お前ら自分が哲学的ゾンビじゃないと言い切れるの? [転載禁止]©2ch.net
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エネルギーという科学的のお墨付きをもらってる考え方もクオリアと似たようなもんだんだよな
人間が理解する用に想定した概念に過ぎず実態を観測できている訳ではない
クオリアと違うのは計算上の収支が合うので実在しているに違いないと思えること
電磁波は原子を励起させ、基底状態に戻るときにまた電磁波を発する
物体が衝突すると接触面の原子同士の静電気的反発力で運動エネルギーが一方から他方に移る
とされている
クオリアも似たようなもんなんだろう スレタイからして>>1はちょっと間違った理解をしているんじゃないかな?
自分に対しては確実に言い切れることだろう >>1
それは、哲学的ゾンビの意味を誤解して
ませんか。自分の意識がどこから注入された
ものだって、「ある」んであれば、
哲学的ゾンビではないでしょう。
ただ、過去については、自分が哲学的ゾンビ
でなかったとは言い切れないと思いますが。 人間という物体を構成する物質の振る舞いを隅々まで観察できた場合、
量子論の世界でいう粒子と並の状態の重ね合わせ状態みたいな
直感的に理解できない世界に到達することになると思う
つまりクオリアを持ち出さなくてもその人間の動作は既知の物理法則で全て説明できてしまい
クオリアの存在意義(危険な状況に不快な感覚を結びつけているなど)が分からなくなってしまう
物理学と同じようにそこからの方が時間がかかるんだろう 哲学的ゾンビは一人称の誤謬
このクオリアは他人と同じなのか違うのか答えの出せない偽の問題を出すから
正しくは私は存在しない
一瞬前のこの感覚と今のこの感覚と一瞬後のこの感覚が同一の内面的連続を持つという保証はないから
この右の視野と左の視野が同一のクオリア体験だとする理由がない しかし、何でクオリアや哲学的ゾンビなんか偽の問題が出るかと言うと
三人称のもっとどうしようもない誤謬が出回ってて根絶出来ないから
それへの対抗上出た防衛策
この一瞬前の現実と今の一瞬、さらには一瞬後の現実が連続していて
同一の法則や規則で統御されなきゃいけない必然性などどこにもない
カントやヒュームの言うとおりそんなものは自然のどこにもなく
人間の都合で作るものだ
人間の側にあるもので自然にはない
一人称と三人称の狂った間違いを否定し根絶することにしか未来はない
自然主義、物理主義、哲学の自然化、意識の表象説、消去主義、
心の哲学、クオリア、マリーの部屋、哲学的ゾンビ、
こうもりであることはどのようなことか、あるいはマクタガードの時間は実在しない、独在論
これらはそういう共倒れになるための議論
三人称の確固とした客観も一人称の不確定な主観も間違いだから __
/:::::\ ペンてるお
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∨´ `ヽ、 ノ ゙ヽ
∨ ヽ _,,..-'" `ヽ
∨ 〈-=、.__ } 他者が哲学的ゾンビではないかと言う懐疑は自己が哲学的ゾンビではないかと言う懐疑の派生版に過ぎないからな
自分が哲学的ゾンビじゃないことは自分では証明できない
このクオリアと感じているものは、ゾンビが自己には内面があると見せられているだけ、
自分で自分を騙しているだけじゃないか、この事は排除できない
他者がゾンビじゃないことは他者の定義上確実なんだが
ゾンビでないから他者なんだ
哲学的ゾンビに関する思考実験の100%はゴミ
唯一の例外は自己がゾンビであるかないかの問題 三人称の客観的現実があると考え、自己と他者が客観的に確定し物理的に分離していると考える限り、
クオリアは確かにあるのかないのか外界の現実とクオリアは同じか違うか私はゾンビなのかの
ゾンビ問題から逃げられない
三人称客観も一人称主観も捨てないといけない
それらは擬似問題 他人に対して証明できないだけで
自分がゾンビでないことは明確に言える
暇だからと言って無駄に難しくする必要はない 瞬間瞬間の条件反射だけの存在にはシミュレーションする必要ない
他者の心の理論も内面も意識も存在しない
他者にこんなことしたら怒られるからやめよう
心とは他者の心をおもんばかることと同義
そういうことができない人間は過去と未来の体験を結びつけ内面でシミュレーションする必要はないから意識がない
意識、クオリアは他者、思い通りにならない現実へのシミュレーションとして発生する
クオリアに関する誤解で同じ世界を見ていても、全くクオリアは違うのではないか、
クオリアのないゾンビがいるのではないかという議論があるがそれは妄想の誤った議論だとわかる
世界は物理的に同じでもこの瞬間この視点から見ているその人間だけの視点は同じじゃない
違うんじゃないかという話だが
世界は繋がって同じ世界に同じような身体で見ているのだからほとんど同じように世界を見ている
ただ視点も身体も感覚も違うから多少は違う
当たり前の下らない見方しかないし、それが真実
孤立したクオリアは原理的にない、同じ世界に共同で働きかける当たり前の現実があるだけ
同じようなクオリアがあるだけ
AIがクオリアを意識を持つか、どういう状態の時にそれらを持ったと言えるのか
これも簡単な話でコンピュータが他人の心の理論を作って間違う可能性を持ち
それでもそれに賭けることができるようになった時
ただただ今ここの現実に反応して時間も抑圧も悔恨も過ちもない存在、他者のいない存在にクオリアも内面もない 乱暴だなぁ
大事なのは感情に負けてしまわないことだ
死ぬまでに答えに辿り着けないであろう事実を受け入れ、ただただ近づくための努力を続ける覚悟を持つこと 瞬間しかない存在は私を私と認識する必要ない
石ころと変わらない
条件反射しかない種類の動物には私と意識はない
私は他者を意識して、それと違うものという認識としてしか存在しない
他者の意識と私の意識は同時に発生する
時間の意識も同時
こっちを選ぶかあっちを選ぶかシミュレーションし悩まない存在には私も他者も時間も存在しない 自分が哲学的ゾンビでないことは明確に言えるが
物理的に自分とほぼ同質と言える他人についても、ゾンビでない可能性はまぁほぼ100%だろう
ハードプロブレムや決定論に比べると面白いテーマではないね 世界に繋がって認識する、どの存在も
、その青という感覚も、いろいろな物理的生起として同じような物質、同じような法則から生ずる
世界にそのまま戻っていく
なのに、ゾンビとか逆転クオリアとか阿呆みたいなあり得ない話だ
全く同じ観点からの同じ物理的成果、おなじクオリア感覚は得られないにしてもほとんど同じか物に漸近するはずだ
同じ条件揃えれば 他者を推測する、心を考える
ある瞬間と次の瞬間をつなげる
それがなければ私が私と連続しているなんて夢にも思わない
私なんか生じようがない
私が私であるとは世界のシミュレーションから生ずる
私がもしかしたら別であったらと考えてなければ私はない 他者も外界もシミュレーションしてあれこれ悩まない存在
それは過去の自分と未来の自分を結びつける必要もないから私はいない
必要ないから存在しない
他者の心を考えることと私の誕生、時間と意識の誕生は同じこと
意識がなく内面がなく私の人格的統一がなく「私」のクオリアが存在しない
AIに意識が内面が人格がクオリアが発生するか否か
それはどのような条件かも他人の心をシミュレーションしながら全ては計算できないことを認めるAIが誕生する瞬間の問題
心の理論を持つまでAIには内面がない
同じように心の理論ができない間の幼児は自分がない
外界と自分が分離していない
今のAIと変わらない
機械仕掛けの存在 人間が今のところ発見・使用している物理の数式にはクオリア項はなく
つまり「痛い」とか「苦しい」が物質の挙動、つまり位置や速度に影響しないものとしていて
実際それで機会やコンピュータは寸分の狂いもなく想定通りに動作している
そんなのもあってクオリアは因果の「因」にはなり得ないだろうという一般的な理解がある
因にならないのであれば、そもそもクオリア自体がなくても動物の身体を構成する物質は
クオリアがある場合と同じ挙動をするばずだ、という当然の推論から哲学的ゾンビというモデルが生まれた 哲学的ゾンビも自由意志も決定論も、心の哲学に足を踏み入れた人ならみんなよく知っているワードであるが
別に既存の概念に乗っからず、新しい考え方のスタンダードを作ったていいのである
というかむしろ既存概念の定義を正確に受け入れない立場なのであったら、新しいモノを作らなければならない
でないと定義通りに考えている人とのコミュニケーションに混乱を生じることになる 定義上、他者は哲学的ゾンビや機械仕掛けでない存在で心がある存在だ
他者はこのことからも、哲学的ゾンビではあり得ない
一方、私は私がゾンビでないことを他者にも自分にも原理的には証明できない
哲学的ゾンビじゃないと夢を見ているだけの哲学的ゾンビの可能性は排除できない 他人を哲学的ゾンビと考えている場合
その人が性欲にまかせてレイプし放題に走らないとしたら
その後に課される社会的制裁を恐れているからであって
倫理的な理由ではないということになる みんな知っているはずだけど
ゾンビは存在しない
あまりにも身も蓋もない結論だ 哲学的ゾンビは唯物論だと解けない謎になる
全てが決定され、私たちの心は無駄
ゾンビじゃないか、内面はない、あるいは全く違うように世界を見ているのではという不安
唯物論では解消できない
他者を思い図りいろいろ悩みそのことに意味がある
当たり前が物理主義者にはできない
しようもない病気 物理主義、決定論
そういう論理的誤謬犯している限り、ゾンビ問題は解決しない
間違った理論に基づく限り結論は間違うか出ない クオリアの発生は物理状態から0.5秒くらい遅れているそうだけど
そう考えるとクオリア→物質の因果関係は存在しないように思われる
しかしミクロの世界では時間を逆流するような物理現象は観察されていて、
クオリアの場合にはそれがもっと大きな単位で起こっているのかもしれない 飼い主の顔色伺う犬猫、高度な社会生活している象とか、彼らに仲間と自分がいて、意識を持って「私」がいることは疑いえない
心の理論が発達する前の幼児に意識が、「私」がないのも確実で、そりゃ普通の大人も寝ている間や呼吸や脈拍やまばたきを意識していないのだから当たり前だ
他者のいない幼児は呼吸やまばたきしている無意識だけの存在 たしかにニホンオオカミ最後の一匹みたいに
人類最後の一人になってしまったら
他者が哲学的ゾンビかどうかなんて考えなくてよくなるね 哲学的ゾンビとは逆に他人が全て自分よりか複雑な感性の持ち主であることも考えうる クオリアの話も、数学と同じで若い奴のが考えるの得意なんだろうな
俺なんかもう興味より疲れが勝つようになってきている
昔は若いうちはなかなか情報が入ってこなかったけど
今は基本的なことは何でも知ってる中学生がいくらでもいるだろう 俺自身は哲学的ゾンビの一歩手前だと自覚してるよ
自分の思考も言葉も行動もコントロール出来ていない、
勝手に時間が流れて半分無意識に動いてる
自分自身もコントロール出来ていなくて世界に関しても離人症的 たしかに、人生のすべては演出されたものにすぎず、自分は追体験しているだけという可能性も否定できないが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています