ヘーゲルスレがなくね? [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
、_
~) ヽ __
/ / ト 、 ト、__ ~゙゙ソ
( i、_ノノ` | i"~ ー=、 `ニ=
`ー'" ( =_ハ`> )ノ
ゝ'
,、,,..._ ピキッ
ノ ☻ ヽ
/ ::::: i
/ ::::: ゙、
,i :::::: `ー-、
| :::: i
! :::::.. ノ
`ー――――― '" ヘーゲル、ハイデガーは西洋哲学の限界を指摘した
それだけのこと でも分析哲学ですらヘーゲル化したんでしょ(うろ覚え) 以下、代表的なヘーゲル批判を孫引きする(山下正男『論理学史』p225より)。
「(ボルツァーノは) 例えばヘーゲルの好む表現 "運動とは質点Mが同じ瞬間に同じ
場所 m にあり , そして , ないことである" (大論理学邦訳岩波中p79より)を論理学の
自殺だときめつけ, 運動はそうした 矛盾律を犯さなくてもつぎのように正しく把握できる
と主張した. " 質点Mが一定の時間 T に運動するとは , M が同一の場所に静止
するような T の部分 t は一つも存在しないということである " . 」 哲学というのは伝統的論理による修飾が不可能な領域で叙述されるものなんじゃないかと思う だから分析哲学という名前は形容矛盾じゃないかと ヘーゲルは凡人にしてはよくがんばった 料理をするには包丁だけではダメ
鍋も必要
ヘーゲル体系はかなり大きな鍋 波平は杜玖椀晶子の一年分の尿風呂につかって歓喜の内に溺れ師ね エスノメソドロジー研究会(8/20土)
朝活ヘーゲル読書会、朝食を食べながらの開催でした。予定通りp.150まで進み、次回はp.160までの予定です。
ギデンズ先生の大好きな、自己自身に帰る反照性の話がたくさん出てきましたね。写真は朝食のヘーゲル鍋です。具は餃子と竹輪。
http://pbs.twimg.com/media/CSXpW6yUwAEXMdu.jpg
2015年10月27日 ,,::"::::::::::::::/ ヽ/ ヽ:::::::::::::"::,,
/::::::::::::::::;;;;l 🍅|🍅 l;;;;::::::::::::::::\
/:::::::::::: ''" ヽ. ,.-‐-、 ノ "'' ::::::::::::\
/::::::::::/ ー-、,,,_  ̄´l::::::::::::l` ̄ _,,,、-‐ \:::::::::ヽ
.| l|′ ,,if!lll!!゙゙゙‐'・・ .- , 、 .l|l ll
.ll | ,〈, ,,_,l,、 ,l゙,,l
.ll,,゙ l, _,,,,ノ ゙゙゙゙ヽ,,,,_,,,,,,l/!゙゜ \_,,,、 ノ゙,,l
: ゙゙llllヽ, ,,ll゙~`  ̄"゙|″ ヽlq .,/゙’,l
ll,,l l,,. |` _ _,,,_ .,,"__ l .,l゙ll,_,l′
゙゙|'!i, ゙ l,, .l(,,,, -=-´⌒=-´ ̄`ー,,,,,_,_),l".,/.l |゙’
l ゙l,,.ヽ ゙゙l~l l~/~,ll⌒l⌒l~ l l ノ゙゜/゜,√ ゙l| ペンパック聴くべきだろ?
゙l 、゙゙l, ゙l, `ヽ`- ┴,┴.┴‐┴´, / .,i/ |
,l゙|,, 〉、゙l、  ̄`~´ ̄ 〈l゙`,lヘ .,/l、
l`゙゙!,/゙ l,.'l、 ノ「./ .l/ '゙i, 精神現象学緒論
廣松の解釈から
とりもちと切り離された純粋な認識などない
関係の第一次性 カント的な主観と表象、物自体を否定して
実体としてではない関係の示差的な共同主観としてホーリスティックな
体系 精神の現象学(上)【ヘーゲル全集4】 (岩波オンデマンドブックス) オンデマンド (ペーパーバック) - 2016/8/17
金子 武蔵 (翻訳)
¥ 16,740
精神の現象学(下1)【ヘーゲル全集5】 (岩波オンデマンドブックス) オンデマンド (ペーパーバック) - 2016/8/17
金子 武蔵 (翻訳)
¥ 10,800
精神の現象学(下2)【ヘーゲル全集5】 (岩波オンデマンドブックス) オンデマンド (ペーパーバック) - 2016/8/17
金子 武蔵 (翻訳)
¥ 15,120 認識論の主流の流れ、孤立した主観が認識する
対象自体ー表象内容ー意識作用
だといくつかの論理的難点がある
カントに代表される知覚があって実在を模写する
そのモデルだと人間が認識するのは実在そのものではない
現象界と物自体
では知覚は実在から因果的関係を与えられてるのか
それは検証できない
実在は与えられないのだから知覚とどういう関係でそれが正しいのか
知覚の中には出てこないのだから検証しようがないのだ
知覚と実在が関係あるのかカントの理論はXになって
原理的に答えられない
そういうアポリアがある ヘーゲルはそういうミスは犯さない
認識と実在を分離しない
認識は孤立したものではない
孤立した主観が内省して実在を模写するものではない
実在とはとりあえずのものだ、実在とされるものは社会的に承認された
間主観、共同主観による、更には個々の認識は全体、
ホーリスティックな位置付けの中でしか意味をなさない
その社会的承認、ホーリスティックな位置付け、認識と実在の相互作用
揺れ動き変化し進化する認識、それを組み込んだもの
それがヘーゲル弁証法 孤立した主観がそのまま実在を直観できるという素朴実在論だと
何故人間は思い違いするのかとか、
同じ人間なのに一メートル手前の時と百メートル先で見かけた時と
大きさが違う
どちらが実在かとかは意味をなさないし、
見えかたが実際違ってるのだから実在とは別に知覚では違うことを、
承認しないといけない
素朴実在論は知覚毎にクオリア毎に実在は違って見えることを説明できない
しかし、カントの様に知覚と実在を分離することは実際は問題の解決に
何の役にも立っていない
ただ先伸ばししてるだけ そんなあなたにヘーゲル弁証法
おひとついかがですか? 繰り返すと素朴実在論は実在が同じでも、
知覚にとっては違って映る現実を説明できない
カント式主観的観念論では知覚と実在は違って映るということだけ言って、
何故そうなるかこちらの聞きたい肝心なことを放棄してしまう
一人ヘーゲル弁証法だけが一人の人間を一メートル先だろうが、
百メートル先だろうが同じ変項として扱うと社会的に承認されてると
だから同じ実在とされるものも視点によって見えかたが違うが
社会的には同じものとして扱うと
こういった処理でまともな議論の対象になる 哲学史講義 1
G・W・F・ヘーゲル 著
長谷川 宏 訳
河出文庫 文庫 ● 480ページ
ISBN:978-4-309-46601-9 ● Cコード:0110
発売日:2016.09.06(予定)
最大の哲学者、ヘーゲルによる哲学史の決定的名著がついに文庫化。大河のように律動、変遷する哲学のドラマ、全4巻改訳決定版。
『T』では哲学史、東洋、古代ギリシアの哲学を収録。 ηαυατο υοσηιδα
デリダが引用して以来、戦後の最重要テクストの一つになった
「ヘーゲル、死と供儀」でバタイユはジョイス(『フィネガンズ・ウェイク』)を取り上げてるんだよね。
ベケットへの書評「モロイの沈黙」と並んで、あまり話題にされないけどバタイユを「書くことの問い」に結び付けうる重要な言及だと思う。
2016年8月17日 ソクラテスの具体的な仕事は哲学を教えること 、いや 、 (自分の考えを教えるというより )
あらゆる階層 、あらゆる年齢 、あらゆる職業の人とつきあうことですが 、この哲学的な交際
生活は 、アテネ人の一般的な生活がそうだったように 、外にむかって開かれていた 。つまり 、
かれは 、一日の大部分を文字どおり市場でぶらぶらしたり市の体育場をうろつきまわって 、
ときには体操もするが 、大抵はおしゃべりをしてすごしました 。 … …ソクラテスのおこなった
ことは 、 … …一般的に道徳論と名づけられますが 、しかしそれは 、説教 、訓戒 、講義 、
陰気な道徳論のたぐいではなかった 。そんなものは 、アテネ人の趣味に合わぬ 、およそ
アッティカ風の洗練さとは無縁のしろものです 。そこには対等で自由な関係がない 。ソクラ
テスはアッティカ風の洗練さをいささかもそこなうことなく 、すべての人とことばを交わし 、
出しゃばって他人をさとしたり自説を押しつけたりすることなく 、各人の自由を全面的に肯定 ・
尊重し 、反面 、一切の下品さをしりぞけました 。かくて 、クセノフォンの対話篇 、いや 、とり
わけプラトンの対話篇は 、優美な社交的教養の最高傑作となっています 。
ヘ ーゲル 『哲学史講義 』 (河出書房新社 )上巻 、三八二ペ ージ 。長谷川宏訳、
『新しいヘーゲル』より わたしの哲学史をみなさんが熱心に聴講してくださったことに感謝しなければなりません 。
おかげで満足のいく講義をすることができました 。こういうかたちでみなさんと精神生活を
共有できたことを 、 ─ ─いや、共有できたというのは当たらない、いいかえましょう、相とも
に精神の絆を結ぶことができたことを、うれしく思います。いまは、精神の絆がいつまでも保
たれることを祈るばかりです。みなさん、ごきげんよう。
ヘ ーゲル 『哲学史講義 』 (河出書房新社 )下巻 結びの言葉 、五一一ペ ージ 。長谷川訳 ヘーゲルのホーリズムは評価は高い
常に既にメタレベルを確保していることは問題視されている 現代の有機体的システム論の源流がフィヒテ、シェリングのドイツ観念論にあるという話は読んだことある 「精神現象学」(上巻) ヘーゲル
順位不明
物自体についてはほとんど語られないので、カントの弟子という認識はまちがっている。
むしろ、意識を実体ととらえる思考は、デカルトの偏屈な継承者といった感じだ。
ヘーゲルは、意識としての実体の他に、根源的な自己が存在するとしており、
プラトンのイデア説によるストア学派の影響を受けていると見受けられ、これも褒められたものではない。
極めて難解であるが、おそらくほとんどの論説においてヘーゲルはまちがっており、望ましい言説ではない。 独身男性が首を吊ったなど今日も狂気の考察を繰り返しているのだが >>30
間違っている/間違ってないの問題じゃないんだよな
ヘーゲルは観念論の総決算をやってのけただけで ヘーゲルの二重否定の論理はフロイトのタナトスやラカンの理論にも援用されている ヘーゲルの自信満々な知の総括っぷりは俺も嫌い
けど根本のアイディアは画期的ということでしょ 根本のアイデアは何を想定しているの?
細かいところはどうでもいいのは賛成だけど 「精神現象学」(全2巻) ヘーゲル
174位/293作品。翻訳小説SF以外。
物自体という単語は一度も出てこない。ゆえに、これはカントへの反駁ではない。
カントの後継者でも、カントの反論者でもない。ヘーゲルはカント哲学を理解していない。
人々のおきてと神々のおきてにわけて考えるところはイデア論の影響が見られる。
非常に難解な書物であるが、文体が難解なだけで、これは内容は極めて浅い。
無意識についての記述もないし、ジンテーゼへの記述もない。最も過大評価された哲学書というのに
ふさわしい書物の候補のひとつである。 若い時の本だから精神現象学だけを読んでもそこから得られるものは少ないってのは一般的な意見じゃないの
寧ろ後期の本を理解した上でヘーゲルの思考の遍歴と何を目指したかを読み解く為の資料でしょ
明らかに整理されてない内容だからね
時間と存在見たく意味も無く造語を作って読者を惑わしているのとは違う カントに反駁したのはショーペンハウエルであって、ヘーゲルではない。
飲茶に今からツイッターで文句いってくるか。 >>38 はあ? じゃあ、何読めばいいんだよ。
今まで哲学解説者どもがさんざん嘘をいって誇大広告してくれたな。
ヘーゲル信者は地獄へ落ちろ。 >>40
落ち着け
どの解説者のことを言ってるか知らないが俺の読んだ精神現象学の文頭に書いてあった事を俺は伝えただけだ
https://www.amazon.co.jp/精神現象学-G-W-F-ヘーゲル/dp/4878932945
wikiにも整理されてないってのは書いてあるだろう? 大体お前はいつも気が短いな
ラノベなりSF小説なりでデビューできたんか? >>41
なんだ。自分の理解していない想像のヘーゲル論か。
実際に後期の何がヘーゲルがカントを反駁しているかいってみろ。
わかんねえんだろ。 はんすうじゃねえよ。はんばくだよ。
はんばくって単語も読めねえのに何が哲学だよ。 後期の何でだよ。
奇しくも、おれの批判の最中に、ヘーゲルの熱心な研究者である長谷川宏が
「哲学史講義」を河出から刊行中のようだが、高い。
電子書籍が出たら買う。 意識しかないから、観念論だとも馬鹿にされているわけだから
何が凄いかそこを展開してくれなきゃ 細川亮一『ヘーゲル現象学の理念』の説 だと、『精神現象学』は『哲学史講義』と並行対応
関係にあり、『哲学史講義』は『精神現象学』と一緒に読むといいそうだ。
以下、『精神現象学』内の章:対応する哲学者(及びキーワード)。
意識
感覚:パルメニデス(本来の哲学が始まる)からヘラクレイトス(一般的な過程)
知覚:レウキッポス(自立存在の定義、正なるものを負なるものの空虚として)
悟性:プラトン「ソピステス(ソフィスト)」(抽象的な統一)
自己意識
生命: アリストテレス「霊魂論」(一般的)
主と僕:アリストテレス「政治学」(服従)
ストア派(自然な素朴さ)
懐疑派(内容の否定)
不幸な意識:
新プラトン主義(統一、三位一体) 『ヘーゲル現象学の理念』( 2002 創文社 細川 亮一)における説の機械的な図解試作。
(その後の哲学史や体系と大分違う)
/絶対知
*啓示_\
/\宗教/\
/自然\/芸術\
/\ /良心、美しい魂
自覚_\ドンキ /_道徳
/\理性/ホーテ/\精神/\
/観察\/実現\/人倫*/教養\ディドロ
/\ ゲーテ、シラー /\
「ソフィスト」\ /新プラトン主義
/ 悟性 \ <精神現象学> /不幸な意識(*後に頻出)
/_プラトン_\ /______\
ヘラク/\ /\ /\ /\
レイトス\ 意識 / \ /__\自己意識 /懐疑派
/ 感性 \ / 知覚 \ /\生命/\ /主と僕/\
/パルメニデス\/レウキッポス\アリストテレス\/同_\/ストア派
「霊魂論」「政治学」 「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。
アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』未邦訳、斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。 心という難問
・世界が実在するか疑ってみることができる→意識のスクリーンに投影されただけでリアルな物はないのではないか
・更には他者も疑える→彼らはそれらしく振る舞っているだけで意識はないのではないか、ゾンビではないか
日常的な実感として意識などは通さずに実物と直に接している→それを素朴実在論と呼ぶ
・素朴実在論には強力な反論がある→遠くにあるものは小さく見える。別れた友人が遠ざかるにつれて小さくなる。だが何が小さくなったのか。
もちろん実物の友人ではない。
友人は同じ大きさのまま知覚イメージが小さくなる→目の前の知覚イメージや五十メートル先の知覚イメージどちらが実在とか実在に近いというわけではない
→実在とは別に知覚イメージが多様にありそれは実在だけでは説明できない 素朴実在論を遠ざけると知覚イメージと実物、意識と実在の二元論がかんがえられるがそれは袋小路だ
実在のリンゴがある→それに刺激されて知覚イメージが生成される→知覚因果説
・二元論に従えば目の前のリンゴはリンゴの実物ではなく知覚像だ→では実在のリンゴはどこにあるか?
・知覚像のところにあるでは答えになっていない
テレビ画面や夢の中にリンゴがあるからとそのリンゴが実在がどこにあるかなど答えられない
・実在と知覚イメージ分離してしまったら知覚イメージの中で実在がどこに位置付けられるのか
原理的に答えられない
また、二元論は懐疑論にも答えられない
・知覚イメージが実在を反映しているとかいうが知覚イメージと実在を分離してしまったなら現実にあるのは知覚像、知覚イメージでしかない
それが幻覚だとか間違いを犯すことはあり得ない
・知覚イメージの中に実在を照合できないから実在と比較して間違いであるとかないとか二元論では原理的に言えない
残されるのは知覚一元論になる ヘーゲルの知覚の一元論、精神の自己展開以外に外界を必要としない
目の前にリンゴがある。これは知覚イメージだ。部屋もその外に広がる風景も知覚イメージだ。
知覚の一元論ならば外界の懐疑に悩まされない。
二元論のもとでは正しい知覚とは、実在と適切に対応する知覚のことでいわゆる対応説的な考え方だが、
私たちの体験できるのは知覚だけのはずでその知覚の中には実在は入ってこないから
知覚が実在と対応しているか原理的に検証できない
知覚一元論では知覚と比較されるのは知覚だけで一メートル先にいるのか百メートル先にいるのかは知覚内部で知覚どうしが互いに位置付けあうだけ
間違う時も縄と蛇を見間違う時、ある視点では周りとの関係で蛇に見えたが、
周りとのより整合性の取れる見方になったらそれが縄であることがわかったと
実在を照合する必要はない
知覚内部の整合性の進展で説明がつく 唯物論だと視点によって同じ物でも違って捉えられる点に困難がある
知覚と物の二元論では物が知覚にどう反映しているかアポリアになる
物を想定しないでもいいのではないか
でもこれらはヘーゲルの議論の半面に過ぎない
全ては実体はなく関係の集まりに過ぎない、関係の項に過ぎない
そういう知覚は同時に社会的な間主観、共同主観的なものだ
社会的な協同性、必要性抜き、承認とそれによる示差的なものにすぎない 一つの同じ物を見えかたが違って捉え方は違っててもその全てを肯定して
唯物論だとする立場はありうるが
無制約に認めるなら唯物論いらなくね?物はなくてもよくね?
観念論と一緒じゃないかの話になる
ヘーゲルの弁証法観念一元論ならその中には、
実体としての確固とした物は必要ないどころか邪魔になる
認識と認識の相互比較だけが観念と観念の相互比較の関係だけが実在する
背後に物はいらない、認識の世界全部と繋がったそれこそが真の現実
更にそれはデカルトとかカントとかに代表される観念論の
孤立した主観の内省ではなくそういうイメージ自体が、
物象化した内面化の操作の結果に過ぎず、
認識とは実際は社会の関係の網の目から、
どう行為したらいいか社会を動かし関わるその社会活動の一部にすぎない
主と奴の弁証法から法哲学に至る市民社会の活動の現実と切り離せない
それがヘーゲル観念論 意識や観念に自閉してるという見方に対しては
物や物自体に自閉しているのは唯物論や
背後に絶対的実在を持ち出す方だと批判できる
世界全てと繋がり比較、取捨選択しながら動的に動いている
弁証法こそが自閉から抜け出した真の哲学だと スレ立ったのに何を沈黙しているんだ
馬鹿しかおらんのか?
議論したいんじゃなく、ヘーゲルの名前に託してヨタ話したいだけなのな よしゃわいが読解はこうやるのだっちゅうやつを見せたる 樫山訳の『精神現象学』平凡社ライブラリーを読みます 「本質的には哲学は、特殊を包む普遍という場〔境位〕のなかに在るものである。そのため、哲学の場合には他の諸々の学問の場合よりも一層、事柄そのものは、目的もしくは最終の結果のなかに、しかも完全な本質となって表現されている」
しかしだからといって、「実現の過程は本質的でない」ことはない。
たとえば、「特殊を手に入れるように努力しなければならないと、確信されている」解剖学は「目的やそれに類する普遍性」について語ろうとしても「事実を列記して行くだけの、無思想な方法」である。
序説 上16ー17 >>66
このやり方では時間がかかってだめだ もう少しざっくりと進んでみよう >>67
まだ始めたばかりだしそれに極力自分の推測や解釈は考えないていうかそんな能力はない 超機械的にヘーゲルを読む 「諸々の哲学体系のちがい」は「真理が前進するときの展開」である
序論 上17ー18 (笑)
43 名前:考える名無しさん :2016/09/28(水) 22:39:20.80 0
一日中荒らしていますが、働いていないんですか?
44 名前:考える名無しさん :2016/09/28(水) 22:40:27.49 0
+ o : 。 ☆; * + O + o 。 ☆ * :
o o ○ ; * + o : 。 + :
.. ___ + : 。 ; ゚ ____ o
゙=c_ \ ゚ : ○ ; . /_っ='
:: ,, く:::\ ゚ /:::>'
゚ * \:::\ ...-ー、,-─ /::::/ : . : ゚
: . : ゚ \ ` .-=・=- i、-=・=- / o
o \.. / ' ヽ /
☆ * o {. ト--=--イ } これが仕事だよ〜
: : ゚ . ヽ. ヽ. ⌒⌒ ノ /
o ヽ. ヽ、`==´ / / o
. o ヽ ` ‐--‐ ´ / + : . : ゚
_,,ノ|、  ̄//// o ゚
_,,..r''''" | \`'/ / ☆ *
/::::::/::::/::::/::rシ/:::;'::l:::|:::::|゙'´!'、 : : +
,'::::::/::::/:::/:://:::::::::Lr‐y:::::|:::::l:::'、 o
./:::::/:::/:::/:://:::::;.ィ'" .ヽ、,|::::::l;::::'、 .
.,':::::/:::/:::/:/::∠,,,,,,_,...;-;-‐'´゙>ァ:::::::l, ゚
/:::::/::/::://:::/ ∞ .:.:;;:;;:/.: .;'ヽ、,l'、
.,'::::/::/:::/;'_;;ハ、; .; ;;;/.: ..;.; l゙ト;l, +
/::::/:/::::/;r' \ .:.:.:.;;;/.:.::.:.:.:; |〈!
/l:::;':/:::::;イl .; ヽ ,,__;;/.:.:.:.:.:; |:::l
(ヽヾr=:_::}:::;:;l .;.:;.; {:::. 70は失格だが誰か何か論じろよ
ヘーゲルの考え方、フッサール以上に過激な知覚以外に実在はないはどう見る
フッサールは実在はカッコに入れるだけだけどヘーゲルは実在なんか
あっては困る
知覚の中の知覚同士精神の中の精神同士の比較しかない
それ以外の参照軸なんかいらない
ヘーゲルの過激思想や関係しか存在しない実在を排除する思想を
ヘーゲルの全てが精神の自己転回なのも神秘主義でも何でもない
理論の当然の帰結 せやからわいが言い逃れできんようにヘーゲルの命題集めたる 言質をとるちゅうやつや 「つぼみは、花が咲くと消えてしまう。そこで、つばみは花によって否定されると言ってもよい。
同じように、果実によって花は植物の偽なる定在と宣告され、植物の真として果実が花の
代りとなる。これらの形式は互いに異なっているだけでなく、互いに相容れないものとして
斥け合う。しかし、これらの形式は、流動的な性質をもっているため、同時に有機的統一の
契機となり、この統一にあっては形式は互いに対抗しないばかりか、一方は他方と同じように
必然的である。この等しい必然があって初めて、全体という生命が成り立つのである。けれど
も或る哲学体系に自分の体系が矛盾する場合、一方では言った仕方で矛盾を理解しない
のが普通である。」
世界の大思想版 ヘーゲルの好きなところは適度に昔の人であるところ 暫定的な無意味や不自由に耐える余裕を持てと言っているように思える 不安とか言い出さないところがいい >>58
> 唯物論だと視点によって同じ物でも違って捉えられる点に困難がある
>
> 知覚と物の二元論では物が知覚にどう反映しているかアポリアになる
> 物を想定しないでもいいのではないか
>
> でもこれらはヘーゲルの議論の半面に過ぎない
>
> 全ては実体はなく関係の集まりに過ぎない、関係の項に過ぎない
> そういう知覚は同時に社会的な間主観、共同主観的なものだ
> 社会的な協同性、必要性抜き、承認とそれによる示差的なものにすぎない
ヘーゲルの二元論批判や間主観性論、関係主義はどう評価する? 車は実在しない
車は車輪が車なのか車軸が車なのか車体が車なのか
いずれでもない
相互関係で車の本質は実体にはない
ミリンダ王の問い
全てを関係の網の目で仮象とする仏教や唯名論にヘーゲルは近いが
有力な反論もある
丸ごと車という普遍は実在するという実在論からはそれらの批判は
成立しない 車は実在する、個々の部品が車ではないのは当たり前だが
それとは別に本質としての普遍は実在し車もそういう普遍だから
車は実在する
しかし、そういう実在論には一つの欠陥がある
二百メートル先の人物の見た目と二メートル先の同じ人物の見た目は違うが
それが同じ普遍だと言うなら何が同一で何が見た目の違いを出すと言うのか
車が普遍だとして、個々の車で違うなかに何が同一で、
同時に個々の車で何が同一でなく違うのか説明できない
その点では唯名論が正しい
しかし、唯名論も欠陥がある 車の車輪や車軸や車体をかき集めても車になる場合と車にならない場合がある
全く車として成立する場合と成立しない場合のその差は何か
個々の部品、経験からは車が車であることは還元できない説明できない
唯名論や唯名論ではないにせよヘーゲルもまたその事を説明できない
普遍は実在しないと言っても個物だけでは現実は説明できない
個物に還元できないものが残る 「ドイツ観念論の最古の体系プログラム」って邦訳ありますか? >>83
ありがとうございます!
さっそく読んでみます ヘーゲルは実在論ではあるが理論の構えは唯名論に近い
全ては関係だとする
完全に個物しかないとする唯名論とか背後の実在否定する仏教だと、
そもそも違うもの郵便ポストも赤い薔薇も、
同じ赤だと感じることを説明できない
実在論でもでは赤でもポストと薔薇で一つ一つ全く違うではないか
何故それを同じものとしてくくらねばならないかという点は説明できない
赤を赤とする、経験越えたABCの中から何故Cでなければならないか
経験では説明できないことについて経験から説明しようとする
唯名論も実在論も説明する資格がない
そしてその点ではヘーゲルも欠陥がある 経験だけからでは経験離れて赤は赤と感じ、
今まで全く見たことないものもそれが赤であるか赤でないか
容易に判定できる事実を説明できない
唯名論は
かといって実在論も五十歩百歩
普遍が実在するからと経験から赤を普遍として感じましたでは
個物離れた赤は何故違う物にも適応できるのか
適応しないといけないのかは実在論は全く答えられない 150年以上前に死んでるから著作権もくそもないからね >>88
英訳も中国語訳もネットで公開してたような・・・
無料の日本語訳はなさそう。 G・W・F・ヘーゲル & 長谷川宏「哲学史講義 全4巻合本版」
https://itun.es/jp/GI-0gb.l 寄川 条路(1961年 - )
2014年、ヘーゲル自筆の書き込みがなされた「フィヒテとシェリングの哲学体系の差異」(通称「差異論文」、1801年)
を東京の古書店で発見した人物として報道された。
単著
Hegels Weg Zum System: Die Entwicklung Der Philosophie Hegels 1797-1803, Peter Lang Gmbh, Internationaler Verlag Der W; 1 edition, 1996.
『体系への道――初期ヘーゲル研究』創土社、2000年;[新版]2010年
『構築と解体――ドイツ観念論の研究』晃洋書房、2003年
『東洋と西洋――カール・レヴィットと鈴木大拙』中部日本教育文化会、2003年
『ヘーゲル『精神現象学』を読む』世界思想社、2004年
Das System der Philosophie und das Nichts : Studien zu Hegel, Schelling und Heidegger, Freiburg : K. Alber, 2005.
『〈あいだ〉の解釈学――異文化の理解にむけて』世界書院、2006年
『ヘーゲル哲学入門』ナカニシヤ出版、2009年
『東山魁夷――ふたつの世界、ひとすじの道』ナカニシヤ出版、2014年
『今泉六郎――ヘーゲル自筆本を日本にもたらした陸軍獣医』ナカニシヤ出版、2015年
翻訳
ヘーゲル『初期ヘーゲル哲学の軌跡――断片・講義・書評』ナカニシヤ出版、2006年(編訳)
カール・ローゼンクランツ『日本国と日本人』法政大学出版局、2015年
オットー・ペゲラー編『ヘーゲル講義録研究』法政大学出版局、2015年(監訳) G・W・F・ヘーゲル & 長谷川宏「哲学史講義 全4巻合本版」
https://itun.es/jp/GI-0gb.l /\
/__\
/\ /\
/__\/__\
/\ /\
/__\ /__\
/\ /\ /\ /\
/__\/__\/__\/__\
/\ /論理学
/__\ /__\
/精神哲学\ <客観的理念> /精神哲学\
/__\/__\ /__\/__\
/\ /\ /\アリストテレス\
/__\プラトン/ \ /__\ /__\
/弁証法/\ /自然哲学\ /形而上学\ /自然哲学\
/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\ /\ /\
/ \ /__\
/知性と物質 /\キクニ学派
/______\ /__\/_ディオゲネス
/\アナクサゴラス\ /\ソクラテス学派\
/ \ / \ <古代ギリシア> /__\ /__\
/一般的 \ /部分的均質 /メガラ学派 /\キュレネ学派
/______\/______\ エウクレイデス_\/__\/__\/__\
ヘラクレイトス\ /\ /\ /\
/ \ / \ /__\ /__\
パルメニデス /\ 一般的 / \ /\ /\ 主観、内省的 /\運命/\
エレア派__/ゼノン /______\ /__\/__\ /__\/__\
アナク/\ /\ /\ /\ /\ソフィスト /\ /\ソクラテス /\
シメネス_\ 単純 / \ / \ 即物的/ \ / \ / \ /__\ /__\
/\ /\ / \ レウキッポス\ / \ / \ / \ /イロニー\ /\善 /\
タレス\/アナ\/ピタゴラス_\/デモクリトス\エンペドクレス\/プロタゴラス\/ゴルギアス_\/__\/__\/__\/__\
クシ
マン
ドロス /\
/ \
/シェリング
/______\
/\ /\
/__\ /__\
/カント/\ /フィヒテ\
ヤコービ\/__\/__\/__\
/\ /\
三位一体\ /__\
/\ /\ 近代 /\ /\
/神_\/対立\ /__\/__\
/ベーコンとベーメ\ ライプニッツ\<知性の時代>ルソー、啓蒙思想
/ \ / \ ヴォルフ_\ /フランスの哲学
/ベーコン\ /ベーメ \ <形而上学の時代>/<移行期>
/______\/______\デカ_\ロック\バークリー、スコットランド派 〜プロクロス\ ルト、 ホッブズ、 ヒューム /\
/アレク スピノザ、 グロティウス / \
/サンドリア派 マルブランシュ /宗教改革\
プロティノス〜__ポリフュリオス、ヤンブリコス /______\
/\ /\ キケロ\ /〜ペトルス・ラムス
/ 新プラトン主義 \ ヘーゲル哲学史 /__\ルネサンス_ブルーノ
/フィロン\ / グノーシス 古代研究/\ /\独自の試み
/______\カバラ__主義\ /__ガッサ_\/__\/カルダーノ
/\ /\ /\ ンディ /\
/ \ / \ / \ / \
/ アリスト 古代 /懐疑主義\ /ユダヤ人\ 中世 スコラ派一般
プラトン__テレス /______\ /______\ /______\
〜アナク\ /〜キクニ学派 /\ /\ /\ /\ /\ /オッカム、ベーコン
サゴラス_\ギリシア/ソクラテス派 / \ヘレニズム \ / \アラビア/ \ / \スコラ /__\
/\ /\ / /\ /ストア派\ エピクロス\ /議論派 \ /アリスト\ 対キリスト教 /\歴史/\スコトゥス
タレ_\レ_エン/ソフィ/ソク\/______\/______\/______\/_テレス注釈\/______\アンセルムス_トマス・アクィナス
ス〜 ウキ ペド スト ラテス アベラール〜
パル ッポ クレス
メニ ス、
デス、 デモ
ヘラク クリトス
レイト
ス、ピタゴラス
|_______________|
↓拡大 >>97 , >>98 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています