われわれは聖書は人間に対する問いかけであるとか、神と人間との契約のことだと言ったが、
問いかけとの契約は相互的なものである。問いかけは応答があって初めて意味を持つし、
契約とは契約の相方を拘束してこそ契約でありうる。
そして聖書の場合のように問いかけとか契約の相手が神であるとされる場合、
人間は神を見ることはできないから、その相互的関係は特殊なものであるように見える。

しかし更に深く考えてみると、相互的とは本来相手を確認できないからこそ相互性であると
言えるのであると言えるのである。問いかけとか契約とかは、
普通の人間同士の間でのことであるが、人間には確認できない要素があるからこそ応答とか契約の
必然性が生ずるのである。
われわれは木や石や確認可能な真理から問いかけを受けたり、
それと契約を結んだりすることはない。してみると、見えない神との契約ということも、
特殊なものであるというよりも、問いと応答ないし契約というものの精髄を取り出したものと言えるであろう。

すなわちこの場合問われているのは、問いかけと応答や契約の一方の
当事者である人間の主体性、責任のことである。

人間の主体性や責任を喚起するものとして神が理解されているということだ。

逆に言えば、それがなければ、人間の主体性や責任の根拠が出てこないようなもの、
それが神だということである。これが聖書が神の言葉であると言われる意味であろう。

『キリスト教の歴史』序論2より