西洋哲学と東洋哲学 その視座 [無断転載禁止]©2ch.net
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西洋哲学はどういったもので東洋哲学はどういったものかという感じ
そのはじめヨーロッパ人はなお、青年のような心持ちで文明建設の途上にあったがために、
彼らは肯定哲学の一面にのみ心ひかれていたが、欧州大戦の悲劇はここに互いに相争うことを知らしめ、
彼らの自負した知識が結局はただ自他を傷害することのためにのみ役だったことを知らしめた。
知識の過度の肯定は知識自体の破産であることに気づいてきた。
自然を征服するという猛々しい勇気はやがて、結局は自然に克服されていたことを感ぜせしめた。
彼らはここに、やるせない気持ちでむしろ否定の哲学に耳をかすようになり、
否定の一面あってこそ、はじめて救済が存在するのだという、
未曾有の体験を味わわしめたのである。「涅槃寂静」とは、戦いぬき疲れぬいた者の安住所である。
断食者にはまず粥から養いなおすように、ヨーロッパ民族にとっていまは一時的ではあるが否定の哲学こそが良薬となっているのである
「仏陀のおしえ」(友松圓締)
>>2 その昔、多くの欧米の学者は東洋の哲学を取り扱うときに、
いつもその哲学が組織的でなく、その「非論理性」をあざけり笑った。
彼らはアリストテレスの論理に立って、これをもたざるいっさいの思惟を価値なきものと抹殺しようとした。
(中略)
ところが社会理論の激化につれて、彼らの分析的理論はいわゆる世情に即せざる「哲学の貧困」を暴露してしまった。
頭脳だけで考えること、いっさいを抽象し、概念化することを人生の王座においた欧米の論理主義は、
逆に、人生の如是相をとらえるものでないことを知るに至った。
抽象の形式はものの生きたすがたをとらえるのではなくて、死体の解剖にすぎないことを知っていた。 西洋哲学と東洋哲学の違いは、まず、西洋的思考形式と東洋的思考形式の相異点の
論究から始めるのが、最も現実的で分かりやすいと考えられる。 西洋哲学の伝統はソクラテスとプラトンから始まる形而上学的な思惟と
キリスト教的な近代合理主義的思考だろ。プラトニズムの系譜であるアリストテレスからデカルトに至る形而上学の系統は
中世のキリスト教神学が間に入って、科学的思考に発展していった。
ラ・マルセイエーズ
西洋哲学に偏って崇拝している輩の思考は十二分に理解できる。
西洋哲学には曖昧なところがないからね。それにくらべて東洋哲学は神秘主義的、精神的宇宙的な、
または道徳的生得的ヒューマニズム的な意味合いが強い(知識不足でこのようなことしか言えないが)
例えばウパニシャッド哲学、ヒンズー教の哲学、仏教、道教くらいしか知らんけど
東洋哲学の代表は紛れもなく仏教。仏教や道教に見られるのは人間の精神性の高まりとそこから派生して
世の中や国がよくなるという思考。
今山口昌男の本読んでいるけど、東洋哲学は西洋哲学にくらべて非常に曖昧ではあるが人の道を説く公算が強い。
それに比べると西洋哲学は人の道を説くよりも合理的思考でもって自然を凌駕してしまおうという
考え方が根強い。>>2 おれは形而上学をほどほどにしか知らないけど、形而上学について誰か詳細な説明よろ >>5
東洋哲学は、西洋哲学にくらべて曖昧であるといのは、
思考形式として、どの辺が曖昧なのでしょうか? あんまり滅多なことは言えないが、西洋哲学は「コギトエルゴスム」から出発してる。
因数分解して、もうこれ以上分解できないところのものを緻密に説明している。
それに対して東洋哲学は本当にあるかはわからない観念で本質を語っている(^。^)
もっと教養ある人説明よろ 主観は情報に還元できない=例えば「無分別智」というものがある、
というのが東洋哲学の本質ではないかな? >>8
「コギトエルゴスム」とは日本語に訳すと、「私は考えるゆえに私は存在する」ということですが、
この命題に到達する為にはデカルトが創出した「方法的懐疑」という思考法を実践します。この「方法的懐疑」は
“この世に存在するすべてのものを疑い、少しでも疑わしきものを斥ける(=取り除く)、真に対して偽を斥ける思考過程”を
「方法的懐疑」と言います。
そして、「疑っている一連の思考過程を行っている“私”という存在を疑うことはできない。」という真理に到達し、
この不可疑的な存在である“私”のことを「コギトエルゴスム」と命題した訳です。
従って、“因数分解”ではなく、“疑わしきものを斥ける”思考過程は、因数分解のように一定の数字、或いは概念を
永久に存続させることではなく、疑わしければその概念を“排除(取り除く)”する思考過程となる。 陽明学とウパニシャッド哲学について誰か教えてください。
陽明学は特に解説書を読んだとき、とても興味深かった。 >>4
西洋哲学の思考形式は、デカルトの「方法的懐疑」、そして「弁証法」、「形式論理思考」、「現象学的思考」などがある。
「弁証法」には、大きく分けて、ヘ−ゲルの「三枝弁証法」とフォイエルバッハの対話形式の「二枝弁証法」がある。これらの
思考形式には、長所と短所があるが、特にヘ−ゲルの三枝弁証法は、その思考過程の中にアウフヘ−ベン(止揚)という思考論理があるが、
非常に難解であり、慎重に分析し、考察する必要がある。 西洋哲学と東洋哲学の違いは、差異化思考と同一化思想の違いであろう。ソクラテス・プラトン以後の西洋哲学から
始まる西洋哲学は、存在の本質を“差異”として捉える。 他方に於いて東洋哲学は、存在の本質を“同一”として捉える。
しかし、東洋哲学は存在の本質を一元論的な“同一化”として捉えてはいない。空海の哲学の様に、“同一化”として
捉えると同時に、存在の本質を“差異化”の融合として捉えている。 “同一化”と“差異化”を合一した存在として捉えて
いるところに、現代社会の価値観の多様性、複雑化・階層化した社会状況に柔軟に対応することが可能となり、そして、創造的な
志向性をその哲学の中に持ち合わせている。 差異化といいますか
大学院生はただの感覚的マイノリティでしょう
よって発言力はありません >創造的な志向性をその哲学の中に持ち合わせている。
その創造的な志向性の産物には何があるのだろうか 『キリスト教の歴史』小田垣雅也(講談社学術文庫)を読むと、まあかなり大まかに
西洋思想の根の部分であるキリスト教について、知ることができる。
という訳で、定期的にこのスレをこの本を使ってテキスト化していこうと思う。 われわれは聖書は人間に対する問いかけであるとか、神と人間との契約のことだと言ったが、
問いかけとの契約は相互的なものである。問いかけは応答があって初めて意味を持つし、
契約とは契約の相方を拘束してこそ契約でありうる。
そして聖書の場合のように問いかけとか契約の相手が神であるとされる場合、
人間は神を見ることはできないから、その相互的関係は特殊なものであるように見える。
しかし更に深く考えてみると、相互的とは本来相手を確認できないからこそ相互性であると
言えるのであると言えるのである。問いかけとか契約とかは、
普通の人間同士の間でのことであるが、人間には確認できない要素があるからこそ応答とか契約の
必然性が生ずるのである。
われわれは木や石や確認可能な真理から問いかけを受けたり、
それと契約を結んだりすることはない。してみると、見えない神との契約ということも、
特殊なものであるというよりも、問いと応答ないし契約というものの精髄を取り出したものと言えるであろう。
すなわちこの場合問われているのは、問いかけと応答や契約の一方の
当事者である人間の主体性、責任のことである。
人間の主体性や責任を喚起するものとして神が理解されているということだ。
逆に言えば、それがなければ、人間の主体性や責任の根拠が出てこないようなもの、
それが神だということである。これが聖書が神の言葉であると言われる意味であろう。
『キリスト教の歴史』序論2より この部分はキリスト教についての非常に根本的な、考え方を記している。
プロテスタントもカトリックも東方正教会も、根本的には人間とは何かに立脚している。
人間とは何か?この人間の在り方に神が関わっているという考え方がキリスト教の考え方だという。
旧約聖書は神との古い契約、新訳聖書は神との新しい契約のことであり、
人間は万物の創造者である神が創った主体であり、人間の在り方はすべて神の意思に近づくためにある。
「人間の主体性や責任を喚起するものとして神が理解されているということだ。」
まあよくわからんが、この考え方はユダヤ人やムスリムの考え方とも一致している?のか??
そこのところわかる人は、このスレで説明願いたい。 ギリシアの形而上学(プラトン-アリストテレス)が、後にキリスト教神学やグノーシス主義と
結びつくわけだが、哲学的にはデカルトやキルケゴールはもちろん、フッサールなどの現象学とも
関わりを持つことになる。まあ、ゆっくりキリスト教の歴史について学んでいきましょう 『キリスト教の歴史』小田垣雅也(講談社学術文庫)
p20〜イエスの生きた時代
「イスラエルの民の先祖アブラハムは紀元前20世紀後半にメソポタミア地方から
パレスチナ地方に移動したと考えられている。」
旧約聖書「創世記」6-9ノアの洪水とバベルの塔
ギルガメシュ叙事詩等の記述やチグリスユーフラテス川流域の発掘調査によって
ノアの洪水伝説がチグリスユーフラテス川の氾濫の記憶に基づいた、必ずしも架空のものではないと考えられている。
バベルの塔は当時のバビロン神殿の巨大な塔を指している可能性がある。
↑
定かではない。
「メソポタミアやエジプトの文明の中に、人間の不遜さを嗅ぎとったものだろう」 旧約聖書「創世記」12-36
「アブラハム、イサク、ヤコブの族長物語りは神話ではなく伝説である」
「イスラエルの民は遊牧民であった。ーチグリスユーフラテス、メソポタミアというような
大河流域に栄えた古代文明は、肥沃な大地の上に営まれる農耕文化であった。ー
土地の支配者と奴隷的農民という制度で維持されるようになると、
いろいろな形で人間の堕落をもたらす。支配階級の人間の不遜さということもその一つである。
それに対して遊牧民は土地に結びつかない」
「宗教も、土地に結びついて聖所に安置される神ではなく、部族の歴史を通して人間に結びつくようになる。
その神も、豊穣と生産の神というよりも倫理的な性格の神になる。」 旧約聖書「創世記」37-50ヨセフ物語り
ここの部分はおそらくは「カナーン地方の飢饉等の理由によって、
イスラエル民族の一部がエジプトのヒクソス王朝時代(前1720-1550年頃)エジプトに移住する。」
「そしてエジプトからモーセに導かれて再びカナーンの地に帰るが(前1290-1260)」
↑
「出エジプト期」14章紅海渡りの伝説
「出エジプト期」20章 モーセが「十戒」を神から受け取ったのも、この移動の途中、シナイ山においてである。
「イスラエルの宗教の自覚的な成立はこの出エジプトを画してであると言って良い」 モーセの出生は「出エジプト記」1-2章にある。
「ヤーウェという神の名はモーセに対して神が「わたしはある。わたしはあるという者だ」と
答えているように(「出エジプト記」3の14)「ある」という動詞の三人称使役形であると
考えるのが普通である。(エホバというのは同じヘブル語の母音のつけ間違い。)
つまり神とはすべての在るものを在らしめる存在そのものというような意味である。)」
モーセの十戒(Wikiより「正教会・プロテスタント教会」)
主が唯一の神であること
偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
神の名をみだりに唱えてはならないこと
安息日を守ること
父母を敬うこと
殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
姦淫をしてはいけないこと
盗んではいけないこと
偽証してはいけないこと
隣人の家をむさぼってはいけないこと
(Wikiより「カトリック教会・ルーテル教会の場合)
わたしのほかに神があってはならない。
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
あなたの父母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
隣人に関して偽証してはならない。
隣人の妻を欲してはならない。
隣人の財産を欲してはならない。 モーセの十戒は「人間によって把握されるような神ではないという意味を含んでいる。
人間に認識されたり、認識の対象とされたりする神は、人間の認識の水準にある神で創造主ではなくなる。」
「ようするに神とは宗教という人為的歴史的現象をこえたものとしての「あるという者」
であるということを示している。」
「十戒の後半は具体的な倫理的戒めである。
いずれにせよ、このようにしてイスラエルの民は神と契約を結び、
カナーンの地に定着して12の部族の連合体を形成した。」
紀元前1020年サウル、その後タビデによってイスラエル王国が建国される(「サムエル記」上13章、下5章)
タビデの子がソロモンでーユダヤ王国の栄華の時代である。エルサレム神殿、王宮などの建築物。
エルサレム神殿はその後イスラエル人の崇拝の対象となり、現在のエルサレムの旧市街に
残っている「嘆きの壁」はソロモンの神殿当時のものだという説もある。
ソロモンの死後、王国は南北に分裂した。 「タビデ、ソロモン時代の栄華ということは、イスラエルの民が文化と直面したということである。
特に神殿の建設は、一面ではイスラエルの宗教の成熟を意味するが、
他面、遊牧民の神、一所不在の、それだからこそきびしい倫理が要求されるイスラエル本来の
神からの離反をも意味する。文化と倫理はある意味では対立した概念である。
そしてこのような事情に対応して現れたのが預言者である。」
「それに対して「諸書」に属する知恵文学とは
「ヨブ記」「箴言」「コレントの言葉」「詩篇」の一部分であるが、
これは預言書のように人間の経験や、また経験に対する人間の反省にもとづいた文学である。
言わばそれは人間の内側のことである。もちろん旧約聖書の知恵文学に関する限り、
人間の経験や反省が神と無関係になされることはない。「主を畏れることは知恵の初め」(「箴言」1の7、9の10)
と書かれてある通りである。これは「汝自身を知れ」というアポロンの格言をもって
知の初めとしたソクラテスの態度とは対照的である。しかし、それにしても、知恵は神の前での
人間の経験とその反省であって、神の呼びかけへの応答ではない。
その場合知恵文学の人間理解もさまざまで、「箴言」は伝統的、楽天的、
「コリントの言葉」は悲観的、虚無的であり、また「ヨブ記」は虚無を克服しようとする
人間の苦闘を示している。」 かなり大急ぎで旧約聖書の神と人間との在り方の歴史を追ってきたが、
まあほとんど「キリスト教の歴史」を引用しただけだけど、また補足しながらやっていく。
キリストの誕生とその歴史的背景まで、ツラツラと書き連ねていく 実際の所
ユダヤにしてもイスラムにしても具体的な信仰の対象は預言者だよね
それでいて神の存在教義の中心に添えようとしている
人は人にしか共感できない
憧れも崇拝も人にしか起きない
理解できないものは恐れの対象となるか意識から外れていく それでいて神の存在を教義の中心に据えようとしているだった 誰かしのちゃんにプッシーから聖水を与えて潤いを与えてあげて 乾いてるよ。砂漠の民だもの。
ちなみに『キリスト教の歴史』は大学時代、かなり中途半端に途中まで読んで
おっぽっといた書。その頃は『新約聖書』と合わせて読んでいたが、
今になって仏教思想のためにキリスト教もやっていく。合わせて読んでいるのが、
『仏陀の教え』友松圓諦(講談社学術文庫)。これまた西洋哲学や文明と比較していてリンクしている。
ちなみにイスラエルの民が出てきたからイスラエル・パレスチナ問題について言及せねばならない。
パレスチナ問題にはいろいろな問題が絡んであるが、その一端に上述にあった
紀元前10世紀のイスラエル王国があり、ローマ帝国の支配を受け、イスラエルの民は散り散りに各国に散らばった。
ユダヤ人やシオニストにとってこの土地の奪還は悲願であり、
ユダヤ人とオスマン帝国が支配していたアラブ人の宗教対立の問題がある。
文学の問題としては、この国境に関する問題がしばしばイスラエル・パレスチナの土地を巡って
展開される。例えば・・・例えば・・・まあいろいろ村上春樹とか。
土地の区画の問題は、ありとあらゆる人間の本質的な問題を孕んでいる。
ともすれば、日常の他者と自我との問題。宗教とその背景にある歴史的な意味。
融和の問題。男女の問題。政治的な問題。愛の問題。妥協と強行。善悪の問題。
遊びとスポーツ。哲学や社会学的な見知。イデオロギーや価値の問題。暴力の問題などなど 日本に上陸したイスラム教徒に命ねらわれてるとか
中韓マンコ騒ぎ、および暴力沙汰が
性器ですみたいな、あの方 旧約聖書に登場する預言者たち
BC1250年頃
モーセーイスラエルの民をエジプトより率いてカナンの地へ導く。シナイ山で十戒を授ける
BC1050年頃
サムエルーイスラエル王国の初代王サウルを任命。
サウルが神に背くと、ダビデ王を任命
BC1000年頃
ナタンーダビデ王の後継者にソロモンを推した。
B.C9世紀
エリアー偶像崇拝を続けるアブラ王を戒め、
バイアの預言者とカルメラ山頂で対決
B.C8世紀
ヨナーアッシリアの民に神の裁きを伝える。
ホセアー王たちの堕落を弾劾。
アモスー神の意に背く民を激しく批難。
アッシリアによるイスラエル王国の滅亡を予言する。
イザヤー政治改革を訴え、王国を批判。アッシリアの滅亡を予言する
ミカー貧しい人を守り、唯物主義を批判。イエスの登場を予言する。
B.C7世紀
ゼファニアーユダ王国の偶像崇拝を痛烈に批難。
エレミアーバビロニア王国のネブカドネザル2世が神の裁きを行う者である、と予言。
民衆に殺されかける。
B.C6世紀
エゼキエルー数々の奇跡を体験。バビロン捕囚期に、イスラエル復興を予言する。
ハガイーバビロンより解放された後、エルサレムの神殿再建を促進する。
ゼカリアーバビロンよりエルサレムに戻り、メシアの出現を予言 『キリスト教の歴史』小田垣雅也より
南北に分裂した古代ユダヤ王国
北イスラエル(首都サマリア)はB.C721アッシリアに滅ぼされる。
南イスラエル(首都エルサレム)はB.C586新バビロニアのネブカルネザル2世によって
滅ぼされ、エルサレムの神殿は破壊された。この陥落により、多くのイスラエル人が
バビロニアに連行された(バビロン捕囚)。
「バビロン捕囚がイスラエルの宗教の滅亡という結果になっても不思議はなかった。
それをイスラエルの宗教が乗り越えることができたのは、王国の制度に
とらわれない預言者たちがいたから(略)そしてまたこの試練をくぐり抜けることによって
イスラエルの宗教は、一民族や国家の枠にとらわれないユダヤ教として再生したのである。」 南イスラエルの首都エルサレム陥落後50年たって、バビロニアはペルシア王キュロス(B.C559〜529)
によって滅ぼされた。(前539)
キュロス王はイスラエル人のエルサレム帰還と神殿再建を認めた(「エズラ書」1〜3章)
(略)「エズラ書」「ネヘミア書」この両者によって再興されたユダヤ教が、
イスラエルの宗教と区別された意味でのユダヤ教てある。
B.C356〜322
ギリシア地方ではマケドニアのアレクサンドロス大王がギリシア全土を制圧し、
ペルシア帝国も滅ぼして、いわゆるヘレニズム世界を築く。
アレクサンドロスの死後、マケドニア、エジプト、シリアの3つの王朝に分裂し、
パレスチナは初めエジプトの支配下に、後にシリアの支配下に移された。
シリアのアンティオコス4世(B.C215〜163)はヘレニズム文化をユダヤ人たちに強制し、
遂にはエルサレムの神殿にゼウスの祭壇を設け、ゼウスのために犠牲が献げられるまでになった。
これは要するにヘブライズムが直截かつ切迫した形でヘレニズムと接触したということである。 ユダヤ人の側からのヘレニズム文化に対する態度
サドカイ派ー
ヘレニズム文化に対する妥協的態度。ユダヤ教の宗教生活の中心は
エルサレムの神殿であるが、サドカイ派は司祭を中心にした貴族的一派で、現状維持派
ヘレニズムを拒否しつづけるのは現実的でない。現実的であるからまた彼等は
復活とか、天使の存在等をも信じなかった。サドカイ派は神殿没落と共に没落
ファリサイ派ー
「出エジプト記」20章から「レビ記」「申命記」にあるような律法を忠実に守ろうとする。
エッセネ派ー
「死海文書」1947年に発見。「死海文書」は広義のエッセネ派であるクラム教団の文書
エッセネ派は動物犠牲との関連でエルサレム神殿から放逐され、
荒野でファリサイ派以上に厳格な共同生活を営んでいた。
イエスに洗礼を授けたパブテスマのヨハネは(「マタイによる福音書」3の1-17「マルコ福音書」1の1-11)
エッセネ派の一員であったとする説もあるが定かではない。 こういうのはノートとして書いているから、自分の知識ではない。
波平の書いているものに似てるとなると、波平もそのように要約的なものを書いていると言えよう、 そんで、こういう歴史の渦中のなかでイエスは生まれたわけだ。
で、イエスは「新約聖書」のなかで、生き生きと描かれているが、史実としてのイエスは、
ガラリア地方出身の建具屋であったこと、洗礼者ヨハネと出会って洗礼を受けたこと(「マルコ福音書」1章)
等わずかな事実になってしまう。
それで神とイエスと精霊は同じであるかという三位一体論が浮上してくる。
またいろいろと補足していく。 キリスト教において、イエスの教えと、パウロの説は分離できるのか? しは2000年代、特定のコテは持っていない。
便宜上、いい加減な捨てハンは名乗っていたけど、たぶんみんなどこの誰だかだーれもわからない。 >>48
パウロの説とイエスの教えは分離できるのか?
どういうことかよくわからない。
具体的に パウロがイエスを使ってキリスト教を創始したのですよね?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1285280512
クリスチャンの立場では言いにくい事ですが、質問者様の指摘は、『的を射た』意見です。 「新約聖書」については、よく読んでみるよ。
そんで、ギリシア哲学、ヨハネとパウロ、グノーシス主義についての記述はちょっと中断。
つまりパウロの福音書とその他のマルコやマタイ伝の読み比べということか?
ごめん今の時点では、ちょっと発言できない。
キリスト教といえば、「プロテスタンティズムと資本主義の精神」のようなものでしか
概観がないから。見解があったら聞かせてよ。
しはキリスト教についてはズブの素人 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に訂正 >>53 了解。
見解としては >>52 のリンク先でいいんじゃないかな。
>なので、現在のキリスト教の基礎を作ったのは、パウロです。
『プロ倫』は、最近の実証研究で、プロテスタントの盛んな地域と、その他の地域との
資本主義の発展に有意な差が見られない、という結果がでて、ウェーバーはあまり流行らないと聞くが。 >>55
そうなんだ。『プロ倫』かなり古いもんね。
カトリシズムとプロテスタントの倫理の地域差は今はあまり認められないんだ。
キリスト教についての良書ってなんかある? まずは聖書だ。
>パウロの福音書
そんなもんない。 >>57
無教養でわるいね。キリスト教については語れる資格はないね。
ちなみにわかると思うがしは野狐禅で修士もない。あらかたの資料収集も碌にできんけど、
よろしく 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』マックス・ウェーバー(岩波文庫、大塚久雄訳)
プロテスタントのカルヴァンニズムの強い国(アメリカ・イギリス・オランダ)で資本主義が発展した理由。
予定説と天職概念。
カルヴァンの予定説では、救済される人間は、あらかじめ決定されている。したがって、
人間の努力や善行の有無などによって、その決定を変更することはできない。
つまり、善人でも救われていないかもしれないし、悪人でも救われているかもしれないのである。
また、人間は、神の意思を知ることができない。したがって、
自分が救済されるのかどうかをあらかじめ知ることはできない。(Wikiより)
カルヴァンニズムにおいて、今悪人にみえても、今善人にみえても、救われるかどうかは人間にはわからない。
このような考えかたは、まあ有り体だが親鸞の悪人正機説に近接したようなところがある。
救われる人間はあらかじめ決まっている(この部分は浄土教の考え方と違う)
救われない人間は最後の審判によって、地獄に堕ちるか、消滅する。
そういった緊張感のなかで、プロテスタントのカルヴァンニズムは、労働というものが、
神の意志において、救われる人間ならば、神の意志に適う行い(労働)をする筈だという
考えのもとに、天職を禁欲的な意志のもとに行うという禁欲的合理性を獲得し、資本主義が発展していった。
そうして、人々は、世俗内において、信仰と労働に禁欲的に励むことによって、社会に貢献した。そして、この世に神の栄光をあらわすことによって、ようやく自分が救われているという確信を持つことができるようになったのである。(Wikiより) 『キリスト教の歴史』>>20でのキリスト教の神と人との関係に呼応しているが、
キルケゴールの『死に至る病』の冒頭。
人間は精神である。しかし、精神とは何であるか。精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか。
自己とは、一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、
その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。
自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。
キルケゴールはクリスチャンであって、プロテスタントではないが、
人間の精神が関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係すること、だといっている。
まあこれを説明することは難儀だが、神と人間の関係において、人間は絶望していると説く。
また絶望は罪であり、神との関係において、神の前で自己を捨てて信仰することにより、
死に至る病は「死に至らない病」(「ヨハネ福音書」11章4節)にまで回復するという。
およそキリスト教にとって、自己は神の御心のままにある精神であり、
まあカトリックとプロテスタントの違いも、この程度しかわからないが、
大まかには、自己は自分自身であろうとすることが神への信仰と不可分に結びついているキリスト教は、
そういった意味で、仏教の自己の精神性を見つめる上で、因果律を用いて精進する、
その精神性とは違うものだとわかる。あらかじめ全ては神の御心のままにあるか、
そうではなく、自由であるかの違いは大きい。 中本裕之(なかもと ひろゆき)元弁護士(新62期)=長文=奈良県について(2016年2月)
性別: 男、未婚
年齢: 36歳以下(昭和54年4月2日以降生れ)
国籍: 日本人?(本人談: 2012/03/26 パスポート取得)
住所: 奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)?
最寄駅: 近鉄・生駒線 竜田川駅?
実家: 不動産を所有する資産家の分家
家族: 実家で母親と同居、兄、弟、妹?、父親と確執?
母親: 世界真光(まひかり)文明教団の信者
宗教: 聖書は半分くらいしか読んでいない ←←←←←←←←New!
既往症: ノイローゼ(2013/1/15)
常用薬: リスペリドン(2013/1/7)
禁忌: 奈良駅には行けない事情がある
職歴: 元弁護士(新62期、大阪弁護士会、登録番号 41908)、LECでの答案添削、家庭教師
資格: TOEICスコア 680 (2011/10/01現在)
高校: 奈良県 私立帝塚山中学・高等学校卒?
大学: 京都大学法学部 大石眞ゼミ?
大学院: 関西地方の法科大学院修了
受験: 旧司法試験の東京での申込み状況を知っている
勉強: 合格まで10年かかった。『事例本』シリーズ(辰巳1997年〜絶版)を使用
ゼミ: 憲法のゼミに所属(本人談: 右寄りといえば右寄りの方)
奨学金: 毎月1万円返済、返済期間10年以上(2013/10/22現在)
体重: 63.6キロ(2011/12/20現在)
好物: 水炊き、うどん
好きなアニメ: ザンボット3(1977年)、太陽の牙ダグラム(1981年)、聖戦士ダンバイン(1983年)
偏愛: 伊藤かな恵(声優)、明坂聡美(声優)、高倉陽毬(アニメキャラ) 、小・中学生のホモ
憧れ: 大学教授、公務員
常駐先: 緊急自然災害板(原発情報)、哲学板(千葉雅也、東浩紀)、模型板、声優板ほか
2012/09/01 小・中学生の時にホモってフェラするのが最も良い
2012/09/05 わたしはとにかく、奈良駅にはいけないのです。
2013/10/22 中途半端に頭がよかったのが不幸の始まるなのであろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています