>>81
そうではない
「信じている」というのは、信じているという言葉を、相手あるいは自分に送っただけ、なのだ
「俺は信じている」と言った、その本人が自問している
『俺は本当に信じているのか?』
『信じているとはどういうことなのか、俺に分かっているのか?』
『俺は信じているのではなく、信じていると言いたいだけなんじゃないのか』
貴方も自問してみるといい

自分が述べようとする言葉、やろうとしている行為
それが「自覚する」という表現において、外部に報告される場合
報告される内容は、原理的にか後付けなのかも分からないが、
とにかく実際の言動や行動と辻褄を合わせることができる(たぶん後付けなんだろう)
ところがその奥で『自分が本当は何を欲し、どんな心の動きがなされているのか』について、
自分ではほとんど何も分からないのだ
そうすると、クオリアとか意識というのは、いったい何のことなのか

意識を直接に観測する装置はこの世界には無い
どれだけ装置の精度が向上しようとも、間接的な観測状況から類推することしかできない
いや、そもそも類推することが可能なのか

私が「ある」と信じている、その意識は、貴方の考えている“意識”とは
ぜんぜん違うものとして捉えていることを否定できない
蒟蒻問答のようにさ
とするならば、クオリアなどという幽霊は、ただの宙に浮いた言葉でしかないわけで
クオリアという言葉を巡る勘違いの輪が広がっているだけ、ということになってしまうのだ
そうなると類推を可能とする土台の構築がほとんど不可能であり、科学的な研究の対象とはなり得ないのだよ

まあこれも蒟蒻問答になるわけで
分かっちゃいるんだが。。俺も諦めが悪いというか