吉本隆明 1924-2012 その3 [転載禁止]©2ch.net
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吉本 隆明(よしもと たかあき)
1924年(大正13年)11月25日 - 2012年(平成24年)3月16日
前スレ 吉本隆明 1924-2012 その2
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1384145331/ 売らんかなで吉本の本を出した出版社、編集者の罪は重いな。
編集者はまず吉本に日本語で書いてくれというべきだったのだ。 いまだにインテリぶりたい馬鹿を釣るというのが編集者のノウハウ
のひとつなのだろう。 確かに吉本さんの本で悩むより数学の本で悩む方が意義があると
思っている。 吉本とつるんで本を出した編集者は世の中を冷笑していたのだろう。
Quote
なんでこんなのが売れるのだろう。 吉本か。共産圏も庭園ないし。野間佐和子さんの美女伝説 魔乳伝説のほうへ。 特大学者。かも。そうだし つけそば 食べたいなあ。 屋台の味 枝の箸。ラーメン探亭。盛のラーメン。煮卵。魚介だし。が21の原典。
チヤーしゅうは合成のほうかもね。生き死にしない製法。自分のようにはな。
旧約 新約 女神転生込みの、聖書購読もいいけど。 人間疎外と複素関数のヘーゲルの定理については
ひるおびにでる田崎史朗に聞いてくれ。 >>446
>ハイデガーというのは、現実を見る知の追求ができずに、現実を放棄した人間だ。
「現実」「現実」と繰り返すので私の方もひとつ「現実」を提起してみせましょう。
現実に日々生活している人々てのはお宅みたいのが何を言おうと「何か偉そうだなあ」
としか視ないし、偉そうな口調が吐き気を催させるのでほとんど相手にもしない。大体自分が
何も提起せずに他人にばかり云わせしかもくさすという卑劣な男だろう。よほどの眼の悪い
奴か俺みたいに優しい人間でない限り相手にすることはないわな。そういう、〈偉そうな
口調で他人にばかり云わせくさす卑劣な男〉というのがあんたという人間にたいする他人の
視線という「現実」なんだよ。まだ分からないのかね。
「現実」にいる人間はマルクスやらヘーゲルやら持ち出してくどくど何か言ってる人間など
相手にはしませんよ。5ch.あたりで偉そうにしてたって「現実」はそういうものですよ。だいたい
人にばかり説明させ、くさすだけの男など何処に行ったって相手にされる訳なかろうが。
行間から滲む人間性がただ偉そうな人間など今時俺みたいな暇人でないかぎり誰も
相手などしないんだよ。少しは自覚しろ。馬鹿もの。で、あんたは自分で勉強して
疑問は解答し、他人に要求するなら礼儀をわきまえるのが先決だ。
“「世界の観方」や「真理」や「その根底の知」“とか俺には興味ないし
あんたが自分で考えていればいいじゃないか。何を他人に偉そうに注文してる。
そんなに「革命」が気になるなら勝手に駅前に行って演説してればいいじゃないの。
または勝手にビラに持論を書いて配ってればいいじゃないの。こんなところで偉そうに
してる場合じゃねえだろw ハイデガーは少なくともある思考の構造を提示している
そこでは不安が定位されているから多くの読者を得た
偉いか偉くないかと言う基準は軍隊の構造を無意識に反復している
ハイデガーの晩年は哲学史家でしかないがとにかく軍隊とは別の構造を提示した
死を積極的に取り上げたことに賛否あるが
少なくとも不安とともに死は構造に定位されている
普通なら恐怖を一義的に扱うが
ブルジョアの底力を見せた
吉本のような江戸っ子は首都がそのままだったから偉そうにできただけで
日本の近代化の構造に安住している >>460
「現実を見る知の追求」がどうして「他人の視線」に変わってしまうのかな?
相手に罵詈雑言を浴びせる前に、君は、自分の日本語理解の能力を見つめるほうが先だろう。
僕が「偉そう」であろうとなかろうと、君の言葉の理解や思考能力とはなんの関係もないのだから。
少しでも自分を省みれば、「革命」とか言い出したのは、君自身だということを思い出すだろうw >>461
>ハイデガーは少なくともある思考の構造を提示している
>そこでは不安が定位されているから多くの読者を得た
いつもと同じように御託を並べてないで、どんな「思考の構造」なのか、どこに、どのように「不安が定位」されているのかを書いてごらんよ。
具体的なことはなにも書けずに、いつものように「雰囲気」で語るだけでは、マルクスやらヘーゲルやら吉本やらに太刀打ちできるわけもない。
>吉本のような江戸っ子は首都がそのままだったから偉そうにできただけで日本の近代化の構造に安住している
ここまでくると、「維新の会」が唱える「大阪都構想」みたいな妄想と僻みの世界じゃないかな?
ちなみに吉本というのは、江戸っ子といえば江戸っ子だけど、本人が吹聴しているような江戸庶民ではないよ?
親は九州から出てきて造船所を経営し、子供を私塾にやったり、徴兵を避けて工業学校に行かせる資金力と知恵がある位の、知的な「ブルジョアジー」だ。
だからかどうかは別としても、成人してからは山の手に住んで、亡くなるまで長年住んでいたのは、東京でも屈指の高級住宅街だ。
それが「近代化の構造に安住している」ことにつながるとはとても思えないが、君には、そうした「江戸っ子」だの「首都」だのが、その思想の根幹につながると思えるのだろうか?
君は、ハイデガーが、ナチスを後ろ盾にした学長になったり、ユダヤ人の女子学生を愛人にし続けたりしたりしたことが、ハイデガーの哲学となんの関係もないと考えているのかな?
それならそれでも構わないが、そうきちんと主張するべきだ。
>少なくとも不安とともに死は構造に定位されている
>普通なら恐怖を一義的に扱うがブルジョアの底力を見せた
こういう脈絡を欠いた書き方で、自分自身を納得させるべきではない。 衆議院選は自民党系の大勝に終わったね。
共産党をはじめとする革新政党を攻撃し続け、当時自民党の小沢を高く評価し、原発を礼賛し、国防軍の樹立と参加を夢見た吉本は、草葉の陰で万歳してるんじゃないかな?
もしかしたら敬愛する昭和天皇に謁見したがってるかもしれない。
本質としての右翼、吉本隆明を批判しきれなかった左翼知識人の完全敗北でもある。 吉本隆明の『対幻想』って概念がいまいち分かりにくいんですが、どなたか分かりやすく教えて下さいませんか?
恋愛時に、相手を特別なものとして絶対視するようなものではないんですよね? >>465
具体的な生きている個人に対して、自分もまた個人として向き合うことによる心のありかた。
恋愛、家族からただの知友までを含む、実体としての個人が、他の実体としての個人とかかわるときの心のありかた。
同性、異性をとわず、実体(身体)としての人間は、男であるか女であるかのどちらかだから、男としてまたは女としての性的な心として向き合うことになる。
個人としての相対は、自分もその相手も、個人として対するので、その程度によらず、個人と個人が対となる心的な関係、対幻想となる。
吉本は、ヘーゲルの家族論(『法の哲学』など)から、対幻想の着想を得ているのは間違いないが、ヘーゲルの家族概念を大きく拡張してもいる。
ちなみに、『法の哲学』には今日でも通用する本質的な家族論が展開されているし、吉本が『共同幻想論』の骨格を得た元ネタでもあるので、時間があったら読んでみて。 >>466
ありがとう。
そこでいう『個人』と言うのは、社会的な影響を受ける以前の、常識と言う鎧を纏わない個人、でしょうか?
そこまでは潜らない?
『対となる』と言うのは、ただ単に一組ではなく、相補的な、互いが一つに溶け合うような、そういった幻想も含まれます? >>467
個人というのは、社会的な影響とか常識とかとは無関係に、身体を持った個人という意味。
社会の中での個人というのは、ある目的に即したその個人の側面を自分の中で幻想化(理念化)した存在としてある。
会社の一員であるとか、国家の一員であるとかいう側面を、その賛否によらず自分で理念化して思考し、行動している。
個人と個人が相対する場合には、自分も相手も身体のある個人として、自分自身に現れる。
そこに現れる男、女としての個人の身体性に伴う自分の心が対幻想。
「相補的な、互いが一つに溶け合うような」幻想というのは、ヘーゲルの婚姻の概念がそれに近いと思う。 >>468
訂正
社会的な影響とか常識とかとは無関係に
−> 社会的な影響の有無や、常識を持つとか持たないとかとは無関係に >>468
『自分自身に現れる』と言うのが、とても難しいんですが、
『相手自身にも現れている』んですか?
合わせ鏡みたいに?
それとも自分の内面のみの話?
>そこに現れる男、女としての個人の身体性に伴う自分の心が対幻想。
この場合の身体性というのは、相手の身体性ですか?
それとも自分の内面のみの話ですか?
2パターンぐらいに読めてしまうんですよ。 >>470
難しかったかな。
自分自身に現れるというのは、自分がそういう心になる、と言い換えてもいい。
「自分の内面のみ」の話。
身体性というのは自分自身の身体性であり、相手のこともまた、身体性として受け止めるということ。
これも「自分の内面のみの話」。
具体例としては個人の話であって、他の個人がどういう心を持っているかとは関係がない。
わかりやすい例を挙げれば、職場などでのセクハラがある。
セクハラおやじは、女子社員を女という個人として見てしまうが、女子社員は会社という目的を持った共同性の一員としてしかおやじを見ていないから、不快であり、拒否のしかたに戸惑う。
対幻想であれ、共同幻想であれ、そうした具体的な心性を踏まえたうえでの、人間一般の心の在り方として抽象した概念ということになる。 >>471
詳しくありがとう。
凄いアホな質問なんですが、そのセクハラおやじがもし、女子社員と上手く付き合うようになるとしたら、
女子社員の側もセクハラおやじを男という身体性を持った個人として、見るようになる(しかも嫌悪ではなく)
という事ですよね?
社会的な役割を超えるような、そういうような。
具体的には、セクハラおやじが女子社員と仲良くなるためにはどうしたら良いと思います?
つまりその、社会的な役割を越えて対幻想を現実に繋げるような、そういうことに興味があります。
(一歩間違えばストーカーになりそうだけどw) あと、これは、別の切り口ですが、ある人間があまりにも強く対幻想を抱いている場合、
実際の恋愛的には失敗しやすいとか、そういうことがあると思いますか? >>472-473
悪いけど、まともな質問とは思えないので、答える気はない。 あの、セクハラおやじを例に取ったのは失敗だったかなと。
ところで、この対幻想はアニマアニムスと、似てますか?
自分のアニマアニムスを相手に押し付けるよりは、相手のアニマアニムスに沿うように振る舞った方が、いろいろ上手く行くような気がする。 >>475
>>471は、我ながら上手い例だと思ったが、残念ながら、君には理解できなかったようだ。 >>471の身体性というのは、役割ではなく、生きた人間というような意味ですかね? >>477
君がもう少し冷静になったら、質問に答えるよ。
いまはどう書いても、理解できないようだから。 >>478
冷静なつもりではあるんですが(^-^;
あの、とりあえず丁寧にありがとうでした。
書き込み読み返して見ます。 吉本の講演の中で対幻想をイオン結合にたとえているところがある。別々の原子が結合して
化学反応を起こし、ということでしょう。「イトイ新聞」のその講演の音源と
テキストが掲載されているので聴いてみると良いでしょう。
恋愛について 1988年3月4日講演 日仏会館
http://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/text-a107.html
対幻想の関係とはなにかというと、「正常の恋愛」とは男のものでもなければ女性のものでもない
、つまり、男性のものでも女性のものでもなく、少なくとも両者のあいだに対幻想というひとつの精
神の領域を設定したとしますと、その対幻想の領域を流れて行くのが正常な恋愛の一番根底に
あるのではと僕は考えるのであります。その場合には両者ともその領域に入っていきますと、両
者とも男性であり女性であって、そこで結合という結びつきがおこる、というのがなくなっていく。
それで、なにかわかりませんけれども、男性のほうがひとつの、つまりケミカルサイエンスなこ
とばでいうと非常にわかりやすいんですけど、男性と女性が結びつく、一方は男性で一方は女
性、はじめの結びつき方のところではケミカルな用語で言いますとアイオニックボンドつまりイ
オン結合、プラスとマイナスをだして、結合が起こる。 480つづき
ぼくはそれは初期に起こることであって、だんだん一方、対幻想のほんとうの流れはそうじゃな
くて、男性の一方はひとつのなにかを出している、女性の方もひとつのなにかを出している。そ
のお互いに出し合ったボンドといいますか、結合子といいますか、それがレノマンス、共鳴をお
こしているっていう状態というのが対幻想の本質だというふうに思われます。対幻想の領域っ
ていうのは、その話では余計なものになってしまう、つまり対幻想というのは僕が言う共同幻
想の領域とも、それから僕がいう個人幻想の領域ともまったくちがう位相にあるものだと僕自
身は考えます。正常な恋愛というのはたぶん対幻想の領域に、両者の結合のレノマンス、
共鳴をおこしているっていう状態というのが対幻想の本質だというふうに思われます。対幻想の
領域っていうのは、その話では余計なものになってしまう、つまり対幻想というのは僕が言う共
同幻想の領域とも、それから僕がいう個人幻想の領域ともまったくちがう位相にあるものだと僕
自身は考えます。 >>480-481
ありがとう。
だけど、なに言ってるかわからないw
吉本がドゥルーズにカブレてたころなのかな? 吉本って他人の本にカブれやすいんだよね。
小林にカブれ、マルクスにカブれ、ヘーゲルにカブれ、小沢一郎にカブれ、大前研一にカブれ、三木成夫にカブれ・・・
きりがない。
頭の良い人によく見られるけど、吉本も、研究した相手に乗り移られちゃう。
重厚で巨大な思想家とか思われてるけど、本当は良くも悪くもとても軽い。
吉本の研究には、見るべきところはたくさんあるけど、どれもネタ元が顔を出してる。
いくら超人的な力があっても、あれだけ散漫なテーマに振り回されてると、研究を深めるのは無理だったんだろう。 恋愛を男性と女性のものと決めつけている。
恋愛を1対1のものと決めつけている。
この時点でもうダメだわ。 >>481
> だけど、なに言ってるかわからないw 吉本がドゥルーズにカブレてたころなのかな?
心の交感する領域というのが対幻想ということでしょう。それも特定のAとBでしか交感され
ない感情。何となく惹かれているあるいは何となく嫌悪感を抱くという場合。そこに対幻想が
介在している。
たとえば何でいじめが特定の子供から別の子供に対して起こるのか。という場面にでも、
そこには対幻想が介在する。荒れた無意識に荒れた別の無意識が感応する。そこ苛め問題
の重要な契機を吉本は視ていたし、根底的な解決はだから困難であることも指摘していた。
その子供の母子関係から考えなければならないからだ。
それほど難しいとか思わないがね。自己の実生活での対人関係を内省してみれば
それに類するものはあるんじゃないかと思うが。頭でだけ考えすぎなんだろう。吉本の
場合、自己の実生活での実感が思想構築の重要な契機になっている。いわば自己の
事実性というやつだ。読む方もそこを基点にしながら読むしかない。
それと吉本はD=Gへは微妙な距離を置いていただろう。『アンチ・オイディプス』へは強烈な
批判を書いており、同席していたイベントで講演していた宇野邦一から壇上に呼ばれ、二人
論争を始めたことはイベント『いま、吉本隆明25時』での出来事として読者には知られている。
またこのときの対論は同名著書(弓立社)に残っている。 >>484
吉本が恋愛を「男と女のもの」と云う場合、そこには恣意的な名付けということが挟まっている。
つまりレズビアンでよく「男役(タチ)」「女役(ネコ)」とか言うだろう。それと同じで、それが
生物学的なオスやメスと同じに言ってるわけではない。吉本の考えでは人間における性すな
わち対幻想には観念的な意味また生物学的な意味が混合して関係している。そこに人間に
おける性また性差が他の生物と異なって行く特徴がある。
テキストでも正式にこう説明している。
《ぼくが、性について、観念性と自然性との総体なんだという考え方を学んだのはヘーゲルの
精神現象学のような気がするんです。
人間が他のひとりの人間とかかわる世界を、性の世界とかんがえると、同性の場合でも、
異性の場合も、また近親の場合も近親でないものにたいする場合も、いずれにせよ一対一で
あればすべてが含まれています。人間の第一次的な形成とおもわれる家族のなかで父親と
息子や娘の間にも、母親と息子や娘の間にも、それからまた、同じ世代の兄弟や姉妹の間
にも、観念的にか生理的にか、やはり性の関係は成立するようになります。》
『思想の基準をめぐって』 26頁 対幻想とはなにか 深夜叢書社 1994年 >>483
彼はマルクスのテキストをよく読んでいるけども実際にマルクス論読んでいると、幻想領域
がどうのとか拡張していくのが吉本で、マルクスはたしかに《幻想的な共同性》というタームは
私的利益と共同利益との矛盾と云う場面で「共同利益が国家となる」という文脈であるが、
そこを拡張して論じる気はない。それに比して幻想と云うタームを国家のみならず性や私性
にも当て嵌めたのが吉本。そこでマルクスの意図から外れて拡張していく。
なのでカブれやすいというよりも、現在でも生かすことのできる部分を見分けることの達人芸
というものがある。
しかし、上レスを読んでて、あまり知ったかぶりしない方が良いと思ったが。元々吉本の
思想を語れるほども読んでいないのだろうから。 >>485
>ケミカルな用語で言いますとアイオニックボンドつまりイオン結合、プラスとマイナスをだして、結合が起こる
>お互いに出し合ったボンドといいますか、結合子といいますか、それがレノマンス、共鳴をおこしている
僕が、わからないと書いたり、ドゥルーズカブれとか書いたのは、こういうところ。
吉本が化学を学んだことは有名らしいけど、なんで人の心を語るときに、一般人にはまったく縁のない化学の比喩を使わなければいけないのかということ。
「位相」もよく使ってるみたいだけど、どういう意味かを説明したことがあるんだろうか?
たとえばある辞書には、こう説明がある。
1 解析学で、極限や連続の概念を定義できるように、抽象空間(集合)に与えられる適当な構造(部分集合)。トポロジー。
2 物理学で、振動や波動などの周期運動の過程でどの点にあるかを示す変数。正弦関数で表すときの角度に相当する部分の量。
3 地域・性別・年齢・職業・階層や、書く場合と話す場合などによって、言葉の違いが起こる現象。
他にも自然科学の分野では、さまざまな説明がある。
吉本は、「抽象空間(集合)に与えられる適当な構造(部分集合)」といった程度の意味で使っているようだ。
ことさら「位相」などという、一般には通用しにくい言葉を使う理由もわからない。
「位相」はドゥルーズとは関係ないだろうが、「ケミカルサイエンスなことば」を使って見せたのは、「非常にわかりやすい」からではなくて、ドゥルーズなどのフランス思想を無意識に意識してのことだろう。
無意味な比喩を持ち出してドゥルーズなどに対抗するという、「カブれ」方だ。
ドゥルーズに批判的であろうと好意的であろうと、カブれたことには変わりないw >>485(続き)
いじめが対幻想である云々というのは、好きな子をいじめたくなる、程度のことにしかあてはまりそうもない。
大半は、日本的な排除の感性か、ただの強奪であるかのどちらかだ。
個人としての暴力的な性向は、乳胎児期の母親のかかわり方にある、という、あまりあてにならない「母型論」を前提としたとしても、いじめは暴力的な要素だけではない。
むしろ集団からの排除の方が、大きな要素だ。
排除するかしないかというのは、まさに共同幻想の領域だ。
君独自の意見なのか、吉本がそう書いているのか知らないが、対幻想がいじめの本質ということではないだろう。
吉本で覚えているのは、自分がいじめっ子であったときに相手に下駄で殴られて反省したことがあるという文章。
だからいじめられたら思いっきり反撃すればいい、という結論で、思わず吉本の懐古趣味といじめっ子の論理に微笑んでしまったことがある。
後年自分の感覚を時代遅れだったと述懐もしていたが、吉本の現実を失った感性を垣間見た気がする。 >>487
>「共同利益が国家となる」という文脈
これは君の読み違いだ。
もう一度、ドイツイデオロギーの当該箇所を読み直さないといけない。
ちなみに、個人の幻想と共同の幻想が逆立する、というのは、ヘーゲルの『法の哲学』に詳しい。 >>489
俺は小中高とも、いじめはやり返して終わらせたな。
ダメな解決法だったかな…? >>491
終われば、それでいいさ。
暴力をふるえば、大半はもっと酷くなる。
個人対個人のいじめではないから、周囲から危険視されて、排除する人が増える。
その暴力によって徒党を組めば、自身がいじめの元凶になる。 横レスだが一方で「虐めは極めて人間的な行為。受けいれよ」
なんて意見もあるのな >>493
なんであれ、人間の残虐性を否定していくのが文化というものだろう。
行きつ戻りつはあるけど、長い目で見れば、人間は優しくなってる。
社会的な富の蓄積が、人間の自然や社会からの疎外を軽減しているのが原動力ではあるが。 >>485
転移逆転移とか、心理学的な相補性とも関係あるかな? >>489
>いじめが対幻想である云々というのは、好きな子をいじめたくなる、程度のことにしか
>あてはまりそうもない。
>大半は、日本的な排除の感性か、ただの強奪であるかのどちらかだ
>いじめは暴力的な要素だけではない。
>むしろ集団からの排除の方が、大きな要素だ。
>排除するかしないかというのは、まさに共同幻想の領域だ。
その論理ではしかし、AとBとが何故惹き合ってしまうのか苛めによって結びついて
しまうのかという関係性の深淵については説明はできないね。貴方が言っているのは
古来から日本社会にある苛めの一種ではあるが、1980年代以降に学校社会で蔓延しだ
した現象については届いては居ないな。
吉本の言っている無意識や対幻想における荒れというのは女性の意識が変わって行き、
育児に対し、あるいは男性社会に対し、桎梏と感じるようになった時代性に関係している。
胎児乳児時代の荒れが或いは母子関係に失敗が苛めに関係するというのはそういう意味だ。
お宅のいうことよりも現代における苛めの特質について解決の難しさについて遥かに洞察
している。お宅の言う話は1980年代にいたる前、だといえばまだ分かる。だが現在の問題
には対応できないだろう。根底的な解決にはまた処方箋にはならないということだ。
相変わらずポイントで読めてないな。「対幻想が苛めに関係するのは好きな子に・・・」の
部分は笑えるが、そこまでどうしようもないことを対幻想とイジメで言っているとは
俺でも思わない。そんなこと誰でも言えるだろうがw >>490
>>「共同利益が国家となる」という文脈
>これは君の読み違いだ。
>もう一度、ドイツイデオロギーの当該箇所を読み直さないといけない。
マルクスについてあまり言う気もないが、一応引用しておこう。『ドイツ・イデオロギー』には
こうある。
《・・・そしてあたかも特殊な利益と共同の利益とのこの矛盾から共同の利益は国家として、
-現実的な個別的および総体的利益から切り離されていると同時に幻想的な共同性として
独立した-形態をとるようになるのであるが、・・・》
《諸個人はただ彼らの特殊な利益、彼らにとっての彼らの共同の利益とは一致しない利益
のみを追求するのであり、総じて、普遍的なものは共同性の幻想的形態なのであるから
こそ、この普遍的なものはなにか彼らには「疎遠な」そして彼らとは「独立なもの」、なにか
それはそれでまた特殊な独特の「普遍的」利益とみなされる。あるいは、彼ら自身、民主制
の場合のように、この分裂の中で動かざるを得ない。だからこそ他面、共同の利益と幻想的な
共同の利益とにたえず現実的にそむくところのこれらの諸々の特殊利益の実践的闘争は、
国家としての幻想的「普遍的」利益による実践的な干渉と制御を必要ならしめる。》
で、私が書いたのが
>>487
>マルクスはたしかに《幻想的な共同性》というタームは私的利益と共同利益との矛盾と云う
>場面で「共同利益が国家となる」という文脈である
どこが違いがあるのかw先ず変わらない。いい加減にしろ。この勿体ぶった馬鹿もの。
だから手前が嫌われるのだといい加減気付けや。 >>495
>転移逆転移とか、心理学的な相補性とも関係あるかな?
関係があると俺には思えますね。>>496に書いたことに関連させれば。内心育児にたいし
傷ついていたり、こんな筈じゃなかったと思っていたり、もう厭だと思っていたり、また旦那へ
の愛は醒めており外見上だけ母親のフリを装っていたり、いずれにせよ自己内部の傷を
失望を、または母親を演じることへの嫌悪を、或いは旦那への憎悪や殺意を悪意を、
外見上は隠したまま、心的な行為また視線として子供への憎悪や嫌悪やに表すようになれ
ば、しかも胎児乳児幼児時代に長期間それが実行されていけば、
子供の内部に負の自意識が、または世界の隅っこに追いやられていく自意識が、または
世界は悪意で固められているという自意識が、堆積するのは避けられない。
そしてそれが、他者との関係性の中で反復していく。自分と同じようなオーラを経歴を
歴史を持っている子供を察知していき、陰湿な行為に向かうというのはあり得ると
思いますね。しかも子供にとってそれは意識的な行為ではなく無意識的な行為である。また
無意識的な引き寄せである。
無意識的な引き寄せというのは苛める側だけでなく苛められる側も亦引き寄せられていく。
そういう周囲から視れば「?」「なんで逃げなかったの」「なんでいつまでも苛めっ子の言いなり
になってたの」「なんで自分は悪くないのに自殺するの」など色々な疑問が噴出する。しかし
これまた自殺する子供にも、自分が自死に引き寄せられていく力の根源までは視えない。
現在マスコミで問題になっている苛め自殺の根源にはそういう構造があるのだと思ってます
けどね。 >>498
『無意識的な引き寄せ』ってのは、社会学におけるヴァルネラビリティ(攻撃の受けやすさ)ってのとも似てますね。
『無意識的な引き寄せ』によりイジメを受けている人間が、それをされないようになるには、どうしたら良いと思いますか?
まあ、まずは意識化して、ケースバイケースかな? >>496
君には、短く、簡単な文章を理解することも難しいらしい。
いじめというのは、惹き合ったり結びついたりしているものではない。
そう見えるのは、かならず利害が関係するときで、その他は集団性の変化によっていじめの対象が変わったり消えたりする。
日本に限らず、どこの国にでもある、強奪と排除だ。
一般的ないじめの根拠は、個人対個人の関係ではなく、共同性の中の位置取りにある。
だから、対幻想である云々というのは、好きな子をいじめたくなる、程度のことにしかあてはまらない。
これが僕の主張だ。
読めてるの読めてないのと、他人を腐す前に、自分が読めるように勉強したらどうだろう?
ちなみに繰り返しておくが、吉本の「母型論」は、『心的現象論(本論)』の胎教崇拝があてにならないのと同じように、あてにはならない。 >>497
>《幻想的な共同性》というタームは私的利益と共同利益との矛盾と云う場面で「共同利益が国家となる」という文脈
これがマルクスの文章と同じだとしか理解できないなら、君はマルクスを読んでもなにも理解できないだろう。
幻想、という言葉は、吉本の理解のように、現実からの疎外によって人間の精神を作るという意味だ。
「共同利益が国家となる」などという解釈では、国家の本質を見ることは不可能だ。
君は、自分が批判されると怒り狂って、批判する相手を罵倒する。
認知症老人によくみられる現象だ。
君も、自分が認知症ではないかと疑った方がいいと思う。 >>498>>499
いじめというのは、集団性と個人との距離を根拠に持つ。
いじめの被害者に、ほんのわずかの原因があるとすれば、被害者もまたその集団性への帰属願望(憧れといってもいい)があることだろう。
加害者というのは、多数であり、全員を母親の子供に対する接し方の良し悪しに還元することなどできるわけもない。
いじめから集団性を除くことができれば、吉本自身のような牧歌的な、気になるあいつをいじめてやれ、と、ただの犯罪行為とが残るだけだ。 >>502
集団と排斥の問題は分かるんだけどさ、イジメのきっかけになる人物と被害者の間には、対幻想があると考えていいかな?
しかしその、最初は対幻想は個人の内面のみの話だったけど、それが、説明に対幻想に呼応する他者が出てきたけど、
そこら辺りが対幻想の分かりにくさ及びポイントみたいな気がしますね。 >>503
いじめのきっかけは、ほとんどが、みんなと違う、ということ。
対になった思いなどではなく、被害者に対して、みんなと違う、普通と違う、という感覚が集団の中に広がっていく。
言い出すのは一人であっても、それは集団の思いを代表しているだけだから、集団の中の力のある人間が言い出すことが多い。
極端な場合は、教師のがその代表となる。 >>504
なるほどありがとう。
集団と排斥の問題と対幻想の問題はもちろん別の問題だよね。 >>505
いじめ問題を、個人間の問題に矮小化するのが間違いだと思う。
吉本は、自分は個人間でのいじめっ子だったと書いているが、現代のいじめ問題には、自分の見かたは無効だろうとも書いている。 対幻想と集団排斥が同時に起こってる場合もあるんじゃないかな?
イジメを起こす人間の精神パターンって、やっぱある程度決まってるように感じるし。 昔のヤクザ組織は疑似的な家族を標榜していた。
親とか子とか兄弟とか。
現在の暴力団は、名前の付け方はそのままだが、実体はただの収奪組織だ。
なにしろ、親が子に小遣いを渡すんじゃなくて、子が親に、税金のように金を納めるんだから。 http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011072701514.html
法と掟と
[著]宮崎学
[評者]柄谷行人(哲学者)
■日本社会の「正体」を問う痛快な試み
…
本書の定義によれば、掟とは個別社会の規範である。「個別社会」は家族、村、労働組合、
同業者組合、経済団体といった基礎的な集団であるが、著者はそれを「仲間内」と呼ぶ。
そこには、相互扶助(互酬)的であるとともに内部で共有する規範がある。それが「掟」である。
一方、「全体社会」は国民国家のように抽象的な集団であり、そこで共有される規範が「法」
である。
通常、社会は、個別社会の掟で運営されており、掟ではカバーできないときに法が出てくる。
ところが日本社会では、そういう関係が成り立たない。掟をもった自治的な個別社会が希薄で
あるからだ。著者によれば、その原因は、日本が明治以後、封建時代にあった自治的な個別
社会を全面的に解体し、人々をすべて「全体社会」に吸収することによって、急速な近代化を
とげたことにある。
…
日本は自治的な個別社会を解体したために、国民国家と産業資本主義の急激な形成に成功し
たが、それは、今やグローバル化の中で通用しなくなっている。それに対して、中国では個別
社会――幇(バン)や親族組織――が強く、それが国民(ネーション)の形成を妨げてきた。
しかし、逆に、今日のグローバル化において、国境を超えた個別社会のネットワークが強みとな
っている。
著者は、若い人たちに個別社会の形成をすすめている。そのためには個々人が「世間」の
規範から出なければならない。 >>509
柄谷の書評なんか、こんなところにのせてどういうつもりなのかな・・・
戦前みたいな、血縁、地縁の社会がいいといたいのかな?
柄谷も、この書評を引用した人も、つまらないこと考えてるんだね。 http://www.kojinkaratani.com/jp/essay/post-35.html
以上のような先行者(モンテスキュー)について述べたのは、宮崎学が、一見そうは
見えないが、日本の思想史・政治史における課題に、誰よりも真正面から取り組ん
できたことを指摘したかったからだ。われわれはこれまで、徳川時代に始まった
「日本」の特異なあり方のおかげ悩まされてきたのだが、宮崎のような認識をもた
ないならば、それをくりかえすことになるだろう。 >>511
柄谷スレで相手にされなくなったから、こっちに移ってきたの?
吉本がバカにした柄谷の共同性概念の混同も変わっていないし、スレ違いだから、柄谷スレに帰れば? 高澤 柄谷さんは吉本隆明さんとどういう出会いを?
柄谷 …大学のそばに引っ越そうとして、斡旋する場所に行ったら近くにあったんで。田端の駅
からに近い。開成とかあって。降りた所に吉本の家があって田端の風呂屋を捜して…「試行」と
いうのをとろうと思って見るとすぐそこなんですよ。家が出版社だから。
高澤 いきなり申し込みに行ったんですか?
柄谷 その時に始めて風呂屋に行こうと思っただけ。それから吉本宅を訪ねて。割とよく行
ってましたね。年に二三回は。
高澤 読者にとどまらず「試行」に投稿とかそう言うこと一切しなかったですね?
柄谷 彼はそう言うことはいわなかった。吉本さんは面白い人で、僕にいろいろ忠告してくれた。
あなたはもっと商業誌に書けばいいんですよ。色のついた雑誌はダメだ。「試行」も含めて。
高澤 そういう吉本隆明はいいですね。
柄谷 いいんですよ。よければ小林秀雄も通るんだ。中野重治も「新潮」でやってるじゃないか。
自分が真っ赤になればいい。彼はむしろ「試行」に書くなという感じだった。色はつかないほうがいい…
柄谷&高澤@東京堂20120330『政治と思想』刊行記念 カラタニは戦死くさいよ。吉本さんもいいけど。
三浦しおんさん広告に出てたけど綺麗な方で。 >>513
前にもどこかに引用されてたけど、そんなに吉本のお墨付きが欲しいのかねえ・・・
柄谷が吉本にバカにされてたのは、『状況への発言』を読めばすぐわかるのに。
いくらすり寄っても、吉本の柄谷評価は低かったw 吉本は柄谷と比較するとわかりやすい
一言で言えば柄谷はカント的で吉本はヘーゲル的
柄谷も初期は三角の中心に自己を置いていたが
ちなみにマルクスは両義的
吉本隆明体系:
/非知へ
/親鸞\関係の絶対性
共同幻想 \マルクス
アフリカ\/アジア
ヘーゲル/\共同幻想論 /\古事記
/__\ /__\
/個人幻想\ /\対幻想\
/自然\/__遠野物語\/__\
/\ /\
/__\ 吉本隆明体系 /__\
/\ 詩/\ /マスイメージ
/__\/__\ /__\/__\
/\言語にとって/\ /\心的現象論 /\
/__美とはなにか__\ /__\ /__ライプニッツ
/自己表出\ /指示表出\『胎児の世界』\現代 /ハイイメージ
/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\
芸術言語論
上はヘーゲルの、論理学、自然哲学、精神哲学に対応する
柄谷行人交換図との対応:
_________________
| | |
| | |
| 国家 | ネーション |
| B | A |
| (共同幻想) | (対幻想) |平
|________|________|
| | |等
| | |
| 資本 |アソシエーション|
| C | D X |
| (個人幻想) | |
|________|________|
自 由
ただし、対幻想はアソシエーション的読解の余地もあり、そこに吉本の可能性がある。 エロっていうのは個体と個体の関係の世界だっていうふうに言ってたけど
痴漢とかはどうなるの?社会的なマゾヒズムとかサディズムとかはどう扱うんだろうか。
それこそ関係の絶対性に繋がりもしそうだが >>519
社会的マゾヒズムがいると思ってる時点でおかしい。 社会的なマゾヒズムって確かによく分かんねーな
セクハラとか痴漢も結局、場が社会なだけで関係性の世界なんだろうか >>521
不特定多数の人間にやられたいというマゾヒストは稀にいると思うけれどね。そういった側面から限定的に社会的マゾヒズムは存在するかもね。一般的には関係性の世界なのでは?
そうなると、女性は多くがそうかもしれないから矛盾も生じるかもしれないが。 つまり共同幻想と対幻想が同致するってことだろうか
ここら辺考えてみる意味がある気したんだよね >>522
>女性は多くがそうかもしれないから矛盾も生じるかもしれないが
矛盾ってどういうこと?よく分からないんで良かったら説明してくれ >>525
いや、男女の機能的な問題で対幻想において、女性のマゾヒズトが多いとしたら、精神的なマゾヒストというのは共同幻想におけるマゾヒズム的側面が含有されていなければ成り立たないかなって。つまりそうなると社会的マゾヒストも結構いることになる。 若干わかりづらくてすまないお。(о´∀`о)
ぱぴならー! >>527
うーん難しいな。理解できてなかったらすまん
共同幻想自体に性的なイメージは付着してないと思うんで、
やっぱりサディズム・マゾヒズムは関係性で、たまに社会性が状況として付与されるだけなんじゃないかと 思い付きだが、
社会階層を認識することは、自己幻想と共同幻想が同致することにならない?
自己幻想と共同幻想の同致、これが「関係の絶対性」の正体(の一つ)ではないか >>529
社会的に制裁を与えたり与えられたりするときも関係性を切って考えることはできないしね。 >>530
確かにそうだと思う。
例えば、あなたが上司で私があなたを好きで、あなたがサディストだったら、関係の絶対性が生じる。 急に話飛んだからな
まあ「関係の絶対性」って結局何なのか分かりにくい。 >>530
うーん、難しい。好きなことを仕事にした方が良いということ? >>535
結局どんなに社会性が外れた妄想を抱いていても、社会的立場に伴った行動しか取ることができないということ? 「関係の絶対性」は相対的な関係の絶対性のこと、絶対的他者との関係を意味するものではない
AでもBでもCでも良かったはずなのに、なぜかAでしかあり得ないという関係が絶対的だということ。
Aであることをなぜ絶対的と捉えるかにおそらく肝がある
関係の絶対性は、小林秀雄風に言うなら「宿命」と言いかえられるし、「生まれた星の下」みたいな慣用句に直すことも出来る
だがその言いかえをすると零れ落ちる微妙なものがあって、吉本はそこが重要だと考えたんだと思う。
だから、「関係」なんて相対的なものなのに、あえて「関係の絶対性」なんて逆説的な言い方をした
ここからは俺の思い付きだけど
何と何が関係するのか、と考えると、おそらく自己幻想(自己)と共同幻想(社会)ではないか、と思う。
それがどういうふうに関係しているのかははっきり言ってよく分からないが、、
まあ、吉本がよくいっている、個人幻想と共同幻想の逆立ちに近いんじゃない。その微妙な力学というか。
どこでどう顕れるかということでいえば、例えば、文学作品の制作過程とかなんだと思う。
まあ思い付きから敷衍したんで全然見当はずれかもしれないけど、
最近読んだものを総合してみるとこういう感じに織り合わせられると思ったわけ >>536
それは、宿命とか運命みたいなものに従って、自分の仕事やキャラや生き方を選んだ方がいいみたいな話になってくる
個人的には「関係の絶対性」っていうのはちょっと悲劇的な感触のあるものだと思うからなあ 吉本自身は、関係の絶対性という言葉を、関係の客観性とか、関係とは構造のこととか説明してる。
ある郵便局員が、勤務時間終了とともに窓口を閉めた。
数分後に、ある女がその日のうちに出さなければならない、重要な手紙を出しに来た。
結局、手紙が出せずに、その女は死んでしまった。
太宰がこんな話を書いているけど、吉本はそういうことを関係の絶対性といっていた。
ただたんに、人はそれぞれの状況の中で生きている、ということを、ただカッコよく言って見ただけともいえる。
吉本は、小林秀雄のようなカッコマンが好きだったからね。 対幻想は共同幻想に対して
ヘーゲル的には安定だし
フロイト的には破壊だ
吉本は両方提示しているが
最終的には共同幻想に従属させるに至る
というのは
家族(対幻想)→国家(共同幻想)→近代国家(自己幻想)
という
日本の歴史をそのまま反映させているから
ラカンのような構造主義的自覚が足りない >>541
なんだそれw
スレの賑わいにはなるけど、一冊ぐらいは吉本の本を読めよ。 あけましておめでとうございます。
今年が良い年でありますように。 吉本全集は続いてるみたいだけど、吉本にはこのスレを維持できるほどの魅力がなくなってきたのかな。
原発礼賛、左翼批判、武力行使容認、等々、3流の保守評論家と結論は同じだもんな。
研究対象は多岐にわたっているけど、どれも中断してしまった。
身体の限界だったのか、生活費を稼ぐだけで手一杯になっていたのか。 とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
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