ヘーゲルスレがなくね? [無断転載禁止]©2ch.net
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>>759
動物と人間の差を証明するために欲望を欲望する闘争を行うのは誤りで、本当の理由は劣等感である、従ってヘーゲルは誤っているとお考えということですか?
因みにそういった指摘はどなたかがなされているのでしょうか? >>757
イマイチ腑に落ちない、というのは自分自身>>757のような実感を持ったことがない、という事なのですが、皆さんはどうですか。 農業革命以降の身分差の確立を理念的に捉えるとそんな感じになるのでは。
貴族階級ってもとは武力で農民その他を支配したわけだろ。 >>760です。
レスくださった方、ありがとうございました!
お礼が遅くなり、申し訳ありません。
このスレでは常識みたいな恥ずかしい質問でしたが、勉強になりました。
スッキリしました。
本当にありがとうございました!!
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., '::/ .//ハ| j/| ノ;' |V::/ }:::::::::', \.\ 30 :学術 :2019/09/24(火) 17:08:26.00
サンガリアコーヒーのほうがユンガリアンとかへ―ゲリアンよりいいのに。 ヘーゲルの今ここ
それは物そのままの唯物論ではない
この目の前の物は視点により変わる
森の中の今この樹は横を向けば別な樹になる、今この瞬間の物は刻々変わっている
息をする、吐く息、吸う息、同じでなく変わっている、継起し変化している
全く同じ物は存在しない
また、私の閉じた視点から見た私だけの物ではない
唯物論でも私だけの視界の現象界があるだけで物自体で不明の観念論でもない
一人称でも三人称でもない、共同主観であり、論理実証主義の還元主義を批判したホーリズムとパラレルだ
じゃ、その関係主義は何かと言うと仏教のサティと同じだ
今ここは継起して同じではなく、私もいない
呼吸すると最初は私やいろいろな雑念がわくが最後は固定した物も私に縛られた意識も何もない、
刻々変化する全く同じ物はない、それが仏教の止観の言う止である、対象に溶け込む三昧、神秘体験、気づきだ
これがサティだ
釈迦は三昧だけでなく全体を見る観も言ってるがこれもヘーゲルのホーリズムにすぎない
理論構造として仏教とヘーゲルは同じ
主観でも客観でもない共同主観、実体論ではない関係主義、ホーリズム
同じことだから同じになる 理論負荷性があるから、要素還元主義の唯物論は取れない
カント式孤立した主観の遠近法も取れない
ホーリスティックに、共同主観的、社会的に決まる
それが弁証法だが、ヘーゲルのもう一つの柱、現象学は今ここに没入しながら、そこには私の主観も孤立した物もない
全てが継起しながら繋がっている、仏教で言うところのサティ=気付きと縁起の法
相互依存関係の洞察がある 今ここに確固とした、物があり、向き合っているように見えて全てはつながっている、相互依存、相互作用し固定的な実体はない
それを見る私もいらない
主体もなく世界がただそこで繋がっていることに気付く
そこから相互作用の法を分析していく
仏教の気付きと縁起
ヘーゲルの精神現象学の今ここの分析とそこからのホーリズム
全く同じこと 『哲学史講義』を読んだら、
一度は挫折した『精神現象学』も読めるような気がしてきた。 精神現象学に関しては、前書きはすっ飛ばしていきなり本編から読んだ方がいいよ
有名な話だけど同時期の哲学者シェリングに対する批判とか、ドイツ観念論に造詣が無いと理解できないし箇所や、本編を前提とした上で語ってる箇所も多いからね >>776
シェリング批判とか、しょせん仲間内の悪口にすぎない。
現代人にとっては意味ないよな
そんなものを読まされるほうの身にもなってもらいたい 「すべての牛を黒くする闇夜」
学者はこの話が大好きだけどな ヘーゲルとホーリズムとのつながり、よーわからん、、、、 ヘーゲル自体、絶対精神を持っていたのかもわからん。 ヘーゲルの特技は、しゃべること
大学での講義も非常に人気があった。
著作も、講義録のほうが出来が良い 現代の日本もそうだが、当時のドイツも、哲学をやってる人は少なかった
哲学界は狭いコミュニティだった 776ですがまさか、全ての牛を黒くする闇夜がでてくるとは
皆さんのヘーゲルの入り口はどこでした?
僕は精神現象学で門をくぐったばかりなので、参考までに聞きたいです 75 :名無しさん@1周年 :2020/04/04(土) 05:13:33.29 ID:xwhBM1c80
朝9時に出社する時にスーパーでトイレットペーパーを老人が列をなして毎朝買い占める。
仕事が終わってスーパーに行くと既に売り切れ。
老人が感染しないように子供達を自粛させるがその老人がやれ海外旅行だジムだの遊び呆けて子供にうつす。
まさしく老害。
日本の糞老人を助けるために自粛なんかアホ臭くてやってられない。
どうせこっちは感染しても死にゃーしない。(多分)
毎朝スーパーのレジに並んでいる老人見ると思い切り後ろから蹴り飛ばしたくなる。
いっそのことコロナが大流行して70以上の老害が皆殺しになればとすら思うね。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
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::::::::::::::::::::r' /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: ヘーゲルの影響?ドイツ人があがめて、日本人がドイツ人をすきで、それだけだろ。
ブラジル人がヘーゲルなんかあがめるかよ。
せまいせまい領域で古典として生き残っただけ。
まあそれでもましだが。 マルクス主義者が多くて有名なのはブラジルだったかな >>789
休日に並べばいいだろ?
知恵の回らないやつだなw
そんなことではヘーゲル読んでも無意味だな。
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パチャぷるぱちゃぷるぱちゃぶか〜
パチャホワブルパゃ〜
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大論理学は「適切なガイドブックがない」ことで有名な著作。
・・・そんなもん書いたら大論理学の数倍の大著になるだろうね。 ヘーゲルを理解したいなら、まずキリスト教を理解しなければならない
それも三位一体の教義を
カントはそれを否定し、イエスを道徳の教師に位置づけてしまったが
更に、キリスト教でもカトリックでも、カルヴィンの改革派でもだめ
聖餐においてのみ、パンは神となるというルター派じゃなければだめ
我々は有限だという心胸が大事
有限だからこそ無限を彼岸に立てる
あくまで有限と無限の間には断絶あるとするのがカント
ヘーゲルは神が人間と成るという受肉の啓示によって有限と無限との統一が果たされたと考える ヘーゲルは人の認識能力を、直観、表象、悟性、理性と区別する
形式論理学を真理とする悟性では、無限と有限との統一は矛盾だとして認めないが
矛盾(否定)こそ、固定した知を、本当の真理に向かって動かす原動力だとして
ヘーゲルは積極的に認める
それが理性の能力
だから神(無限)のうちにも否定が含まれていて、しかも生命として運動するものだから
自分を自然として外化する
自然は神の疎外態ではあるが、それでも神の本質が内在しているので
しだいにその本質が、自然の進化として現象してくる
自然の進化の果てに、人間の精神が誕生し、精神はさらに発展し、歴史をつくり
精神が自分を知るに至る
芸術、宗教、哲学において、人間の精神は神の精神を知る
それも自分と同じものとして
神は自己否定して自然にならなければ、人間の精神
即ち、神自身を認識してくれる存在を持てない
ここに人間精神の神への高揚が神の人間精神への降下でもあることになる
神を知ることは、神が人間の精神において、自分自身を知ることに他ならない
単に彼岸にあるだけの無限のままに止まっている神なら
有限と対立するだけの無限にすぎないなら、それは有限と同じ
真の無限は、有限をうちに含むところの無限である デカルトがそれまでの意識の形而上学に支配された知の世界から
自己意識の純粋性、自立性、主体性を確立することで、ここから近代哲学の歩みが始まった
しかし主客関係という相容れない二つの実体の統一に行き詰った
その課題を克服しようと、一方の実体を他方の実体に吸収する形で
ベーコンの流れを汲むロック、ヒュームなどのイギリス経験論と
普遍性の形而上学のスピノザと個体性の形而上学のライプニッツなどの観念論に分かれた
その対立を調停するためにカントは純粋理性批判を書いた
それは人間が認識し得るのは感覚で捉えらえた現象のみで
その最奥にある物自体は認識できないとする二元論だった
しかし、その証明のための方法、超越論的論理学によって
人間の精神には経験に還元できない分野があることを認めたこと
即ち、それは魂の不滅を論理的に承認したことであり
そこから認識できないが存在することは確実な、要請としての神
神に裏打ちされた道徳律の確立が果たされた
しかしカントの二元論に満足できないフィヒテは理論理性より実践理性を優位のものと見て
自我=自我という、デカルトのコギト、形式論理の同一律、カントの超越論的統覚などの
統一原理、知の基礎としての原理を確立しようとし、そこから一切を導き出そうと試みた
シェリングは一切は絶対的なものの現象であるとし、しかも自然の中にそれは見られるとし
それは直観によって直接的に知るのみであるとした
ヘーゲルは、それまでの哲学はみな悟性による哲学にすぎないとし
理性(思弁)による哲学の確立を試みた
しかし、悟性や直観を否定するものではなく、止揚(否定と保存を同時に行う)によって
それを遂行し、論理、自然、精神の弁証法的総合を試みた
ヘーゲル以後、一切の知を統合しようとする哲学に対する情熱は人間から失われ
哲学は学問の一分野にすぎなくなってしまった 哲学書をひもとく、その動機は様々だろう
大学の授業のためなら、卒業後はすぐに忘れる、忘れなければ社会に適応できない
知的好奇心、知的な見栄のために読んでみる、そういう人は
現実の重圧の前に簡単に挫折し、逆にその後哲学に反感を持ったりする
なぜなら、哲学は学問であり、長い歴史があり、丁度、相対性理論を真に理解するために
微分方程式を理解しなければならないのと同じような努力が必要だからだ
また、西洋哲学には社会、文化の土壌が違う日本人ならではの難しさがある
真理は国境があるわけがないと思うだろうが
日本には日本の人倫を支える思想が頑としてあるのだ(仏教、神道、儒教など)
西洋の哲学にかぶれると日本人社会の絆から逸脱することを覚悟せねばならない
それは江戸時代の隠れキリシタンのようなもの
日本において、西洋哲学は孤独な青年の精神と大学という象牙の塔にしか、生息場所はないのが現状だ
多くの道を求める青年は、文学にそれを委ねる、文学の中に生きる指針を求めようとする
しかし、それは、入り口で立ち止まったままに生涯を終えることになる
まず文学ではなく哲学を選んだことを慧眼だったと喜びたい
さらに、哲学書を読むとき、最初は試行錯誤、乱読なのはしょうがない
あらゆる哲学書をざっと読むしかない
そのとき、有効なのが岩波新書とか、哲学の講座ものを選ぶということだろう
気を付けねばならないのは、吉本隆明などの在野の思想家の存在だ
そういうものは全く学問的な修練をしていないのだから無視してよい
そうして、哲学的修練の末に、ヘーゲルに辿り着いた人は
人生の真の幸福に巡り合ったということになる 純粋哲学と言ったら言葉にならない涙、禅問答の様な抽象的な笑い。 有罪と無罪どちらを選ぶのか?となれば無限というのは蛇足の塊やり直し失敗浪人よりは有限を更新するに越したことはないさ。
外から集まったものを外に返すのは仏教のほうが詳しい。
単語で切り分けてもまた集めないといけない。
止揚というのは哲学をやめた諦め。ヘーゲルは体系的で落第生。
極東はユーラシアの一部で、別にコンプはない人も多い。純粋な日本の哲学
などはつまらないものだろう。わがままな。 哲学者はルックスが外面として美が戦いに機能していること。内面の詩音楽の世界がたぐいまれないこと。など。 いやドイツ人はそのラブレターを隣国に届けただけだ。相手は日本人じゃないと思うけどな。
日本はどこかまで情報繋いでる。 嫌うと相手が最強になるな。そういう相手はたたかいにくい
好くと人格が光のようだ。与しやすいようでだまされない。善悪はありふれている。 哲学者や哲学書が権威的に勝ち続けると哲学者は歴史上の哲学者も性欲を若い娘に漏らすだろう。
いきなりからよんでみてまで負けていると名前も哲学書も残らない。そのあとに自分で書き記したものが大事だ。 哲学の時間は形而上学的な時間の積み上げ。物理の時間は次元の揺らぎまでしか届かない。 彼〔ヘーゲル〕はぐったりとして、気難しげに頭を下げて、かがんで坐っていた。
そしてページをパラパラとめくり、絶えず話しながら大きなフォリオ版ノートのなかを、前後に、上に下に探した。
つねに咳をしたり、咳ばらいをして、それが話の流れを妨げた。
どの文章もポツンと語られ、それもやっとのことで、細かく切れぎれになり、ごちゃごちゃになって出てきた。
どの単語もどの音節も、嫌々やっと口を離れたあと、キンキンした声とひどいシュヴァーベンなまりで語られると、まるでそのどれもが非常に大切であるかのような、変に深い重味をもつのだった。
……立板に水を流すような雄弁は、話そうとする内容を心のなかですっかり仕上げ、完全に暗記していることを前提する。
形の上で熟練すれば、半可通の者でもきわめて優美におしゃべりを続けることができる。
けれどもヘーゲルは非常に強力な思想を、事物の底の底から運び上げなければならなかったのだ。
しかも、これらの思想を生き生きと働かせようと思えば、たとえそれが何年も前から日々あらたに考え抜かれ、手を加えられてきたものであっても、いつも生き生きとした現在の姿において、彼自身のうちでもう一度産み出さねばならなかった。
(H・G・ホトーによる有名な報告) 「シュヴァーベンなまりをしゃべれる者にしか、ヘーゲルは正しく理解できない」
アドルノによれば、ホルクハイマーによるこの寸評は、決してただヘーゲルの言葉のなまりが酷くて聴き取りづらかったということだけを指摘して言ったものではない。
そうではなくて、ヘーゲルがなまったままで、言い換えれば、ある意味で言葉遣いに対して「無頓着」*2なままで、ああいう抽象的で難解な思弁を展開した点に注目して言ったものなのである。
ヘーゲルは生涯、つまりプロイセンの国家哲学者と世に言われるようになってからも、シュヴァーベンなまりをやめなかった。これは周知の事実である。
修辞を駆使し言葉巧みに哲学を語ろうとするでもなく、かと言って日常の言葉に置き換えて平易に哲学を語ろうとするでもなく、彼はあくまで方言まる出しの文体で哲学を語ろうとする。
要するに、ヘーゲルはなまりを正さないままで哲学した。アドルノはその点を指摘して次のように書いている。
「彼の叙述の仕方は、超然たる、どうでもいいという態度で、言語に対していた」 「ヘーゲル哲学は、なぜ、あれほど難解なのか?」というのは、古来から、しばしば話題になってきた。
その原因としては、「文体」に非難の声が向けられることが多い。
ヘーゲルは、文章がヘタ、というより、文体に無関心だった。 ヘーゲルは自分の哲学が、正しい宗教の避難場所だとした
その言葉は、今日、もっと切実な言葉として受け止められねばならない
いつの時代でも、健全な青年の魂は、人生いかに生きるべきかという実践的問題や
死んだらどうなるのか、魂は不滅か、神とか仏とか、そういう絶対的なものは存在するのか
というような理論的問題に悩んできた
そういう悩みの受け皿として伝統的な宗教がかつてはあった
しかし、それは近代以前の人々のものであった
科学的考えが発達し、伝統的な考え方、とくに宗教などは皆迷信だとされ
学校はそういう迷信を駆逐するために子供を啓蒙教育した
近代以降は国家間の経済的競争に国民が総動員されて駆り出され
そういう形而上学的悩みは軟弱なものとして邪魔なものとして斥けられた
より稼ぎより消費するエコノミックアニマルが国家の望ましい国民像とされた
むかし軍隊いま大企業、社会の中で商人のエートスが支配している
アダムスミスが経済の自由放任主義を唱え、市場原理を神の見えない手としたことを
現代人は、欲望至上主義のバイブルとしてみているが
アダムスミスは同時に欲望と道徳精神とのバランスをも唱えていることを忘れている
社会の片隅で、一人孤独で訳の分からない哲学書を眺め暮らしている形而上学的気分の青年
そういう純粋な魂は、世間知らずだから、社会の落とし穴に落ちやすい
全ての新興宗教などマインドコントロール商法が手ぐすね引いて待ち受けていると思わねばならない 文体に無関心なのは当たり前というか無関心だからこそのヘーゲル哲学
意味されるものが問題であって意味するものは問題にはなっていない
意味するものと意味されるもの二つともに自律性を持つという前提に立つとヘーゲルの弁証法は成立しない >>819
ユングと井筒俊彦のコスモス、アンチコスモス論についてどう思われますか? 宗教というモノがわからないのかヘーゲルは。そんなヘーゲル哲学などというどうでもいい道に人を引きずりこむことが偽善者だ。 井筒俊彦をざっと調べて、ちょうど構造主義が流行してたときに
思想形成したと思われる、ソシュールの東洋版か
安易な西洋思想と東洋の思想の折衷的な思想
西田、田辺などのヘーゲルと仏教思想との折衷的思想の哲学者さえ
そのオリジナリティーに今日的価値はあまりない
西洋哲学に対する無知から来る無邪気な和魂洋才の成果を試したかった
また近代の主観性優位のロマン主義が自分独自の思想を形成しようとする動機
東洋思想は、漢字という言語構造のゆえに、直観的に考えることに終始し
分からないのは直観する能力がないからとされるだけ
さらに事物を分析するにしても、経験的に取り上げるだけ
限定された経験に依拠した思想に普遍性も必然性も望めない
人間の理性や悟性を駆使した思惟による論証はほとんどない
結局、最後は言葉ではなく、言葉のない世界、自然主義が東洋の根本的原理
精神が自然に呑み込まれるのが東洋思想、日本、中国の思想の主役は自然
自然から脱しようとして脱し得ない精神を表すのがエジプトのスフィンクス
自然から精神が独立して自由になったのが西洋
ギリシア神話は西洋のあけぼのとして、そのことを表象している
太平洋戦争は東西の宗教戦争でもあった
日本は神国だという信仰が不合理な戦争に進んだ動機
そこで負けたのだから、潔く、西洋の思想のほうが優れていることを認めるべき
だから哲学は西洋のもの でも現在の世の中は自然に復讐されているとは言えなくないか? 現代のもっとも有力な考え方の一つとしてハイデガー主義というのがあって
プラトンからヘーゲルそしてニーチェまでの西洋形而上学は
存在そのものではなく現存在を追求したにすぎず、存在は忘却されてしまった
主客関係の哲学にすぎないと
主客関係の哲学は、主観の前に客観を立てる、即ち表象の哲学であり
その表象の面はヘーゲルによって一応完成されたが
表象だけでは真の完成とは言えず、意志の面も顕在化せねばならない
その意志の形而上学を完成させたのがニーチェであると
それは主観を絶対化させることに他ならない
だからそれ以後の世界は絶対化した主観が無限に発展して行く世界となった
主客関係の絶対化と意志の絶対化、その二つが具現化したのが技術社会
ハイデガーはプラトン以前の初期ギリシア哲学に定位し
存在をピュシス(自然)と解釈する
だから現代社会は神の座を人間が占領して自然をないがしろにしたところに
全ての禍があると
しかし、ヘーゲルはハイデガーのような主客関係の哲学ではない
ヘーゲルはあくまで他において自己を保持する
他がない、人間が人間に還元された人間主義は、かえって自己を失うことを強調していた 権威主義ではないが、1960年代の
東大と早大の文学部長の座をヘーゲル研究者が占めていたことを見ても
へーゲル以上の哲学は日本では存在しなかったと言える その時代はマルクスの元ネタとしてヘーゲルが重要視されていたんだろう >>828
その意味からして、ヘーゲルほど絶賛されているようでいて、
実際には過小評価さている哲学者はいない
マルクスが解明したのは、経済学のなかの市場論のなかの、
さらにほんの一部
ヘーゲルの業績は、哲学、倫理学、宗教学、史学、美学、法学、社会哲学全体、
認識論、哲学史、論理学、自然哲学にまでおよぶ >>829
それらのうち、宗教、歴史、美学、哲学史はほとんど無価値。
自分の属するドイツを必ず最後に持ってきて(笑)、至高のものと位置付けて並べて自己満足しているだけ。
自然哲学に至っては完全に無価値。あの当時の自然科学のレベルにすら付いて行けていない。
論理学は、体系を目指しながら体系破綻を来たし、結局、支離滅裂。お得意の「配列」にすら失敗している。
個々の議論には、ハッと気付かされるものもあるが、それらがでたらめに並べられている。
結局、ヘーゲルの業績で多少なりともまとまりが良く評価できるものは、認識論と客観的精神論だけに過ぎない。 >>830
ヘーゲルの自然哲学がややお粗末なのは、認める
しかしあなた、『大論理学』をふくめ、
ヘーゲルの全体系を、ちゃんと読んだの?
>宗教、歴史、美学、哲学史
これらは、「絶対精神の自己展開として、俺が見る限りは、
ずべて一貫した論理で説かれている。
そもそもが「哲学」とは、
「世界をどのように、原理から説明できるか」が主眼であり、
「あつかう個々の対象が、自然科学的な意味で実証的に正しいか、どうか」は、
ほとんど意味をなさない
また『大論理学』では、「有論」、「本質論」、「概念論」をそれぞれ、
ヘーゲル哲学における「特殊性」、「普遍性」、「個物性」への運動の論理としてみたら、
見事に筋が通っているよ
また、マルクス・エンゲルスの「アジア的ー古代的ー中世的ー近代的」という発展史観は、
ヘーゲルの歴史観を「唯物論的に」換骨奪胎したものにすぎないないことは、一目瞭然
>認識論と客観的精神論だけに過ぎない。
一万歩ゆずって、たとえそうであっても、それだけですごい業績
『エンチュクロペディー』のなかで、それに該当する事象がどれほど多岐にわたるか、
『エンチュ』の目次だけでも、読み返してみろよ
ほぼ現代の法学、倫理学全部と、現代心理学など問題にならない広範な精神の問題が、
すべて詰め込まれているよ >>803
面白いなぁ
ありがつお
いい解説じゃった カントは訳書も多いし、アマゾンの売り上げも全体ランキングで数万〜数千位
ヘーゲルは、最もポピュラーな「精神現象学」でさえ50万位
「大論理学」は100万〜130万位
ヘーゲルは初めから何を言っている分からないという難解さ
まったく常識的思考では読めない ドイツ語ではカントの方が意味不明だったな
ヘーゲルはもっとこう言葉にリアリティを感じた
建築的思考と弁証法的思考のちがいかねえ まず最初はヘーゲルはカント主義者であったが、しだいに
その義務命令が生き生きした生の全体性を引き裂き分離させると疑った
そして運命という概念によってカントの主観主義の枠を決定的に超克した
濁世から逃れ、何もしない美しい魂も、それ自体が一つの行為であり、よって運命を持つ
そこからヘルダーリンに触発され、「愛による運命との和解」を宗教の最高の真理として把握した
しかし宗教においては、洞察なき断定であるが故に、天上と地上はどこまでも分離してしまっている
その分離対立を克服するのは、有限なる生から無限なる生への飛躍、即ち宗教的行為である
無限なる生とは、結合と非結合との結合としての精神、絶対者である
だが、絶対者は意識に構成されねばならない、そうでなければ絶対者は夜(無)である
しかし絶対者に反省が介入したとたん、絶対者は制限されたものとなり、絶対者ではなくなる
フィヒテの第一命題と第二命題との総合が「差異論文」において目論まれる
まずAが措定されるとき、その措定されたものは制限されたものであるが故に、Aではない
つまり、Aは措定されたものであると同時に措定されざるものである
この事態は分裂と同一性が同時に同じ場において成立していることを意味する
反省は分離を措定すると同時に、同一性を呼び起こす
第一命題は、第二命題の含んでいる不等性を捨象する限りにおいて成立するが故に
第二命題に制約されている、また第二命題が命題として成立するためには
あるものへの関係を必要とするものであるが故に、第一命題に制約されている
このような両命題の関係こそ二律背反の表現であり、それは悟性による理性の最高の表現である
主観も客観も、他方を自らの内に含むことによってのみその存立を持つような存在である
このような同一性と非同一性との同一性という絶対的同一性としてあるのが絶対者であり
それは一切のものに偏在する普遍的な血液、絶対概念である
これがヘーゲルの言ってみれば基本的原理であろう >>836
>まず最初はヘーゲルはカント主義者であったが、
ここだけ読んだ。 善の目標は到達されてはならない、なぜなら到達されたら目標が消えてしまい
善の理念も消えてしまうから、到達されない目標に向かって無限に努力する
これがカントの道徳法則
ヘーゲルはこれを悪無限と呼び、自分の真無限と区別する
真無限とはこうである
ある自己同一的なものAが定立されると、定立されたが故に、その自己同一性が否定される
なぜなら、定立される以前のAと定立された後のAとは区別されるからである
故にAは自己同一性を回復せんとするために、二つの極に自己分裂する(BとCに)
対極的なBとCは独立してはいるが互いに他なくしては存立しないから自己同一的なものではない
しかも絶対的に対立しているものは、その絶対性故に同じものであるから
相互に転換し合ってBはCとなり、CはBとなって、二分される以前のAと同じ自己同一的なものAに還る
しかし、この還ったAも、BとCとの対立自身に対立する一方の項にすぎず真の自己同一性ではない
そこで真の自己同一性を回復せんとするために、再びB、Cに分裂する
かくて、無限にこれが繰り返される
AもBもCも限られたものにすぎないと同時に、限られたものではない >>838
わかりやすいデタラメ、というのは、こういう説明のことを言うんだろうな。 >>839
残念ながら、あなたがヘーゲルの少なくとも「精神現象学」か
その以前のものを読んでないことが証明された >>840
>自己同一的なものAが定立されると、定立されたが故に、その自己同一性が否定される
精神現象学以降はだいたい読んでるけど、まるで違うだろ。
定立とか関係ないし、ある存在はその存在自体に自己を否定する要素を持つ。
これが一貫したヘーゲルの考え方だよ。 金子武蔵訳『精神の現象学』上巻625頁(定立という言葉が出て来る)および630頁参照 こんな長い駄文を書いて
他人様に読んでもらえると思い込む
という、その一点のみに興味を覚える。 区別された両者が共に存立し、それぞれ自己によって存立し、しかも自己によって互いに対立したものとして存在するが
このことは、両者が各自に自分自身の正反対であることを、両者が各自に他者を自分で具え、そうしてただ一つの統一を
為すにすぎないことを意味しているのである。この単純な無限性、絶対概念は生命の単純な本質、世界の霊魂、普遍的な血である
己自身に同じである実在はただ自分自身にだけ関係するが、しかし自分自身にと言うとき、このさいの関係の向かっているものは
他者である。そこで己自身に関係することはむしろ二つに分かれることであり、己自身と同じであることがまさに内的区別なのである
「どのようにしてこの純粋な実在から区別が出て来るのか」と問う必要はない
なぜなら、こう問うたときにはすでに二つに分かれることが出来しているのであって、区別は己自身と同じものであるものから
閉め出され、他の側に置かれているので、己自身と同じものと考えられたものは、むしろすでに二つに分かれたものの
うちの一方だからである。したがって己自身と同じであるものが二つに分かれるというのは
それがまさにすでに二つに分かれることによって生じたものとしての己を、己が他的存在であるのを
止揚することをも意味するのである。統一とは、区別に対立する単純態だけを抽象したものである。
『精神の現象学』上巻 金子武蔵訳160頁
対象意識が自己意識に成る、また実体が主体になる、ヘーゲルの基礎概念といってよい
絶対概念すなわち無限性の成立する重要な箇所 >>846
>>838の解釈が間違ってることの証明にしかならないよ。 957 :可愛い奥様 :2020/09/23(水) 12:02:50.34 ID:GUdS6wNC0
しかし世の下半身人格無しが多すぎるわ
あの奥さん、旦那のこと許せるかな?
子供の送迎前に他の女抱いた手で子供の手を繋いで帰ってるわけだしね。
いやーまじ不倫したら罰金刑にしてほしい。
無条件で嫁に1回バレるごとに500万くらい。
それなら許せるわ。 >>848
妻だって自由に男と付き合えばいいのにw 祝!ヘーゲル全集の法の哲学が岩波文庫化!
▼2021年1月
『江戸漢詩選 (上)』(揖斐高 編訳)
『法の哲学 (上)』(ヘーゲル/上妻 精,佐藤康邦,山田忠彰 訳)
『ゼーノの意識 (上)』(ズヴェーヴォ/堤 康徳 訳) 岩波文庫 青630-2
法の哲学 (上) 自然法と国家学の要綱
ヘーゲル・著、上妻 精、佐藤 康邦、山田 忠彰・訳
(岩波書店)
縦148mm 横105mm 468ページ
定価:1,200円+税
ISBN:9784003363027
Cコード:C0110
発売予定日:2021年1月18日
一八二一年に公刊されたヘーゲルの主著の一つ。法の原理的検討からはじまり、
家族、市民社会、国家の洞察へと進む。それはまさに近代の自画像を描く試み
であった。上巻は、第一部・抽象法、第二部・道徳を収録。「ミネルヴァの梟
は、夕暮れの訪れとともに、ようやく飛びはじめる」という名高い一文が登場
する。(全二冊) 俗世にまみれた精神ではヘーゲルは一行も理解できない イポリットのヘーゲル精神現象学の生成と構造が
まったく題材に上がってないのが意外 カントにおけるハイムゼートが話題に上がっていないようなものだな。 最近大論理学の解説本読み始めたんだけど有論から何言ってるのかわからない
古典な存在論から入門しないと理解できないのかな >>856
まず小論理学を読んでからの方がいいと思うんだが…
もう読んでるかな? >>85
そうなんだ
ヘーゲルは初めてなもので...
ありがとう小論理学から読んでみるよ >>857
おい…
『小論理学』=『大論理学 有論(存在論)』だぞ
わかってるのか…? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています