ヘーゲルスレがなくね? [無断転載禁止]©2ch.net
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`ー――――― '" >>325
「物」というのは、普通にどこにでもあるすべての存在のこと。
「物自体」というのは、カントが物を概念化して、人間が認識できない「なのものか」として設定した概念。
「物」は自然そのものだが、「物自体」は人間の思考によって設定された空想によるなにか。
その意味でハイデガーの「存在」やドゥルーズの「差異」などとの共通性を持つ。
カントとそのような「存在論者」の違いは、カントがそういう概念設定をしたうえで、その概念設定を切り捨てたのに対して、「存在論者」は、その概念設定にとらわれ続けたというところ。
人間の意識は、たんにそれが身体という「物」によって生成されているというだけではなく、対象としての「物」によっても規定されている。
意識は常に何者かについての意識、ということになる。
その意識の在りかたを捉えようとするなら、人間と自身の身体を含めた「物」との関係の在りかたを捉えることが必要だ。
「物自体」は、人間の認識にとって無縁なものとして設定されているので、「物」とはまったく別のことということになる。
それが、僕が「物」と「物自体」が違うものだと言っている理由だと理解してもらいたい。 たまたまスレが上がっていたので目に止まりましたが、ワードやフレーズを正確に理解してないと書けない文章ですね。
勉強になりました。
>>326
(1)理論体系上に「物自体」を設定した理由は、人間の認識に訴えるための、必然だったのでしょうか。
(2)形而上学や物自体やその類似の概念以外を利用して、自身の思考を他の人間たちに伝達するのは、当該方法以外では全く成功しないのでしょうか。
言語やメタファによるのが一番簡単だと断定できる根拠はなんですか。 >>327
>理論体系上に「物自体」を設定した理由
カントが「物自体」を設定したのは、形而上学的な無益な議論を避けるため。
>言語やメタファによるのが一番簡単だと断定できる根拠
僕の書いていることとは関係がないと思うが、あなたの疑問の趣旨がつかめない。 >>328
形而上学を無益と考えたのではなく
そこからは信仰に譲ったのよ。👰
アリストテレスからヘーゲルはキリスト教を基礎に哲学が発展しました✨💁 >>330
悪いが、意味不明な横レスはやめてくれ。
アリストテレスは、キリスト誕生の前の哲学者だ。 >>326
「物」と「物自体」は違う。これは分かりました。
あなたの主張「「物」は、認識があろうとなかろうと、存在する」という主張は違うのではないかと、私は考えるわけです。 >>326
たしかに個人のレベルで見れば、ある人には気づかない「物」が存在することは確かです。しかし、一般的に「存在」ということを考えたとき、認識を離れて存在はない、と考えます。 >>332-333
認識してもしなくても、物は存在する。
それが納得できてもできなくても、認識によって物が変わるわけではない。
目の前のグラスを、認識を変えることで形状を変えることができるかどうか、試してみればいい。
一般的な「存在」などというものは、空想の中にしかない。 >>334
どうやらあなたは認識や存在を「誰かの認識」「何かの存在」として個別的に考えていて、認識そのもの存在そのものについて普遍的に考えることを「空想」として排除しているようですね。 >>334
私は、あなたが保持している思想とあなたが排除している「空想」とをいずれも重要な要素として組み込んで統一的に考えていったのがヘーゲル哲学だと思っています。 >>335
>存在そのものについて普遍的に考えることを「空想」として排除している
そのとおり。
ただ、排除という言いかたは適切ではない。
空想は空想として、人の精神にかかわることなのだから。
>>336
>統一的に考えていったのがヘーゲル哲学
物が存在し、関係が存在し、精神が存在する。
その在りかたを一つの理念への昇華として解明し、逆に根拠づけようとした、その意味では循環しているのが、ヘーゲルの哲学だ。
在りかたの解明というのは、存在一般を設定する「存在論」ではなく、分析と論理のことをいう。 >>335
補足。
認識や存在は、「誰かの認識」「何かの存在」として、個別的にしか存在しない。 絶対精神の境地を理解したいと思って、みんなヘーゲルに入ってくるよね。 >>339
絶対精神というのは、境地じゃないんだけど。 >>340
いや、知らない人はそう思ってるってこと マルクス読んで、フォイエルバッハ読んで、ヘーゲルも読もうかなと思って入門書数冊(金子、長谷川、竹田・西)買ってきたけどすぐ挫折してしまった。悟性って何だよ、って感じで。
これってもしかしてカントが分かってないと理解できない?先カント読んだ方がいいかね? ヘーゲルクラスじゃね。もっと上のクラスがあるよ。
精神のあり方にも。 精神という高貴なるものを論述したり記述するのがめんどうだよ。 >>343
ヘーゲル研究者にもいろいろいるから。
牧野広義とか鯵坂真みたいな共産党系の研究者の方が意外と相性合うかもしれないよ。 >>346
ありがとう。
>牧野広義とか鯵坂真みたいな共産党系の研究者の方が意外と相性合うかもしれないよ。
その発想は無かった。確かにそうかもしれない。良い感じの入門書探してみる。
カントの理解は必ずしも必要ではないのかな? カントにもいろいろあるからな。
自分が完読したのは『啓蒙とは何か』。
『実践理性批判』はざっと読んだくらい。高峯一愚の『カント実践理性批判解説』の助けを借りた。
『純粋理性批判』は純粋悟性概念の演繹の手前までしか読んでない。
『判断力批判』は最初をざっと読んだくらい。佐藤康邦の研究書は一応読んだ。
ちなみに佐藤康邦はもともとヘーゲル研究者。
それでも牧野広義『ヘーゲル論理学と矛盾・主体・自由』はざっと読めた。 ヘーゲルはカントのアンチノミーを展開した哲学者だと言ってもいいのかな。 やっぱり違うよな。
ヘーゲルとカントの関係を洗い直さないといかんな。 >>351
読んだかも知れないけど、ヘーゲルのカント批判にはこんなのがある。
『論理学講義 ベルリン大学1831年』(文理閣)
http://www.bunrikaku.com/book1/book1-616.html >>352
こんな本があるんだ。ありがとう。
カントの批判哲学を乗り越えて論理学へと入っていくわけか。 >>348
具体的でありがたい。ただこの調子だとヘーゲルまでたどり着くまで大変だw
とりあえず光文社古典新訳文庫の『啓蒙とは何か』から始めることにするわ。ありがとう! >>315
自分が読んでから言えよ
としか言えないな。
オレが世界で世界がオレで ってのを 「分かる」
これが理解できないと何を言っても無駄だよ。 ヘーゲルとカントの関係を洗い直すって・・・・(苦笑)
水に入る前に泳ぎを習ってどうするの?
終 了 カントは認識以前に認識しようとして自己撞着おこしただけだよ。
ヘーゲルはそんなんハナっから超越しとる。 ヘーゲルの「絶対精神」は
なんつーかな、ALL KNOWLEDGE なのよ。
我々が「AはBである」って思考する形式って人類はそれを逸脱できない。
言語がどんなに変わろうと、A=B A is B AはBである 全部同じよ。
で、その前提を人類の歴史(思考の歴史)が共有するとき、今現在の「お前の考え」がどれだけ空虚で陳腐かって話。 >>355-358
>オレが世界で世界がオレで
>ヘーゲルの「絶対精神」はなんつーかな、ALL KNOWLEDGE なのよ。
ヘーゲルのどこにそういう趣旨のことが書いてあるのだろう?
どの著作のどの部分なのかを指摘してくれるとありがたい。 >>344
西田幾太郎は絶対精神もそれぞれ個人の絶対精神だろう、と言った。
そこに矛盾が生じるわけよね。
オレは世界だけどお前も世界だ。でも、オレとお前は別モンや。
同じかもしれんけど別モンや。んで、その矛盾はあり得るんか?
っつー話で、そこから「絶対矛盾的自己同一」ってことになるわけや。
>>359
そんな事を言ってる時点で、もう無理だと思う。
「主観的思惟の陶冶とは、教育学の問題」『法の哲学』
分かるやつには分かるって事でしかない ほんとさ、日本語の
「 分 か る 」
を皆大事にしないといかんよ。
陳腐な例えで申し訳ないけど、思考の形式に縛られた人類の思惟の歴史、思考の積み重ねのiCloud アクセス無制限。
そんな感じ。 マルクスはヘーゲルを批判し
錦の御旗よろしく実践マンセー
って流れが一番嫌い。
実践ってw >>315
>新発見の動物は、名前が付けられる前には存在しない、と言いたいのかな?
興味深いレスなのを見落としていたw
「新発見の動物」って言ってるじゃないか。名付けてるでしょ。 時間をおいて読み返すと、そうかそういう意味かって分かることがある。そういうとき嬉しくなる。 >>360
>「主観的思惟の陶冶とは、教育学の問題」
その言葉がどこに書いてあるのかわからないんだが、そう書いてあるとして、それがどうして答えになるの?
「主観的な思考は教育によって作られる」と書いてあるだけに見えるんだけど?
>>356
>水に入る前に泳ぎを習ってどうするの?
それからもう一つ、君がとり上げたこの言葉は、すでに水があるということを前提にしてるから、「オレが世界で世界がオレで」とはつながらないというか、むしろ矛盾していると思うよ?
「もう無理」なのは、君の方じゃないかと思えるんだが? >>363
そうすると、新発見の動物は、名前が付けられる前には存在しない、と言いたいのか。
君は認識と物は同一だと考えてるんだから、君の認識でそこにある物を1メートルほど動かす訓練でもすればいいと思うよ。
超能力者として、マスコミが取り上げてくれるだろう。
「それでも地球は回っている」という言葉を、君への贈り物にしておこう。 わからない人に「分かれよ!」と命令してもどうしようもない。
わかろうと努力するのも、これまた意味がない。
本人にも他人にも手の施しようがないんだなぁ。 >>367
確かにそう考えるのは分かる。物(対象)を他者とみなす意識だね。主観と客観が分離している。意識が高まっていく過程の一段階だ。もう一息だよ。 >>369
>物(対象)を他者とみなす意識だね
それが間違い。
物は物であって、人間の意識からは完全に独立している。
>主観と客観が分離している
これも大間違い。
主観は、客観(としての物)によって、はじめて成立する。 >>370
物絶対主義とでもいうべき考えですね。どうしてそこまで言えるのかなあ。 >>370
補足 あなたの考えは、主観と客観の分離を、客観(物)を絶対化することによって克服しようとしている点で評価できます。理性が自分の対立物にまで自ら分裂しながら自己をふたたび止揚していくという理性の運動がそこには潜在的に含まれています。 >>371-372
そこまで言い張るなら、目の前のものを、意識でも理性でも精神によってでも、1mほど移動させてごらんよ。
見事動かすことができたら、君の考えが正しいということが証明される。
移動させることができなければ、君の考えは間違っているということになる。 >>373
残念ながら、私には移動はできません(笑)。
私は「思考」と「物の存立」は一体のもので、両者は切り離せないと言っているだけです。思考が物を作り出すと言っているわけではありません。
あなたと私の議論は、物の理解に関する観念論と実在論の対立のようです。
もっと勉強してみます。きっかけを与えてくれたあなたに感謝します。 >>352の本はヘーゲルがカントを論評していて面白いな。 >>374
偉いなぁ。オレなら、あの手のやっすい話には怒りしか感じない。
ヘーゲルが鼻で笑う話なのに、よく抑制的に応対できるなぁ、と感心する。
おそらく、>>332-333 を書いたのはあなただと思うが、全く首肯出来るんだ。
全く同じ理屈で「分かる」んだと思う。
ヘーゲルは「教育学の問題だ」と言いつつ、言外に「教えて分かるもんじゃない」
っていう諦念があるように思う。
「存在しているもの」の話と、「存在そのもの」の話は全然次元が違うわけで、
「存在とは」とか「在る『こと』」とは、って聞かれる場合の答えを、
哲学者という人種は全人生をかけて導き出そうとしてきたわけで。 >>376
>「存在しているもの」の話と、「存在そのもの」の話は全然次元が違う
「存在そのもの」なんてものはないんだよ。
ヴィトゲンシュタインは「存在論」をバカにしておわりにしたが、サルトルやメルロ=ポンティは、丁寧に説明している。
「存在」というのは、そこにあるものがすべて。
存在一般などという、ハイデガーの妄想に付き合う必要はまったくない。
人生をかけようが、人生を棒に振ろうが、ないものはない。
そもそもヘーゲルは存在一般なるものを設定したりしてない。 意味と形式を分けて考えることは決してできない。
世界がいかにあるかでなく、世界があるということが神秘的
と『論理哲学論考』6.52 でウィトゲンシュタインはまさに言っているな。 >>378
>意味と形式を分けて考えることは決してできない
意味も形式も言葉の定義の問題。
人は、分けるために、違う言葉を使っている。
ヴィトゲンシュタインを読むなら、そのくらいのことは読み取らないといけない。 >>376
思考の広がり、自由さを考えるに、あなたが正しい。
どう言えばいいんだろう・・・・。
難しいけど、わかる。としか言えない。 >>380
それは、わかってない、ということだよ。
難しいんじゃなくて、でたらめな妄想に共感してるから、現実を見失う。
現実を失った思考は、精神病のスタートラインだ。 矢崎美盛『ヘーゲル精神現象論』は分かりやすくて良いな。完全初学者でも分かるように書かれてるし。 >世界がいかにあるかでなく、世界があるということが神秘的
世界があるということ自体が、世界がいかにあるかということだから、
世界があるということが神秘的というのは、世界がいかにでもなくあると思い込む
神秘主義に過ぎない。 いかにでもない世界がどのようにあり得るのか、を問うなら、
「どのように」を除外しなければならなくなる。
あり得るのかは、世界の存在についての問いはのか?
あり得るのか、というのはどのようにかを含意しないのか? >>383
>世界があるということ自体が、世界がいかにあるかということだから
いかにあるか、と、あるということ は明確に違うぞ。
>あり得るのか、というのはどのようにかを含意しないのか?
ありやなしやを認識できない世界をどのようにある?とどうして問えるのだ?
また水泳の例えを言わなきゃいけないのか。 「わかる」というのは「気付き」だ。
「どこどこの書物の何ページにこうあったから」では決してない。
犬がワンワン吠えている。
A君とB君がそれを見ていた。
A君とB君が見ている犬が「同じモノ」とは、
どう理屈をひねっても言えないのだよ。 なぜ認識以前に存在を規定するのだ?
それこそがカントの矛盾だとヘーゲルが喝破したのだ。
あるといえばある
全部繋がってんだよ。 >>385
>いかにあるか、と、あるということ は明確に違う
違わないよ。
いかにある、という状態でしか、あるという状態はないんだよ。
「あるということ」などという、存在一般なんてものを設定しても無意味。
>また水泳の例えを言わなきゃいけないのか
ヘーゲルが言っているのは、水という現実を無視して理論をこねても無駄だということ。
現実の水というあり方が存在だということ。
水泳の例えも、君が思っているのとは真逆だよ。 >>386
>A君とB君が見ている犬が「同じモノ」とは、どう理屈をひねっても言えない
理屈をひねるから言えないんだろう。
見る方向や見て受ける感情が違っても、つまりそれぞれの主観が違っても、同じ犬だよ。
目をつぶっても、見る人間が一人になったり三人になったりしても、犬が化けるわけではない。 >>387
>なぜ認識以前に存在を規定するのだ?
逆だよ。
ある存在があって、はじめて認識がある。
ヘーゲルが指摘したのはそのこと。
存在一般なるものを設定するから、カントもヘーゲルも理解できなくなる。
あると言っても言わなくても、あるものはあるし、ないものはない。
言うこと(あるいは認識すること)と存在とは関係がない。
人間もまた、ただ自然の一部なのだ。 こりゃダメだな。
いかにある、と あるということ が
違わないと思ってる人にはこの世の不思議は何一つ不思議ではないわけで
そういう人は普段の日常を何一つ疑問を持たず送ればよろしい。
ヘーゲルがいみじくも言った教育の問題。
あるということ に何も感じない人には何を言っても無駄。
日常でどうぞ 実践 してください。 >>391
オカルトに逃亡?
不思議と疑問は別のこと。
不思議と思うだけなら、それはオカルト。
繰り返すが、ヘーゲルの水泳の話は、意識より状況(実在)が先にあるということの例え。
「あるということ」の問題などではない。
たしかに、君は、日常に触れることはできないだろう。 精神現象論ヤバいな。
どんな研究者でも入門書大量に買い込んで比較して読み込めば何となく分かった気になるが、精神現象論は全然掴めない。
そもそも解説者によって解説のウエイトが違い過ぎるし、言ってることもバラバラ。どうしてこんなに読みに差が出るのかの解説も無し。
かと言って切り捨てるには問いが魅力的過ぎて、読まずにいられない。
アマチュアで勉強してる人間には厳しすぎる本だわ 細川亮一『ヘーゲル現象学の理念』の説 だと、『精神現象学』は『哲学史講義』と並行対応関係にあり、
『哲学史講義』は『精神現象学』と一緒に読むといいそうだ。
以下、『精神現象学』内の章:対応する哲学者(及びキーワード)。
意識
感覚:パルメニデス(本来の哲学が始まる)からヘラクレイトス(一般的な過程)
知覚:レウキッポス(自立存在の定義、正なるものを負なるものの空虚として)
悟性:プラトン「ソピステス(ソフィスト)」(抽象的な統一)
自己意識
生命: アリストテレス「霊魂論」(一般的)
主と僕:アリストテレス「政治学」(服従)
ストア派(自然な素朴さ)
懐疑派(内容の否定)
不幸な意識:
新プラトン主義(統一、三位一体) 精神現象学の序文に
哲学とは特殊を包む普遍という場の中に在るものである
とあるのですが意味が分かりません >>395
個別の事象を抽象化して普遍的な論理を得ようとする学問、くらいの理解でいいんじゃない? >>396
レスありがとうございます。
そのあとに
たとえば、解剖学、これはいわば身体が生命関係をもたない定在という
側面から考察された身体各部の知見なのだが
この解剖学とは何であるかという一般的な考えにあっては、
事柄そのものすなわち解剖学の内容をまだもっていない、と確信されており
そのうえ、特殊を手に入れるよう努力しなければならないと、確信されている
と続くのですが、理解できず困っております。 解剖学みたいな経験科学においては、解剖学は何かという「普遍」的な思考だけでは
中身がまったくないけど、哲学という理論研究においては、哲学とは何かという「普遍」
的思考がその内容の中心になるみたいな意味。 >>397
日本語に訳してみるw
解剖学というのは、死んだ人間の身体の状態を分析するが、生きた人間の身体との関係は不明である。
したがって、解剖学という学問の位置づけはできていないので、個別の分析を続ける必要があるとされている。
こんなところでどうかな? ありがとうございます。
解剖学は普遍的に何かを言える学問ではなく、
個々のケースを列挙していくこと(横隔膜とは胸腔と腹腔の境界にある筋板である等)でしか成り立たない学問
といったニュアンスでしょうか エンチクロペディでは、
個(個別)
\
類(普遍) →種(特殊)
精神現象学では、
個(個別)
\
類(普遍) ←種(特殊)
論理学に詳しい
(逆回転もある) >>400
個別の事象を抽象して普遍を目指すのが学問なのだが、まだ学問の域に達していない学もある。
そうした学では、個別の分析を深めて、抽象の視点を探ることが大切だ。
こんな理解もあるかも知れない。 へ―ゲリアンに分けてあるところあたりから。当たりはずれはあると思う。 長谷川宏の講談社メチエの本、分かりやすくていいね。『新しいヘーゲル』はクソだったけど。
これと加藤尚武の入門でやっとさわりが分かってきた気がする。 精神現象学が難しすぎてヘーゲル読むのやめようかと思ったけど、エンチクロペディーとか歴史哲学講義ならなんとか読めそうな気がしてきたわ >>405
哲学書が難しい理由のほとんどは、書いてる本人が理解していないから。
『精神現象学』もそのひとつ。
本人がカオスのような思考を、編集者との関係があるにしろ、雑駁に書いてしまったから読みにくい。
樫山氏や長谷川氏の解説どおりかな、と思う。 他人が書いたもんをああでもないこうでもないとやってる暇があるなら自分で書け >>411
聞いても答えないよ。
うっかり読まれて、身バレとか恥ずかしいじゃないかw
匿名掲示板が一番いいな。 大橋良介『聞くこととしての歴史』は、ヘーゲルの紹介の仕方がうまいな。 【流行語】前原誠司代表、解党を否定「アウフヘーベンだ」 民進党の“希望の党“合流について
http://m.huffingtonpost.jp/2017/09/28/maehara-kibou_a_23225668/
2017/09/29
…
■報道陣「実質的な解党では?」⇒前原氏「アウフヘーベンだ」
報道陣からは「実質的な解党的な合流では」と問われると、前原氏は「いろいろな方々がおられますが、
小池さんのおっしゃるアウフヘーベンだ。
止揚だと思っています」と述べ、解党ではないという見方を示した。
小池知事が多用するドイツ語「アウフヘーベン」という語を用いたことからも、小池知事との親和性を
アピールした格好だ。
朝日新聞デジタルによるとアウフヘーベンとは、哲学者ヘーゲルが1812年の主著『大論理学』で使った
概念で、否定によって高い段階に進むが、
否定されたものが取り込まれて残っている状態のことを指すという。 2017/09/29 発売
『ヘーゲルとハイチ: 普遍史の可能性にむけて(叢書・ウニベルシタス)』
(スーザン・バック=モース著 法政大学出版局)
世界史はいかに可能か?奴隷制と植民地支配が形成した世界資本主義市場を背景に、
近代市民社会をめぐるヘーゲルの洞察と“ハイチ革命”の現実とを同時に思考すること―
それは、主人と奴隷の弁証法のプロセスないし階級闘争史とみなされた世界史のヴィジョン
を、従来問われずにいたまったく別の観点から批評することである。非西洋中心主義的で
真に普遍的な人類史にむけた、ポストコロニアル的批判の刺激的成果! 紅はこべ
17世紀、ヨーロッパ思想(哲学)はデカルト、スピノザ、ライプニッツといった形而上学(神学)を基盤に動いていた。
そして18世紀に入るとその主要舞台はイギリスへと移りロック、バークリ、ヒュームといった
イギリス思想(イギリス経験論)が主役を勤めることになる。
しかし大国イギリスがヨーロッパ思想に影響を与えたのは唯一この時期だけであった。
このあとドイツから彗星のように出現したカントが「批判哲学」でドイツ観念論を導き、
さらにそのドイツ観念論を完成させたヘーゲルの登場によって19世紀は「ヘーゲル哲学」の独壇場となる。。
2017/10/21 >>418
現代はイギリス哲学の独壇場という話を聞くんだけどな? >>362
もしかして「実践」の意味を誤解してる?
マルクスで言う「実践」って、「感性的人間活動」のこと。
「お前は理論ばかりで実践がない!」とかでいう"実践”とは違うよ。 ラッセルがケンブリッジ大学に在籍している頃までは
イギリスもヘーゲル主義に染まっていたらしいよ ドイツ観念論はヘーゲルにおいて完成されたって言い方はやめてもらいたい
ヘーゲル哲学はカント以降のカント哲学を基礎とした諸哲学の内の一つでしかない >>422
ヘーゲルがカント哲学を批判しているのは確かだけど、そだからといって、カント哲学を基礎としているといえるのかなあ? カントとヘーゲルのつながりって簡単そうでよくわからないよね 岩崎武雄のカントからヘーゲルへ
ってどうなんだろうね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています