ヘーゲルスレがなくね? [無断転載禁止]©2ch.net
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`ー――――― '" >>374
偉いなぁ。オレなら、あの手のやっすい話には怒りしか感じない。
ヘーゲルが鼻で笑う話なのに、よく抑制的に応対できるなぁ、と感心する。
おそらく、>>332-333 を書いたのはあなただと思うが、全く首肯出来るんだ。
全く同じ理屈で「分かる」んだと思う。
ヘーゲルは「教育学の問題だ」と言いつつ、言外に「教えて分かるもんじゃない」
っていう諦念があるように思う。
「存在しているもの」の話と、「存在そのもの」の話は全然次元が違うわけで、
「存在とは」とか「在る『こと』」とは、って聞かれる場合の答えを、
哲学者という人種は全人生をかけて導き出そうとしてきたわけで。 >>376
>「存在しているもの」の話と、「存在そのもの」の話は全然次元が違う
「存在そのもの」なんてものはないんだよ。
ヴィトゲンシュタインは「存在論」をバカにしておわりにしたが、サルトルやメルロ=ポンティは、丁寧に説明している。
「存在」というのは、そこにあるものがすべて。
存在一般などという、ハイデガーの妄想に付き合う必要はまったくない。
人生をかけようが、人生を棒に振ろうが、ないものはない。
そもそもヘーゲルは存在一般なるものを設定したりしてない。 意味と形式を分けて考えることは決してできない。
世界がいかにあるかでなく、世界があるということが神秘的
と『論理哲学論考』6.52 でウィトゲンシュタインはまさに言っているな。 >>378
>意味と形式を分けて考えることは決してできない
意味も形式も言葉の定義の問題。
人は、分けるために、違う言葉を使っている。
ヴィトゲンシュタインを読むなら、そのくらいのことは読み取らないといけない。 >>376
思考の広がり、自由さを考えるに、あなたが正しい。
どう言えばいいんだろう・・・・。
難しいけど、わかる。としか言えない。 >>380
それは、わかってない、ということだよ。
難しいんじゃなくて、でたらめな妄想に共感してるから、現実を見失う。
現実を失った思考は、精神病のスタートラインだ。 矢崎美盛『ヘーゲル精神現象論』は分かりやすくて良いな。完全初学者でも分かるように書かれてるし。 >世界がいかにあるかでなく、世界があるということが神秘的
世界があるということ自体が、世界がいかにあるかということだから、
世界があるということが神秘的というのは、世界がいかにでもなくあると思い込む
神秘主義に過ぎない。 いかにでもない世界がどのようにあり得るのか、を問うなら、
「どのように」を除外しなければならなくなる。
あり得るのかは、世界の存在についての問いはのか?
あり得るのか、というのはどのようにかを含意しないのか? >>383
>世界があるということ自体が、世界がいかにあるかということだから
いかにあるか、と、あるということ は明確に違うぞ。
>あり得るのか、というのはどのようにかを含意しないのか?
ありやなしやを認識できない世界をどのようにある?とどうして問えるのだ?
また水泳の例えを言わなきゃいけないのか。 「わかる」というのは「気付き」だ。
「どこどこの書物の何ページにこうあったから」では決してない。
犬がワンワン吠えている。
A君とB君がそれを見ていた。
A君とB君が見ている犬が「同じモノ」とは、
どう理屈をひねっても言えないのだよ。 なぜ認識以前に存在を規定するのだ?
それこそがカントの矛盾だとヘーゲルが喝破したのだ。
あるといえばある
全部繋がってんだよ。 >>385
>いかにあるか、と、あるということ は明確に違う
違わないよ。
いかにある、という状態でしか、あるという状態はないんだよ。
「あるということ」などという、存在一般なんてものを設定しても無意味。
>また水泳の例えを言わなきゃいけないのか
ヘーゲルが言っているのは、水という現実を無視して理論をこねても無駄だということ。
現実の水というあり方が存在だということ。
水泳の例えも、君が思っているのとは真逆だよ。 >>386
>A君とB君が見ている犬が「同じモノ」とは、どう理屈をひねっても言えない
理屈をひねるから言えないんだろう。
見る方向や見て受ける感情が違っても、つまりそれぞれの主観が違っても、同じ犬だよ。
目をつぶっても、見る人間が一人になったり三人になったりしても、犬が化けるわけではない。 >>387
>なぜ認識以前に存在を規定するのだ?
逆だよ。
ある存在があって、はじめて認識がある。
ヘーゲルが指摘したのはそのこと。
存在一般なるものを設定するから、カントもヘーゲルも理解できなくなる。
あると言っても言わなくても、あるものはあるし、ないものはない。
言うこと(あるいは認識すること)と存在とは関係がない。
人間もまた、ただ自然の一部なのだ。 こりゃダメだな。
いかにある、と あるということ が
違わないと思ってる人にはこの世の不思議は何一つ不思議ではないわけで
そういう人は普段の日常を何一つ疑問を持たず送ればよろしい。
ヘーゲルがいみじくも言った教育の問題。
あるということ に何も感じない人には何を言っても無駄。
日常でどうぞ 実践 してください。 >>391
オカルトに逃亡?
不思議と疑問は別のこと。
不思議と思うだけなら、それはオカルト。
繰り返すが、ヘーゲルの水泳の話は、意識より状況(実在)が先にあるということの例え。
「あるということ」の問題などではない。
たしかに、君は、日常に触れることはできないだろう。 精神現象論ヤバいな。
どんな研究者でも入門書大量に買い込んで比較して読み込めば何となく分かった気になるが、精神現象論は全然掴めない。
そもそも解説者によって解説のウエイトが違い過ぎるし、言ってることもバラバラ。どうしてこんなに読みに差が出るのかの解説も無し。
かと言って切り捨てるには問いが魅力的過ぎて、読まずにいられない。
アマチュアで勉強してる人間には厳しすぎる本だわ 細川亮一『ヘーゲル現象学の理念』の説 だと、『精神現象学』は『哲学史講義』と並行対応関係にあり、
『哲学史講義』は『精神現象学』と一緒に読むといいそうだ。
以下、『精神現象学』内の章:対応する哲学者(及びキーワード)。
意識
感覚:パルメニデス(本来の哲学が始まる)からヘラクレイトス(一般的な過程)
知覚:レウキッポス(自立存在の定義、正なるものを負なるものの空虚として)
悟性:プラトン「ソピステス(ソフィスト)」(抽象的な統一)
自己意識
生命: アリストテレス「霊魂論」(一般的)
主と僕:アリストテレス「政治学」(服従)
ストア派(自然な素朴さ)
懐疑派(内容の否定)
不幸な意識:
新プラトン主義(統一、三位一体) 精神現象学の序文に
哲学とは特殊を包む普遍という場の中に在るものである
とあるのですが意味が分かりません >>395
個別の事象を抽象化して普遍的な論理を得ようとする学問、くらいの理解でいいんじゃない? >>396
レスありがとうございます。
そのあとに
たとえば、解剖学、これはいわば身体が生命関係をもたない定在という
側面から考察された身体各部の知見なのだが
この解剖学とは何であるかという一般的な考えにあっては、
事柄そのものすなわち解剖学の内容をまだもっていない、と確信されており
そのうえ、特殊を手に入れるよう努力しなければならないと、確信されている
と続くのですが、理解できず困っております。 解剖学みたいな経験科学においては、解剖学は何かという「普遍」的な思考だけでは
中身がまったくないけど、哲学という理論研究においては、哲学とは何かという「普遍」
的思考がその内容の中心になるみたいな意味。 >>397
日本語に訳してみるw
解剖学というのは、死んだ人間の身体の状態を分析するが、生きた人間の身体との関係は不明である。
したがって、解剖学という学問の位置づけはできていないので、個別の分析を続ける必要があるとされている。
こんなところでどうかな? ありがとうございます。
解剖学は普遍的に何かを言える学問ではなく、
個々のケースを列挙していくこと(横隔膜とは胸腔と腹腔の境界にある筋板である等)でしか成り立たない学問
といったニュアンスでしょうか エンチクロペディでは、
個(個別)
\
類(普遍) →種(特殊)
精神現象学では、
個(個別)
\
類(普遍) ←種(特殊)
論理学に詳しい
(逆回転もある) >>400
個別の事象を抽象して普遍を目指すのが学問なのだが、まだ学問の域に達していない学もある。
そうした学では、個別の分析を深めて、抽象の視点を探ることが大切だ。
こんな理解もあるかも知れない。 へ―ゲリアンに分けてあるところあたりから。当たりはずれはあると思う。 長谷川宏の講談社メチエの本、分かりやすくていいね。『新しいヘーゲル』はクソだったけど。
これと加藤尚武の入門でやっとさわりが分かってきた気がする。 精神現象学が難しすぎてヘーゲル読むのやめようかと思ったけど、エンチクロペディーとか歴史哲学講義ならなんとか読めそうな気がしてきたわ >>405
哲学書が難しい理由のほとんどは、書いてる本人が理解していないから。
『精神現象学』もそのひとつ。
本人がカオスのような思考を、編集者との関係があるにしろ、雑駁に書いてしまったから読みにくい。
樫山氏や長谷川氏の解説どおりかな、と思う。 他人が書いたもんをああでもないこうでもないとやってる暇があるなら自分で書け >>411
聞いても答えないよ。
うっかり読まれて、身バレとか恥ずかしいじゃないかw
匿名掲示板が一番いいな。 大橋良介『聞くこととしての歴史』は、ヘーゲルの紹介の仕方がうまいな。 【流行語】前原誠司代表、解党を否定「アウフヘーベンだ」 民進党の“希望の党“合流について
http://m.huffingtonpost.jp/2017/09/28/maehara-kibou_a_23225668/
2017/09/29
…
■報道陣「実質的な解党では?」⇒前原氏「アウフヘーベンだ」
報道陣からは「実質的な解党的な合流では」と問われると、前原氏は「いろいろな方々がおられますが、
小池さんのおっしゃるアウフヘーベンだ。
止揚だと思っています」と述べ、解党ではないという見方を示した。
小池知事が多用するドイツ語「アウフヘーベン」という語を用いたことからも、小池知事との親和性を
アピールした格好だ。
朝日新聞デジタルによるとアウフヘーベンとは、哲学者ヘーゲルが1812年の主著『大論理学』で使った
概念で、否定によって高い段階に進むが、
否定されたものが取り込まれて残っている状態のことを指すという。 2017/09/29 発売
『ヘーゲルとハイチ: 普遍史の可能性にむけて(叢書・ウニベルシタス)』
(スーザン・バック=モース著 法政大学出版局)
世界史はいかに可能か?奴隷制と植民地支配が形成した世界資本主義市場を背景に、
近代市民社会をめぐるヘーゲルの洞察と“ハイチ革命”の現実とを同時に思考すること―
それは、主人と奴隷の弁証法のプロセスないし階級闘争史とみなされた世界史のヴィジョン
を、従来問われずにいたまったく別の観点から批評することである。非西洋中心主義的で
真に普遍的な人類史にむけた、ポストコロニアル的批判の刺激的成果! 紅はこべ
17世紀、ヨーロッパ思想(哲学)はデカルト、スピノザ、ライプニッツといった形而上学(神学)を基盤に動いていた。
そして18世紀に入るとその主要舞台はイギリスへと移りロック、バークリ、ヒュームといった
イギリス思想(イギリス経験論)が主役を勤めることになる。
しかし大国イギリスがヨーロッパ思想に影響を与えたのは唯一この時期だけであった。
このあとドイツから彗星のように出現したカントが「批判哲学」でドイツ観念論を導き、
さらにそのドイツ観念論を完成させたヘーゲルの登場によって19世紀は「ヘーゲル哲学」の独壇場となる。。
2017/10/21 >>418
現代はイギリス哲学の独壇場という話を聞くんだけどな? >>362
もしかして「実践」の意味を誤解してる?
マルクスで言う「実践」って、「感性的人間活動」のこと。
「お前は理論ばかりで実践がない!」とかでいう"実践”とは違うよ。 ラッセルがケンブリッジ大学に在籍している頃までは
イギリスもヘーゲル主義に染まっていたらしいよ ドイツ観念論はヘーゲルにおいて完成されたって言い方はやめてもらいたい
ヘーゲル哲学はカント以降のカント哲学を基礎とした諸哲学の内の一つでしかない >>422
ヘーゲルがカント哲学を批判しているのは確かだけど、そだからといって、カント哲学を基礎としているといえるのかなあ? カントとヘーゲルのつながりって簡単そうでよくわからないよね 岩崎武雄のカントからヘーゲルへ
ってどうなんだろうね。 岩崎武雄という人はデカルト的近代主義者だったけれど、その種の人が書いた入門書としてはトップレベルじゃないかな。 >>393
マルクスを参考にするとわかりやすいと思う。
特に、唯物論の立場とその認識論。科学の立場そのものだし。
例えば>>390氏の言ってることはもろにそれ。実にスッキリしてるでしょ。
宇宙があって地球があってそこに人間が生まれて存在して、その脳髄に基づいて意識が機能して
まわりの自然や自己を認識しようとしくわけだから 廣松の弁証法の論理を読むことだね
何で弁証法なんか始めたのか
精神現象学の緒論は何なのか何の為にあるのか
何で直接認識じゃいけないのか
あれを読まないとわからない
あれを踏まえないでヘーゲルについて語ってるのは専門家も含めて全て戯言
馬鹿げている
逆にあれが理解できるならヘーゲルは当たり前のことしか言っていない
何も難しくもない
精神現象学も大論理学も常識の範疇に過ぎない
個々の項ではなく関係が先に立つとか全ての認識は他者との承認しあいだ
社会化された共同主観だとか認識はいきなり与えられるものではなく
少しずつ一歩一歩進むものだとか
何をヘーゲルは言いたいのかあれを読めばわかる いや、大論理学は難しいだろうがよ
そもそも哲学では「言いたいこと」を世界に対して汎化してゆくようにして語るからな
緒論で書いてあることはただの前提 カントのカテゴリーについて:
パースはカントの4つのカテゴリ−を、(量、質)(関係)(様相)といったように3つに区分けし
直した(パース著作集『現象学』)。他方、岩崎武雄は(量)(質)(関係)といったように3つに
区分けし直した。岩崎は(様相)における3契機は他の3つのカテゴリーに振り分けられると
指摘している(『カント『純粋理性批判』の研究』、純理b223参照)。
これはヘーゲルに近いとも言える。
岩崎の立論は説得力はあるが、「総合」という役割を(関係)というカテゴリーのみに振り分ける
ことには弊害もある。パースのように記述論理学的見地から「様相」を重視する視点があって
も良いだろう。 こう言っちゃなんだけど、弁証法ならこれが定番。
もっとも分かりやすく、もっとも正確。
『弁証法はどういう科学か』(三浦つとむ) >>434
なんで?
ソシュールの神秘的言語観より、時枝誠記の方がずっと現実的だよ? 輸入品にちょっとケチをつけて全然改良になっていないのに
改良したつもりで得意がる。
言語過程説は日本人がよくやる理論もどきの典型だよな。 >>436
人間には、文法のようななにかが備わってるというのがソシュール。
神秘そのものだよw だからそいつらは弁証法の何も分かってないんだよ
語っているお前らも
廣松渉の弁証法の論理読んで理解できるだけの力あれヘーゲルには謎も何もない
クワインのホーリズムとか全て精神現象学や大論理学の中に収まる
わかってない馬鹿はいいから >>440
クワインのホーリズムが精神現象学と大論理学に収まるだ?は?どう収まるんだよ言ってみろ >>440
それはともかく、廣松渉というのは、毛沢東主義者で尊皇攘夷論者なんだろ?
ヘーゲルには、結びつくかも、だけど・・・w 精神の現象についての学問なら読書は吉とは言えないな。 >>443
廣松渉は毛沢東の「農村から都市を包囲する」路線を厳しく批判していた。
廣松の政治的な立ち位置は毛沢東よりもトロツキーにはるかに近い。
廣松は尊王攘夷論ではない。プロレタリアートに対して徹底的なインターナショナリズムを要求していた。 >>445
廣松は自分で毛沢東主義者を自認してたよ。
ネットで探せば、本人の書いた文章が残ってるだろう。
「尊王攘夷」が廣松の口癖だったというのは、奥さんの証言だそうだ。 >>446
>廣松は自分で毛沢東主義者を自認してたよ。
>ネットで探せば、本人の書いた文章が残ってるだろう。
「しかるに先進諸国においては、すでにブル民革命が終了しており、また語の本来的な意味で
の“民族ブルジョアジー”なるものは存在せず、“民族問題”は社会主義革命によってのみは
じめて解決の途が拓けるのであって、逆ではない。従って、先進資本主義諸国では、疑似民民
統一戦線はともかくとして、中共路線に本有的な意味での民民統一戦線には歴史的条件が存在
しない。また、農山村に自給自足的な解放区を設営することも──農村の革命的エネルギーや
自然的立地条件を不問に附するとしても、社会生活を数世紀以前の様式にまで逆行せしめるこ
となくしては農村自給経済が不可能であるから──とうてい期しがたい。以上二つの点で大前
提が崩れる以上、先進資本主義諸国においては、中共派的革命路線は現実性をもちえない。」
(廣松渉著『現代革命論への模索』新泉社、P253より)
これが廣松の毛沢東路線への視角だ。
ネットで探す? 使っている検索エンジンが違うのだろうか、廣松が毛沢東主義者を自任していたという話はさっぱり出てこない。
>「尊王攘夷」が廣松の口癖だったというのは、奥さんの証言だそうだ。
平成元年1月17日の朝日新聞の囲み記事(インタビュー)『同世代から』を読む限り、到底信じがたい。(図書館で縮刷版をあさって下さいな。)
まあ、建前と本音の違いは誰にでもあることだから、100%ないこと、とは言い切れませんがね。 >>447
ネットで毛沢東礼賛のインタビュー記事が出てるよ。
尊王攘夷についても。
もう少し探してみてね。 【ステロイド抜けたらガリガリで横チンを公共電波に晒したり
土俵に力水はいたり尻の穴ほじくった手でツッパリして相手をひるませたり
自分で隠し持っていた山響株を兄が盗んだと騒いだりした】人は、
マラも洗わずに被害届を出しちゃったのかね?
この人こそ、実は協会あげての片八百長で夥しい星を献上してもらっておきながら
何を勘違いしてるのかねえ 廣松渉は京都学派の密かな後継者だから
絶筆のアジア主義も尊王攘夷も意味合いが異なるし
(左翼がアジアを語るべきだし、将来的に天皇は共和国的分権を前提に京都に帰還するしかない)
その書誌学的貢献は揺るがない
(ドイデから幽霊論を排除したのは疑問だが、デリダ的言葉遊びに繋がるとしたら一長一短ある)
ただしレトリックに過ぎないヘーゲル弁証法を論理モデルにしたのは間違いだが
ちなみに初期毛沢東はアナーキズム*から多くを得ている
*
中国共産党を作った毛沢東は、スノーとの対話でアナキズムを研究したと語っているし、
「小組織、大連合」という1921年の毛沢東のキャッチフレーズは、アナキストとの連携を
意図するものだった。そもそも孫文の時代はアナキズムと共産主義は未分化だった。 >>449
そんなめんどくさい事させるなよw
廣松が毛沢東主義者だってのは、恥でも隠すことでもないよ。
かつてのML派との心情的な親和性は高いし、単純行動主義者でもある。
226に憧れてもいたんだから、尊王攘夷みたいな右翼的なタイプとの親和性も高い。 >>452
早く貼れよホラ、本当は口から出まかせなんだろ?白状して楽になれよ 【ステロイド抜けたらガリガリで横チンを公共電波に晒したり
土俵に力水はいたり尻の穴ほじくった手でツッパリして相手をひるませたり
自分で隠し持っていた山響株を兄が盗んだと騒いだりした】人は、
マラも洗わずに被害届を出しちゃったのかね?
この人こそ、実は協会あげての片八百長で夥しい星を献上してもらっておきながら
何を勘違いしてるのかねえ 資本主義も値打ちもんで古いものではないのだよ。
社会主義は資本主義と対立したものだから、本来の意味でもイデオロギーではない。 共産主義は確かにイデオロギーではなく経済システムに過ぎない。
しかしマルクスの説いたものはイデオロギーだであり、
共産主義を導入した国家もまたマルクスのイデオロギーに啓蒙された末に出来た。
それがマルクスが目指したものかどうか我らにはわからないし、
またマルクスも実践された国家がどのようになるかを予測できていなかっただろう。
システム自体に欠陥があろうともなかろうとも。 >>456
マルクスの資本論はあくまでも資本主義経済の分析。
マルクスの心情としては、資本の独裁による社会を労働者の参加により改善していくという現実路線と、一挙に労働者階級による資本家からの政権奪取の理想を持っていた。
プロレタリア独裁というのは、ブルジョアジー独裁の現実社会に対するアンチテーゼ。
そこから先のジンテーゼは、想定するものではなく、現実が作っていくもの。 佐藤優が以前宇野弘蔵と廣松渉を比較していて興味深かった記憶がある
仏教的とキリスト教的…
熊野純彦のように廣松の方が不純なるがゆえに見所があるという見方もできる
ただ宇野は不純な部分を経済政策論に回していて
ヘーゲルの純粋な展開を借りていても資本主義の不純な部分を
視野に入れているのは宇野の方だと思う
簡単にいうとヘーゲルは社会革命の基盤にならない
廣松はせっかくカント的4分割を導入していたのにヘーゲル弁証法の悪い部分を
最後まで引きずっている
宇野はヘーゲルの3分割を借りているだけで弁証法を信じていない
宇野はスピノザの影響を少し受けている…
マルクスは柄谷のようにカント的に読み返すべきだ 佐藤 優はゴミ
毎回口に唾液いっぱい含んだ喋り方で気持ち悪いし
中身意味不明だし的中しないガマガエル 佐藤優はマルクスを勉強したというけど宇野と廣松に依拠してる時点でもうアレだし 長谷川宏はどうよ?
ヘーゲルだけじゃなくてマルクスもフッサールも訳しているけどさ。 >>453
なんだ、まだ無知を威張ってるのか。
本人と話したこともないくせにw ニーチェのようなエッセイストによる自己啓発本は女子供と童貞に大受けだが
ヘーゲルはそういった層には全く評価されない、両者が比較対象となるのは稀だが、社会性と個人主義の対置
という点では両者の違いが色濃く浮き彫りとなる、ニーチェの言葉を借りるならば、規律や社会との関わりについて
まるで関心を持たない個人主義の横行、刹那的快楽主義のやつらこそが末人である >>462
証拠も無しに物を言って通用すると思うなよ
早くソースを貼れよ、ネットで調べて出てくるならURLを貼れ >>464
君が信用しようとするまいと、そんなことはどうでもいいことw
廣松がどんな人間だったのかを知る人には、あたりまえの話だから。
まあ、君は、「証拠、証拠」と喚きながら、「慰安婦なんかいなかった」とか嘯いてるのがお似合いだ。 >>458
宇野弘蔵とスピノザに関係があるのか。
初耳だな。 >>468
スピノザ本の書き手だろ。
折に触れてスピノザを推してるw >>469
もちろん、宇野のことじゃなくて、スピノザ押しの人のこと。
念のため補足w 宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て
――スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」(全文)
「序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房、宇野弘蔵『『資本論』と私』271-272頁より。同書解説ではスピ
ノザのパロディと解釈される。初出は1935年、東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
参考:大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007 http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf 「…宇野は,資本の物質的過程に則した原理の純粋化(方法の模写)と,その純粋 化によって要請される政策目標設定との
「同時並行性」を指摘するのであるが, この種の「唯物論」がスピノザの「心身二元論」に着想をえていると,宇野自身 に
よって述懐されていることは,十分に注意されてよい。 宇野自身によるその説 明がない以上,その真意は測りかねるが,た
とえばアルチュセールによれば, 「無神論者」スピノザは,敵のもっとも強い陣地たる神=無限実体から始める。 これは並
行する二つの属性,思惟(精神)と延長(身体)の無限様態に自己を実 現する。しかしスピノザの方法は,情念(身体)に
対して,知性(精神)からの 制圧=改善を期待するところにあるのではない。「心身二元論」「心身並行論」 の名で知ら
れるスピノザのテーゼは,しかし精神が身体から切り離されていると いうことでもない。精神が身体と「ともに」思考すると
いうことであり,一方の 他方に対する優越を禁じているのである。 この関係は,国家と資本とのあいだに おいても想定可能
である。つまり国家(精神)は,資本(身体)から切り離され えないばかりか,資本(身体)と「ともに」ありながら,資本
と「ともに」思考 する。国家と資本もまた,厳密に「並行関係」を保ちながら,際限のない過程を 展開するのである。国家
という「精神」は,ヴェーバーの認識とは反対に,資本 の動向に対して,外からその行程を歪めることなく,資本という
「身体」と「と もに」,あるいは資本という「身体」 に「おいて」 しか思考できない。 こうした 理解を示すかのように,
宇野は政策と原理との関係を,スピノザにおける精神と 身体との関係になぞらえるのである (宇野弘蔵『資本論五十年』上,
法政大学出版局1973]:476)。」
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007より
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期第 20 号,太田出版 他を纏めたもの) 参考までに、、、、
宇野弘蔵は自身の『経済原論』(1950,1952)をヘーゲル『小論理学』に対応させて章立てした。
ヘーゲル『小論理学』(松村一人訳)目次に対照させて宇野が書き込んだメモの写真版が『『資本論』と私』
(2008年、お茶の水書房)に口絵として紹介されている。
http://4.bp.blogspot.com/-3aLw87pUP6M/U13r_zLYmEI/AAAAAAAAdrM/39cQih4aVU4/s1600/uno.a.jpg
http://4.bp.blogspot.com/-NkCuVdTFt14/U13r-3CMQHI/AAAAAAAAdrE/5bhnrqeOFQs/s1600/uno_0001a.jpg
以下、文字ズレするかも知れないが多少恣意的に図解させてもらうと(左下から反時計回りに見る)、
/\
(絶対理念)
(生命) 理念 (認識) ヘーゲル『エンチクロペディ』より、
/_<利子>_\ 『小論理学』
/\ 「概念論」/\ &
/推論<<分配論>>_\ <<<宇野弘蔵『経済原論』>>>
/ 主観的\ / 客観 \
概念<利潤>判断/_<地代>_\
/\ /\
/ \ 『小論理学』 / \
/限度 \<<<経済原論>>>/現実性 \
/_<資本>_\ <資本の再生産過程>
/\ 「有論」 /\ /\ 「本質論」/\
/ <<流通論>> \ / <<生産論>> \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/_<商品>_\/_<貨幣>_\<資本の生産過程><資本の流通過程>
注目すべき点として、宇野はマルクスの<<生産論>>と<<流通論>>の位置を逆にしている。
さらに「概念論」最終部分、ヘーゲルの弁証法(認識)を含む理念に<利子>を対応させている。
宇野のこうした夾雑物を排除した『資本論』理解は労働価値説の軽視とも受け取られ、
後に廣松渉によって批判され、佐藤優や熊野純彦によって再検証されている。
(ただし弁証法を信じきっているのは宇野ではなく廣松の方だと思う) 限界文明の所産だよ。加害に無自覚な文明。被害に永遠に怨みを抱く遅策。 精神の現実性ーヘーゲル研究 (リベルタス学術叢書)
ミヒャエル・クヴァンテ, 後藤弘志, 桐原隆弘, 硲 智樹
2018/1/20
https://www.amazon.co.jp/gp/product/490520808
内容紹介
ドイツ観念論と現代分析哲学の最も幸福な邂逅。現代ドイツにおける「人格の自律論」の泰斗
が、ヘーゲル研究の集大成、ここに刊行。
著者について
1962 年生まれ。ベルリン自由大学、ミュンスター大学で哲学を専攻。1992 年にミュンスター
大学で博士号取得、2001 年に教授資格を取得。デュースブルク=エッセン大学教授、ケルン
大学教授を経て、2009 年からミュンスター大学教授。ヘーゲルを中心としたドイツ観念論の
研究のほか、生命医療倫理学の面でもドイツの研究をリードしている。 >>461
読みやすいと言われているが、誤訳も多いとのこと。
金子訳がいいらしい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています