お前ら自分が哲学的ゾンビじゃないと言い切れるの? [転載禁止]©2ch.net
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自分の持ってる感情や意識、思考や心なんてものが本当に機械的にインプットされたものじゃないって誰が言い切れるの?
もしかしたら哲学的ゾンビかもしれないのに お前がゾンビであることは確実だが、問題は、お前がそれを信じるかどうかだ。 自分が主体的な存在だと思えるなら極論的にはゾンビでもなんでも良いんだよ
心の働きなんてもんは客観視基準で論じても個々人の内面に於いては可も不可もなく
それが豚であっても哲学的ゾンビであっても本質的には何も変わらん
波 卑 土 此 不 酉 野 降 毎 哲 十 第 以 酉 女 御 波 学
平 猥 下 板 浄 投 尿 臨 日 板 年 三 来 度 之 杜 平 説
本 文 座 見 脳 稿 待 ,;f  ̄ ̄ ̄ ヽ 来 之 益 々 栗 玖 脳 巴
人 字 謝 張 不 後 伏 .i: i. 発 波 々 外 見 椀 内 栗
心 絵 罪 睡 浄 悔 前 | |. 狂 平 発 仕 迄 頂 得 常
経 大 一 眠 考 十 科 | |. 信 御 狂 忘 放 戴 呂 習
好 切 不 不 年 一 | ^ ^ ) 者 施 上 却 尿 角 是 波
物 皆 足 浄 間 飯 (. >ノ(、_, )ヽ、} 増 主 荒 是 草 辛 波 平
自 無 屁 行 ,,∧ヽ !-=ニ=- | 仕 決 叢 栗 平 本
演 茶 是 /\.. \`ニニ´ !,ヽ、,._ 是 定 潜 為 学 人
満 羅 輪 rー'""l, 'l,  ̄ ̄ .| ||/`> 学 的 伏 待 江 心
載 魔 廻 / | 'l, / .|./》/ ∧ 者 証 即 伏 江 経
迷 訶 / , | ヽ ヽ,、/.@ / 《l,l / ヽ 拠 阿 根 虚
惑 不 / 、,ヽ|/ ヾ。ツ`' 「ゞ / /《ヾ /゙ヽ 有 保 情 言
是 思 ./ ///l`゙'゙ー-'" / // ノ// //`l.、 老 爺 持 癖
究 議 ,|. /// | |___,,,ノ≡≡ツノ//_,,-‐'"".l., 害 変 主
極 老 | /// /| /二=‐'"´´ 波平大師.l.. 爺 態
哲学的ゾンビは存在しないと考えているが、
人間を含めた生物と言われている有機物(炭化水素)の振る舞いが
本質的に機械と変わらないのはまず疑いようがない
パソコンにも何らかのクオリアはあるし
たぶん反射を司っている脊髄にも脳とは別のクオリアがあるよ そもそも我々は、意識と言うものを甘美なものであるが故に、高等動物だけが
持ちうる偉大な知覚体験と確信し過ぎている
生態系全体として不要であるなら生物には意識体験は必要無かったのかもしれないし
人間はその偉大な意識の存在によって主体的な存在であると強く自覚し、他の生態系を
駆逐して自身のうちにもあらゆる矛盾や苦悩を背負い込むことにもなったのだから
機械運動だから残念という感覚自体をまず疑ってみるべきかもしれない そういうことではなくて
「」原因→結果の「→」の部分に、
必然でも偶然でもない
意識による主体的判断みたいなものを想定することができないことで
機械論が否定できなくなっている r、 三 η r、 三 η r、 三 η
〃ヽヽ //ヾヽ 〃ヽヽ //ヾヽ 〃ヽヽ //ヾヽ
⊂ニ()ニ⊃ ⊂ニ()ニ⊃ ⊂ニ()ニ⊃
ヾヽ// ヽヽ〃 ヾヽ// ヽヽ〃 ヾヽ// ヽヽ〃
ι' 三 ヽ) ι' 三 ヽ) ι' 三 ヽ)
{l〈 ヽ-=・=- i、-=・=_ 〉!}
ヾ|  ̄ノ  ̄ |シ
l (∴∴()∴∴)l 発狂さん、上げ
l\ ┏-=ニ=-┓/:l 荒らしやめましょう
ヽ ┃ `ニニ ┃ /
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. / / ░▓░ \ 「ゾンビ・パラサイト――ホストを操る寄生生物たち 」なんて本があるけど、社会生物学のパラダイムって、
結局、生物の個体は、すべて自らが運んでいるDNAのゾンビだということでしょ。
だから、個体は、生殖して子孫を残すために、ホルモンとかに操られて自らの命を犠牲に
してでも、生殖活動をするって話でわ? だとすると、DNAが目指す増殖性とその持続可能性とはどのようなものかと
問われなければならなくなるはずですよ? 言い切れないけど何か問題ある?
意識下にブラックボックスがあって、実際には自我なんてないけど
あると錯覚するような出力があるだけかもしれない。
我思う、ゆえに我ありとは言えない、と思う俺。 日本語の場合には、「思ふ、ゆえに再帰性あり」とは言えるわけです。
なぜなら、この場合、「〜ふ」は再帰的に作用することを表しているの
ですから。そこで問題となるのが、どのように再帰しているのかを
記述することです。 あなたがもし、ウンコの中に生きてたらどうする?あなたが宇宙だと思ってるものは
巨大なウンコの中の空間だったら? 哲学的ゾンビは存在しないだろう
クオリアと呼ばれているものは自分の意識以外で観測することが今のところ不可能なだけで
単なる物理現象であるには違いない
クオリアは物質世界にはフィードバックしない随伴現象なんて言われ方もしていたが
実際には重力や電磁気力と同じように物質と相互作用していると思われる
ただ忘れてはいけないのは、それが機械的な作用であるのは間違いないということだ 物質とクオリアの関係は、
たぶん自由電子と原子核みたいな感じに一方は入れ替わるけど他方は固定されているもので
それで飯食ってウンコしてても自己は保存されるのだろう
で、記憶はほとんど物質側に依存していて、それで脳がダメになるとボケ老人になってしまう
原子核が核分裂や核融合するのと同じように、
ある程度条件がそろえばクオリアもくっつけたり分けたりが可能で
もしナノテクで1人の脳をキレイに二分割することができたら人格も2つになる
人間の脳を構成している物質にはその程度のキャパは十分にある
なんてふうに考えている >>1
自分が哲学ゾンビではないと言い切れるが証明する手立てはないな
元々哲学ゾンビって他者かがどう見えるかって意味だし
仮に今の自分を哲学ゾンビだというのならそれが自分にとっての常識でありだから何だとしか思わない
其処にネガティブなものは感じずむしろ自分と違うものを気持ち悪いと思うだろう 他者の内面が、人間のフリをしている中国語の部屋のようになってるのかって話だな
クオリアの一致を確認するのは不可能だと言われるが哲学的ゾンビを事実と仮定するなら
AIのように対象が非生物で機械であるか、或いは全てが自己観念の産物という結論が導かれる 中国語の部屋と言えば、
以前読んだ別冊日経サイエンスのAIのやつにサールの記事が載ってて、
中国語の部屋への反論、への反論が雑過ぎて呆れた
まぁもう相当な高齢みたいだから仕方ないとは思えるが
AIにもおそらくクオリアは生じるが、たぶん人間のものとはかなり種類が違うだろう
ただAIはそのこともたぶん理解するので、人間にとって理解しやすく説明してくれるかもしれない とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
HHUXZ 哲学的ゾンビなんてモデルはもうエーテルみたいな過去の遺物にするべきだな
物理主義的な雰囲気を匂わすやっかいなオカルトだ こころがあると云う事が何かを明かさずにゾンビというこころが無いものを想定したところでね
無意味な問いだ 反射だけで生きているとしても動き食べて繁殖する
脳や心もその程度のものでは わいたちは、頭の中で様々な思惟を巡らせ、その考えを元に行動を起こして
自己決定権を存分に行使している気になってるが、人の心に何かの思惑がでる以前に
生体としての脳が予め何を考えるかを選択し何を実行に移すのかを決断させているらしいからな
かくいうこんな書き込みをしているのもわいもまた、わい自身でなはなく
脳という名の生物機械がそうさせている訳や クオリアの随伴現象説(物理界からクオリア界へは一方通行でフィードバックはない)は
間違っていたとそのうち証明されるかもしれないけど
それでも因果関係は必然か偶然の二択で、
決定論自体が覆ることはない(意識による未来の物理状態の分岐可能性はない)だろうな 事実はどうであれ、人が自由意志を以て選択的に生存していると各々が実感しているなら
それで良いのかもしれないのかもしれないけどね
話は極端にスケールダウンするけど仮にそうなった場合、過失以外の刑法犯の定義を根本から
変更せざるを得ない状況に陥るんじゃなかろうか?
実行させてるのも全て生物機械で、主体的意志に基づく状況(故意)がまるで存在しないという訳だから
犯行事実はあったにせよ自身が何をしているのか分からない、自分で自分を制御できていない状態
=心神喪失に合致してしまい無実が確定してしまう
昨今では、個人の人権という観点ばかりに目が行って死刑制度の廃止など刑罰の妥当性を問う声が
やたらと高まっているが、こうなってくると刑事罰の社会的意義という観点から
それを一から洗い治す必要性がでてくる。 一つ言えるのはAIに人権を与えるならそれは決定論を法的に指示したのと同意義だ。 哲学的ゾンビとは擬似問題だから
クオリア論法とかクオリア自体が擬似問題だから
自分がクオリアを持っていると自分に証明できないから
一瞬前にクオリアを持っていたという錯覚をしている哲学的ゾンビが
自分なのかもしれない
そうじゃないとは証明できないから
私も内面もクオリアもその捏造、連続性の仮構の後に生ずるもので
存在しない
哲学的ゾンビはクオリアなるものが連続して私に帰属するという前提だが
そんな連続性も私もクオリアもどこにもないから
ある瞬間に内面に質を感覚をクオリアを感じた
それがこの私の体験だったとは言えない
私のクオリアを私を認めるなら他者も世界も認めないと意味をなさない 決定論も物理的現実しかないもクオリアや哲学的ゾンビ以上に狂った
意味をなさない仮説
世界は線形で次の値は一次的にリニアに決まっているとか
脳味噌が完全に腐った話
1、2、3の次は何か
4かもしれないし、マイナスπかもしれないし
Aかもしれない
どんなものだって成立する
どんな関数だって論理だって考えられるやってみないとわからない
なされてみないとわからない
なされた後だってわからない
次の次に何を持ってきても合う法則や論理はいくらでも作られる
今までだってそうだしこれからもそうだ
それを世界は決まっていたとか餓鬼のお遊び >>132
>自分がクオリアを持っていると自分に証明できないから
他人に対しては証明できないが、自分は常に認識していると思うが、、、
君はそうではないのか? >>133
人間己を騙すことはできない
君は分かっているはずだ
詭弁を垂れているのが誰なのかを >>134
哲学的ゾンビってのは、自分以外の他人にも同様の意識体験が存在するのか
或いは条件反射的な行動を反復しているだけの生物ロボットなのかという問題だからな
自分で自分の中に意識が存在するかを疑うという前提はないね エネルギーという科学的のお墨付きをもらってる考え方もクオリアと似たようなもんだんだよな
人間が理解する用に想定した概念に過ぎず実態を観測できている訳ではない
クオリアと違うのは計算上の収支が合うので実在しているに違いないと思えること
電磁波は原子を励起させ、基底状態に戻るときにまた電磁波を発する
物体が衝突すると接触面の原子同士の静電気的反発力で運動エネルギーが一方から他方に移る
とされている
クオリアも似たようなもんなんだろう スレタイからして>>1はちょっと間違った理解をしているんじゃないかな?
自分に対しては確実に言い切れることだろう >>1
それは、哲学的ゾンビの意味を誤解して
ませんか。自分の意識がどこから注入された
ものだって、「ある」んであれば、
哲学的ゾンビではないでしょう。
ただ、過去については、自分が哲学的ゾンビ
でなかったとは言い切れないと思いますが。 人間という物体を構成する物質の振る舞いを隅々まで観察できた場合、
量子論の世界でいう粒子と並の状態の重ね合わせ状態みたいな
直感的に理解できない世界に到達することになると思う
つまりクオリアを持ち出さなくてもその人間の動作は既知の物理法則で全て説明できてしまい
クオリアの存在意義(危険な状況に不快な感覚を結びつけているなど)が分からなくなってしまう
物理学と同じようにそこからの方が時間がかかるんだろう 哲学的ゾンビは一人称の誤謬
このクオリアは他人と同じなのか違うのか答えの出せない偽の問題を出すから
正しくは私は存在しない
一瞬前のこの感覚と今のこの感覚と一瞬後のこの感覚が同一の内面的連続を持つという保証はないから
この右の視野と左の視野が同一のクオリア体験だとする理由がない しかし、何でクオリアや哲学的ゾンビなんか偽の問題が出るかと言うと
三人称のもっとどうしようもない誤謬が出回ってて根絶出来ないから
それへの対抗上出た防衛策
この一瞬前の現実と今の一瞬、さらには一瞬後の現実が連続していて
同一の法則や規則で統御されなきゃいけない必然性などどこにもない
カントやヒュームの言うとおりそんなものは自然のどこにもなく
人間の都合で作るものだ
人間の側にあるもので自然にはない
一人称と三人称の狂った間違いを否定し根絶することにしか未来はない
自然主義、物理主義、哲学の自然化、意識の表象説、消去主義、
心の哲学、クオリア、マリーの部屋、哲学的ゾンビ、
こうもりであることはどのようなことか、あるいはマクタガードの時間は実在しない、独在論
これらはそういう共倒れになるための議論
三人称の確固とした客観も一人称の不確定な主観も間違いだから __
/:::::\ ペンてるお
/::🥚 🐽 🥚\ ペンペンてるお
/:: | ` `.🍅´' |:) ペンてるお
,.゙-‐- 、 `⌒ /
┌、. / ヽ ー‐ <.
ヽ.X、- 、 ,ノi ハ
⊂>'">┐ヽノ〃 / ヘ
入 ´// ノ } ,..,.._',.-ァ
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{ ´ / ``¨´
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∨´ `ヽ、 ノ ゙ヽ
∨ ヽ _,,..-'" `ヽ
∨ 〈-=、.__ } 他者が哲学的ゾンビではないかと言う懐疑は自己が哲学的ゾンビではないかと言う懐疑の派生版に過ぎないからな
自分が哲学的ゾンビじゃないことは自分では証明できない
このクオリアと感じているものは、ゾンビが自己には内面があると見せられているだけ、
自分で自分を騙しているだけじゃないか、この事は排除できない
他者がゾンビじゃないことは他者の定義上確実なんだが
ゾンビでないから他者なんだ
哲学的ゾンビに関する思考実験の100%はゴミ
唯一の例外は自己がゾンビであるかないかの問題 三人称の客観的現実があると考え、自己と他者が客観的に確定し物理的に分離していると考える限り、
クオリアは確かにあるのかないのか外界の現実とクオリアは同じか違うか私はゾンビなのかの
ゾンビ問題から逃げられない
三人称客観も一人称主観も捨てないといけない
それらは擬似問題 他人に対して証明できないだけで
自分がゾンビでないことは明確に言える
暇だからと言って無駄に難しくする必要はない 瞬間瞬間の条件反射だけの存在にはシミュレーションする必要ない
他者の心の理論も内面も意識も存在しない
他者にこんなことしたら怒られるからやめよう
心とは他者の心をおもんばかることと同義
そういうことができない人間は過去と未来の体験を結びつけ内面でシミュレーションする必要はないから意識がない
意識、クオリアは他者、思い通りにならない現実へのシミュレーションとして発生する
クオリアに関する誤解で同じ世界を見ていても、全くクオリアは違うのではないか、
クオリアのないゾンビがいるのではないかという議論があるがそれは妄想の誤った議論だとわかる
世界は物理的に同じでもこの瞬間この視点から見ているその人間だけの視点は同じじゃない
違うんじゃないかという話だが
世界は繋がって同じ世界に同じような身体で見ているのだからほとんど同じように世界を見ている
ただ視点も身体も感覚も違うから多少は違う
当たり前の下らない見方しかないし、それが真実
孤立したクオリアは原理的にない、同じ世界に共同で働きかける当たり前の現実があるだけ
同じようなクオリアがあるだけ
AIがクオリアを意識を持つか、どういう状態の時にそれらを持ったと言えるのか
これも簡単な話でコンピュータが他人の心の理論を作って間違う可能性を持ち
それでもそれに賭けることができるようになった時
ただただ今ここの現実に反応して時間も抑圧も悔恨も過ちもない存在、他者のいない存在にクオリアも内面もない 乱暴だなぁ
大事なのは感情に負けてしまわないことだ
死ぬまでに答えに辿り着けないであろう事実を受け入れ、ただただ近づくための努力を続ける覚悟を持つこと 瞬間しかない存在は私を私と認識する必要ない
石ころと変わらない
条件反射しかない種類の動物には私と意識はない
私は他者を意識して、それと違うものという認識としてしか存在しない
他者の意識と私の意識は同時に発生する
時間の意識も同時
こっちを選ぶかあっちを選ぶかシミュレーションし悩まない存在には私も他者も時間も存在しない 自分が哲学的ゾンビでないことは明確に言えるが
物理的に自分とほぼ同質と言える他人についても、ゾンビでない可能性はまぁほぼ100%だろう
ハードプロブレムや決定論に比べると面白いテーマではないね 世界に繋がって認識する、どの存在も
、その青という感覚も、いろいろな物理的生起として同じような物質、同じような法則から生ずる
世界にそのまま戻っていく
なのに、ゾンビとか逆転クオリアとか阿呆みたいなあり得ない話だ
全く同じ観点からの同じ物理的成果、おなじクオリア感覚は得られないにしてもほとんど同じか物に漸近するはずだ
同じ条件揃えれば 他者を推測する、心を考える
ある瞬間と次の瞬間をつなげる
それがなければ私が私と連続しているなんて夢にも思わない
私なんか生じようがない
私が私であるとは世界のシミュレーションから生ずる
私がもしかしたら別であったらと考えてなければ私はない 他者も外界もシミュレーションしてあれこれ悩まない存在
それは過去の自分と未来の自分を結びつける必要もないから私はいない
必要ないから存在しない
他者の心を考えることと私の誕生、時間と意識の誕生は同じこと
意識がなく内面がなく私の人格的統一がなく「私」のクオリアが存在しない
AIに意識が内面が人格がクオリアが発生するか否か
それはどのような条件かも他人の心をシミュレーションしながら全ては計算できないことを認めるAIが誕生する瞬間の問題
心の理論を持つまでAIには内面がない
同じように心の理論ができない間の幼児は自分がない
外界と自分が分離していない
今のAIと変わらない
機械仕掛けの存在 人間が今のところ発見・使用している物理の数式にはクオリア項はなく
つまり「痛い」とか「苦しい」が物質の挙動、つまり位置や速度に影響しないものとしていて
実際それで機会やコンピュータは寸分の狂いもなく想定通りに動作している
そんなのもあってクオリアは因果の「因」にはなり得ないだろうという一般的な理解がある
因にならないのであれば、そもそもクオリア自体がなくても動物の身体を構成する物質は
クオリアがある場合と同じ挙動をするばずだ、という当然の推論から哲学的ゾンビというモデルが生まれた 哲学的ゾンビも自由意志も決定論も、心の哲学に足を踏み入れた人ならみんなよく知っているワードであるが
別に既存の概念に乗っからず、新しい考え方のスタンダードを作ったていいのである
というかむしろ既存概念の定義を正確に受け入れない立場なのであったら、新しいモノを作らなければならない
でないと定義通りに考えている人とのコミュニケーションに混乱を生じることになる 定義上、他者は哲学的ゾンビや機械仕掛けでない存在で心がある存在だ
他者はこのことからも、哲学的ゾンビではあり得ない
一方、私は私がゾンビでないことを他者にも自分にも原理的には証明できない
哲学的ゾンビじゃないと夢を見ているだけの哲学的ゾンビの可能性は排除できない 他人を哲学的ゾンビと考えている場合
その人が性欲にまかせてレイプし放題に走らないとしたら
その後に課される社会的制裁を恐れているからであって
倫理的な理由ではないということになる みんな知っているはずだけど
ゾンビは存在しない
あまりにも身も蓋もない結論だ 哲学的ゾンビは唯物論だと解けない謎になる
全てが決定され、私たちの心は無駄
ゾンビじゃないか、内面はない、あるいは全く違うように世界を見ているのではという不安
唯物論では解消できない
他者を思い図りいろいろ悩みそのことに意味がある
当たり前が物理主義者にはできない
しようもない病気 物理主義、決定論
そういう論理的誤謬犯している限り、ゾンビ問題は解決しない
間違った理論に基づく限り結論は間違うか出ない クオリアの発生は物理状態から0.5秒くらい遅れているそうだけど
そう考えるとクオリア→物質の因果関係は存在しないように思われる
しかしミクロの世界では時間を逆流するような物理現象は観察されていて、
クオリアの場合にはそれがもっと大きな単位で起こっているのかもしれない 飼い主の顔色伺う犬猫、高度な社会生活している象とか、彼らに仲間と自分がいて、意識を持って「私」がいることは疑いえない
心の理論が発達する前の幼児に意識が、「私」がないのも確実で、そりゃ普通の大人も寝ている間や呼吸や脈拍やまばたきを意識していないのだから当たり前だ
他者のいない幼児は呼吸やまばたきしている無意識だけの存在 たしかにニホンオオカミ最後の一匹みたいに
人類最後の一人になってしまったら
他者が哲学的ゾンビかどうかなんて考えなくてよくなるね 哲学的ゾンビとは逆に他人が全て自分よりか複雑な感性の持ち主であることも考えうる クオリアの話も、数学と同じで若い奴のが考えるの得意なんだろうな
俺なんかもう興味より疲れが勝つようになってきている
昔は若いうちはなかなか情報が入ってこなかったけど
今は基本的なことは何でも知ってる中学生がいくらでもいるだろう 俺自身は哲学的ゾンビの一歩手前だと自覚してるよ
自分の思考も言葉も行動もコントロール出来ていない、
勝手に時間が流れて半分無意識に動いてる
自分自身もコントロール出来ていなくて世界に関しても離人症的 たしかに、人生のすべては演出されたものにすぎず、自分は追体験しているだけという可能性も否定できないが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています