ポスト現代思想、ポスト・ポスト構造主義 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>789、>>793
新しい実在論や唯物論から学ぶべきは、
そういう、感情と衝動に支配された盲目的な相対主義からの脱却なのであって ポスト・ポスト構造主義はどう考えても発想がおかしい馬鹿げた思想だから
批判にもまともに反論できない
ただ何となくファッションだからファンがついて意味のないおしゃべりしてスレを伸ばしているだけ こんな下らない思想を擁護できる奴なんなの?
何か良いことあるの?
自分でも変だと思わない? >>801
>>802
具体的にどこがおかしいのかを書いてね ラカン 「無意識は言語のように構造化されている」 (Lacan, "L'etourdit", Autres ecrits, Seuil, 2001)
ここで使われている「言語」とはラング(言語)ではなくランガージュ(言語活動)。
(L'inconscient est structure comme un langage) ガタリ 「無意識は言語のように構造化されていない」 (ガタリ 『人はなぜ記号に従属するのか』 (2014))
ガタリは無意識のあり方について、
ラカンがいう「"ひとつの"言語のように構造化されている」のではなく、
「"多様な"記号化の様式として構造化されている」と説明した。 ランガージュとは、言語をはじめとする記号をつくり使用する様々な能力、
及び、それによって実現される活動を指し、
人類を他の動物から弁別するものであるとされる。
この能力、活動には、発声、調音などの言語的なものの他、
抽象やカテゴリー化といった論理的なものも含まれる。
記号の規則、文法や語彙が制度化されたものをラングという。 井筒は、唯識の「アラヤ識」を「言語アラヤ識」と言い直していたが、
ラカンに近いのかもしれない。
デリダの「散種」もこの域。 “絶対無分節者の存在エネルギーは、言語アラヤ識(「文化的無意識」)の次元で
第一次的に分節されていろいろな意味分節体となり、
その中のあるものは「元型」として強力に自己を主張する。
そして「元型」は次の段階で形象化して「元型」イマージュとなる。”
― 井筒俊彦 「意識と本質」10 “ラカン派の精神分析家を東京に招いて開かれたシンポジウムの席上、
ラカンは東洋の羅漢に通じますと、笑みをたたえていっておられた
井筒さんの童顔が忘れられないのである。”
― 山折哲雄 (http://www.keio-up.co.jp/kup/izutsu/cw.html) >>808
それから、アルファベットの様な表音文字文化と、漢字の様な表意文字文化の差を考えると、
人類(文化)と動物(自然)を分けいては足らない。 中沢は、文化と自然の二分法の克服するため、
ドゥルーズらのポスト構造主義的記号論を迂回し、
レヴィ=ストロースやラカンらの構造主義的記号過程を
直接発展させた「新構造主義」という言い方もしている。
(中沢新一/石倉敏明 「野生の科学、あるいは新構造主義の時代」 『現代思想』 2014年1月号) 千葉も、非シニフィアン的記号論の形式から離れたところを目指している。>>767 >>808
ゲシュタルトを生成する能力と言っていいのかな。
これには生物的な基盤があるでしょ。 非シニフィアン的記号論というのがよくわからない
例えば数学は単語レベルだと非シニフィアン的かもしれないが物語レベルだとシニフィアンになる
ソーカル事件はまさに数学をシニフィアンとしたという指摘だったわけでしょう 何らかの吠え声や鳴き声うなり声が、言語として獲得された、
シンボリックなものになったということに関係がありそう。 言語自体が、より根源的な生物的なゲシュタルト知覚から由来してるから。
身分けの構造もうそうだし、動物でも霊長類には一定の抽象化能力がある。 >>763より
千葉:
『動きすぎてはいけない』第二章の、連合説(アソシエーション)の問題を
解離(ディソシエーション)として読み換えるという部分だね。まさにそうです。
言葉は、ブロック遊びみたいに、パーツを交換したり、順序を変えたりできるわけです。
例えば、「昨日トンカツ食べた」という文は、パーツを交換して「今日トンカツ食べた」に変えられる。
あるいは、極端に音レベルでバラバラにして、「ノキウツカントベタタ」と言うならば、
それは組み替えではあっても、もはや音楽みたいになってしまっている。
それはリズムの形態ですよ。ノキウツカントベタタ、ノキウツカントベタタ、ノキウツカントベタタ…(笑)
「昨日トンカツ食べた」から「今日トンカツ食べた」への変化であれば意味的ですよね。
「ノクツカントベタタ」はいかにもナンセンスです。
しかし僕は、「ノキウツカントベタタ」と「今日トンカツ食べた」
という二つの組み替えは同レベルだと思っている。それはスペクトル的に繋がっている。
つまり、シーケンサーの上で音符のブロックをどんどんグチャグチャにすることで、
元々は普通に聞こえるはずだったものをノイズミュージック
あるいは無調音楽のように書き換えてしまうのと同じように、
我々の言語の並び替え可能性は無調音楽の世界へ繋がっているわけです。 “When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth.”
(ありえないものをすべて消去したのなら、残ったものがどんなにありそうにないものだとしても、それが真実である。)
― シャーロック・ホームズ (『四つの署名』6章) × 論理的、倫理的、政治的正しさ、正義/悪、センスいい/ゴミ、あれがいい/これがいい
○ 意味を盛らない、解釈しない、評価しない、比較しない
× 美しい・エレンガントな数学
○ ビッグデータ、乱数
× メロディ
○ 無調音楽 “非シニフィアン的言語活動においては、何を使ってもよいのである。
つまり、この言語活動においては、いかなる音声の流れも、文字の流れも、
身振りの流れも、特権をもたない。この言語活動は、無定形の連続体をなるものである”
― ドゥルーズ=ガタリ 『アンチ・オイディプス』 3、市倉訳 (1986) シルヴァーノ・ブソッティ『デヴィッド・チューダーのための五つのピアノ作品』譜面
(ドゥルーズ=ガタリ 『千のプラトー』 序 より)
http://polology.com/wp-content/uploads/2017/04/Rhizome.jpg
Sylvano Bussotti - Five Piano Pieces for David Tudor No.3
https://www.youtube.com/watch?v=PoNxYI8JrOo これらは、自然や人間性を超越する。
仏教はその中でやる。 無調音楽は今に始まったものではないが、
ジョン・ケージの「チャンス・オペレーション(偶然性の音楽)」は易経や禅の影響を受けていた。
十二音階技法を完成させたシェーンベルクは、「今後百年間ドイツ音楽の優位性を保証するようなものを発見した」言った。
カント的なものを乗り越えるメイヤスーというのも、そういうレベルの話だろう。 「哲学は音楽と兄弟のような関係にある」アドルノ(『否定弁証法(1966)』邦訳p.135)
ホ メ ー ロ ス |
☆ブルックナー | | プラトン
バッハ |(聖書) | パスカル
| シェークスピア | ライプニッツ
モーツァルト | |<ヴォルフ>
_|_ゲーテ | スピノザ
(ドンジョバンニ)| |☆カフカ |☆キルケゴール
|_|_イプセン __|_カント
ベートーベン__|_|________| |
前期 | | |__|_ヘーゲル
後期 |_|*ゴッホ |
シューベルト |_|☆ゲーテ | ヘルダー
☆ブラームス |_|_ヘルダーリン |☆ハイデッガー
ワーグナー | ボードレール | ショーペンハウアー
マーラー | プルースト ☆ハイネ| フロイト、ニーチェ
|☆ポー、☆ボードレール|
ドビュッシー | マラルメ | ベルグソン
ラヴェル | マラルメ |
ストラビンスキー | ドストエフスキー | ユング、ニーチェ
シェーンベルク | カフカ | フロイト、マルクス
ベルク | ボードレール | フロイト
ヴァーレーズ | | A・フロイト
シュトックハウゼン | ジョイス |
ケージ |*<デュシャン> | フッサール
ウェーベルン | カフカ、クレー | フロイト、ベンヤミン
アイスラー |(勝負の終わり) | アドルノ
シューマン? | カフカ、ベケット |<ドゥルーズ>
*は美術関連。( )内は作品名。☆は大幅に時代が違うので要注意。< >内はアドルノによる直接言及なし。 上の「アドルノ理論における音楽・文学・哲学のアレゴリカルな対応表」は、
下記の指摘を引き継いで試作したもの
《浅田 ただ、ベートーヴェンといい、シェーンベルクやベルクといっても、文学に対応物
を求めることはできるでしょう。第一のピークである後期ベートーヴェンは、アドルノに
とってヘルダーリンとほぼパラレルなんですね。べートーヴェンの中期までの作品は、闘
争を通じての偉大な勝利という正反合の肯定弁証法の図式に則っていて、それがブルジョ
ワ革命と対応する。しかし、後期の作品になると、そのような弁証法が宙吊りにされ、シ
ンボリックな統一が破綻して、アレゴリカルな断片の散乱したような状態になっていくわ
けで、それはナポレオンの敗北以後の状況と対応している。それは、しかし、後期ベート
ーヴェンを通じてでなくとも、ヘルダーリンを通じて捉えられるわけでしょう。そして、
ある意味でそれに対応するもうひとつのピークがシェーンベルクとそれ以後ということに
なるわけだけれども、それは文学で言うとカフカなりベケットなりで代表されるんでしょ
うからね。》
(浅田彰「アドルノのアクチュアリティ」「批評空間」1997.1より) メイヤスーの「祖先以前性」も、ブラシエの「絶滅論」も、黙示文学(アポカリプス)の一種。
天地創造からノアの大洪水、インデペンデンス・デイまで。
世界の始まりに何があり、終わりに何が残るのか、
創造と破壊、再生、維持のシミュレーション。 特に、被造物を無に帰すという観想は、一神教によく見られる。
例えば、存在を抹消して痕跡を浮かび上がらせるデリダのビジョンは、
中世イスラムのジュナイドによる「ファナー(消滅)/バカー(持続)」と比較された。
(井筒俊彦×ヘルマン・ランドルト 「スーフィズムとミスティシズム 」 (1984)) >>834
「ジュナイドの「原初の契約」におけるファナーとバカー」
澤井 真(オリエントVol.53 (2010) No.2 p.115-132 )
http://ci.nii.ac.jp/naid/130003396318
> 消滅を意味する「ファナー」の語と存続を意味する「バカー」の語は、
> クルアーンの中で対比的な関係として登場する。
> これらの語は,
> 「地上のあらゆるものは消滅する(fānin),しかし,変わらない(yabqā )のは汝の主の顔,偉大で尊厳の所有者である」(Q55:26-27)
> という節に由来する ベーメの場合。
“あなたがあらゆる被造物から脱却して、
あらゆる自然と被造物に関して無となるならば、わかるようになるだろう。
そうなれば、あなたは、神そのものである永遠の一者の中にあり、愛の最高の徳を甘受するのである。”
― ヤーコプ・ベーメ 『キリストへの道』 5:27 レヴィナスもこの種のレトリックを使うし、
そうした西洋哲学を引き受ける波多野>>486の説明においても見られる。
“無限性は要するに一切を無に帰せしめる絶対的実在の威力の別名である。” >>833-837
こういうのは、一神教的考えに慣れないと、
生きた心地がしない。
どういうことか…
一神教世界(非対称性、外在的超越)
・神は被造物世界の何ものとも異なる
・被造物世界をつくる神は、世界の外部にある
・人≠世界≠神
アニミズム、仏教世界(対称性、内在的超越)
・万物に精神(精霊・仏)が宿る
・主神は複数ある神の中から代表として選ばれる(拝一神教)
・首長は共同体の構成員の中から代表として選ばれる
・人=世界=神(カミ) >>840
「対称性・非対称性」とは、ラトゥールや中沢の見方。 “フランスの社会学者ブリュノ・ラトゥールの著作『私たちはまだモダンではない』を知ったときに、
一気に明確な形をとりはじめた。その本の副題には「対称性人類学の試み」とあった。
この言葉を見て、私は自分の求めていたものの「名前」を知ったのである。”
― 中沢新一 『対称性人類学:カイエソバージュX』 (2004)
(1)Bruno Latour "Nous n'avons jamais ete modernes. Essai d'anthropologie symetrique" (1991) (英訳1993)
(2)ブルーノ・ラトゥール 『虚構の「近代」:科学人類学は警告する』 (邦訳2008)
「対称性」という語の由来は、2の訳者解題で説明されている。 ラトゥールは、ポストポスト構造主義のきっかけを作った最重要人物の一人。 千葉の説明でも、日本は思弁的実在論の導入に遅れを取ったという話があったが、
ポスト構造主義からポストポストへの変化については、中沢が早い時期から反応していた。 最近のものでは、清水による解説が分かりやすい。
『ミシェル・セール: 普遍学からアクター・ネットワークまで』 清水高志 (2013)
セールの「準-客体論」 → ラトゥールの「アクター・ネットワーク」 → デスコーラ、メイヤスー、ハーマンまで。
この流れの理解は必須。 >>789、>>793氏には、特に、身近に感じてもらえるのではないだろうか。
“相対主義者はすべての文化を対等に扱おうとした。
ただ、共同体どうしが相手を支配しようとする試みについては注意を向けなかった。”
― ブルーノ・ラトゥール 『虚構の「近代」:科学人類学は警告する』4 (2008) 少し難しくなるが、次の井上の論文では、
>>840に加えて、「西洋的二元論」と「東洋的一元論」という見立てもしている。
整理するとこうなる。
[西洋] 一神教世界(非対称性、外在的超越、西洋的二元論) … 言語>>808、 芸術>>823-825、 宗教>>833-837
[東洋] アニミズム、仏教世界(対称性、内在的超越、東洋的一元論 )… 言語>>812-813、 芸術>>827、 宗教>>841 『明治期アカデミー哲学の系譜とハイデガーにおける形而上学の問題
―如来蔵思想とユダヤ・ヘブライ的思惟との収斂点―』
井上克人 (2009)
I 明治期アカデミー哲学の形成―「現象即実在論」
井上哲次郎や井上円了らに代表される明治期アカデミー哲学の特質が「現象即実在論」
にあることは夙に知られている。現象の奥に真の「実在」、すなわち形而上学的絶対者を認
め、しかも「実在」は現象の背後にあるのではなく、その只中に内在するという考えであ
る。これは大乗仏教思想の根幹をなす「本体的一元論」、すなわち外に超越者を想定しない
思考様式である。じつは、この発想の淵源は、『大乗起信論』のいわゆる「万法是真如真如
是万法」という定式にある。東京大学で初めて開設され、原坦山が担当した「仏書講義」
のテキストに選ばれたのが、この『起信論』であった。彼らはその本体的一元論に啓発さ
れ、西洋に対抗して日本独自の「哲学」を提唱しようと企図したのである。
ところで西洋における思考様式は、神と人間、近世以降では認識主観と客観的世界とい
った二項対立的な二元論をその特質としてもつ。それに対し、本体的一元論に立つ『起信
論』は、自体清浄なる「心真如」が自らの清浄心を失うことなく心生滅へと転成していく
「真如随縁」の発想をもつ。妄念にまみれた現象的世界は、一方では「真如」の本然性か
らの逸脱でありながら、同時にそれは「真如」そのものの自己展開に他ならず、真如と妄
念とは「非一非異」の関係にあって、「現象」がそのまま「真実在」なのである。 敷衍して言えば、「真如」は、それ自身我々の思惟や言説を絶する〈空・無〉、すなわち
絶対的覆蔵態に他ならないのだが、同時にそれは個々の存在者をあるがままに顕現せしめ
る〈開け〉であって、現象せる個々の存在者の形而上的本体として、それらの根底に伏在
し、あらゆるものを自らの内に摂収しつつ、同時にそれらを本然的にあるがままに開放す
るのである。換言すれば、現象せる個々の存在者は、どこまでも自らを顕現せしめた真如
のうちに在り、逆に、個々のものの存在原因たる真如は、どこまでもそれらの本体として
超越的に自己自身のうちに蔵身しつつ、同時に自ら顕現せしめたすべてのものの中に内在
するのである。これこそ東洋的思惟に共通して見られる〈本体的一元論〉である。つまり
言詮を絶する覆蔵的・超越的に一なる原理がその超越性をどこまでも維持しながら、自己
内発的に自己展開し、万物の中に自らを内在化させていく論理、一なる本体とそれが起動
展開する派生態、つまり「体と用」(本体とその作用)の論理であり、「内在と超越」の論
理であった。したがって、超越といっても、「外」に超越したものではなく、「内在的超越」
という構造をもち、これこそ西洋的二元論の思考様式とは異なる「東洋的一元論」なので
あって、いわゆる京都学派の哲学も、この系譜を引くものなのである。 II ハイデガーにおける「神学の由来」と西田哲学に伏在する如来蔵思想
さて、以上のような形而上学的一元論の発想は、新プラトン主義の流出論ときわめて類
似した考えであって、それはヘレニズム化したキリスト教、すなわち東方正教会の淵源と
なったものである。それにひきかえ、ラテン的西方教会は、むしろユダヤ・ヘブライ的二
元論の伝統に立脚し、神はどこまでも「隠れたる神」であって、契約で結ばれた神と人間
との間には深い断絶がある。他方、東方正教会の基本的特質は神の顕現(現前性)の強調
と「人間の神化(テオーシス)」にあり、神と人間とは一つに結びついていて、
これは「一切衆生、悉有仏性」を標榜する大乗仏教と通底している。
ところでハイデガーは、自らの「神学的由来」である「新約的」キリスト教の立場から、
同じ西方でありながら新プラトン主義化したアウグスティヌスのキリスト教を論難し、延
いては西洋の形而上学全体にわたってそれを「存在忘却」に基づく「存在−神−論」とみ
なし、その超克を企図したが、彼のいう「存在−神−論的体制」は、東方正教会にこそそ
の最たるものがあるのであって、ハイデガー自身、存在を問うという極めてギリシア・ヘ
レニズム的な思考を展開させながら、存在そのものがもつ覆蔵性に基づき形而上学を超克
しようとする彼の思索の淵源には、ザラデルが指摘しているように、彼自身それに気付く
ことのなかったユダヤ・ヘブライ的発想が根深くあったように思われる。それは現前性の
底に顕現せざる超越的他者を想定するという、非ギリシア的発想なのである。
一方、『起信論』が説く本覚思想を「現象即実在論」として哲学的に開陳したアカデミー
哲学の本体的一元論の「形而上学」の系譜を引きながら、それを乗り越えるかたちで、同
じくその如来蔵思想に見る「真如」のいわば覆蔵性がもつ〈超越的他者性〉を「逆対応」
という発想によって論理化しようとした点に西田哲学の優れた特質がある。
西田とハイデガーとは、ともに「顕現せざるもの」への着眼によって形而上学を超克する
ところに共通点があるといえよう。
http://heideggerforum.main.jp/data08/inoue_r.pdf >>834
ジュナイドのファナー(消滅)には、更に「ファナーのファナー」、
つまり自我意識を消滅させる意識そのものの消滅という事態が起こる。
仏教の場合は龍樹の「空亦復空(くうやくぶくう)」。
空に達したところで、その空観もまた空ぜられねばならない。
二重の自己否定とでもいったらいいだろうか。
内在的超越の更なる超越。
東洋的二元論という話にもなる。
だから、「解体」や「破壊」という場合にも、
そうした意識の解体・破壊という審級が設けられるべきだろう。 デリダの脱構築の元はハイデガーの解体だし、その前はルター。
デリダの脱構築(déconstruction)→ハイデガーの解体(Destruktion)→ルターの解体(destruere)
ハイデガーやルターの解体とは、自己の歴史の解体であるし、
デリダの脱構築は、ハイデガーの解体がただの破壊ではなく、
解体し構築するものであることを注意深く付け加えた。 デリダについては、訳書や解説書を合わせると100冊以上もの本が出ているのに、
トレードマークである"脱構築"を説明した『プシュケー』が未完訳のままとなっている。
オリジナルは、デリダが井筒に宛てた書簡。
Jacques Derrida, "Lettre à un ami japonais", Psyché:Inventions de l'autre, 1987
(デリダ「日本の友人への手紙」『プシュケー』(未完訳))
邦訳は「〈解体構築〉DÉCONSTRUCTIONとは何か」(丸山圭三郎/訳)の題で、
・『井筒俊彦 言語の根源と哲学の発生』 〈KAWADE道の手帖〉 (2014年)
・『思想』1984年4月号
にそれぞれ所収。 二重の解体
めったに見れない高層ビルを建築する大型クレーンが小型クレーンに解体されるシーン
https://www.youtube.com/watch?v=NDwfd2XArqw ポエムというか自問自答をして自己完結してる変態、わざわざここでやる意味が分からない 西洋対東洋
一神教対多神教
二元論対一元論
こういうの見てると二元論から抜け出すのって難しいんだなって思う
むしろ二元論こそが人間の通常の認識方法なんじゃないかと思うくらい 超越論的視点をどこに設定するかという問題で、
どちらもありえると思う。 >>852
「ファナーのファナー」の出典は
井筒俊彦 『超越のことば』 (1991) 文學界2017年12月号 - 2017/11/7
▼松本卓也「健康としての狂気とは何か―ドゥルーズ『批評と臨床』試論」
これは、本格的でよかった。
ドゥルーズが扱った「狂気」が強調されて取り上げられることが多い中、
ドゥルーズ自身は病的でも狂人でもなかったという観点からの解説。
ポスト構造主義的問題系の「深層(profondeur)」と「表面(surface)」、
ラカン派による病跡学的アプローチ。 新たな角度からの回答「デリダ的精神分析」とは 何か、そしてその先へ――
評者:佐藤 嘉幸(筑波大学准教授)
書評『ジャック・デリダと精神分析 耳・秘密・灰そして主権』 守中 高明 (岩波書店)
http://dokushojin.com/article.html?i=1033
それでは、「デリダ的精神分析」とは何か。最も簡潔に述べるなら、それは散種的思考の謂いに他ならない。
ラカン理論とは、特権的シニフィアン(超越論的シニフィアン)である欠如のシニフィアンを中心として構造化された欲望と、
そのような欲望によって組織化された主体、すなわち欠如の主体に関する理論である。
それに対してデリダは、欠如のシニフィアンも特権的シニフィアンも存在せず、
諸々の情動はただ散種と差延の運動に従って絶えざる移行と相互干渉を繰り返すに過ぎないと考える。
そこから、欠如の超越論的シニフィアンによって構造化された象徴界あるいは同一性の主体は解体され、
散種的運動を原理とする多数多様性の主体が形成されるだろう。
守中は、そのようなデリダの散種的思考を幾つかの異なった名前で呼んでいる。
すなわち、ラカン的な同一性の主体に還元されることを絶対的に拒み続ける「秘密」、
ヘーゲル=ラカン的弁証法の同一化の運動には決して還元されない非現前的「痕跡」としての「灰」、
そして国家的/国民的同一性に依拠した主権的支配の構造を壊乱し、解体する「歓待」……。 何でこんな馬鹿みたいな思想取り上げてんの?
何でどうでもいい周辺のコピペ延々貼りつづけてんの?
中味もない思想に粘着して何がしたいの? >>866
検証?
カントや脱構築は根無し草だニヒリズムだと間違い見当外れ
筋違いな因縁吹っ掛けて
真理を確実に構築できるからこれからは実在論だとか言う
三流のトンデモ理論が?
ゴミ、無駄、ウンコじゃん
終わっている
始まってさえいない ポスト・ポスト構造主義の話をしようよ
絶滅の思想なんか馬鹿じゃないかとか
マルクス・ガブリエルは幼稚過ぎて恥ずかしくなるとか
今更あんな中味のない議論して頭おかしいんじゃないのかとか
デリダやドゥルーズから何歩後退してんだお前らはとか
ポスト構造主義に意味があるとしたらただ一つ
新しい実在論とか絶滅の思想とかそんなものを先回りして否定してたことにあるのに 資本主義と分裂症 より 千のプラトー時代の方がよかったと思うよ。
端的に。 資料をコピペする奴も自分の書き込みをコピペするキチガイよりはマシだろう >>871
だってポスト・ポスト構造主義って
相対主義は嫌だから
人間が生まれる前や絶滅した後に行ってみろ!
それでも真理は相対的なのかとか
人間の視点によって真理は変わるように見えても僕たちは
新しい実在論だから正しく真理を捉えられますもんて
アホダラ経でしょ?
ぼくちゃん
何か反論ある?
恥ずかしくない?
死ねば? >>800
> >>789、>>793
> 新しい実在論や唯物論から学ぶべきは、
> そういう、感情と衝動に支配された盲目的な相対主義からの脱却なのであって
本当にこいつは馬鹿
は、はずかしい
笑える
脱却するからぼくちゃん人間のいない祖先以前や絶滅以後に行くって
そんなんで相対主義を克服するって
笑える、苦しい、おかしい >>864
ラカンの記号学モデルでは、特権的、超越論的シニフィアン、あるいはその欠如が
欲望によって規定されているし、
デリダモデルは、もっと無意識的、非意識的なもの。
次の華厳的記号学モデルは、その間ぐらいにあって
どちらとも異なる。 一即多、一即一切の華厳的記号学モデル
A ([a]、b、c、d、e、、、)
B (a、[b]、c、d、e、、、)
C (a、b、[c]、d、e、、、)
[ ]は強調
シニフィアンA/シニフィエaという単純な一対構造ではなく、
シニフィアンがAやBやCである時にもシニフィエは常に(a、b、c、d、e、、、)であるモデル。
Aの時には、相互に浸透し照合されたa、b、c、d、e、、、の中のaが強調される。
参考:井筒俊彦 『コスモスとアンチコスモス』 (1989) 通常意識においては言語によって分けられていた
シニフィエの対象(万物)が、分け隔てなく相互に浸透する中から
限定なき限定がなされる。
華厳の「無礙(とらわれや妨げのない状態)」とは、
デリダの「ロゴス中心主義の解体」による
存在根拠解体のあと(後、跡)。 井筒俊彦氏「事事無礙・理理無礙ーー存在解体のあと」 要約
http://www.furugosho.com/nomadologie/izutsu1-resume.htm
“事物を事物として成立させる相互間の境界線あるいは限界線
ーー存在の「畛」的枠組みとでもいったらいいかと思いますがーー
を取りはずして事物を見るということを、古来、東洋の哲人たちは知っていた。
それが東洋的思惟形態の一つの重要な特徴です。
「畛」的枠組みをはずして事物を見る。
ものとものとの存在論的分離を支えてきた境界線が取り去られ、あらゆる事物の間の差別が消えてしまう。
ということは、要するに、ものが一つもなくなってしまう、というのと同じことです。
限りなく細分されていた存在の差別相が、一挙にして茫々たる無差別性の空間に転成する。
この境位が真に覚知された時、禅ではそれを「無一物」とか「無」とか呼ぶ…” 311 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2017/11/23(木) 23:05:20.12 0
モノたちの宇宙ー思弁的実在論とは何かーの解説に今後ハーマンと井筒俊彦の哲学、あらや識の理論や廣松渉の事的世界観の比較が重要になると書いてる こんなの読むのは時間の無駄
論理学の本を1年かけて熟読するほうがよっぽど哲学学べる 価値あるものはない、相対主義で、うまく全てが収まれば良いんだがそんなことになるはずがない
人それぞれで、勝手なことを許容してたら結果的に衝突が生じて戦争になる 多様性を無制限に許容したら結果的に衝突に繋がる、当然だろうよ なんでも政治に結びつけるその気持ち悪い反応をなんとかしろ
多様性を無制限に開放すれば、私がお前を意味なく殴り続けても良いわけだ
個人の自由を制限するためにある法や秩序をアテにするのはマチガイ ウヨクだのサヨクだのとレッテルはる条件反射的な行動が多いやつの知能指数は
かなり低い傾向にあると科学誌に載ってた しかし多様性や多文化共生は世界中の知識人文化人や民衆に支持されて、とどまる事を知らないというのが現実。 知識人や文化人や大衆が支持してるなんてなんの意味もねえぞ
共産主義がいい例だ そう、授業中に暴れても個性だから阻止してはいけない
学級崩壊は個性 学校というのは国家に都合の良い人間を量産する機関。 国家に都合が良いと言うことは国民にとって都合が良いということですね
どのような地域であれ、国家とは例外なく経済的な拡大を至上命題としている
あなたがお金など全くいらないという清廉な人物なら説得力があるが・・・ >>893
反体制や左翼の人たちがみんな892みたいな事
言ってるのでちょっと言ってみた。
良くも悪くも国家というものがそもそも嫌いらしい。
個人を抑圧するものとして。文学やSFでも国家は悪者。 左翼の人たちは、社会契約説を全く知らないからね
人間の本姓から、その欲求や生存本能を消し去らない限りは人が森からでてきた段階で
国家になっていかざるをえないという合理的な社会成立の原理にまともな反論が
できた学者などいない
逆に、アナーキストたちが主張してきたのことは個々人の信頼関係だけで搾取や戦争のない
世界が約束されるなどというリアリティのない理想を掲げるばかりだった 理想主義者が語る「理想」は全ての人にとって理想なのですか?左派や共産主義者など理想を追い求める人の話を読んだり
聴いたりして、「それは私にとっては決して理想じゃないよな」と感じる事もあるのではないですか? 現代は国家性善説が崩壊してるだろ
今時の国家なんて色眼鏡で見るのが基本だよ レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。