マルティン・ハイデガー5 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>504
うまいことを言うね。
王政復「古」の明治維「新」みたいだ。 以下参考までに、『茶の本』「第三章 道教と禅道」(岡倉覚三・天心 村岡博訳)より
「しかしながら、道教がアジア人の生活に対してなしたおもな貢献は美学の領域であった。
シナの歴史家は道教のことを常に「処世術」と呼んでいる、というのは道教は現在を――わ
れら自身を取り扱うものであるから。われらこそ神と自然の相会うところ、きのうとあすの
分かれるところである。(略)人生の術はわれらの環境に対して絶えず安排するにある。
道教は浮世をこんなものだとあきらめて、儒教徒や仏教徒とは異なって、この憂き世の中
にも美を見いだそうと努めている。」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000238/files/1276_31472.html
このなかの「処世(術)」の英訳 (to be in the being of the world)がハイデガーの世界内存在
(in-der-Welt-sein)に繋がったとされる。
荘子の「処世」は「世に処(お)る(In-Sein)」と「世に処する(Ver-walten)」の二つを兼ねる。
(処世は荘子自身の用語ではない。荘子はむしろ処世を超越せよと説く)
以下、今道友信「一哲学者が歩んだ道」(中央公論1999年1月号)より
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5022
「私の恩師の一人、伊藤吉之助は一九一八年、第一次世界大戦直後、ドイツに留学、その
ときハイデガーを教師に雇いました。敗戦後のドイツはひどいインフレ で、連合国側の日本の
留学生のポケットマネーはドイツの若い学者たちには魅力的でした。(中略)伊藤は帰国に際し、
お礼の心づもりで『茶の本』の独 訳"Das Buch von tee"をハイデガーに手渡しました。それが
一九一九年。そして一九二五年にハイデガーの名を高からしめた『存在と時間』が出版され、
あの術語がことわり もなしに使われていたので、伊藤は驚くと同時に憤慨もしていました。
それからはるか後年の一九四五年、「いやあ、世話にはなっだんだが、やづければよがっ
だなあ」と庄内弁で私に述懐なさったことがあります。」
(後に『知の光を求めて―一哲学者の歩んだ道』今道友信 2000/3 に再録)
この説はハイデガーの老子への興味も説明出来るので十分信憑性がある。 100年近く前のドイツ語に翻訳されて出版された岡倉天心の本ならなぜか持っている。
随分前に入手したものだけど、まだ読んでいない。確か値段は、数百円くらいだった。 茶の本のバックボーンは道教
仏教にはない発生論がそこにはある
参考:
"Heidegger and Asian Thought"p.102-103
(1947年8月9日ハイデガーからシャオ氏への手紙における老子#15の引用)
http://books.google.co.jp/books?id=uOvIJSN5LEEC&pg=PA102&img=1&zoom=3&hl=ja&sig=ACfU3U2HP6osFw-63zP_EbO2mT8WB48BSg&w=685
https://i.gyazo.com/1e66ad00efeccd36287cd4dbff241036.jpg
山小屋にて1947年8月9日
親愛なるシャオ様
私は度々あなたを思い出します。またすぐにあなたとの会話を
再開できればうれしいです。
あなたが私に書いてくれた次の行を考えています。
孰能濁以靜之徐清。孰能安以動之徐生。
濁りを静め、澄みきるように誰れができようか。
動かないところから生き生き成長させるところまで、誰れができようか。
道徳経(天の道)より
親愛なる情を持って
あなたのマルティン・ハイデガーより >>506
あたりまえだろ
1946年に
ハイデガーは『老子』の翻訳をしている >>503
ハイデガーの実存主義ってのは、存在とは単独で成立するもんじゃなくて
他との関係性において成り立つといった、仏教の縁起や禅をを参考にした宗教だからつまらない
しかも、そこまで心の論理を追求した結果がナチスかよと 何にも学んでねえヤツのほうがマシなんじゃねえかな
人間の知恵だから読む値打ちがあるのに
そのまんまに戻ってどうするつもりなんだ 老子の無即有というモデル>>486-487は、ドイツ観念論のモデル>>381と同じでしょ? ルター「ハイデルベルク討論」における解体/構築
<解説>
「ハイデルベルク討論」の終わりのところで「十字架の神学」が隠れたる神の逆説として展開する。
ルターによるとキリストにおいて自己を啓示する神、つまり顕れた神は、もっとも深く自身を隠している神である。
(略)キリストは苦難と十字架というローマの極刑に付けられた、見るかげもない哀れな姿において自己自身をあらわす。
<本文>
(19)神の「見えない本質が」「造られたものによって理解されると認める」者は、神学者と呼ばれるにふさわしくない[ローマ 1:20]。
(20)だが神の見える本質と神のうしろ[出エジプト 33:23]とが、受難と十字架によって認められると理解する者は、神学者と呼ばれるにふさわしい。
[独語] Die Heidelberger Disputation
http://www.reformatorischeschriften.de/Hddisp/hddisput.html
[英語] The Heidelberg Disputation
http://www.catchpenny.org/heidel.html
解説…『ルター神学討論集』 マルティン・ルター、金子晴勇 (2010)
本文…『ルター著作選集』 マルティン・ルター、徳善義和ほか (2012) >>518
(19)はアリストテレス主義的スコラ学派による「栄光の神学」
(20)はパウロによる「十字架の神学」
ルターはギリシャ的スコラ神学を解体し、原始キリスト教的性格を洗い出した。 >>518
デリダの脱構築(déconstruction) → ハイデガーの解体(Destruktion) → ルターの解体(destructio)
の経緯については、以下が詳しい。
・宮ア裕助 「プロト脱構築について――ルター、ハイデガー、デリダ」
『現代思想 2018年2月臨時増刊号 総特集=ハイデガー -黒ノート・存在と時間・技術への問い-』
・茂牧人 「なぜ日本にキリスト教哲学が必要なのか」 (2009)
https://serve.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=49&block_id=42&item_id=1245&item_no=1
ハイデガーとルター ハイデガー → ドイツ観念論(ヘーゲル・シェリング>>381) → ルター>>518 → キリスト教 → 古代ギリシャの自然哲学>>496-498 何も学ばすにいる人、例えば読書をしない人が、宇宙世界のほとんどなら
罪悪心や呵責を背負っている悲しきヒトになることも、不可能な切なさがありえる
のです。 >>521
ハイデガー『存在と時間』
“それ自身の歴史に透明な見通しをつけることが
われわれの課題なのであるから、
固定化した伝統を解きほごして、
その伝統が生みだしてきた蔽塞状態を解消することが必要となる。
この課題をわれわれは、存在問題を手びきとして、
古代的存在論の伝承的形態を解体し、
かつて存在の最初の ―そしてそれ以来主導的となった― 諸規定が
そこで得られた根源的諸経験へひきもどす
解体作業(Destruktion)という意味でうけとる。”
― (序論2-6節) 細谷訳 ただ、真理(アレーテイア)モデルは古くからあるが、
さもすると、事物の陰に、来るべき真理の到来を
待ち続けることになる。メシア思想や真の革命などもそう。
だから、デリダはそれを反転させた。
自分の書くところ「エクリチュール」こそが世界であると。 >>516
お前こそハイデッガーの存在論を認識論かなんかと誤解してるんじゃないか ハイデガーってなんで完成した著作が1冊もないんだ? そんなこと一々聞かなきゃ分からないようなやつが何故ここにいるの?? >>534
>>529が最初の質問だよ?
あたま、大丈夫? >>529
>ハイデッガーの存在論て、なに?
《〜がある》《〜である》における〈ある〉とは何を実は意味しているのか、を究明する論稿
だとひとまずは言ってよいでしょう。 >>536
それだと言語論だよね。
視点によっては認識論だ。 >>525
取り敢えずひっくり返してみる人居るよね ハイデガーにとって存在論はメインじゃない
ハイデガーのメインは小乗仏教的な救済
あくまで彼自身の心の安定思想
だから他人とか社会がどうこうというの視点はない >>539
なるほど。💇
そういえば、ハイデガーは
精神疾患だったらしいね✨✨ >>540
らしいね
最近日本でもいくつかハイデガーの精神状態を巡って
医学者による論文も出てきているみたい
ちゃんと記録にも精神科医にかかっていた記録残っているから
そうなんだろうね カント研究者としてのハイデガーは面白そうなんだけどな。 柄谷行人はハイデガーの存在論を「ハイデガーが究極的に見出すのは、自己言及的な形式体系、あるいは自己差異
的な差異体系である」としてある程度評価しています(定本第2集p.133)。
ちなみに、存在=メタレベル、存在者=オブジェクトレベルという柄谷の解釈を東浩紀は受け継いで図解↓しています。
http://pds.exblog.jp/pds/1/200804/28/41/a0024841_4162993.jpg
↓メタレベル(存在)
_____
( __ )↑論理形式の産出
)( )|
/↓ \//___実存論的構造(2レベルの媒介)
/規定 //
/ _| |\ ↑
/ _/ | \
/_/______\_\オブジェクトレベル(存在者)
// ☆現存在 \_\
(○ (メタレベルへの入り口) )
\○__○____○_____/
○=客体的存在者
四方界は上の図を真上から見たと考えればいい ただし、実際にハイデガー自身が書いた図はそれとは違っています。
http://pds.exblog.jp/pds/1/200710/14/41/a0024841_15442757.jpg
上記は、「ハイデッガーが講堂の黒板に描いた図形、現存在の図示としておそらく唯一の物と思われる図形」(*)です。
それでも複数のクラインの壷を上から見たのだと解釈すれば整合性があります。また、右上を余白にした所に図を見る
ものの「脱自」を促す余地があり、ハイデガーはその点さすがだと思われます。クラインの壷だと図を見るものの位置が
超越的になってしますので、ハイデガーの意図とズレてしまうでしょうから。
*
上記図のハイデガー自身の解説:
「次ページの図は、人間の実存がその本質根拠において、決してどこかに事物的に存在している対象ではなく、
ましてや、それ自身の内で完結した対象ですらないということを明示するためのものでしかない。 (略)現存在と
して実存するとは次のことを意味する。現存在が「開け」られていることからもろもろの所与がそれに向かって
語りかけてくるが、その意味指示性を認取しうることによってある領域を開けたままにしておくというのがその
意味である。人間の現存在は、認取しうることの領域として、決して単に事物的に存在する対象ではない。反対
にそれはそもそも決して、もともと決していかなる場合であろうとも、対象化すべき何かではない。 」
ハイデッガー『ツォリコーン・ゼミナール』(みすず書房1991年,p3) より
(参考サイト:http://www.archi.kyoto-u.ac.jp/~maeda-lab/A_maeda/A03_thesises/A03_thesis_room.html)リンク切れ >>543-544
面白いねそれ
つまりハイデガー自身の説明と
柄谷行人のような第三者のハイデガー解釈はほとんどの場合は違う
ハイデガーの思考というか頭の中というのは
なぜか外部から思考が完全に閉じているように思える
やはりちょっとなにか障害があったんだろうね >>544
それ、人間は変化し続ける、の一言でよくね? 万物は流転する
ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず 難解な哲学書として知られる『存在と時間』に取り組んでみたいと
思うのですが、
誰の翻訳が一番わかりやすくて正しい翻訳になるでしょうか? 高田珠樹訳がいいと思う
高田はDa-seinとDaseinを
現を在ると現存在として訳し分けている
中公バックスを古書で買うのが安上がりだが
参考:
第一篇第5章目次より訳語一例
B. Das alltagliche Sein des Da und das Verfallen des Daseins
1B 「現」の日常的存在と、現存在の転落
2B 現の日常的存在と現存在の頽落
3B.「現われ」の日常的存在と、現存在の頽落
4B 現の日常的存在と現存在の頽落
5B 現の日常的有と現有の頽落
6B〈現〉の目常的存在と、現存在の頽落
7B 日常的に現を在る在り方と現存在の顛落
8B 〈そこに現に 〉(ダー)の日常的な存在と現存在の頽落
以上、
1 桑木務 訳 旧岩波 1960-3
2 細谷貞雄 訳 理想社1963,ちくま1994
3 松尾啓吉 訳、勁草書房、1966-69
4 原佑、渡邊二郎 共訳 中公1971,中公2003
5 辻村公一 訳 河出1967,創文社1997
6 熊野純彦 訳 新岩波 2013
7 高田珠樹 訳 作品社 2013
8 中山元 訳 光文社 2015,2018〜
より 高田珠樹訳。
目次の訳を見てみると良さそうですが、7,344円というのは
迷いますねぇ
中公バックス。アマゾンレビューでは「名訳」とありますが、
中公バックスでは、やっぱり駄目ですかね
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2BAK8CMC9LUAC/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4124006845 >>552
高田珠樹という人の訳は、少し大きめの図書館ならあるんじゃないの?
「現を在る」は、日本語破壊的な訳文の気もするけど。 >>552
取り敢えず事項索引のついているものにしておくのが良いと思います。ハイデガー自身は
自分の本に事項索引をつけるのを許さなかったらしいのですが、あれがないと読みたい箇所
や一概念の関連個所を見つけるのが難しい。
辻村公一訳はハイデガーのポリシーに忠実に、事項索引はつけてないですが、あの訳書の
唯一の難点がそこです。事項を探しにくいこと。なので他の例えば原・渡辺訳書の事項索引で
まず調べ、次に該当箇所を辻村訳書で読む、ということまで私はしていました。私は辻村公一
訳で初めてあの本を読んだ人間で、次に原・渡辺訳でも読みましたが。
sein には
「〜がある」と「〜である」という、用法がある。「〜である」の用法は「存在」という訳では
読みとれない。よって「有」という日常的ではない語を使う理はある、と
『ハイデッガーを学ぶ人のために』(大橋良介編 世界思想社 1994.11.30初版)に書いて
あります。
また、元々存在と存在者とかは日本語では区別が曖昧で、しかしハイデガーでは
その区別が思想の根幹として重要である。そこを有と有るもの、という区別で書かれた
辻村訳はハイデガーの意図に沿ってはいると思いましたね。 >>554
>sein には
文脈で分かるだろ。
「有」の方が日本語としては意味不明だし。
わからないとすれば、訳が悪いか、ハイデガー自身がわかってないから。 >>555
>文脈で分かるだろ。
いや、Da-seinではどのseinかが分からないということです。或いはあらゆる
seinが籠められているとも言える。「〜がある」も「〜である」も籠められているということ。
「存在」では、「〜がある」という意味しか浮かばない。なのでまずいということで
「有」が出てきた。そういうことです。 >>557
現存在といえば、「〜である」だし、存在であれば、「〜がある」で問題ないだろ? >>558
現存在は実存だから「〜がある」の方なんじゃないの? >>561
日本語の問題。
「が」という助詞は、特定のものを指す。
実存は関係の中でのありかただから、「で」が適切。
ハイデガーは、ほとんどが日本語の使い方で解消する。 存在(esse)という概念は
「〜がある」=事実存在(existentia)
「〜である」=本質存在(essentia)
の二つが区別されて、ハイデガーの現存在は
existentiaに相当する概念だと思っていたんだけど。 ハイデガーはギリシア語で思考していたという説があり
そうするとちくま版のギリシア語関連の注解が一番手軽で役に立つかもしれない 最初に戻っていくのが哲学であってはならず、単語一つの前の厚みを感じる感じで。 最初に戻っていくというよりも、そうだな、永劫回帰は哲学に向いてないね。 >>567
> このように形而上学的思考様式のもとで個々の事物が形相と質料の結合体として
> とらえられることによって,もともと単純であるはずの〈存在〉概念,〈ある〉という概念が
> 二義的に分裂することになる。つまり,〈ある〉ということが,形相によって規定される
> 〈何であるか〉という意味での〈である(ト・ティ・エスティンto ti estin)〉と,質料によって
> 規定される〈現実にあるかどうか〉という意味での〈がある(ト・ホティ・エスティンto hoti estin)〉
> との二義に分裂し,このト・ティ・エスティンがラテン語ではクイディタスquidditasあるいは
> エッセンティアessentia(本質存在,〈……である〉)と訳され,ト・ホティ・エスティンが
> エクシステンティアexistentia(事実存在,〈……がある〉)と訳された
https://kotobank.jp/word/existentia-1231419 >>568
はじめに書いたように、日本語としておかしいんだよ。
>>562を参照してね。 そう小難しくかんがえることはない。英語のbe動詞だと考えればよい。
He is angry. 彼は怒っている。
She is loving me. 彼女は私を愛している。
He is a demon actually. 彼は本当は悪魔だ。
このように、対象への判断・認識をbe動詞は表わすことができる。総括して
〈〜である〉の文法だといってよい。
事実なのか本質なのか、この次元ではなんともいえない。事実や本質やの
以前に言われてしまう〈ある〉をこの場合は表していると考えればよい。
Daseinという場合、そのような判断・認識が生起する「da そこ」だという
ことだ。
上記のような判断が「そこ」で事実生起したことが実存ということだ。
当人にとって、それは紛れもない真であり信である。紛れもない信であり真で
あることが生起する場所がDaseinだ。
これを前存在論的とハイデガーはいう。元々人間はそれが本当か否かなど
考えずに色んな判断・認識を日常的に行っている。「彼女は私を愛している。
間違いない」などと考えたりする。それは当人にとって紛れもない真であり信
である。
そのような信や真を基点にして人間は日常的に生きている。
ここに来ている輩など恋愛などしたことないから分からないのだろう。 >>570
難しく考えないなら、ハイデガーなんか、すべて無意味だろw >>570
>「彼女は私を愛している。間違いない」などと考えたりする。それは当人にとって紛れもない真であり信である。
いまどき一番安手のテレビドラマでも、そんな安直なことはいわないぞ?w >>572
本人の中でも極めて曖昧だろう。
気持ちに酔ってるだけで。 >>573
ハイデガーというのはその程度の話しか書いてないとは思うんだが、いくつかの著作を読んだだけなので、断定はしない。 >>574
ハイデガーって、こう考えたらどうだろう、的な話ばっかだよね。 >>575
ああ、なるほど、うまいこと言うね。
言われてみると、そんな気もしてくるw けっきょくフッサールの弟子筋で
現象学を正当に継承した人って誰もいないんだよね
レヴィナスは専門の第一哲学が倫理学だっていってるし
メルロ=ポンティは完全に身体論に寄っていった
サルトルは残念ながら現在ではその読者すらほぼいないという有様
ハイデガーは現象学やってるように見せかけながら
彼がやっていたことは『存在と時間』以前からほぼほぼ道教・仏教(しかも小乗仏教)のような方向性の
自分自身の心の平安という変なことを死ぬまでやっていた
正直いってハイデガーなんて『存在と時間』の序論だけで十分だと思う >>578
フッサール自身、自分の哲学をまとめきれなかっただろ?
デカルトに戻るか、ヘーゲルの軍門に下るか、心理学に解消するか・・・
ハイデガーが出てしまった理由は、そこにもあるんじゃないかな。 >>579
同感だな
フッサールの現象学ってまあ色々な人に一応は影響を与えたけれども
そのどの人や分野(分析哲学など)をみてもかなり行き詰まっている
現象学って超越的な視点がないじゃない
考える自分自身も対象と同一の存在として並列の扱いをする
でもこれやっちゃうと必ず自己言及的なことになってしまって
ある物や出来事を単純に二分割して名称を与えてAと非Aとすしてしまう
つまり現象学の方法論だと延々と水平移動するだけの名称ごっこにしかならない
だからメルロ=ポンティはその点はもっとも優秀で
現象学のドグマからすぐに出ていったでしょう
それで「身体」と「言葉」というものに注視した
メルロ=ポンティはあのレヴィ=ストロースの影響も晩年は大きかった
彼はソシュールは読む前に死んでいるんだけれども
結果としてソシュールみたいなことを考えていたからね >>580
話は逸れるが、ソシュールやレヴィ=ストロースは、ハイデガーにつながるんじゃないだろうか?
「存在」というありもしないものを設定するハイデガーと、ソシュールの言語の先見的共同性は同じものじゃないだろうか?
レヴィ=ストロースは、同時代に歴史段階の差異を認めないという、反ヘーゲル(マルクス)的な思考が、構造主義という名前を付けられてもてはやされただけで、内実はただのフィールドワーカーだと思う。
反歴史的思考のワラに縋りたい人を集めたという意味では、ハイデガーと同列ではないんだろうか? >>581
ハイデガーの「存在論」というのはトートロジーの構造になっている
何でもかんでも同じ存在のひとつとして人間も現存在として定義している
それにハイデガーには「言葉の問題」という20世紀哲学の中心問題のひとつには絡んではいない
彼は存在という「塊」について考えることで自分自身が抱えていた人生の問題を解決しようとした
しかしソシュールというのは「記号学(記号論ではなくて)」という人間の認識の根幹にかかわることまで考えようとしていたわけ
「言語には差異しかない」とソシュールはいったけれども
存在認識やその区別としての意味なんていうあたりのことはハイデガーにはどうでもいいことだったでしょう
人間が小説を書いたり絵を描いたり科学の体系を作ったりしたというようなことは他の動物にはないこと
それは人間だけが「言葉」というもの獲得していてその「言語能力・言語活動」によって
こうした学問や芸術はそもそも作られているというような考え方をしていた
メルロ=ポンティもソシュールを読む前に亡くなっているけれども
大筋はレヴィ=ストロースから聞いていたんだろうね
だから身体論から言葉の問題に舵をきったとことで若くして亡くなった
ちなみに戦後にラカンやメルロ=ポンティなどはハイデガーをフランスに呼ぼうと考えたのだけれども
それは実現している
ラカンにはハイデガーの『存在と時間』での考え方がかなり影響しているけれども
あくまでも序論レベルの範囲での影響だった
それ以外は同じことを何度も不器用な文体で繰り言をしているだけだったし
そもそもの『存在と時間』でのハイデガーの目的は「私はどうやって人生と折り合いをつければいいのか」
という人生論だったわけだからね
ソシュールの「記号学」というのは「言葉を獲得しているかどうか」で人類の文明は全く違ったものになっていた
というよりも
言葉なしではそもそも人間は何も「思考」できないということが常にあったのだと思うよ >>583
ソシュールが構造主義として受け止められたのは、その言語観が、歴史的な経緯からではなく、同時代としては先験的に人間に備わるとする思考による。
歴史を輪切りにして、それぞれの時代の共通基盤(としての言語の先験性)を設定したところが、構造主義と呼ばれる所以だ。
ドゥルーズのリゾーム概念が、構造主義のわかりやすい説明だ。
ハイデガーの存在概念は、さらにそれを時代を超えて、世界の本質として、「存在」なるものを設定する。
設定する意味が不明だともいえるが、「神」を設定したかっただけだだともいえる。
メルロ=ポンティは、現実の構造=人間と対象(環境)との関係に目を向けた。
その結果として心理学に向かった。
生活の糧を得るためだけで、心理学に進んだわけではないだろう。
『見えるもの見えないもの』は、言葉の問題にむかったといえるとは思えないが。 >>584
ごめんなさい
ちょっと何を言おうとしているのかわからないです
返答しようがない >>585
いいえ、どこがわからないか指摘してくれれば説明します。 >>586
>>584の文章すべてです
私の文章とは関係のないことが書いてあるようにしかみえません
全然別の話題を書いているように思えます >>587
では、まずソシュールの思考から。
>「記号学(記号論ではなくて)」という人間の認識の根幹にかかわることまで考えようとしていたわけ
学と論を分ける意味がわからないが、人間の認識の根幹にかかわることまでということには疑問がある。
言語や心理は、すべてが認識の根幹にかかわるといってしまえばそれまでだが、ソシュールの思考の根幹は言語の共通性にあって、言語と認識の関係を解明しようとしたものではない。
むしろ認識から切り離して、言語というものがそれ自体で独立して存在するかのように考えた。
あなたへの反論として書くと、論争みたいになって嫌なので、その結論だけを、>>584 に書いた。
かえってわかりにくかったのなら、申し訳ない。
異論があれば、もちろん、受けます。 >>588
>学と論を分ける意味がわからない
これは極めて基礎的な補足になってしまいますがそういう語の使い分けの問題ではなくて
両者は全く違う分野です
・記号学:言語学はこの記号学に含まれる下位の学問であり
何かを〈記号〉として発信したり何かの〈記号〉として働くものの仕組みや何故を問う学問を
「記号学」という
・記号論:言語や記号などが用いて〈論理〉のシステムを構築していく方法論のことであって
C・S・パースなどが記号論学者として有名
上記のように「記号学」は言語も含めた「記号とはどういう仕組で機能しているのかという何故を問う学問分野
「記号論」は記号を実際に使用してどのように活用できるのかを説明する学問分野
>ソシュールの思考の根幹は言語の共通性にあって、言語と認識の関係を解明しようとしたものではない。
ソシュールはまずこう前置きしている「言語学は記号学へと至る道筋のひとつである」
人間にとっての言語や合図・標識・マークなどというのはその社会において意味をもっていて
もし言葉というものが無かったならば科学も芸術も現在のように存在してはいないかっただろうということを
ソシュールは考えていて
「言語活動(ランガージュ)」という分節化能力によって人間は現在のような文明を得ることができたという
ようにソシュールは考えていたわけです >>581
ソシュールはハイデガーにつながる
>>583
ハイデガーはソシュールに始まる言語論的転回とは無関係だから両者はつながらない
>>584
>>588
あなたのソシュール観には誤りがある
ソシュールは認識から独立して存在する共時的言語構造を設定した
そしてハイデガーも一切から独立する「存在」を設定した
これが二人がつながる証拠だ
流れとしてはこんな感じか?
二人とも独立的な何かを設定しているから二人は思想的につながるというのは暴論だよね >>592
基礎が出鱈目すぎるよ
その程度の思いつきでしか書けないならば
君とはレスをしても仕方ないみたい
落ちます >>593
二人の書き込みをまとめただけなのに…
私は>>581でも>>583でも>>584でも>>588でもないのにひどすぎる >>594
いや馬鹿にしたわけではないよ
ソシュールはそれまでの「通時的言語観」から「共時的言語観」にシフトして
すべての諸言語に共通する「一般言語学」という「記号学」よりの思考を展開した
しかしあのソシュールでもやはり「一般言語学」というのは極めて困難で
沢山の遺稿がいまだに発見されているいる最中だけれども
著作としてまとめる段階にいく前にかなりの55才という若さで志半ばで逝ってしまった
もうひとりの人は「言語学」と「言語論」の区別もついてないくらいだから
彼とはレスをしても仕方ないと思ったわけ
知らない人に説明するのはしんどい
私は短絡してあなたと彼を同一人物だと勘違いしてしまっていた
ごめんなさいね >>595
「言語学」と「言語論」の区別を説明してみてくれw
相手を勘違いするぐらいのあなただから、さぞかし適切な説明が出てくるんじゃないかと、期待してる。 >>595
あ、もうひとつ。
上段部分は自分でなに言ってるか理解できてるの?
文の視点が散漫で結論もなく、なにも言ったことになってないと思うよ?
せめて、句読点をしっかりつけて、普通の日本語として意味の通る文になるように心がけようね。 >>591
勝手な分野設定に過ぎないな。
たとえば、時枝誠記の国語学は、どこに属させる気なんだ?
「〈記号〉として発信したり何かの〈記号〉として働くものの仕組みや何故を問う学問」であると同時に、「言語や記号などが用いて〈論理〉のシステムを構築していく方法論」でもあるぞ?
そもそも、「仕組みや何故を問う」ことは、そのまま「〈論理〉のシステムを構築していく方法論」と一体だろ?w
時枝は、まさに、認識と言語の関係を追及した言語論者であり、それを体系づけた言語学者だ。
>言語学は記号学へと至る道筋のひとつである
それはあなたの勝手な決めつけだよ。
>言葉というものが無かったならば科学も芸術も現在のように存在してはいないかった
>言語活動(ランガージュ)」という分節化能力によって人間は現在のような文明を得ることができた
そんな当たり前のことを、ソシュールは一生かけて追及したとでも思ってる?
相互の影響の度合い、というならまだしもだが。
いくらなんでも、あなたの書いてることは、レベルが低すぎるんじゃないか? >>598
ソシュール自身が構想していた考えそのものとしての全体像は
さすがに私には断定はできないな
>>言語学は記号学へと至る道筋のひとつである
そういうような内容を遺稿にも残しているんだよ
その点については世界で初めてソシュールの原資料にあたって論文を書いた
丸山圭三郎が存命中の時点でも遺稿から出てきている
ちなみにソシュールの原資料にまで及んだトータルなソシュール考察論文をは
フランスではたしか1990年代後半になってからようやく論文が書かれたということだから
フランスのソシュール研究もあまり捗ってはいないらしい
エングラーやゴデルなどの研究者が原資料をそのまま掲載した書籍は2000年以降も続いている
私もそうした何冊かのフランス語資料集は持っています
それから「記号学」と「記号論」の違いというのはそういうものであって
もっと単純に書くと「記号学」は「記号とはなにかというその根源を問う学」で
「記号論」というのは「ほぼ論理学」のようなもの
それは日本記号学会においてもそういう認識で両者は違うものとして区別されているから
それ以上はなんとも言えないな
あと私のこの「稚拙な文体」ね
コテはつけていないし他の人と区別するために 一見してわかるようようにこういう文体にしている
ソシュール研究が専門ではないけれども 大学院ではソシュールやイェルムスレウなどが絡んだ情報系の分野を
勉強している最中です
私は専ブラは使用していないしネラーではないのでレスは遅れますけれど
どうかお許しくださいませ >>599
院生では、きちんとした学問的な答えを求めるのは無理だったね。
誰がどう言ったとかが精一杯で、自分の視点と分類、つまり方法を確立できるようになるのは、まだ時間がかかるだろう。
ソシュールの言語学がどういうものであるのかは、もう一度『一般言語学講義』に戻って勉強することだ。
言語学を学んでいるなら、時枝誠記と三浦つとむは必須だと思うが、あなたはどちらも読んでいないようだ。
海外の言語学と日本の言語学は、視点が正反対かもしれない。
「記号論」だの「記号学」だのと、無意味な分類にこだわるより、ずっと有益だと思う。
院生としては、資料を集めて読むのが精一杯かもしれないが、自分の言語観(記号観?)を確認する必要はあるだろう。
もちろん、大学に職を求めるなら、担当教員の指示に従うことが一番大切だから、それを批判する気はないが。 >>600
時枝や先人たちの思考にふれるのは私のような学生の場合は当たり前のことですよ
ちなみにバイイとセシュエが編纂した『一般言語学講義』は彼らによって改竄されている部分があり
バイイ=セシュエ版の『一般言語学講義』を読んでもほぼ意味がない
後に出てきたコンスタンタンのノートを中心にして原資料と組み合わせた読解をしなければ意味がない
>「記号論」だの「記号学」だのと、無意味な分類にこだわるより
それは「無知の傲慢」というものではありませんか?
記号学会員ならば常識レベルの区別ですよ
それをあなたが知らないというのは単純にあなたが無知なだけです
両者を混同してまう人はけっこう多いんです
「記号学」は「semiology(セミオロジー)」
「記号論」は「semiotics(セミオティックス)」
これは日本記号学会の上部組織である国際記号学会においても明確に別のものとして扱われていますよ
単純に別の学問領域を「このことについては無知である」あなたがいくら「学と論に字違いなど関係ない」と
強弁したところで学会では通用しない
学部時代には私の専攻とは少し違うのですけれども
色々と指導してくださった恩師で今は退官されている野矢茂樹先生からも同様のことを教えていただきました
野矢先生は嘘をついたわけでしょうか?(笑)
まあいいでしょう
あなたのレスは無意味な悪意に満ちています
知識もかなり中途半端ですよね
わたしだってたかだか修士すらまだ途中の小僧ですが
あなたのように意地の悪い性根では学ぶという行為は空転してしまうことでしょう
なんとも無駄な応答時間になってしまって残念です ハイデッガースレで二人とも何をやってんだ?
スレ違いの糞ボケどもはとっとと去れやっ!
二度とくるな池沼嵐の💩がwwwwwww 記号論と記号学の区別は歴然とある
だから>>600は馬鹿
野矢云々は権威に訴える論証であって詭弁以外の何ものでもない
それをわからずに言ってんなら>>601は馬鹿
そして本題が何だったかを忘れて派生的な部分で無駄なやりとりしてる
だから二人とも馬鹿 >>603
もうひとりいたかw
池沼💩よスレ違いだ、ここから去れ、即刻去れ! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています