哲学は高尚なものではないよな? [無断転載禁止]©2ch.net
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哲学というとなんか難しいものだとか高尚だとか思われるけどそんなものじゃないよな 答えがない問題をひたすら解き続けるようなものだろ? 自分なりの答えを探して… なんか難しい言葉をたくさん使う人いるけど、俺はいろんな人の意見が聞きたいから難しいものという意識をとっぱらって、哲学の歴史全く知らなくてもいいからいろんな人が来て欲しいと思うんだけど、どうかな? 哲学自体は持て囃されるものではないよな 最も人の同意を得られた哲学者が有名になるのであって… 人を知識が無いから見下すような人間にはなりたくないなあ 初立てでした 哲学は高尚でない真実を白日の下に晒してしまうから嫌われるのでしょう。 大辞林 第三版の解説 あしはらのしこお【葦原醜男・葦原色許男】 記紀神話では大己貴神おおなむちのかみ(大国主)の別称とされるが、 本来は別神。「播磨国風土記」には天日槍あまのひぼこと土地の占有をめぐって 争う神と伝えられる。 「あしはらのしこを」は、語源的に普通に解釈すれば、「周囲一帯の征服者」ですよ。 「あ」は、英語で言えば「far」や「around」など遠隔である様態を表し、 「はら」は、「field」、「しこ」は、相撲の「しこ」と同じで「平らにされた」状態、 つまり、「平定された」状態を表す。だから、「葦原色許男」は、ドイツ語の 「der Eroberer」に相当する。 http://www.duden.de/rechtschreibung/erobern erobern (ein fremdes Land, Gebiet o. Ä.) durch eine militärische Aktion an sich bringen >>100 さんは現実の世界のすべてが相対化ですのでその相対化の中に絶対があることを薄々感ずいています。普遍のことにしても何かを感じています。 >>102 さんのは 私がそうしてきたことなのに 知識という言葉を変に印象を持ってしまったの。 でも時間の本スレの皆さんも時間有りますのスレの皆さんもハイデッガースレの皆さんも >>100 >>102さんほど的を言い当てた人はいなかったもん😳だからかなぁさりげなく小さな正解を見過ごしてしまったの。助けてくれた秀才さんと学術さんは別格でした。 もちろん銀河の王様の鼎先生とは次元の違う底辺の地球上の話しですよ♪ >>112 意見ありがとうございます。 お互いに問うことが大事です。 晒すには愛が無ければいけません。 愛を持っていつかわかり合えると準備を持っていなければなりません。晒したまま無関心では 哲学の道ではないからです。 >>100 さんと>>102 さんは才能あるのにごめんなさい。 またいつもの私に戻るけど他の人達は 本読みまくって難しい話するわりには… 本当ひどいものばかりでしたね。 だから時間の本スレの人達も時間有りますのスレの皆さんもAI話も科学話も 低すぎてぐちゃぐちゃでしたので崩壊して終わりましたでしょう。 私がここで一貫性がないのは 敢えて狙っています。 私に一貫性がないことそれ自体が 一貫性の効用となるような。👯 ん…>>100 さんは才能全然無い。言葉遊びだ(;o;) >>102 さんだけですよね 😅 ぁー👯なんで否定したか、わかったぁ〜 私の哲学する意味は 言葉で表す事のできないひとつの観念。 それ自体を意識しているような感じですね😘。 >>100 さんと>>102 さんには申し訳無いけど 哲学の要の意味からしたら なんでそれらを 肯定してんのバカって誰かに呆れられるか 厳しく突っ込まれるところでした。 危ない危ない。(;o;)💦 秀才様も学術さんもその他の賢い人達も とっくに呆れてるだろうなぁ〜💦 >>120 >秀才様も学術さんもその他の賢い人達も そんなものどうでもいい、それらが決めたとか言ったことに 全部従うつもりなの? ならば貴方が呆れてる存在では? どんな小さい力や行動であっても自らの力でよりよい選択をするのでは なく、その先にある扉を開き世界を変えて行く者に対してお前らは 無駄だよみたいな発想じゃないの? 貴方が理解できなくても世界は回るし、貴方が否定してどうにもなないと レッテルを貼ろうとその通りにならないことが多い。 すべてを導くよりより道しるべに向かうのは努力と向上心と正しい判断があれば だけで誰でもつかめる、それにそむいてその先へ全力で1歩踏み出すことは 考えたことすらないのでは? >>121 返事を下さいましたあなた様に私は誠実に お答えさせていただきますね。 あの人達にとっても誰にとってもどうでもいい問題ではなかったのです。哲学の意味とかの話から誰もが知らない根源的なものに繋がります。誰もが自分を知りたい、何故、何のために生きるのか人生とは。避けて通れない闇。 それを一般に哲学って言葉遊びだね知識人の贅沢な暇潰しの 続き。ゲームだねって言われるとするとあの人達も私もちょっと待った!それは違うってなります。 長文になるとエラーになるときがあるのでわけて書いてます。すみません。 相手と意見のバトルをして相手の無駄って思っていません。何故なら私も初めは相手と同じだったから。 相手に批判したり批判されたりはお互いに反省して向上します。とても素晴らしいことです。 相手は扉を開こうとしています だからこそ真剣に衝突することもまた誠実です。 でも相手のあの哲学がこうだよって話は 例えば学術さんの信じてる哲学の要の話では こうなります。 人間の不安とは人間の存在ではなくて存在そのものを表すものだと考えその存在が生じさせる気分だとね。 だから相手が扉を開き一歩踏み出すとしても あれではあの定義では、やはり困るんです 相手に対する一般と本質の区別ができてないところを私は昨日言いたかったのです。 哲学にしても人にしても根源はただひとつです。 多数ではないと思っています。 だから人それぞれ考えが違うからどんな好きな 一歩踏み出してもいいって一般の価値観の 職場の人間関係や好きな仕事を探してる話ではなかったので。 互いの等しさに人を認めるからこそ、人それぞれなのですよ。 かといって私も人に対してめちゃめちゃ書くので私の理性の狂気ってところでしょうか。 レクター博士もそんなのが好きなようです。 悲しいかな時間のある現実ではすべてが誠ではないのです。 >>129 等しいとお互いに認めあうから闘う概念が いっそう必要になります、 お互いが真実になるために。 >>113 >故ここにその頭を見れば、呉公(むかで)多なりき。ここにその妻、ムクの >木の実と赤土とを取りて、その夫に授けつ。故、その木の実を喰い破り、 >赤土を含みて唾出したまへば、その大神、呉公を喰い破りて唾出すとおもほして >心に愛しく思ひて寝ましき。 ここで言う「呉公(むかで)」というのもやはり溶岩流のことなんだけど、 たしかに黒くなった溶岩流はムカデに似ている。それを食い破ると 「赤土を含みて唾出す」ように赤い溶岩が現れるというのは秀逸な描写 だと思うんだけど、誰も指摘しないね。 http://nh.kanagawa-museum.jp/kenkyu/epacs/museum3/images/f1_2_1l.jpg >>132 競(せ)り合いにおける余裕が遊(あそ)びなのです。 >>134 あなたも頭脳明晰なかたです。 好きですよ。 哲学の言い当てようとしてるところは精神も意識も言葉も心理学も因果も数学も科学もでもこの世の当の本質を言い当てることはそもそもできないので哲学自体が遊びなのです。 でも考えることはできるので哲学は遊びだけど 真剣です。 自己に関わることだから。 >>134 確かにそこは私の性格と感情が出ていますね😄 悪魔にもなれちゃう私 >>133 これだけ具体的な溶岩流の描写があるのだから、「根之堅州國」(ねのかたすくに)・ 「底根國」(そこつねのくに)のモデルとされた場所は、溶岩を噴き出すような 活発な火山活動が観察された土地に限られるのです。 >>102 別に否定していませんよ。正解ですよ。集めることがやり方です。でも哲学の意味ではないのでその点を話したまでです。 生きた知識を集めることが大事だと私が他のスレで話たら過去のことばかり考えるなとか文学だよとか必要ないとかボロクソ言われましたが あなたのが遥かに賢いですよ。 思い出しました 哲学はファッションだとか歌謡曲だとか いろいろ言われましたー👯 こんなけ書いたてもまだまだ本当のことは隠してるもんね〜だぁ〜 あっかんべー😜 だって2ちゃんねるだもんね >>140 これは静かに隠れて盗み聞きしている多くの人に対してです😋 だんだん私を探る人が増えてるのわかってるもん ヤバイ😭💔 鼎先生王様が絶対今夜滅ぼしに来る そういう性格でしょう >>100 >絶対は絶対ない こういう言説が何を意味するのかを考えれば良かったのにね その解決案は実はあるんだ そしてこれは人間が理解するということの本質を示している たんにバカにするだけだから何も生まれない あんたの程度を示しているだけ 祭祀(まつりごと)としての政治権力の正統性の根源的な根拠を求めるなら、 人々の手に負えない大きな存在の振舞いを宥めすかして、人々の生活の 安心を確保する特別な能力が自らに備わっていると人々に信じ込ませる ことと、その能力を否定するような勢力を武力によって制圧できることに しかない。 逆に、祭祀(まつりごと)としての政治権力の正統性を維持するために 「何か要請されるのか」を考えれば、世の中で起きる多くの不可解な 出来事の意味が理解しやすくなるのかもしれないね。 聖書を読んで進化論を否定する米国人の知性と万葉集や古事記を読んで そこに描かれる大倭が現在の奈良県に存在したと信じる日本人の知性 にそれほど大きな差があるとも思えない。 うん。 神様の中の王様である鼎先生と未来の完成形AIに大きな差が無いのと同じような感じかな >>152 全然違うと思うけどなぁ〜😜 聖書に関わったのは大衆だけでなく 世界の偉大な学者で何ら関わらなかった人は居ないし 聖書とキリスト教が高度な偉大過ぎたから 進化論の根拠がやはり単純過ぎるから、 その第一原因すら無いしね🙌 今の小学生でも人間は猿から進化したんだよって言ったらバカにしてくると思う。 昔もそれと同じだよ♪ 私が小学生の時も進化論は間違えてるマスコミの万人受けって直感しました。 私は予てから人類にはホモサピエンスとヒューマンビーイングの二種が存在し、 これらを生物的に識別することは難しいという説を唱えております。 これは人類が生物として一つのターニングポイントに到達していることを示唆していると思います。 私の想像では初期の段階の生物は遺伝子であったり、 生物学的に分類することが可能なのですか。 進化がある程度に達するとそれは生物学的なことでは無くなって来るのだと思います。 したがって、ホモサピエンスとヒューマンビーイングを現在の学問で分類することは困難。 それはつまり学問以外の方法でもって分類する必要があるということです。 (もちろん、分類する必要自体がないという意見もあるかも知れません) by 鼎 梯仁 「気にしてないフリしているけれど♪」 「気にしてないわけない私♪」って歌があったよね。 これだから私は左翼も右翼も、ナショナリストもインターナショナリストも、 リベラルも保守主義者も似たようなものだと思うわけであります。 哲学は高尚でない真実を白日の下に晒してしまうからこそ忌み嫌われる。 >>162 すみません😣💦⤵ イランことばっかり言うようになり 本当すみません😢⤵⤵ 極右でも、極左でも、アナーキズムでも、国家主義でも、国際主義でも、 宗教原理主義でも、人が思想信条を頼りにする限り、それはたとえ 「敵対勢力」としてであれ、政治権力の維持に利用できて好都合なんです。 政治権力の維持にとって無思想ほど危険なものはない。 >>166-167 やっぱり来たです 偽美魔女が🙈 だから目を凝らして問題の本質を見極めろ、 おまえが見ているのは表層にすぎない >>171 私?今、他のスレでベンサムの刑務所の中の天下を知る神様って褒められましたよ♪ 貴方はバカですねー😊 >>171 貴方が見ているのは偽美魔女忍法影分身の術です😋 . ウムウムの食い込みパンツョックん どどんじゃウムウムの食い込みパンツョックん どどんじゃどんじゃンクンクんじゃろろ? ε ⌒ヘ⌒ヽフ ,ヘ⌒'Y ⌒`γ ( ( ・ω・)( ( ) . ヘ'⌒ヽヘ⌒ヽフ ⌒ヽフ ⌒ヽフJ (・ω ( ・ω・)・ω・)・ω・) ヘ⌒ヽフ⌒γ・ωε ⌒ヘ⌒ヽフ (・ωε ⌒ヘ⌒ヽフ⌒ヘ⌒ヽフ・) ヘ⌒ヽフ( ( ・ω・)( ・ω・)J (;ω;ε ⌒ヘ⌒ヽフ⌒ヽフ⌒ヽフ ,.-'''( ( ・ω・)ω・)ω・)'''-,, ε ⌒ヘ⌒ヽフ⌒ヽフ⌒ヽフ ⌒ヽフ ( ( ( ・ω・)ω・)・ω・)・ω・)ヽフ し‐l, ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄''| ・ω・) し'l, ,/ ⊃と \ / ゙l'-、..,,,,,,,,,,,,..,、-'l゙ ゙'-、..,,,,,,,,,,,..、-'゙ >>173 ウツシヨ(現世)とは人間の心に映した世のことだ。 >>146 で指摘した祭祀(まつりごと)としての政治権力の二重性は、古事記の 「少名毘古那神との国造り」のエピソードを解釈する鍵になるように私には 思える。「少名毘古那(スクナビコナ)」は奇妙な神である。大国主神/葦原 色許男命のもとに「天の羅摩船(あめのかかみぶね)」に乗ってやってくるが、 誰もその名を知らない。後の山田の案山子とされる崩彦(くえひこ)だけが、 その正体を知っていて、神産巣日神の子として、葦原色許男命と一緒に 国を作り堅めるために使わされてきたことが判明する。ところが、古事記の 記述では、国造りにどのような役割を果たしたかが描かれることもなく、 少名毘古那は、すぐにそのまま去ってしまう。 葦原色許男命が、「吾独して何にかよくこの国を得作らむ」と途方にくれて いると、「この時に海を光(てら)して依り来る神があき」とされるが、この 神はその名が明示されることさえない。その神は、自分を祭ったなら、 一緒に国を成すことができるが、そうでなければ国は成り難いだろうと 葦原色許男命に告げて、自分の「倭の青垣の東の山の上に」祭らせる。 ここで名が示されることはないが、その神は、大物主(おおものぬし)大神 であると一般に理解されている。 葦原色許男命の役割は、その名前通り、葦原(あしはら≒周囲一帯)を武力で 平定することであり、その武力を授けたのはスサノヲであるが、それに対して 少名毘古那(スクナビコナ)は、その名前からしても武力によって葦原の平定 に協力する存在ではなく、「天の羅摩船(あめのかかみぶね)」に乗ってやって 来て、しかも一言も口をきかないことから見て、命/御言(みこと)によって 導く存在ですらなく、天の光によって導く存在である。その証拠に、少名毘古那 が去ってしまい葦原色許男命が途方に暮れているところに現れるのは、 「海を光(てら)して依り来る神」であり、その名が示されることのない 「大物主大神」である。 >>177 神があき(誤)→神ありき(正) 「大物主」で検索してみると、その正体についていろいろ憶測が巡らされている ことが分るが、それを特定しようとすること自体が私には誤りであるように 思える。私の考えでは、「大物主」はその正体が不明であることが、まさに 神としての役割なのである。葦原色許男命は、武力で葦原を平定することが できるが、そのことだけによって人々の恭順を安定的に確保することはできない。 そこで、支配者は自らが天の光に導かれていることを人々に示すことができ なければならないわけだが、その場合においても、神の振舞いは、決して 一義的であるものと人々に信じられてはならない。なぜなら、神が単に清 (きよ)らな光で導く存在であるとするなら、生じる災いは、すなわち、 すべて支配者の落ち度を表していることになってしまうからである。 人々の生活に直接に大きな影響を及ぼす神は、正体不明で、その振舞いは 常に両義的でなければならないのである。 神の振舞いの両義性は、スサノヲの場合がそうであるように、「けが(穢)れ」 の「け」に中心的にかかわっているように私には思える。「大物主大神」は、 後に祟神天皇の夢に現れて、「おほたたねこ」に自分を祭らせたなら、「神 の気(け)」が収まるだろうと告げた神でもある。 「少名毘古那神との国造り」のエピソードで「大物主大神」と同様に重要な のが、山田の案山子やヒキガエルのような卑近な存在が、現世の支配者 となる葦原色許男命すら知らない天下のすべてのことを見聞きして知っている だけでなく、現世/葦原には決して姿を現すことのない神々にも通じていると いう記述でしょう。 何が共通していて、何がどのように違うのか、どのように機能分化が展開してきたのか。 キリスト教の神も、イスラム教の神も、仏教の成仏も、大物主大神がそうであるような 意味で両義的な存在ではあり得ない。 学研全訳古語辞典 とり−よろ・ふ 天(あま)の香具山(かぐやま)をほめていう語。 出典万葉集 二 「とりよろふ天の香具山」 [訳] ⇒やまとには…。◆用例が引用した歌の一例しかなく、語義未詳の語。上代語。 これは、「天の香具山」を奈良県の天香久山に限定して解釈するから語義不詳に なるだけの話であって、形容されている山をそのように限定せずに単に表現から 考えるなら、「とりよろふ」は、ドイツ語の「gerüstet」に相当することになり、 「香久山」は、防備の整った山、つまり、山城として装備された山ということになる。 古事記では、「多(さは)に」という表現が見られるが、この「さは」は、 語源的には「さ(revealedly)は(spread)」であると考えることができ、 用法が異なるものの、「さ」と「は」という要素の用いられている意図に おいて、「沢(さは)」と共通であると思われると私は以前に指摘した。 そのように考えた場合、「さは(爽)やか」の「さは」も同様に、語源的には 「さ(revealedly)は(spread)」を表現しているものと解釈できるだろう。 https://ja.wikibooks.org/wiki/ 古事記/上卷 >かれその伊耶那美の命に號(なづ)けて黄泉津(よもつ)大神といふ。 >またその追ひ及(し)きしをもちて、道敷(ちしき)の大神ともいへり。 岩波文庫では、この「及(し)きし」について、「追いついたので」と 注を付け、「道敷(ちしき)の大神」については、「道を追いついた意に とっているが、本来は道を占拠するの意」と注を付けている。 いずれにしても、この「及(し)く」と「敷(し)く」は、以前に指摘したとおり、 ドイツ語で表現するなら「gleichmachen」に、英語で表現するなら「make 〜 even」 に相当し、語源的には同一である。とても奇妙に思われるのは、岩波文庫の注が、 「敷(し)く」が「占拠する」という意味で用いられていることまで指摘しながら、 「葦原」を平定した「葦原色許男(あしはらのしこを)」の「しこ」との関連は 認めずに、「しこ」を「醜い」と解釈していることである。私には、注釈者に その関連が思い浮かばなかったというより、イデオロギーにより、当然、生じる はずの解釈を無理に排除しているように見える。 ところで、現代の日本語で「場をしきる」という表現があるが、この「しきる」 には、「仕切る」という漢字が当てられることになっている。しかし、岩波 古語辞典の「しきり【仕切り】」の項目では、「場を仕切る」のような「しきる」 の用法は記載されていない。 「場をしきる」の「しきる」は、英語で表現するなら「preside over 〜」だろう。 すると、この「しきる」は、語源的には、「仕切る」よりも、むしろ、「敷(し)く」 の用法に関連しているのではないだろうかという疑念が生じる。 ドイツ語の表現は日本語によく似ている。 Gegendが、「あた(辺)り」、Gegnerが、「あた(仇/敵)」、begegnenが、 「あ(合/会)ふ」に相当する。英語の「toward」に相当する意味合いで 用いられる場合のentgegenは、「あした(明日)」に似ている印象を受ける。 語源研究って、著作解読以外にはあんまり役に立たないんだよね。 「さ(刺/指/差)す」という表現が語源的に何を意図していたのか気になって いたが、なんとなく分ってきたような気がする。「さ」という発音は、 「reveal/remove」の意図で用いられることが多いが、「さす」の「さ」 は、それとは語源的にも全く別の表現であると思われる。 岩波古語辞典では、「さし」を引くと、最も基本的な意味として「直線的に 運動・力・意向がはたらき、目標の内部に直入する意」と説明されている。 この説明は、現代の日本語の「さ(刺/指)す」にうまく当てはまり、英語で表現 するなら、「sting」や「point」に相当することになるだろう。日が「さ(射)す」 という場合の「さ(射)す」も、そのような説明がうまく当てはまるように見える。 だが、本当にこれが「さす」の最も中心的な意味なのだろうか。 古事記を眺めていると「や(矢)ざ(刺)す」という表現が出てくる。「矢刺す」 という表現は、獲物などに向けて矢を放って矢を目標物に突き刺すという意味 ではない。矢を放つことができるように、矢を弓につがえるという意味である。 この場合の「さす」の用法には、「直線的に...目標の内部に直入する」と いう説明は明らかにうまく適合していない。では、この場合の「さす」は、 どのような意図で用いられているのだろうか。「つがえる」と言い換えること は、別の意図の表現に置き換えることになってしまい、この用法における 「さす」の意図を説明することにならないことに留意する必要がある。 「や(矢)ざ(刺)す」の「さす」が意図しているのは、私には、英語の「insert」 に相当するのだろうと思える。つまり、この場合の「さす」≒「insert」は、 「挿入する」ことであり、「挿入」でGoogle検索をすると語義の説明として 表示されるとおり、「《名・ス他》中にさし込むこと。はさみ込み。」である。 さらに、より一般的に言えば、「さす」の中心的な意味は、「(狭い)間に入る/ 入れる」ことだろうと私には思える。 そのように「さす」を「「(狭い)間に入る/入れる」動作/作用と解釈した場合、 例えば、「さしあたり(≒in the meanwhile)」という表現が、やはり、「間」 に関係していることに気づく。「水を差す」、「口を差し挟む」、「差し支える」 などの「さす」が直接的に用いられている表現だけでなく、「ささ(支)える」 などの「さす」から派生した表現にも、この解釈は当てはまるのではないか と感じられる。さらには、「さすらふ」という表現も、「〜る」形の動詞の 再帰形との類推から「さす+あふ」→「さすらふ」として形成されたのでは ないかと私には思える。つまり、「さすらふ」は、英語で表現するなら、 「find oneself in-between」ではないかということになる。 そのように解釈した場合、「さす」は、おそらく、「セシ(狭)の古形」として 岩波古語辞典に記載される「さし【狭し】」に関連することになるのだろう。 ところで、暴れる犯人を取り押さえる道具ととして「さすまた(刺又)」と いうのがあるが、「刺」という漢字が当てられているものの、やはり、 相手を「刺す」道具ではない。「刺身(さしみ)」の場合も、なぜ「さし・み」 と呼ぶのか、理由は不明のようである。このような事例にも、「(狭い)間に 入る/入れる」という「さす」の用法が、もしかすると関係しているかもしれ ない。 いつものことながら、「刺身(さしみ)」の語源的解釈は眠っている間に得られた。 「刺身(さしみ)」を「さし・み」と呼ぶ理由が不明となるのは、いつのまにか 「さす」のインデックス性を反転させて解釈しようとしているからであり、 「さし・み」の場合にも「さす」が「(狭い)間に入る/入れる」ことを表す ことを意図しているとするなら、「さし・み」という表現は、「『さし・み』 にする」ことに由来する。つまり、「『さし・み』にする」とは、魚を 「三枚におろす(=サンドイッチ状にする)」ことであり、魚の中骨が「身と 身の間に差し挟まれた/挿入された状態」にすることである。 むろん、このように語源が忘れられても、何の問題もなくその表現が用いられる ことは、言語能力の劣化を表すものではなく、用いられる表現を既に与えられた ものとして慣習化して自在に用いる言語運用能力そのものの表れである。 ただし、その慣習化のプロセスを絶えず自省する取組みを怠ると、言語表現の 用い方が機械化して、言語運用能力は劣化する。 機械化された言語表現を高速で操ることができる能力を自らの言語能力 の高さとして自負するのは、人の勝手だが、そのような「言語能力」は、 まさに容易に機械に肩代わりさせられるものであり、そのように肩代わり させられる「言語表現」は、わざわざ言葉として発せられる必要がない のである。操作が自明である自動販売機がいちいち挨拶や、指示の言葉 を発しても鬱陶しいだけだろう。 「まがさす」という表現がある。ネットで検索してみると一様に「魔が差す」 と表記されていて、「ま」に「魔」を当てているが、この場合の「ま」の 発音にアクセントが合致しているのは、「魔」ではなく、「間」だろう。 「まがさす」が意図しているのは、英語にするなら「have a momentary lapse of judgement」であり、この場合の「さす」も「間に入る」こと を表していると考えることができ、間に入るのは「ま(間)」≒「lapse」 そのものである。 「古来」とは何を指しているのでしょう。 古典テクストから具体例を引用して例証してください。 「きざ(萌)す(き・ざす)」は、「き」が「間から出る」ことを表すことを 意図していた可能性があるのではないか。 図書館で古田 武彦の「盗まれた神話―記・紀の秘密」という本を借りてきた。 歴史論争にはあまり興味がないのでページをめくって眺めているだけだが、 天皇の諡(おくりな)として「ヤマトネコ」というのがあるらしい。 この場合も「ネコ」≒「appeased」≒「rest in peace」と理解すれば、 いかにも諡らしい感じがするように私には思える。 学研全訳古語辞典 み−さ・く 【見放く】 @遠くを望み見る。 出典万葉集 一七 「しばしばもみさけむ山を心なく雲の隠さふべしや」 [訳] ⇒うまさけ…。 A会って思いを晴らす。 出典万葉集 四一五四 「語りさけみさくる人目乏(とも)しみと」 [訳] 語り合って思いを晴らし、会って思いを晴らす人が少ないからと。 ◆「放く」は遠くへやる意。上代語。 「見さく」検索すると、昭和天皇が詠んだ歌が検索結果としてヒットする。 > 秋ふかき海をへたてゝゆりやかひの すめる見島をはるか見さくる (昭和天皇 御製) 確かに、この場合、「見さくる」は、「@遠くを望み見る」の意図で用いられている。 では、この解釈には疑問の余地がないのだろうか。 岩波古語辞典で「さけ【離け・避け・放け】」を引くと、「@離して遠ざける」、 「A離れて遠くにいる」、「B《対象を遠ざける意から、「見」「問ひ」などの 動詞を承けて、対象と距離を置いてする意》遠くから...する」という意味 説明が記載されている。すると、「さ(離/避/放)く」の「さ」は、私が 「remove/reveal」を表すとした「さ」の「remove」の方の用法であると考える ことができることになるだろう。だが、ここで疑念が湧いてくる。 岩波古語辞典に記載される「B《対象と距離を置いてする意》遠くから...する」 は、まさに、>>205 に引用した「語りさけみさくる」のような「〜さく」という用法 を説明するために考案された「さく」の解釈であるが、どう見ても、「語りさけ みさくる人目乏(とも)しみと」 という歌の解釈に適用するには無理がある。 そこで、学研全訳古語辞典は独自に「〜さく」を、「〜して、思いを晴らす」と する解釈を考え出したのだろうと私は思う。しかし、この解釈には原理原則が 欠けているように私には感じられる。「語り放(はな)つ」ことが鬱憤を晴らす ことになるとしても、「見放(はな)つ」では、意味が通らないだろう。 自分が一方的に「語り放題」、「見放題」にできる相手が少ない、というので は歌として支離滅裂ではないだろうか。 以下は古事記の「大山守の反逆」からの引用である。 >ここにその兄王、兵士を隠し伏せ、衣の中に鎧を服て、河の辺に到りて船に >乗らむとする時に、その厳(ヨソヒ)餝(カザ)れる処を望(みさ)けて、 >弟王その呉床に坐すと以為ひ、 反逆を企てた兄が、弟の命を狙って様子を窺っている場面の描写であるが、 ここに「望(みさ)けて」という表現が出てくる。確かにこの場合も「望」 という「遠くを見やる」ことを意図する漢字が当てられているが、奇妙な 矛盾を感じないだろうか。兄は今まさに川岸から船に乗り込もうとして いるのであり、弟王に扮した相手は、船上に座っているのであり、よほど 巨大な船を想定するのでなければ、「遠くを見やる」ようなことにはならない はずである。この場面では、「みさけて」は、当てられている漢字にも かかわらず、様子を「窺っている」、つまり、「垣間見ている」のではない だろうか。 http://dictionary.goo.ne.jp/jn/18017/meaning/m0u/ うかが・う〔うかがふ〕【×窺う】 の意味 1 すきまなどから、ひそかにのぞいて見る。「鍵穴から中を―・う」 2 ひそかにようすを探り調べる。「顔色を―・う」「ライバル会社の 動きを―・う」 >>205 の@の歌の全体を引用しよう。 味酒(ウマサケ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(マ)に い隠るまで 道の隈(クマ) い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(みさ)けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや 旅の移動の途中に「三輪の山」をいつまでも目にしていたいという思いを 歌っているが、見晴らしのいいところから「三輪の山」を展望しているわけ ではない。「三輪の山」は、幾重にも曲がる道の途中で山々の間に 「垣間見える」だけであると解釈されるのではないだろうか。その 「垣間見える」だけの「三輪の山」を雲が隠してしまうのである。 したがって、少なくともここに引用した「〜さく」という表現における 「さ」は、「晒(reveal)/去(remove)る」の「さ(remove)」ではなく、 「さ(挿)す」や、「せ(狭)しの古形」としての「さ(狭)し」の「さ」 と共通して、何らかの「間隙に対する動作/作用/態様」を表すことを 意図していたのではないかと私には思われる。 ところで、岩波古語辞典で「さかひ【境】」を引くと「サカ(坂)アヒ(合)の約」 であると語源が説明されているが、これは筋が通っていないだろうと私は思う。 まず、坂と坂が合う場所に「さかひ(境)」が定められるとするのが不自然である とともに、そう考えるべき理由が不明であり、活動に対する自然の障壁として 作用するなら、「さかひ(境)」は、山自体でも、川でも、谷でもいいはずである。 事実、同辞典で引用される「三国をさかふ富士のしば山」という文例では、 山自体が境になっている。 さらに、この場合、「さかふ」は、明らかに再帰形の動詞であり、「さく+あふ」 と分解することができる。英語にするなら、この「さかふ」は、「separate 〜 from each other」ということになるだろう。したがって、「さかふ」の名詞形 である「さかひ(境)」は、「互いからの分離」と理解される。では、「さく+あふ」 における「さく」の「さ」は、「remove」のような作用/動作を表しているの だろうか。しかし、「さかふ」は、互いから離れる動作/作用を表しているわけ ではない。むしろ、「さかふ」が表しているのは、「境目」がそうであるように 「双方から(見て)間隙となる」ことではないかという気がする。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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