マルティン・ハイデガー5 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>447
問題は、信じるとはどういうことか、だろ? 高田珠樹訳『存在と時間』の綺麗な古書が4000円で売ってたからつい買ってしまった
これからガンガン読むぜ 存在者は歴史を持ち生成死滅する
したがって存在者の存在も歴史を持ち生成死滅する
って当たり前やんけ 総統閣下は本当は何を言っているのか
http://daimyoshibo.la.coocan.jp/ppri/fuehrer.html
Sie ist ohne Ehre!
栄誉などあるものか!
ズィー イスト オーネ エーレ!
「ちきしょーめ!」ですね。「ズィストーネーレ!」→「ちきしょーめー!」に
なっています 。
Von allem Anfang an bin ich nur verraten und betrogen worden!
「最初の最初から、私は裏切られ、欺かれてきていたのだ」
フォン アレム アンファング アン ビン イヒ ヌア フェアラーテン
ウント ベトローゲン ヴォルデン!
ウント・ベがおっぱい、トローゲンがトローン、ヴォルデンがヴォルンになって、
ぷるーんぷるんになっています。 ハイデガーは下からの革命を支持したので、議会も選挙も拒否した。むろん官
僚制(=統治の代理人)も。
選挙、代理人の拒否は表象の拒否を意味するので、ハイデガーの思想と深く関わる。
端的に言えば、実在論的存在(表象されるもの)と唯名論的存在者(表象す
るもの)の差異は自らの決断による以外には埋まることがないという思想だ。
(「いいかえると、投票はするが、それは代表制(議会)における投票のごと
きものではない、というのです」柄谷『戦前の思想』)。
ドイツの教職員諸君、ドイツ民族共同体の同胞諸君。
ドイツ民族はいま、党首に一票を投じるように呼びかけられている。ただ
し党首は民族から何かをもらおうとしているのではない。そうではなくて
むしろ、民族の全体がその本来の在りようをしたいと願うか、それともそ
うしたいと思わないのかという至高の決断をおのがじし下すことのできる
直接の機会を、民族に与えてくれているのである。民族が明日選びとろう
としているのは他でもない、自分自身の未来なのである。
(「アドルフ・ヒットラーと国家社会主義体制を支持する演説」1933年)
興味深いことに、柄谷はハイデガーが突撃隊を支持したことを、西田幾多郎が
海軍に加担したことと比較している(定本5巻232頁)。
ハイデガー批判は盛んだが、西田への批判は十分ではない、、、ということは
日本人は未だに自分の姿が見えていないということでもある。 追加:
ドイツの教職員諸君、ドイツ民族共同体の同胞諸君。 ドイツ民族はいま、党首に一票を
投じるように呼びかけられている。ただ し党首は民族から何かをもらおうとしているので
はない。そうではなくてむしろ、民族の全体がその本来の在りようをしたいと願うか、それ
ともそうしたいと思わないのかという至高の決断をおのがじし下すことのできる直接の機
会を、民族に与えてくれているのである。民族が明日選びとろうとしているのは他でもない、
自分自身の未来なのである。 (「アドルフ・ヒットラーと国家社会主義体制を支持する演説」1933年)
これは、深遠な形而上学がどのような政治とつながるかを端的に示している。ハイデッガーに
とっては、指導者を「選ぶ」といった自由主義的原理そのものが否定されなければならないの
であり、真の「自由」は喝采によって決断を表明することにある。そのときのみ、「民族の全体」
の「本来の在り様」としての真理があらわれる、というのである。表象representationとしての
真理観を否定することは、議会(=代表制representation)を否定することに導かれる。(柄谷行人『終焉をめぐって』p167)
http://kaie14.blogspot.jp/2014/12/blog-post_80.html 問題は大衆が現前する閾が無いことなのわかる?
喝采はテレビとかさすがに言わないと思うが
ま、要するに「祭儀」というか芸能の場が無いのよね
柄谷の貼るのはやめてねさげ なんにしても、国家だの民族だのと言いたがる連中というのは、自分の利益だけを追及してるか、頭がおかしいかのどちらかだよね。 出来事と自己変容―ハイデガー哲学の構造と生成における自己性の問題
景山 洋平 (著)
出版社: 創文社 (2015/10)
1982年生まれ
景山 洋平
帰宅中。ハイデガーが「民族」という際、
「我々の一員だと感じられる集団」くらいの広がりで受け止めるのが第一であり、
ただちに「ドイツ民族」や「大和民族」等に概念が限定される訳ではない。
プロレタリアートやLGBTや被差別人種をそこで考えることだってできる。
重要なことは、そうした皮膚感覚のアイデンティティが、
ハイデガーが「存在」と呼ぶものとのアクセスから捉え直されるべきであり、
更に、このアクセスが、広義のアイデンティティを持続させる労働と防衛を支えることである。
また、大学という点で言えば、ハイデガーは当時の「学問の危機」の言説をある程度引き継いでおり、
技術化した近代科学の問題点は、そもそも「知」が一般的に成り立つ場面への遡行によって取り組まれるべきだと考える。
2016年4月28日 >>461
ハイデガーと政治は切っても切れない課題だろ? なんで知ってるの?
バイトちゃんの名前晒すよ?そいつにさせてるんだろ? >>469
違う…。
ハイデッガーで見るべきは、464かと。 四方界、やり始めたら奥が深かった。
>>437-439はただの入口。
四方界こそが、ハイデガーのハイライトといってもいい。
『存在と時間』も『寄与』も、これまでにやってきた全てが、四方界に集約される。
まさにジェットコースター。
もとい、目からウロコのウォータースライダー。 >>438-439
以外にも、一番参考になったのは、
『ハイデガー(FOR BEGINNERSシリーズ)』 J・コリンズ、H・シラィナ (1999) 四方界 <Geviert>
“元有の真理を、われわれは、世界が世界するはたらきにおいて思索し、
天空と大地、死すべきものどもと神的なものどもからなる四方界の反照-遊戯、ととらえた。”
― 『ハイデッガー全集 第79巻 ブレーメン講演とフライブルク講演』 p93
天空、大地、人間、神々 \ (1) /
\ /
(2) X (3)
/ \
/ (4) \
(1)空 SKY
(2)人間 MORTALS
(3)神々 DIVINITIES
(4)大地 EARTH
― 『ハイデガー(FOR BEGINNERSシリーズ)』 p147の図 人間
↑
大地 ← E → 世界
↓
神々
Eは
Ereignis(性起)または
Erklüftung(裂き開き)
― 『ハイデッガー全集 65 寄与』 p335の図 四方界関連
・『ハイデッガー全集 79 ブレーメン講演とフライブルク講演』〈1949、1957〉 >>473
・『ハイデッガー全集 65 哲学への寄与論稿-性起から(性起について)-』〈1936-38〉 >>475
・『ハイデッガー全集 4 ヘルダーリンの詩作の解明』〈1936-68〉
・『ハイデッガー全集 39 ヘルダーリンの讃歌』〈1934-35〉
・『ハイデッガー全集 52 ヘルダーリンの讃歌『回想』』〈1941-42〉
・『ハイデッガー全集 53 ヘルダーリンの讃歌『イスター』』〈1942〉
・『ハイデッガー全集 75 ヘルダーリンに寄せて』〈1942-43〉
<補足>真理「アレーテイア ἀλήθεια」関連
・『ハイデッガー全集 55 ヘラクレイトス』〈1943-44〉
・『ハイデッガー全集 54 パルメニデス』〈1942-43〉 >>475
>Ereignis(性起)または
>Erklüftung(裂き開き)
前にも書いたけど、"Ereignis"を仏教用語の「性起」と訳すのは感心しない。
"Erklüftung"を訳すのに「裂き」という表現を用いたことは評価する。
というか、日本語の古語の「〜さく」をそのように解釈すると、
日本の古典の研究者にはとても都合が悪いらしいw コモンセンスで理解できることを不必要に権威による承認に頼るべきではないと思う。 >>477
確かにそれは思っていた。
一般的には、「生起」だけど、「性起」という華厳の用語が使われている。
それが、
『ハイデガー(FOR BEGINNERSシリーズ)』のp153に
「ハイデガーの<四角形>には東洋の手本があった。
たとえば、ミハエル・ツィンマーマンは、仏教華厳宗の説話にハイデガーの断片を見る。」
とある。
具体的な箇所は示されていないけど、
何となくそれらしい箇所があった。 “すべては内奥にある(ヘルダーリン『形態と精神』草稿)
この句が述べようとしているのは、一つのものが他のもののなかへ独自化されている、
ということであるが、その結果、一つのものは、そこで、自分独自のもののなかに留まり、
それで初めて、独自のもの、すなわち、神々と人間、大地と天、に到達する。
この内奥性は区別を融合したり、消滅したりすることではない。
内奥性が指摘するのは、異なるものの相互関連であり、不審の念を統べることであり、
物怖じの要求である。”
― 『ハイデッガー全集 4 ヘルダーリンの詩作の解明』 p271 >>480
ハイデガーは仏教や華厳には言及していないが、
ここは、一入一切、一切入一、相即相入、相互浸透、インドラの網などの雰囲気がしなくもない。 性起(しょうき)
仏教用語。華厳教学で用いられる。
悟った仏の立場からみれば,あらゆる現象はその真実の本性に従って現れるという意味。
[ブリタニカ国際大百科事典]
華厳の四法界
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%84%E8%A6%B3
四法界とは現象世界に対する四つのものの見方である。
1.事法界(じほっかい)
我々凡人の普通の物の見方である。
2.理法界(りほっかい)
すべての物に実体はなく、空であるという見方。
3.理事無礙法界(りじむげほっかい)
実体がなく空であるという理と具体的なものごとが妨げあわずに共存しているという見方。
4.事事無礙法界(じじむげほっかい)
一切の物が空であるという理が姿を消し、一切の物事が妨げあわずに共存するという見方。 ハイデガーの老子 『道徳経』 第11箴言
“三十の輻(や)が車輪中心の轂(こしき)に当たっている。
だが然し、それらの輻の中の空隙が、車輪の有を許し与えているのだ。〈略〉
有るものは、有用性を生ぜしめる。
有らざるものが、有を許し与えるのだ。”
― 『ハイデッガー全集 75 ヘルダーリンに寄せて』p47-48 >>473
四方界のきっかけはヘルダーリン。
『ハイデッガー全集 4』には、
「ヘルダーリンの大地と天」という章がある。
「死すべきもの」とは、永遠の神に対して有限な人間という慣用表現。
「神々」とは、遁れ去りし古き神々。 (自然)と(時間)を足すとイメージしやすいかもしれない ハイデガーはヘルダーリンを手引きに、ドイツ・ギリシャ文明の起源を振り返る。
その過程、東洋(オリエント)、インダス、エジプト、老子、華厳(?)といった
アジア的なものと対決をしながら、ソクラテス以前の自然哲学へと遡る。 ハイデガーによるナチス批判〈1934-35年〉
“今ではなにもかも民族性と血と土にみちあふれているといった有様である。”
― 『ハイデッガー全集 39 ヘルダーリンの讃歌』 p282、解説p332 ヘルダーリン/ハイデガー的生起
“稲妻(Blitz)は、まなざし(Blick)と同一の言葉である。
まなざしのなかに現有がある。
雷雨は、それゆえ、「神の現有」である。
大地と天と神聖なもののなかに隠された神々、
こういったすべては詩人の静かに-喜ばしい(still-freudig)気分にとって
根源的に立ち現れる自然の全体のなかに現前する。”
― 「ヘルダーリンの大地と天」『ハイデッガー全集 4』 p218 後はこういう話
「形而-上学」=「超-自然学」(『哲学への寄与論考』二五八 哲学) “「真理」という語は、ギリシア人のもとでは或る否定を伴っている、
すなわちア-レーテイア<ἀ-λήθεια>――
非-覆蔵性、覆蔵されて-いないこと、である。”
― 『ハイデッガー全集 55 ヘラクレイトス』 p110
真理=隠されていないこと “自然(ピュシス)は隠れることを好む”
― ヘラクレイトス 断片123
ピュシス [physis]
〔哲〕 〔自然の意〕 単に物質的な自然でなく、生ける霊にみちた能動的・有機的なもの。
ギリシャ哲学の最初の主題となった。(大辞林 第三版) “既にこの太古の神性Ἀφαία(アパイア)
- 現われざるもの、現われることから身を引くもの、逃れつつ現われ出でるもの -
それがアレーテイアの謂うところを名指している。”
― 『ハイデッガー全集 75 ヘルダーリンに寄せて』 p279 「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という、あの根源的な振る舞い 浅田の場合は、自然の秩序たるピュシスから
ズレはみ出すところの人間性・社会性を扱ったのだけど 哲学的つぶやき−その101−
https://www.youtube.com/watch?v=zzzwj344O14
ハイデッガーの『有と時(=存在と時間)』の訳者、辻村公一氏のハイデッガーにまつわるエピソードを紹介します。
辻村氏が、1958年、フライブルグ大学での留学から帰国する際、友人たちが送別のコンパを催してくれたそうです。
そのお礼にと、辻村氏は芭蕉の俳句をドイツ語に訳して紹介していると、ハイデッガーが不意に会場に入ってきました。
そして、彼は芭蕉の句の中で "よくみれば薺(なずな)花咲く垣根かな" の句を、最上のものとして激賞したそうです… >>501の中で、ハイデガーが『星の王子さま』を勧めているという話があるけど、
「大切なものは目には見えない」とか、そういう話だろうね。 >>504
うまいことを言うね。
王政復「古」の明治維「新」みたいだ。 以下参考までに、『茶の本』「第三章 道教と禅道」(岡倉覚三・天心 村岡博訳)より
「しかしながら、道教がアジア人の生活に対してなしたおもな貢献は美学の領域であった。
シナの歴史家は道教のことを常に「処世術」と呼んでいる、というのは道教は現在を――わ
れら自身を取り扱うものであるから。われらこそ神と自然の相会うところ、きのうとあすの
分かれるところである。(略)人生の術はわれらの環境に対して絶えず安排するにある。
道教は浮世をこんなものだとあきらめて、儒教徒や仏教徒とは異なって、この憂き世の中
にも美を見いだそうと努めている。」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000238/files/1276_31472.html
このなかの「処世(術)」の英訳 (to be in the being of the world)がハイデガーの世界内存在
(in-der-Welt-sein)に繋がったとされる。
荘子の「処世」は「世に処(お)る(In-Sein)」と「世に処する(Ver-walten)」の二つを兼ねる。
(処世は荘子自身の用語ではない。荘子はむしろ処世を超越せよと説く)
以下、今道友信「一哲学者が歩んだ道」(中央公論1999年1月号)より
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5022
「私の恩師の一人、伊藤吉之助は一九一八年、第一次世界大戦直後、ドイツに留学、その
ときハイデガーを教師に雇いました。敗戦後のドイツはひどいインフレ で、連合国側の日本の
留学生のポケットマネーはドイツの若い学者たちには魅力的でした。(中略)伊藤は帰国に際し、
お礼の心づもりで『茶の本』の独 訳"Das Buch von tee"をハイデガーに手渡しました。それが
一九一九年。そして一九二五年にハイデガーの名を高からしめた『存在と時間』が出版され、
あの術語がことわり もなしに使われていたので、伊藤は驚くと同時に憤慨もしていました。
それからはるか後年の一九四五年、「いやあ、世話にはなっだんだが、やづければよがっ
だなあ」と庄内弁で私に述懐なさったことがあります。」
(後に『知の光を求めて―一哲学者の歩んだ道』今道友信 2000/3 に再録)
この説はハイデガーの老子への興味も説明出来るので十分信憑性がある。 100年近く前のドイツ語に翻訳されて出版された岡倉天心の本ならなぜか持っている。
随分前に入手したものだけど、まだ読んでいない。確か値段は、数百円くらいだった。 茶の本のバックボーンは道教
仏教にはない発生論がそこにはある
参考:
"Heidegger and Asian Thought"p.102-103
(1947年8月9日ハイデガーからシャオ氏への手紙における老子#15の引用)
http://books.google.co.jp/books?id=uOvIJSN5LEEC&pg=PA102&img=1&zoom=3&hl=ja&sig=ACfU3U2HP6osFw-63zP_EbO2mT8WB48BSg&w=685
https://i.gyazo.com/1e66ad00efeccd36287cd4dbff241036.jpg
山小屋にて1947年8月9日
親愛なるシャオ様
私は度々あなたを思い出します。またすぐにあなたとの会話を
再開できればうれしいです。
あなたが私に書いてくれた次の行を考えています。
孰能濁以靜之徐清。孰能安以動之徐生。
濁りを静め、澄みきるように誰れができようか。
動かないところから生き生き成長させるところまで、誰れができようか。
道徳経(天の道)より
親愛なる情を持って
あなたのマルティン・ハイデガーより >>506
あたりまえだろ
1946年に
ハイデガーは『老子』の翻訳をしている >>503
ハイデガーの実存主義ってのは、存在とは単独で成立するもんじゃなくて
他との関係性において成り立つといった、仏教の縁起や禅をを参考にした宗教だからつまらない
しかも、そこまで心の論理を追求した結果がナチスかよと 何にも学んでねえヤツのほうがマシなんじゃねえかな
人間の知恵だから読む値打ちがあるのに
そのまんまに戻ってどうするつもりなんだ 老子の無即有というモデル>>486-487は、ドイツ観念論のモデル>>381と同じでしょ? ルター「ハイデルベルク討論」における解体/構築
<解説>
「ハイデルベルク討論」の終わりのところで「十字架の神学」が隠れたる神の逆説として展開する。
ルターによるとキリストにおいて自己を啓示する神、つまり顕れた神は、もっとも深く自身を隠している神である。
(略)キリストは苦難と十字架というローマの極刑に付けられた、見るかげもない哀れな姿において自己自身をあらわす。
<本文>
(19)神の「見えない本質が」「造られたものによって理解されると認める」者は、神学者と呼ばれるにふさわしくない[ローマ 1:20]。
(20)だが神の見える本質と神のうしろ[出エジプト 33:23]とが、受難と十字架によって認められると理解する者は、神学者と呼ばれるにふさわしい。
[独語] Die Heidelberger Disputation
http://www.reformatorischeschriften.de/Hddisp/hddisput.html
[英語] The Heidelberg Disputation
http://www.catchpenny.org/heidel.html
解説…『ルター神学討論集』 マルティン・ルター、金子晴勇 (2010)
本文…『ルター著作選集』 マルティン・ルター、徳善義和ほか (2012) >>518
(19)はアリストテレス主義的スコラ学派による「栄光の神学」
(20)はパウロによる「十字架の神学」
ルターはギリシャ的スコラ神学を解体し、原始キリスト教的性格を洗い出した。 >>518
デリダの脱構築(déconstruction) → ハイデガーの解体(Destruktion) → ルターの解体(destructio)
の経緯については、以下が詳しい。
・宮ア裕助 「プロト脱構築について――ルター、ハイデガー、デリダ」
『現代思想 2018年2月臨時増刊号 総特集=ハイデガー -黒ノート・存在と時間・技術への問い-』
・茂牧人 「なぜ日本にキリスト教哲学が必要なのか」 (2009)
https://serve.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=49&block_id=42&item_id=1245&item_no=1
ハイデガーとルター ハイデガー → ドイツ観念論(ヘーゲル・シェリング>>381) → ルター>>518 → キリスト教 → 古代ギリシャの自然哲学>>496-498 何も学ばすにいる人、例えば読書をしない人が、宇宙世界のほとんどなら
罪悪心や呵責を背負っている悲しきヒトになることも、不可能な切なさがありえる
のです。 >>521
ハイデガー『存在と時間』
“それ自身の歴史に透明な見通しをつけることが
われわれの課題なのであるから、
固定化した伝統を解きほごして、
その伝統が生みだしてきた蔽塞状態を解消することが必要となる。
この課題をわれわれは、存在問題を手びきとして、
古代的存在論の伝承的形態を解体し、
かつて存在の最初の ―そしてそれ以来主導的となった― 諸規定が
そこで得られた根源的諸経験へひきもどす
解体作業(Destruktion)という意味でうけとる。”
― (序論2-6節) 細谷訳 ただ、真理(アレーテイア)モデルは古くからあるが、
さもすると、事物の陰に、来るべき真理の到来を
待ち続けることになる。メシア思想や真の革命などもそう。
だから、デリダはそれを反転させた。
自分の書くところ「エクリチュール」こそが世界であると。 >>516
お前こそハイデッガーの存在論を認識論かなんかと誤解してるんじゃないか ハイデガーってなんで完成した著作が1冊もないんだ? そんなこと一々聞かなきゃ分からないようなやつが何故ここにいるの?? >>534
>>529が最初の質問だよ?
あたま、大丈夫? >>529
>ハイデッガーの存在論て、なに?
《〜がある》《〜である》における〈ある〉とは何を実は意味しているのか、を究明する論稿
だとひとまずは言ってよいでしょう。 >>536
それだと言語論だよね。
視点によっては認識論だ。 >>525
取り敢えずひっくり返してみる人居るよね ハイデガーにとって存在論はメインじゃない
ハイデガーのメインは小乗仏教的な救済
あくまで彼自身の心の安定思想
だから他人とか社会がどうこうというの視点はない >>539
なるほど。💇
そういえば、ハイデガーは
精神疾患だったらしいね✨✨ >>540
らしいね
最近日本でもいくつかハイデガーの精神状態を巡って
医学者による論文も出てきているみたい
ちゃんと記録にも精神科医にかかっていた記録残っているから
そうなんだろうね カント研究者としてのハイデガーは面白そうなんだけどな。 柄谷行人はハイデガーの存在論を「ハイデガーが究極的に見出すのは、自己言及的な形式体系、あるいは自己差異
的な差異体系である」としてある程度評価しています(定本第2集p.133)。
ちなみに、存在=メタレベル、存在者=オブジェクトレベルという柄谷の解釈を東浩紀は受け継いで図解↓しています。
http://pds.exblog.jp/pds/1/200804/28/41/a0024841_4162993.jpg
↓メタレベル(存在)
_____
( __ )↑論理形式の産出
)( )|
/↓ \//___実存論的構造(2レベルの媒介)
/規定 //
/ _| |\ ↑
/ _/ | \
/_/______\_\オブジェクトレベル(存在者)
// ☆現存在 \_\
(○ (メタレベルへの入り口) )
\○__○____○_____/
○=客体的存在者
四方界は上の図を真上から見たと考えればいい ただし、実際にハイデガー自身が書いた図はそれとは違っています。
http://pds.exblog.jp/pds/1/200710/14/41/a0024841_15442757.jpg
上記は、「ハイデッガーが講堂の黒板に描いた図形、現存在の図示としておそらく唯一の物と思われる図形」(*)です。
それでも複数のクラインの壷を上から見たのだと解釈すれば整合性があります。また、右上を余白にした所に図を見る
ものの「脱自」を促す余地があり、ハイデガーはその点さすがだと思われます。クラインの壷だと図を見るものの位置が
超越的になってしますので、ハイデガーの意図とズレてしまうでしょうから。
*
上記図のハイデガー自身の解説:
「次ページの図は、人間の実存がその本質根拠において、決してどこかに事物的に存在している対象ではなく、
ましてや、それ自身の内で完結した対象ですらないということを明示するためのものでしかない。 (略)現存在と
して実存するとは次のことを意味する。現存在が「開け」られていることからもろもろの所与がそれに向かって
語りかけてくるが、その意味指示性を認取しうることによってある領域を開けたままにしておくというのがその
意味である。人間の現存在は、認取しうることの領域として、決して単に事物的に存在する対象ではない。反対
にそれはそもそも決して、もともと決していかなる場合であろうとも、対象化すべき何かではない。 」
ハイデッガー『ツォリコーン・ゼミナール』(みすず書房1991年,p3) より
(参考サイト:http://www.archi.kyoto-u.ac.jp/~maeda-lab/A_maeda/A03_thesises/A03_thesis_room.html)リンク切れ >>543-544
面白いねそれ
つまりハイデガー自身の説明と
柄谷行人のような第三者のハイデガー解釈はほとんどの場合は違う
ハイデガーの思考というか頭の中というのは
なぜか外部から思考が完全に閉じているように思える
やはりちょっとなにか障害があったんだろうね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています