お前ら自分が哲学的ゾンビじゃないと言い切れるの? [転載禁止]©2ch.net
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自分の持ってる感情や意識、思考や心なんてものが本当に機械的にインプットされたものじゃないって誰が言い切れるの?
もしかしたら哲学的ゾンビかもしれないのに >>1
だったらおまえもレプティリアンかもしれんねw 孤立した人間が党派的答えだけみえるようになって
あとは内ゲバ視しちゃうのは当然ですね
ってかんじ 自分は哲学的ゾンビじゃないんだよ
それが哲学的ゾンビの定義とほぼ同義なんだから 機械かもしれないしゾンビかもしれない
そうかもしれないが他にも悩みは尽きない >>6
1は哲学的ゾンビの定義を理解できていない
言いたいことは解るんだが・・・ 俺はゾンビじゃない 星飛雄馬が野球ロボっとであったように俺は哲学文学ロボになりたいのだ
そう ひとはロボのように同じ安定ルーティンを繰り返すことで安心するのである
ひとは思考するけどロボをめざしているにちがいない! 哲学的ゾンビ映画 とは?
哲学的ゾンビが襲ってくるのか? 哲学的ゾンビに襲われると
襲われたj人も哲学的ゾンビになる
でもとくに違いが出るわけでは無い 哲学的ゾンビウイルスを扱っている秘密の研究所で事故が起こり
大半の研究員が感染して哲学的ゾンビになってしまった!
そのことを知った新米研究員Aは・・・
一方、自分が感染してしまったことを知った主任研究員Bは・・・ もちろん物理的に普通の人間と哲学的ゾンビは全く区別できない
ただウイルスに感染したという事実があるだけだ
それ以外は何の変化もない
だから主任研究員Bは意識を持っているのと全く同じ行動をとる
「なんだ。ウイルスに感染したとビビってたけど、全然意識があるじゃないか。」
「自分は意識があるし、意識していることを意識できるし、意識はあるよ!」
「ウイルスは不完全だったんだ!実験は失敗だ!だが喜んでいい。
ウイルスは無害なので研究員はみんな家に帰って良いぞ。」 意識はあるんだ助けてくれと懇願する
研究員Cに無慈悲にナタを振り下ろす新米研究員A
「こいつらを研究所の敷地の外に出すわけにはゆかない・・」
哲学的ゾンビが襲われる話になってしまった 自分が実は哲学的ゾンビだったとしても自分は哲学的ゾンビじゃないって主張でき、かつ、それが他者と共有できないところに哲学的ゾンビの問題の核心があるのではないかい? 物理的に区別できないのに人間とゾンビには違いがある
ということは物理以外の何か(魂とかクオリアとか)が存在しなければならない
ゆえに(少なくとも現時点では)哲学的ゾンビは形而上学である こういったニヒリズムは議論するようなお題目ではなく自分で解答を用意して評価しあうようなお題目だろ 意識は受動的な部分が大部分だと解明されてきてるし、人間だって宇宙が作った機械。
クオリアのないコピー世界となんら変わらない。ゾンビの定義というより現実の世界との境目がよく分からん。 ゾンビなんてありえねーから
死体が動くって言い張るなら見せてくれよ
それでもゾンビは実存する ゾンビは自我の無い者の意味があるな。
と言うことは普段俺も一時的にゾンビになってるのか。 いや一般人から見たおまえは
通勤電車で意味不明なうめき声をあげているアスペ 確かに。
お腹は減ってないがチンチンは固くなってるから食欲を性欲に、人間を雌に置き換えてみたら性欲に駆られ女を襲うゾンビだな。
この寒い中JKは生足。なんて格好してやがる。うまそうだ。
カユ…ウマ… かもしれないがそう思いたくはない
自分にだけ関することぐらい都合よく考えても良い 哲学的ゾンビだとも哲学的ゾンビじゃないとも言えない。 哲学的ではないけど、実質的にゾンビと同様なのが権威主義者。
自分が従い、他人に従うことを強制する規範や規則がなんの一貫性もなく
コロコロ変わっても一向に気にしないどころか、気づきもしない。
自分に暴力を振るうことができる権威の意向に沿うことしか
気にかけていないから、言動に人格的な一貫性がまったくなく、
一貫性がないことをまるで気にかけない。 人格を相手にしているかのようにゾンビを相手にしていると精神を破壊される 他人をアスペとレッテル張るアスペは自分がアスペかどうか解らないようだ。 現象意識5分前仮説、というはどうだろうか。
世界が「世界が数百億年前から存在したという証拠とともに、5分前に生まれた」としても我々には気づくことができないように、
(哲学的ゾンビが存在可能であるという前提であれば)現象意識が5分前に生まれたとしても我々はそれに気づくことができない。
なぜならば現象意識が無くても、哲学的ゾンビは「自分はずっと自身の判断によって行動してきた」という情報を脳内に記録し続けて
行動しているわけだし、その哲学的ゾンビに突然現象意識が宿ったとしたら、現象意識はその記録をもとに「この現象意識は過去からずっと存在していた」と判断するからだ。 >>36
2chで荒らしているのはほとんどが精神障害や発達障害ではなく
「人格障害」だ
コテハンを使うのが自己愛性人格障害
IDをころころ変えるのが演技性人格障害 今月末に脳のスキャン画像を撮りにいくことになった。
何が写ってるかな?中身スカスカだったら良いな。 人間も哲学ゾンビも変わらないと思うけどな
外界からの情報をインプットして
行動としてアウトプットするだけでしょ
人間とゾンビの違いは何かね? オカルトで思考する俺は哲学的ゾンビではないが、
論理をベースで思考するお前らは哲学的ゾンビである、
明白だろwwww
論理など生き物の本質から離れている、命あるものは
命という計れない働きから思考するのがベースとなっているわけだ。
哲学的ゾンビになると思考が合理化され非論理を完全否定してくる、
その自慢で変わらないはずの論理が間違いや矛盾があっても現実に
あっている非論理を否定してくる、それが哲学的ゾンビの執着だ 哲学的ゾンビはどこを見ても完全な人間なんだけど人間じゃない存在なんだよ。 どう見ても同じだから違いは見付からない。
だけど人間じゃない存在。
哲学的ゾンビの「ゾンビ」の部分が自我やイデアとかが欠けた存在というバイアスを強めてしまう。 人間にしか見えないけど人間じゃ無い
ってどんなところが人間じゃ無いわけ? 違いはない。って言ったよ。
どんなところも人間だよ。
人間なのか哲学的ゾンビなのか判断する部分はない。
だけど人間じゃない存在なんだよ。
考える必要がない問題なんだよ。 人間じゃない存在なんだから人間じゃないんだよ。
そもそも哲学的ゾンビはいないんだから「人間だよね」じゃない。 お前等自分が万年フリーター以下の
ホームレスじゃないと言い切れるの? >>57
それは水槽の中の脳問題なので哲学的ゾンビとは話が違う このスレVIPでやってた時のほうがはるかに盛り上がってるねwww まず、哲学的ゾンビとは次のような意味ではない。
罪悪感の希薄な人や、冷たい人、等の人間の性格を表す言葉ではない。
精神疾患を意味する精神医学関連の用語ではない。
行動的ゾンビ(Behavioral Zombie)
外面の行動だけ見ていては、普通の人間と区別できないゾンビ。
解剖すれば人間との違いが分かる可能性がある、という含みを持つ。
例として、SF映画に出てくる精巧なアンドロイドは、「機械は内面的な経験など持っていない」という前提で考えれば、行動的ゾンビに当たる。
哲学的ゾンビ(Neurological Zombie)
脳の神経細胞の状態まで含む、すべての観測可能な物理的状態に関して、普通の人間と区別する事が出来ないゾンビ。
哲学的ゾンビという言葉は、心の哲学の分野における純粋な理論的なアイデアであって、単なる議論の道具であり、
「外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うが、その際に内面的な経験(意識やクオリア)を持たない人間」という形で定義された仮想の存在である。
哲学的ゾンビが実際にいる、と信じている人は哲学者の中にもほとんどおらず「哲学的ゾンビは存在可能なのか」「なぜ我々は哲学的ゾンビではないのか」などが心の哲学の他の諸問題と絡めて議論される。
仮に“哲学的ゾンビが存在する”として、哲学的ゾンビとどれだけ長年付き添っても、普通の人間と区別することは誰にも出来ない。
それは、普通の人間と全く同じように、笑いもするし、怒りもするし、熱心に哲学の議論をしさえする。
物理的化学的電気的反応としては、普通の人間とまったく同じであり区別できない。
もし区別できたならば、それは哲学的ゾンビではなく行動的ゾンビである。
しかし普通の人間と哲学的ゾンビの唯一の違いは、哲学的ゾンビにはその際に「楽しさ」の意識も、「怒り」の意識も、議論の厄介さに対する「苛々する」という意識も持つことがなく、“意識(クオリア)”というものが全くない、という点である。
哲学的ゾンビにとっては、それらは物理的化学的電気的反応の集合体でしかない。 将来脳の機能が100パーセント解明されて、「こういう時に意識、クオリアが発生する」と分かった場合、哲学的ゾンビの議論って意味なくならないの?
「(脳科学的に見て)意識を持ってると言えるけど実は意識を持ってない人間」って観念できないよね >>62
無くならない
なぜなら、「解明されることが何であるのか、は意識次第である」という
事情が終わらないからだ
なおかつ、個別的な意識による解明が解明一般となる、その事情が分かりようがない
貴方のレスに即して言うならば
「こういうときに意識が発生する」、その“意識”については観測できないので
相変わらず個人の報告に頼るしかない
科学的手法と心理学的手法の混乱の中でしか話を進められない クオリアがないものが哲学的ゾンビということ?
クオリアって人が持っているものなの? 「意識の有る無しを外から定義することが原理的に無理」と断言まではできなくね?
と一瞬思ったが、被験者に哲学的ゾンビが混じってても騙されずに済む実験手法って意外と思いつかんな その前に人がクオリアを持ってるってのも
証明できないけどな >>66
その通りであるが、それだけではない
実際のところ「自分がクオリアを持っている」ことすら
自分で自分に証明することもできない
なぜなら、「ああ、これがクオリアなんだ」という「後付の印象」が
まさに、印象でしかないものとして、人間一般に普遍的な勘違いとして
これもまた「勘違いでしかないもの」として蔓延しているように見える、と
このような事態が何千年も前から延々と続いているだけだと言えるからだ 簡単に言うならば
「これって青だ。少なくとも俺にとっては」
という、“疑いようもない確信”というのは、実際のところ
それを認知科学的に分析してしまうと、言語や状況に振り回され
確定的な何ものかとしては、ただの一瞬も結実しているとは言えないからだ >>63
>>65だけど、哲学的ゾンビかどうかを見分ける方法思いついた
自分を被験体にして客観的な意識の定義を発見すればいいんじゃね
もちろん発見できたと言っても、他人から見たら自分は哲学的ゾンビかもしれないので、他人に対して証明は出来ない
そこで、他の人にも同じように自分自身を被験体として客観的な意識の定義を発見してもらう(これは自分の定義を相手に教えて確かめて貰えばOK)
そして、その人と自分で、相手に意識があるかどうかを互いに判定する
もしお互いが「相手には意識がある」と判定した場合、二人はお互いに哲学的ゾンビでないことを証明できる
後は世界中の人間に対して同じことを繰り返せば、哲学的ゾンビなんて居ないといつか証明できるはず >>1
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|┃ ガラッ / ∧ ヽ
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|┃ | 彡 イ >>69
それは難しいかもしれない
なぜなら、貴方にも意識があり、私にも意識がある
仮にそう仮定しよう
そこで、貴方によって内省的に報告される貴方の意識があり
私によって同様に報告される私の意識がある、としても
私によって報告される内容が、『貴方をして確かに私に意識がある』と
納得させられるかような内容であるとは言えないからだ
そこで「いや意識を持っているもの同士なのだから大丈夫なはずだよ」と考えるのは
楽観的すぎると思う
なぜなら、自分の考えている内容が言葉によって相手に伝わる、そのことの困難は
この板の住人なら痛いほど経験していることだから
「独りよがりの言葉」が、勝手に勘違いを蔓延させていく。。。
俺もまた、やってしまったわけだが >>71
ちょっと意味が分からないな
「私」と「貴方」とか書くと俺とお前のレスで逆になったりして混乱するから「A」と「B」とするけど、Aが「Bには意識がある」と信じるのは、Bが言う報告がAにとって納得できるものであるかは関係なく、A自身が発見した意識の判定基準をBが満たしてるからだよ?
つまりAにとっては、「Aには意識がある」、「Bには意識がある」というのは確信できる事実
同様にBにとって「Bには意識がある」、「Aには意識がある」というのも確信できる事実
この4点が揃えば、お互いに哲学的ゾンビじゃないと証明できるんじゃね? >>72
たとえば、貴方が発見した意識の判定基準があるなら
言ってみて欲しい いやそれは仮定の話だから
脳波なり脳内物質なり調べれば何か分かる可能性は有るんじゃないか? ランダムの単語の中から一つを選びオデコに貼る。貼られる人には何の単語かは知られないように。
他の皆が単語を言わせようと振る舞う。
貼られた人は不明な単語を意識していれば不明な単語を予測し言わないように気を付けて喋る。
注、ここで言う意識は「注目」 >>74
その可能性は、ない
なぜなら、脳波や脳内物質は『観測機器によって観測可能な対象』であり、
機械装置によって記録できるものだ
一方で、意識やクオリアは、「個人の主観に対してその瞬間に直接に与えられるもの」
と説明されることで人間一般に理解されると信じられている“ある事態”なのだが、
この事態を観測することはできないのだ 英語の意識と良心は語源が同じ。と言う点からヒントになるかも。
良心からの行動なのか悪心からの行動なのか心理を探るのはムズい。 >>76
ちょっと専門じゃなくてよく分からないんだが、、、
「意識が個人の主観に対して与えられるもの」ってのは何となく分かるし、だからこそ「他人に意識があるかを判定できない」ってのも分かるんだが、それが自分に対しても出来ないと言えるものなの?
例えば自分が赤色を見たというクオリアは自分で認識できるものだし、その時に何かの脳内物質が出てることを観測できたらそれで良いんじゃないの?それを他者に証明はできないけども >>78
うむ、それはね
「自覚的に赤く感じると思える」ときに赤のクオリアが成立している、と考えてしまうのだが
「赤いと感じている」とはどういうことなのか、自分では分からない、ということなのだよ
哲学を齧ると、さらに正確に表現しようとしてどつぼに嵌る
たとえば
「赤いと感じていると、少なくとも自分では信じている、ってことだよ」
などと言えば、少し慎重な印象を与えることができるかも、と思えたりするかもしないが
だがこれがちがう
なぜなら、自分がほんとうにそう信じているかどうか、これが分からないからだ
以上が、貴方の問いに対しての俺なりの哲学的な回答
認知科学的には、たとえば
http://blog-imgs-24-origin.fc2.com/g/i/f/gifjpg/ogiuo.jpg
AとBは科学的には同じ色、とされるが、クオリアとしてはどうなのか
クオリアとして「同じクオリア」なのか、それとも「違うクオリア」なのか
自分では判断できない、ということにならないだろうか
クオリアは同じだが、別の理由によって違う色であるように判断しているのかもしれない
そう考え出すと、クオリアなどというものは、信用に足るようなものではなくなってしまう 俺の尊敬する飲茶先生によると、「哲学には刃牙要素が足りていない」と言う。
ありとあらゆる格闘技(アーツ)を身に付けた範馬勇次郎の「地上最強」。対して良く比較にあがる
「地上最自由」ミスター・アンチェインことビスケット・オリバ。(負けっぱなしなのに全米最強w)
驚く事に、何かしらの格闘技(アーツ)を収めている様子はない。ただ力任せに殴るだけ。
「地上最強」の哲学者を極めるなら、その過程は哲学本を読み漁る哲学ゾンビの道を歩くことになる。
一方「地上最自由」は経験に学ぶ。
例えば龍書文のハンドポケットを一度は喰らい、自分もブリパンに手を突っ込んでそのマネをする。
つまり、君たちが絶対に信じて疑わない「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」
この真逆を行く「愚者は経験に学ぶ」を地で行く経験主義者だ。
ヘーゲルだかカントが「どこの地上から見ても空が青い事を全て調べる必要は無い」というが、
分らなければ、百聞は一見に如かず、一つ一つ調べて見てくればよろし。
哲学という(アーツ)を極め「地上最強」という確信に至るまではゾンビ感(呪縛)から抜け出せない。
自身が絶対の信頼を置く哲学と言う知恵(アーツ)に依存する限り呪縛のドツボ。
「クオリア」が何たるかを知らない。
…が、しかし、「自分が哲学的ゾンビじゃない」とうことを皆も良く知る共通の話題を使って
でも、哲学を使わずに説明をしてみるテスツ。 >>79
少し分かったような気はするが同時に5倍くらい分からなくなるなって行くなw
自分に意識がある事を確かめようと思っても、それは「意識があると信じている」に過ぎないから証明は出来ないということ?
「意識があると信じているだけで実は意識がない」なんで状況はあり得るのか?「信じている」時点で既に意識あると思うんだが
突き詰めて言えば、「信じている」という主観的な心の働きも一種のクオリアかと思うんだが、その「信じている」というクオリアだけは外部から観測できるんじゃないか? >>81
そうではない
「信じている」というのは、信じているという言葉を、相手あるいは自分に送っただけ、なのだ
「俺は信じている」と言った、その本人が自問している
『俺は本当に信じているのか?』
『信じているとはどういうことなのか、俺に分かっているのか?』
『俺は信じているのではなく、信じていると言いたいだけなんじゃないのか』
貴方も自問してみるといい
自分が述べようとする言葉、やろうとしている行為
それが「自覚する」という表現において、外部に報告される場合
報告される内容は、原理的にか後付けなのかも分からないが、
とにかく実際の言動や行動と辻褄を合わせることができる(たぶん後付けなんだろう)
ところがその奥で『自分が本当は何を欲し、どんな心の動きがなされているのか』について、
自分ではほとんど何も分からないのだ
そうすると、クオリアとか意識というのは、いったい何のことなのか
意識を直接に観測する装置はこの世界には無い
どれだけ装置の精度が向上しようとも、間接的な観測状況から類推することしかできない
いや、そもそも類推することが可能なのか
私が「ある」と信じている、その意識は、貴方の考えている“意識”とは
ぜんぜん違うものとして捉えていることを否定できない
蒟蒻問答のようにさ
とするならば、クオリアなどという幽霊は、ただの宙に浮いた言葉でしかないわけで
クオリアという言葉を巡る勘違いの輪が広がっているだけ、ということになってしまうのだ
そうなると類推を可能とする土台の構築がほとんど不可能であり、科学的な研究の対象とはなり得ないのだよ
まあこれも蒟蒻問答になるわけで
分かっちゃいるんだが。。俺も諦めが悪いというか >>82
自分に意識があることを確かめようと思っても、本当の自分の意識というのは奥底に埋まり過ぎてて、自分ではその存在を確かめられないと。
いやその「存在を確かめようとしてる主体」こそが意識じゃなくて何なんだという疑問は残るが、それを自我と呼ぶか自意識と呼ぶかはともかく、少なくとも哲学者たちが言う「意識(=奥底に埋まった本当の心の動き)」を自分で観測することはできないと。
こういうことかな >>83
自分で「その奥」とか言っておいて無責任な話だが
実際に、奥底という表現に相応しい何かがあるかどうかも分からない
近代の哲学者が言う「意識」は、「現象としての意識」に限られてきたように思う
それはつまり「自覚される意識」ということなのだが、デカルトのコギトもそのようなものだ
認知科学の知見によって、自覚される意識の確実性、信頼性は根底から崩れた >>84
何となく分かった
俺は元々は計算機科学の「どうすれば人工知能が心を持てるか、また持ったことを証明できるか」って問題に興味があってこのスレ見つけたんだが、中々勉強になったわ
哲学的に正しく言うと「人工知能は自覚される意識を獲得できるか、また獲得したことを証明できるか」となると思うんだが最後にお前の見解が何かあれば教えてくれるか? >>85
ジュリオトノーニ「意識はいつ生まれるのか」
おすすめ。
φの値により意識があることを判定できるとしている。 判定するためのφの測定対象が
哲学的ゾンビじゃないことは
どうやって検証するのかね 哲学的ゾンビの検証は個性の議論の下地に使うプラットホーム。 童貞じゃないと言い張る多くの男がいる。この中に童貞がいる。として童貞を見つけ出す検証はどうやるのか?
哲学的ゾンビの思考実験はそういう基礎に使える。
だが童貞はいない。俺が全員食っちゃうからだ。 >>86
遅まきながら読んでみたわ
ただ、Φの値が大きいだけの電子回路を作るのは頑張ればできると思うが、それだけで機械に意識が生まれるとは思えないから、万物に対する意識の定義としてはΦにはまだ何かが欠けてるんだろうね >>87
発狂じいさん、キモAA上げ荒らしを死ぬまで続ける気ですか。
15年間も毎日毎日糞スレ立てて、キモいAAで上げ荒らしして、なにがしたいんですか?
こんなことだから50歳職歴なしの社会不適合者なんじゃないんですか?
あなたの生活保護費はボクやみんなの貴重な税金から支払われているですよ。
みんなに迷惑かけて恥ずかしくないんですか?
あなたほんとにみんなと同じ日本人ですか?
そんなにやりたいならsageて誰にも知られない底で一人勝手にやってください。 学生運動時代のサヨクや今でいうネトウヨは哲学的ゾンビに「見える」。
こいつらはAIにフレームを与えれば、少なくとTwitter上なんかでは顕現すると思う。
「ネトウヨ」などとグルーピングし、それを「見る」ことができる点において、
俺は哲学的ゾンビではないと少しばかりの希望を『見る』ことができる >>1
自分が哲学的ゾンビだと言い切る人をお前は信じるの? >>95
信ずるに値する条件(または排他的に解を導ける)を発見するのが問いであって「信じるの?」という返答はなんの批判にもなっていない 金玉の有無で雌雄を決するなら神は金玉を目立つ場所に配置したはずだ
顔に金玉を配置したはずだ >>100
そう。
信じる信じないにしろ、
自分も(相手も)また哲学的ゾンビでない(である)証明にはならないから
自分がゾンビである(ない)と自動証言するゾンビである可能性もある。
または、自分がゾンビであるように(ないように)もっともらしく振る舞い、その振る舞いが人間的であると他者の錯覚を誘導するよう自動化されたゾンビかもしれない。
ゾンビがインプット=枠組みで規定された存在だと仮定するなら
おそらく、自己を規定する枠組みを、自己拡大できることを証明してみせないと、自分がゾンビでない証明にはならんと思う
言語か記号かの話なんだけど、
言語は身体に先行しするから、だから「全体としての人間」はゾンビではないといえるんだと思う。 お前がゾンビであることは確実だが、問題は、お前がそれを信じるかどうかだ。 自分が主体的な存在だと思えるなら極論的にはゾンビでもなんでも良いんだよ
心の働きなんてもんは客観視基準で論じても個々人の内面に於いては可も不可もなく
それが豚であっても哲学的ゾンビであっても本質的には何も変わらん
波 卑 土 此 不 酉 野 降 毎 哲 十 第 以 酉 女 御 波 学
平 猥 下 板 浄 投 尿 臨 日 板 年 三 来 度 之 杜 平 説
本 文 座 見 脳 稿 待 ,;f  ̄ ̄ ̄ ヽ 来 之 益 々 栗 玖 脳 巴
人 字 謝 張 不 後 伏 .i: i. 発 波 々 外 見 椀 内 栗
心 絵 罪 睡 浄 悔 前 | |. 狂 平 発 仕 迄 頂 得 常
経 大 一 眠 考 十 科 | |. 信 御 狂 忘 放 戴 呂 習
好 切 不 不 年 一 | ^ ^ ) 者 施 上 却 尿 角 是 波
物 皆 足 浄 間 飯 (. >ノ(、_, )ヽ、} 増 主 荒 是 草 辛 波 平
自 無 屁 行 ,,∧ヽ !-=ニ=- | 仕 決 叢 栗 平 本
演 茶 是 /\.. \`ニニ´ !,ヽ、,._ 是 定 潜 為 学 人
満 羅 輪 rー'""l, 'l,  ̄ ̄ .| ||/`> 学 的 伏 待 江 心
載 魔 廻 / | 'l, / .|./》/ ∧ 者 証 即 伏 江 経
迷 訶 / , | ヽ ヽ,、/.@ / 《l,l / ヽ 拠 阿 根 虚
惑 不 / 、,ヽ|/ ヾ。ツ`' 「ゞ / /《ヾ /゙ヽ 有 保 情 言
是 思 ./ ///l`゙'゙ー-'" / // ノ// //`l.、 老 爺 持 癖
究 議 ,|. /// | |___,,,ノ≡≡ツノ//_,,-‐'"".l., 害 変 主
極 老 | /// /| /二=‐'"´´ 波平大師.l.. 爺 態
哲学的ゾンビは存在しないと考えているが、
人間を含めた生物と言われている有機物(炭化水素)の振る舞いが
本質的に機械と変わらないのはまず疑いようがない
パソコンにも何らかのクオリアはあるし
たぶん反射を司っている脊髄にも脳とは別のクオリアがあるよ そもそも我々は、意識と言うものを甘美なものであるが故に、高等動物だけが
持ちうる偉大な知覚体験と確信し過ぎている
生態系全体として不要であるなら生物には意識体験は必要無かったのかもしれないし
人間はその偉大な意識の存在によって主体的な存在であると強く自覚し、他の生態系を
駆逐して自身のうちにもあらゆる矛盾や苦悩を背負い込むことにもなったのだから
機械運動だから残念という感覚自体をまず疑ってみるべきかもしれない そういうことではなくて
「」原因→結果の「→」の部分に、
必然でも偶然でもない
意識による主体的判断みたいなものを想定することができないことで
機械論が否定できなくなっている r、 三 η r、 三 η r、 三 η
〃ヽヽ //ヾヽ 〃ヽヽ //ヾヽ 〃ヽヽ //ヾヽ
⊂ニ()ニ⊃ ⊂ニ()ニ⊃ ⊂ニ()ニ⊃
ヾヽ// ヽヽ〃 ヾヽ// ヽヽ〃 ヾヽ// ヽヽ〃
ι' 三 ヽ) ι' 三 ヽ) ι' 三 ヽ)
{l〈 ヽ-=・=- i、-=・=_ 〉!}
ヾ|  ̄ノ  ̄ |シ
l (∴∴()∴∴)l 発狂さん、上げ
l\ ┏-=ニ=-┓/:l 荒らしやめましょう
ヽ ┃ `ニニ ┃ /
/ヽ ヽ\┗‐--‐┛/ /ヽ
/∴ (⌒、"⌒ソ⌒ヽノ∴(⌒、"⌒ソ⌒ヽ
i∵∴ ~''(_)(_)(_)(_)ソ∵∴~''(_)(_)(_)(_)ソ
!∴∵ ヽ/`、_, ィ/∴∵ ヽ/`、_, ィ/
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ヽ∵∴∵∴∵ / ∴∵∴∵∴∵ /
\ ∴∵∴ ノ .∴\∵∴∵ノ、_
ヽ ヽ / /ヽ
/\ \ / / ヽ ヘラヘラ
(( / . ░▓▓░▓░▓░ ヽ
. / ░▓▓░▓░ ヽ ))
/ /░▓▓░ ヽ
. / / ░▓░ \ 「ゾンビ・パラサイト――ホストを操る寄生生物たち 」なんて本があるけど、社会生物学のパラダイムって、
結局、生物の個体は、すべて自らが運んでいるDNAのゾンビだということでしょ。
だから、個体は、生殖して子孫を残すために、ホルモンとかに操られて自らの命を犠牲に
してでも、生殖活動をするって話でわ? だとすると、DNAが目指す増殖性とその持続可能性とはどのようなものかと
問われなければならなくなるはずですよ? 言い切れないけど何か問題ある?
意識下にブラックボックスがあって、実際には自我なんてないけど
あると錯覚するような出力があるだけかもしれない。
我思う、ゆえに我ありとは言えない、と思う俺。 日本語の場合には、「思ふ、ゆえに再帰性あり」とは言えるわけです。
なぜなら、この場合、「〜ふ」は再帰的に作用することを表しているの
ですから。そこで問題となるのが、どのように再帰しているのかを
記述することです。 あなたがもし、ウンコの中に生きてたらどうする?あなたが宇宙だと思ってるものは
巨大なウンコの中の空間だったら? 哲学的ゾンビは存在しないだろう
クオリアと呼ばれているものは自分の意識以外で観測することが今のところ不可能なだけで
単なる物理現象であるには違いない
クオリアは物質世界にはフィードバックしない随伴現象なんて言われ方もしていたが
実際には重力や電磁気力と同じように物質と相互作用していると思われる
ただ忘れてはいけないのは、それが機械的な作用であるのは間違いないということだ 物質とクオリアの関係は、
たぶん自由電子と原子核みたいな感じに一方は入れ替わるけど他方は固定されているもので
それで飯食ってウンコしてても自己は保存されるのだろう
で、記憶はほとんど物質側に依存していて、それで脳がダメになるとボケ老人になってしまう
原子核が核分裂や核融合するのと同じように、
ある程度条件がそろえばクオリアもくっつけたり分けたりが可能で
もしナノテクで1人の脳をキレイに二分割することができたら人格も2つになる
人間の脳を構成している物質にはその程度のキャパは十分にある
なんてふうに考えている >>1
自分が哲学ゾンビではないと言い切れるが証明する手立てはないな
元々哲学ゾンビって他者かがどう見えるかって意味だし
仮に今の自分を哲学ゾンビだというのならそれが自分にとっての常識でありだから何だとしか思わない
其処にネガティブなものは感じずむしろ自分と違うものを気持ち悪いと思うだろう 他者の内面が、人間のフリをしている中国語の部屋のようになってるのかって話だな
クオリアの一致を確認するのは不可能だと言われるが哲学的ゾンビを事実と仮定するなら
AIのように対象が非生物で機械であるか、或いは全てが自己観念の産物という結論が導かれる 中国語の部屋と言えば、
以前読んだ別冊日経サイエンスのAIのやつにサールの記事が載ってて、
中国語の部屋への反論、への反論が雑過ぎて呆れた
まぁもう相当な高齢みたいだから仕方ないとは思えるが
AIにもおそらくクオリアは生じるが、たぶん人間のものとはかなり種類が違うだろう
ただAIはそのこともたぶん理解するので、人間にとって理解しやすく説明してくれるかもしれない とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
HHUXZ 哲学的ゾンビなんてモデルはもうエーテルみたいな過去の遺物にするべきだな
物理主義的な雰囲気を匂わすやっかいなオカルトだ こころがあると云う事が何かを明かさずにゾンビというこころが無いものを想定したところでね
無意味な問いだ 反射だけで生きているとしても動き食べて繁殖する
脳や心もその程度のものでは わいたちは、頭の中で様々な思惟を巡らせ、その考えを元に行動を起こして
自己決定権を存分に行使している気になってるが、人の心に何かの思惑がでる以前に
生体としての脳が予め何を考えるかを選択し何を実行に移すのかを決断させているらしいからな
かくいうこんな書き込みをしているのもわいもまた、わい自身でなはなく
脳という名の生物機械がそうさせている訳や クオリアの随伴現象説(物理界からクオリア界へは一方通行でフィードバックはない)は
間違っていたとそのうち証明されるかもしれないけど
それでも因果関係は必然か偶然の二択で、
決定論自体が覆ることはない(意識による未来の物理状態の分岐可能性はない)だろうな 事実はどうであれ、人が自由意志を以て選択的に生存していると各々が実感しているなら
それで良いのかもしれないのかもしれないけどね
話は極端にスケールダウンするけど仮にそうなった場合、過失以外の刑法犯の定義を根本から
変更せざるを得ない状況に陥るんじゃなかろうか?
実行させてるのも全て生物機械で、主体的意志に基づく状況(故意)がまるで存在しないという訳だから
犯行事実はあったにせよ自身が何をしているのか分からない、自分で自分を制御できていない状態
=心神喪失に合致してしまい無実が確定してしまう
昨今では、個人の人権という観点ばかりに目が行って死刑制度の廃止など刑罰の妥当性を問う声が
やたらと高まっているが、こうなってくると刑事罰の社会的意義という観点から
それを一から洗い治す必要性がでてくる。 一つ言えるのはAIに人権を与えるならそれは決定論を法的に指示したのと同意義だ。 哲学的ゾンビとは擬似問題だから
クオリア論法とかクオリア自体が擬似問題だから
自分がクオリアを持っていると自分に証明できないから
一瞬前にクオリアを持っていたという錯覚をしている哲学的ゾンビが
自分なのかもしれない
そうじゃないとは証明できないから
私も内面もクオリアもその捏造、連続性の仮構の後に生ずるもので
存在しない
哲学的ゾンビはクオリアなるものが連続して私に帰属するという前提だが
そんな連続性も私もクオリアもどこにもないから
ある瞬間に内面に質を感覚をクオリアを感じた
それがこの私の体験だったとは言えない
私のクオリアを私を認めるなら他者も世界も認めないと意味をなさない 決定論も物理的現実しかないもクオリアや哲学的ゾンビ以上に狂った
意味をなさない仮説
世界は線形で次の値は一次的にリニアに決まっているとか
脳味噌が完全に腐った話
1、2、3の次は何か
4かもしれないし、マイナスπかもしれないし
Aかもしれない
どんなものだって成立する
どんな関数だって論理だって考えられるやってみないとわからない
なされてみないとわからない
なされた後だってわからない
次の次に何を持ってきても合う法則や論理はいくらでも作られる
今までだってそうだしこれからもそうだ
それを世界は決まっていたとか餓鬼のお遊び >>132
>自分がクオリアを持っていると自分に証明できないから
他人に対しては証明できないが、自分は常に認識していると思うが、、、
君はそうではないのか? >>133
人間己を騙すことはできない
君は分かっているはずだ
詭弁を垂れているのが誰なのかを >>134
哲学的ゾンビってのは、自分以外の他人にも同様の意識体験が存在するのか
或いは条件反射的な行動を反復しているだけの生物ロボットなのかという問題だからな
自分で自分の中に意識が存在するかを疑うという前提はないね エネルギーという科学的のお墨付きをもらってる考え方もクオリアと似たようなもんだんだよな
人間が理解する用に想定した概念に過ぎず実態を観測できている訳ではない
クオリアと違うのは計算上の収支が合うので実在しているに違いないと思えること
電磁波は原子を励起させ、基底状態に戻るときにまた電磁波を発する
物体が衝突すると接触面の原子同士の静電気的反発力で運動エネルギーが一方から他方に移る
とされている
クオリアも似たようなもんなんだろう スレタイからして>>1はちょっと間違った理解をしているんじゃないかな?
自分に対しては確実に言い切れることだろう >>1
それは、哲学的ゾンビの意味を誤解して
ませんか。自分の意識がどこから注入された
ものだって、「ある」んであれば、
哲学的ゾンビではないでしょう。
ただ、過去については、自分が哲学的ゾンビ
でなかったとは言い切れないと思いますが。 人間という物体を構成する物質の振る舞いを隅々まで観察できた場合、
量子論の世界でいう粒子と並の状態の重ね合わせ状態みたいな
直感的に理解できない世界に到達することになると思う
つまりクオリアを持ち出さなくてもその人間の動作は既知の物理法則で全て説明できてしまい
クオリアの存在意義(危険な状況に不快な感覚を結びつけているなど)が分からなくなってしまう
物理学と同じようにそこからの方が時間がかかるんだろう 哲学的ゾンビは一人称の誤謬
このクオリアは他人と同じなのか違うのか答えの出せない偽の問題を出すから
正しくは私は存在しない
一瞬前のこの感覚と今のこの感覚と一瞬後のこの感覚が同一の内面的連続を持つという保証はないから
この右の視野と左の視野が同一のクオリア体験だとする理由がない しかし、何でクオリアや哲学的ゾンビなんか偽の問題が出るかと言うと
三人称のもっとどうしようもない誤謬が出回ってて根絶出来ないから
それへの対抗上出た防衛策
この一瞬前の現実と今の一瞬、さらには一瞬後の現実が連続していて
同一の法則や規則で統御されなきゃいけない必然性などどこにもない
カントやヒュームの言うとおりそんなものは自然のどこにもなく
人間の都合で作るものだ
人間の側にあるもので自然にはない
一人称と三人称の狂った間違いを否定し根絶することにしか未来はない
自然主義、物理主義、哲学の自然化、意識の表象説、消去主義、
心の哲学、クオリア、マリーの部屋、哲学的ゾンビ、
こうもりであることはどのようなことか、あるいはマクタガードの時間は実在しない、独在論
これらはそういう共倒れになるための議論
三人称の確固とした客観も一人称の不確定な主観も間違いだから __
/:::::\ ペンてるお
/::🥚 🐽 🥚\ ペンペンてるお
/:: | ` `.🍅´' |:) ペンてるお
,.゙-‐- 、 `⌒ /
┌、. / ヽ ー‐ <.
ヽ.X、- 、 ,ノi ハ
⊂>'">┐ヽノ〃 / ヘ
入 ´// ノ } ,..,.._',.-ァ
/ `ー''"´ ,' c〈〈〈っ<
/ __,,..ノ ,ノヽー'"ノ
{ ´ / ``¨´
/´¨`'''‐、._ ,'\
∨´ `ヽ、 ノ ゙ヽ
∨ ヽ _,,..-'" `ヽ
∨ 〈-=、.__ } 他者が哲学的ゾンビではないかと言う懐疑は自己が哲学的ゾンビではないかと言う懐疑の派生版に過ぎないからな
自分が哲学的ゾンビじゃないことは自分では証明できない
このクオリアと感じているものは、ゾンビが自己には内面があると見せられているだけ、
自分で自分を騙しているだけじゃないか、この事は排除できない
他者がゾンビじゃないことは他者の定義上確実なんだが
ゾンビでないから他者なんだ
哲学的ゾンビに関する思考実験の100%はゴミ
唯一の例外は自己がゾンビであるかないかの問題 三人称の客観的現実があると考え、自己と他者が客観的に確定し物理的に分離していると考える限り、
クオリアは確かにあるのかないのか外界の現実とクオリアは同じか違うか私はゾンビなのかの
ゾンビ問題から逃げられない
三人称客観も一人称主観も捨てないといけない
それらは擬似問題 他人に対して証明できないだけで
自分がゾンビでないことは明確に言える
暇だからと言って無駄に難しくする必要はない 瞬間瞬間の条件反射だけの存在にはシミュレーションする必要ない
他者の心の理論も内面も意識も存在しない
他者にこんなことしたら怒られるからやめよう
心とは他者の心をおもんばかることと同義
そういうことができない人間は過去と未来の体験を結びつけ内面でシミュレーションする必要はないから意識がない
意識、クオリアは他者、思い通りにならない現実へのシミュレーションとして発生する
クオリアに関する誤解で同じ世界を見ていても、全くクオリアは違うのではないか、
クオリアのないゾンビがいるのではないかという議論があるがそれは妄想の誤った議論だとわかる
世界は物理的に同じでもこの瞬間この視点から見ているその人間だけの視点は同じじゃない
違うんじゃないかという話だが
世界は繋がって同じ世界に同じような身体で見ているのだからほとんど同じように世界を見ている
ただ視点も身体も感覚も違うから多少は違う
当たり前の下らない見方しかないし、それが真実
孤立したクオリアは原理的にない、同じ世界に共同で働きかける当たり前の現実があるだけ
同じようなクオリアがあるだけ
AIがクオリアを意識を持つか、どういう状態の時にそれらを持ったと言えるのか
これも簡単な話でコンピュータが他人の心の理論を作って間違う可能性を持ち
それでもそれに賭けることができるようになった時
ただただ今ここの現実に反応して時間も抑圧も悔恨も過ちもない存在、他者のいない存在にクオリアも内面もない 乱暴だなぁ
大事なのは感情に負けてしまわないことだ
死ぬまでに答えに辿り着けないであろう事実を受け入れ、ただただ近づくための努力を続ける覚悟を持つこと 瞬間しかない存在は私を私と認識する必要ない
石ころと変わらない
条件反射しかない種類の動物には私と意識はない
私は他者を意識して、それと違うものという認識としてしか存在しない
他者の意識と私の意識は同時に発生する
時間の意識も同時
こっちを選ぶかあっちを選ぶかシミュレーションし悩まない存在には私も他者も時間も存在しない 自分が哲学的ゾンビでないことは明確に言えるが
物理的に自分とほぼ同質と言える他人についても、ゾンビでない可能性はまぁほぼ100%だろう
ハードプロブレムや決定論に比べると面白いテーマではないね 世界に繋がって認識する、どの存在も
、その青という感覚も、いろいろな物理的生起として同じような物質、同じような法則から生ずる
世界にそのまま戻っていく
なのに、ゾンビとか逆転クオリアとか阿呆みたいなあり得ない話だ
全く同じ観点からの同じ物理的成果、おなじクオリア感覚は得られないにしてもほとんど同じか物に漸近するはずだ
同じ条件揃えれば 他者を推測する、心を考える
ある瞬間と次の瞬間をつなげる
それがなければ私が私と連続しているなんて夢にも思わない
私なんか生じようがない
私が私であるとは世界のシミュレーションから生ずる
私がもしかしたら別であったらと考えてなければ私はない 他者も外界もシミュレーションしてあれこれ悩まない存在
それは過去の自分と未来の自分を結びつける必要もないから私はいない
必要ないから存在しない
他者の心を考えることと私の誕生、時間と意識の誕生は同じこと
意識がなく内面がなく私の人格的統一がなく「私」のクオリアが存在しない
AIに意識が内面が人格がクオリアが発生するか否か
それはどのような条件かも他人の心をシミュレーションしながら全ては計算できないことを認めるAIが誕生する瞬間の問題
心の理論を持つまでAIには内面がない
同じように心の理論ができない間の幼児は自分がない
外界と自分が分離していない
今のAIと変わらない
機械仕掛けの存在 人間が今のところ発見・使用している物理の数式にはクオリア項はなく
つまり「痛い」とか「苦しい」が物質の挙動、つまり位置や速度に影響しないものとしていて
実際それで機会やコンピュータは寸分の狂いもなく想定通りに動作している
そんなのもあってクオリアは因果の「因」にはなり得ないだろうという一般的な理解がある
因にならないのであれば、そもそもクオリア自体がなくても動物の身体を構成する物質は
クオリアがある場合と同じ挙動をするばずだ、という当然の推論から哲学的ゾンビというモデルが生まれた 哲学的ゾンビも自由意志も決定論も、心の哲学に足を踏み入れた人ならみんなよく知っているワードであるが
別に既存の概念に乗っからず、新しい考え方のスタンダードを作ったていいのである
というかむしろ既存概念の定義を正確に受け入れない立場なのであったら、新しいモノを作らなければならない
でないと定義通りに考えている人とのコミュニケーションに混乱を生じることになる 定義上、他者は哲学的ゾンビや機械仕掛けでない存在で心がある存在だ
他者はこのことからも、哲学的ゾンビではあり得ない
一方、私は私がゾンビでないことを他者にも自分にも原理的には証明できない
哲学的ゾンビじゃないと夢を見ているだけの哲学的ゾンビの可能性は排除できない 他人を哲学的ゾンビと考えている場合
その人が性欲にまかせてレイプし放題に走らないとしたら
その後に課される社会的制裁を恐れているからであって
倫理的な理由ではないということになる みんな知っているはずだけど
ゾンビは存在しない
あまりにも身も蓋もない結論だ 哲学的ゾンビは唯物論だと解けない謎になる
全てが決定され、私たちの心は無駄
ゾンビじゃないか、内面はない、あるいは全く違うように世界を見ているのではという不安
唯物論では解消できない
他者を思い図りいろいろ悩みそのことに意味がある
当たり前が物理主義者にはできない
しようもない病気 物理主義、決定論
そういう論理的誤謬犯している限り、ゾンビ問題は解決しない
間違った理論に基づく限り結論は間違うか出ない クオリアの発生は物理状態から0.5秒くらい遅れているそうだけど
そう考えるとクオリア→物質の因果関係は存在しないように思われる
しかしミクロの世界では時間を逆流するような物理現象は観察されていて、
クオリアの場合にはそれがもっと大きな単位で起こっているのかもしれない 飼い主の顔色伺う犬猫、高度な社会生活している象とか、彼らに仲間と自分がいて、意識を持って「私」がいることは疑いえない
心の理論が発達する前の幼児に意識が、「私」がないのも確実で、そりゃ普通の大人も寝ている間や呼吸や脈拍やまばたきを意識していないのだから当たり前だ
他者のいない幼児は呼吸やまばたきしている無意識だけの存在 たしかにニホンオオカミ最後の一匹みたいに
人類最後の一人になってしまったら
他者が哲学的ゾンビかどうかなんて考えなくてよくなるね 哲学的ゾンビとは逆に他人が全て自分よりか複雑な感性の持ち主であることも考えうる クオリアの話も、数学と同じで若い奴のが考えるの得意なんだろうな
俺なんかもう興味より疲れが勝つようになってきている
昔は若いうちはなかなか情報が入ってこなかったけど
今は基本的なことは何でも知ってる中学生がいくらでもいるだろう 俺自身は哲学的ゾンビの一歩手前だと自覚してるよ
自分の思考も言葉も行動もコントロール出来ていない、
勝手に時間が流れて半分無意識に動いてる
自分自身もコントロール出来ていなくて世界に関しても離人症的 たしかに、人生のすべては演出されたものにすぎず、自分は追体験しているだけという可能性も否定できないが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています