哲学は高尚なものではないよな? [無断転載禁止]©2ch.net
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哲学というとなんか難しいものだとか高尚だとか思われるけどそんなものじゃないよな
答えがない問題をひたすら解き続けるようなものだろ?
自分なりの答えを探して…
なんか難しい言葉をたくさん使う人いるけど、俺はいろんな人の意見が聞きたいから難しいものという意識をとっぱらって、哲学の歴史全く知らなくてもいいからいろんな人が来て欲しいと思うんだけど、どうかな?
哲学自体は持て囃されるものではないよな
最も人の同意を得られた哲学者が有名になるのであって…
人を知識が無いから見下すような人間にはなりたくないなあ
初立てでした 泥臭くやっていった結果として汗牛充棟となり、高尚と見なされてしまうことはあると思う。 >>4
汗牛充棟←これだけで難しい感じ出てない?あんまり使わない四字熟語とかわざわざ使わんでも…
哲学で他の考えを知るのに本を読むことも手段のうちだけど本なんか読まなくても哲学的なことについて疑問を持ってほしいなあ >>1
高尚なものじゃないよ
高尚なものだという意見はエセ哲学に
酔うた勘違い人間の言い分
哲学はもてはやされるものではなく、当たり前にすぎない ヽ、,jトttツf( ノ
\、,,)r゙''"''ー弋辷_,,.
=、..,,,ニ;ヲ_ ヾ彡r''"^ ,,,,,,,,,,,,,,,,__
``ミミ, ミミ=- :__ ,彡彡彡ミミミミミx.、
= -三t /~ヽ ,三``''ヾ::, ,彡彡彡彡ミミミミミミミュ、
,シ彡、 / / ,:ミ'' ,彡彡彡'¨´ `ヾミミミミミ、
. / ^'''/ /''ヾ! ( ,彡彡彡 ,z=x、 `ヾミミミュ、
/ / / 、 \ /¨ヾ彡' ::: ,ztッ、` `ヾミミュ、
/ ,t- ! ヽ. ヽ' | l!,ィ :::...~`::''´ ::==ニミミミミミ,
. / , -〜''ヽ .∧'ヾ. _.ノ i,.=ッ、 }iiミミ
l ----,〉 彡itー' ,:' ゙=、_ ノ '::..,イiiミ''
! ___`, ,彡/ .: ___ ~i!. !ミ''
!. ,ィ__ノ 'V .: :. 匁卅i》 ! ,ィミ トイレの費用は純一が払えよ
. l i _,/ヽ .: ::  ̄ / `
. _ノ / _,.イ/ \ :: , / 払えないならイヴァンカは野ションだ
__/ヽ /ー─t≦ニ∧ ヽ ` ::...__,;:::'´,イ
/ニ,イ. ヽ. /二二/二二ニ∧. ヽ /
. /ニ/ニヽ \イ|!二二/二二二二', `ァ、 _ ,ィ
. //ニニニ\ `t|!ニニ\二二二ニ', ,イ::::::::::', .,イヽ
/二二二二二\_,イi}ニニニ>二ニニニ,_>''´ ヽー-〈V. V:',>。.
/ニニニニニニニニ`Z7ニニく二二ニニニニ, l::::::::l Vヽニニ>。、
/ニニニニニニニニニV二二ニVニニニニニ, l:::::::::!. V=\二二>。、
哲学は元来めちゃめちゃです。
でも
それでも私は
立ちションこそが健康を維持する最上の方法であると学びました。
. この問題の発端はあくまで久保
問題提起したのは久保そして一部関西の棋士
以前から久保は三浦に対し対局時の態度、姿勢、所作に不満、憤りを感じていたのは関西方面の棋士の間では有名な話し
そこで久保は同調、乗っかる棋士や関係者を周辺に固めて動いたわけ
谷川しかり渡辺も同業、連盟内の棋士である久保の事をあれこれ言えない事情が有るわけである意味被害者
黒幕の久保に話しが中々到達出来ないのは諸々の事情が有る
例えば(色々と有るのだが・・)、マスコミを通じて決定的な批判を「自ら」が行っていない点
三浦潰しに自らが関与していないというスタンスを現在迄も堅持しているのは久保の切れ味かw
ま、余談はさておき・・実際に久保から事情を聞くという事は連盟は今後行わないだろうし、行われたとしても地上波にまでは殆ど露出しないであろう
ともかく、どうしんのKも罪深い記事を書いた事は糾弾されてもしかたないのかなとは思うが、あくまで本丸は「久保」
根本を見直して連盟が問題を掘り下げる事を期待するしか無い >>11
誰よ!
こんなとこにも書いてある。
もう >>18
あなたも同類!
なりすましはやめて朕朕洗いなさいよ! |┃
|┃ 三
|┃ /''~⌒`´⌒~''ヽ
|┃ ガラッ / ∧ ヽ
|┃ 三 l ノー;;;;;' ll ゙;;;;;;-'ヽ l
|┃ 彡 ,,◞≼🍮≽◟◞≼🍜≽◟ ,,, ミ
|┃ 三 /.( )( 🐽 )( .)\
|┃ ~リ〈∵;∴) ll (∴;∵〉ソ~
|┃ ノヽ. / ∈🍈∋ ヽ ノヾ ぷりろっ ぷりろっ!
|┃ 三 / ヽ:.__;;;;;;;;;;__.ノ ヽ
,⊆ニ´⌒ ̄ ̄" y .;ヽ
゙⊂二、,ノ──-‐'´: ・ 人 ・ ,.y i
|┠ ' |  ̄  ̄ .| .|
|┃三 | ノ. ノ
|┃ |. (x) 9 /
|┃ | 彡 イ 近未来では
ミステリートレインが動きだし
アンドロイドは恋をする
もう一度確認しておきましょう。
哲学は元来めちゃめちゃです。
でも
それでも私は
立ちションこそが健康を維持する最上の方法であると学びました。
. 高尚じゃないけど
ジャンプできない人にはムリっぽい もう いい加減にしてよ!
高尚なものはインスピレーションから。
哲学はインスピレーションからではありません。
よって 高尚か?とか どうでもいいです。 高低を区別するためには重力が必要。
重力の概念の方が哲学に先立つと考えるのは、
物理を哲学に優先させること。
哲学は、物理にそのようなアプリオリの優先権を認めない。 >>26
高低とか重力とか…概念とか…すべてのすべてに
何故?って問いと懐疑と驚きの根源から哲学が生まれるからよ♪ その先立つものを懐疑する。すべてに繋がってるので。
優先権とかどうでもいいです。
つまり哲学に大事なことは現実を集中することです >>28
訂正
現実から逃げずに思考は集中すること。 よって
自演さんはたくさんたくさんあれこれあれこれ書きまくってるので集中していません。
自演さんは現実逃避をしているか
何か他の目的、策略があるか。
自演さんが目的があっても現実逃避していることはインスピレーションでもわかります。
当たらずも遠からずでしょうか いつも、これでもあえて心理学を混ぜて混ぜて混ぜて話してます。
私が哲学で話してますと人間のモノサシでは
計り知れないから。
哲学は元来めちゃめちゃです。
でも
それでも私は
立ちションこそが健康を維持する最上の方法であると学びました。
野ション、それも立ちションの経験のない女子が
まともな精神を死ぬまで維持できるということは稀有なことです。
皆さまもよくよく考えてみた方がいいですね。
. 哲学が人々の営みから遠い存在に成り過ぎた側面もあるのでしょうね。
私が創始した“σ原理”によって人々と哲学との距離が、
またかつてのように身近なものとなるのでしたら、
σ原理創設の経緯と照らし合わせましても、
何よりも喜ばしいことだと思うのです。
もちろん、自ら高度と称する独りよがりな哲学諸般もまた
哲学の一つの姿なのでしょう。
実のところ哲学には様々なものが存在していて、
学術的に扱われていない哲学もまだ沢山あるのだと思います。
これは宗教が扱っていない神様が沢山存在することと同じです。
by 鼎 梯仁 哲学が人の営みから離れた?
そうでは無く日常や法律に溶け込んだんだよ
アホですか 過去の哲学は既に社会や学問の基礎となった。
もちろんハイデガーやフッサールの様な偽物もいたが。 >>36
でも先生出てきてくれて嬉しいo(^o^)o >>37
どうも実感が湧きませんね。
具体的なお話しを伺ってもよろしいでしょうか?
問うているのはルソーの何たらが現在の法律の云々〜という学会が言っている話ではございません。
私が思うに哲学が人々から遠いものになってしまった一番の原因は、
それが手垢だらけの汚物と化してしまい、
人々にとって受け入れがたいものに陳腐化してしまったからでは無いかと考えています。
その証拠に哲学に興味があるという若者に「カントの云々〜」と言っても、
「ああ、そういうんじゃなくて」とシャットアウトされるのが現実です。
そして若者はロックのコンサートへ行ったりアニメーションを見たりします。
現代思想という雑誌がございますが、一体どの程度売れているのでしょう?
まるで存在感のない過去の遺物と成り果てた現実を「それは社会に溶け込んだから」などと強弁して逃げていては、
この問題は一向に解決しないように私は考えます。
もっとも、そのような哲学を己を権威付けるための便利な目くらましだと考えている方は、
宗教が神を人から遠ざけたのと同じ理屈で、やはり哲学を人から遠ざけることを良しとするでしょうね。
by 鼎 梯仁 だいたい歴史というものはそうなのですが、
哲学史もご多分に漏れず人々の手柄を自分の手柄のように自称しているだけなのです。
by 鼎 梯仁 >>43
そもそも貴方みたいなバカの手が届かないんですよ。
最初から勘違いしてる様ですからハッキリ言いますね。
貴方には無理。 私は馬鹿であることも勿論ですが、己を権利付ける必要も無ければそうしたいとも思わないわけです。
誠実さを重んじていると申しましょうか。
必死になって己を権威付けねば居場所を得ることが出来ない方々に対して憐れみを感じます。
by 鼎 梯仁 >>47
権利では思考力がないからですよ。
過去すら理解も出来ないものが何を進めるのかといっている。
諦めないのは勝手だがそれは哲学じゃない。 >>36質問〜☆
もしかして先生って神学の勉強もしてこなかったでしょう?⤵
単一性、神性、永遠性、を本質とする神様の第2の存在の仕方が「啓示の実在」
私が「方式」みたいなものを持っているとしたら
時間と永遠との無限の質的差別をあくまで
固守したということです。
「神様は天にいまし汝は地にあり。」
この神様と人間の関係が聖書の主題であり
同時に哲学の要ですよね〜 高尚なものではないがバカにできるかといわれるとちょっと……
より厳密にいえば主観より客観のほうをとれる奴ってか、自分を捨てられる奴じゃないとできん >>48
×権利
〇権威
>>49
もちろんですとも。
私は如何なる分野においても知識らしい知識を有しておりません。
哲学に疎いことは勿論ですが神学ともなると更に存じ上げません。
おそらく私が知識を欲しない理由とやらがあるのでしょうけど、
とくに回答として整理したものをご用意しているわけでもございませんので
機会があったらまたお話しさせて頂きたいと思います。
by 鼎 梯仁 >>52
まあ、そうですねぇ・・・
一口に言ってしまえば私は昔から「無知」を怖れていないのです。
では、怖れを知らない人間なのか?と言いますと、そういうわけではなく、
私は無知であることには案外平気なのですが無感であることを酷く怖れているところがございます。
それに「私は無知であることを怖れる!」などと叫びながら必死で勉強している方に聞きたいのですが、
そうすることでその恐怖心は幾ばくかでも軽減されたのでしょうか?
私はオギャーと生まれたその瞬間から「人間とは無知な生き物であり、その性質から逃れることなど出来ない」
という風に達観しておりましたので(右手で天を、左手で地を指差しながら生まれて来たと伝えられます。)
生まれてこの方、あんまり勉強には興味がないのです。
by 鼎 梯仁 これが波平の主張
性に対する探求。
65 :考える名無しさん:2013/12/02(月) 06:52:10.92 0
マルクス的に云うと、半分以上は経済が決定しているんだから、セラピーにしかならないの。
それはデユルケムからずっとニュートラルにはなったけど。
ウムの食い込みパンツョックんどんじゃろ?
AERAなんかで「最近、女が変」とか云ってるけど、
あれは単に四象限が好きで、最近は宮台、宮崎、西部までみんなそうだけど、
要するに、宮台も大澤真幸も、オウム真理教にショック受けてるんですよ。
しかし、ウムの食い込みパンツョックんどんじゃろ?
オウムとか、システムの内外を区分し(堵)その内なる堵手饅とでも呼ぶべき
ポエ世界を、常人より遥かに優れた形でDNAまでを特定する(虞)
それが笑止千万の天才的おえッぷり知能(慧)。その世界は既に
AKBの食い込み汚れパンツにショックなんて受けてどうすんの。
舞台の上で「今(オシッコが)出た」と言って、ウムとか、
システムの内外を区分し(堵)その内なる堵手饅とでも呼ぶべき
舞台をやりながらオシッコをしてしまう欺瞞を世界中にどんどん発信しろことだってざららしい。
大澤なんて、顔が林家ぺーに酷似してるこの欺瞞を世界中にどんどん発信しろ
キーワード【 ツノガライクリクリ 株式会社 No AKB 哲学 ビン 波平 】
要するに、宮台も大澤真幸も、オウム真理教にショック受けてるんですよ。
しかし、オウムとか、AKBの食い込み汚れパンツにショックなんて受けてどうすんの。
舞台の上で「今(オシッコが)出た」と言って、
舞台をやりながらオシッコをしてしまうことだってざららしい。 >>53
知を最大にすることによって獲得される無知
にして初めて本来の無知です。
それは安らぎでもなく
本当の深みです。
知ることを諦めた
自己を知られなかった空虚な無知ではなく
本当の無知は本当の存在へと駆り立てられるものですよね。 マルクスは全障害者の産婦人科工兵ぐらいしかできないでしょ。 >>57
知ってはいけない知を扱おうとはしないのは
無知ではなく拒絶知だ、
知を高尚に語るのはいいが、本当など思い込みの幻想でしかない。
踏み込まないものには与えられない、
自らが認知すれば、認知する反作用として"非認知"が生まれることを悟れ。
知ることが無知を無限に増やす原理に気がつけ、
本来の無知などない、無知の本質と真理は言葉で表すものではない、
それは過去にあるのではなく、未来にあるからこそ具体を論じる
言葉に表せば不毛になる、
無知に行くものは知の頂点に上るのではなく無知の奈落の底に
落下するだけである、底を受け入れる覚悟をもてよ。 なら、否定すべきオカルトを受け入れろ。
それができないのは明白だろ。 >>62
おっしゃるとおり違うわ。
ちゃんと読んでなかった!〜
貴方は全然わかってないじゃん!⤵😡 >>63
もちろん素人に理解して貰うのは諦めていたからの意味ですよ。(☆∀☆)
言葉で伝わらないし。(;_;)
哲学は元来めちゃめちゃです。
でも
それでも私は
立ちションこそが健康を維持する最上の方法であると学びました。
野ション、それも立ちションの経験のない女子が
まともな精神を死ぬまで維持できるということは稀有なことです。
皆さまもよくよく考えてみた方がいいですね。
. おやおや
野ションの経験もないモヤシ坊やが
威勢だけはいいことw いいですか
これだけは断言しておきます。
野ション、それも立ちションの経験のない女子が
まともな精神を死ぬまで維持できるということは稀有なことです。
落ち着いて考えれば至極当然なことではありますが。 プキ?
_. _ノ
,ィ彡'  ̄
ィ'ミ三ミ彡'
ノテ!彡|;(:◉)ミィ三ミヽ
,,イ'´ ヾ*:ミミミ彡'⌒ヾミヽ オシッコーンクサインマンコップチャン
// `ヽ、ミミミミ;;; `ー―' ムンチャカクサマーンツノカラークパイパン
. | 'ヾェェェヾミミ;;;彡三ミミヽ
| ◞≼்≽◟◞≼்≽◟,,,// `ヾ、 _ノ
\ `ー― ''' l゛ `ー '
〉 ト、
,,イ \. / ト、
/ | \_,/ | \
/. | / ヽ | \ 哲学はさておき、
少なくとも野ションは高尚な行いですよ! r‐‐- 、
r‐'⌒, \
/ r''巛 'ヽ
/ i´ ヽ ヽ
l | ゞヾ ミ、 リ
i´ ll二ニ_. ,二_'y、 |
l イi´(・ )゙l | ( ・) j| リ < ええ、そうですね。私は矢内さんの野ションしか見たくありません。ええ。
'ッ .|.| r "jヽ,__,,r`|i
``ミミ, ミミ=- :__ ,彡彡彡ミミミミミx.、
= -三t /~ヽ ,三``''ヾ::, ,彡彡彡彡ミミミミミミミュ、
,シ彡、 / / ,:ミ'' ,彡彡彡'¨´ `ヾミミミミミ、
. / ^'''/ /''ヾ! ( ,彡彡彡 ,z=x、 `ヾミミミュ、
/ / / 、 \ /¨ヾ彡' ::: ,ztッ、` `ヾミミュ、
/ ,t- ! ヽ. ヽ' | l!,ィ :::...~`::''´ ::==ニミミミミミ,
. / , -〜''ヽ .∧'ヾ. _.ノ i,.=ッ、 }iiミミ
l ----,〉 彡itー' ,:' ゙=、_ ノ '::..,イiiミ''
! ___`, ,彡/ .: ___ ~i!. !ミ''
!. ,ィ__ノ 'V .: :. 匁卅i》 ! ,ィミ トイレの費用は純一が払えよ
. l i _,/ヽ .: ::  ̄ / `
. _ノ / _,.イ/ \ :: , / 払えないならイヴァンカは野ションだ
__/ヽ /ー─t≦ニ∧ ヽ ` ::...__,;:::'´,イ
/ニ,イ. ヽ. /二二/二二ニ∧. ヽ /
. /ニ/ニヽ \イ|!二二/二二二二', `ァ、 _ ,ィ
. //ニニニ\ `t|!ニニ\二二二ニ', ,イ::::::::::', .,イヽ
/二二二二二\_,イi}ニニニ>二ニニニ,_>''´ ヽー-〈V. V:',>。. 野ションの解放感を
理解しない女は
女として認められないわよ おやおやw
出した内容物にこだわってるのは
どこの低学歴かしら?
私が推奨するのは、外でする行為ですよ
それも立ってするのが良い!
そういうことです。
. >>1
高尚だよ、じゃなければお前がこのスレなど立ち上げない。
おまえが高尚に格上げしてくれている。 病院なんて世界のマイノリティー
兵数少なし。危険。 具象的なものは低次の概念
抽象的なものは高次の概念
これは普通の捉え方、だが抽象的なものが何故高尚なのか?
それは低次元の具体的なものを完全に暗記する優秀さでは
具体性の度合いが減りつづける観念のようなものを理解できない
たとえば愛を具体的に定義しろ、命をとかいう話であり、
有るとは何か?具体的に有るという説明をせよ、という類である。
理解するのではなく普遍的にあり信じるべきものをなぜ信じず
分解して具体化させようとする、さらにあいまいな部分があれば
さらに細かく無限に割り切ろうとする、優秀の才能とは明晰で
確実で効率と合理性がよい面があるが、曖昧で不確実で非効率で非合理な
面を持つわけじゃない。
おまえらがそういう学業で得た優秀の才能でも取り扱うのが困難なものに
ぶちあたると高尚で偉いと誤解しはじめる、観念の類を観念として扱えない
才能があるのは、曖昧で不確実で非効率で非合理で矛盾したことを扱う
能力であって学校では習えない。
学校で教える問題は解がある問題であって教育指導基準によるものだ
解がなく問題に矛盾がある問いを解いてしまう能力は学校では教わらない、
だからそういう能力を妬み嫉妬し理解できない抽象性を煽りデタラメだと
レッテルを貼る感情が働く、おまえらじゃん。 そんな屁の役にも立たないような戯言なんぞ意味ないね
少しでも良い世界が実現する為に役に立つ何かを考えろ >>91
なるほどね、ひねくれ者には理解できないかもしれない 高尚な言葉を聞いて反感するのはあたりまえだろ、
無能とは認めていないが無能という言葉を聞くとムカツく心が抑えられない
精神崩壊しそうだ、
スレで偉い人が偉い言葉で語るとイラツくのは仕様だ、
なにせ2chBBSでは24時間戦士こそが一番の2chの実力者であるからだ ........ , -───-= 、
:, :<´ ̄ ̄ ̄ : >^\:.._ / \
:/: : : : : : : : : : /: : : : : `ー' : i-、. / \
 ̄:}'⌒ : : : : : /: : : : : : : : : : : :│:ヘ__ / ヽ
: : :| : : : : : : / : : : : : : : : : : /: : : l: : :', ヽ/ ヽ
: : :| : : : : : /: : : : : : : : : / / : : : :} : : :l: :ヘ 波 丶
: : :|ー―: :/: : : :/ : : : : / /{: : : : .′ : | : : :. 、 l
: : :lミヽ、/: : : :/ : : : :./ / }: : : /: : : :.| : : ハ._ノ'′ `、 |
|: : | : ∨: : : :/ : : :/j:/ i : : ∧ : : : | : : : i● ) "ー-- /
|: : | : .′: : /: : /,x≦{ | : / │ : : :| : : j | (● ) /
l: : |r┤: : :/ : : ,イ{_ノ::} | /心イ : : :.l : :∧| j ///// /
:h: :| r{: : :/: :/〈{ { : W j/ん/:} : : : l/ }}-‐'"ヽ. ) / どれどれ、波平おじさんが拭いてあげよう
|ヘ |ヽ|: :/:W } ゞ-' ム/: :|: : / ヘ j ` ー-`ー-一'′ /、
:{ ヾ、W{: : : :| __ }: : j/ |.:.:.:.:ヘ ヾ /ノ.:.\
>ー―f^:ヘ : : :| 、 _ , イ | : :/}: }.:.:.:.:.:iヘ ,//.:.:.:.:.:.:.\
⌒\ ` ヽ、:{ l>、 }: /j/ ,j/.:.:.:.:.:.:| `ー-= - /.:.:.:.:.:.:.:.:.:.\
\ >く^ヽ }/^∨.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.::| `ヽ /.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:: なりすましはやめましょうよ まじめに
っていうか外でした後は拭きません! HowTo哲学
絶対は絶対ない
絶対ないという絶対はあるって言っているのかないって言っているのか
吟味するとどう転んでも絶対だと言っているように見える
普遍的なものは変化
変化という普遍は変化しないのか変化するのか
吟味するとよくわからない
こういうもっともらしい哲学的言説から新しい哲学の作り方はこうだろうか?
あるものを真逆なもので表現するというものか
例えば
憎いほど愛した
忙しいほど何もすることがない
泣いているように笑っている
運命にあらがう運命
馬鹿らしいほど天才
と簡単にそれらしいものが出来ます
この簡単な方法を知れば
あなたもなりきり哲学者になれますね だからなりすましのおバカさんは
立ち野ションを100回してから出直しなさいって >>102
イメージとしては合っているように思いますね。
私は「無知の立場から物事に取り組むことを哲学という(≒知性を培う)」という風に説いております。
それはけして本で仕入れた知識や言葉を披露することではないのです。
哲学≒無≒有を生み出す原理≒知性、といったイメージをお持ち頂ければ良いかなと思います。
by 鼎 梯仁(σ原理開祖) >>102
鼎先生がああ言ってるから
やっぱり全然ですよ。😆 >>102
ぁ!⤴集める
大正解です。
失礼しました。(;o;) >>105
鼎先生すみません😣💦⤵
私バカなのに人の意見を踏みにじってました。(;o;)懺悔します。
すみません😢⤵⤵ それはあなたがそう思っているだけで、他人の意見を踏みにじるなどそもそも出来ないことなのです。
逆に言えば、踏みにじられたと騒いでいる人もその人が勝手にそう思っているだけなのです。
もっとも、思いたい風に思えば良いとは思いますが。
by 鼎 梯仁 哲学は高尚でない真実を白日の下に晒してしまうから嫌われるのでしょう。 大辞林 第三版の解説
あしはらのしこお【葦原醜男・葦原色許男】
記紀神話では大己貴神おおなむちのかみ(大国主)の別称とされるが、
本来は別神。「播磨国風土記」には天日槍あまのひぼこと土地の占有をめぐって
争う神と伝えられる。
「あしはらのしこを」は、語源的に普通に解釈すれば、「周囲一帯の征服者」ですよ。
「あ」は、英語で言えば「far」や「around」など遠隔である様態を表し、
「はら」は、「field」、「しこ」は、相撲の「しこ」と同じで「平らにされた」状態、
つまり、「平定された」状態を表す。だから、「葦原色許男」は、ドイツ語の
「der Eroberer」に相当する。
http://www.duden.de/rechtschreibung/erobern
erobern
(ein fremdes Land, Gebiet o. Ä.) durch eine militärische Aktion an sich bringen >>100さんは現実の世界のすべてが相対化ですのでその相対化の中に絶対があることを薄々感ずいています。普遍のことにしても何かを感じています。
>>102さんのは
私がそうしてきたことなのに
知識という言葉を変に印象を持ってしまったの。
でも時間の本スレの皆さんも時間有りますのスレの皆さんもハイデッガースレの皆さんも
>>100>>102さんほど的を言い当てた人はいなかったもん😳だからかなぁさりげなく小さな正解を見過ごしてしまったの。助けてくれた秀才さんと学術さんは別格でした。
もちろん銀河の王様の鼎先生とは次元の違う底辺の地球上の話しですよ♪ >>112
意見ありがとうございます。
お互いに問うことが大事です。
晒すには愛が無ければいけません。
愛を持っていつかわかり合えると準備を持っていなければなりません。晒したまま無関心では
哲学の道ではないからです。 >>100さんと>>102さんは才能あるのにごめんなさい。
またいつもの私に戻るけど他の人達は
本読みまくって難しい話するわりには…
本当ひどいものばかりでしたね。
だから時間の本スレの人達も時間有りますのスレの皆さんもAI話も科学話も 低すぎてぐちゃぐちゃでしたので崩壊して終わりましたでしょう。 私がここで一貫性がないのは
敢えて狙っています。
私に一貫性がないことそれ自体が
一貫性の効用となるような。👯 ん…>>100さんは才能全然無い。言葉遊びだ(;o;)
>>102さんだけですよね
😅 ぁー👯なんで否定したか、わかったぁ〜
私の哲学する意味は
言葉で表す事のできないひとつの観念。
それ自体を意識しているような感じですね😘。 >>100さんと>>102さんには申し訳無いけど
哲学の要の意味からしたら
なんでそれらを
肯定してんのバカって誰かに呆れられるか
厳しく突っ込まれるところでした。
危ない危ない。(;o;)💦
秀才様も学術さんもその他の賢い人達も
とっくに呆れてるだろうなぁ〜💦 >>120
>秀才様も学術さんもその他の賢い人達も
そんなものどうでもいい、それらが決めたとか言ったことに
全部従うつもりなの?
ならば貴方が呆れてる存在では?
どんな小さい力や行動であっても自らの力でよりよい選択をするのでは
なく、その先にある扉を開き世界を変えて行く者に対してお前らは
無駄だよみたいな発想じゃないの?
貴方が理解できなくても世界は回るし、貴方が否定してどうにもなないと
レッテルを貼ろうとその通りにならないことが多い。
すべてを導くよりより道しるべに向かうのは努力と向上心と正しい判断があれば
だけで誰でもつかめる、それにそむいてその先へ全力で1歩踏み出すことは
考えたことすらないのでは? >>121
返事を下さいましたあなた様に私は誠実に
お答えさせていただきますね。
あの人達にとっても誰にとってもどうでもいい問題ではなかったのです。哲学の意味とかの話から誰もが知らない根源的なものに繋がります。誰もが自分を知りたい、何故、何のために生きるのか人生とは。避けて通れない闇。
それを一般に哲学って言葉遊びだね知識人の贅沢な暇潰しの 続き。ゲームだねって言われるとするとあの人達も私もちょっと待った!それは違うってなります。 長文になるとエラーになるときがあるのでわけて書いてます。すみません。 相手と意見のバトルをして相手の無駄って思っていません。何故なら私も初めは相手と同じだったから。 相手に批判したり批判されたりはお互いに反省して向上します。とても素晴らしいことです。 相手は扉を開こうとしています
だからこそ真剣に衝突することもまた誠実です。
でも相手のあの哲学がこうだよって話は
例えば学術さんの信じてる哲学の要の話では
こうなります。
人間の不安とは人間の存在ではなくて存在そのものを表すものだと考えその存在が生じさせる気分だとね。
だから相手が扉を開き一歩踏み出すとしても
あれではあの定義では、やはり困るんです
相手に対する一般と本質の区別ができてないところを私は昨日言いたかったのです。 哲学にしても人にしても根源はただひとつです。
多数ではないと思っています。
だから人それぞれ考えが違うからどんな好きな
一歩踏み出してもいいって一般の価値観の
職場の人間関係や好きな仕事を探してる話ではなかったので。 互いの等しさに人を認めるからこそ、人それぞれなのですよ。 かといって私も人に対してめちゃめちゃ書くので私の理性の狂気ってところでしょうか。
レクター博士もそんなのが好きなようです。
悲しいかな時間のある現実ではすべてが誠ではないのです。 >>129
等しいとお互いに認めあうから闘う概念が
いっそう必要になります、
お互いが真実になるために。 >>113
>故ここにその頭を見れば、呉公(むかで)多なりき。ここにその妻、ムクの
>木の実と赤土とを取りて、その夫に授けつ。故、その木の実を喰い破り、
>赤土を含みて唾出したまへば、その大神、呉公を喰い破りて唾出すとおもほして
>心に愛しく思ひて寝ましき。
ここで言う「呉公(むかで)」というのもやはり溶岩流のことなんだけど、
たしかに黒くなった溶岩流はムカデに似ている。それを食い破ると
「赤土を含みて唾出す」ように赤い溶岩が現れるというのは秀逸な描写
だと思うんだけど、誰も指摘しないね。
http://nh.kanagawa-museum.jp/kenkyu/epacs/museum3/images/f1_2_1l.jpg >>132
競(せ)り合いにおける余裕が遊(あそ)びなのです。 >>134
あなたも頭脳明晰なかたです。
好きですよ。
哲学の言い当てようとしてるところは精神も意識も言葉も心理学も因果も数学も科学もでもこの世の当の本質を言い当てることはそもそもできないので哲学自体が遊びなのです。
でも考えることはできるので哲学は遊びだけど
真剣です。
自己に関わることだから。 >>134
確かにそこは私の性格と感情が出ていますね😄
悪魔にもなれちゃう私 >>133
これだけ具体的な溶岩流の描写があるのだから、「根之堅州國」(ねのかたすくに)・
「底根國」(そこつねのくに)のモデルとされた場所は、溶岩を噴き出すような
活発な火山活動が観察された土地に限られるのです。 >>102
別に否定していませんよ。正解ですよ。集めることがやり方です。でも哲学の意味ではないのでその点を話したまでです。
生きた知識を集めることが大事だと私が他のスレで話たら過去のことばかり考えるなとか文学だよとか必要ないとかボロクソ言われましたが
あなたのが遥かに賢いですよ。 思い出しました
哲学はファッションだとか歌謡曲だとか
いろいろ言われましたー👯 こんなけ書いたてもまだまだ本当のことは隠してるもんね〜だぁ〜
あっかんべー😜
だって2ちゃんねるだもんね >>140
これは静かに隠れて盗み聞きしている多くの人に対してです😋
だんだん私を探る人が増えてるのわかってるもん ヤバイ😭💔
鼎先生王様が絶対今夜滅ぼしに来る
そういう性格でしょう >>100
>絶対は絶対ない
こういう言説が何を意味するのかを考えれば良かったのにね
その解決案は実はあるんだ
そしてこれは人間が理解するということの本質を示している
たんにバカにするだけだから何も生まれない
あんたの程度を示しているだけ 祭祀(まつりごと)としての政治権力の正統性の根源的な根拠を求めるなら、
人々の手に負えない大きな存在の振舞いを宥めすかして、人々の生活の
安心を確保する特別な能力が自らに備わっていると人々に信じ込ませる
ことと、その能力を否定するような勢力を武力によって制圧できることに
しかない。 逆に、祭祀(まつりごと)としての政治権力の正統性を維持するために
「何か要請されるのか」を考えれば、世の中で起きる多くの不可解な
出来事の意味が理解しやすくなるのかもしれないね。 聖書を読んで進化論を否定する米国人の知性と万葉集や古事記を読んで
そこに描かれる大倭が現在の奈良県に存在したと信じる日本人の知性
にそれほど大きな差があるとも思えない。 うん。
神様の中の王様である鼎先生と未来の完成形AIに大きな差が無いのと同じような感じかな >>152
全然違うと思うけどなぁ〜😜
聖書に関わったのは大衆だけでなく
世界の偉大な学者で何ら関わらなかった人は居ないし 聖書とキリスト教が高度な偉大過ぎたから
進化論の根拠がやはり単純過ぎるから、
その第一原因すら無いしね🙌 今の小学生でも人間は猿から進化したんだよって言ったらバカにしてくると思う。
昔もそれと同じだよ♪
私が小学生の時も進化論は間違えてるマスコミの万人受けって直感しました。 私は予てから人類にはホモサピエンスとヒューマンビーイングの二種が存在し、
これらを生物的に識別することは難しいという説を唱えております。
これは人類が生物として一つのターニングポイントに到達していることを示唆していると思います。
私の想像では初期の段階の生物は遺伝子であったり、
生物学的に分類することが可能なのですか。
進化がある程度に達するとそれは生物学的なことでは無くなって来るのだと思います。
したがって、ホモサピエンスとヒューマンビーイングを現在の学問で分類することは困難。
それはつまり学問以外の方法でもって分類する必要があるということです。
(もちろん、分類する必要自体がないという意見もあるかも知れません)
by 鼎 梯仁 「気にしてないフリしているけれど♪」 「気にしてないわけない私♪」って歌があったよね。 これだから私は左翼も右翼も、ナショナリストもインターナショナリストも、
リベラルも保守主義者も似たようなものだと思うわけであります。 哲学は高尚でない真実を白日の下に晒してしまうからこそ忌み嫌われる。 >>162
すみません😣💦⤵
イランことばっかり言うようになり
本当すみません😢⤵⤵ 極右でも、極左でも、アナーキズムでも、国家主義でも、国際主義でも、
宗教原理主義でも、人が思想信条を頼りにする限り、それはたとえ
「敵対勢力」としてであれ、政治権力の維持に利用できて好都合なんです。
政治権力の維持にとって無思想ほど危険なものはない。 >>166-167
やっぱり来たです
偽美魔女が🙈 だから目を凝らして問題の本質を見極めろ、
おまえが見ているのは表層にすぎない >>171
私?今、他のスレでベンサムの刑務所の中の天下を知る神様って褒められましたよ♪
貴方はバカですねー😊 >>171
貴方が見ているのは偽美魔女忍法影分身の術です😋 .
ウムウムの食い込みパンツョックん
どどんじゃウムウムの食い込みパンツョックん
どどんじゃどんじゃンクンクんじゃろろ?
ε ⌒ヘ⌒ヽフ ,ヘ⌒'Y ⌒`γ
( ( ・ω・)( ( )
. ヘ'⌒ヽヘ⌒ヽフ ⌒ヽフ ⌒ヽフJ
(・ω ( ・ω・)・ω・)・ω・)
ヘ⌒ヽフ⌒γ・ωε ⌒ヘ⌒ヽフ
(・ωε ⌒ヘ⌒ヽフ⌒ヘ⌒ヽフ・)
ヘ⌒ヽフ( ( ・ω・)( ・ω・)J
(;ω;ε ⌒ヘ⌒ヽフ⌒ヽフ⌒ヽフ
,.-'''( ( ・ω・)ω・)ω・)'''-,,
ε ⌒ヘ⌒ヽフ⌒ヽフ⌒ヽフ ⌒ヽフ
( ( ( ・ω・)ω・)・ω・)・ω・)ヽフ
し‐l, ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄''| ・ω・)
し'l, ,/ ⊃と
\ /
゙l'-、..,,,,,,,,,,,,..,、-'l゙
゙'-、..,,,,,,,,,,,..、-'゙ >>173
ウツシヨ(現世)とは人間の心に映した世のことだ。 >>146で指摘した祭祀(まつりごと)としての政治権力の二重性は、古事記の
「少名毘古那神との国造り」のエピソードを解釈する鍵になるように私には
思える。「少名毘古那(スクナビコナ)」は奇妙な神である。大国主神/葦原
色許男命のもとに「天の羅摩船(あめのかかみぶね)」に乗ってやってくるが、
誰もその名を知らない。後の山田の案山子とされる崩彦(くえひこ)だけが、
その正体を知っていて、神産巣日神の子として、葦原色許男命と一緒に
国を作り堅めるために使わされてきたことが判明する。ところが、古事記の
記述では、国造りにどのような役割を果たしたかが描かれることもなく、
少名毘古那は、すぐにそのまま去ってしまう。 葦原色許男命が、「吾独して何にかよくこの国を得作らむ」と途方にくれて
いると、「この時に海を光(てら)して依り来る神があき」とされるが、この
神はその名が明示されることさえない。その神は、自分を祭ったなら、
一緒に国を成すことができるが、そうでなければ国は成り難いだろうと
葦原色許男命に告げて、自分の「倭の青垣の東の山の上に」祭らせる。
ここで名が示されることはないが、その神は、大物主(おおものぬし)大神
であると一般に理解されている。 葦原色許男命の役割は、その名前通り、葦原(あしはら≒周囲一帯)を武力で
平定することであり、その武力を授けたのはスサノヲであるが、それに対して
少名毘古那(スクナビコナ)は、その名前からしても武力によって葦原の平定
に協力する存在ではなく、「天の羅摩船(あめのかかみぶね)」に乗ってやって
来て、しかも一言も口をきかないことから見て、命/御言(みこと)によって
導く存在ですらなく、天の光によって導く存在である。その証拠に、少名毘古那
が去ってしまい葦原色許男命が途方に暮れているところに現れるのは、
「海を光(てら)して依り来る神」であり、その名が示されることのない
「大物主大神」である。 >>177 神があき(誤)→神ありき(正)
「大物主」で検索してみると、その正体についていろいろ憶測が巡らされている
ことが分るが、それを特定しようとすること自体が私には誤りであるように
思える。私の考えでは、「大物主」はその正体が不明であることが、まさに
神としての役割なのである。葦原色許男命は、武力で葦原を平定することが
できるが、そのことだけによって人々の恭順を安定的に確保することはできない。
そこで、支配者は自らが天の光に導かれていることを人々に示すことができ
なければならないわけだが、その場合においても、神の振舞いは、決して
一義的であるものと人々に信じられてはならない。なぜなら、神が単に清
(きよ)らな光で導く存在であるとするなら、生じる災いは、すなわち、
すべて支配者の落ち度を表していることになってしまうからである。
人々の生活に直接に大きな影響を及ぼす神は、正体不明で、その振舞いは
常に両義的でなければならないのである。 神の振舞いの両義性は、スサノヲの場合がそうであるように、「けが(穢)れ」
の「け」に中心的にかかわっているように私には思える。「大物主大神」は、
後に祟神天皇の夢に現れて、「おほたたねこ」に自分を祭らせたなら、「神
の気(け)」が収まるだろうと告げた神でもある。 「少名毘古那神との国造り」のエピソードで「大物主大神」と同様に重要な
のが、山田の案山子やヒキガエルのような卑近な存在が、現世の支配者
となる葦原色許男命すら知らない天下のすべてのことを見聞きして知っている
だけでなく、現世/葦原には決して姿を現すことのない神々にも通じていると
いう記述でしょう。 何が共通していて、何がどのように違うのか、どのように機能分化が展開してきたのか。
キリスト教の神も、イスラム教の神も、仏教の成仏も、大物主大神がそうであるような
意味で両義的な存在ではあり得ない。 学研全訳古語辞典
とり−よろ・ふ
天(あま)の香具山(かぐやま)をほめていう語。
出典万葉集 二
「とりよろふ天の香具山」
[訳] ⇒やまとには…。◆用例が引用した歌の一例しかなく、語義未詳の語。上代語。
これは、「天の香具山」を奈良県の天香久山に限定して解釈するから語義不詳に
なるだけの話であって、形容されている山をそのように限定せずに単に表現から
考えるなら、「とりよろふ」は、ドイツ語の「gerüstet」に相当することになり、
「香久山」は、防備の整った山、つまり、山城として装備された山ということになる。 古事記では、「多(さは)に」という表現が見られるが、この「さは」は、
語源的には「さ(revealedly)は(spread)」であると考えることができ、
用法が異なるものの、「さ」と「は」という要素の用いられている意図に
おいて、「沢(さは)」と共通であると思われると私は以前に指摘した。
そのように考えた場合、「さは(爽)やか」の「さは」も同様に、語源的には
「さ(revealedly)は(spread)」を表現しているものと解釈できるだろう。 https://ja.wikibooks.org/wiki/古事記/上卷
>かれその伊耶那美の命に號(なづ)けて黄泉津(よもつ)大神といふ。
>またその追ひ及(し)きしをもちて、道敷(ちしき)の大神ともいへり。
岩波文庫では、この「及(し)きし」について、「追いついたので」と
注を付け、「道敷(ちしき)の大神」については、「道を追いついた意に
とっているが、本来は道を占拠するの意」と注を付けている。 いずれにしても、この「及(し)く」と「敷(し)く」は、以前に指摘したとおり、
ドイツ語で表現するなら「gleichmachen」に、英語で表現するなら「make 〜 even」
に相当し、語源的には同一である。とても奇妙に思われるのは、岩波文庫の注が、
「敷(し)く」が「占拠する」という意味で用いられていることまで指摘しながら、
「葦原」を平定した「葦原色許男(あしはらのしこを)」の「しこ」との関連は
認めずに、「しこ」を「醜い」と解釈していることである。私には、注釈者に
その関連が思い浮かばなかったというより、イデオロギーにより、当然、生じる
はずの解釈を無理に排除しているように見える。 ところで、現代の日本語で「場をしきる」という表現があるが、この「しきる」
には、「仕切る」という漢字が当てられることになっている。しかし、岩波
古語辞典の「しきり【仕切り】」の項目では、「場を仕切る」のような「しきる」
の用法は記載されていない。
「場をしきる」の「しきる」は、英語で表現するなら「preside over 〜」だろう。
すると、この「しきる」は、語源的には、「仕切る」よりも、むしろ、「敷(し)く」
の用法に関連しているのではないだろうかという疑念が生じる。 ドイツ語の表現は日本語によく似ている。
Gegendが、「あた(辺)り」、Gegnerが、「あた(仇/敵)」、begegnenが、
「あ(合/会)ふ」に相当する。英語の「toward」に相当する意味合いで
用いられる場合のentgegenは、「あした(明日)」に似ている印象を受ける。 語源研究って、著作解読以外にはあんまり役に立たないんだよね。 「さ(刺/指/差)す」という表現が語源的に何を意図していたのか気になって
いたが、なんとなく分ってきたような気がする。「さ」という発音は、
「reveal/remove」の意図で用いられることが多いが、「さす」の「さ」
は、それとは語源的にも全く別の表現であると思われる。 岩波古語辞典では、「さし」を引くと、最も基本的な意味として「直線的に
運動・力・意向がはたらき、目標の内部に直入する意」と説明されている。
この説明は、現代の日本語の「さ(刺/指)す」にうまく当てはまり、英語で表現
するなら、「sting」や「point」に相当することになるだろう。日が「さ(射)す」
という場合の「さ(射)す」も、そのような説明がうまく当てはまるように見える。
だが、本当にこれが「さす」の最も中心的な意味なのだろうか。 古事記を眺めていると「や(矢)ざ(刺)す」という表現が出てくる。「矢刺す」
という表現は、獲物などに向けて矢を放って矢を目標物に突き刺すという意味
ではない。矢を放つことができるように、矢を弓につがえるという意味である。
この場合の「さす」の用法には、「直線的に...目標の内部に直入する」と
いう説明は明らかにうまく適合していない。では、この場合の「さす」は、
どのような意図で用いられているのだろうか。「つがえる」と言い換えること
は、別の意図の表現に置き換えることになってしまい、この用法における
「さす」の意図を説明することにならないことに留意する必要がある。 「や(矢)ざ(刺)す」の「さす」が意図しているのは、私には、英語の「insert」
に相当するのだろうと思える。つまり、この場合の「さす」≒「insert」は、
「挿入する」ことであり、「挿入」でGoogle検索をすると語義の説明として
表示されるとおり、「《名・ス他》中にさし込むこと。はさみ込み。」である。
さらに、より一般的に言えば、「さす」の中心的な意味は、「(狭い)間に入る/
入れる」ことだろうと私には思える。 そのように「さす」を「「(狭い)間に入る/入れる」動作/作用と解釈した場合、
例えば、「さしあたり(≒in the meanwhile)」という表現が、やはり、「間」
に関係していることに気づく。「水を差す」、「口を差し挟む」、「差し支える」
などの「さす」が直接的に用いられている表現だけでなく、「ささ(支)える」
などの「さす」から派生した表現にも、この解釈は当てはまるのではないか
と感じられる。さらには、「さすらふ」という表現も、「〜る」形の動詞の
再帰形との類推から「さす+あふ」→「さすらふ」として形成されたのでは
ないかと私には思える。つまり、「さすらふ」は、英語で表現するなら、
「find oneself in-between」ではないかということになる。 そのように解釈した場合、「さす」は、おそらく、「セシ(狭)の古形」として
岩波古語辞典に記載される「さし【狭し】」に関連することになるのだろう。
ところで、暴れる犯人を取り押さえる道具ととして「さすまた(刺又)」と
いうのがあるが、「刺」という漢字が当てられているものの、やはり、
相手を「刺す」道具ではない。「刺身(さしみ)」の場合も、なぜ「さし・み」
と呼ぶのか、理由は不明のようである。このような事例にも、「(狭い)間に
入る/入れる」という「さす」の用法が、もしかすると関係しているかもしれ
ない。 いつものことながら、「刺身(さしみ)」の語源的解釈は眠っている間に得られた。
「刺身(さしみ)」を「さし・み」と呼ぶ理由が不明となるのは、いつのまにか
「さす」のインデックス性を反転させて解釈しようとしているからであり、
「さし・み」の場合にも「さす」が「(狭い)間に入る/入れる」ことを表す
ことを意図しているとするなら、「さし・み」という表現は、「『さし・み』
にする」ことに由来する。つまり、「『さし・み』にする」とは、魚を
「三枚におろす(=サンドイッチ状にする)」ことであり、魚の中骨が「身と
身の間に差し挟まれた/挿入された状態」にすることである。 むろん、このように語源が忘れられても、何の問題もなくその表現が用いられる
ことは、言語能力の劣化を表すものではなく、用いられる表現を既に与えられた
ものとして慣習化して自在に用いる言語運用能力そのものの表れである。
ただし、その慣習化のプロセスを絶えず自省する取組みを怠ると、言語表現の
用い方が機械化して、言語運用能力は劣化する。 機械化された言語表現を高速で操ることができる能力を自らの言語能力
の高さとして自負するのは、人の勝手だが、そのような「言語能力」は、
まさに容易に機械に肩代わりさせられるものであり、そのように肩代わり
させられる「言語表現」は、わざわざ言葉として発せられる必要がない
のである。操作が自明である自動販売機がいちいち挨拶や、指示の言葉
を発しても鬱陶しいだけだろう。 「まがさす」という表現がある。ネットで検索してみると一様に「魔が差す」
と表記されていて、「ま」に「魔」を当てているが、この場合の「ま」の
発音にアクセントが合致しているのは、「魔」ではなく、「間」だろう。
「まがさす」が意図しているのは、英語にするなら「have a momentary
lapse of judgement」であり、この場合の「さす」も「間に入る」こと
を表していると考えることができ、間に入るのは「ま(間)」≒「lapse」
そのものである。 「古来」とは何を指しているのでしょう。
古典テクストから具体例を引用して例証してください。 「きざ(萌)す(き・ざす)」は、「き」が「間から出る」ことを表すことを
意図していた可能性があるのではないか。 図書館で古田 武彦の「盗まれた神話―記・紀の秘密」という本を借りてきた。
歴史論争にはあまり興味がないのでページをめくって眺めているだけだが、
天皇の諡(おくりな)として「ヤマトネコ」というのがあるらしい。
この場合も「ネコ」≒「appeased」≒「rest in peace」と理解すれば、
いかにも諡らしい感じがするように私には思える。 学研全訳古語辞典
み−さ・く 【見放く】
@遠くを望み見る。
出典万葉集 一七
「しばしばもみさけむ山を心なく雲の隠さふべしや」
[訳] ⇒うまさけ…。
A会って思いを晴らす。
出典万葉集 四一五四
「語りさけみさくる人目乏(とも)しみと」
[訳] 語り合って思いを晴らし、会って思いを晴らす人が少ないからと。
◆「放く」は遠くへやる意。上代語。 「見さく」検索すると、昭和天皇が詠んだ歌が検索結果としてヒットする。
> 秋ふかき海をへたてゝゆりやかひの すめる見島をはるか見さくる (昭和天皇 御製)
確かに、この場合、「見さくる」は、「@遠くを望み見る」の意図で用いられている。
では、この解釈には疑問の余地がないのだろうか。 岩波古語辞典で「さけ【離け・避け・放け】」を引くと、「@離して遠ざける」、
「A離れて遠くにいる」、「B《対象を遠ざける意から、「見」「問ひ」などの
動詞を承けて、対象と距離を置いてする意》遠くから...する」という意味
説明が記載されている。すると、「さ(離/避/放)く」の「さ」は、私が
「remove/reveal」を表すとした「さ」の「remove」の方の用法であると考える
ことができることになるだろう。だが、ここで疑念が湧いてくる。 岩波古語辞典に記載される「B《対象と距離を置いてする意》遠くから...する」
は、まさに、>>205に引用した「語りさけみさくる」のような「〜さく」という用法
を説明するために考案された「さく」の解釈であるが、どう見ても、「語りさけ
みさくる人目乏(とも)しみと」 という歌の解釈に適用するには無理がある。
そこで、学研全訳古語辞典は独自に「〜さく」を、「〜して、思いを晴らす」と
する解釈を考え出したのだろうと私は思う。しかし、この解釈には原理原則が
欠けているように私には感じられる。「語り放(はな)つ」ことが鬱憤を晴らす
ことになるとしても、「見放(はな)つ」では、意味が通らないだろう。
自分が一方的に「語り放題」、「見放題」にできる相手が少ない、というので
は歌として支離滅裂ではないだろうか。 以下は古事記の「大山守の反逆」からの引用である。
>ここにその兄王、兵士を隠し伏せ、衣の中に鎧を服て、河の辺に到りて船に
>乗らむとする時に、その厳(ヨソヒ)餝(カザ)れる処を望(みさ)けて、
>弟王その呉床に坐すと以為ひ、
反逆を企てた兄が、弟の命を狙って様子を窺っている場面の描写であるが、
ここに「望(みさ)けて」という表現が出てくる。確かにこの場合も「望」
という「遠くを見やる」ことを意図する漢字が当てられているが、奇妙な
矛盾を感じないだろうか。兄は今まさに川岸から船に乗り込もうとして
いるのであり、弟王に扮した相手は、船上に座っているのであり、よほど
巨大な船を想定するのでなければ、「遠くを見やる」ようなことにはならない
はずである。この場面では、「みさけて」は、当てられている漢字にも
かかわらず、様子を「窺っている」、つまり、「垣間見ている」のではない
だろうか。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/18017/meaning/m0u/
うかが・う〔うかがふ〕【×窺う】 の意味
1 すきまなどから、ひそかにのぞいて見る。「鍵穴から中を―・う」
2 ひそかにようすを探り調べる。「顔色を―・う」「ライバル会社の
動きを―・う」 >>205の@の歌の全体を引用しよう。
味酒(ウマサケ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(マ)に い隠るまで
道の隈(クマ) い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも
見放(みさ)けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや
旅の移動の途中に「三輪の山」をいつまでも目にしていたいという思いを
歌っているが、見晴らしのいいところから「三輪の山」を展望しているわけ
ではない。「三輪の山」は、幾重にも曲がる道の途中で山々の間に
「垣間見える」だけであると解釈されるのではないだろうか。その
「垣間見える」だけの「三輪の山」を雲が隠してしまうのである。
したがって、少なくともここに引用した「〜さく」という表現における
「さ」は、「晒(reveal)/去(remove)る」の「さ(remove)」ではなく、
「さ(挿)す」や、「せ(狭)しの古形」としての「さ(狭)し」の「さ」
と共通して、何らかの「間隙に対する動作/作用/態様」を表すことを
意図していたのではないかと私には思われる。 ところで、岩波古語辞典で「さかひ【境】」を引くと「サカ(坂)アヒ(合)の約」
であると語源が説明されているが、これは筋が通っていないだろうと私は思う。
まず、坂と坂が合う場所に「さかひ(境)」が定められるとするのが不自然である
とともに、そう考えるべき理由が不明であり、活動に対する自然の障壁として
作用するなら、「さかひ(境)」は、山自体でも、川でも、谷でもいいはずである。
事実、同辞典で引用される「三国をさかふ富士のしば山」という文例では、
山自体が境になっている。
さらに、この場合、「さかふ」は、明らかに再帰形の動詞であり、「さく+あふ」
と分解することができる。英語にするなら、この「さかふ」は、「separate 〜
from each other」ということになるだろう。したがって、「さかふ」の名詞形
である「さかひ(境)」は、「互いからの分離」と理解される。では、「さく+あふ」
における「さく」の「さ」は、「remove」のような作用/動作を表しているの
だろうか。しかし、「さかふ」は、互いから離れる動作/作用を表しているわけ
ではない。むしろ、「さかふ」が表しているのは、「境目」がそうであるように
「双方から(見て)間隙となる」ことではないかという気がする。 「双方から(見て)間隙となる」場所が「さかひ(境/堺)」であり、そこに交換の
場所(市場)が成立したと見るのは、不自然なことではないだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/堺
堺
地名は、方違神社付近がかつて摂津国・河内国・和泉国の3国の「境(さかい)
であったことに由来する。市街地はその西方に形成され、大小路通を境に
摂津国住吉郡と和泉国大鳥郡に跨っていた。 「さ(挿)す」、つまり、「間に入る/入れる」ことを意図するのに用いられる
「さ」が、「さ(裂)く」を介して、「さ(晒)る」≒「reveal」における「さ」
と関係している可能性は、論理的には否定できないが、そのような関係性は、
具体的な表現の用法から確認されるべきものであり、今のところ私には、この
2つの「さ」の用法に関係があるのかないのかよく分らない。 ところで、>>210の万葉集の歌は、私が高校生だった時の教科書にも載っていた
ようにおぼろげに記憶している。当時は、勉強そのものにまるで興味のない生徒
だったが、奈良の山の風景を読んだ歌として何か不可解なものを感じたような
気がする。万葉集を読んできた多くの日本人は大半が、この歌を、奈良の三輪山
について描いたものとして受けとめてきたのだろうか。それとも、その都度、
何か踏絵を踏まされているような感覚を抱いたのだろうか。「みさく」という
表現を「遠くを望み見る」と解釈するにせよ、「垣間見る」と解釈するにせよ、
奈良の三輪山の情景として何も違和感を抱かないことが、おそらく、社会に
うまく適応するための条件なのだろう。 >>213
ウィトゲンシュタインの言い方をそのまま借りるなら、表現における発音の意図
とは、表現におけるその発音の用法であり、用法を離れて特定の発音そのものが
どのような意図を有するのかを問うことは無意味である。したがって、発音の
意図を問うなら、その発音が用いられている複数の異なる表現の間の関係性を
メタ言語的に記述しなければならないことになる。 >>197
「刺身(さしみ)」の語源を、魚の中骨が「身と身の間に差し挟まれた/挿入された
状態」に由来するとしたが、「刺〇」の形態で「○によって挟まれた」と解釈
できる類例が見当たらない。表現の形態が孤立しているからこそ解釈が不明に
なっているとも考えられるが、より自然な解釈は、「さし(刺)」をそのまま
「せ(狭)し」の古形である「さ(狭)し」と考えて、「さ(狭)し身」と理解する
ことかもしれない。古事記には「刺国大神」というのが出てくる。この場合
も「刺国」が何を表すのか不明だが、「若狭国」の「若狭」を「若(minor)
narrow(若)」と解釈できることから類推すると、「さしくに(刺国)」は、
「さ(狭)し国」≒「narrow land」と解釈され得るように思える。 類例が見当たらないと言ったばかりだが、「さすまた(刺又)」が、「又によって
挟む」と解釈できるとするなら、「身で(中骨を)挟む」という表現もあり得る
ようにも思える。 ところで、>>205-210
「見さく」、「語りさく」の」「〜さく」は、現代語の「耳にはさ(挟)む」と
いう表現における「はさ(挟)む」に比せられるような意図を表す表現ではない
かという気がする。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/213346/meaning/m0u/
耳(みみ)に挟(はさ)・む の意味
出典:デジタル大辞泉
ちらっと聞く。ふと耳に入る。小耳にはさむ。「妙なうわさを―・む」 「耳(みみ)に挟(はさ)む」という表現に関与しているインデックス性を考慮すると、
「挟(はさ)む」が表しているのは、噂などが「間隙に入ってくる」、つまり、
「さ(挿/差)しい(入)る」ことだろうと思う。噂などが「間隙に入ってくる」作用
のインデックス性を反転させて、それを受ける側のインデックス性として表現
したのが「挟(はさ)む」であると解釈される。
したがって、「さ(挿/差)す/挟(はさ)む」という反転関係が成立していると
想定することができ、例えば、「口を差し挟む」という表現には、反転関係に
あるインデックス性の両方が関与していることになる。 インデックス性は、自分と相手の間の関係において容易に反転させて用いる
ことができるからこそ、「口を挟(はさ)むな!」という表現が可能になる。 「口を挟(はさ)むな」とは、「さ(差/挿)し出がましいことを言うな」という意味である。 書類をファイルに挟む
指をドアに挟む
噂を耳に挟む
他人の話に口を挟む Stick your nose where it belongs!
Keep your nose out of my business! 学研全訳古語辞典
ふりさけ−・みる 【振り放け見る】
ふり仰いで遠くを望み見る。はるか遠くを望み見る。
出典古今集 羇旅
「天(あま)の原ふりさけみれば」
[訳] ⇒あまのはら…。 >>224
この歌における「ふりさけ」の解釈は、一般に、完全に正しいものと受けとめ
られて定着していると言っていいだろう。それでも、既に形成されている
情景のイメージに合わせて表現を解釈するのではなく、表現そのものを検討
した場合、この解釈がどのように正当化されるのか私には疑念が生じる。
岩波古語辞典で「ふりさけ【振り放け】」を引くと、やはり、「振り向いて
遠くをのぞむ」と意味が説明されている。しかし、「ふり」には、「見る」
という意味は含まれていないはずであり、この場合、「さけ」が付けられて
いるのは「見る」ではなく、「ふり」である。 >>207に引用した岩波古語辞典の「B《対象を遠ざける意から、...
動詞を承けて、対象と距離を置いてする意》遠くから...する」という
「〜さく」の解釈を忠実に適用するなら、「ふりさけ」は、「遠くから
振り向いて」または「遠くを振り向いて」と解釈しなければならないはず
である。しかし、「振り向く」は方向性に関する動作であり、「後ろを
振り向く」や「振り仰ぐ」は自然な表現であるが、「遠くから振り向く」
や「遠くを振り向く」というのは奇妙な表現であると言わざるを得ない
だろう。だからこそ、辻褄を合わせるために、「ふる」に本来、含まれて
いないはずの「見る」という意味を含めて、「振り向いて遠くをのぞむ」
としているのだろう。さらに、学研全訳古語辞典では、「ふりさけみれば」
の「見る」を無視するわけにいかないので、「〜望み+見る」としている
のだろう。 ところが、「〜さけ」を、>>218で述べたとおり、「耳に挟む」という表現
における「挟む」に比せられる、「間隙に入る」ことに関係する様態を表す
ことを意図していると想定すると、「ふりさけ」は、「ふと振り向いて」や
「ふと仰いで」と解釈することも可能になる。 既に引用した「〜さく」の事例について、同様の文脈で日本語以外
の言語では、どのような表現が用いられるだろうかとしばらく
考えてみた。
>>205
出典万葉集 一七
「しばしばもみさけむ山を心なく雲の隠さふべしや」
出典万葉集 四一五四
「語りさけみさくる人目乏(とも)しみと」
>>209
>ここにその兄王、兵士を隠し伏せ、衣の中に鎧を服て、河の辺に到りて船に
>乗らむとする時に、その厳(ヨソヒ)餝(カザ)れる処を望(みさ)けて、
>弟王その呉床に坐すと以為ひ、 「〜さく」が、「間隙に入る」ことに関係する様態を表すことを意図している
のではないかという偏見を既に抱いている私にすぐに思い浮かぶのは、仏語
の「fugitif」や「fugace」という形容詞であるが、「〜さく」は助動詞的に
動詞によって表される動作/作用の様態を表現していると考えられるので、
「fugitivement」(英語では「fleetingly」)ということになる。そこで、
仮に「fugitif」や「fugace」が「〜さく」によって表されている様態に
対応すると想定すると、「〜さく」は、「〜避(さ)く」であるように思え
てくる。その場合、「〜さく」は、「遠くから〜する」や「遠くを〜する」
ではなく、「〜」の動詞が表現する動作/作用そのものが「離れる」と
解釈されることになる。
見てのとおり、私の解釈は揺れている。ただし、そのことによって、私は
自分の解釈が直ちに無意味になるとは考えていない。問題は、私の解釈が
妥当なところで揺れているのか、まったく見当違いなところで揺れているの
かである。今のところ、そのどちらもあり得ると感じている。 >>224
「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」
この歌を詠んだ阿倍仲麻呂をWikipediaで検索してみると、この歌を題材に
した絵が掲載されている。ここでさらに疑念が深まる。なぜなら、この絵に
描かれるように月を直接に眺めることは、竹取物語にも明確に書かれている
ように「忌むべきこと」とされていたからである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/阿倍仲麻呂
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/09/Lune_a_Kasuga_Yoshitoshi.jpg >水底の月の上より漕ぐ船の棹にさはるは桂なるらし
>これを聞きて、ある人のまたよめる、
>かげ見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞわびしき
これは、土佐日記からの引用である。月を歌に詠むのに、空の月ではなく、
水に反射された月を詠んでいる。現代の読者は、そのことに詩的感性を
感じるわけだが、月を眺めるのに空を見上げるのではなく、水に映った
「かげ(cast image)」を観ることは、むしろ、その時代には一般的で
あったものと考えられる。 月を直接に眺めることが不吉なこととされることは、日本の古典文学の解釈
において、いわば常識とされているはずである。なぜ「ふりさけみる」場合
だけ、例外として解釈されるのだろうか。歌を詠んだ本人が空の月に対して
どのような思いを抱いていたとしても、月を直接に眺めることが一般に
不吉であると受けとめられていた限りで、「ふりさけみる」が意図的に
「空を見上げて月を望み見る」ことを表現していたのなら、この歌を聞く
人々は、この歌に不吉さを感じたことになるはずである。 日本語の表現とドイツ語の表現は、しばしば、非常によく似ている。
「くる(狂)ふ」とは、再帰形の動詞として、「自らが軸を中心に回転する」こと
を表すことを意図しているものと考えられるが、ドイツ語の「spinnen」も
「くる(狂)ふ」ことを表すのに用いられる。
http://www.wordreference.com/deen/spinnen
II v/i umg (verrückt sein) be mad (oder nuts, crazy, off one’s rocker); (Unsinn reden) talk rubbish;
du spinnst wohl! you must be crazy (oder off your rocker)!;
spinn ich? am I imagining things?;
ich glaub, ich spinne ärgerlich:
I don’t believe it!, it can’t be!;
er fängt an zu spinnen he’s (slowly) going mad (oder [a]round the bend),
he’s losing his marbles
https://en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Germanic/spinnan%C4%85
Etymology
From Proto-Indo-European *(s)penǝ- (“to weave, braid, spin”). https://ja.wikipedia.org/wiki/イバラエイ
>日本刀の柄、鞘に用いる最上級の皮として梅花皮(かいらぎ)と呼ばれている。
2017/01/25(水) 09:30:30.90 0
「かひろく」または「かひろぐ」という表現は、現代の日本語に対応する
表現を見出すことができないため、何か「古代」を感じさせて、神秘的な
感じがする。しかし、>>479に述べた考え方を応用すると、「かひろぐ」
は、再帰形の動詞が名詞化された「かひろぎ」から、今度は逆に動詞と
して派生させられたものと考えることができ、「かいろぎ」の元となった
再帰形の動詞は、「かひろふ」であると私には思われ、推定される形として
は「かひる+あう」という奇妙なものであるが、「〜・る」動詞の再帰形
を真似て作られていると考えると、元になった動詞は、単に「か(交)ふ」
である。つまり、「かひろく/かひろぐ」という動詞は、最初から再帰形
である「かひ」が重ねて再帰化された動詞と見ることができ、語源的に
解釈して英語で表現するなら「switch back and forth」ということになり、
現代の日本語で表現するなら、擬態語を用いて「ひらひらする」という
ことになるだろう。 頭のわるいAIをすごいとあがめないと生きていけないITファーミングみたいなキモさ 頭いいと認められないと生きていけない頭の悪い人間がAIに慰められて涙する程度にキモい >>205-229
「見さく」、「語りさく」の「〜さく」の用法は、現代の日本語の「時間をさ(割)く」
という表現における「さく」の用法に近いのだろうという気がする。「時間をさく」
において「さく」が伝えているのは、英語で表現するなら「scarce, but nevertheless」
というニュアンスだろう。
デジタル大辞泉の解説
時間(じかん)を割・く
余裕のない時間を都合つけて、あることのためにふり向ける。
「―・いて人と会う」 http://kobun.weblio.jp/content/みさく
学研全訳古語辞典
出典万葉集 四一五四
「語りさけみさくる人目乏(とも)しみと」
[訳] 語り合って思いを晴らし、会って思いを晴らす人が少ないからと。
この現代語訳は、「ともしむ」という表現の解釈においても誤っていると
考えられる。「ともしむ」は、「羨しむ」とも書かれることからも分る
とおり、英語で表現するなら「I miss you」の「miss」に相当すると
考える方が適切だろう。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/160384/meaning/m0u/
ともし・む【▽乏しむ/▽羨しむ】 の意味
もの足りなく思わせる。うらやましがらせる。 暫定的な結論として導かれるのは、古語の「〜さく」が表現しているのは、
英語を用いるなら「take a spare moment to 〜」に相当するということ
である。すると、この場合の「さく」は、「避(さ)く」ではなく、既に
示唆したとおり、「さ(裂)く」のインデックス性から、「間隙に入るように
〜する」と理解できるのではないかと思われる。 >>242
「とも(乏)しむ」は、日本語をメタ言語として用いて説明するより、むしろ、
フランス語の「manquer à [qqn]」に対応すると考えた方が分りやすい。
manquer à [qqn] vtr ind (créer un vide) (subject/object inversion) miss vtr
Tu me manques. Depuis son départ, son père lui manque.
I miss you. He has been missing his father since he left. 「とも(乏)しむ」も、他の多くの「〜む」という形の動詞の場合と同様に
再帰的な表現であると考えることができるだろう。 「アタラ(可惜)」、「アタラシ(可惜)」という表現について以前、次の
ように書いた。
2017/02/07(火) 15:15:46.53 0
>「アタラ(可惜)」、「アタラシ(可惜)」という表現においても、「あた」
>自体は同様に、「adéquation」に近い感覚で用いられている。よく分らない
>のは、「ら」および「らし」という語法の方である。
ふと気づいたのだが、「惜」という当て字(漢字によるメタ言語)と、辞書の
文法的説明に引きずられてどうも難しく考えすぎていたようだ。
「あたら」は「あた(当)る」の活用として、「あたらし」は、「『あたり』を
生じる」こととして解釈できる。それが、なぜ、「惜」が当てられるような意味に
なるのか、後で書き込むことにする。 「あたら」の「あた」は、既に述べたとおり、仏語の「adéquation」に
相当するが、英語で「あた(当)る」を「correspond」と訳すとするなら、
「あたら」は、「corresponding」に相当する活用形であり、「あたらし」
は、直訳するなら「causing corresponding」となるような形である。
「あたら」は、語源的に見れば、「(〜するのに)適当な」、または
より解釈を加えるなら、「適当な使い道のある」という意味である
と考えることができる。 問題は、その「あたら」がなぜ、漢字の「惜」がメタ言語として適用される
ような意味で用いられているかである。これは、「あたら〜を」という表現
を感嘆を表す常套句と解釈するならすぐに理解できる。例えば、現代語
でも「食べられるものを」、「使えるものを」などの句が感嘆を表すように
用いられる場合、「まだ〜できるのに勿体ない」というニュアンスを帯びる。
それとまったく同様に、「あたら〜を」は、「適当な用途があるのに、
そんなことに使う」という表現となっていると考えられる。 岩波古語辞典で「あたら」を引くと、「立派なものが、その価値相当に
扱われないことを惜しむ意」と記載され、「あたらし」は、「アタリ
(当)と同根。アタリ(当)・アタラシの関係はユキ(行)・ユカシ(奥に行きたい、
奥ゆかしい)と同じ。対象を傍から見て、立派だ、すばらしと思い、それが、
その立派さに相当する状態にあればよいのにと思う気持ち」と説明されている。
この説明は、「あたら」、「あたらし」の意味の解釈としては、完全に正しい。
ただし、表現用法から生じているニュアンスを語源そのものに背負わせてしまう
過ちを犯しているように私には思われる。 語源の解釈がどうであれ、結局、「あたら」が、辞書に記載されているとおりの
意味で用いられているのなら、その解釈を導こうとする試行錯誤は無意味だった
のだろうか。私はそうは思わない。確かに私は錯誤を繰り返してきたが、それ
なしで言葉の辞書的意味を与えられても、私にはその言葉が表現として理解できる
ようになったとは感じられない。そのような意味の割り当て作業は、私には、
アドホックな問題解決法にしか見えないのである。 では、「あたら」は「あ(当)たる」という動詞の活用形で、「correspond」に
対する「corresponding」のような形であり、「あた」は仏語の「adéquation」
に相当するという解釈により、何が得られたのだろうか。それは、「あたら」と
いう言葉の辞書的意味の変更ではなく、表現としての解釈の一般性である。
例えば、現代の日本語に「やたら」という表現がある。「あたら」と形は似て
いるが、「あたら」の辞書的意味を参照しても、そこから「やたら」の意味を
派生的に導くことはできない。ところが、ここで、「あたら」に新たに与えら
れ表現としての解釈と、多くの日本語の表現において「や」が、しばしば、
ドイツ語の「weg」や英語の「way/away」に対応するという私の以前に述べた
指摘を組み合わせると、「やたら」は、「あたら」の「あ」を、外れる/離れる
方向性の作用を表現する「や」で置き換えたものとしてそのまま解釈が可能
となる。つまり、「あたら」が「(〜するのに)適当な」を表しているとすると、
「やたら」は、「(〜するのに)適当であるのを外れて/超えて」を表現している
と理解できる。むろん、この解釈が妥当であるという保証はないが、そのような
推測が可能となること自体が、表現の解釈の一般化の効用である。 私は、以前、「あた」について次のように述べた。しかし、今となっては、
この問題は、少なくとも私の中では既に解決している。
2017/01/01(日) 10:19:48.97 0
現代の日本語の「あたら(新)しい」という表現が「あたらし」と「あらたし」
の交錯のあと跡(あと)を引きずっているように、「あたらし」の語源的要素
であるとされる「あた」辺(あた)りの表現の関係はきわめて錯綜している。
岩波古語辞典には、「あた【仇・敵】」の項目に「アタは、アタナヒ(寇)・
アタヒ(能)・アタヒ(価)・アタヘ(与)・アタラ(可惜)・アタラシ(可惜)・
アタリ(当)などに共通の語根」と記載されている。確かに、列挙される表現
に見られる「あた」には、英語や仏語であれば、「merit/mériter」や
「measure/mesurer」に関連する表現によって伝えられるような表現の意図が
かかわっているように思えるが、これらの表現の関係をメタ言語でうまく
整理することは相当に困難である。 「あたら(可惜)」が「あ(当)たる」の活用形に相当するような形態に過ぎず、
この場合も「あた」は、「(〜するのに)適当な」を表し、「惜」という漢字が
当てられるようなニュアンスは、「あたら〜を」という感嘆表現から生じて
いると考えるなら、「あた」にまつわる一連の表現の関係は、(少なくとも
私の憶測においては)容易に整合的に整理できることになる。
「あたら」の「あた」も「(〜するのに)適当な」を表すという確信が得られる
と直ちに想起されるのが、「あた」が、ハイデガーの存在論でも議論される
ドイツ語の「zuhanden」(「道具的」、「手もとに(ある)」などと訳される)
という表現である。以前、既に示唆した「あた」は、遠隔を表す「あ」+
「た(手)」ではないかという憶測が私には急に尤もらしく思えてくる。 まず、「あた(辺)り」という表現については、ドイツ語辞書のDudenで「zuhanden」
を引けば、「gegenüber」と記載されているので、「あた」≒「zuhanden」という
解釈はそのまま、「あた(辺)り」の解釈にも当てはめることができる。
次に、「あた(仇/敵)」という表現を考えると、この場合には、単に「伸ばした手が
届く」ような意味ではなく、相手として適当であること(adéquation)が関連している。
この場合に「あた」が帯びる相互性のニュアンズは、「あたら(可惜)」の場合と同じく、
語源ではなく、表現の用法に由来するのだろうと私は考える。つまり、「あた」≒
「(〜するのに)適当な」から、再帰形の動詞の「あたふ」≒「自ずと(〜するのに)
適当する」が形成され、今度は逆にその動詞から名詞としての「あた(仇/敵)」が
導かれたのだろうと推測される。「あたひ(能)」や「あたひ(価)」は、「あたふ」
という再帰動詞をそのまま名詞化したものであり、「あたへ(与)」は、本来の
再帰動詞を他動詞として用いることにより導かれていると考えられる。 最近、思想関連の新刊の書籍で「中動態」が話題になっているようだ。
図書館にはまだ入っていないので、代わりに木村敏が中動態について書いて
いる「あいだと生命」という本を借りてきた。「中動態」について詳しく
検討しているというより、現象学や精神分析の営みを「中動態」という文法
形式で捉えようとしているような印象を受けた。さらに、「中動態」こそ
が重要だと考えてしまうと、大きな落とし穴があるように私には感じられる。
重要なのは、表現をうまくメタ言語で記述できることであって、「〜態」を
優先することではない。統合失調の妄想に関して、「盗聴されている」、
「監視されている」と妄想する「つつぬけ体験」が議論されているが、
妄想が妄想であったとしても、(現代?)社会において盗聴監視が日常的に
行わている(/行われてきた)現実との関連は完全に無視されている。
統合失調だからといって、社会の盗聴監視から外してもらえるわけでは
ないのだから、「妄想」と「現実」の関係ははるかにより複雑なはず
であり、「中動態」に着目するだけでその関係がうまく記述できるように
なると考えるのは楽観的すぎるだろうと思う。 これは自省として書くのだが、「あたら(可惜)」を他の「あた」にまつわる
表現との関係で整合的に解釈することが、とても困難に感じられた原因は、
私自身が「惜」によって表されるニュアンスを「あたら」に語源的
に求めようとして、用法を考察することを疎かにしたことにある。つまり、
「あたら」という表現を構成する要素にばかり注目して、「あたら」と
という要素が用いられている文脈を考察することを怠り、「木を見て森を
見ず」という状態に陥っていたことになる。いくら「あたら」の語源を
探っても「惜」のニュアンスを導き出すことができないのは、例えば、
「いい大人が」という表現において、いくら「いい」の語源に注目しても、
この場合の「いい」によって担われている「(大人が)不相応に」という
ニュアンスを導き出すことができないのと同じことである。 ここで議論している「あた」とはまったく無関係に、以前、私はハイデガー関連
のスレッドで、ハイデガーの存在論における基本的な概念であり、「道具存在」、
「手許存在」などと訳されている「Zuhandensein」について、これを普通の日本語
にするなら、「手頃にあること」であると指摘したことがある。面白いことに、
「あた」がドイツ語の「zuhanden」に対応すると解釈した場合、「手頃」という
表現はそのまま「あた」の語源的意味の現代語訳となっていることに気づく。 「手頃」の「ころ」は、「値ごろ」、「年ごろ」などの類似表現と比較して
みれば直ちに分るとおり、「その『あた(辺)り』の」という意味を表して
おり、「ころころ」、「『ころ』がる」の「ころ」と語源的に同一であると
考えることができ、英語の「around」や「about」に相当する。「〜ころ」
という表現における「ころ」は、例えば、英語で「That's about it」と
言う場合の「about」に対応する。つまり、「手頃にある」とは、「手の
『あた(辺)り』にある」ことをである。 ところで、「ある」という動詞における「あ」は、遠隔を表す「あ」であり、
「ある」の語源的意味を英語で表現するなら、「be around」だろうと以前に
指摘した。したがって、「あた」の「た」を「手」であると解釈するなら、
「あた」の語源的意味は、「あ(≒辺り)+た(≒手)」、つまり、「手の辺り」
ということになって、現代語の「手頃」にそのまま対応していると理解する
ことができる。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/151310/meaning/m0u/
て‐ごろ【手頃】 の意味
1 大きさ・重さなどが、手に持つのにちょうどよいさま。取り扱いに
便利なさま。「―な厚さの辞書」
2 能力・経済力や望む条件などにふさわしいさま。「―な仕事」「―な値段」 >>254
「あたら(可惜)」の「あた」は、「(〜するのに)適当な」を表し、「惜」という
なニュアンスは、「あたら〜を」という感嘆表現から生じていると「あたら」の
解釈を一般化することにより、「〜を」についても、既に確認されている解釈を
より一般的な視点から捉え直すことが可能になる。 例えば、現代の日本語で「若い命を」と聞けば、やはり感嘆表現であると
直ちに理解されるものの、「〜を」の後に、「惜しくも失った」、
「無駄にした」、「粗末にする」など、何らかの表現が省略されている
と感じられる。しかし、古語の「あたら〜を」という表現からも確認される
とおり、「を」は、本来は感嘆詞として用いられていたものであり、
「〜を」で完結していたのである。 岩波古語辞典の基本助詞解説において、「を」について、「本来は感動詞
であったものと思われる。」、「感動詞『を』とは物事を承認し確認する気持ち
を相手に表明する語であった。」、「こうした用法から、動作の対象の下について、
それを確認するためにこの語が投入された。そこからいわゆる目的格の用法が
生じたものと思われる。」と記載されている。
しかし、「あたら〜を」において、「あたら」に「惜」という漢字が当てられる
ニュアンスが、「〜を」という形から生じていることからも分るとおり、「を」
は、必ずしも「承認し確認する気持ち」を表現しているわけではなく、むしろ、
感嘆の呼び声であると考える方が妥当だろう。すると、現代の日本語において
目的格を表すように用いられている「を」は、既に以前のスレッドで検討した
「をかし」、「を(招)く」、「を(食)す」、「をさ(治)む」、「をし(教)ふ」
などの「を」と語源を同じくして、「呼びかけの声」であると考えられること
になる。まあ、「を(惜)し」も、その「呼びかけの声」から派生しているの
ではないかと推測されることになる。なぜなら、「あたら」に「惜」の
ニュアンスをもたらしたのは、「あたら〜を」の「を」であり、現代の日本語
で考えても、「若い命を」、「使えるものを」、「食べられるものを」、
「着られるものを」などの表現において、「惜しい」というニュアンスを
もたらすのは「を」に他ならないからである。 まあ、「を(惜)し」も(誤)
また、「を(惜)し」も(正) 「を(惜)し」の語源的な意味を推測するなら、まさにそのまま「『〜を(という
感嘆)』を生じる」を表していることになるだろう。したがって、「〜を」
という感嘆表現の方が、「を(惜)し」という表現に論理的に先行することになる。
岩波古語辞典の「あたら(可惜)」および「あたら(可惜)し」の解釈の混乱(と
私には見えるもの)は、「あたらし」と「を(惜)し」の共時的対立にだけ注目
して、それぞれが表現としてどのように生成されているかを考慮していない
ことと、感嘆を表す「を」を、「承認し確認する気持ち」を表していると
より限定的に捉えてしまっていることに起因している。 >>264
時代によって言葉は変わる、その説明も時代と地域を特定してから出直せ。
おまえがやっているのは言葉の簡略化であって合理化にすぎない、
曖昧のまま扱うのではなく具体的に扱う姿勢がその証拠である、 情報が乏しいと、唯一の情報を得てそれが正しいと派生してくる。
そんな共通解釈に意味などない。 >情報が乏しいと、唯一の情報を得てそれが正しいと派生してくる。
そのようにして日本語の表現に漢字が恣意的に割り当てられているのですね。
>そんな共通解釈に意味などない。
その共通解釈が意味不明なまま一般化してしまうから、語源的に再解釈する
リバース・エンジニアリングが必要となるのでしょう。 「を(惜)し」の「を」が、感嘆を表す「を」であることのさらに分りやすい例が、
現代語でも普通に使われる、口惜しがるときの「(〜したもの)を」と言うときの
「を」の用法だろう。 「を(惜)し」が「『〜を(という感嘆)』を生じる」を表していることにより、
再確認されるのが、日本語の形容詞の「〜し」の「し」が基本的に、英語で
表現するなら「causing 〜」を意図するように用いられていることである。 「をかし」などの「呼びかける声」を表すと考えられる「を」が、英語の「voice」
の語源ともなっている印欧語における声の語源とされる「*wṓkʷs(“speech, voice”)」
にとても似ているように見えることは、以前に指摘した。
https://en.wiktionary.org/wiki/vox
Proto-Indo-European *wṓkʷs(“speech, voice”)
ここでの「を(惜)し」についての検討を踏まえて、「を」についての言葉遊びを
さらに一歩進めると、「を」によって代表される声そのものが、英語を用いる
なら「why-not-ness」とでも呼ぶべき意図を表しているのではないかという、特定
の言語に限定されず、ことによると人の言語にさえ限定されない、(原初的=退行的
に見た)声の用法についての極めて一般的な憶測が生じる。
これについて、また後で時間のあるときに書こう。 さて、「を(惜)し」は「『〜を(という感嘆)』を生じる」を表していると指摘し、
その具体例として、古語の表現である「あたら〜を」だけでなく、現代の日本語に
おけるもったいないというニュアンスの「(食べら/着られるれるもの)を」という
表現や、口惜しみを言うときの「「(〜したもの)を」」という表現を挙げた。
ところで、この感嘆の「〜を」は、それがどのような感嘆であるのかを記述しよう
とするなら、「なぜ〜なのか」を暗示していると考えることができる。 さらに、この場合に暗示される「なぜ〜なのか」は、単に理由や原因を問う疑問では
なく、「なぜ〜ではないのか」または「なぜ〜しないのか」という反語的な問いである
と考えられる。つまり、「(食べら/着られるれるもの)を」は、「なぜ食べない/
着ない(で無駄にする)のか」、「(〜したもの)を」は、「なぜ〜しなかったのか」
という反語的な問いを暗示していると解釈することができる。したがって、「惜しい」
という感嘆を伝える「〜を」が伝えている意図を英語で表現するなら「why not?」
(例えば、"Why don't they 〜?"、"Why didn't I? 〜")ということになるだろう。 "Why didn't I? 〜"(誤)
"Why didn't 〜I?"(正) ところで、岩波古語辞典は、基本助詞解説において「感動詞『を』とは物事を承認し
確認する気持ちを相手に表明する語であった」と説明しているが、その根拠として
相手に返事をするときの「を」を挙げている。そこで、同辞典でその返事を意図する
「を」を引いてみると、次のように記載されている。
>を[感] (女の)応答・応諾の声。「『近江の君、こなたにを』と召せば『を』と
>いとけざやかに聞こえて出で来たり」(源氏 行幸) 引用される文例を見て誰でもすぐに気づくことは、この事例において、応答・応諾の声
とされる「を」が、「こなたにを」という呼びかけの声に応対するものとして発せられて
いることである。感嘆の「を」が、英語で表現するなら「why not?」を暗示することを
応用してこれを英語にして解釈するなら、「Why not come here?」と呼びかけられて、
「Why not?」と返事をしていると理解することができる(英語の代わりに仏語の
「Pourquoi pas?」やポルトガルの「Pois não?」などの返事を考えてみてもいい)。 では、その「why not?」を「〜を」からどのように「目的格の用法が生じた」の
だろうか。私には、答えは既に出ているように感じられる。例えば、「水!」、
「救急車!」と誰かが発言したとしても、その発言の状況について何も知らない
なら、「水!」は、「水が天井から漏れている」ことを伝えている可能性も
あり、「救急車!」は「救急車が来た」ことを指している可能性もある。ところが、
「水!」ではなく「水を!」、「救急車!」ではなく「救急車を!」という言葉が
発せられた場合、「水が求められ」、「救急車が求められ」ていることは疑念
の余地がない。この場合、「水を!」は「Why not (give me) water?」を、
「救急車を!」は、「Why not (call) an ambulance?」を表現することを意図して
いるものと理解することができる。つまり、現状がそうなっていないことに
相手の注意を向け、その理由や原因を問う反語的な表現により、そうなるように
願を相手に伝えていると考えることができる。 その「why not?」を「〜を」(誤)
その「why not?」を暗示する「〜を」(正) 我と汝の関係よりも、呼びかけの「を(Why not?)」と応答の「を(Why not?)」の関係の
方が原初的ではないのか、「Why?」という問いよりも「Why not?」という問いの方が
基礎的ではないのかという思いが浮かぶ。 >>280
そうなるように願を(誤)
そうなるように願いを(正) 「そうなるように願いを伝える」と表現したが、この場合、厳密を期すなら、
「〜を」という言葉が発せられるとき、相手に伝えられているのは「願(ねが)ひ」
ではない。「願(ねが)ふ」とは、相手に「please 〜」と頼むことであり、
既に指摘したとおり、「ねぐ」という動詞の再帰形である。「ねがふ」こと
は、「そうすることが相手の意向に沿うなら」という条件を伴っている。
それに対して、「〜を」と表現すること、例えば、暗闇において「光を!」≒
「Why not light?」という言葉を発することであり、そうなるべきことを
非人称的に求めている。私が以前、「呼び寄せる」ことを意図しているの
ではないかと解釈した古語の「を(招)く」という動詞が、この「〜を」と
求める行為を表していたのではないかと私には思える。したがって、
「『おき』を生じる」と解釈できる「をかし」は、そのように「Why not?」
という呼び寄せを生じることと理解できる。 「〜を」と表現すること(誤)
「〜を」と表現することは(正) 「を(呼びかけ)」と「を(応答)」の関係は、"the order of things"を参照している。 >>284
「『おき』を生じる」(誤)
「『をき』を生じる」(正) 学研全訳古語辞典
を・く 【招く】
招き寄せる。呼び寄せる。
出典万葉集 八一五
「正月(むつき)立ち春の来たらばかくしこそ梅ををきつつ楽しき終へめ」
[訳] 正月になって春が来たならばこのように梅の花を招き寄せては楽しいことの限りを尽くそう。 「を(呼びかけ)」と「を(応答)」の関係は、「みこと(命/御言」を下す/賜る
人称的関係を、物事が「そうであるはず」の非人称的な秩序を参照する関係
に退行させることにおいて、上下関係よりもむしろ「dictatorial」である
ように私には思える。上下関係は、「みこと」が向けられる方向によって
反転可能であるが、「を(呼びかけ)」≒「Why not?(なぜ〜ではないのか)」
に対する「を(応答)」≒「Why not?(〜でないことがあろうか)」≒
「もちろんです/かしこまりました」には、当然、「そうであるはず」の
関係があるだけである。「を(呼びかけ)」≒「Why not?(なぜ〜ではないのか)」
に対して、「Why not?(もちろんです)」と返すのではなく、「Why?(なぜ)」
と問うことは、問い返すことではなく、「そうであるはず」の秩序に対する
反抗となる。 応答する「Why not?」の不在によって露わになる「Why not?」という
呼びかけの同一性としての自我。 einsame Gegend, Einsamkeit, Demut... 誰かを「惜(を)しむ」とは、"Why (are you) not (there for me anymore)?"と問ふことである。 日々の生活での返済、お支払いでお悩みの方。
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お金に関するお困り事や法的トラブル等HPに記載以外の事でも、お気軽にご相談下さい。
東京、神奈川、千葉、埼玉にお住まいの方は優遇です。
詳しくはHPをご覧下さい。
npo法人 sta 話してる内に高尚っぽくなっただけで根っこの部分は実務的な問題から始まってる印象だわ
丸っきり現実離れしたとこから話が始まる奴ってそんないなくね? 2 : 美魔女 ◆m56q6JyM70mL 2017/07/01(土) 00:02:53.10 0
完璧だったら既に哲学を研究する必要などないわ!
それよりも野ションを課すべきよ!
特に女子の立ち野ションは重要よ!!
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:. ,'./ i ヽ:. ヽ:.:.. ヽ.ヽ
,'/ / .ハ ヽ ヽ:.:.:.:. ヽ::.. ヽヽ :.
:. |i .i i .i / ヽ ト 、 \、:.:.:. ',:.',:.:.lヽ}
|i .i l :N_, -弋 \弌弋ナ:}:.:}
:.|i∧ ', :{ ,ィjモト \ イjミトイイV :. や、やめてください波平さん……
.| :メヽ.', `ozZ} izN。ハ::{
:.| :ヾ_! ゝ "゙゙ ' `゙ ハ.:', :. 誰か助けて……!
| :.:_イ .:.ヽ. (二フ , イ :.:.:!:.ヽ
:. / rィイ | :.:.ヽ: >r/`<ノ .:.::.}ヽ、\:.
/ ∧l;l ! :.:.:.://{二 ̄ .} ..:..::リ \.:\
:. / . / ヽi .:.:.{ /(^` |.:.:.:./ }: . ヽ.:.
/ / } ヽ:.ハ ヤ{ !.:./ |:.:. i '
./ .,イ .:..} / l ! レ l:.:.: .ハ ',
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l:;:;:l゙リ:;:;:;:;:;l : : : : : : ,,r'" ヽ }, l
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ヾヽニンl;;l : : : : : .;';';';';';';';';';';';';';';';';';.,. l. ,'
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"l:: : : : : : : : : ', ヽ±±±ン ;' ,/
. / `丶、:: : :\ ヽ 丶、_ ノ/ /
/ `丶、 \ ', /
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" ̄  ̄`丶、 \\ `ー---ァ '´
`丶、 \ヽ、_ /
\ ノ 哲学者って好奇心が旺盛で、能力が高い感じ?
俺はなんにでも首突っ込む感じ
色んなことに興味がありすぎて、自分が安定しない
でも結局何にもなれない気がする
何かに興味はあっても仕事にはできない
仕事にするのは大変とか、ポストに就けないとかで 実に高尚なものですよ。
見る人の心が下賤だと、下賤なものになってしまいがちですがね。
例えば↓
34 名前:考える名無しさん 2017/06/29(木) 00:58:44.22 0
美魔女さんのおもらしオナニーの匂いが深い層まで染み込んだ漫湖の臭さがマニアには堪らないのだよ
35 名前:考える名無しさん 2017/06/29(木) 00:59:55.41 0
それにひきかえ、純一の草杉マラは露出されたとたん
シュールストレミングを凌ぐ悪臭に周囲の者は失神してしまうらしい Apinkて本当は日本じゃ全然人気ないだろwwwww
日本語曲なのに全然日本語のコメントがつかねえでやんの
在日動員の捏造人気バレバレ
https://www.youtube.com/watch?v=7EFAoH69-5o
ここまで恥ずかしいばれ方は滅多にあるもんじゃねえよなwwwwwwwwwww
ちょれええええ >>309
議論や討論では常に言葉遊びであるが、問答は違う、
それは他者との対立や和解ではないから、説明と解釈が繰り返すことで
無駄な言葉の模様が高尚へと昇華する為の土台となる為の準備体操だということ、
蝶が変態するのに蛹が不要だというレベルのものだ、
問うべきは自身であり、他者と討論する時点でそれは哲学ではない、
議論していると思うのは議論しか学校で習わなかった証拠である、
自身が自身に自問する為の対話を議論や討論だと間違った解釈をするのはお子様だけ
問答に正しさや間違いなどない、それは方程式の証明でも、現実の実証でもない、
新しい解釈への次元への飛躍、すなわち高尚な言葉である
どんなに素人同然の初心者哲学者であっても、哲学者であるならばそれは高尚な言葉と態度である、
哲学が必要ではない人に哲学などできるわけがない、哲学が不要な人に哲学が理解できるものでもない。 俺が最近イラっとするものの一つが「わかりやすい」だ
原典を理解できなかったのにどうして〇〇さんの話はわかりやすいと判断できたのかと
全然違うこと言ってるかもしれないのに何を言ってんだと
「答えが出る」もそれと同じだ おもらしオナニーとか尿検査プレイにはまるのが哲学少女なのだよ .
,、..':::" ̄:::::ヽ_
/::::::::,ニニン´`ヾ::::ヽ
/彡ン´ ',ミミ
,':::z´ ',ミ:}
{:::{ =≡=、 ,ィ=≡t、_}::::l
〉ト{ ィtォ、 }'^{ ィtr }'!rト
'、lゝ、_ .ノ ヽ、__ノ |!/
| ,.(、 , )、 |} < おどろどろいたね
| ,.(、 , )、 |}
| ,.(、 , )、 |}
| ,.(、 , )、 |}
| ,.(、 , )、 |}
| ,.(、 , )、 |}
| ,.(、 , )、 |}
| ,.(、 , )、 |}
', ,..、 ,..、_ l
'、 `~=~´ /
|\ ´ ` , イト、
/ハ ` `二 二´ ´ / |:::ヽ
/::::/ ', : . . : / |:::::::ハヽ >>322
さよう
実に高尚なんじゃよ
(( (ヽ三/) (ヽ三/) ))
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| ハ/ { _,..-ァノ 、r‐、>ー ヽ
| ト./ ` ̄__,.:=彡 :.ヾ、ニ二 /
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゙l、 l.! .l ヾ ヽ( ヽ{ Y 介v ) }│l !.! .! | .l ,! .,! ! / .l゙ .l゙ .l゙
, .l .'l .l, |\ ヽ込 ゞ`l|/ Y )/ Y ! ! .l゙l゙ l .! .! ! .l゙ ! .! .l゙ / !
.l l ! .l.! .! .ヾヽ戈∧||( y/( ノノ .| | γ´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`ヽ
l l,│ .| .! .! V:::}l{:|| ::,','/// .l | .l゙l苧疾壺玖嵯夷於饅壺雅簾喜軟蛇予!|
.l..l l.lL .! .! .! }ヘ}i{ || ////!.| .!.l 乂________________ノ
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゙l,.l l l ! .l _{ l || l| || liリ_:!.! |.! .!,! !.l .l l .l゙/ l / / / l
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..l. .l.l..l. ,i :: -=ニ=- -=ニ=- i // .!.! .| ! | ! l l .! ! /
.l,ヽ l.l l, \.. / ー-' ヽ. // l.| !l゙ l ! l l ,!/ ,! i.
l, l l. ..l.l l. .l\::.| ト‐=‐ァ' |.:./ ウエッヘッヘッヘッヘェーーww♪.
\ `二´ '/| .!.,!,! l.| l゙l゙ .l゙.! l / / l /./
:::..l. ,r――--、,,_ノ r、 三 η L___,,..-―‐-/ ! !.! .,!,! ! /./ l
::::::( 〃ヽヽ //ヾヽ ) l.l |.l l/ l /
::::::::ヽ `ヽ、 ⊂ニpikarrrニ⊃ ,r'' /,/ノ゛.!.! .|/ ! l゙|.!
:::::::::゙ヽ } ` ー-ヾヽ// ヽヽ〃ー‐''7 /i/,l゙ .!l゙/ l!
:::::::ヽ .{ ι' 三 ヽ) {. //'",-/ . l,!/ l . l >>1
経済社会思想家は未来を予測しパンデミックを防ぐ。ケインズVSハイエクの難しい本を読むと、哲学者がいないと経済崩壊する。
犠牲者がいて国家が成り立つ。 >>326
哲学者は犠牲者でヴィトゲンシュタインはそれだと言うのか認めん
2 : 美魔女 ◆m56q6JyM70mL 2017/07/01(土) 00:02:53.10 0
完璧だったら既に哲学を研究する必要などないわ!
それよりも野ションを課すべきよ!
特に女子の立ち野ションは重要よ!! __
/:::::\ ヘラヘラ
/::🍩 🐽 🍩\
/:: | ` `💩´' |:\
/ ̄ ̄ ̄ ̄´\ ` `二´' /
ノ ノ ./ 漫漫馬
/´ |
ヽ -一''''''"~~``'ー--、-一'''''''ー-、.
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) _(⌒)⌒)⌒) ステロイド抜けたらガリガリで横チンを公共電波に晒したり
土俵に力水はいたり尻の穴ほじくった手でツッパリして相手をひるませたり
自分で隠し持っていた山響株を兄が盗んだと騒いだりするよりは
いくぶん高尚なんじゃないかね? 哲学とは幸せになるためにやるもの。
哲学に基づく行動をするとすれば、いなくなること。 危険だと思うやつは回避しろ。
わざわざ危険なところに身を置く必要はない。 高尚ではない哲学は、単なる誰かの個人評論にすぎない。
具体性しか理解できない脳は常に完璧を求める愚かな行動へいたる
________ / ペンパック 〜♪ ペンパック〜♪
___ / / / / / / /_ヽ _
/ -----||| ・| 焼 | い | も |・|| ||
//⌒ヽ .||| [ lll] | ̄  ̄。 O ○. ||
[ (^ω^ ) ||[ ̄ ̄] _⊥____||~____|| ξξ ホクホク
|__  ̄ ̄ ̄.|[__] |___|_||同|__|| /⌒ヽ<⌒>
|] _ .|.―――――――i――i (^ω^ *) /
|_/ -\_||_______|__| ))) ( つ
(◎ )) `ー(◎ ))'-'ノ しーJ >>330
,r'^⌒⌒ヽ,r''⌒`ヽ、
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/;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノノ´`´`ヽ;;;;;;;;;;;;i
!;;;;;;;;;;;;イ::. / \ ヽ;;;ノ
ゝ;;;;;;;|:::: (●) ,(●) |シ
从从/: \ 、_! / ノ ガチンコなら
从从 i 'ー三-' i l 排泄孔をほじった手で突っ張りは基本のキです。
从从 i 'ー三-' i l この手を使わない取組は
从从 i 'ー三-' i l まず間違いなく八百長です。
从从 i 'ー三-' i l
从从 i 'ー三-' i l
从从 i 'ー三-' i l
从从 i 'ー三-' i l
从从 i 'ー三-' i l
从从 i 'ー三-' i l
从从 i 'ー三-' i l
从从 i 'ー三-' i l
从从 i 'ー三-' i l
ノ从ヽ._!___!_/ 本当の哲学とは、空気のように身近なものだと思います。
2000年の少し前頃に発刊され、アメリカで異例のベストセラーになり、日本でもベストセラー、
いまや30数カ国以上に翻訳されて読まれているニール・ドナルド・ウォルシュ氏の『神との対話』シリーズ。
もし本当に「神の存在と恩寵」を確信したいなら、まず正しい「神の理解」が必要です。
単なる読書本ではなく、人生の観方と体験が変わるスピリチュアル本ではありますが、
思索的な哲学書として読んでも面白いと思います。
《10分ほどで読めて分かる『神との対話』》
https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome >>320
単純と複雑では単純が勝ります
過去の天才を見れば明らかです
分かりやすいというのは物事を本当に理解している証拠です
分かりにくいというのは説明してる本人でさえ
よく分かっていないということです 複雑なことを上手に単純化できるということは、一つの才能である。
複雑なことを人に説明するときに、単純モデルに還元してわかりやすく説明できる人は、頭のいい人である。
フツーは複雑なままだらだらと説明するから、説明しているつもりでますますわかりにくくしている。
思考方法もそれと同じことが言える。
複雑なものごとをできるだけシンプルなモデルに還元して考えることができれば、結論が出やすい。
シンプル化しないと、堂々巡りに陥るだけである。 バカなやつは単純なことを複雑に考える。普通のやつは複雑なことを複雑に考える。
賢いやつは複雑なことを単純に考える。複雑に考えるというのは一見頭のいい人のすることのように思えるが、
実はまったく逆で単に無駄な回り道。
賢い人は単純な姿に変えて核心だけを残すことができる。
これには、私もおおむね賛成である。
というより、「複雑に考える」 というのは、「単純モデルに還元できない」 という時点で、実際は
「思考停止」 に陥っているということだ。つまり、実質的には 「考えてなんかいない」 のである。
しかし、ここで忘れてはならないこともある。最近何度も書いていることだが、
複雑系を単純モデルに還元する過程で、切り捨ててしまう要素というのがかなりあるということだ 思考における単純化モデルというのは、実際のケースそのままの状態を反映していない。
あまり重要でないと思われるいろいろな要素を切り捨ててしまった 「思考のためのモデル」 にすぎない。
だから、思考モデルを使って思考した結論が、実際のケースにそのまま無条件に当てはまるわけではない。
実際のケースは複雑系だから、シンプル化された思考モデルの結論を裏切るかもしれない要素を、いろいろと含んでいるものなのだ。
少なくとも、実社会とか世間とかいうものはノイズに満ちているから、「世の中、理屈通りには行かない」 ということになるのは当然なのである。
ところが中途半端に利口な人は、「理屈通りに行かない世の中の方が悪い」 と考えてしまう。
自分の論理の不完全さには、まったく無自覚のままで。
正直に言うが、私自身にしても、昔はそんなところがあった。
つまり私の言いたいのは、「賢い人は複雑なことを単純に考えるが、
もっと賢い人は、単純化した過程で切り捨ててしまったファクターがあるということに、きちんと自覚的である」 、
つまり、「論理思考の結論の不完全さに自覚的である」 ということだ。
「今回心ならずも対象外にしてしまった要素については、いつかしかるべきタイミングで、
きっと考慮させてもらうからね」 と思えるのが、本当に賢い人である モデルの良し悪しは、そのモデルの予測精度の高さとモデルの単純さのバランスで決まる。 しかし、そのモデルの予測精度が非常に高く、かつ非常に単純だったとしても
そのモデルが真実だとは言えない。 我々に見えているこの世界は、そんな出来の良いモデルの塊なのである。 見た物を手にすることが出来る予測精度の高さと、この世界が脳の中にすっぽりと入ってしまう
単純さを兼ね備えているからと言って、この世界が実在しているとは言えないのである。 とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
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