「あたら(可惜)」が「あ(当)たる」の活用形に相当するような形態に過ぎず、
この場合も「あた」は、「(〜するのに)適当な」を表し、「惜」という漢字が
当てられるようなニュアンスは、「あたら〜を」という感嘆表現から生じて
いると考えるなら、「あた」にまつわる一連の表現の関係は、(少なくとも
私の憶測においては)容易に整合的に整理できることになる。

「あたら」の「あた」も「(〜するのに)適当な」を表すという確信が得られる
と直ちに想起されるのが、「あた」が、ハイデガーの存在論でも議論される
ドイツ語の「zuhanden」(「道具的」、「手もとに(ある)」などと訳される)
という表現である。以前、既に示唆した「あた」は、遠隔を表す「あ」+
「た(手)」ではないかという憶測が私には急に尤もらしく思えてくる。