0657考える名無しさん垢版 | 大砲2017/09/12(火) 02:10:20.480 ハイデガーの哲学は「存在の哲学」でありながら、同時にそれを支える「無の哲学」でもあった。 ヘーゲルは『論理の学』において、 「存在」と「無」は同じであり、これらが同一性と差異性を孕みながら合わさる運動を「生成」と呼んだ。 これはどの様なことを言っているのか? シェリングやベーメのUngrund(無底、無根底)を参照してみるといい。
0659考える名無しさん垢版 | 大砲2017/09/12(火) 02:11:45.180 “神とは(…)あらゆる根底に先立って、あらゆる現実在するものに先立って、 したがってそもそもあらゆる二元性に先立って、自らの本質である「根源実在」なのである。 シェリングはそれを「現根底(Urgrund)あるいはむしろ無根底(Ungrund)」と名付けている。 すなわち、それに関してはいかなる差異も、また有[存在]の組目も、 もともと適当な述語として述べられることのできない「絶対的無差別」のことである。” ― ハイデガー全集42『シェリング『人間的自由の本質について』』
0660考える名無しさん垢版 | 大砲2017/09/12(火) 02:12:31.040 このシェリングに影響を与えているのがヤーコプ・ベーメ。 ベーメは「神は無であり一切である」という。 神自身をも発現させる、神の最奥にまで遡源すると、 そこでは、いかなるものでもないことによって、一切を生成させる 「無即有」、「有即無」の根源的事態につきあたる。
0661考える名無しさん垢版 | 大砲2017/09/12(火) 02:13:49.650 “神性の本質は無底の深みのありとあらゆるところにあって、輪(ein Rad)か眼のようである。 始まりがいつも終わりをもっているからである。 しかも無底には場所は全く見いだされない。 無底はそれ自身があらゆる存在者の場所であり、あらゆる物の充満であるが、 それにもかかわらず無底は何ものにも?まえられたり見られたりしないからである。 無底はそれ自身においてひとつの眼である。 預言者エゼキエルは、第一章で、彼の意志の霊を神のなかへ導き入れることによって、 そのようなもの[無底]をひとつの形体のうちに見た。” ― ヤーコプ・ベーメ『無底と根底』「六つの神智学的要点」19(1991) “第三十年の四月五日のことである。 わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、 そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。 (略) わたしが生き物を見ていると、四つの顔を持つ生き物の傍らの地に一つの車輪が見えた。 それらの車輪の有様と構造は、緑柱石のように輝いていて、四つとも同じような姿をしていた。 その有様と構造は車輪の中にもう一つの車輪があるかのようであった。 それらが移動するとき、四つの方向のどちらにも進むことができ、移動するとき向きを変えることはなかった。” ― 旧約「エゼキエル書」1:1-17 エゼキエルの車輪 http://www.ritmanlibrary.com/wp-content/uploads/2013/08/Aurora-Morgenrote-in-Aufgang.jpg その他ベーメのヴィジョン http://www.esoteric.msu.edu/jpg/Frontispiece.jpeg http://livedoor.blogimg.jp/fairypot2/imgs/0/6/0674579d.jpg http://werke.jacob-boehme.org/3-40-Fragen-von-der-Seele.jpg http://werke.jacob-boehme.org/4-Mysterium-Pansophicum.jpg