ポスト現代思想、ポスト・ポスト構造主義 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
21世紀に入ってから、形而上学の復権が見られるのは、哲学本流への復帰現象かな。 様々な“ポストモダニスト” https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%B3 <哲学・思想> ・デリダ、ラクー=ラバルト、ナンシー等を中心とする、脱構築を主とするデリディアン。 ・ランシエール、バディウ、バリバール等を中心とする、アルチュセールに強く影響を受けたアルチュセリアン。 ・フーコー、アガンベン、バトラー等の、生政治の歴史的展開の研究や、クィア理論、ジェンダーから現代批判を行なうフカルディアン。 ・ドゥルーズ、ガタリ、ネグリ等の近代的社会=経済システムに最も強い批判を投げかけるドゥルージアン。 ・他にロラン・バルトやバフチンらを経由しているクリステヴァ、 ラカンの影響下にあるジジェク、ネオプラグマティズムのローティ、メディアに対する鋭い批判をなげかけるボードリヤール等がいる。 <社会学> ・代表的には、「アクターネットワーク理論」のブルーノ・ラトゥール、「移動と場所の社会学」のジョン・アーリ、 「非表象論」のナイジェル・スリフト、そして、レジス・ドブレに始まるメディオロジーを挙げることができる。 この人々のなかで自らの概念として「ポストモダン」を引き受けたのはリオタールだけである。 フーコーやドゥルーズなどは、この言葉に強い嫌悪を表明した。 >>722 の (1)は物自体、否定神学、語りえぬもの、言挙げをしない的 (2)は仏教、リゾーム的 語るか、語らぬかという二元論ではなく、 離言真如はメタ言語だということ。 ドゥルーズ・デリダの哲学は多分にアジア・アフリカ的要素を含んでいたが、 それが西洋形而上学の中心へと回帰していった感はある。 その分、アジア・アフリカ的要素は、人類学が担っている。 デリダの後続のポストコロニアル系はあまり話題に上らなくなったが、 ドゥルーズの後続が、人類学の分野などで活躍して元気がいいという感じ。 >>748 ウィトゲンシュタイン自身は胡散臭いようなところもあるけれど その哲学的影響はまっとうなものだろう。そこらへんはハイデガー に通じるところがある。 >>754 こうした問題は、 『現代思想』2009年7月号「特集:人間/動物の分割線」でも読める。 デリダ「ドゥルーズにおける人間の超越論的「愚かさ」と動物への生成変化」 (西山雄二+千葉雅也 訳)ほか もっと言えば、ドゥルーズは生を扱った分、そのままアフリカ的であるし、 デリダはヒエログリフ(象形文字)なども扱ったが、後期の動物論などは獣論でもあり、 アニミズムのある世界とは違いがある。 アジア的といっても、 ユダヤやイスラムなど西アジアの文化と、 インド以東の東アジアの文化の違いなども読まれていくべきだろう。 “ジャック・デリダの「解体」哲学、ドルーズ=ガタリの「リゾーム」理論に代表される 現代ヨーロッパの前衛的思想フロントは、明らかにアンチコスモス的である。 コスモスへの反逆、「ロゴス中心主義」的存在秩序の解体。 西洋思想のこのアンチコスモス的動向が提起する存在論的、意識論的問題群にたいして、 東洋哲学はどのような対応を示すであろうか。” ― 井筒俊彦 「コスモスとアンチコスモス」 『ダーク・ドゥルーズ』 アンドリュー・カルプ (2016) ドゥルーズは喜びと肯定の哲学ではなく憎しみと破壊の哲学だ。 暗黒のドゥルーズを召喚して世界の破壊を共謀する最も危険な哲学の誕生。 ドゥルージアン4人による応答を併載。 千葉が力を入れているのは、言語論からの形態論というところ。 芸術論の新たな転回 02 千葉雅也 「洒落と仮固定の制作論 - 千葉雅也『勉強の哲学』をめぐって」 (Interview series by 池田剛介) http://realkyoto.jp/article/inteview-by-ikeda-kosuke02_1/ (2017年5月30日収録/9月20日公開) こういうのもあった。(再掲) “何をするかわからない他者たちと共存するために、それらの解釈の諦めを理論的に取り扱う、これが必要だと思います。 無解釈性を理論に含めている人文学、それを僕は、フランソワ・ラリュエルを背景として「非人文学」と呼んでいます。 解釈を努力する部分と、解釈をあきらめる部分が、両方ある。 諦めるといっても、すぐに暴力的なぶつかりあいになるのではなく、ただたんに隣にいることです。 つまり、ナマコとヤドカリのイメージです。空間的並置とはそういうことだと思います。 複数の秘密が隣り合って並んでいる状態です。少なくとも僕は、そういう状態について考えたいのです。 それも、意味を伝える言語だけではなく、非シニフィアン的でフォルム的な言語を駆使して考えたいのです。” ― 千葉雅也「ナマコとヤドカリ」『現代思想の転換2017: 知のエッジをめぐる五つの対話』(2017) 非シニフィアン(A-signifiant) “非シニフィアン的記号論。 これはシニフィアンの記号学とは区別されなければならない。 ここで問題となるのは要するにポスト・シニフィアン的記号論である。 非シニフィアンの記号論というのは、たとえば意味作用を生産する使命をおびていない 数学的記号の機械とか、科学的、音楽的、芸術的といったような類の技術−記号的複合体とか、 あるいはまた分析的な革命機械といったもののことであるといってよい。” その他、非記号論的コード化、発生論的コード化、意味形成の記号学、前シニフィアン的記号学 ― ドゥルーズ/ガタリ 『政治と精神分析』 (1994) 非シニフィアン的記号論の例に挙げられるのは ・音楽のエクリチュール ・数学のコーパス ・情報科学やロボット工学のシンタックス など (ガタリ 『闘走機械』 (1996)) シニフィアンの記号学 ・形式 ○ ・実質 ○ ・素材 × 非シニフィアン的記号論 ・形式 ○ ・実質 ○ ・素材 ○ 「分裂分析的哲学 ガタリは何を解放したか」(『現代思想』2013年6月号 特集=フェリックス・ガタリ) 江川隆男×千葉雅也 千葉は、非シニフィアン的記号論の、記号論という形式から離れたところで自由にやりたいのだろう。 ドゥルーズとガタリの両方をやらないと、ドゥルーズ=ガタリの理解は深まらない フェリックス・ガタリ 『人はなぜ記号に従属するのか』 杉村昌昭訳 (2014) 訳者あとがき 「ガタリはドゥルーズ/ガタリの一部だったのではなくて、ドゥルーズ/ガタリがガタリの一部だった」 ポスト構造主義は無節操なだけである、たとえ普遍法則たり得なくとも何らかの規定根拠を前提しなければ 思考はそこから一歩も前へと進まない 『シェリングと思弁的転回 --グラントのシェリング主義について--』 浅沼光樹 (25-Mar-2017) https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/219104 > 《思弁的転回》は思惟や言語の相関項にとどまらない実在、要するに《実在そのもの》を志向するものでなければならない。 >>589 、>>733-734 最新の西田像を読む2冊 (1)小泉義之×檜垣立哉 「西田から「哲学」を再開するために」 『西田幾多郎 KAWADE道の手帖』 (2005) (2)檜垣立哉 『西田幾多郎の生命哲学:ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』 (2005) 最もモダンな読みをしているのは檜垣と小泉。 二人は西田の数理哲学的側面を軸にして、ベルグソンやドゥルーズに通じる生の哲学として紹介している。 檜垣は、高校時代の数学の教師が西田の孫だったという。 1も2も西田の主要な論稿を通じて、鍵概念と思想の変遷を追う内容。 1には、京都学派の理系を代表する下村寅太郎の「西田哲学における弁証法的世界の数学的構造」を収録。 「宇宙における人間の存在」 ローマ法王、ISS飛行士と哲学問答 http://www.afpbb.com/articles/-/3148294?cx_part=latest& ;cx_position=1 【10月27日 AFP】ローマ・カトリック教会のフランシスコ(Francis)法王が26日、 国際宇宙ステーション(ISS)に滞在中の宇宙飛行士6人と映像中継で交信し、「宇宙における人間の存在」など哲学的な問答を行った。 アルゼンチン出身のフランシスコ法王はバチカンの机の前に座り、大きなテレビの画面を通じて青い制服姿の宇宙飛行士らと対面。 「こんにちは……いや、こんばんは、かな。宇宙ステーションでは時間の流れが違うと思うが、合っているだろうか?」と冗談を飛ばした。 「天文学は、われわれに宇宙の無限の境界について考えさせ、『われわれはどこから来て、どこへ行くのか?』といった疑問を抱かせる」と法王が口にすると、 30秒のタイムラグ(時間のずれ)を挟んで米国人3人、ロシア人2人、イタリア人1人の宇宙飛行士らが人生最大の問題について考えをめぐらせる様子が画面に映った。 イタリアのパオロ・ネスポリ(Paolo Nespoli)飛行士は、「われわれがここにいる目的は知識を広めるためだ。 (しかし)学べば学ぶほど、無知を自覚させられる」と回答。 さらに「あなたや神学者、哲学者、詩人、作家のような人々にこそ、宇宙に来て、宇宙における人間の存在意義を探求していただきたい」と語ると、法王はうなずいて笑顔を見せた。 一方、ISS船長を務める米国のランディ・ブレスニク(Randy Bresnik)飛行士は、大気圏の薄さを目の当たりにして、地球に生きる命のはかなさを実感すると答えた。 法王は重ねて、宇宙を動かす愛の力についてどう思うか、ISS滞在中の喜びの源泉は何か、無重力下での生活で世界の見方がどう変わったかなどについて質問。 ブレスニク飛行士は「毎日外を見て、神の創造物を少しばかり神の目線から見ることが一番の喜びだ」と答え、 戦争や飢餓、環境汚染、人間の愚行などから遠く離れた「ここから見るほうが、人類の未来は良く見える」と述べた。(c)AFP/Ella IDE >>776 今の我々が愚行とみなしている事は、これからも永遠に 愚行とみなされるのですか? >>779 “この世界は、まったくの偶然で、別様の世界に変化しうる。” ― 『有限性の後で』帯 『ゲンロン6 ロシア現代思想T』 (2017/9/22) “ロシアとはなにか、ヨーロッパとはなにか、 そして近代の外部が(そこにはむろん日本も含まれる) 近代を欲望するときなにが起こるのか” 日本の近代〜現代〜ポスト・ポストモダニズムと重ねて見るロシア。 「ロシアにおけるドゥルーズ、デリダ」など。 ロシア学の新しい形。 『現代思想』 ロシア革命100年 (2017年10月号) 『情況』 ロシア革命100年 (2017年10月号) 『思想』 宗教改革500年―社会史の視点から (2017年10月号) ポスト・ポスト構造主義の話をしようよ 絶滅の思想なんか馬鹿じゃないかとか マルクス・ガブリエルは幼稚過ぎて恥ずかしくなるとか 今更あんな中味のない議論して頭おかしいんじゃないのかとか デリダやドゥルーズから何歩後退してんだお前らはとか ポスト構造主義を根なし草だから実在論に回帰するとか 何周遅れの恥ずかしい議論なんだ、真面目にそんなこと言ってて正気なのかとか もっと内容のある話をしようよ そもそもデリダやドゥルーズが哲学として論じるに値することを言っているのか というところから疑わないとね >>785 ポスト構造主義は物自体の存在を否定しているのではなくて物自体は認識できないという前提で話をしているのに ソーカルが知識が社会的に構築されたものというのなら高いビルから飛び降りて科学の知見が幻想だと証明してみろという趣旨の発言をしたり メイヤスーが祖先以前の世界は人間の認識以前の世界だという趣旨の主張をしたり 何よりそれらがポスト構造主義への反論として認識されているという点が不思議でしかたない まあポスト構造主義が調和は幻想だと言ったはいいがでは無秩序な状態で人は生きていけるのかという問いに明確な答えを与えなかったのは確かで そこはあえてエポケーの状態にとどめおいてそのうえで秩序を調和をもたらす方法を目指すにはやはり現象学を発展させていくしかないのか >>786 思考の硬直化を防止する上では重要だと思うよ デリダやドゥルーズが有効か有効じゃないかとの議論はまだ意味があるが それに対抗して実在論とかは全く意味のない下らない議論だからな 認識とは人間の視点による相対的なものだ →人類が生まれる前や人類が滅んだ後はどうなんだ? 反論に全くなっていない 一事が万事 意味のないタワゴトでしかないポスト・ポスト構造主義 新しい実在論や唯物論と言ったって、要するに根なし草のポストモダン思想に対して それらは実在を認めない観念論に過ぎない、こちらは実在に根差し相対主義じゃないと言いたいだけ 頭悪すぎ 真理を遠ざける観念論や相対主義に対抗して実在論やあるいは現象学で絶対的な地盤を作るとか 馬鹿も休み休み言え、死んでくれ ソフィストの相対主義、機会主義、個のわがままと プラトンのイデア論、絶対主義、真理による全体主義の抑圧の対立の 何十度目かの変奏、焼直しに過ぎないんだよね 個の視点、わがままのプロタゴラス、ゴルギアスらソフィストの自分の利益立場ありきの 都合の良い弁論、主張が正しいわけもなく プラトンの経験を越えた人間を離れた絶対的真理が正しいわけもなく ソクラテスに戻るしかないわけで それぞれの視点都合利益による正しさ、局所的真理を突き崩して 個の立場を離れた正しさ、もっとましな真理を追及するしかないわけで それぞれの立場による正しさを乗り越えた大域的な非局所的な真理はあるわけで ソフィストの相対主義の知に対する無知の知はプラトン的な絶対的な知でもなく 相対的な物を越えた個を越えたましな知だが絶対的な知でもない 全体主義に対して踏みとどまるものだ >>791 ポエムに失礼だぞ ポエムは人に感銘を与えるものだ トロッコ問題などで有名なフィリッパ・フットは絶対的倫理を批判して共同体毎の倫理、徳倫理学を擁護する。 人食い人種のところにとって宣教師が一生懸命宣教する。そして、人食い人種は良いという言葉を覚えるが使い方がちょっと違う。 人の首を狩れる優秀な戦士であることを良いと使う。 良いということは相対的なものだ。 それに対してマイケル.・スミスは人食い人種のそれは同じ言葉を使っても良いではないという。 でも、ちょっと考えれ見れば、今、人食い人種を否定する現代人は後の時代には肉を食っていた、生物を殺して食っていたと批判されるのはわかりきったこと。 ソフィストに立つか。プラトンの絶対的イデアに立つか。 ポストモダンか新しい実在論や新しい唯物論に立つか。 どちらもばかげているのは当たり前で、善は一つではない、その時代、その時代でそれぞれできること頑張れることがある。 ある時代までは滅私奉公でよかったことが次の時代にはパワハラやモラハラになる。 だからといって倫理はばらばらではない。まったく恣意的なものでもない。少しづつ訂正しながら前の時代を受けて発展していく。 個のわがまま、恣意性ではない少しずつの進歩、全体で目指すべき方向はある。 その事実を認めないのは愚かだ。ばかげている。 絶対的な真理はないが目指すべき方向はある。 ポスト・ポスト構造主義とか、新しい実在論はゴミである。 このレスにむかついている奴はゴミの中のゴミだ。 >>793 > 絶対的な真理はないが目指すべき方向はある。 目指すべき方向とは? 死体拾いのスーパー。新旧集まって。のほうが。青空市を超えるかもなあ。 青ノ空市。 人食い 動種に食われたいか?垢やら髪やら爪だけでいいよな。 >>793 目指すべき方向と言ってしまう時点で目的論に陥っている 同じ穴のムジナだよ 硬直化していく思考に対して意味の拡散を指摘して思考を開いていこうとしたけれど拡散しすぎて迷走した(ように見えた) この拡散を止めようとして「確かなもの」を見出そうとしている一派と拡散をコントロールしようという一派のどちらになろうとするか もしくはそれ以外の道を模索するか >>789 、>>793 新しい実在論や唯物論から学ぶべきは、 そういう、感情と衝動に支配された盲目的な相対主義からの脱却なのであって ポスト・ポスト構造主義はどう考えても発想がおかしい馬鹿げた思想だから 批判にもまともに反論できない ただ何となくファッションだからファンがついて意味のないおしゃべりしてスレを伸ばしているだけ こんな下らない思想を擁護できる奴なんなの? 何か良いことあるの? 自分でも変だと思わない? >>801 >>802 具体的にどこがおかしいのかを書いてね ラカン 「無意識は言語のように構造化されている」 (Lacan, "L'etourdit", Autres ecrits, Seuil, 2001) ここで使われている「言語」とはラング(言語)ではなくランガージュ(言語活動)。 (L'inconscient est structure comme un langage) ガタリ 「無意識は言語のように構造化されていない」 (ガタリ 『人はなぜ記号に従属するのか』 (2014)) ガタリは無意識のあり方について、 ラカンがいう「"ひとつの"言語のように構造化されている」のではなく、 「"多様な"記号化の様式として構造化されている」と説明した。 ランガージュとは、言語をはじめとする記号をつくり使用する様々な能力、 及び、それによって実現される活動を指し、 人類を他の動物から弁別するものであるとされる。 この能力、活動には、発声、調音などの言語的なものの他、 抽象やカテゴリー化といった論理的なものも含まれる。 記号の規則、文法や語彙が制度化されたものをラングという。 井筒は、唯識の「アラヤ識」を「言語アラヤ識」と言い直していたが、 ラカンに近いのかもしれない。 デリダの「散種」もこの域。 “絶対無分節者の存在エネルギーは、言語アラヤ識(「文化的無意識」)の次元で 第一次的に分節されていろいろな意味分節体となり、 その中のあるものは「元型」として強力に自己を主張する。 そして「元型」は次の段階で形象化して「元型」イマージュとなる。” ― 井筒俊彦 「意識と本質」10 “ラカン派の精神分析家を東京に招いて開かれたシンポジウムの席上、 ラカンは東洋の羅漢に通じますと、笑みをたたえていっておられた 井筒さんの童顔が忘れられないのである。” ― 山折哲雄 (http://www.keio-up.co.jp/kup/izutsu/cw.html ) >>808 それから、アルファベットの様な表音文字文化と、漢字の様な表意文字文化の差を考えると、 人類(文化)と動物(自然)を分けいては足らない。 中沢は、文化と自然の二分法の克服するため、 ドゥルーズらのポスト構造主義的記号論を迂回し、 レヴィ=ストロースやラカンらの構造主義的記号過程を 直接発展させた「新構造主義」という言い方もしている。 (中沢新一/石倉敏明 「野生の科学、あるいは新構造主義の時代」 『現代思想』 2014年1月号) 千葉も、非シニフィアン的記号論の形式から離れたところを目指している。>>767 >>808 ゲシュタルトを生成する能力と言っていいのかな。 これには生物的な基盤があるでしょ。 非シニフィアン的記号論というのがよくわからない 例えば数学は単語レベルだと非シニフィアン的かもしれないが物語レベルだとシニフィアンになる ソーカル事件はまさに数学をシニフィアンとしたという指摘だったわけでしょう 何らかの吠え声や鳴き声うなり声が、言語として獲得された、 シンボリックなものになったということに関係がありそう。 言語自体が、より根源的な生物的なゲシュタルト知覚から由来してるから。 身分けの構造もうそうだし、動物でも霊長類には一定の抽象化能力がある。 >>763 より 千葉: 『動きすぎてはいけない』第二章の、連合説(アソシエーション)の問題を 解離(ディソシエーション)として読み換えるという部分だね。まさにそうです。 言葉は、ブロック遊びみたいに、パーツを交換したり、順序を変えたりできるわけです。 例えば、「昨日トンカツ食べた」という文は、パーツを交換して「今日トンカツ食べた」に変えられる。 あるいは、極端に音レベルでバラバラにして、「ノキウツカントベタタ」と言うならば、 それは組み替えではあっても、もはや音楽みたいになってしまっている。 それはリズムの形態ですよ。ノキウツカントベタタ、ノキウツカントベタタ、ノキウツカントベタタ…(笑) 「昨日トンカツ食べた」から「今日トンカツ食べた」への変化であれば意味的ですよね。 「ノクツカントベタタ」はいかにもナンセンスです。 しかし僕は、「ノキウツカントベタタ」と「今日トンカツ食べた」 という二つの組み替えは同レベルだと思っている。それはスペクトル的に繋がっている。 つまり、シーケンサーの上で音符のブロックをどんどんグチャグチャにすることで、 元々は普通に聞こえるはずだったものをノイズミュージック あるいは無調音楽のように書き換えてしまうのと同じように、 我々の言語の並び替え可能性は無調音楽の世界へ繋がっているわけです。 “When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth.” (ありえないものをすべて消去したのなら、残ったものがどんなにありそうにないものだとしても、それが真実である。) ― シャーロック・ホームズ (『四つの署名』6章) × 論理的、倫理的、政治的正しさ、正義/悪、センスいい/ゴミ、あれがいい/これがいい ○ 意味を盛らない、解釈しない、評価しない、比較しない × 美しい・エレンガントな数学 ○ ビッグデータ、乱数 × メロディ ○ 無調音楽 “非シニフィアン的言語活動においては、何を使ってもよいのである。 つまり、この言語活動においては、いかなる音声の流れも、文字の流れも、 身振りの流れも、特権をもたない。この言語活動は、無定形の連続体をなるものである” ― ドゥルーズ=ガタリ 『アンチ・オイディプス』 3、市倉訳 (1986) シルヴァーノ・ブソッティ『デヴィッド・チューダーのための五つのピアノ作品』譜面 (ドゥルーズ=ガタリ 『千のプラトー』 序 より) http://polology.com/wp-content/uploads/2017/04/Rhizome.jpg Sylvano Bussotti - Five Piano Pieces for David Tudor No.3 https://www.youtube.com/watch?v=PoNxYI8JrOo これらは、自然や人間性を超越する。 仏教はその中でやる。 無調音楽は今に始まったものではないが、 ジョン・ケージの「チャンス・オペレーション(偶然性の音楽)」は易経や禅の影響を受けていた。 十二音階技法を完成させたシェーンベルクは、「今後百年間ドイツ音楽の優位性を保証するようなものを発見した」言った。 カント的なものを乗り越えるメイヤスーというのも、そういうレベルの話だろう。 「哲学は音楽と兄弟のような関係にある」アドルノ(『否定弁証法(1966)』邦訳p.135) ホ メ ー ロ ス | ☆ブルックナー | | プラトン バッハ |(聖書) | パスカル | シェークスピア | ライプニッツ モーツァルト | |<ヴォルフ> _|_ゲーテ | スピノザ (ドンジョバンニ)| |☆カフカ |☆キルケゴール |_|_イプセン __|_カント ベートーベン__|_|________| | 前期 | | |__|_ヘーゲル 後期 |_|*ゴッホ | シューベルト |_|☆ゲーテ | ヘルダー ☆ブラームス |_|_ヘルダーリン |☆ハイデッガー ワーグナー | ボードレール | ショーペンハウアー マーラー | プルースト ☆ハイネ| フロイト、ニーチェ |☆ポー、☆ボードレール| ドビュッシー | マラルメ | ベルグソン ラヴェル | マラルメ | ストラビンスキー | ドストエフスキー | ユング、ニーチェ シェーンベルク | カフカ | フロイト、マルクス ベルク | ボードレール | フロイト ヴァーレーズ | | A・フロイト シュトックハウゼン | ジョイス | ケージ |*<デュシャン> | フッサール ウェーベルン | カフカ、クレー | フロイト、ベンヤミン アイスラー |(勝負の終わり) | アドルノ シューマン? | カフカ、ベケット |<ドゥルーズ> *は美術関連。( )内は作品名。☆は大幅に時代が違うので要注意。< >内はアドルノによる直接言及なし。 上の「アドルノ理論における音楽・文学・哲学のアレゴリカルな対応表」は、 下記の指摘を引き継いで試作したもの 《浅田 ただ、ベートーヴェンといい、シェーンベルクやベルクといっても、文学に対応物 を求めることはできるでしょう。第一のピークである後期ベートーヴェンは、アドルノに とってヘルダーリンとほぼパラレルなんですね。べートーヴェンの中期までの作品は、闘 争を通じての偉大な勝利という正反合の肯定弁証法の図式に則っていて、それがブルジョ ワ革命と対応する。しかし、後期の作品になると、そのような弁証法が宙吊りにされ、シ ンボリックな統一が破綻して、アレゴリカルな断片の散乱したような状態になっていくわ けで、それはナポレオンの敗北以後の状況と対応している。それは、しかし、後期ベート ーヴェンを通じてでなくとも、ヘルダーリンを通じて捉えられるわけでしょう。そして、 ある意味でそれに対応するもうひとつのピークがシェーンベルクとそれ以後ということに なるわけだけれども、それは文学で言うとカフカなりベケットなりで代表されるんでしょ うからね。》 (浅田彰「アドルノのアクチュアリティ」「批評空間」1997.1より) メイヤスーの「祖先以前性」も、ブラシエの「絶滅論」も、黙示文学(アポカリプス)の一種。 天地創造からノアの大洪水、インデペンデンス・デイまで。 世界の始まりに何があり、終わりに何が残るのか、 創造と破壊、再生、維持のシミュレーション。 特に、被造物を無に帰すという観想は、一神教によく見られる。 例えば、存在を抹消して痕跡を浮かび上がらせるデリダのビジョンは、 中世イスラムのジュナイドによる「ファナー(消滅)/バカー(持続)」と比較された。 (井筒俊彦×ヘルマン・ランドルト 「スーフィズムとミスティシズム 」 (1984)) >>834 「ジュナイドの「原初の契約」におけるファナーとバカー」 澤井 真(オリエントVol.53 (2010) No.2 p.115-132 ) http://ci.nii.ac.jp/naid/130003396318 > 消滅を意味する「ファナー」の語と存続を意味する「バカー」の語は、 > クルアーンの中で対比的な関係として登場する。 > これらの語は, > 「地上のあらゆるものは消滅する(fānin),しかし,変わらない(yabqā )のは汝の主の顔,偉大で尊厳の所有者である」(Q55:26-27) > という節に由来する ベーメの場合。 “あなたがあらゆる被造物から脱却して、 あらゆる自然と被造物に関して無となるならば、わかるようになるだろう。 そうなれば、あなたは、神そのものである永遠の一者の中にあり、愛の最高の徳を甘受するのである。” ― ヤーコプ・ベーメ 『キリストへの道』 5:27 レヴィナスもこの種のレトリックを使うし、 そうした西洋哲学を引き受ける波多野>>486 の説明においても見られる。 “無限性は要するに一切を無に帰せしめる絶対的実在の威力の別名である。” >>833-837 こういうのは、一神教的考えに慣れないと、 生きた心地がしない。 どういうことか… 一神教世界(非対称性、外在的超越) ・神は被造物世界の何ものとも異なる ・被造物世界をつくる神は、世界の外部にある ・人≠世界≠神 アニミズム、仏教世界(対称性、内在的超越) ・万物に精神(精霊・仏)が宿る ・主神は複数ある神の中から代表として選ばれる(拝一神教) ・首長は共同体の構成員の中から代表として選ばれる ・人=世界=神(カミ) >>840 「対称性・非対称性」とは、ラトゥールや中沢の見方。 “フランスの社会学者ブリュノ・ラトゥールの著作『私たちはまだモダンではない』を知ったときに、 一気に明確な形をとりはじめた。その本の副題には「対称性人類学の試み」とあった。 この言葉を見て、私は自分の求めていたものの「名前」を知ったのである。” ― 中沢新一 『対称性人類学:カイエソバージュX』 (2004) (1)Bruno Latour "Nous n'avons jamais ete modernes. Essai d'anthropologie symetrique" (1991) (英訳1993) (2)ブルーノ・ラトゥール 『虚構の「近代」:科学人類学は警告する』 (邦訳2008) 「対称性」という語の由来は、2の訳者解題で説明されている。 ラトゥールは、ポストポスト構造主義のきっかけを作った最重要人物の一人。 千葉の説明でも、日本は思弁的実在論の導入に遅れを取ったという話があったが、 ポスト構造主義からポストポストへの変化については、中沢が早い時期から反応していた。 最近のものでは、清水による解説が分かりやすい。 『ミシェル・セール: 普遍学からアクター・ネットワークまで』 清水高志 (2013) セールの「準-客体論」 → ラトゥールの「アクター・ネットワーク」 → デスコーラ、メイヤスー、ハーマンまで。 この流れの理解は必須。 >>789 、>>793 氏には、特に、身近に感じてもらえるのではないだろうか。 “相対主義者はすべての文化を対等に扱おうとした。 ただ、共同体どうしが相手を支配しようとする試みについては注意を向けなかった。” ― ブルーノ・ラトゥール 『虚構の「近代」:科学人類学は警告する』4 (2008) 少し難しくなるが、次の井上の論文では、 >>840 に加えて、「西洋的二元論」と「東洋的一元論」という見立てもしている。 整理するとこうなる。 [西洋] 一神教世界(非対称性、外在的超越、西洋的二元論) … 言語>>808 、 芸術>>823-825 、 宗教>>833-837 [東洋] アニミズム、仏教世界(対称性、内在的超越、東洋的一元論 )… 言語>>812-813 、 芸術>>827 、 宗教>>841 『明治期アカデミー哲学の系譜とハイデガーにおける形而上学の問題 ―如来蔵思想とユダヤ・ヘブライ的思惟との収斂点―』 井上克人 (2009) I 明治期アカデミー哲学の形成―「現象即実在論」 井上哲次郎や井上円了らに代表される明治期アカデミー哲学の特質が「現象即実在論」 にあることは夙に知られている。現象の奥に真の「実在」、すなわち形而上学的絶対者を認 め、しかも「実在」は現象の背後にあるのではなく、その只中に内在するという考えであ る。これは大乗仏教思想の根幹をなす「本体的一元論」、すなわち外に超越者を想定しない 思考様式である。じつは、この発想の淵源は、『大乗起信論』のいわゆる「万法是真如真如 是万法」という定式にある。東京大学で初めて開設され、原坦山が担当した「仏書講義」 のテキストに選ばれたのが、この『起信論』であった。彼らはその本体的一元論に啓発さ れ、西洋に対抗して日本独自の「哲学」を提唱しようと企図したのである。 ところで西洋における思考様式は、神と人間、近世以降では認識主観と客観的世界とい った二項対立的な二元論をその特質としてもつ。それに対し、本体的一元論に立つ『起信 論』は、自体清浄なる「心真如」が自らの清浄心を失うことなく心生滅へと転成していく 「真如随縁」の発想をもつ。妄念にまみれた現象的世界は、一方では「真如」の本然性か らの逸脱でありながら、同時にそれは「真如」そのものの自己展開に他ならず、真如と妄 念とは「非一非異」の関係にあって、「現象」がそのまま「真実在」なのである。 敷衍して言えば、「真如」は、それ自身我々の思惟や言説を絶する〈空・無〉、すなわち 絶対的覆蔵態に他ならないのだが、同時にそれは個々の存在者をあるがままに顕現せしめ る〈開け〉であって、現象せる個々の存在者の形而上的本体として、それらの根底に伏在 し、あらゆるものを自らの内に摂収しつつ、同時にそれらを本然的にあるがままに開放す るのである。換言すれば、現象せる個々の存在者は、どこまでも自らを顕現せしめた真如 のうちに在り、逆に、個々のものの存在原因たる真如は、どこまでもそれらの本体として 超越的に自己自身のうちに蔵身しつつ、同時に自ら顕現せしめたすべてのものの中に内在 するのである。これこそ東洋的思惟に共通して見られる〈本体的一元論〉である。つまり 言詮を絶する覆蔵的・超越的に一なる原理がその超越性をどこまでも維持しながら、自己 内発的に自己展開し、万物の中に自らを内在化させていく論理、一なる本体とそれが起動 展開する派生態、つまり「体と用」(本体とその作用)の論理であり、「内在と超越」の論 理であった。したがって、超越といっても、「外」に超越したものではなく、「内在的超越」 という構造をもち、これこそ西洋的二元論の思考様式とは異なる「東洋的一元論」なので あって、いわゆる京都学派の哲学も、この系譜を引くものなのである。 II ハイデガーにおける「神学の由来」と西田哲学に伏在する如来蔵思想 さて、以上のような形而上学的一元論の発想は、新プラトン主義の流出論ときわめて類 似した考えであって、それはヘレニズム化したキリスト教、すなわち東方正教会の淵源と なったものである。それにひきかえ、ラテン的西方教会は、むしろユダヤ・ヘブライ的二 元論の伝統に立脚し、神はどこまでも「隠れたる神」であって、契約で結ばれた神と人間 との間には深い断絶がある。他方、東方正教会の基本的特質は神の顕現(現前性)の強調 と「人間の神化(テオーシス)」にあり、神と人間とは一つに結びついていて、 これは「一切衆生、悉有仏性」を標榜する大乗仏教と通底している。 ところでハイデガーは、自らの「神学的由来」である「新約的」キリスト教の立場から、 同じ西方でありながら新プラトン主義化したアウグスティヌスのキリスト教を論難し、延 いては西洋の形而上学全体にわたってそれを「存在忘却」に基づく「存在−神−論」とみ なし、その超克を企図したが、彼のいう「存在−神−論的体制」は、東方正教会にこそそ の最たるものがあるのであって、ハイデガー自身、存在を問うという極めてギリシア・ヘ レニズム的な思考を展開させながら、存在そのものがもつ覆蔵性に基づき形而上学を超克 しようとする彼の思索の淵源には、ザラデルが指摘しているように、彼自身それに気付く ことのなかったユダヤ・ヘブライ的発想が根深くあったように思われる。それは現前性の 底に顕現せざる超越的他者を想定するという、非ギリシア的発想なのである。 一方、『起信論』が説く本覚思想を「現象即実在論」として哲学的に開陳したアカデミー 哲学の本体的一元論の「形而上学」の系譜を引きながら、それを乗り越えるかたちで、同 じくその如来蔵思想に見る「真如」のいわば覆蔵性がもつ〈超越的他者性〉を「逆対応」 という発想によって論理化しようとした点に西田哲学の優れた特質がある。 西田とハイデガーとは、ともに「顕現せざるもの」への着眼によって形而上学を超克する ところに共通点があるといえよう。 http://heideggerforum.main.jp/data08/inoue_r.pdf ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる