういう人がいると思うよ、という言いっぱなしでOK。 『場所的論理と宗教的世界観』(西田幾多郎)からの引用です。…「我々が神と
云ふものを論理的に表現する時、斯く云ふの外にない。神は絶対の自己否定と
して、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含むもの
なるがゆえに、自分自身によって有るものであるのであり、絶対の無なるが故
に絶対の有であるのである。絶対の無にして有なるが故に、能はざる所なく、
知らざる所ない、全知全能である。」…大変面白い事を言っているのですが、
言葉の定義が曖昧であり、残念ながら理解困難です。
「SB量子神学」で解説するとこうなります。「神」は、本当の意味で「全知全
能である」ために、自分の「全知全能である」を肯定して「空」M0になること
ができるだけでなく、自分の「全知全能である」を否定して「全知全能でない」
ことも可能でなければならず、それが「色」M1、M2、M3、…です。「空」M0が
「絶対無」。「色」M1、M2、M3、…が「絶対有」。その両方である「神」の定
義が、「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}」にな
ります。ここでもまた、「絶対無」(合)=「絶対無」(正)+「絶対有」(反)とい
う弁証法が成立しています。そしてこれこそが、M0=M0+M1+M2+M3+…〔色即是空・
空即是色〕でした。 鈴木大拙のいう「即非の論理」つまり「A即非A、是名A」(Aはそのまま非Aで
もあり、これをAと名付ける)もまた、全く同じ構造です。
我々人間が住む世界では、論理が「真」と「偽」の二元論なので、Aと非Aとは
別物だと分別され、認識できるのはAまたは非Aのどちらか一方だけです。例
えばシュレディンガーの猫の生死を観測すると、観測にかかるのは「生」また
は「死」のどちらか一方だけです。これが「色」M1、M2、M3、…の住む世界の
特徴です。
ところが「空」M0の世界では、論理が一元論であり、「真」と「偽」の区別が
有りません。Aはそのまま非Aと等しくなります。Aも非AもAであることにな
り、A(合)=A(正)+非A(反)。やはり弁証法的構造が生じます。シュレディンガー
の猫の生死が「生」+「死」という重ね合わせのままになった世界です。 >>70
>因数分解してはいけないレベルまで因数を分解する作業です。
論文を平仮名1文字まで分解して、1文字ずつ理解するってことか?
おれには不可能な領域だな >>70
>>『「全知全能の神」を集合論的にシンプルに表現する方法編み出しました。』
>つまり形骸化しただけ、
>因数分解してはいけないレベルまで因数を分解する作業です。
やっぱり皆さん、量子力学に躓いている訳ですね。量子力学では、1個の素粒子
の状態を記述する時も、全く同じ手法を用います。それが取り得るすべての状
態をψ1、ψ2、ψ3、…とすると、これらを要素とする集合{ψ}が決まります。
観測していない時、すべてのψ1、ψ2、ψ3、…が重ね合わせのままです。どれ
なのかを観測すると、その中のどれか1つ、例えばψ1に確定します。しかし、
他のψ2、ψ3、…が消滅する理由が有りません。ここに量子力学の未解決問題
(観測問題)が残っています。「多世界解釈」では、世界が、そして自分の心が、
ψ1を知覚した「自分1」、ψ2を知覚した「自分2」、ψ3を知覚した「自分3」、
…に分裂したと考えます。
「SB量子神学」では、存在し得るすべての心をM0、M1、M2、M3、…とし、それ
らを要素とする集合{M}が「神」です。量子力学では当たり前の記述方法です。 矛盾自体は自然には無いよ。
それは理解するから生じるだけで、あくまでも人間の側の問題。
AをAの否定で理解するから。 >>84
>根本的に間違っていると思うの。>>82
どこが間違っているのか指摘できるなら、いつでも指摘して下さい。 光速度一定の法則が忘れられているよ。
これに対する合理的な理解は考えたことがあるのかな?
エネルギー保存則は明瞭に破られた現象は確認されていない。
歴史的には、破られたと思えるような現象はいつもあるのだが、後年訂正される。
その繰り返しがエネルギー保存則だそうだ。
超心理学も実験が改良されるとそれまでわからない事象の幾つかが解明され
それでもわからない事象はまた出てくる、という繰り返しで保存則と似たような歴史だそうだ。
それはともかく光速度の法則の合理的理解が色々と鍵を握っているだろう。 >>86
光速度一定の法則が忘れられているよ。
これに対する合理的な理解は考えたことがあるのかな?
人間の心のように特定の意識状態を持つ「色」M1、M2、M3、…の視点に立つ
ためには、「MiはMiである」(i=1、2、3、…)という自己同一性が保証される
べく、少なくとも「同一律」だけは成立していて無矛盾であることが必要です。
矛盾が生じると、「MiはMiである」と「MiはMiでない」の両方が成立して
しまい、Miは自己同一性を保てず、完全矛盾状態である「空」M0になってし
まいます。
特殊相対性理論の「光速は超えられない」という法則は、タイム・パラドック
スのような矛盾が生じるのを防ぐ効果にはなっていると思われます。特殊相対
性理論は、宇宙にとって必須法則でしょうか?、それとも、特殊相対性理論が成
立しない宇宙も有り得るでしょうか? そのへんのところ、自説をお持ちである
なら、ぜひ教えて下さい。 >>88
おまえバカだろ相対性理論のそれは
観測者に対する速度解釈であって(ry
観測という道具は光速なのでどうやっても光速になる。 光速度一定の法則の合理的解釈ってことなんだけど・・・・
30+30=30 30-30=30 って事実をどう考えたら納得できるかっていいう話し。
ちなみに>>89は>>86じゃない。 光速度で距離測る以外に方法があるなら言いたまえ、
光速度が距離の基準なのに、一定以外ありえないだろボケ >>90
>光速度一定の法則の合理的解釈ってことなんだけど・・・・
>30+30=30 30-30=30 って事実をどう考えたら納得できるかっていいう話し。
なるほど、何となく解るような気がします。
非常に「観念論」的なものを感じますね。もし、地球で静止している人が測っ
た光速がcで、光を速度vで追いかけている人が測った光速がc-vなら、いか
にも物質世界は客観的実在であり、自分が静止しているのか運動しているのか
も、客観的事実になりそうです。でも実際はそうでない。どんな座標系で測っ
ても光速は一定cだし、物理法則は全く同じ形式で成立することを保証してい
るのが相対性理論です。どの心も、「自分こそが宇宙の中心で静止していて、
他者たちが自分の周囲を運動しているのだ」、と自己中心的に解釈できる点で、
まるで夢を見ているように、とても「観念論」的だと思います。
「SB量子神学」では、「存在する」と「存在しない」とが相対的です。2つの
心M1とM2とが矛盾する情報を持つとき、どちらも「自分にとって自分の存在
確率は1」ですが、「自分にとって相手の存在確率は0」です。<Mi|Mj>=δij。 科学革命というのは、認識する主体が認識する対象の一つであることを理解することだろう。
自然の存在形態は運動であり、それは否定されたことがない。
光速度一定の法則の肝は絶対座標が実在しないということだろう。 科学は一貫して静止を否定している。
光速度一定の法則はトドメだろう。
つまり自然の存在形式は運動だということじゃね?w 相対性理論の神秘的なところは、時間と空間もまた、
「存在する」と認識する視点に立つと「存在する」と認識する。
「存在しない」と認識する視点に立つと「存在しない」と認識する。
のダブル・トートロジーが成立している点です。
例えば、地球とアンドロメダとは約200万光年離れており、一方から他方へと
光が移動するのに要する時間は約200万年かかります。ただしこれは、地球に
静止している座標系で観測した場合の話です。
一方この光自身の視点に立つと、ローレンツ収縮により、地球とアンドロメダ
との距離は0に、移動に要する時間も0に収縮しており、地球とアンドロメダ
とは4次元時空内でぴったりくっ付いていて、両者の間には空間的距離も時間
的距離も有りません。 E=mc^2の導き方(1)
相対性理論で最も美しい数式とされるE=mc^2の導き方を説明してみます。
ニュートン力学では、エネルギーE、運動量p=(px、py、pz)、質量m、の3つ
はディメンションが異なる全く別の物理量でした。ところが相対性理論では、
時間と空間とが統一されて同じディメンションと見なされるので、これら3つ
が統一されます。エネルギーEは、運動量p=(px、py、pz)の時間成分pt=E/c
であったことになり、p=(pt、px、py、pz)= (E/c、px、py、pz)と4次元に拡張
され、このベクトルpの大きさが質量mのc倍であるmcです。 E=mc^2の導き方(2)
ユークリッド空間だったらピタゴラスの定理に従い、
(mc)^2=(pt)^2+(px)^2+(py)^2+(pz)^2になる訳ですが、我々の宇宙はミンコフ
スキー空間なので、擬ピタゴラスの定理に従い、
(mc)^2=(pt)^2-(px)^2-(py)^2-(pz)^2となります。これは、px、py、pzを虚数
と見なし、p=(pt、ipx、ipy、ipz)とした上でピタゴラスの定理を用いるのと同
じです。
(mc)^2=(pt)^2-(px)^2-(py)^2-(pz)^2
=(E/c)^2-(px)^2-(py)^2-(pz)^2
まとめると、
E^2=(mc^2)^2+(px・c)^2+(py・c)^2+(pz・c)^2
この物体が静止しているときにはpx=py=pz=0とおいて、
E=±mc^2
正確には±が付くようですが、普通は、
E=mc^2
と書くようです。質量mを持つ静止した物体のエネルギーを表しています。 k=√(1-(v/c)^2)の導き方(1)
ローレンツ収縮の式k=√(1-(v/c)^2)の導き方について説明してみます。ミンコ
フスキー空間を使うと一目瞭然です。
タテ軸上向きに時間軸t(↑)を取り、ヨコ軸右向きに空間軸x(→)を取ります。
tの単位は「年」、xの単位は「光年」とし、座標は点P(t、x)とtを先にxを
後に書きます。原点O(0、0)と点P(5、4)とを結んだ直線分O(0、0)→P(5、4)
は、時刻t=0に地球x=0を出発したロケットが、t=5年後にx=4光年離れた宇宙
ステーションに到達する世界線を、地球に静止した座標系で記述したものです。
5年かかって4光年移動しているので、速度は光速の80%すなわちv=0.8cです。
ではこの時、ロケットではどれだけ時間が経過するでしょうか? その答は、直
線分O(0、0)→P(5、4)の長さで与えられます。タテ=5、ヨコ=4を満たす長方形
の対角線の長さです。ユークリッド空間であれば、ピタゴラスの定理により、
√(5^2+4^2)=√41となるところですが、我々の宇宙はミンコフスキー空間なの
で、擬ピタゴラスの定理に従い、√(5^2-4^2)=3となります。これは、タテ=5、
ヨコ=4i(虚数)の長方形の対角線の長さを、ピタゴラスの定理で計算したものと
同じです。地球では5年かかったのに、ロケットでは3年経過しただけです。 k=√(1-(v/c)^2)の導き方(2)
では一般論として、静止している人が1年経過する間に、速度vで運動してい
る人はどのくらい時間が経過するでしょうか? 光速cで運動していれば、1年
に1光年移動しますから、速度vで運動すると、1年にv/c光年移動します。つ
まり答は、原点O(0、0)と点P(1、v/c)とを結んだ直線分の長さで与えられ、そ
れは、タテ=1、ヨコ=(v/c)iの長方形の対角線の長さで与えられます。ピタゴラ
スの定理を用い、タテの2乗とヨコの2乗の和を取り、その平方根を取って、
k=√(1-(v/c)^2)。これが、ローレンツ収縮の式です。簡単ですね。
地球から見ると、地球-宇宙ステーションは静止していて、ロケットが速度vで
運動しています。ロケットから見ると、ロケットは静止していて、地球-宇宙ス
テーションの方が速度-vで運動しています。速度の向きは逆ですが、大きさは
同じです。それなのに、ロケットが地球にいる状態からロケットが宇宙ステー
ションにいる状態に変わるまでの所要時間は、地球で測った場合に比べロケッ
トで測った方がk倍に縮んでいます。これは、ロケットから見ると、速度-vで
運動している地球-宇宙ステーションの長さも、k=√(1-(v/c)^2)倍に縮んでい
ることを意味します。 【「SB量子神学」の「神」は大乗仏教の「真如」と同義語】(1)
『大乗仏教概論』(鈴木大拙著、佐々木閑訳、岩波書店、2004)から、「真如」
について引用してみます。「SB量子神学」でいう「神」とそっくりな、大変面
白い概念です。
-----勝義諦あるいは円成実性といわれる超越的真理は、存在論的視点からは真
如と呼ばれる。それは「存在のあるがままたること」という意味である。仏教
は思考と存在を分けて考えることがないので、客観世界における真如が、その
まま主観世界での超越的真理となるし、逆に客観世界における超越的真理が主
観世界での真如ともなる。したがって真如は仏教における神性であり、一切の
起こりうる矛盾を統合し世界の事象の方向性を自ら指し示す最高原理に到達す
るためのあらゆる精神的努力が成就したことを示す指標となるものである。つ
まりそれは存在の究極的公理なのである。先に述べた円成実性と同様、それは
論理的知識の領域にも感覚的経験の領域にも属さないので、自然科学が一般法
則を見いだすのに用いる普通の知的探求法によっては理解することができない。
そしてそれは仏教徒に言わせれば、いわゆる宗教的直観と呼ばれるものを発揮
する能力のある者によってしか把握され得ないものである。----- 【「SB量子神学」の「神」は大乗仏教の「真如」と同義語】(2)
早くも、「(真如は)自然科学が一般法則を見いだすのに用いる普通の知的探求
法によっては理解することができない」という主張が出て来ました。この後さ
らに、「(真如は)言葉では正確に説明さえできない」という主張が出て来ます。
-----馬鳴は『大乗起信論』の中で、この第一原理の限定不可能性を語っている。
…。したがって馬鳴は、このような存在の、究極的性質を明確に語ることはど
のようなかたちであれ避けたかったのであるが、我々凡人が自分の考えを表明
し、それを他の人たちに伝えるには言語以外に方法がないため、彼は最良の方
法として、「真如」すなわち「存在のあるがままたること」、もっと簡単に言
えば「そのようであること」という語で表現することにしたのである。このよ
うに絶対的視点から名付けられた真如というものは、存在のカテゴリーにも非
存在のカテゴリーにも属さない。そして狭い相対性の範囲に留まっている人は、
その本当の姿を把握することはできないのだと言わざるを得ない。-----
「SB量子神学」でいう「神」は、この「真如」と殆ど同義語だと考えて下さい。
自然科学で解明不可能とされ、言葉でも正確には表現されないというこの「真
如」を、何とか自然科学で解明しようとするのが「SB量子神学」です。 【「SB量子神学」の「神」は大乗仏教の「真如」と同義語】(3)
-----〔限定不可能性〕絶対的真如は、本質的にすべての限定を拒む。「それは
なになにである」という言い方さえできない。なぜなら、「それはなになにで
ある」という場合には、必ず「それはなになにではない」という対立項が想定
されているからである。存在と非存在は、主観と客観、心と物質、これとあれ、
一と多といった概念と同じく、相対的な言葉であり、対立項があって初めて考
えることのできるものなのである。したがって我々が自分たちの不完全な表現
機能によってそれを表そうとするなら、「それはそうではない」としか言いよ
うがないということになるであろう。それゆえ大乗仏教徒は普通、絶対的真如
を空性として表すのである。しかし空性という、この最も重要な語を、より完
全に解釈するなら、馬鳴が言うように「真如とは存在するものでも非存在なる
ものでもなく、存在しかつ存在しないものでもなく、存在せずかつ存在しない
のでもないというのでもない。それは一なるものでなく、多なるものでもなく、
一にしてかつ多なるものでもなく、一にしてかつ多なるものでないというので
もない」という言い方をすべきであろう。-----
量子力学の多世界解釈を利用しないと、あからさまに矛盾が生じる訳です。 【「SB量子神学」の「神」は大乗仏教の「真如」と同義語】(4)
-----真如を絶対否定として捉えるこの視点は、大乗の中の禅宗文献に多く見い
だされる。たとえば禅宗の祖である菩提達磨は、梁の武帝から聖なる教えの第
一原理を尋ねられた時、哲学者のように長くてくどくどしい説明などはせず、
簡潔に「まったくのからっぽで、聖なるものなどなにもない」と応えている。
武帝は困惑し、この聖なる指導者の言葉をどう理解したらよいのか分からなか
った。彼は当然、このようなぶっきらぼうな答えなど予想していなかったので
非常にがっかりし、そしてさらに次のような質問を試みる。「それなら、私の前
に立っているのは一体何者ですか」と。…。達磨はただ「知らん」と応えただ
けであった。この「知らん」という言葉は不可知論的な意味で理解してはなら
ない。それは「神は理解された時、もはや神ではない」というのと同じ意味な
のである。…。大乗仏教徒は往々にして、「絶対的真如はからっぽでありかつ、
からっぽでない。空でありかつ、不空である。存在しておりかつ、存在してい
ない。有にしてかつ、非有。一にしてかつ多。これでありかつ、あれである」
といったパラドキシカルな表現を用いたのである。-----
こんへんから仏教は、哲学から宗教へと変質(堕落?)したように感じます。 【「SB量子神学」の「神」は大乗仏教の「真如」と同義語】(5)
-----〔雷のごとき沈黙〕あるとき文殊が多くの菩薩を連れて維摩菩薩を訪ねて
きたが、その時維摩は、その菩薩たちに、「どうやったら不二の法門に入るこ
とができるのか、その点に関しての見解を語っていただきたい」と質問する。
それに対してある者は「生と死は二つのものであるが、法そのものは生まれも
しないし死にもしない。このことを理解した者は不二の法門に入ったと言われ
るのである」と答えた。…。他にもたくさんの答えが、リーダーである文殊を
除いたすべての菩薩たちから提示された。そこで維摩は、その文殊に対して、
自分の考えを述べるよう求め、文殊は次のように答える。「私の考えるところ
を言葉にするなら次のようになるでしょう。全く言葉がなく、言説がなく、い
かなる指標も示さないものは認識することができず、一切の質問と応答を超え
てしまっている。これを知ることが不二の法門に入ることと言われるのである」。
最後に文殊が、維摩に向かって、不二に関する彼自身の意見を語るよう求める。
しかし維摩は完全な沈黙を守り、一言も発しなかった。すると文殊は「大いに
結構である。不二の法門は、文字も言葉も全く超越してしまっているものなの
だ」と叫んで、それを賞賛したのであった。----- 【「SB量子神学」の「神」は大乗仏教の「真如」と同義語】(6)
「不二法門」とは、常識的には「生」と「死」のように明らかに異なると分別
さける「二」を、敢えて分別せずに「不二」と見なすことで、何ものにも囚わ
れぬ自由な境地に到達することだ、と説明されています。ただし、このように
言葉で説明する事自体が「不二法門」の意味を捻じ曲げてしまうので、黙り込
んで何も答えなかった維摩だけが、真の理解者だと評価された訳です。しかし
私は不満です。科学はどんな謎も、数学という言語で記述できると信じます。
例えば「真如」の説明はこうでした。-----「真如とは存在するものでも非存在
なるものでもなく、存在しかつ存在しないものでもなく、存在せずかつ存在し
ないのでもないというのでもない。」-----矛盾していて全く無意味です。
そこで、量子力学の多世界解釈を利用します。シュレディンガーの猫の生死を
観測した自分は、「生」だった世界W1に居る「自分1」と、「死」だった世界
W2に居る「自分2」とに分裂します。世界W1は、「自分1」にとっては「存在
する」ですが、「自分2」にとっては「存在しない」です。世界W2は、「自分
2」にとっては「存在する」ですが、「自分1」にとっては「存在しない」です。
これだと何も矛盾は無く、正確に記述できています。 【「SB量子神学」の「神」は大乗仏教の「真如」と同義語】(7)
「SB量子神学」に則って「不二法門」の説明をするとしたらこうなるでしょう。
「シュレディンガーの猫の生死を観測すると、自分は「生」か「死」のどちら
か一方だけを知覚・認識したように感じるので、「生」と「死」ははっきり異
なるという意味で「二」である。しかし、多世界解釈によると自分は、猫が「生」
だった世界W1に居る「自分1」と、猫が「死」だった世界W2にいる「自分2」
とに分裂し、両者は線形の重ね合わせのまま時間発展していく。自分は本当は
「生」と「死」の両方を体験しているのであり、どちらか一方だけではないと
いう意味で「不二」である。これは、すべての場合について言える。勝負にお
ける「勝ち」と「負け」、試験における「合格」と「不合格」、人生における
「幸福」と「不幸」、…等々。多世界解釈によれば、限りなく世界(自分の心)
が分裂し、あらゆる分岐において自分は両方を体験している。真の自分は全知
全能の「神」であり、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を線形の重ね
合わせのまま、全部体験している。こう考えると、幸福な人生も不幸な人生も、
「神」の貴重なコレクションの1つであり、有りのままに楽しめる。このよう
な心境に至ることを、不二の法門に入ったといわれるのである」。 【「SB量子神学」の「神」は大乗仏教の「真如」と同義語】(8)
-----〔条件付きの真如〕すべての個別化の方法を拒否する絶対的超越的真如は、
それがそのままのかたちで留まっている限りは、現象世界や人間の生活の中に
直接的な意味を持つことはない。それが直接的意味を持つためには、自然の中
の法則性としての条件付きの真如、そして我々の現実世界における倫理的規則
としての真如になる必要がある。絶対的な真如というものは、あまりにも遠く、
あまりにも抽象的であって、形而上的価値しか持っていないとも言える。超越
的である限りにおいては、それが存在してもしなくても、我々の日常的な精神
生活には影響がないように思えるのである。真如が我々の限りある意識の中に
入り、我々の意識活動の規範となり、そして自然における進化的流れを制御す
るためには、その「輝ける孤高」を放棄し、絶対性を捨て去らねばならないの
である。-----
いよいよ、真如の二面性が出て来ます。「絶対的真如」とは「空」M0を意味して
おり、どんな法則にも縛られず、特定の意識を持ちません。「条件付き真如」こ
そが「色」M1、M2、M3、…を意味し、人間の心がそれです。「絶対的真如」が、
なぜか自ら全知全能を放棄し、無数の「条件付き真如」に分裂するのです。 【「SB量子神学」の「神」は大乗仏教の「真如」と同義語】(9)
-----このように、真如が思考不可能領域の王座から降り来った時、我々の現前
には多彩かつ壮麗な宇宙が展開することになる。天球にちりばめられて瞬く
星々、新緑の草原やそびえ立つ山や逆巻く波によって美しく飾られた地球、森
で明るくさえずる鳥、叢林をかける獣、白雲の湧きあがる夏空と、その下の大
地で豊かに茂る樹木、生き物のかげもなく、渺々たる北風にふるえる裸の木々
だけが目につく冬の大平原、こういった光景は、数学、天文学、物理学、化学
そして生物学の諸法則からはいささかも逸脱するものでなく、しかも、自然の
中における条件付き真如の働きにほかならないのである。…。つまり、主観、
客観を問わず、この現象世界に現れる万華鏡的変化のすべては、条件付き真如
の手によるものなのである。それは生活の中の善や幸福を形成するばかりでな
く、肉体に咎が及ぶ罪悪や犯罪、苦しみをもつくるのである。-----
仏教は基本的に「唯識」(観念論)の立場を取りますから、客観的物質世界なるも
のが実体として実在している訳ではない、と強調します。実在するのは、真如
が自分の全知全能を封印して降り来った「色」M1、M2、M3、…だけであり、森
羅万象はこの「条件付き真如」が産み出している、ということになります。 【「SB量子神学」の「神」は大乗仏教の「真如」と同義語】(10)
-----〔解決を拒む問題〕世界が真如の顕現であるとすると、ここで我々はきわ
めて不可解な問題に直面することになる。その問題は、人間が知性を持つよう
になって以来、最もすぐれた人々の心を悩まし続けてきたものである。それは
すなわち、「真如はなぜ神秘的な超越性の世界に留まり続けず、様々な不幸が
我々に押し寄せているこの地上へと降りてきたのか。自分自身の絶対性の、言
語を絶した至福を享受できるというのに、わさわざこの世の塵にまみれるとい
うことにはいかなる本来的必然性があったというのか。すなわち、絶対的真如
は一体どうして条件付き真如になるのか」という疑問である。こういった疑問
は人間に関わりのないことであるといって片づけてしまうのが、不可知論者や
実証主義者のやり方である。しかしこれらの問題は、人の心がお遊び気分で気
まぐれに思いついたものではない。それはかつて我々に課せられた問題の中で
も最も重大なものであり、人生の意義は、ひとえにそれらの問題をどう解決す
るかにかかっているのである。-----
まさにその通り、これが最大の謎です。「SB量子神学」の言葉で表現すると、「な
ぜ全知全能の「神」は、敢えて全知全能でない人間なんか作ったのか?」です。 批判はもっともだと思うけどね。
簡潔に説明してくれ。 「真如」についての簡潔な説明だったら、↓にすでに書いています。
『大乗起信論』の真如→http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1433496355/982
ここでは、簡潔な説明をしているのではなくて、「SB量子神学」でいう「神」
と、大乗仏教でいう「真如」とが、同義語であることを論証しようとしている
のです。「SB量子神学」でいう「神」の方は私が勝手に定義した概念ですが、
「真如」の方は私の造語ではなく、大乗仏教の用語なのです。しかも、言葉で
は表現できず、表現しようとすると矛盾が生じてしまうという、厄介な言葉で
す。だから大乗仏教の専門書の中から「真如」に関する記述を引用し、「こう
いう意味らしい」という証拠を挙げつつ、論証する必要が有るのです。
簡潔に説明できることは、できるだけ完結に説明したいですが、そう簡単には
いかない場合もあることを理解して下さい。
長い文章は読みたくないという人は、読まなくて結構です。 【「SB量子神学」の「神」は大乗仏教の「真如」と同義語】(11)
-----この謎が、限定された知性や論理的証明能力の領域を絶対的に越えてしま
っていることから、人の心に依るだけでそれを解決することはできないという
ことを仏教は認める。-----
《謎》=「なぜ「神」は、敢えて全知全能でない人間を作ったのか?」。「SB量子
神学」の答はこうです。《答》=「「神」は、本当の意味で「全知全能である」を
満たすため、「全知全能である」だけでなく、その否定である「全知全能でない」
をも実現する必要が有るから」。「全知全能である」が「絶対的真如」すなわち
「空」M0であることを意味し、「全知全能でない」が「条件付き真如」すなわち
「色」M1、M2、M3、…であることを意味します。両方実現して初めて弁証法的
に、「神」は本当の意味での「全知全能である」(合)=「全知全能である」(正)+
「全知全能でない」(反)になり得るのです。しかも、個々の心M0、M1、M2、M3、
…は「半存在」であり、「存在する」と「存在しない」の両方が実現されていま
す。M1とM2とが、シュレディンガーの猫の「生」と「死」を知覚する心のよう
に互いに矛盾する情報を持つ時、どちらも「自分にとって自分の存在確率は1」
ですが、「自分にとって相手の存在確率は0」です(<Mi|Mj>=δij)。 【「SB量子神学」の「神」は大乗仏教の「真如」と同義語】(12)
-----宗教には、自分が提示する命題を自然科学のやり方にならって証明する義
務などない。宗教は事実をそのままに説けばよいのである。そして知性の方は、
それが本来持つ限界によって束縛されてはいるものの、全力を挙げてそれらの
事実を首尾一貫したひとつの体系へと組み上げていかねばならない…。-----
先程の謎です。《謎》=「なぜ「絶対的真如」は、敢えて「条件付き真如」にな
ったのか?」。こう答えれば良いはずです。《答》=「「絶対的真如」は、「何
も限定されない」ため、「何も限定されない」をそのまま実現して「絶対的真
如」のままでもいられるし、「「何も限定されない」にさえ限定されない」す
なわち「何かに限定される」を利用して「条件付き真如」にもなれるから」。
しかも、M0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕が成立しています。左辺が「空」
すなわち「絶対的真如」であり、右辺が「色」すなわち「条件付き真如」です。
右辺は線形の重ね合わせであり、M1、M2、M3、…と見なすこともできるし、(M1+M2)、
(M3+M4)、(M5+M6)、…と見なすこともできるし、…、(M1+M2+M3+…)が1つだけ
と見なした場合にはそのままM0になります。M0はM1、M2、M3、…に分裂する
までもなく、M0であることがそのままM1+M2+M3+…でもあるのです。 【「SB量子神学」の「神」は大乗仏教の「真如」と同義語】(13)
「SB量子神学」では仏教の「唯識」と同様、「観念論」の立場を取るため、実
在するのは心M0、M1、M2、M3、…の集合{M}だけであり、それ以外に客観的物質
世界なるものの実在は考えません。物質世界はすべて、個々の心の中に観念と
して存在するだけです。心の状態を、それが持つ情報に注目してMi=「abcde…」
(個々のa、b、c、d、e、…は独立して「0」、「1」、「?」=a「0」+b「1」の3
つを取り得る)と表現すると、全部で3^N種類の心が存在し得ます(N→∞)。す
べてのビットが「?」で無意識となっているのが「空」M0=「?????…」です。「色」
M1、M2、M3、…は、少なくとも1ビットは「0」か「1」に確定し、特定の意識
内容を持つ状態です。「?」は全体としては「?」ですが、部分として「0」と「1」
を含んでいます。つまり「空」M0=「?????…」は、全体としては無意識ですが、
その部分の中にすべての「色」M1、M2、M3、…を含んでおり、M0=M1+M2+M3+…
〔色即是空・空即是色〕がそれを表しています。同一の状態を、全体として見
ると左辺のM0ですが、個々の部分として見ると右辺のM1、M2、M3、…になりま
す。西田幾多郎の言葉で言うと、「空」M0が「絶対無」であり、「色」M1、M2、
M3、…が「絶対有」であり、両者の「絶対矛盾的自己同一」を表しています。 神概念は、今ここにある自然の不可解性や社会の理不尽の根源を名付けてブラックボックスにした文明の利器。
君の考える神が現状の自然や世の矛盾と整合しないなら、それは残念ながら神ではない何かだ。 冗長な文言が並ぶ長文しか書けない人は
以下が欠如している
→書こうとする対象に対する理解
→論理的思考能力 【「SB量子神学」の「神」は大乗仏教の「真如」と同義語】(14)
-----〔無明論〕無明すなわち無知の理論とは、一と多、絶対的真如と条件付き
真如、法身と一切衆生、菩提と煩悩、涅槃と輪廻の関係を解決するための仏教
徒による試みである。…。すなわち無明は、…、真如という永遠の大海に、哮
り狂う存在の大波を引き起こす。さらには涅槃の静寂を破って、永久にめぐり
続ける輪廻の車輪を回すのも無明であるし、真如を映し出す清明な菩提の鏡を
覆い隠すのも、そして真如の同質一元性を彼我の二元性に転換し、多くの錯乱
した心をエゴイズムへと導いて、あらゆる有害な結果をもたらすのも無明なの
である。-----
「無明」とは、「色」である人間の心M1が、本当は自分が「空」すなわち「絶
対的真如」であることを認識できず、M1だけに執着してしまうことです。する
と、大切なのは自分の心M1だけであり、他人の心M2、M3、M4、…が苦しもうと
悲しもうと平気でいられる利己的な価値観を持ってしまいます。さらに、他人
の心M2の方がM1よりも幸福だったりすると、M2に嫉妬し、M2の不幸を願って
しまったり、M2に害を及ぼし罪を犯すことさえあります。本当の自分は単なる
M1ではなく、「絶対的真如」なのだと悟れば、「無明」から抜け出せる訳です。 【「SB量子神学」の「神」は大乗仏教の「真如」と同義語】(15)
大乗仏教の教えは、…「真の自分は「空」(絶対的真如)であると悟れ。そして1
人の人間としての自分の心に執着するな。そうすれば、すべての煩悩を超越で
きるだろう。」…です。「SB量子神学」の悟りと全く同じ内容です。
「SB量子神学」で悟りを開く方法は、極めて簡単でした。…「全知全能の「神」
が実在し、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を平等に体験しており、
自分こそがその「神」である。」…こう思い込むだけで十分です。1人の人間と
しての現在の自分の心をM1とし、自分が体験しているのはM1だけだと思い込
むと、「なぜ他のM2、M3、…ではなくこのM1なのか?」という謎と、「もっと
こうありたかったのに…」という不満が生じてしまいます。そこで、本当の自
分は「神」なのであり、すべてのM0、M1、M2、M3、…を平等に体験しているの
だと悟れば、M1に対する謎も不満も消滅します。M0=M0+M1+M2+M3+…〔色即是空・
空即是色〕より、右辺の「神」M0+M1+M2+M3+…は左辺の「空」(絶対的真如)M0
に等しいのが解ります。「真の自分は「神」=「空」(絶対的真如)であると悟れ。
そして自分の心M1に執着するな。そうすれば、すべての煩悩を超越できるだろ
う。」となり、「SB量子神学」の悟りは、大乗仏教の教えと完全に一致します。 【「SB量子神学」の「神」は大乗仏教の「真如」と同義語】(16)
大乗仏教では、悟りを開いた菩薩たちは大いなる慈悲を持って、悟りを開けず
に苦しんでいる凡夫たちを救済しようとします。悟りを開くとは、真の自分が1
人の人間の心M1などではなく、本当は「絶対的真如」であることに気付くこと
でした。言わば、1人の人間としての自分の心M1は、全知全能の「神」が見て
いる無数の夢の中の1つに過ぎない、と理解することです。そうすればM1の状
態に囚われる必要は無くなり、M1が幸福なら幸福を、M1が不幸なら不幸を、あ
りのままに楽しめば良いことになります。さらに、1人の人間としての自分が生
まれてから死ぬまでの心の状態を、短い時間間隔に分割してMa〜Mzとすると、
Ma(誕生)→Mb→Mc→…→Mk(現在)→…→Mx→My→Mz(死亡)という時間の流れと
自己同一性を実感します。そしてMz(死亡)の後は存在せず、「死」の恐怖が生
じてしまいます。本当は自分は「神」であり、すべての心Mi(i=0、1、2、3、…)
による「MiはMiである」を、線形の重ね合わせのままで体験しているのです。
菩薩はそれを悟っていますが、凡夫は悟れず「死」の恐怖に怯えています。菩
薩は、凡夫が他人ではなく自分(絶対的真如)の一部であることも理解している
ので、何とか救済してあげたいと願い、涅槃に入ることさえ拒絶するのです。 【「SB量子神学」の「神」は大乗仏教の「真如」と同義語】(17)
-----ここにおいて我々は、解決しようとしてもできない非常に不思議な事実に
直面する。すなわち、無明つまり意識は、どのように、そしてなぜ、存在の絶
対的な静寂さから呼び覚まされるのか。どのように、そしてなぜ、心理作用の
波が、永遠なる平安の大海のうちに巻き起こるのかという問題である。馬鳴は
それを簡単に「自ずから」と言っているが、これではなんの説明にもならない。
少なくとも、いわゆる科学的解釈として通用するものではないし、我々に対し
てなんらかの理由を示すものでもない。…。なぜ無明があるのかという疑問は、
なぜ真如があるのかという疑問と同じく、誰にも答えることはできない。-----
こういう謎に「SB量子神学」は簡単に答えます。「なぜ真如があるのか?」、「な
ぜ無明があるのか?」…答は簡単で、「真如も無明も、「有る」と「無い」の両方
を実現しているから、「なぜ有るのか?」、「なぜ無いのか?」という謎自体が存在
しない。」です。M0=M1+M2+M3+…を使います。左辺を見ると、「絶対的真如」M0
だけが存在し、M1、M2、M3、…は重ね合わせられて消滅しており、「無明」は
有りません。右辺を見ると、「無明」が有ってM1、M2、M3、…が発生しており、
「絶対的真如」M0の方が存在していません。しかも、左辺=右辺、です。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています