哲学は高尚なものではないよな? [無断転載禁止]©2ch.net
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哲学というとなんか難しいものだとか高尚だとか思われるけどそんなものじゃないよな 答えがない問題をひたすら解き続けるようなものだろ? 自分なりの答えを探して… なんか難しい言葉をたくさん使う人いるけど、俺はいろんな人の意見が聞きたいから難しいものという意識をとっぱらって、哲学の歴史全く知らなくてもいいからいろんな人が来て欲しいと思うんだけど、どうかな? 哲学自体は持て囃されるものではないよな 最も人の同意を得られた哲学者が有名になるのであって… 人を知識が無いから見下すような人間にはなりたくないなあ 初立てでした 学研全訳古語辞典 み−さ・く 【見放く】 @遠くを望み見る。 出典万葉集 一七 「しばしばもみさけむ山を心なく雲の隠さふべしや」 [訳] ⇒うまさけ…。 A会って思いを晴らす。 出典万葉集 四一五四 「語りさけみさくる人目乏(とも)しみと」 [訳] 語り合って思いを晴らし、会って思いを晴らす人が少ないからと。 ◆「放く」は遠くへやる意。上代語。 「見さく」検索すると、昭和天皇が詠んだ歌が検索結果としてヒットする。 > 秋ふかき海をへたてゝゆりやかひの すめる見島をはるか見さくる (昭和天皇 御製) 確かに、この場合、「見さくる」は、「@遠くを望み見る」の意図で用いられている。 では、この解釈には疑問の余地がないのだろうか。 岩波古語辞典で「さけ【離け・避け・放け】」を引くと、「@離して遠ざける」、 「A離れて遠くにいる」、「B《対象を遠ざける意から、「見」「問ひ」などの 動詞を承けて、対象と距離を置いてする意》遠くから...する」という意味 説明が記載されている。すると、「さ(離/避/放)く」の「さ」は、私が 「remove/reveal」を表すとした「さ」の「remove」の方の用法であると考える ことができることになるだろう。だが、ここで疑念が湧いてくる。 岩波古語辞典に記載される「B《対象と距離を置いてする意》遠くから...する」 は、まさに、>>205 に引用した「語りさけみさくる」のような「〜さく」という用法 を説明するために考案された「さく」の解釈であるが、どう見ても、「語りさけ みさくる人目乏(とも)しみと」 という歌の解釈に適用するには無理がある。 そこで、学研全訳古語辞典は独自に「〜さく」を、「〜して、思いを晴らす」と する解釈を考え出したのだろうと私は思う。しかし、この解釈には原理原則が 欠けているように私には感じられる。「語り放(はな)つ」ことが鬱憤を晴らす ことになるとしても、「見放(はな)つ」では、意味が通らないだろう。 自分が一方的に「語り放題」、「見放題」にできる相手が少ない、というので は歌として支離滅裂ではないだろうか。 以下は古事記の「大山守の反逆」からの引用である。 >ここにその兄王、兵士を隠し伏せ、衣の中に鎧を服て、河の辺に到りて船に >乗らむとする時に、その厳(ヨソヒ)餝(カザ)れる処を望(みさ)けて、 >弟王その呉床に坐すと以為ひ、 反逆を企てた兄が、弟の命を狙って様子を窺っている場面の描写であるが、 ここに「望(みさ)けて」という表現が出てくる。確かにこの場合も「望」 という「遠くを見やる」ことを意図する漢字が当てられているが、奇妙な 矛盾を感じないだろうか。兄は今まさに川岸から船に乗り込もうとして いるのであり、弟王に扮した相手は、船上に座っているのであり、よほど 巨大な船を想定するのでなければ、「遠くを見やる」ようなことにはならない はずである。この場面では、「みさけて」は、当てられている漢字にも かかわらず、様子を「窺っている」、つまり、「垣間見ている」のではない だろうか。 http://dictionary.goo.ne.jp/jn/18017/meaning/m0u/ うかが・う〔うかがふ〕【×窺う】 の意味 1 すきまなどから、ひそかにのぞいて見る。「鍵穴から中を―・う」 2 ひそかにようすを探り調べる。「顔色を―・う」「ライバル会社の 動きを―・う」 >>205 の@の歌の全体を引用しよう。 味酒(ウマサケ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(マ)に い隠るまで 道の隈(クマ) い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(みさ)けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや 旅の移動の途中に「三輪の山」をいつまでも目にしていたいという思いを 歌っているが、見晴らしのいいところから「三輪の山」を展望しているわけ ではない。「三輪の山」は、幾重にも曲がる道の途中で山々の間に 「垣間見える」だけであると解釈されるのではないだろうか。その 「垣間見える」だけの「三輪の山」を雲が隠してしまうのである。 したがって、少なくともここに引用した「〜さく」という表現における 「さ」は、「晒(reveal)/去(remove)る」の「さ(remove)」ではなく、 「さ(挿)す」や、「せ(狭)しの古形」としての「さ(狭)し」の「さ」 と共通して、何らかの「間隙に対する動作/作用/態様」を表すことを 意図していたのではないかと私には思われる。 ところで、岩波古語辞典で「さかひ【境】」を引くと「サカ(坂)アヒ(合)の約」 であると語源が説明されているが、これは筋が通っていないだろうと私は思う。 まず、坂と坂が合う場所に「さかひ(境)」が定められるとするのが不自然である とともに、そう考えるべき理由が不明であり、活動に対する自然の障壁として 作用するなら、「さかひ(境)」は、山自体でも、川でも、谷でもいいはずである。 事実、同辞典で引用される「三国をさかふ富士のしば山」という文例では、 山自体が境になっている。 さらに、この場合、「さかふ」は、明らかに再帰形の動詞であり、「さく+あふ」 と分解することができる。英語にするなら、この「さかふ」は、「separate 〜 from each other」ということになるだろう。したがって、「さかふ」の名詞形 である「さかひ(境)」は、「互いからの分離」と理解される。では、「さく+あふ」 における「さく」の「さ」は、「remove」のような作用/動作を表しているの だろうか。しかし、「さかふ」は、互いから離れる動作/作用を表しているわけ ではない。むしろ、「さかふ」が表しているのは、「境目」がそうであるように 「双方から(見て)間隙となる」ことではないかという気がする。 「双方から(見て)間隙となる」場所が「さかひ(境/堺)」であり、そこに交換の 場所(市場)が成立したと見るのは、不自然なことではないだろう。 https://ja.wikipedia.org/wiki/ 堺 堺 地名は、方違神社付近がかつて摂津国・河内国・和泉国の3国の「境(さかい) であったことに由来する。市街地はその西方に形成され、大小路通を境に 摂津国住吉郡と和泉国大鳥郡に跨っていた。 「さ(挿)す」、つまり、「間に入る/入れる」ことを意図するのに用いられる 「さ」が、「さ(裂)く」を介して、「さ(晒)る」≒「reveal」における「さ」 と関係している可能性は、論理的には否定できないが、そのような関係性は、 具体的な表現の用法から確認されるべきものであり、今のところ私には、この 2つの「さ」の用法に関係があるのかないのかよく分らない。 ところで、>>210 の万葉集の歌は、私が高校生だった時の教科書にも載っていた ようにおぼろげに記憶している。当時は、勉強そのものにまるで興味のない生徒 だったが、奈良の山の風景を読んだ歌として何か不可解なものを感じたような 気がする。万葉集を読んできた多くの日本人は大半が、この歌を、奈良の三輪山 について描いたものとして受けとめてきたのだろうか。それとも、その都度、 何か踏絵を踏まされているような感覚を抱いたのだろうか。「みさく」という 表現を「遠くを望み見る」と解釈するにせよ、「垣間見る」と解釈するにせよ、 奈良の三輪山の情景として何も違和感を抱かないことが、おそらく、社会に うまく適応するための条件なのだろう。 >>213 ウィトゲンシュタインの言い方をそのまま借りるなら、表現における発音の意図 とは、表現におけるその発音の用法であり、用法を離れて特定の発音そのものが どのような意図を有するのかを問うことは無意味である。したがって、発音の 意図を問うなら、その発音が用いられている複数の異なる表現の間の関係性を メタ言語的に記述しなければならないことになる。 >>197 「刺身(さしみ)」の語源を、魚の中骨が「身と身の間に差し挟まれた/挿入された 状態」に由来するとしたが、「刺〇」の形態で「○によって挟まれた」と解釈 できる類例が見当たらない。表現の形態が孤立しているからこそ解釈が不明に なっているとも考えられるが、より自然な解釈は、「さし(刺)」をそのまま 「せ(狭)し」の古形である「さ(狭)し」と考えて、「さ(狭)し身」と理解する ことかもしれない。古事記には「刺国大神」というのが出てくる。この場合 も「刺国」が何を表すのか不明だが、「若狭国」の「若狭」を「若(minor) narrow(若)」と解釈できることから類推すると、「さしくに(刺国)」は、 「さ(狭)し国」≒「narrow land」と解釈され得るように思える。 類例が見当たらないと言ったばかりだが、「さすまた(刺又)」が、「又によって 挟む」と解釈できるとするなら、「身で(中骨を)挟む」という表現もあり得る ようにも思える。 ところで、>>205-210 「見さく」、「語りさく」の」「〜さく」は、現代語の「耳にはさ(挟)む」と いう表現における「はさ(挟)む」に比せられるような意図を表す表現ではない かという気がする。 http://dictionary.goo.ne.jp/jn/213346/meaning/m0u/ 耳(みみ)に挟(はさ)・む の意味 出典:デジタル大辞泉 ちらっと聞く。ふと耳に入る。小耳にはさむ。「妙なうわさを―・む」 「耳(みみ)に挟(はさ)む」という表現に関与しているインデックス性を考慮すると、 「挟(はさ)む」が表しているのは、噂などが「間隙に入ってくる」、つまり、 「さ(挿/差)しい(入)る」ことだろうと思う。噂などが「間隙に入ってくる」作用 のインデックス性を反転させて、それを受ける側のインデックス性として表現 したのが「挟(はさ)む」であると解釈される。 したがって、「さ(挿/差)す/挟(はさ)む」という反転関係が成立していると 想定することができ、例えば、「口を差し挟む」という表現には、反転関係に あるインデックス性の両方が関与していることになる。 インデックス性は、自分と相手の間の関係において容易に反転させて用いる ことができるからこそ、「口を挟(はさ)むな!」という表現が可能になる。 「口を挟(はさ)むな」とは、「さ(差/挿)し出がましいことを言うな」という意味である。 書類をファイルに挟む 指をドアに挟む 噂を耳に挟む 他人の話に口を挟む Stick your nose where it belongs! Keep your nose out of my business! 学研全訳古語辞典 ふりさけ−・みる 【振り放け見る】 ふり仰いで遠くを望み見る。はるか遠くを望み見る。 出典古今集 羇旅 「天(あま)の原ふりさけみれば」 [訳] ⇒あまのはら…。 >>224 この歌における「ふりさけ」の解釈は、一般に、完全に正しいものと受けとめ られて定着していると言っていいだろう。それでも、既に形成されている 情景のイメージに合わせて表現を解釈するのではなく、表現そのものを検討 した場合、この解釈がどのように正当化されるのか私には疑念が生じる。 岩波古語辞典で「ふりさけ【振り放け】」を引くと、やはり、「振り向いて 遠くをのぞむ」と意味が説明されている。しかし、「ふり」には、「見る」 という意味は含まれていないはずであり、この場合、「さけ」が付けられて いるのは「見る」ではなく、「ふり」である。 >>207 に引用した岩波古語辞典の「B《対象を遠ざける意から、... 動詞を承けて、対象と距離を置いてする意》遠くから...する」という 「〜さく」の解釈を忠実に適用するなら、「ふりさけ」は、「遠くから 振り向いて」または「遠くを振り向いて」と解釈しなければならないはず である。しかし、「振り向く」は方向性に関する動作であり、「後ろを 振り向く」や「振り仰ぐ」は自然な表現であるが、「遠くから振り向く」 や「遠くを振り向く」というのは奇妙な表現であると言わざるを得ない だろう。だからこそ、辻褄を合わせるために、「ふる」に本来、含まれて いないはずの「見る」という意味を含めて、「振り向いて遠くをのぞむ」 としているのだろう。さらに、学研全訳古語辞典では、「ふりさけみれば」 の「見る」を無視するわけにいかないので、「〜望み+見る」としている のだろう。 ところが、「〜さけ」を、>>218 で述べたとおり、「耳に挟む」という表現 における「挟む」に比せられる、「間隙に入る」ことに関係する様態を表す ことを意図していると想定すると、「ふりさけ」は、「ふと振り向いて」や 「ふと仰いで」と解釈することも可能になる。 既に引用した「〜さく」の事例について、同様の文脈で日本語以外 の言語では、どのような表現が用いられるだろうかとしばらく 考えてみた。 >>205 出典万葉集 一七 「しばしばもみさけむ山を心なく雲の隠さふべしや」 出典万葉集 四一五四 「語りさけみさくる人目乏(とも)しみと」 >>209 >ここにその兄王、兵士を隠し伏せ、衣の中に鎧を服て、河の辺に到りて船に >乗らむとする時に、その厳(ヨソヒ)餝(カザ)れる処を望(みさ)けて、 >弟王その呉床に坐すと以為ひ、 「〜さく」が、「間隙に入る」ことに関係する様態を表すことを意図している のではないかという偏見を既に抱いている私にすぐに思い浮かぶのは、仏語 の「fugitif」や「fugace」という形容詞であるが、「〜さく」は助動詞的に 動詞によって表される動作/作用の様態を表現していると考えられるので、 「fugitivement」(英語では「fleetingly」)ということになる。そこで、 仮に「fugitif」や「fugace」が「〜さく」によって表されている様態に 対応すると想定すると、「〜さく」は、「〜避(さ)く」であるように思え てくる。その場合、「〜さく」は、「遠くから〜する」や「遠くを〜する」 ではなく、「〜」の動詞が表現する動作/作用そのものが「離れる」と 解釈されることになる。 見てのとおり、私の解釈は揺れている。ただし、そのことによって、私は 自分の解釈が直ちに無意味になるとは考えていない。問題は、私の解釈が 妥当なところで揺れているのか、まったく見当違いなところで揺れているの かである。今のところ、そのどちらもあり得ると感じている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる