マルティン・ハイデガー5 [無断転載禁止]©2ch.net
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であるから、ixtlanが執心しているゾルゲの構造分析など、
一部(既刊部)の問題をやった後に、
二部(未刊部)相当の作業をやっていかなければならない。
その作業とは、どのようなものなのか?
“存在問題そのもののために
それ自身の歴史に透明な見通しをつけることが
われわれの課題なのであるから、
固定化した伝統を解きほごして、
その伝統が生みだしてきた蔽塞状態を解消することが必要となる。
この課題をわれわれは、存在問題を手びきとして、
古代的存在論の伝承的形態を解体し、
かつて存在の最初の ―そしてそれ以来主導的となった― 諸規定が
そこで得られた根源的諸経験へひきもどす
解体作業(Destruktion)という意味でうけとる。”
(ハイデガー『存在と時間』序論2-6節)細谷訳 このハイデガーの解体(Destruktion デストラクチオン)が
デリダの脱構築(déconstruction デコンストラクシオン)の元になっていることは
いうまでもない。
デリダがトレードマークの脱構築を説明した「日本の友人への手紙」を含む
『プシュケー』が、現在邦訳中なのであるから、
こうしたところでも、今もう一度ハイデガーがやり直されることになるだろう。 んー、しかしハイデガー研究とはつまり
「ハイデガーはどのような経過を経て時間と存在の関係を見抜くことが出来なかったか?」
という話ですよね?
それはそれで学者さんの趣味としては楽しいとは思うのですが、
私はハイデガーさんの失敗はそれはそれとして、
我々は我々で秘密を解いてしまって問題ないという見解なんですね。
そこにハイデガー教の信者さんが「けしからん」というわけですが、
私に言わせれば勝手に教祖を規定して教祖が解けなかった秘密は解いちゃならん!
などと言う方が人類、また投影型思想生物として「けしからん態度」だと思うのです。
私は少なくとも人類をこの全宇宙に存在する投影型思想生物の中では最良のものとしたいのです。
(他の思想パターンを持つ生物との比較はまだ早いと考えています。)
たしかにこの地球上においては投影型思想生物は我々人類だけしか存在していないわけですが、
私の想像では全宇宙で文明をもつ生物の1/3はおそらく人類と同じく投影型です。
その競争を意識して頂きたい。
如何でしょうか?
by 鼎 梯仁 まあ、しかしそこまでスケールの大きな話になりますと、
それはすでにハイデガー談義どころか哲学、否、学問ですらなく、
おそらく「シグマ思想でしか扱えない領域」となってしまいますから、
このスレの運用から見るとスレ違いという判決になってしまうのかも知れませんが。
by 鼎 梯仁
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/philo/1443715777/l50 ただ一方でザ・ダイアグラムの発明者である私としましては
「外宇宙の投影型思想生物はザ・ダイアグラムの発明などとっくの昔に終えているのかも知れない」
という焦りもあるのです。
皆さんはそのあたりお気楽で暢気に構えておられるようでして本当に羨ましい限りです。
現にこのスレでハイデガーなどを弄って遊んでおられるわけですから。(チクリ)
by 鼎 梯仁 柄谷行人はハイデガーの存在論を「ハイデガーが究極的に見出すのは、自己言及的な形式
体系、あるいは自己差異的な差異体系である」としてある程度評価しています(定本第2集p.133)。
ちなみに、存在=メタレベル、存在者=オブジェクトレベルという柄谷の解釈を東浩紀は
受け継いで図解↓しています。
http://pds.exblog.jp/pds/1/200804/28/41/a0024841_4162993.jpg
ただし、実際にハイデガー自身が書いた図はそれとは違っています。
http://pds.exblog.jp/pds/1/200710/14/41/a0024841_15442757.jpg
上記は、「ハイデッガーが講堂の黒板に描いた図形、現存在の図示としておそらく唯一の物と
思われる図形」(*)です。
それでも複数のクラインの壷を上から見たのだと解釈すれば整合性があります。また、右上
を余白にした所に図を見るものの「脱自」を促す余地があり、ハイデガーはその点さすがだと
思われます。クラインの壷だと図を見るものの位置が超越的になってしますので、ハイデガー
の意図とズレてしまうでしょうから。
*
上記図のハイデガー自身の解説:
「次ページの図は、人間の実存がその本質根拠において、決してどこかに事物的に存在して
いる対象ではなく、ましてや、それ自身の内で完結した対象ですらないということを明示するた
めのものでしかない。 (略)現存在として実存するとは次のことを意味する。現存在が「開け」
られていることからもろもろの所与がそれに向かって語りかけてくるが、その意味指示性を
認取しうることによってある領域を開けたままにしておくというのがその意味である。人間の
現存在は、認取しうることの領域として、決して単に事物的に存在する対象ではない。反対
にそれはそもそも決して、もともと決していかなる場合であろうとも、対象化すべき何かではない。 」
ハイデッガー『ツォリコーン・ゼミナール』(みすず書房1991年,p3) より
(参考サイト: http://www.archi.kyoto-u.ac.jp/~maeda-lab/A_maeda/A03_thesises/A03_thesis_room.html リンク切れ?
上記サイトはハイデガーの原図を解説しているが、矢印の解釈が少し違う。) / ̄ ̄ ̄\
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| 0| __ ノ 発狂さんはいます!
| \ ヽ_ノ /ノ
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(( / | V Y V| V
)ノ | |___| | >「ハイデガーが究極的に見出すのは、自己言及的な形式
>体系、あるいは自己差異的な差異体系である」としてある程度評価しています
それトートロジーという意味じゃないの?
自己言及ならばそうだよね >>175
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/ノ / / ヽ
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| 0| __ ノ 働け波平! 引き篭もってる場合じゃねえぞオヤジwww
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(( / | V Y V| V
)ノ | |___| | >>175
やっぱりAA荒らしは波平だったわけだなw >>174
存在=メタレベル
存在者=オブジェクトレベル
現存在=クラインの管
ね。 どこかで話題になった
ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』は、
古代の預言者やシャーマンの脳内に響いていたとされる
"神の声"の仕組みを科学的に説明したものだった。
それは、ハイデガーにおける「呼び声 Ruf」(『存在と時間』)であるし、
デリダの「自分が語るのを-聞く」(『声と現象』)や、
古くはアウグスティヌスの時間論とも比較ができるものだろう。 もう一つに、ハイデガーに頻出の「(自己や存在に)先立つ〜」という表現があって、
ケースによって「統覚」や「アプリオリ Apriori」、「プリウス Prius」
などがあてはまるが、『「ヒューマニズム」について』では次の様にある。
“あらゆるものに先立って「存在している」ものは、存在である。” >>170
ルターもか
デリダの脱構築(déconstruction)→ハイデガーの解体(Destruktion)→ルターの解体(destruere) >>182
ここの解釈が分かりにくいですね。
つまり「まだ認識出来ていないものも含めて存在する」という前提があるようなのですが、
それは自身を過大評価しすぎだと思えます。
自意識過剰な人間が考慮できていないものまで考慮のうちに入れていると強弁しているに過ぎません。
(ホリエモンの「想定の範囲です」と同じ)
私は考慮できていないものは考慮できていない、認識していないものは認識していないことを告白した上で、
自身の想像力を恥じることなく公開します。
それが投影型生物としての人の誠実さであると共に、
周囲が実験台としての私に求めていることだからだと想像するからです。
そこにわけの分からない虚栄心や見栄は不要ではないかと思うのですが如何でしょうか?
皆さんは私の決め台詞である「〜と想像するのです。」という部分に嫌悪感を感じておいでのようですが、
言うまでもなくこれは確信犯でやっております。
「私としての反応」をどこまで純粋に行えるかがシグマ思想の真髄であると考えているからです。
私は私である以上、例えそれが誰かより劣っていたとしても私として反応せねばならない。
それは天が私に課した責任であり、私はそのことから逃れることも、逃れようとすることも、してはならないのです。
だいたい、検知できていないものを存在するなどと仮定することは科学的にもナンセンスです。
少なくとも感じているのなら「想像力を駆使しているな」と理解できますが、
感じてすらいないものまで認識の範囲に仮定することなどできないと私には思えます。
by 鼎 梯仁 >“あらゆるものに先立って「存在している」ものは、存在である。”
この前提条件の問題点を私なりに考えてみましたが、
この解釈は時間の流れを現在から過去に遡って見たときにしか成り立たない点ではないかと思います。
なぜなら、存在が確認されてから過去の時点に戻ってその対象を「先だって存在するもの」と結果論的に見なしているからです。
しかし現実には時間は現在から未来へしか流れない(少なくとも私が経験する限りでは)のですから、
“あらゆるものに先立って「存在している」ものは、存在である。”という仮定自体、
何の経験にも基づいていない投影型思想生物ならでは【脳内妄想】であると喝破したいのです。
つまり、ハイデガー氏は人間という生物が投影型思想生物であることすら、
まず認識できていない未熟者であると私には感じられるのです。
※先人を未熟者呼ばわりすることは本来、敬意に欠ける行為なのですが便宜上ここではそう表現致します。
もっと良い表現が見つかったら訂正いたします。
by 鼎 梯仁 184 名前:あぼ〜ん[NGWord:鼎 梯仁] 投稿日:あぼ〜ん
185 名前:あぼ〜ん[NGWord:鼎 梯仁] 投稿日:あぼ〜ん 発狂さん、キモAA上げ荒らしを死ぬまで続ける気ですか。
15年間も毎日毎日糞スレ立てて、キモいAAで上げ荒らしして、なにがしたいんですか?
こんなことだから50歳職歴なしの社会不適合者なんじゃないんですか?
あなたの生活保護費はボクやみんなの貴重な税金から支払われているですよ。
みんなに迷惑かけて恥ずかしくないんですか?
あなたほんとにみんなと同じ日本人ですか?
そんなにやりたいならsageて誰にも知られない底で一人勝手にやってください。 187 名前:あぼ〜ん[NGWord:こんなことだから50歳職歴なしの社会不適合者なんじゃないんですか?] 投稿日:あぼ〜ん 発狂さん、キモAA上げ荒らしを死ぬまで続ける気ですか。
15年間も毎日毎日糞スレ立てて、キモいAAで上げ荒らしして、なにがしたいんですか?
こんなことだからしのんじゃないんですか?
あなたの生活保護費はボクやみんなの貴重な税金から支払われているですよ。
みんなに迷惑かけて恥ずかしくないんですか?
あなたほんとにみんなと同じ日本人ですか?
そんなにやりたいならsageて誰にも知られない底で一人勝手にやってください。 発狂さん、キモAA上げ荒らしを死ぬまで続ける気ですか。
15年間も毎日毎日糞スレ立てて、キモいAAで上げ荒らしして、なにがしたいんですか?
どんなうどどんぺっだからまんこくさいんじゃないんですか?
あなたの生活保護費はボクやみんなの貴重な税金から支払われているですよ。
みんなに迷惑かけて恥ずかしくないんですか?
あなたほんとにみんなと同じ日本人ですか?
そんなにやりたいならsageて誰にも知られない底で一人勝手にやってください。 >>187>>189>>190
上げ荒らししてるのは何で? パパとママまた喧嘩してる。
言ったろ俺は言葉のことだけを好きなんだって。
だから心配してるのは、世界が言葉のことを逆恨みするんじゃないかってことだけだよ。
現実は時間は現在から未来へしか流れない。
私が経験する限りでは。
ですから、“あらゆるものに先立って存在しているものは、存在である。”
というその仮定は、 何の経験にも基づいていない脳筋生物ならではの
【筋内妄想】であると私は喝破したいのです。 発狂さんが不良品処理されない理由
哲学板には、発狂さんと呼ばれる荒らしがいる。彼は10年以上、ほぼ毎日、一日に数回、気持ち悪いAAを貼りまくって、上げ荒らしを続けている。
普通に考えて、ニートで精神を病んだ人なんだろうけど、10年も毎日淡々と荒らしを続けることは驚愕だ。
なんの生産性もないことに、人生を浪費し続ける。この原動力はなにか。想像するに、それは彼によっての回収作業なんだろう。
リアルの不遇から生まれ続ける負債を、板を荒らすことで精算する。
彼の論理では、私がこんなに不幸なんだから、板を荒らすことは正統な行為である。
ここで前提になっているのは、自らの不幸は社会のせいであるということ。無数にいる人々の中でたまたま私なんだという偶然性。
私は全体の中の偶然の一人。これは近代に生まれたマクロ思考だ。
発狂さんは、精神を病み、ニートで、マクロ的には多くの人の中の不良品で、さっさと処分すればいい。
ミクロは、それをかけがえのない人として社会保障で救済する。
それでも発狂さんの気持ちは回収されない。だからここで、毎日毎日発狂荒らしする。おれはおまえだ。おまえがおれでなかったのはただの偶然だ! おやおやw 久々に新しい自己紹介コピペを貼りだしましたかwwwww
バレていないと思ってるのが基地外の基地外たる所以ですねぇ波平さんwww 前科者は信用ゼロですよw
http://mimizun.com/log/2ch/philo/1245333708/797-798
> コテを外し忘れたままキモAA荒らしを装う波平の雄姿wwwwwww
>
> 797 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/07/14(火) 21:55:45 0
> ...-ー、,-─
> .-=・=- i、-=・=-
> ((i))
> .. -=ニ=- つのがらいクリかね?
> .`ニニ´
> γ´⌒\___/⌒ヽ
> /⌒ ィ `i´ ); `ヽ
> / ノ^ 、___¥__人 |
> ! ,,,ノ爻\_ _人 ノr;^ > )
> ( <_ \ヘ、,, __,+、__rノ/ /
> ヽ_ \ )ゝ、__,+、_ア〃 /
>
> 798 :考える名無しさん :2009/07/14(火) 21:57:03 0
>>>797
> もしも〜し、コテ外し忘れてますよ〜(ppp
> 888 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/12/28 22:29:04
> ぴかぁ〜がかつていっていましたが、
> 「マイフェイバリットト」から「マイブーム」へと、
> 欲望の加速化、細分化ですね。
>
> 891 :考える名無しさん:04/12/29 19:11:00
> >888
> うわっ、888フィーバーでもろばれ自演。ぴかぁさん素敵w 普通に考えれば
気持ち悪いAAを無視できずに逐一レスして回る執念も異常なんですがw
要するにしつこくレスしているように見せかけて気持ち悪いAAを宣伝しているんじゃないですか? ハイデガーは事実存在の側だ、などと適当なことをペロペロするような脳味噌にはここに書き込んで欲しくない。
まともに本を読むことができないならば、消えろ。本を読むというのは、人の言うことをちゃんと聞き取るということだ。
それができないならば、公共の掲示板なんかに出てくるんじゃない。 んなことは当たり前のことだろが。
****************************************************************************************
『現象学の根本諸問題』から
「現存在は、<何であるか Washeit>によってではなく、−こうした造語が許されるならば、
<誰であるか Werheit>によって構成されているのです。この問いに対する答えが与えられるのは、
事象ではなく、むしろ私、君、われわれ、君たちです。
しかし、我々はやはり他方ではまた、現存在のこの<誰か(Wer)>とこの<誰であるかということ>は
何であるか、と問いますし、たとえば先に挙げた狭義の<何か Was>すなわち事物的現前存在者の
事象性からは区別されるこの<誰か>とは何であるか、と問います。
我々は疑いなくこう問うことでしょう。しかし、ここで告げられているのは、<誰か>の本質をも問うときの
この<何か>は明らかに、<何であるかということ>という意味での<何か>とは一致し得ないということに
すぎません。
言い換えれば、本質存在 essentia すなわち<何であるかということ>という根本概念はいまや、
現存在と呼ばれるべき存在者に直面して、ますます問題をはらんだものになり、このテーゼ[すなわち、
どんな存在者にも本質存在と事実存在が属しているというテーゼ]を普遍存在論的なものだとする
基礎づけが不十分であることが明らかになる、ということです。」(邦訳198) >>197
またいつもの読み落としか?
その直後に書いてあるだろ。
「どんな存在者にも本質存在と事実存在が属しているというテーゼは、
もっぱら一般的な問題を告知しているにすぎない」
更にその後、
「<存在>という呼び名で呼ばれるのが、いまや単に本質存在と事実存在(エクシステンティア)だけではなく、
それと同時に<誰であるかということ>と、われわれの言う意味での実存(エクシステンツ)でもあるからなのです。」 >>197
今は『存在と時間』を起点にした説明を行っているところで、『存在と時間』の説明が先。
『現象学の根本問題』はその後の本だろ。
『アリストテレスの現象学的解釈』から『存在と時間』へという過程はどう説明する? >>197
それよりも、お前が答えなければいけないのは>>100と>>123だ。
誤魔化すな。 >>197
『存在と時間』から『現象学の根本問題』への接続については、後で説明してやる。 588 名前:あぼ〜ん[NGWord:◆JXLBbnYqTY] 投稿日:あぼ〜ん
166 名前:あぼ〜ん[NGWord:◆wMDHqGPerU] 投稿日:あぼ〜ん
25 名前:あぼ〜ん[NGWord:◆kpxxLE2Sh.] 投稿日:あぼ〜ん
10 名前:あぼ〜ん[NGWord:発狂さん] 投稿日:あぼ〜ん
37 名前:あぼ〜ん[NGWord:キモいAAで上げ荒らしして] 投稿日:あぼ〜ん
11 名前:あぼ〜ん[NGWord:あなたの生活保護費はボクやみんなの貴重な税金から支払われているですよ。] 投稿日:あぼ〜ん
74 名前:あぼ〜ん[NGWord:そんなにやりたいならsageて誰にも知られない底で一人勝手にやってください。] 投稿日:あぼ〜ん
12 名前:あぼ〜ん[NGWord:つのがらいクリ] 投稿日:あぼ〜ん
28 名前:あぼ〜ん[NGWord:パンツョック] 投稿日:あぼ〜ん
19 名前:あぼ〜ん[NGWord:ウムの食い込み] 投稿日:あぼ〜ん
148 名前:あぼ〜ん[NGWord:どかんかん] 投稿日:あぼ〜ん 毎日ネットに向かって同じことの繰り返しをやっている奴もゲーム脳だぞ。
深く考えることをせず、条件反射的なやり取りを繰り返していると
脳がつるつるになる。 「存在という何ものかが現れるのは存在者に対する
すべての振る舞いの根底に横たわる。存在者に対する振る舞いそれ自体は一個の存在者たる
われわれ人間現存在に固有である。存在者に対するあらゆる振る舞いを可能たらしめる存在了解は
現存在に固有である。存在了解それ自体が現存在の存在様態をとる」 『存在と時間』が未完成であること
ハイデガーは『存在と時間』を振り返って、
「未済感がある」とか、「人間中心主義的に読まれる懸念がある」とか、
「本質存在と事実存在の関係について言明される状態になかった」
などと述懐している。
そうの一方、『現象学の根本問題』で明示された
「存在論的差異」(存在と存在者の差異)については、一概念操作であることを超えて、
その差異の区別をもつことが、哲学の営為そのものであるとしている。
この様なことからも、『存在と時間』ではまだ朧げであったハイデガー存在論のフレームワークが、
『現象学の根本問題』において明確になってきたと言える。 細谷は読者に対して、次の様にアドバイスをしている。
・『存在と時間』をハイデガーの著作全体と対照して読むこと
・全体を見越して記された巻頭言と序言とをくりかえし熟読すること 『「存在」と「時間」』とはそれぞれ何か?
これが書いてあるのが巻頭言。
“時間を解釈して、それが存在についてのあらゆる理解の可能的な地平であることを示すことが、その当面の目標である。”
地平(ホリツォント)=視野、視界 『存在と時間』とヘーゲル
『存在と時間』の最初と最後を読むと、
ヘーゲルの『大論理学』や存在論について触れられている箇所がないだろうか?
ハイデガーに最もに大きな影響を与えたのがヘーゲルの存在論だろう。
このことは『現象学の根本問題』の以下の部分へと接続される。 “われわれは、存在者ならばいつでも容易になんらかの領域から自分の前に差し出し、表象することができます。[略]
では、哲学の対象はどうでしょうか。
「存在」といったものを表象することは可能でしょうか。
そんなことをしようとすれば、眩暈(めまい)に襲われるのではないでしょうか。[略]
たしかに、存在者であれば、それはなにかあるものであり、
机であったり椅子であったり、樹木、天、物体、言葉、行為であったりします。
たしかに、こうした存在者なら思い浮かべることができますが、
しかし存在を思い浮かべるなんてことができるでしょうか。
というのも、存在などというものは無のように思われるからであり、
しかもほかならぬヘーゲルが「存在と無は同一である」などと言っているからです。
となれば、存在についての学である哲学は、無についての学だということになります。”
― 『現象学の根本問題』木田訳 ここまでを見ても、まだハイデガーと存在論の入口、
古代存在論をやる入口、ドイツ哲学の入口というところだろう。 最小限の時間でハイデガーを始められる3冊
・ハイデガー『存在と時間』細谷訳
・ハイデガー『現象学の根本問題』木田訳
・木田元『ハイデガー「存在と時間」の構築』 (※ケーレと上記2冊の解説を含む) 「われわれが存在者の存在に出会うのは、存在了解・黙知においてである。
存在のごとき何ものかを開示あるいは顕わにするのが了解である。存在了解を
特権付けるこの特異な開示性においてのみ存在は与えられる。われわれは何ものかが
顕わに開示されることを真理と呼んでおり、これがすでに古代に萌した真理の適切な
概念である。」 「開示が、すなわち真理があるときのみ存在は与えられる。しかし真理があるのは、
或る一個の存在者が、開き開示するとき、しかもその開示すること自体がその存在者の
存在様態に本質的に帰属するような仕方で開示するときのみである。われわれがその
存在者なのである。 「アプリオリに、存在は存在者に先行する。この先行とその可能性の意味は
究明されたことがなかった。何故存在の諸規定及び存在自体が優先性を持たねば
ならないのか、こうした優先性はいかにして可能なのかという問題はいまだかつて
提起されたことがなかった。先行するとは、時間の規定であるが、これは我々が
時計を用いて計測する時間の秩序に合致しない。それどころかまるで「さかしまの
の世界」におけるがごとき先行である。 それ故当然ながら存在の特質たるこの先行性は、後続性として一般公衆的に
理解されている。ただ時間性を通じた存在解釈のみが、何故そして如何にこの
先行しているという特質・先験性が存在と合致するかを明らかにすることが
できる。存在及びすべての存在構造の先験的特性は、したがって、存在への
接近と把握について特異な方法を要求することとなる。a priori cognitionが
それだ」 「われわれが現象学と呼ぶものは先験的認識の基本的構成要素から成り立って
いる。現象学とは、存在論の方法を指すための名称である。」 高田のコラムは、以下で一通り読むことが出来る。
能動と受動の交錯(高田珠樹)1 『ハイデガー『哲学への寄与』解読』2006, P.213
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/philo/1470409465/136
能動と受動の交錯(高田珠樹)1 『ハイデガー『哲学への寄与』解読』2006, P.213 (実質2)
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/philo/1470409465/148
能動と受動の交錯(高田珠樹)3 『ハイデガー『哲学への寄与』解読』2006, P.213
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/philo/1470409465/160
能動と受動の交錯(高田珠樹)4 『ハイデガー『哲学への寄与』解読』2006, P.213-
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/philo/1470409465/220
能動と受動の交錯(高田珠樹)5 『ハイデガー『哲学への寄与』解読』2006, P.213-
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/philo/1470409465/278
能動と受動の交錯(高田珠樹)6 『ハイデガー『哲学への寄与』解読』2006, P.213-
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/philo/1470409465/452
能動と受動の交錯(高田珠樹)7 『ハイデガー『哲学への寄与』解読』2006, P.213-
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/philo/1470409465/576
能動と受動の交錯(高田珠樹)8 『ハイデガー『哲学への寄与』解読』2006, P.213-
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/philo/1470409465/620
能動と受動の交錯(高田珠樹)9 『ハイデガー『哲学への寄与』解読』2006, P.213-
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/philo/1470409465/733
能動と受動の交錯(高田珠樹)10 『ハイデガー『哲学への寄与』解読』2006, P.213-
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/philo/1470409465/846 >>93で、
「受動能動論から始めて、ハイデガー哲学の全体像を説明できるか」とした。
それは、高田のコラム8の以下の部分と比較してもらえばいい。
> それでは。この自己の能動と受動の一体化としての歴史と伝承の生起、
> 決断による共同体の遡及的構成という主題構成が消えたのかという、そうでもないらしい。
> むしろ『寄与』の中心的な主題である性起(Ereignis)とは、
> 歴史や伝承に関するこの能動と受動の相関の問題を継承していると私は考えている。
つまり、
(入口)『存在と時間』の受動能動問題
↓
(経由)ハイデガーの存在論の変遷(『現象学の根本問題』、ケーレ、古代存在論、メタ存在論など)
↓
(出口)『寄与』の性起(Ereignis)
『存在と時間』は主著。
『寄与』は第二の主著。
その間を存在論の変遷で埋めればいい。 >>198
> >>197
> またいつもの読み落としか?
>
> その直後に書いてあるだろ。
>
> 「どんな存在者にも本質存在と事実存在が属しているというテーゼは、
> もっぱら一般的な問題を告知しているにすぎない」
だから現存在は一般的な問題ではない、と言ってるのだよ。
> 更にその後、
>
> 「<存在>という呼び名で呼ばれるのが、いまや単に本質存在と事実存在(エクシステンティア)だけではなく、
> それと同時に<誰であるかということ>と、われわれの言う意味での実存(エクシステンツ)でもあるからなのです。」
つまり、ハイデガーが言いたい<実存>とは、伝統的な意味でのエクシステンチアではない、ということだ。
しかるに君は、「ハイデガーはエクシステンチアの側だ」などと適当なことを言っていた。
それは間違いと認めて撤回しなくてはならないんだよ。撤回するのかね? >>123
> ixtlanの問題点
>
> > 44 名前:ixtlan[] 投稿日:2016/08/19(金) 22:50:22.54 0
> > >>42
> > 序論から読むのはきつい。
> > 30節以降、頽落論あたりから読むという手もある。
> > 最小限の努力で中核をものにしたいのであれば、41節と65節だけでいいんだよ。
>
> (1)ゾルゲ(気遣い、関心、慮、Sorge)の構造分析で終わっている
> (2)『存在と時間』やハイデガー哲学の全体像が示されていない
終わってないし、全体像も示している。
41を起点にその前にも後にも行けるということ。これが把握されていれば、
『ハイデガー哲学入門』(仲正昌樹)は間違っているということが分かる。
その際の中心概念の選択で彼は間違った。(Worumwillen ではなく、
Woraufhinを中心概念としてしまった)
> (3)ハイデガーのケーレ(転回)が充分に考えられていない
ケーレは昔から受動性への転回(リクール、木田)と考えられてきたが、
今の研究状況ではそんなに単純ではない。
> (4)受動能動論と『存在と時間』論の混同がみられる
『存在と時間』は受動能動論の一事例である。
「受動性の能動性の交錯」(高田珠樹)などは、受動能動論の
一材料として見られる。 >>207
> 『存在と時間』が未完成であること
>
> ハイデガーは『存在と時間』を振り返って、
> 「未済感がある」とか、「人間中心主義的に読まれる懸念がある」とか、
> 「本質存在と事実存在の関係について言明される状態になかった」
> などと述懐している。
>
> そうの一方、『現象学の根本問題』で明示された
> 「存在論的差異」(存在と存在者の差異)については、一概念操作であることを超えて、
> その差異の区別をもつことが、哲学の営為そのものであるとしている。
>
> この様なことからも、『存在と時間』ではまだ朧げであったハイデガー存在論のフレームワークが、
> 『現象学の根本問題』において明確になってきたと言える。
『存在と時間』にだって、存在論的差異に相当する思考はあるのだ。
世界内部的<存在者>と世界という<存在>とは異なる。
しかし、あまりそのことを追求しても、ハイデガーの言う<存在>というのは
かなり曖昧だからな、その外延が。各論考を比較考量するという方法しか
これに接近する手立てはない。
そういう意味で、『現象学の根本問題』がこれについて特権を持っている
というわけではない。
君は、自分が持っているもんだから特権化したがっているだけだ。
30年の『形而上学の根本諸概念』を見なくてはならない。
>>209
> 『「存在」と「時間」』とはそれぞれ何か?
>
> これが書いてあるのが巻頭言。
>
> “時間を解釈して、それが存在についてのあらゆる理解の可能的な地平であることを示すことが、その当面の目標である。”
>
> 地平(ホリツォント)=視野、視界
じゃあ、基本的なことを聞いてみようか。
なぜ<基礎存在論>が必要だったのかね?
>>214
> 「われわれが存在者の存在に出会うのは、存在了解・黙知においてである。
> 存在のごとき何ものかを開示あるいは顕わにするのが了解である。存在了解を
> 特権付けるこの特異な開示性においてのみ存在は与えられる。われわれは何ものかが
> 顕わに開示されることを真理と呼んでおり、これがすでに古代に萌した真理の適切な
> 概念である。」
それだけ取り上げてもしょうがないのだよ。<存在了解>あるいは<了解>と
対になるものを取り上げないと、ハイデガーにはならない。
>>213
> 最小限の時間でハイデガーを始められる3冊
>
> ・ハイデガー『存在と時間』細谷訳
> ・ハイデガー『現象学の根本問題』木田訳
> ・木田元『ハイデガー「存在と時間」の構築』 (※ケーレと上記2冊の解説を含む)
ハイデガーを木田の脳味噌の圏内に収めることは、もうできないな。
ハイデガーというのはもっと大きい。
木田はラクーラバルトやブルデューに対抗できるほどに、
詩学や社会学的視点を持っていない。
トランスディスクールというか、昔言葉で言えば学際というか。
ハイデガーには哲学だけでは収まらないものがあるのだ。
彼はヘルダーリンを読んだ体験を「地震」だと表現している。
我々はそれと同じ体験はできないかもしれないが、
ハイデガーについて云々するならば、せめてそういうものへの
接近義務は持たねばならない。 >>226
>>161にも書いが、
> 基礎存在論
> ・存在一般への問いに先行する人間存在への問い
これは、人間存在(現存在)の究明をやっていった先に、
存在一般の究明(有るということは一般にどういうことか)があるということ。
タイトルにもなっている。
"序論2-5節 存在一般の意味の解釈のための地平を打開する作業としての、現存在の存在論的分析論" ブルデューのはゴシップね。
リクールの『意志的なものと非意志的なもの』も表層的。
「意志的」、「非意志的」という語は、高田のコラムを読むのにあってもいいが。 ケーレの解説はいくつかあたってみたが、まとまったものがなかった。
30年代前半という説明が多いのは>>149に依拠したものだろう。
しかし、>>161のメタ存在論などを参照してみると、前ケーレ期であるとも言える。
>>152と合わせて、ケーレ期は『存在と時間』直後の少なくとも1928年から1935年頃だと考えている。 c点論者
「哲学とは」などと、論じている「日本の現実」では無い。
地に着いた日本の国家の「哲学」が必須な、「本音」でも「建て前」
でも、時である。
「2ちゃんえる」哲学徒は十二分に、ご承知の様に。
18歳から「選挙」に参加出来ます。
若きエネルギーに期待します。
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r‐'´ _ {
r'‐ _/ `ヽー、
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j / r{
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/ { ミ、ヽ_ノ と ノ
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(⌒:、l ||: ll: : : : :ヽ_ノ:::/ゝん、 V: ノ
んん_l、|l_ハハん-‐ヘz'′ `i´
ヘ 8 8 ヽ | グレーシュ『「存在と時間」講義』では、
>>161の基礎存在論からメタ存在論への転回についても触れられていた。
全集26巻にも「Kehre」と書かれているしね。 >>225
『形而上学の根本諸概念』も読んだが、
『現象学の根本問題』の方が重要だろう。 >>228
木田は『存在と時間』が読みたくて大学に入ったという人で、
ドイツで出版される以前から海賊版の『現象学の根本問題』を読んで、訳しもして、
1927年以降の講義録がむしろ『存在と時間』以上に重要だと言っている。 それまでの哲学者が「存在」と呼んでいたものをハイデガーは「存在者」と呼んだ。
そして、その存在者を存在せしめているところのものを、改めて「存在」とした。
これが存在論的差異であり、哲学史における存在論的転回であり、
詳しく説明がなされているのが『現象学の根本問題』。 「存在論は純粋に存在論的な仕方で基礎づけられはしない。西欧哲学の歴史が
示すように存在論の基礎とは、存在論的基礎ではなく存在的な基礎すなわち
ダーザインである」 指摘もあったが、受動能動で想起されるべき大本はフッサールだろう。
フッサールの「流れつつとどまっている」(『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』)。
知覚それ自身が、過去志向と未来志向の連続体に挟まれる「生きいきとした」現在性としてあるという。 フッサールのこうした原理に相当するものが、
ハイデガー哲学においては何であったか。 受動能動論とハイデガー読書については
見通しをつけたので、この件からは一旦降りることにする。 存在了解ってラカンの「他者のディスクール」のことだなとガッテンした まあ、全然違うけど、波平とイストランの中ではそうなんだろうな 『破壊と構築:ハイデガー哲学の二つの位相』 門脇俊介 (2010)
ヒューバート・ドレイファスの訳者で紹介者によるもの。
分析哲学、認知科学、テクノロジー論などを通した
英語圏におけるハイデガー哲学の受容と影響が、これ一冊で概観できる。
・ハイデガーと表象主義
・ハイデガーと分析哲学
・アメリカのハイデガー
など 「存在はつねに何らかの存在者の存在である。存在は存在者と本質的に異なる。
存在と存在者とのこの相違はいかに把握され解明されるのか。何と言おうと存在
するのは存在者だけだというのに、どうして存在が存在者に結属するなどと言え
るのか。存在なるものを探求の主題とするのなら、存在と存在者のこの差異を
明確にしなければならない。これの分別こそが存在論の元を成すのだから、これ
を存在論的差異明確化と称する。あれこれの存在者間の差異を分明するのではな
く存在と存在者のそれを成し遂げることが哲学探究の領野への参入である。」 「われわれが関わる各個の存在者は、その各個に特異な存在様態の如何を
問わずにこのものはこれこれ<である>と語られる。我々は存在了解に
おいて存在者の存在に出会う。存在のごとき何かを開示しあるいは顕現
せしめるのは了解である。この特異な開示においてのみ存在は与えられる
のである。我々は古典期からあるものが開示されることを真理と呼んで
おりしたがって開示がつまりは真理があるときのみ存在は与えられる」 「だが真理は、或る存在者が実存しつつ開示し、かつそうした開示すること自体が
その存在者の存在様態に結属しているときにのみ、ある。そして我々こそがその
存在者なのだ。現存在は真理のうちに実存する。そこでは開示された世界、そして
それともに現存在それ自身の開示されてあることが現存在に結属している。現存在
はその実存の本性により真理のうちに存在している。そして真理のうちに存在して いるがゆえにこそ現存在は真理ならざるもののうちに存在し得る可能性を持つ
のである」 「私の作品はカトリック現象学といわれ続けてきたが、それはプロテスタント
数学というよりもさらに馬鹿げている」 すみません
こちら映画作品板にそちらの板にお住まいらしき方が徘徊されておられるようです。
そちらのご親族の方、おられましたらお引き取り頂きます様ご一報下さい。
【片渕須直】この世界の片隅に 19【こうの史代】
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/cinema/1484394045/l50
この方です。
>149 : 名無シネマ@上映中 (ワッチョイ b66d-2ZTW)2017/01/15(日) 13:43:17.43 ID:UNNkqo200
>まさかドイツのフランクフルト学派のアドルノやホルクハイマーやハーバマスも知らないで戦争を扱った映画を論じるんじゃないだろうな?
>21世紀の哲学・社会思想の最低ラインの「反ヒューマニズム」の流れも知らないで論じてるのか?
>だったらそんな人間にこの作品を肯定するにせよ否定するにせよ評価する資格は一切ないわ 皆さん馬鹿ですねぇ。
私が貴方達(ハイデッガーも含めて)の
すべてを否定してあげますわよ。
出来てよ。 んじゃ俺はお前の存在を否定するッ
このスレは全部俺の自演だッ >>258
そうね。自演ね。
交わり無しー無世界ー神無し。
貴方はハイデッガーと同じく無責任ですし
ニーチェに似ているわ。 >>211
木田さんもヘーゲルも私から見たら悪いけど素人ですわね。
入り口だと言うことで助かったわね。
そのあとは現在に至るまで無限の欺瞞でしたけどね。 コテハン(名前)書くの忘れてました。
美魔女でーーす
男って下品で自惚れやで低脳だわ。
ママが言ってたもん。 >>258
私は知ることの出来ない別の仕方で存在しているはずです。
それは貴方やハイデッガーの言う存在論ではありません。
ましてや貴方の「お前の存在を否定する」は心理学です。
私の存在は存在論も心理学も一般も不可能ですね。
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