子供ができた後、別の対象に意識はが向くとしたら、それは自然なことである。
ただし意識が確かに清流が如く自然のままに、その対象に向くのであれば、
それに逆らうべきではないのだ。もしそれを回避しようとすれば、そのことばかりを想って
その対象に執着したまま人生を送ることになる。この場面の心は、執質ではない。
それはただ単に真実であっただけのことなのだ。意識がそのとき斯くあるべき運命に身を委ねなかったから
その対象を想ったまま老いていくだけのことなのだ。真実があるのなら例え妻子がいても
自然な流れに身をまかせるべきである。

それとは反対に、執質としての不倫は物事を濁流にしたり、汚染したりする。
この対象と肉体関係を結ぶとどうなるか?闇深き川底に至るのであれば、意識はそれがわかる。
意識が禅としての無心でもって、どの相手と添い遂げるかを見誤ったとしたら、
それは不倫の最中ではない。不倫のまえの妻子との因果を無心で観られなかったということである。
そもそもから間違っていたのだ。どうもしっくりこない。そのようになるだろう。

なるべく多くの人と付き合って、最後に最高の人と巡り合うというのも間違っている。
無心でいれば、そもそものはじめから間違いはないのだ。どこで無心の心でもって、
真実を見極められるかは決まっていない。